国立大法人化 努力が評価される態勢を
(2004年3月30日 産経新聞)

とうとう独立行政法人化か。
私は学部も大学院も日本では国立大学だったが、こんど夏休みに日本に戻ったら「国立大学」ではなくなっているわけだ。

私は比較的大きめの、環境に恵まれた国立大学に在籍していたので、税金を享受する畏れを十分に感じてた。日本を出る以前から、外部評価が導入されていた気がする。

学問は利潤追求ではないので、経済的な成果だけを観点においた評価に走る危険性だけはしっかりとシステムとして整備しておかねばなるまい。大学なんて、隣の研究室がどんな研究をしているか全く分からない世界だ。ましてや外部の人間が評価するなんて至難の技だろう。

もうひとつ私が危惧するのは、短期的に具体的な成果を求められることにより、長期的な視野を必要とする腰を据えた研究がしにくくなることだ。はっきりいって大学外部の人間に論文の良し悪しが判断できるとは思えない。知らない人から見れば、年に10本のクズ論文を書き散らす研究者のほうが、年に一本のしっかりした研究を発表する研究者よりも「優秀」に見えるのではなかろうか。これは完全な評価社会のアメリカの大学でよく聞かれる弊害だ。一般にPublish or Perish「書くか、滅ぶか」と言われ、論文を書かない者にはクビあるのみだ。そういう追われるような環境で長期的な基礎研究が育くめるとは思えない。アンドリュー・ワイルズは、フェルマーの最終定理の解決に全精力を注ぎ込み、8年もの間論文を発表しなかった。その苦闘の結果、定理の完全証明に成功したのは記憶に新しい。今までの日本だったらこういうことも可能だったかもしれないが、これからの日本の大学ではこういう研究の仕方は難しくなってくるだろう。

しかし、こういう一部の天才を除いて、大学内の大部分の凡人研究者はほとんどがぬるま湯に浸ってる状況だろう。大局的に見れば、今回の国立大学の外部評価は大学の活性化に役立つ面のほうが大きい気がする。先に述べたような長期的研究の重要性は確かにあるのだが、それを言い訳にしつつ一向に研究を結実させる努力をしない研究者が多いのも事実なのだ。

特に日本の大学院生は早くからこういう外部評価にさらされる危機感を肌で感じた方がいいと思う。アメリカに留学してから思うが、日本の大学院は甘すぎる。本気で勉強する気迫を生み出す環境という面において、欧米に大差をつけられていると思う。アメリカでは大学院は寝てる時と食事のとき以外はすべて勉強時間と思ってまちがいない。学科から割り当てられる仕事は、優秀な人からいい仕事を割り当てられる。当然、給料にも差が出る。

日本の大学院ではよく遊んでたなぁ。
人間、プレッシャーがないといい仕事なんてできないし、自分の殻も破れないものだろう。