ちょっと気になる敬語がある。

「はい、ではわたくし、たくろふが明日、御社に参りますので、例の書類はそのときにお渡しします

「ええ、大丈夫です。社長は私が駅までお送りします

「明日、報告に参ります。そのときに結果についてはお話ししますので。」

周りの日本人に聞いてみたが、この3つの文はそれほど違和感がないようだ。
上の文の「お渡しする」「お送りする」「お話しする」は、すべて行為者が発話者なので、自敬表現になっている。学校文法でいうところの敬語では、自分の行為を言うときには謙譲語を使うので、この場合は「渡し申し上げる」、「送り申し上げる」、最後は単に「申し上げる」を使うことになっている。「お渡しいたします」「お送りいたします」「お話しいたします」という言い方もあるが、これも最初に「お」という尊敬接頭辞がついているのが気になる。

しかし、「ナニナニし申し上げる」という謙譲表現は、僕の日本語生活ではあまり耳にしない。文章でもあまり見かけない。どうも最近、自分の行為であっても動詞を単純に尊敬語にして他者に対する敬意とする、という敬語表現がまかり通っているような気がする。

気をつけてこの手の敬語を見てみると、すべて第四文型(誰々が、誰々に、何々を、これこれする)の動詞であることに気づく。第四文型が表す出来事は、人と人の間をモノや情報が移動する、という図式で単純化できる。

第四文型について、日本語の「ジョンはメアリーに手紙を送った」と、英語のJohn sent Mary a mail を比べてみると、面白い違いに気づく。日本語の方は、ジョンはメアリーに手紙を確かに送ったが、メアリーがそれを受け取っていることまでは意味しない。ところが英語の場合は、メアリーが確実に手紙を受け取った、という意味になる。だから、「ジョンはメアリーに手紙を送ったが、彼女はそれを受け取っていなかった」とは言えるが、John sent Mary a mail, but she did not receive it.とは言えない。

こう考えると、同じ第四文型でも、日本語と英語では出来事の違う部分を示していることになる。ジョンが手紙を投函し、それがメアリーに届く、という一連の出来事の中で、日本語は「ジョンが手紙を投函する」という最初の部分のみに言及しているのに対し、英語では「手紙がメアリーに届く」という最後の部分にも言及している、と言える。こう考えると「しかし、それが届かなかった」が日本語ではOKで、英語ではダメである事実が説明できる。

で、敬語である。日本語で「僕が社長に手紙をお送りしますよ」と言った場合、文が意味する出来事のうち敬意の対象になるのは、「社長が手紙を受け取る」という部分である。その部分に敬意がかかって、動詞が「お送りする」と敬語化する。これはなんとしたことか。日本語の第四文型が行為者の動作だけを記述し、受取り手の受容行為までは意味しないとしたら、「僕が社長に手紙をお送りしますよ」という敬語が(少なくとも人によっては)容認可能な理由が説明できない。

考えられることはただひとつ。日本語の第四文型の意味が変化してきているのだろう。もともと行為者の行為のみを表していたものが、受け手の受容行為までをもその意味に含むように、日本語の意味が変化しているのではなかろうか。この変化が完璧に行われれば、予測としては「ジョンはメアリーに手紙を送ったが、彼女はそれを受け取っていなかった」という文は容認不可能な文となる。「送る」という動詞の意味として、メアリー(受け手)がちゃんと手紙を受け取る部分までが含まれることになるからだ。

言語は絶えず変化するが、なかでも最も変化しやすい部分は、あまり使われない部分である。言語は知識として使われるものではないので、あまり使われないと、知識を差し置いて自分の頭にある文法で勝手に文を生成するようになる。今の日本では、世代格差や、世代間の人間関係のあり方が変わってきているのではあるまいか。目上の人間に日常的に接する機会が減り、そういう人間に敬意をもって接する緊張感のある人間関係が、今の日本では希薄になってきているのだろう。学校現場では先生に向かってタメ口をきく生徒もいよう。今の日本の、とくに若年世代の人間関係の感覚は、世代差を意識することなくフラットに人付き合いをするようになってきているのではあるまいか。そうなると、自分の行為をへりくだる謙譲語があまり使われなくなる。謙譲表現を使う状況で、それを使う前提となる概念が消失しているからだ。

それは、良い悪いの問題ではない。ひとむかし前の世代の世の中では、従来の敬語に根ざした「きちっとした敬語」を使うような緊張した上下関係が、社会生活を円滑に営む上で重要だったのだろう。現在の世の中がどうなっているのか知らないが、最近では「緊張した上下関係」よりも、「親しみのある同じ高さの目線の人間関係」の方が人間関係が円滑に進むように、時代が変わっているのではあるまいか。学校現場においても、厳格な厳しさを通して生徒を鍛える先生が当たり前だった昔に比べ、最近では家庭環境の複雑化、自己確立能力の低下によって心の歪みを抱える生徒が少なからずいる時代だ。時代がそのように変わったら、厳密過ぎる敬語表現はむしろ望ましい人間関係を阻害する。最低限に必要な敬語表現を残して、敬語が変化しているのは、そういうことではなかろうか。私は現在、アメリカの大学で、プロフェッサーと話すときにはお互いにファーストネームで呼び合っている。日本も、そういった文化気質に移行しつつあるのだろう。それが良いことか悪いことかは別問題として、事実としてそうなっている気がする。

「最近の若者は敬語ができなくてけしからん」ではなく、「最近の若者は敬語を使うべき状況を察することができなくてけしからん」のほうが合っていると思う。個人的には、日本のようなきっちりとした上下関係には、人材育成が円滑に行われる、危機管理の際に意思決定責任が明確になる、など良い部分もあると思う。日本の縦社会のそういう良い部分を保つためには、敬語を使うべき状況と日常の状況を、敬語によって区別する能力は必要だと思う。