「文学」が分からない。

学部時代、単位埋めに文学の授業を取っていた。あまり興味ももてず、退屈交じりに聞いていた。
実は授業を取る際に、注意したことがひとつある。それは、
「レポートではなく、試験で成績をつける授業」
であること。

一般的な傾向とは逆だろう。日本の大学では、レポートだと「しめた!」とばかりにデキる奴のノートを借りまくり、要点らしきものをつなぎ合わせればなんとかそれらしくまとまるものだ。
逆に、試験は確固たる理解が試されるのでごまかしが効かないと思われ、敬遠されるらしい。

私に言わせればまったく逆だ。本質が分かっていなくても試験など通る。
試験は時間と紙面の都合があるため、その分野が真に問う本質が分かっていなくても、断片的な知識さえ暗記すれば点数が取れる。論述問題といっても高が知れている。私も、本質が分からないままがむしゃらに詰め込んで情報を丸暗記できる程度にはまだ頭がやわらか(現在形か?)
ところがレポートではそうはいかない。読む人が読めば、本質が見えていないことが露呈してしまう。時間もたっぷりかけられるため、できる奴ははるか遠くに行ってしまい、背中が見えない。

文学は、私にはその本質が見えない。目指すものがわからない。
はっきり言うと、文学の論文は感想文とどう違うのだろうか。
文学は何を目指し、文学を専攻する学究の徒は何を掴もうとしているのだろう。

少なくとも科学ではあるまい。「人文科学」などという謎の言葉があるが、きわめて一般的な意味での科学ではないと思う。科学であれば、どんな分野であれ、その目標は「真理の追究」に収束する。ところが、文学ではそもそも真理という概念が意味を成さない。仮にすべての条件を満たす「真の文学作品」という理想状態を仮定し、各々の作品をその理想との比較検討にかける、という作業が文学の方法論とする。そうすると、その「理想の、真の文学作品」というのは一体どこから出てくるのか。少なくとも、居眠りしながら聞いていた大学の文学の講義では、そういうものを目指しているようではなかった。そのくらいは理解できる

思うに、文学の目指すものは、「追求」ではなく「保存」なのではあるまいか。
文学は人間を描く。登場人物が一人も登場せず、自然界の描写だけに終始するものは文学とは言えない。最低でも、語り手の視点という人間的な要素が含まれる。人間が何を感じ、どのように行動するかは、当然ながら時代と地域の特殊性を背景として始めて意味を成す。

朝の満員電車の中で女子高生の携帯が鳴った。彼女は携帯を取り出し、大きな声で喋り始めた。『あ、おはようー。うん、今、電車の中ー。』 周りのサラリーマンたちは苦々しい顔で女子高生の方を見る。顔を見る。しっかりと見ようと皆、首を伸ばす。かわいい娘なら許す。

仮にこれを文学作品とする。さて、1000年後にこの文章を読んだ未来人は、この文学作品が描く状況を正確に把握できるだろうか。
「満員電車」とは何か。どうやら人がいっぱい乗った「電車」という乗り物らしい。そこには「女子高生」や「サラリーマン」という種類の人が乗るらしい。では、彼らは何のために毎朝「電車」に乗るのか。「女子高生」は「学校」に、「サラリーマン」は「会社」に行くらしい。彼らはそこで何をするのか…。
「携帯」とは何か。辞典には「手持ち携える」とあるが、どうやら音を出す物体を示しているらしい。しかもそれに向かって大声で喋る、ということは何かの機械なのか。周りの「サラリーマン」は、なぜそれを「苦々しく」見るのか。これは道徳的に責められる行為なのか…。

1000年後には、電車という交通媒体は跡形もなくなっているかもしれない。収入を得る方法は勤労ではなくなり、学習は在宅で可能となり、「通勤、通学」という形態がなくなっているかもしれない。コミュニケーションの道具ははるかな進歩を遂げ、携帯電話は滅んでいるかもしれない。
このように、社会環境が激変すれば、テキストに書いてある状況が読めなくなって当たり前だ。1000年後にこの文学作品を読む者は、1000年前たる現代に正しくタイムスリップできる背景知識が必要なのだ。

このような「物語を正しく読むに必要な社会背景知識」を保存することが、文学の仕事ではなかろうか。
その作品が書かれた地域と時代の背景を知らないと、主人公が何を感じ、何に苦悩したのかが理解できない。
満員電車で会社員と高校生が通うのは日本くらいのものだ。日本を知らない外国人は「満員電車」の状況を理解できないだろう。この時点で彼らはこの文学作品を読めない。現代の風習で重婚、浮気、幼児通姦が背徳的だからといって、「源氏物語」はけしからん、ということにはならない。当時の風習、感性が分からないものには源氏は読めない。同じものを見たときに、当時の人間と同じことを感じられるようになって、はじめて古典が読めるようになる。

逆に、文学作品を手がかりに、そこから当時の道徳観や感性が明らかになる場合もあろう。私の同期の卒論を読む限り、こちらが文学の初歩的なアプローチのように思える。
世の中の常識や社会構造、文化的背景は変化し得るものだが、そこにおかれた一個の人間が感じることというのは、どうやら古今東西、永続的で普遍的な性質があるものではなかろうか。しょせん人間である。正しい背景知識を持てば古典に登場する人物に共感を感じられるのは、人間の感性は今も昔もそう変化しないからであるように思える。愛するものを失えば慟哭し、新しい命が誕生すれば祝福する。成功するものがいたら妬み、全ての葛藤を乗り切り超越したところに誇りがある。そういった感情は、時代と世界を超えて人間に備わった性質ではあるまいか。

こう考えると、文学は「文楽」と表記するべきではなかろうか。音楽と同じく、「文を楽しむ」ための下地を整えることが、文学の第一義的な仕事ではあるまいか。そこには反証可能な言明も、証明可能な定理もない。「人間というものを理解する」のが人文科学の目的とすれば、そこにはおのずと歴史学との共通点も見えてくる。

私の見たところ、どうも文学を研究してる方々はあまり人間に興味がないようだ。
生身の人間よりも、作品に出てくる人間のほうに真の人間性を見出そうとする傾向があるような気がするのは、気のせいだろうか。