2004年1月29日 産経新聞・産経抄

あなたがテロリストで、武装集団を率いてヨーロッパ全域に戦争を仕掛け、欧州の覇権を手に入れ皇帝の座を名乗ろうと試みるとしよう。全ヨーロッパを制圧すべく軍事行動を起こす際、戦略的に必ず守るべき2つの注意点がある。それは何か。

歴史上、全ヨーロッパの覇権を手にしかけた者が二人いた。ところがその二人とも、その「ふたつの重要な注意点」を守らなかったために没落し、敗退したという。

その「ふたつの注意点」とは、

1. イギリスを速攻で潰すこと
2. ロシアを攻めないこと

だそうだ。

ナポレオンはフランスを拠点にヨーロッパを制圧、イギリスの命綱であるインド貿易路を経つため中継地点のエジプトを攻め、ほぼ地中海世界を手中に収めた。しかし、制海権を握られたイギリスを徹底的に叩く機会が得られないまま反撃を許し、ネルソン率いるイギリス艦隊にトラファルガーの海戦で壊滅的打撃を受けた。拡張を東に転換せんと試みた1812年のロシア遠征では、ロシア軍以前に「冬にロシアを攻める」という愚がたたり、ロシア軍の反撃を受け、アウステルリッツの恨みを晴らされるハメになった。以降は連戦連敗。

ヒトラーは電撃戦を展開し、パリを筆頭にワルシャワ、プラハ、ブタペスト、ウィーンなどヨーロッパの主要都市を電光石火で陥落させた。短時間での広域制圧を見るにつけ、この時点でのナチスドイツ軍は史上最強だったと思う。ところがUボートで海上封鎖に成功するものの、イギリス本国を制圧する機会を先延ばしにしたことで、イギリスの反撃準備を見過ごした。東部戦線では1943年2月のスターリングラード攻防戦でロシア軍に完敗。「冬のロシアを甘く見る」というナポレオンの轍を踏み東部戦線が崩壊。挙句の果ては1944年6月にアイゼンハワー率いる連合軍にノルマンディー上陸を許し、翌45年にはソ連軍にベルリンを包囲されることになる。

…という話を、高校のときに世界史の授業で聞いた。おもしろい先生で、「結局、人間っていうのはいつの時代も似たようなことばっかりやってるんだね」ということを、具体的な歴史的事件を例にとり面白く話してくれた。教科書は一切使わない。歴史の時間軸など無視。「今日は人間の嫉妬について話しましょう」「今日は食べ物がなくなると人はどういう行動にでるかという話です」などという切り出し方をする先生だった。「今日はヨーロッパ征服の方法を教えます」で授業が始まった時には本当に仰天した。この先生の授業のおかげで、私は提示された歴史的事実を、自分の実感として整理し消化する方法を学んだ。私は世界史の試験では、センター試験のような知識を問う客観問題は最後まで苦手だったが、国立大学の2次試験の論述問題はけっこう得意だった。今でも僕は、フランス革命からナポレオン戦争終結までの流れと、ヴェルサイユ体制から第二次世界大戦終結までの流れはほぼ完璧に頭の中で押さえてる。授業でおもしろい話を聞いて、詳しい事を知りたくなり、自分で本を読んだのだ。

歴史を学ぶ意義は、「人間の基本的な性質」と「世界の未来に対する指針」を過去の具体的事例から読み取ることだと思う。温故知新という言葉の例えもある。たとえば、人間は平等を正しいと謳いながらもそれを実践はできない。中国の文化大革命や、マルクスの『共産党宣言』執筆からソ連崩壊に至る流れなどを土台に、共産主義の思想と実践のギャップを一般的に昇華させて考えればそれがよく分かる。

戦争も、歴史の中では無数の事例がある。そのすべての事例について、戦争の原因から決着について現象を一般化し、「人はどういうときに争うのか」と考えるのは面白い思考遊戯だと思う。僕の学んだところ、戦争の原因、経過、意義を鑑みるに、そのどれもが当事者にとって「正しい戦争」だったのではないか。間違っていると分かっている、大義のない戦争を仕掛けたという例は歴史上皆無といっていいと思う。戦争が起これば、少なくともその当事者にとってはその戦争は大義にもとるものであり、如何ようにも正当性の屁理屈をつけられるものだ。戦争と関係ない立場から「あの戦争には意味がない」という論調は、その現象ひとつしか見えず、戦争というものはそもそもどういう行為なのかという複眼的視野に欠ける物言いではないか。歴史を紐解けば、すべての当事者にとって戦争は「大義」のあるものだ。そしてそのすべてを客観できる現在の我々にとっては、逆に、あまねく戦争というものに大義など無い。判断者のレベルが違うので、大義とは何かという位置づけが違うのだ。

産経新聞は、野党側の「イラク戦争に大義はあったのか」という問いを「愚論」と一刀両断にしている。野党の問いが愚かである原因は、上述のような視点の欠落にあると思う。イラク戦争に直接関わる当事者としての局地的な視点では、大義などいくらでも並べられよう。逆に、すべての歴史を超越した客観的な視点では、大義のある戦争どない。野党は、どういう視野から問いを発しているのか。仮に、イラク戦争に直接関与する当事者としての局地的な視点だとしたら、大義があって当たり前だし、逆にすべてを超越した客観的な視点だとしたら、戦争に大義などなくて当たり前なのだ。野党側の質問は、「戦争に直接関わる局地的な立場」から問いを発し、「客観的な視点に基づく大義」を求める矛盾した行為だと思う。愚問極まりない。今の日本に必要な行動は、戦争の意義などという幻想をつつきまわし机上の空論に終始することではなく、混迷している世界の現状を地に足をつけて考え、その収束のために成し得ることを具体的に考え行動することだと思う。

国会で国を代表する者の歴史的素養がこの程度である。「高校生の学力が落ち、歴史についての認識能力が落ちたのは危機だ」などと騒いでる場合じゃない。歴史を学ぶことによって得られる思考能力が皆無に等しく、視点を混在させる愚問を発する者が代表者になり得る国の行く末こそが、まったくもって危機だと思う。