防衛「省」 改めて昇格に反対する
(2006年11月30日 朝日新聞社説)



容赦なく晒します。


文章を書く時に絶対にやってはいけない、ルール違反をことごとく犯した文章。
小論文を控えた受験生は反面教師にするといい。受験本番でこんな文章を書いたら間違いなく一直線で不合格になると思う。


この朝日社説が犯している過ちは大きく分けて3つある。
(1) ただの思い込みを勝手に既成事実として決めつけていること
(2) 主張の根拠をそもそもの意図から我田引水して自分の都合のいいように利用していること
(3) 己の主張とその対案を真っ当に比較せずにイメージでごまかしていること、だ。

論説文の妥当性は、その結論の妥当性だけで評価されるものではない。優れた論説文とは、前提と事実から出発し、それを土台に一連の論証を経て、結論に至るまでの議論に一切の弛みがない文章のことを指す。

たとえその結論が「戦争はいいことだ」「いじめはされるほうが悪い」などという、とんでもない結論になったとしても、その結論自体が論説文の評価につながるわけではない。きちんとした前提から始まって、議論の筋道が明確であれば、その文章自体は評価される。少なくとも反論する必要がある。

そこを誤解している人が多い気がする。「論説文としての完成度」と、「結論の妥当性」は、全くの別物だ。「戦争はいいことだ」などと主張する論説文があるとしたら、問題なのはそう主張する筆者の価値観や人間性なのであって、文章能力ではない。

そういう妥当ではない結論に走る主張を叩き潰す方法は、筆者の人間性を攻撃することではない。あくまでも文章の論理性、議論の方法論から攻めなくてはならない。「あなたの結論は気に入らない」というのは、反論とは言わない。単なる好みの押しつけだ。あくまでも議論の方法は遵守して、真っ当に反論しなければならない。その能力がない者は、言い負かされて終わりだ。


今回の朝日社説が新聞の社説として惨澹たる文章になっている理由は、別に「防衛『省』には反対、あくまで『庁』であるべき」という結論にあるのではない。そこに至る筋道が全く非論理的だからだ。


ひとつめの問題点。この社説を読むと、やたらと「私たち」という言葉を使っている。「私はこう思う」というのではなく、「私たちはこう思っている」と書くことによって、勝手に読者の総意をつくりあげている。そう言い切れる根拠は何もないのだから、「自分の思い込みを勝手に既成事実化している」と言われたら言い逃れできまい。

他にも、確たる事実ではなく、単なる推測を根拠として積み上げている。「そんな風潮がある」「というのが長田さんの言いたいことだろう」「ということのようだ」などと、勝手な決めつけが並ぶ。少なくとも主張の根拠としては機能しない屑だらけだ。

「だが、問われているのは私たちの決意であり」などと格好良く決めているが、主体は誰か。一体誰がこんなことを問うているのか。反対する声を具体的にとりあげているならともかく、いまの段階では防衛庁の「省」化を反対しているのは、朝日新聞自身が主張していることだ。はっきりと「私たちは・・・を問う」と書かなければならない。それなのに、あたかも誰かが反対意見を出しているかのように責任を転化している。無責任も甚だしい。


ふたつめの問題点。何度社説を読み直してみても、冒頭の長田氏の引用が、「防衛『省』化に反対」という主張に結びつかない。

冒頭の長田氏の引用を素直に読む限り、言っていることは「負けてから60年なのではない。戦争をしない努力を続けた60年なのだ」ということだろう。60年という月日の捉え方を言っているに過ぎない。

これをどうひねくり廻せば、「日々続けてきたものは古くなるのではなく、日々新たな到達点がある。そこを前向きに評価したい」ということになるのだろうか。長田氏の引用文は、おなじひとつの期間をどう捉えるかを言っているのであって、「古い・新しい」の対立概念は関係ない。

翻って、朝日新聞が最終的に何を主張しているかを見てみる。要するに「古いから捨てる、新しいから採用する、というのは安易すぎる。時代に対応してるのが最善、というわけではない」ということだ。

この主張そのものは妥当だと思う。なかなかいいことを言っている。しかし、言っていることが良ければそれでよい、というわけではない。議論が破綻している。この主張と長田氏の引用は何の関係もないからだ。

仮に百歩ゆずって長田氏が新旧の価値観の比較を含意しているとしよう。すると言っているのは、価値の基準を古い時代ではなく、今につながる新しい方に置いていることになると思う。すると防衛省の命名問題を考えるときには「新しい時代に対応しているほうがより良い」ということになりはしないか。朝日の主張の根拠としては自爆になる。

つまり新旧の価値観比較に基づいたロジックとしては
古いもの(「戦後60年」「防衛庁」)
新しいもの(「不戦60年」「防衛省」)
という括りになると思う。間違っても「長田さんが『不戦60年』の表現を薦めるように、私たちは『』にこだわりたい」という、論理が狂った結論は出てこない。


三つめの問題点。議論をするときに自分の主張の妥当性を示す最も直接的な方法は、反対意見や対案を潰すことだ。朝日新聞はそれから逃げている。

防衛『庁』のほうがいい、というのであれば、「防衛『省』にしたら何が悪いのか」を示しさえすれば、それでいい。あちらのマイナス面は、こちらにはありません、そう言えば、それで済む。

では、朝日新聞は、防衛『省』について何と言っているか。
「省になってもこれまでと実質的な違いはないと、政府・与党は言う。自衛隊員が誇りを持てる。諸外国も省の位置づけだ。名前が変わったからといって、戦前のような軍国主義が復活するわけではない。それはそうだろう。」

つまり、いいことだらけだ。

この文章のなかで唯一、『省』のデメリットを示しているらしいところは「省になることで、軍事的なものがぐっと前に出てくることはないのか。そんな心配もある」という下りだ。この「軍事的なもの」とは、一体何なのか。実態のないものを、単なるイメージでぼかしているだけではないか。ここが朝日の主張の根拠として最も強い部分になるはずだ。その最も重要な根拠を「軍事的なもの」などという曖昧な言葉で逃げるとは、全国紙としてみっともない。

防衛『省』にすることのデメリットが明確に示せなければ、「オレは嫌だから嫌なんだ」と言っているに過ぎない。朝日新聞は言うに事を欠いて「問われているのは私たちの決意であり」「古びたり、時代に合わなくなったりする問題ではない」などと、話の本筋に関係ない意味不明の言明に逃げている。

朝日社説の書き方を見ればよく分かるが、きちっとした論理を積み重ねるのではなく、文全体が与える印象に頼る、イメージ戦略に逃げている。話の筋の途中で「新しければいいというものではない」「戦後民主主義」「侵略」「植民地支配」「軍事的」などの強いイメージの言葉をサブリミナルのように並べ、「防衛省」という言葉をそれと括ろうとしているに過ぎない。これはもはや論説文ですらない。単なる物語だ。


真剣にこの話題について語るときに、多方面から意見を募集するとする。この社説は、真っ先に屑篭行きとなる文章だと思う。くり返すが、「『省』に反対」という結論が悪いのではない。それを主張する過程がお粗末極まりないからだ。そもそもこの文章が理性と論理に基づいていないので、議論の方法論にのっとった反論のしようがない。「ああそうですか」としか言えない。



なんでこんな文章が通ったんだ



防衛「省」 改めて昇格に反対する
(2006年11月30日 朝日新聞社説)


 戦争が終わって60年が過ぎた昨年、詩人の長田弘さんはそのころ盛んに語られた「戦後60年」という表現に疑問を投げかけた。「不戦60年」と言うべきではないのか。

 「昭和の戦争に敗れて戦争はしないと決めてからの、戦争をすることを選ばなかった『不戦60年』という数え方のほうが、この国に戦争のなかったこの60年の数え方としては、むしろ当を得ています」(長田弘「知恵の悲しみの時代」みすず書房)

 60年もたてば、多くのものは古くなって時代に合わなくなる。手直しするのは当然だ。憲法しかり、戦後民主主義しかり――。そんな風潮がある。

 だが、日々続けてきたものは古くなるのではなく、日々新たな到達点がある。そこを前向きに評価したい、というのが長田さんの言いたいことだろう

 防衛庁を「省」に昇格しようという法案の審議が衆院で大詰めを迎えている。きょうにも本会議で可決される見通しだ。「庁」という形は時代に合わないから、直したいということのようだ

 防衛庁が生まれて52年がたつ。自衛隊は国土防衛だけでなく、カンボジアへの派遣をはじめ海外でもさまざまな経験を積んだ。かつてと比べ、国民は自衛隊や防衛庁をより肯定的に評価するようになったのは事実だ。

 だがこの間の歩みには、戦前とは違う国のありようを求めてきた私たち自身の決意が投影されていることを忘れてはならない。

 戦後日本は、侵略と植民地支配の歴史を反省し、軍が政治をゆがめた戦前の過ちを決して繰り返さないと誓った。だからこそ、戦後再び持った武力組織を軍隊にはせず、自衛隊としてきた。普通の軍隊とは違う存在であることを内外に明らかにする効果も持った。

 軍事に重い価値を置かない、新しい日本のあり方の象徴でもあった。国防省や防衛省ではなく「防衛庁」という位置づけにしたのも、同じメッセージである。

 省になってもこれまでと実質的な違いはないと、政府・与党は言う。自衛隊員が誇りを持てる。諸外国も省の位置づけだ。名前が変わったからといって、戦前のような軍国主義が復活するわけではない。それはそうだろう。

 だが、問われているのは私たちの決意であり、そうありたいと願う戦後日本の姿である。古びたり、時代に合わなくなったりする問題ではないはずだ。

 長田さんが「不戦60年」の表現を薦めるように、私たちは「庁」にこだわりたい。省になることで、軍事的なものがぐっと前に出てくることはないのか。そんな心配もある。

 日本は、惨憺(さんたん)たる敗戦に至った歴史を反省し、新しい平和の道を選んだ。それは多くの国民が賛成し、いまも支持している選択だ。その重みを考えると、あたかも古い上着を取り換えるようなわけにはいかない。