アウシュビッツ 内なる悪魔を忘れまい
(2005年1月30日 朝日新聞社説)
アウシュビッツ
(2005年1月31日 毎日新聞「余録」)


1月27日にアウシュビッツ解放60周年式典が行なわれた。

ナチス・ドイツによって作られた殺人工場。100万人以上のユダヤ人が虐殺された。人類の負の軌跡として世界遺産にも登録されている。普通に歴史を学んでいれば当然知っておかねばならない、常識の範囲だ。なかにはこういうバカもいるが言語道断というべきだろう。

しかし、僕はいつもこの「アウシュビッツの教訓」に懐疑的だ。
ほんとうに現在の歴史教育は、ナチスの誤謬を正しく教えてるのだろうか?

アメリカの新聞には、社説欄がふたつある。ひとつは新聞社の論説委員が執筆するeditorial、もうひとつは読者からの投稿によって意見発表が行なわれるopinion。これらの論説を読んでると、ことあるごとに話題になる特定のテーマがいくつかある。

そういうトピックのひとつに性差問題がある。男女差別、同性愛などテーマだ。おもしろいことにこれらのテーマについては主張内容に地域格差がある。僕はアメリカの新聞を東海岸から始めて中部、西海岸へと順に読んでいるが、東海岸の新聞はおおむね進歩的。それが内陸に行くに従って「同性愛などけしからん」などと保守的になっていく。そして西海岸になると再び進歩的な論調になる。海のある港町の新聞は多様な人が入り乱れるので様々な意見に寛容的になるんだろうか。

そういう性差問題によく見られる主張に、次のような論旨がある。


A.
「男女の差異は、しょせん生殖器官と多少の筋力の違いに過ぎない。世間でよく言われている差異、つまり攻撃的性格の有無、幼児の保育能力、空間把握能力、数学能力などというものは、教育環境や家族制度などの社会制度によって作られた後天的なものである。よって、男女の違いを先天的なものと決めつけて性行動や役割の性差を認めるべきではない」

B.
「最近の遺伝子研究で、男性のX染色体の先端近くにはXq28と呼ばれる領域があり、そこには同性愛者が高確率で共有する特定の遺伝子が発見された。今後、同等の遺伝子は女性にも発見されることが予想される。つまり同性愛は本人が後天的に選択したものではなく、遺伝子的に決定されてる性質なのだ。よって、同性愛を不道徳だとか堕落だとか非難するのは誤りだ」


このA、Bの論旨を批判し、論破できるだろうか。
もしできないのだとしたら、歴史からアウシュビッツの教訓を何も学んでないに等しい。

本当にナチス・ドイツの過ちを正しく学んだのなら、上のA、Bの論旨の誤謬を即座に指摘できるはずだ。しかし、どうも僕はそれを指摘できない人が、思いのほか多いのではないかという気がする。歴史を正しく学ぶということは、同じ過ちを繰り返さないように過ちの原因を正しく理解するということだ。アウシュビッツの位置を世界地図上で正しく示せるだの、ドイツ語、ポーランド語で正しく綴れるだのといった知識は、むしろ枝葉に属することだ。我々がアウシュビッツの歴史から学ぶべきことは、もっと他にあるのではあるまいか。

上のA、 Bの論理は、以下のCの論理と基本的に同一だ。


C.
「ユダヤ人は遺伝子的に劣等であり、アーリア民族は遺伝子的に優秀である。従って、劣等民族であるユダヤ人をはじめ非定住遊牧民族、少数民族、遺伝病患者など、生きる価値のない者はすべて優秀な民族によって淘汰されなければならない」


おわかりだろうか。


ナチス・ドイツが理論的基盤としていた優生学は、現在では完全否定されている。現在では民族間の遺伝子的優越性など存在しないことが明らかにされている。「ユダヤ人を遺伝子的に劣等である」という類いの思い込みが、民族差別のみならず多くの差別の原因になることは、常識に属することだ。ここではそんなことを問題にしているのではない。Cの論理の最も大きな間違いは、優生学的差別観にあるのではない。

Cの真の問題点は、「もしある特徴が先天的に決定されたものであるならば、それを根拠にしてことの善悪を判断しても良い」というロジックにある。ユダヤ人だのアーリア人だの、そういった要素はすべて具体例のひとつに過ぎない。本当の問題は、主張の裏にある普遍的な論理構造にある。

ナチスの場合は、まず前件の「ユダヤ人は遺伝子的に劣悪だ」が間違っているので、どうしても人の注意はそっちに向いてしまいがちだ。しかし、本当の過ちは、「ユダヤ人は遺伝子的に劣悪だ。ゆえに彼らを殺しても構わない」という帰結にある。

A、Bの論理は、「特徴が先天的か後天的か」を基準にしてことの良し悪しを判断しているという点が、Cのナチスの論理と同じなのだ。仮に、レイプ事件を起こす男性犯罪者に共通の遺伝子が発見されたとしよう。もしそうだったら「先天的形質によるものだからレイプは非難できず、容認するべきである」ということになるだろうか。もし仮に男女の能力差を決定づける遺伝子が発見されたら、男女差別は許される、ということになるだろうか。同性愛者の遺伝子の発見が実は誤りだった、という可能性もある。もしその遺伝子が偽物だったら、即座に「やはり同性愛は排斥するべきである」ということになるだろうか。

ナチスの場合はまず「ユダヤ人は遺伝子的に劣悪だ」という事実認識が激しく誤っていたため、多くの歴史教育の現場ではそれを指摘するにとどまっているだけではあるまいか。その奥に潜む、本当に大切な、「事実と価値判断は、論理的に結びつくものではない」ということが教えられないままになっていたのではないか。ナチスの過ちは「ユダヤ人は遺伝子的に劣悪だ」と決めつけたことだけにとどまらない。もし仮に、本当にユダヤ人が遺伝子的に劣悪だったとしても、それを悪と決めつけ虐殺するなど言語道断なのだ。

先天的か後天的か、自然なのか人工のものなのか、そういった基準に基づく善悪の価値判断は非常に脆い。事実と規範を混同しているからだ。「事実としてそうであること」と、「その事実が好ましいものであること」の間には、論理的な必然性は全くない。

「遺伝子的に決定されてるから善」「生後の獲得形質だから悪」「白は善で、黒は悪」「丸は良く、バツは悪」「なめらかなのは美しく、でこぼこなのは醜い」など、所属、由来、形質、色彩などに基づいて道徳的、美的な価値観を決定する立場を「自然主義」という。アウシュビッツが最も伝えなければならない教訓は、「『自然主義』は誤謬である」ということに他ならない。

フェミニズムやジェンダーフリーを安易に振りかざす人々の主張の中に、いまだにA、Bのような論旨があって唖然とすることがある。歴史から過ちを学ぶとは、遺跡を見学すればそれで済む話ではない。本質を見極める論理的思考能力がなくては、いくら年号を覚えても人名を覚えても、ザルで水を掬ってるようなものだろう。何も学んでいないに等しいのではあるまいか。
アウシュビッツ 内なる悪魔を忘れまい
(2005年1月30日 朝日新聞社説)


 第2次大戦中、ドイツのナチス政権は欧州各地から数百万人のユダヤ人らを強制収容所に集めて殺した。なかでもポーランド南部のアウシュビッツ(現オシフィエンチム)では、毒ガス、銃殺、飢えで、100万人を超す人々が虫けらのように命を奪われた。

 自分たちの優越を誇って他民族をさげすみ、他人の人権など顧みない。それがファシズムだ。人の心に潜む悪魔を呼び覚まし、行為の残忍さを忘れさせる魔力を持つ。それが極限に達すると何が起きるか。アウシュビッツが証しである。

 鉄道で運ばれてくる収容者を降ろした停車場。立ち並ぶバラック。焼却炉。監視塔や有刺鉄線。「働けば自由になる」という文字が掲げられた門。解放から60年をへた今も当時のままに保存されている施設は、来訪者をうちのめす。

 先週、その施設跡で解放60周年の式典が催された。欧州諸国やロシア、イスラエルの首脳らが二度とこうした大量虐殺を起こさせないことを誓った。

 民族差別や排外思想を抑え、人道主義を定着させることは、廃虚の中から再出発した戦後欧州の原点である。

 ドイツはナチスの戦争犯罪を深く謝罪し、それが欧州社会への復帰と戦後復興の土台ともなった。共通の憲法を制定するところまで来た欧州の統合にとっても、アウシュビッツの記憶が果たしてきた役割は大きい。

 90年代、ユーゴスラビアの解体とともに民族紛争が火を噴き、殺戮(さつりく)や迫害が続いた。それに敏感に反応したのも欧州だ。欧州連合は平和維持部隊を派遣し、民主化と復興の支え役となっている。

 だが、人間にまとわりつく「ナチス的なるもの」との決別は容易ではない。

 排他的な右翼政党が欧州で議席を伸ばしたのは最近のことだ。ドイツでも「ネオナチ」や、ナチスの犯罪を矮小(わいしょう)化しようとする動きがある。

 年月がたち、世代が移れば記憶は薄れる。国連が先週、10年前の解放50周年には開かなかった特別会合を総会で催したのも、アウシュビッツを忘れさせてはならないという危機感の表れだろう。

 私たちもそれぞれの歴史を振り返り、非人道的な行為と決別するこころを新たにしたい。

 アウシュビッツの生き残りである作家エリー・ウィーゼル氏は国連の式典で、世界があの大量虐殺の恐怖に耳を傾けていれば、ルワンダやカンボジアなどでの虐殺は防げたかもしれないと語った。

 「ナチス的なるもの」の芽をどうやって摘んでいけばいいのか。歴史に学ぶとともに、人道主義を具体化する道を歩む必要がある。

 集団殺害などの戦争犯罪人を裁く国際刑事裁判所に米国や日本が加盟し、非人道行為を抑止する力として機能させる必要がある。武力による「人道介入」をどういう条件で認めるのかどうかについても、国連で論議を急いでほしい。

 60周年に取り組むべきことは多い。


アウシュビッツ
(2005年1月31日 毎日新聞「余録」)


27日のアウシュビッツ解放60周年式典で、雪が降りしきる中で参集した各国首脳の姿を見て、昔受けた衝撃がよみがえった▲100万人以上のユダヤ人が虐殺されたポーランドの強制収容所跡を初めて見学したのは戒厳令下の82年冬。その時も雪だった。通訳のお嬢さんに「アウシュビッツはドイツ語の地名よ。オシフィエンチムと呼んで」と何度も念を押された▲めがねがうずたかく積み上げられた「めがねの部屋」、おさげの金髪などで埋まった「髪の毛の部屋」。入れ歯、歯ブラシ、洋服の部屋もあった。ナチス・ドイツは廃物利用可能なありとあらゆるものを収容者から奪い、丸裸にしてガス室へ送り込んだ▲人が人に、どこまで残虐になれるのか。遺品の山。古カビのような独特のにおい。部屋から部屋へ重い足を運ぶ度に、ずっしりと心に焼きついた。後に家族で再訪した時は、入り口に「子供連れの人は自らの責任で見学して下さい」と断り書きがあった。ホロコーストの記録が幼い心にトラウマを残す危険もあるからだろう▲英国の調査では35歳以下の6割が「アウシュビッツなど聞いたことがない」と答えたそうだ。ナチスの軍服姿で仮装パーティーに出たヘンリー王子が父チャールズ皇太子に「アウシュビッツを見てこい」としかられたのも無理はない▲強制収容所を生き抜いたノーベル平和賞作家のエリ・ウィーゼル氏が国連の記念会合で訴えた言葉が重く響く。「過去は変えられないが、未来は私たちの手にある。無関心ではいけない。無関心が常に加害者を助ける」。記憶を語り継ぐ大切さは過去よりも未来のためだと思う。風化と無関心が怖いのはヒロシマ、ナガサキにも言える。若者たちの手で記憶を伝える努力がほしい。