偶数の数と、奇数の数は、どちらが多いか。


答えは、「同じ」。
これは簡単に理解できる。どんな奇数でも、それに1を加えれば偶数になる。
だから、たとえ奇数が無限に存在していたとしても、それに1を加えれば必ず相棒の偶数が存在することになり、その総数は同じとなる。


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必ず相棒がいる



では、自然数の総数と偶数(あるいは奇数)の総数は、どちらが多いか。


直感的には、自然数のほうが多いような気がする。
奇数や偶数というのは、いわば自然数をひとつ飛ばしで勘定しているのだから、自然数のほうが2倍ありそうな気がする。

ところが、正解はやはり「同じ」。
考え方はさきほどと一緒。自然数を列挙すると、それを2倍すると必ず相方の偶数が存在する。そこから1を引けば、かならず相方の奇数が存在する。
つまり、自然数も、偶数も、奇数も、同じ数だけ存在する。


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3つずつの組になる



これが直感的に理解しにくいのは、「無限」という概念が日常的な数感覚を超えたものだからだ。
ふつう要素の個数というのは集合論で扱うが、ふだん我々が無意識のうちに使っている集合の概念は、有限の集合だ。これが無限に拡張されると、「無限」独自の感覚をそれ専用に鍛える必要がある。


では、自然数と実数では、どちらが総数が多いか。


さきほどまでの議論の延長だと、「同じ」と言いたくなる。
ところが今回はそんなに話が単純ではない。
答えは、「実数のほうが多い」。

実数というのは、有理数(自然数、有限小数、循環無限小数)と無理数(非循環無限小数)をあわせたものだ。自然数というのは実数のうちのひとつのカテゴリーなのだから、直感的には実数のほうが多そうだ。

しかし、「なんとなく多そう」では、証明とは言えない。
先ほどの、自然数と偶数(または奇数)の問題では、直感と事実は反していた。無限に慣れていない我々の直感は、ほぼ、あてにならないと断じて良い。

では、それを数学的に証明するには、どうすればいいのか。

実数は無限小数も含むので、実数同士を比べるときに大小の概念が役に立たない。
そこで、存在可能な実数をすべてランダムに並べ、それを自然数とペアにしてみる。
ここでは話を簡単にするために、0より大きく1より小さい実数だけを扱うことにする。


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こう並べてみると、次の数字は、絶対に実数のリストに入ることはない。


0.4011417...


この数字は、なんのことはない、上の実数のリストのうち、小数点以下の数字のうち対角線上にあるもの(赤い数字)に1を足して並べたものだ。

もし自然数と実数の総数が同じだったら、この一対一の対応表には、0から1まですべての実数が網羅されていることになる。
ところが実際には、0.4011417...は、このリストから漏れている。

まず、0.4011417...は自然数1に対応する数ではない。
なぜなら、少なくとも小数点以下1桁めの数が違う。1を足している。

次に、0.4011417...は自然数2に対応する数でもない。
なぜなら、少なくとも小数点以下2桁めの数が違う。

同様に、0.4011417...は自然数nに対応する数でもない。
かならず、n桁めの数が、リスト上の数とは違っている。

このように、対角線上の数に1を足した数というのは、原理的にこのリストの中には入り得ない数になっている。
つまり、少なくともこの数の分だけ、実数のほうが自然数よりも多い。

実際のところ、この証拠となる数に加える操作は、なんでもいい。
「1を加える」だけでなく、「2をかける」「3を足す」など、どんな操作でもよい。要は、その桁の数を他の数に変えてしまう統一的な方法であれば、それが根拠となる数を生み出す。


この証明のしかたを「対角線論法」という。1891年に、ドイツの数学者ゲオルク・カントール(1845-1981)が考案した。一種の背理法で、対角線の数に注目し、それに操作を加えることで無限集合を攻略する。俗に「対角線上の悪魔」と呼ばれている。

この論法によって、無限の要素を含む集合論の研究が飛躍的に進むことになった。集合論と関数は表裏一体を成す概念だが、ベン図で図示するような従来の集合論では、無限集合を規定できない。無限の要素を含む集合を扱えるカントールの方法によって、現代的な集合論が確立された。

現在、この方法は、数学基礎論や計算機科学の定理を証明する定石となっている。のちにゲーデルはこれを用いて不完全性定理を証明した。また停止性問題の決定不能性や時間階層定理などの難問にも対角線論法は使われている。

ところが、数学の世界にはよくあることのようだが、カントールのこの著作は当時あまり認められなかった。論文自体が難解なせいもある。師匠のクロネッカーまでが「こんな数学が認められるはずがない」と一喝して、厳しく批判した。内向的で小心者のカントールはこれに萎縮してしまい、精神を病んでしまったと云われている。

ところが世の中に頭のいい人はいるもので、カントールの論文は次第に重要性が認識されていく。個人的に親交のあったヒルベルト、デデキント、ゲーデルなどは早くからカントールの理論に注目し、その応用と発展に携わった。どれも本気で数学を勉強しようとすると怖そうな名前ばかりだ。


僕は自分の専門がしょっちゅう集合論を扱う必要上、カントールの著作に挑戦したことがある。
その結果は、発狂しそうになった
僕の能力では原著を理解できなかったため、数々の解説本に手を伸ばしたが、その解説本のほうが余計わかりにくい、という悪循環だった。

深く込み入った理論を勉強するときには、厳密に形式的に表記された一般型を理解するのを諦め、おおざっぱに「一体なにをしようとしているのか」だけを掴もうとすると、突然、大局的な俯瞰が得られることがある。論文を読む時には、つねに「木を見て森を見ず」の危険がつきまとうものだが、ちょと真面目さを捨て去ってふざけて読むと、「もしかして、要するにこういうことかな」と見えるときがある。

カントールの論文を改めて読み直すと、採っている方法論は実に単純で、かつシステマチックで、一貫している。
カントールの基本的なアイデアは、「無限」を単なる「限りないもの」と捉えずに、1対1の対応関係で無限を追求したことにある。無限をグループ化し、すべての対応関係をハシゴのように並べてしらみつぶしにチェックする方法をとっている。アイデアの元は、ほぼその方法論に集約していると言ってよい。

いきなり「無限を扱え」と言われたって、どうすればいいのか分からない。そんなときには、「無限を扱うにはどういう突破口を開ければいいのか」という視点が大切になる。1対1の対応関係は、ふつう有限要素を含む集合の写像関係を定義するときに思い浮かぶものだろう。それを、無理することなく無限に拡張して、写像関係の陰に隠れた対角線上の悪魔に注目するところが、閃きだろう。

デカルトの至言に「困難は分割せよ」というのがある。扱う問題が大きいときには、それに正面からぶつかりようがない。そういうときには、それを解くにはどこから手をつければいいのか、もっとも最初にとりかかれる下位の問題は何か、そういう段階の筋道をつける能力が重要になる。蟻の穴さえ開けられれば、ダムだって崩壊させられる。

カントールの仕事が、最初から無限集合という大きな敵を見据えたものなのか、ミクロな視点で目先の小問題を解くことから始めたのかは分からない。
しかし、その足跡を辿ってみると、研究の方法というか筋道というか、一歩一歩積み重ねて仕事をすることの大切さが分かるような気がする。



いまは読んでも知恵熱くらいで済むようになりました