「さんすう」

ぼくが
ひいたかずは 
どこへいったの? 

ぼくが 
たしたかずは 
どこからきたの? 

四次元空間からかな? 
それとも 
じめんの中からかな?

(『子どもの詩』収録、小学校2年生の作品)



最近の学校現場では子供の理系離れが顕著なんだとか。


中学や高校になって数学の授業についていけなくなると、お決まりのように「数学なんて人生の何の役に立つんだ」と嘯く生徒がいる。
それなら「部活が人生の何の役に立つんだ」「WiiやNintendo DSが人生の何の役に立つんだ」「テレビ番組が人生の何の役に立つんだ」「マンガが人生の何の役に立つんだ」という問いに答えられるか。小賢しい答えをいくら並べたところで、それはしょせん自分を欺いている自己正当化に過ぎない。答えを並べれば並べるだけ、どんどん自分から逃げている。

教える方にも問題はあろう。別に一流大学卒の秀才であれば優秀な教師になれるというわけではない。
たとえば、小学校2年生の子供に上の詩のようなことを問われたら、何と答えるだろうか。


国語や社会などの「文系科目」と、理科や数学などの「理系科目」を比べると、圧倒的に簡単なのは、理系科目のほうだと思う。

「文系離れ」という言葉がないのは、文系諸科目が簡単だからでは決して無い。国語や社会などのいわゆる文系科目は、我々の日常感覚に非常に近しい概念を扱っている。この国で日本語を使わずに暮らせる人はいない。歴史上の人物には立志伝的なロマン、人間的な魅力を感じることができる。生徒にとって文系科目がとっかかりやすいのは、決して客観的な難易の違いではなく「人は身近なものに親しみを感じて客観評価と混同する」という「利用可能性ヒューリスティクス」のせいに過ぎないと思う。

理系科目、いわゆるサイエンスは、雑多な諸現象をまるまる統括できる一般法則を抽出する営みだ。「これひとつで全てが説明できるんですよ」という、統一的な法則を探る。
リンゴが地面に落ちることと、月が地球を廻ることに、別々の法則を考える必要はない。ひとつの力学的説明で事足りる。
二次方程式の解の法則を「覚えなければいけない」のではない。「それさえあれば世の中に存在可能な二次方程式がすべて一撃で解ける」という、魔法の鍵だ。

サイエンスであればどんなに複雑な分野であろうとも、出発点と帰着点は、我々にとってごく身近な現象に過ぎない。数学がどんな複雑な概念を語ろうと、物理学がどんな難解な式を作ろうと、それらの目的は、すべて経験と実験が可能な「事実」を説明することにある。

サイエンスとは、そういう「ワレワレにとって身近に感じられる様々な現象」から「その背後に共通している概念」を抜き出し、それをもとに「まだ観測されてはいないが、当然予想できる現象」を予測する。そういう一連の流れが、いわゆる「理系分野」のすべてに共通した思考の流れになっている。すべての現象の共通点を見抜く。概念をよりシンプルにまとめる。現象から原理を探り出し、逆に原理から現象を予測する。

その過程で、様々な概念が、ワレワレの日常感覚とは遊離した一般概念に置き換えられる。3個のミカン、お正月の3日間、天井までの3メートル、カップラーメンの3分、すべて「3」という数字で表せる。人間が「数を使う」ということは、こういう情報の抽象化を瞬時に行っていることに他ならない。

数学の凄いところは、そうした様々な日常感覚に基づく数概念それぞれに、別々の規則体系を設定する必要がない、ということだ。

「もうひとつミカンを置くといくつになりますか」
「もう1日経つと何日になりますか」
「床下の1メートルを足すと高さはいくつになりますか」
「もう1分たつと何分経ったことになりますか」

個数、日数、距離、時間というそれぞれ異なった概念に、別の計算体系は必要ない。
すべて「3+1=4」という計算で事足りる。
しかも、この計算は、どこの国でも、いつの時代でも、どんな政権下でも、自分がどんな気分のときでも、絶対に変わることはない。

我々は「3+1=4」という計算を「当たり前じゃないか」と思うが、実は全然あたりまえではない。この式は、そういう森羅万象の事実すべてを包括し得る、強力な説明力をもつ式なのだ。しかも、この式はミカンの個数やカレンダーの日数だけではなく、どんな数体系にも転用できる。体重を測る時だって、角度を測るときだって、野球のスコアをつけるときだって、つねに「3+1=4」という計算は、真実であり続ける。


サイエンスというのは、こういう驚きからまず入るべきだと思う。


ぼくがひいたかずはどこへいったの。
こういう疑問が出る原因は、「観測可能な事実」から「抽象化した原理」を抽出する、という営みを理解していないことにある。
何の説明もされないまま「3たす1は4ですよ」と叩き込まれることにより、その背後にある広大な数体系の深淵に気づかないまま、「3+1=4」という計算それ自体が、生徒の一次的体験となってしまっている。

「足し算」というのは本来、数々の現象を包括する高次の抽象概念だ。それがいきなり何の説明もなく計算ドリルみたいにバンバン出てきたら、そりゃ「だから何なの?」「こんなことやって何の役に立つの?」という疑問も出るだろう。「『3つのミカン』と『3日間』が、同じ『3』で表せる」ということの凄さを体感していない。小学校用の教科書であればどの算数の教科書も、リンゴやみかんの絵を使って足し算や引き算を教えているだろう。しかし、それだけで「はいおしまい、以上で計算の仕方は分かったね」では、本来教えるべき最も大切なことが伝わらない。

頭のいい子供というのは、計算問題100問を1個のミスもなく完璧に解く子供ではないと思う。誰に教えられなくても、どの本に載ってなくても、数概念の統一性に気づき、「足し算って凄いなぁ」と感動できる子供のほうが、本当に賢い。世界的な数学者のなかにも、2ケタ同士の足し算を暗算で間違える学者は多い。


冒頭の詩には、書評で教育関係者が寄せた「すごい詩です」という評が載っている。何を言っているのだろうか。暢気に感心している場合ではない。この子供の詩は、いまの日本の初等科学教育が、本来教えるべき大切なことをないがしろにしていることを抉り出している。子供は素直で、疑問に思ったことを率直に表現できる。こういう疑問が子供から出てくること自体、現在の算数教育が大失敗に終わっていることの表れと捉え、その行く先を危惧するべきではないのか。

きっとこの子供を教えている教師は、この問いに答えることはできないだろう。答えることができるくらいなら、最初からこんな過ちは犯さない。なにもわからない子供を丸め込むような、その場しのぎの答弁に終止するのが関の山だと思う。



そして中高で数学の必要性を詰る生徒がまたひとりできあがる