最近、ちょっとしたきっかけで国語という教科について考える機会があった。

自慢じゃないが、学生時代から国語は得意だった。必死になって勉強した覚えもなければ、点数に苦労した覚えもない。よく友達からどうやって勉強しているのかを聞かれた。

国語能力は大きく分けて、「文学」と「言語」という、方法論の異なる二つの分野から成る。言語の方は記述文法であり、日本語の仕組みと変遷についての基礎的な知識を身につけること程度のことなので、高が知れている。日本人であれば日本語能力は持っているわけで、それに体系的な説明方法を提示されるだけなので、知的な興奮を覚えることはあっても混乱することはあるまい。

問題は文学のほうだと思われる。文学というのは広義の芸術に属し、感性で触れるべきものであるため正解がない。ひとつの作品について、正しい読み方が規定されている作品などというものは存在しない。学校では特に入試問題の対策を考えなければならないから、文学作品を「問いに答えるため」に読むという矛盾が生じることになる。芸術の一分野たる文学に、正解を求める入試問題という形態は矛盾しているのだろうか。

私に言わせれば、高校の授業や大学入試で求められる文学的素養など、文学を自ら楽しもうとするための下地に過ぎない。野球に例えれば、星一徹の如くプロで通用する即戦力を養成するレベルなのではなく、球場に野球観戦に行ったときに楽しめるように基本的なルールと醍醐味を学ぶレベルに相当するものだ。文学作品は、作家が命を削って作り上げた魂の結晶である。なんの素養も持たない者が素手で読んで理解できるものではない。文学作品を読むには、基本的なルールと価値観と下地を身につける訓練が必要なのだ。中学校、高校で学ぶ文学は、しょせんその程度のものではないか。中等教育の段階で自国の文学を理解できるくらいのレベルに達することは文明国として必須だろう。

こういった文学的素養の下地は、ガイドなしでも豊富な読書経験によって自ら作ることが出来る。学校教育を受けてないものでも、日常的な読書生活によって文学の読み方を習得し、自ら楽しむ者も大勢いる。私は小学校の5,6年生のとき、担任の先生が宿題を出さないのをいいことに本を読みまくった。学校の図書館など棚の端から端まで読破した。あらゆる分野において、経験値は絶対的なアドバンテージになる。学校で週に何時間しか文学に触れてない者と開きが出て当然だ。

文学は、広義の芸術に属する。芸術の定義はさまざまあると思うが、私は「言葉に表現しにくい概念を表現するための手段」と定義している。音楽は音を、絵画は色彩を、彫刻は形状を手段とする表現手段である。それと同様に考えると、文学というのは「言葉で表現しにくい概念を、他ならぬ言葉そのものを使って表現する」という矛盾した芸術ということになる。文学作品には、必ず作者の表現したかった概念なり世界観なり人間像が含まれる。その作者の魂に触れるのはある程度の修練と経験が必要だ。鑑賞力というのは、経験によって培われるものである。世界に誉れ高い名作を読む機会に恵まれても、他との比較ができるほどの経験値がないと良いものを良いと感じることができない。

文学作品には、「ストーリーの論理性」と、「使われている言葉の芸術性」という二つの側面がある。その配分は作品によってまちまちだ。緻密にストーリーを練り上げることに主眼が置かれている作品と、ストーリーはさておいて言葉の洗練度に走った作品とがある。後者の極みは詩だろう。高等学校では特に他教科で科学的方法論に基づく論理思考を育成するため、文学に接する生徒は前者の「ストーリーの論理性」に目を向ける傾向が多い。「要するにこの作品は何を言っているのか」を掴もうとする傾向にある。文学を読み慣れると、作品の中で中心的な役割を担う「楔の言葉」が見抜けるようになる。交換不可能で、作品の命を左右する、練りに練られた珠玉の言葉。そういう言葉に対する感性が磨かれた読者とそうでない読者では、同じ作品を読んでも得るものが違う。当然、海外の文学を翻訳で読むとストーリーの論理性しか味わうことができず、使われている言葉の凄さがわからない。詩はストーリーの論理性など皆無に等しく、使われている言葉が命なので、詩を翻訳で読むのは、限りなく意味のないことではあるまいか。

大学入試において要求される国語教科の能力というのは、実は言語知識でも文学的素養でもない。論理的思考能力である。大学入試の国語の問題の大半は、古典を除いて、論説文か評論である。あるテーマについての論説を論理的に読み解き、筆者の主張を迷いなく読み取ることができるか否かを問う問題が多い。当然、素材は、一度読んだだけでは理解できない、高度に論理的思考能力を要求する悪文が採用されることが多い。入試問題に数多く掲載される新聞などは恥以外の何者でもない。畢竟、高校の受験対策では国語とて他教科同様に論理的思考能力の育成に全力を注がざるを得ない。純粋な文学は、鑑賞はできても真実を問うことができないため、大学入試の問題になりにくい。

国語力の低下はいつの時代も問題視される。学校の国語で学ぶ言語能力、文学鑑賞力、論理思考能力のうち、真の国語力の根幹を成すのは言語能力、文学鑑賞力で、大学入試に出るのは論理思考能力である。学校が大学入試の対策を中心としていたら、感性がやわらかい時期に真の国語力を育成する機会を失う。人間の脳のなかで、言語と論理を扱う場所は別々である。人間が文字を読むとき、その二つの場所が同時に活性化している。最近の学校現場では、その二つの領域を同時に活性化する訓練が行われていないのではないか。脳の言語野は、音に反応することによって爆発的に活性化する。言語野と論理野を同時に使う読書法、つまり音読が、最近の学校で行われなくなってはいないか。昔の文学の鑑賞法は暗記だった。明治の文化人は漢詩を白文で喉が枯れるまで素読し、名文を何も見ずに諳んじることができた。現在の中学高校の国語の先生は、どれくらいの文学・古典を諳んじることができるのだろう。

文学作品のなかには、石の言葉に混じって、光り輝く珠玉の言葉がある。それをそれと分かる程度にはなるべきだろう。