麻原被告判決 死刑でも納得できぬ気分
(2004年2月28日 産経新聞社説)
[“教祖”死刑判決]「惨劇の教訓は生かされていない」
(2004年2月28日 読売新聞社説)
「現代の狂気」を裁いた麻原死刑判決
(2004年2月28日 日本経済新聞社説)
松本被告に死刑 教団の「闇」が未解明でよいか
(2004年2月28日 毎日新聞社説)
教祖に死刑判決??何がオウムを生んだのか
(2004年2月28日 朝日新聞社説)

読売が一番ポイントを押さえている。

今回の判決を受け、記述するべきポイントは大きく分けて3つある。

1. 判決文の趣旨と意義
2. 裁判長期化に対する問題提起
3. 一連の事件を受けた教訓が生かされているかの検証

1. に関しては、被告が一連の事件の首謀者であると断じた点が重要だ。こうした組織ぐるみの犯罪の場合、責任の所在が明確になりにくい。この点、被告に一連の犯罪の責任があるとしたところをまず意義として認めることが重要だ。この点はさほど裁判でも争点とならなかったのか、扱いは各紙とも薄い。「あたりまえじゃないか」という読者の感情を想定したものだろう。

2.が最も重要なポイントだろう。判決を受けての社説なら、まず裁判のあり方そのものを問題にするのは王道だ。今回の裁判は、各紙が糾弾している通り、迅速とはとても言いがたい。このポイントと落とすようだと社説の意義は著しく損なわれる。裁判遅延の原因を指摘し、遅延の責を明らかにする必要がある。

3.に関しては、「このままでよい」「このままじゃマズい」のどちらかと言えば、明らかに「このままじゃマズい」の方だろう。教団は存続しており、それへの対処の仕方も不明確だ。その危険性を指摘し、なおかつ対処の必要性を問う必要がある。

上記の3点を最も的確に捉えているのは読売新聞だろう。もともと読売は論理が一貫した社説というよりは、強い言葉を使って断罪するような文体の社説を得意とするが、今回の裁判に関してはきっちりとポイントを分け、理路整然とした文章となっている。

産経は紙面の制約か、1.と2.のポイントだけに絞っている。産経の社説は問題点を見抜く目と文章構成の巧さが非常に評価できる。高校生が小論文を書く参考にするのなら、産經新聞の複眼的な視点が参考になると思う。今回も、総合的な内容では読売に一歩譲るものの、1.と2.のポイントに関しては読売よりも少ない字数で強い主張を可能にしている。3のポイントについても最後に触れており、紙面が許せばこの部分をきっちり書くんだろうな、という構成が見て取れる。ややもすると裁判についての記事から教団そのものについての記事に流れがちな素材を扱う中で、紙面の都合で省くとしたら、今回の裁判とは直接関係のない3.を削ろう、という判断ではないか。

日経は、良くも悪くも「日経らしい」記事だ。日経は従来、論理の一貫性では他の追随を許さない。その利点がありながら、どうも主張が小さくまとまる傾向がある。切れ切れの要素が多重に絡まってもつれて見える情勢を、強靭な論理で切り分け整理するのは日経の得意技だが、今回の裁判のように狭く深い洞察が求められる事件になると「行儀のいい文章」になりがちの傾向がある。今回の裁判についての社説も、3つのポイントをきっちり押さえていながら、「これ以上は日経に求める部分じゃないな」という、なんかピリっとしない印象がある。読売と対極を成す社説、というと語弊があるだろうが、それに近いものがある。

堅実な事実をがっちり固める、悪く言えば退屈な社説を書く毎日にしては、今回の鼻息は相当に荒い。毎日に見るべき特別な点は、「裁判に基づく事実の解明には限界がある」ことを指摘し、「裁判以外でも事実を究明していくことが大事」ということを指摘していることだろう。裁判はその形態に厳しい制限があるため、その制約に沿うものしか究明できないという、いわば手段が結果を制限する側面がある。裁判のそういった側面を指摘したところが評価できる。

朝日はなんだろう、これは。
明らかに他の4誌とは書き方が違う。当然書くべきことを削り、意図の不明な記述を入れている。もともと朝日の社説は「おはなし」が多い。論理に沿ってポイントを指摘し問題点を提起する、というスタイルをとらない。むしろ筆の進むままに書きたいことを書き並べる、という印象がある。路上でおしゃべりするおばちゃんの会話みたいだ。朝日新聞の社説は大学入試問題の要約問題でよく取り上げられるが、それは、要約が困難な悪文だからだ。漫然と書き連ねているだけだから、真の意図と論理の流れが見えない。ちなみに日経の社説は背骨となるロジックがはっきりして論旨が明白だから入試問題では使われない。朝日の今回の社説で、はじめに教団発足時の流行歌手の話題を振る意図がわからない。「時代に乗り切れない若者」の導入として使う意図があると見えるが、そういう導入のしかたをするのなら、それを締めにも使わなければ意味がないのではないか。「20年が経った現在でも、時代に乗り切れない若者は数多い。教団発足時の危険な世情は、今も変わってないのでは」という論の展開で3.のポイントに結ぶなら、かなり印象に残る文章になると思うが、歌手の話題は導入部分で書き捨てられてる。「最後に締めるつもりで書くのを忘れたのかな」などと思ってしまう。後遺症に悩む被害者や遺族にとっては、不謹慎ともとられる書き方ではないか。致命的なのは、2.のポイントを落としている点だろう。そもそも朝日の社説は裁判に関してではなく、教団に関しての「おはなし」なので、そもそもスタートから視点がずれ、あらぬ方向を向いているのがその原因だろう。裁判の限界、観察処分による信教自由拘束の是認など、部分的には興味深い指摘もある。しかし、いかんせん全体が一貫した「論」を展開していない。要約問題向けの文章だと言えるだろう。