仕事します。


アメリカの大学院生は、大学からお給料をもらって働きます。そのお給料が生活費になります。もちろんそんなに裕福な暮らしはできませんが、まぁ、おなかいっぱいごはん食べて、必要な本が買えるくらいのお給料はちゃんともらえます。

いま僕に割り当てられてる仕事は、学部生向けの授業のTA(Teaching Assistant)。宿題や試験の採点をしたり、宿題を作ったり、学生からの質問を受け付けたり、教材を作ったり、まぁいろんな雑用です。

ときには教授が学会や出張で授業に来れないときがあります。そういうときは休講にしないで、TAが代講します。僕も今セメだけで4回代講しました。授業するってのもなかなか楽しいもんです。たまになら

で、今日も今日とて教授からメール。


「たくろふ、来週にちょっと出張なのでまた代講を頼む。講義ノートのコピーをたくろふのメールボックスに置いておくから、それを参考にして授業してくれたまへ」


またかい。
しかもSociolinguisticsの章って。そんなの俺も知らんぞ。


で、その講義ノートのコピー。


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あの読めないんすけど



アメリカに来てよく分かったことだが、ヨーロッパや南北アメリカなど、母国語でアルファベットを使っている国の方々は、ほぼ例外なく字が下手だ。「字はきれいに書くもの」という概念がないみたい。翻って、中国、韓国、日本などアジアからの留学生の書くアルファベットの字はとてもきれい。欧米連中の字に比べると、まるで印刷したみたい。少なくとも解読不能な字というのは無い。

日本には書道というものがある。日本にいるとあまりピンとこないかもしれないが、文字そのものが芸術にまで昇華する文化の土台というのは、実は物凄いものだと思う。

僕はアメリカに来てから何回か、欧米圏の友達に「日本には国語の教科に『書道』という時間がある」という話をしたことがあるが、彼らには「書道」がどういうものなのか理解できないらしい。字そのものが美の対象となる感覚がわからないようだ。

アルファベット文化圏には「カリグラフィー」というのがあるが、あれは字そのものを美的対象としているのではないと思う。まず「伝達される情報ありき」で、カリグラフィーは単なるデコレーションだと思う。それが証拠に、1文字だけ、1単語だけのカリグラフィー作品というものは無い。また、どんなに美しいカリグラフィーを見ても、書道の力作を見た時に感じる「気迫」というものが感じられない。技術は高いのかもしれないが、そこに何ら書き手の魂を見いだせない。僕は「書道」を「calligraphy」と訳すことに、強い抵抗を感じる。

僕だけの個人的な基準だが、僕は、芸術作品の善し悪しは「作者の魂が伝わってくるか否か」で決まると思う。僕はモダンアートや抽象画の審査眼を持ち合わせていないが、そんな僕でも「これは凄い」と、言いようの無い迫力が伝わってくる作品というものがある。理屈では説明できない。ただ凄い。頭を通過して、心に直接響いてくる。

僕はゴッホの絵は、絵自体は大した技術ではないと思う。もっと技巧的な画家はたくさんいる。しかし、彼の絵から感じられる、迸るまでの気迫は相当なものだと思う。血走った目で絵筆を叩き付ける息遣いまでが感じられるような気がしてならない。その迫力は紛れもなく圧巻だ。世界中の画家があそこまで気迫を平面上に表現できるとは思わない。

芸術一般に言えることだが、芸術を見る目を養うには、自分でそれをやってみるのが一番だと思う。絵心がある人は、絵画を鑑賞するときに一般人よりも深いものを見いだせる。ピアノが弾ける人は、コンサートでふつうの人には聴けないものが聴ける。スポーツにも同じことが言えるかもしれない。

同様に、文字に対する美的感覚を養うには、自分でそれを実践することが必要だ。学校で書道を習うのは、別に字が上手く書けるようになることが目的なのではないと思う。「字をきれいに書く」という美的感覚を、ひとつのかたちとして経験することこそが真の目的ではないのか。

ゆとり教育の影響で国語の授業数が削減されたときに、書道の時間を真っ先に削った学校が多かったそうだ。書道を学んだ世代と、学ばなかった世代では、字の上手・下手にそれほど差はないかもしれない。しかし、字を書くこと、字を読むこと、その行為自体における美的感覚には、雲泥の差が生じると思う。汚い字に対して、なんの後ろめたさもない世代が育つのではあるまいか。

俳優の緒形拳さんは、子供への教育方針を尋ねられたときに、「僕が子供に教えたことといえば、『字が書いてあるものは、踏んだり粗末に扱ったりしてはいけない』くらいのことしかなかったと思います」と語っている。字を単なる情報の媒体、道具として見るか、それ自体をひとつの存在物として価値を見出すか、それは個人の好みの問題だろう。どちらが正しいとか、間違ってるとか、そういう問題ではない。

しかし、今の日本の教育が、これまで日本が古来から受け継いできた文字に対する畏敬の念を、軽んじる方向に転化していることだけは確かだろう。いま失いつつあるものがどれだけのものなのか、分かったときには手遅れになってると思う。



「書」を軽んじる姿勢で、日本の古の書物が読めるはずがないと思う