宗教と哲学と科学はどう違うのだろうか。

「違い」を問う時点で、その3つは根本的には同じだ、という前提があること気をつけられたい。根本的に異質なものに対しては「違う」という概念は当てはまらない。たとえば、「電車とバスと自家用車は違う」。この命題は、電車とバスと車が3つとも「交通手段である」という共通点があるから意義のある命題となる。これが「飛行機とレンコンとパンダは違う」という命題であったとしたら、意義を成さない。

従って、違いを問う以前に、宗教と哲学と科学はどのような共通点を持つのかを考慮する必要がある。私が考えるに、三者の共通点は、「この世界を理解する」という試みである、ということではないだろうか。この世はどのように始まったのか。人間とはどういう存在か。人はなぜ死ぬのか。時間とは何か。星はなぜ輝くのか。なぜ鳥は飛ぶのに人間は飛べないのか。人はどうすれば幸せになれるのか。意識・精神とは何か。物体はなぜ下に落ちるのか。この世に満ち溢れるありとあらゆる問いに答えを求めることが、宗教・哲学・科学の共通の試みではないだろうか。求めるものは同じだが、方法論に違いが表れる。

宗教の方法論は、「信じること」だと思う。宗教の方針は、究極として人間の幸福を追求することに向けられている。この世がどのように始まったのか、自分はどのように生きるべきか、なぜ星は落下してこないのか、そういう不安が解消されないままだと人は生きていくのに不安を感じる。そこにひとつのビジョンが与えられ、あらゆる現象に一通りの説明がなされると、人は安心する。注意すべきは、その説明が真実か否かは問題ではない、ということだ。安心さえできればよい。人が憩い、幸福を見出せたところで宗教の仕事は終わるのだ。「星が落ちてこないだろうか」と不安に思う者に、「天上界におわす主が支えてくださるから大丈夫」というビジョンが与えられたとする。それでその者が納得し、安心して眠れるようになれば、宗教は良い仕事をしたことになる。このような役割を担う宗教が集団化し、団体の維持に経済的な必要が生じたり、教義に矛盾が許されなくなると組織として一種の緊張が要求され、疑うことが許されない歪んだ構造になる危険性は世にあまねく認知されているところであろう。しかし宗教というだけで偏見をもってはいけない。本来の宗教は、乱世にあって人に安心を与え、精神的危機からくる自我崩壊を防ぐという重要な役割を担っていた。現在においても、ストレスを散逸させる目的で、おいしいものをたくさん食べる、買い物に走る、貴重な時間を省みず長電話やゲームをする、などの理性に逆らう感情的行動は、その人が自我を保ち生きる力を得るために独自に考案している一種の宗教的行為と言える。その行為自体が正しい行動か否かは問題ではない。それが精神的な平穏をもたらしてくれるという結果のみが重要なのである。現在、戦乱状態にある地域においても、自らを支える精神的な支柱となる信仰を持つ者と、持たない者では、自己を保つ力に差があるのではなかろうか。

哲学の方法論は「考えること」にある。宗教の場合は、ビジョンが他人から与えられた。しかし、それをゼロからスタートし、己の力ですべてに対する説明を考え出そうとする試みが哲学だ。宗教と哲学の大きな違いは、向けられる意識の方向性にある。宗教の場合は人の幸福が目的なので、他人に対して意識が外に向かう。しかし哲学の場合は、あくまでも自分の力ですべてを考え出し、自分で納得できる説明を考えつくまで思考し続けるために、意識は自分の中のみに向けられる。基本的に他人はどうでもよい。己が納得する知見が得られればそれで良い。哲学は、すべての疑問を徹底的に考えるため、概念・用語の定義から出発する。「人はどうすれば幸せになれるのか」という問いに答えるためには、まず「幸せとは何か」という前提を厳密に定義する必要がある。「あたりまえ」という言葉は哲学には禁句である。あたかも、建物を建てるためにレンガの一個一個を手で作っていくような堅実さが必要なのだ。私は大学の哲学の授業で、「哲学書を読むときには、その著者がどういう問いを立てているのかをまず把握しなさい」と教わった。大方の哲学書の冒頭箇所は、その本で使う概念や言葉の定義がびっしりと列挙される。定義が与えられないと、言葉が使えないからだ。だいたいの読者はその段階でチンプンカンプンになりギブアップするが、ゴールとして「結局何を説明しようとしているからこんな概念が必要になるのか」という全体地図があれば、定義の一つ一つが「使える道具」に変貌する。Philosophyというのはもともと「知を求める」という意味だ。現在でも、学問を極めた者に与えられる称号はph.D (Doctor of Philosophy)という。

科学の方法論は「疑うこと」にある。哲学から発達した科学の方針は、絶対的な真実を求めることにある。哲学の場合は、自分の力で結論に辿りつけさえすれば、それで目的は果たせていた。それが「真実」であるという保障はないし、「真実か否か」を確認する方法を哲学は持たない。あくまで「こうじゃないかな、こう思うんだけどな」という自分の中での結論を出すのが哲学なのだ。当然、哲学者それぞれによって結論は違うし、そもそも立てている問いが個人によって散逸している。私のこの文章も、私が一人で勝手に辿りついた哲学的考察である。このblogのカテゴリーが「philosophy」となっているのはそのためだ。
それに対し科学は、辿りついた結論が世の中を精確に説明できるかどうか、「合ってるか、間違っているか」を追求する。思考の方法が体系化され、手順を踏まえることにより先達の思考を踏襲できる。個人個人が乱雑に問いを立てるのではなく、相関関係にある問いを関連させ、統一的な説明を求める。天体に関する問いは天文学、物体の振る舞いに関する問いは物理学、物質の成り立ちについては化学、人間の身体の構造に関しては医学、というように分野がまとめられ、分野内で生じる問いを、単発ではなく大きな全体像から体系的に説明する。研究する者が同じ目的、同じ方法論を共有するため、場所を越え世代を超えて一本の大きな流れで研究が続けられる。科学の場合、説明が完璧に見えても、さらなる完璧さを求めてその説明を疑い続ける必要がある。宗教と違って、科学を志す者に満足は厳禁だ。絶対的な真実は、おそらく到達不可能なほど高いのだろうが、それでもその峰を不断の努力で目指し続ける。一見、真実に見える説明でも、「本当に真実だろうか」と疑い続け、反例を求め、反証されたらさらなる説明を求める。科学は、真実のある問いのみを対象に絞るため、真か偽かを決められない命題は扱わない。「人間はどうすれば幸せになれるか」という問いは、検証によって到達可能な絶対的真実があり得ないため、科学の範囲外にある。

世界のあり方を求める。この世はどうなっているのだろうと疑問を感じる。これは、人間に特有の欲求だと思う。知能の発達は人間だけが得られた栄光だが、これは不安を覚醒し自我崩壊を引き起こす諸刃の剣でもある。宗教、哲学、科学は、それを回避するために人間が考案した方法論ではなかろうか。宗教は他者から与えられた知見を信じる。哲学は己のみの力で結論まで考え抜く。科学は人間の総力をもって統一的な方法論で問いに正面攻撃をかける。基本的に、どの方法論を採ろうが個人の自由だ。自分の採用している方法論を絶対的なものだと勘違いし、他人に強制する姿勢は他者を尊重しない自己中心的な態度だと思う。