a5251b0b.jpg



東京都東村山市の国立ハンセン病資料館に行ってきました。


JR武蔵野線の新秋津駅から西武線秋津駅に乗り継いで一駅、清瀬駅が最寄り駅です。
池袋経由だと西武池袋線の各駅停車で30分ほどです。


1e88e508.jpg


まぁ、無意味に特急レッドアローに乗ったわけですが。



乗る必要があるかじゃない。乗りたいから乗ったんだ


清瀬駅の近くは、国立病院や救世軍施設、民間の療養所など医療機関がたくさんあります。教会も多い。ハンセン病は仏教で「業病」「仏罰」と呼ばれ、「前世の罪に対する罰だ」とされて救済されなかったらしいです。だからハンセン病患者の救済は、キリスト教の教会主導で行われました。いまもハンセン病の療養所や研究施設のまわりに教会が多いのは、その名残りでしょう。

資料館は1993年に開設され、ついこのあいだの2007年3月にリニューアルオープン。去年はまだ改装工事のため公開が中止されていました。僕がかねてから訪れてみたかった資料館のひとつです。

新館、すごいなぁ。かなりお金をかけて作ってあると思います。内装はピカピカで、チリひとつ落ちてない。展示ものだけでなく、音声と映像を組み合わせたスクリーンが館内のあちこちに設置されており、元患者の生の声が聞けるようになっています。入場無料。館内で配布している冊子や資料も、すべて無料で持ち帰れます。


a516168a.jpg


入り口のロビー。涼しい。



ハンセン病。
旧称「癩病(らいびょう)」。顔がただれ、腐ったように変形し、四肢がねじ曲がる。「悪魔の病気」「天刑病」と呼ばれ、不治の遺伝病と誤解された。そのため、患者だけでなく、その家族までが差別と迫害の対象となった。地域によっては「かったい」「なりんぼう」「どす」などの呼称が残っている。いずれも差別用語だ。

ハンセン病への恐怖が引き起こす迫害は、さまざまな作品の舞台装置として使われている。
松本清張の「砂の器」では、住む土地を追われたハンセン病患者とその息子が、あてもなく放浪する様が描かれている。また父親の病歴を知られることを恐れた息子が殺人を犯してしまう。

コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ作品では、『白面の兵士』(「シャーロック・ホームズの事件簿」収録)でテーマとなっている。街のある屋敷で、帰還兵である若い青年が、ある日を境に姿を消す。時期を同じくして、温厚だった屋敷の主人(青年の父親)が凶暴になり人との接触を避けるようになる。「青年は父親に殺されたのではないか」という噂が流れ、ホームズが調査する。実は青年はハンセン病患者の兆候が出てしまっていた。その醜聞を恐れた父親が家庭内で青年を隔離監禁していたのだった。

実際のところ、ハンセン病は菌を介する伝染病であり、その伝染力は極めて弱い。現在では治療法が確立されており、早期に治療すれば後遺症が残ることもない。現在、日本各地の療養所で生活している人も、ほとんどは完治しており、変形などの後遺症が残っているに過ぎない。

伝染として注意しなければならないのは、乳幼児期に多量のらい菌を頻繁に口や鼻から吸い込んだ場合だけだ。らい菌は感染から発症までの潜伏期間が長く、そのために遺伝病と誤解されていた。長い場合は数十年にわたって菌が休眠状態でいる場合がある。発病には患者の免疫能力、栄養状態、衛生状態など種々の要素が関与するため、現在の日本では、小児期意向の成人が感染しても、発症することはまずない。戦争、飢餓、極度の貧困など、衛生状態が著しく悪化したとき特有の発症が多い。

資料館には、いまに残るハンセン病患者の資料が多数展示されていた。思ってたよりも広く、資料の数も多い。大きくわけて、展示には「ハンセン病の正しい知識」「患者の療養所生活」「ハンセン病をとりまく社会の反応の歴史」の3つに大別されると思う。

かつてハンセン病は不治の病とされ、国が主導して隔離政策を行った。患者は強制的に連行され、家の戸板には「ハンセン病患者の家」の印がつけられた。戸籍に基づいて患者の家を記した地図が資料として残っている。患者の存在が知られるのは、密告によるものが多かった。

国が患者に呼びかけるための療養所のパンフレットには、あたかも療養所が医療完備の楽園であるかの如く書いてある。しかし療養所の実態は治療には程遠く、地獄のような有り様だったらしい。逃走防止のため、収容所では所内だけで通じる金券が使われた。感染を恐れて一般の業者は療養所に近寄りたがらず、消防署さえ出動を断った。そのため、療養所内の一切の業務は、患者が分担して行った。炊事、洗濯のみならず、居住棟の建築、配管、被服、床屋、大工、畑仕事、すべて患者が行った。子供の患者向けの学校さえあり、大人の患者が読み書きを教えていた。居住者は「患者」ではなく「労働者」と言ったほうが近い。

国策として強制収容が進んでからは、人員増大のため生活環境は劣悪となった。患者は4?5畳の部屋を8人で共用する。患者同士で結婚する場合は強制的に断種手術が課された。結婚した場合、男性患者が女性患者棟を夜だけ訪れる「通い婚」制度だった。その場合、女性患者棟の部屋には4, 5畳に10人以上がひしめき合い、区切りも何も無く夫婦生活を行った。夏の夜などは大変だったそうだ。

世間では患者に対する差別は悲惨を極め、「国の恥」とまで呼ばれたらしい。 資料館には1957年の読売新聞の記事の抜粋があり、「親族にハンセン病患者がいるためにバレたら婚約が破談してしまうかもしれない」という人生相談があった。結婚の破談、村八分は数知れず。戸籍から患者の家族を抹消したり、履歴書に療養所滞在期間の空白を偽るなど、苦しい詐称のあとも残っている。

2003年9月17日、熊本県阿蘇郡南小国町の黒川温泉にあった「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」が、ハンセン病元患者の宿泊予定を拒否した事件が起きた。
つい4年前だ。

拒絶されたのはすでに完治している「元患者」であり、そもそもハンセン病は伝染力の弱さから、旅館法が定める指定伝染病にはあてはまらない。この旅館の行為は違法として、2004年2月16日、旅館業法違反で旅館の営業停止処分が下った。同日、経営母体の「アイスター」がホテルの廃業を発表する。現在ではそのホテルは取り壊されている。

この件で、宿泊拒否されたハンセン病の元患者には賛否両論の投書が舞い込んだ。その中には、元患者たちを非難中傷する手紙が多数あったそうだ。その手紙が資料館に公開されていた。
「傲慢だ」「癩病患者のくせに」「裁判に勝ったからといって社会が受け入れると思うな」「謝罪されたらおとなしく引っ込め」・・・など。差出人は「女性代表」「善良な一国民」などの匿名が多い。手紙はどれも達筆のくずし字で、旧字体も使ってる。おそらく年配の人だろう。むかしのハンセン病の偏見が、そのまま現在でも残っていることをまざまざと見せつける。


僕がハンセン病に興味があるのは、「科学が犯した過ちは、修正しようとも、世の中は簡単に受け入れない」という怖い実例であるからだ。


むかしハンセン病は遺伝病と思われていた。しかし1873年にノルウェーのG.H.アルマウェル=ハンセンが、らい菌を発見し、感染による伝染病であることが明らかになった。伝染病であるならば、その伝染経路や伝染力も追試によって分かる。少なくとも20世紀のはじめには、「ハンセン病の伝染力はたいしたことはない」ということが、医学的には分かっていたはずだ。この時期に書かれたシャーロック・ホームズ譚も、ハンセン病が弱い伝染病であることを前提に書かれている。

しかし、世の中は「ああそうなのか、よかった」ではなく、相変わらずハンセン病を忌み嫌い、差別し続けた。第一、国そのものが隔離政策を主導している。1907年(明治40年)に「癩予防ニ関スル件」を制定、1931年(昭和6年)に「癩予防法」、1953年(昭和28年)に「らい予防法」が改訂された。いずれも強制隔離政策を推進しており、世の中の癩病差別を助長する役割を担った。

こういう状況が「らい予防法の廃止に関する法律」によって改善されたのは、1996年(平成8年)になってからのことだ。国は90年の長きにわたり、医学の成果を無視し、因習と民間感情に従って誤った施策を続けたと断じて良い。

なぜ世間は癩病を嫌い、差別したのか。発症の見かけが醜悪だからだろう。見た目のインパクトが恐怖となり、理性的な判断が封じられ、狂信的な隔離政策を後押しした。「癩病患者が近所に住んでいる」というだけでパニックとなり、「ではそこが発生源となり、どれだけ疾病が伝播したのか」など誰も考えなかったに違いない。

科学の研究においては、数学や論理学など、公理が得られる演繹的な形式科学を除き、基本的に得られる言明は、すべて「仮説」にすぎない。物理、化学、天文、地質、医学、そして言語学も、経験科学はすべて「証明」という概念が存在しない。

経験科学の試みは、「いま得られている証拠からは、この説明が一番妥当らしい」というものに過ぎない。反例がひとつでも出れば、その仮説は覆る。それまでの仮説が間違っていれば、それを破棄して、新しい仮説を作らなければならない。

しかし、だからといって、「いままでの仮説が間違っていました」という科学の表明が、広く世に受け入れられるかというと、そうでもない。人は事実を信じるのではなく、信じたいことを信じる。その信念が社会的に浸透し、制度となって固定されている場合はなおさらだ。

「ハンセン病は別に恐れるほどの伝染病ではない」ということくらい、医学を研究していればすぐに分かることだと思う。強制収容ほどの隔離政策が本当に必要か否かくらい、簡単に判断できるはずだ。
しかしなぜ、国や地域住民は90年の長きに渡り、狂信的な隔離政策を支持したのか。

「見た目が怖い」「四肢がいびつ」「ここらへんの地域ではそういうことになっている」など、どれも判断の根拠として非理性的なことこの上ない。勝手に「仏罰」などと決めつけては仏様も迷惑だろう。科学というものは、別に頭のいい偉い人達が立派な研究所で進めるものではない。事実に基づき、自分なりに判断して思考する、日常における生活の指針となるものだ。ハンセン病の歴史を紐解くと、人間が過去に犯した「理性の放棄」という過ちが詰まっている。科学の研究に携わる者であれば、誰も目を背けてはならない現実だと思う。


資料館のとなりには療養所が広がっており、後遺症に悩む元患者が今も暮している。全国の療養所にはすべて、遺骨を納める納骨堂が設置されている。納骨堂は患者の強い希望によって作られた、どの療養所にもある重要な施設だ。「せめて死後は安らかに眠りたい」という患者の願いで作られた。社会から隔離され、家族にすら見捨てられ、戸籍からも除外され、差別の底辺で生きた患者は、立派な納骨堂を見て、安心して死んだという。


14100e3f.jpg




まだまだ訪れなければならない所っていっぱいある気がする