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城のある街はいいなぁと思う。


たとえば名古屋、たとえば大阪、たとえば熊本。
これらの市街地には威厳錚々たる城がでんと構えており、その佇まいは非常に麗々しい。
こういう城を眺めながら身近に育った人達は、なにか精神的にひとつ確たる礎が育まれるものではあるまいか。

東京にもいちおう江戸城跡があるが、ありゃすでに東京の城とは言い難い。天守閣はすでに無いし、今でもなんだか人が住んでるし、まわりをうろうろするとお巡りさんがすっ飛んでくる。東京に住んでいる人で、名古屋城や熊本城と比して「東京にだって江戸城があらぁな」と言える人は、まぁいないだろう。

お城のある街を訪れると、街の中心地のほぼ中央に城がある。
電車や地下鉄などの公共機関で簡単に行ける。
街中からでもお城が見えるところもある。

日本で暮していると、いかにもあたりまえのように感じられることだが、これは実は世界的に非常に珍しい。
たとえば、世界遺産に指定されるほどの城跡を擁するヨーロッパ。城跡はほぼ例外なく、人里離れた場所にある。訪れるだけでもまるまる1日必要になる。ノイシュバインシュタイン城などのイメージでおなじみのドイツの城なんて、ほとんどが山の上か、森の奥にある。


なぜ日本の城は街中にあって、西洋の城は人里離れたところにあるのか。


城というものはそもそも、軍事戦略上の拠点だ。その機能に鑑みる限り、城は山の上などの高台にあるのが好ましい。下から攻めてくる敵に対して上のポジションを取るのは、戦いの常識だ。

日本でももともと、山の上に城を築く「山城」が一般的だった。ただし、この山城はあくまでも戦争時に兵士が詰める所であって、城主はふだんは別の屋敷に住んでいるのが普通だった。

時がかわり戦国時代になると、戦争や闇討ち急襲が日常茶飯事となった。普段から城の備蓄や装備に気を配る必要がある。そうなると城主は城に住み込むことが多くなった。城は単なる戦略上の拠点ではなくなり、居住性が求められるようになる。

しかし、この段階でも尚、いざ戦のときのことを考えれば、山の上に城を築いていたほうが有利なことには違いない。事実、この時期には多くの戦国大名が山城を築いている。
この段階から、平地の、しかも街中に城を築くようになる段階までの間には、「国を強くする」ということに関する、大きな発想の転換がある。


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織田信長(1534-1582)


戦国大名の代名詞とも言える武将だろう。学校の歴史の教科書にも載っている。当時天下に最も近かった今川義元4万の大軍を桶狭間で奇襲し、わずか5千騎で打ち破る。武田勝頼の騎馬部隊を長篠で迎え撃ち、当時誰も使いこなせていなかった鉄砲を3段撃ちにして壊滅させる。

だが、この程度の戦略家は戦国時代にはざらにいる。
信長よりも強かっただろうと思われる武将もたくさんいる。
はたして歴史的に見て、信長は一体何が凄かったのか。

信長以前の街というのは、どんな職種でも「座」とよばれる同職の組合が幅を利かせており、「市」という閉鎖的な市場経済を成していた。新参者が市場に入り込む余地はほとんど無い。街ごとに閉じた経済地域を形成しており、物流は皆無に等しい。ちがう街ごとに、異なる経済原理が成り立っている状態だった。

こういう閉じた市場では、既得権に固執するジジイ連中が跋扈し、全体としての経済力は徐々に衰える。またよそ者に対して排他的な空気があるため、よその街との関係が築きにくい。これは、戦国大名の目標である領土拡大の方向と食い違う。

信長は、軍事力の増強のためには、兵士増員だけでなく、政治、農業、経済、流通が一体となったまちづくりが不可欠という考えを持っていた。これは、兵士の絶対数とその質をもって「戦力」と考える当時の常識とは大きく異なる。

一口に戦と言っても、それを制するには軍事力だけでなく、様々な脇因が絡む。主に経済力、つまり金だ。兵糧などの農産物、移動に必要な行路の確保、兵士を待機させる場所の整備、地域領民の忠誠心など、そういう総合力が戦の勝敗を分ける。

信長は従来の経済の弊害となっていた職業組合(座)を廃し、市を解放して自由競争経済を導入した。いわゆる「楽市楽座」だ。これにより競争力の高い経済市場が生まれ、新たに商人、職人に衣替えできる人口が増えた。また関所を廃止し、モノとヒトの流れを活性化した。

信長の戦力は、主にこうした盤石な経済基盤に根ざすところが大きい。長篠の合戦で武田勝頼の騎馬部隊を打ち破ったとき、信長の能力は「発射に時間がかかる鉄砲を3段打ちにして、新しい武器を柔軟に取り入れた」などという戦略的な面が注目されることが多い。しかし、長篠の合戦で信長が本当に凄かったのは、3万5千丁もの鉄砲を短期間のうちに製造し、合戦の場所まで調達する物流のネットワークをつくりあげたことだ。そもそも合戦の場に膨大な量の鉄砲を揃えた時点で、信長の勝ちだ。織田信長の軍事力は、こうして作り上げた商業的な基盤に基づいていた。

信長のこうした施策を可能にしたのは、鉄砲という新しい武器だったことは間違いない。修練によって上達すべき弓や剣と違い、鉄砲は修行による技術の熟練をあまり必要としない。従来の戦国武将が、剣に強く弓を弾ける「強い個人の集団」をひたすら鍛えていた一方で、信長は新兵器と経済力を基盤とする、個人の能力に依存しない新しいスタイルの戦い方を確立した。


戦国武将に最も求められる能力は、合戦の際に適切な采配を行うことだ。
最も重視された能力が、武力であったことは言うまでもない。

しかし同時に、武将は領地の支配者でもあった。そこでは合戦の際とは異なる、政治・経済を取り仕切る能力が必要となる。ケンカに強い乱暴者が必ずしもクラスの学級委員に最適ではないように、合戦に強い武将が良き治世者であるとは限らない。

ところが信長は、合戦の采配を預かる武将でありながら、領地の政治、経済機構を自ら取り仕切った。有能な戦国武将には必ず内政専用のブレーンがいたが、信長に関してはそのような記録がない。人里離れた館と城を行ったり来たりで合戦に備える武将とは異なり、信長は領民が住み暮す街中に城をつくり、政治の中心とした。その近くには楽市楽座で解放された自由経済の街が発展する。いわゆる城下町だ。こうして信長は、軍事、政治、経済、流通が完全一体となった領地支配を行った。

後に日本のまちづくりの常識となった城下町は、こうした信長の、時代の潮流に反する発想の転換が起点になっている。「合戦→城→山の上」という固定概念を打ち破り、城と街が一体となり、領地の経済活動が軍事力に直結するシステムを確立した。いまも日本に残る城の多くは、こうした信長の方針を継承している。世界的にもこうした築城法は珍しいことから、信長の領地づくりがいかに画期的だったか分かる。

僕は、今日に及ぼす影響という面で歴史を論じるなら、信長の最も特筆すべき功績は、この、政治、軍事、経済、流通を融合させた都市づくりを確立したことだと思う。社会学の都市論では、軍事拠点から経済拠点への転換をもって、中世から近世への転換と位置づけられる。ヨーロッパでこの転換が起きるまでには、19世紀の産業革命を待たなくてはならない。その点、信長の改革は世界に300年も先行していた。桶狭間だろうが長篠だろうが、信長の軍事的な武勇伝は、すべて歴史の側面に過ぎない。

こうしたことは、学校ではあまり習わない。 学校の歴史教育は、政治の変遷を軸として授業を構成している。その授業の中では、体系的な経済史や、文化の変遷は理解しにくい。信長にしても「めちゃくちゃ強い戦国武将。鉄砲がデフォルトでSレベル。ちなみに楽市楽座とかいう政策も行った」程度の扱いだと思う。

誰でも中学の頃「楽市・楽座」くらいは習っただろう。テストのためにその用語を覚えるのは苦痛だろうが、その裏には時代をひっくり返すインパクトの、発想の転換が隠れている。「信長」「鉄砲」「楽市楽座」という三題噺で「ヨーロッパの城の多くは山や森に作られたが、日本の城は主に都心部に作られている。なぜか。理由を上記3つの用語を使って答えよ」などという問題がテストに出たら、ちゃんと答えられるだろうか。


鉄砲が伝来したとき、多くの戦国大名は「こんな武器は使えない」と思い、本気で合戦に取り入れる大名は皆無だった。なにしろ撃つのに時間がかかりすぎる。一人ひとりの兵に行き渡る分の鉄砲を製造するとなると、どれほどの行程を経なければならないか。山の上の城に運ぶにはどれほどの労力が必要なのか。すべての面で、鉄砲は当時の時代に合っていなかった。

ところが信長は、時代のほうを鉄砲に合わせて変えてしまった。経済を改革することで鉄砲の大量製造と流通を可能にし、城の作り方まで変えてしまう。時代の常識と偏見に惑わされず、与えられた条件と道具からベストと思われる施策を思いつき、しかも豪腕をもって実行してのけた。信長の先見の明が正しかったことは、今に残る日本の城とその位置を見れば明らかだ。

史実を紐解くと、信長の思考と発想の筋道が辿れるようで面白い。新しい概念や発想をたちどころに吸収し、自分の中で咀嚼して実践にまで発展させる柔軟さは、驚愕に値する。好奇心の強さが半端ではない。イエズス会宣教師が持参した地球儀を見て、「地球は丸い」という概念を家来の誰もが理解できない中で、信長一人が「理にかなっている」と理解した。常識や偏見に惑わされず、身分にとらわれずに有能な人材であればどんどん登用した。


信長は「殺してしまえホトトギス」で代表されるように、敵対者をことごとく根絶やしに全滅させる容赦ない武将、というイメージがあると思う。しかし思うに、のちの報復や反乱を恐れて敵を全滅させるのは、当時の常識ではなかったか。信長は歴史に果たした役割が大きかった分、そうした記録が数多く残っているというだけの理由のような気がする。他の戦国武将が信長に比べて慈悲深かったかというと、そんなことはあるまい。

そのイメージの多くは、比叡山を焼き討ちにするという、当時のタブーであった「寺社仏閣に刃を向ける」という所行のせいだと思う。当時の比叡山は僧兵を中心とした軍事拠点としての役割があり、信長にとっては「もはや寺ではない」という認識だったろう。良くも悪くも、当時の常識に左右されない面が出た一件だったと思う。


信長が支配下の領地を見て回っているとき、外に出て信長一行に礼をするどころか、家の中で昼寝をしている男がいた。当時の常識では首をはねられても文句の言えない無礼にあたる。家臣がその男の処置をおそるおそる信長に伺うと、信長は「わしがいるにもかかわらず家で寝てるのは、この領地が平和な証拠だ。わしの治める国がすべてそのようになってほしいものよ」と一笑に付したという。



正直、武将にしておくには惜しい