スターリンが死去したとき、跡を継いだフルシチョフは金庫にスターリンからの2通の手紙を発見した。
「君が政策に困ったときに一通づつ開けること」とあった。

数年してフルシチョフは内政・外交ともに行き詰まり、窮地に追い込まれた。
そこでフルシチョフはスターリンの手紙を思い出し、期待をこめて一通めを開封した。

「私の政策を批判すること」

1956年の第20回共産党大会の秘密報告でフルシチョフは突然「スターリン批判」を行い、世界に衝撃を与えた。これにより資本主義諸国との平和共存の道が開かれ、冷戦状態に一時的な「雪解け」ムードが生まれた。

ところが数年すると、東側諸国の離反、党幹部内の確執が表面化し、またもやフルシチョフは追い込まれた。
そこでフルシチョフは、再び期待を込めてスターリンの手紙を開いた。

「私と同じように、2通の手紙を用意すること」



2006年1月28年 日本経済新聞「春秋」

1687年の今日、5代将軍徳川綱吉は、病人病牛馬の遺棄を禁じる令を発布した。口入れ業や牛馬宿を営む者に対し、使役する人間や牛馬が死にかけると捨ててしまう悪弊を絶てと厳命するもので、生類憐(しょうるいあわ)れみの令の始まりともされる。

▼今年と同じ丙戌(ひのえいぬ)生まれの綱吉が高僧から「前世の罪滅ぼしに、生類特に干支(えと)の犬を大切にしなさい」と助言され、奇怪な政策をまじめに行った。いまだに目にするこの説は史学界では否定済みらしい。山室恭子著『黄門さまと犬公方』によれば「妄説として、ゴミ箱行きにしてよかろう」。

▼通説の見直しは近年、綱吉自身に及び「中央集権化政策を導入した卓越した君主」(ボダルト=ベイリー著『ケンペルと徳川綱吉』)、「社会の文明化を推進した理想主義者ではあるが小心の専制君主」(塚本学著『徳川綱吉』)という具合だ。この観点からは、憐れみの令は「戦国時代の名残のすさんだ風潮を一掃し武士、町人に仁の心を求めた教化政策」になる。

▼奇矯な暗君とされ、憐れみの令の過酷さが誇張して後世伝わったのは、後継政権が綱吉時代の非を唱えたのが一因だ。自分を良く見せるため前任の悪口を言うのは、世の習い。後任に誰を推すか明かさない小泉首相は、この習いに染まりそうにないのは誰かと、まだ考え中なのかもしれない。



「歴史の記述は、解釈する人によって如何様にも変わりうる」ということを以前に考えたことがある。綱吉といえば犬公方、人間様よりも犬猫のほうを大事にしたバカもの、というイメージがある。そういう思い込みが、もし政治的意図から人為的に作り出された作為の影響だったとしたらどうしよう。恐れながら、そういう観点から綱吉を考えたことはいままでに無かった。

「自分を良く見せるため前任の悪口を言うのは、世の習い。」

現在の小泉首相の後継者問題を、歴史の記述一般に通じる原理にひっかけ、その具体例として綱吉をもってきたコラムの書き方。綱吉の記述に感心してないで、過去の歴史になぞらえて現在の世情を考える、温故知新の姿勢を汲むべき記事だと思う。今の僕にはこういう記事は書けない。


自分のできないことをさらっとやり遂げている仕事を見るのは、刺激になる。



ワンころもヌコタンもかわいいですけどね