ある大震災のときの話。

大学で地震を研究している教授が、地震の被害状況の調査のため被災地に赴いた。大地震のあとで崩壊した建物が並ぶ街のなかに、お寺があった。地震学者がそのお寺に入ってみると、みごとにドミノ倒しになっている墓石が並んでいた。
よく見てみると、みな同じ方向に倒れている墓石の中で、ひとつだけ反対方向に倒れている墓石があるではないか。

地震学者はそれをみて考え込んでしまった。いかなる地震の揺れ方が起これば、墓石がひとつだけ反対側に倒れるなどということが起こるのだろう?

難しい顔をして地震学者が考え込んでいると、お寺の住職さんが話しかけてきた。

「どうかしましたか」

「いや、この墓石ですが、どうしてこの墓石だけ反対側に倒れたのか考えてたところなんです」

すると住職は朗らかに笑って言った。

「ああ、この墓石は、ここを通るときに邪魔なので、私が反対側に除けておいたんです」


経験科学において最も重要なのは、言うまでもなくデータの収集だ。事実を観察して、従来の知見では説明不可能な謎を見いだす。その現象に対し仮説を立て、説明を試みる。さらに、その仮説によって予測される事象を追跡調査し、その仮説が従来の研究と矛盾しないか否かを検討する。

ところが、最初のデータの観察の段階で、透明な目で事実を見ることは、思いのほか難しい。人間が事実を見ようとするときには、どうしても自分の持っている知識や経験というバイアスを通して見てしまう。主観が混ざりすぎると、自分の見たいものが見えてしまうということが起こりうる。

こういう、先入観が引き起こす「謎のようなもの」は、科学的思考の前の段階で除外されなければいけない。そのためには、曇りのない澄んだ目で事実を観察しなければならない。さもないと今までの自分の経験に振り回されて事実が見えないという事態に陥ることになる。

20世紀初頭、多くの健康な人々が、実際にはかかってもいない病気のために手術を受ける羽目になってしまったことがある。健康だった人が、なぜ病気と診断されたのか。

この時代、患者たちはレントゲンという新しい技術によって診断されていた。それまでの医学は、人体のしくみを知るのに死体の解剖しか手段がなく、死体の解剖は常に横たえて行なわれていた。一方、レントゲンの撮影は立って行なう。そのため、実際の臓器の形や位置が、解剖した死体とは異なって見えた。当時の医者たちは、それを「病気による異常」と診断してしまったため、多くの手術が行なわれたという。

学問における多くの思考は、数多の先行研究や仮説の積み重ねの上に行なわれる。思考の際には、そういう知識量の多さは確かに分析の助けとなろう。しかし、事実そのものを観察するときは下手な知識量は却って先入観となって透明な観察を妨げる。目が近過ぎると、世間的には常識と思われるような簡単な可能性を見過ごす恐れがある。事実を観察するときには、理論や先行研究を忘れて純粋に観察に徹することが必要なのだろう



というわけでつぶらな瞳の女の子が好みなわけです <違