「微分」という概念が好きだ。

「線」という概念を定義できるだろうか?
数学的には、「線」は「点の集合」と定義される。
「直線」の定義は、「二点間の最短距離間にある点の集合」である。

そう。線とはもともと点の集まりなのだ。
離散的な点が無数に集まることによって、連続的な線が定義される。
点が線になるためには、点ひとつひとつの質ではなく、その結びつきが重要となる。
(4番バッターばかり8人そろえてもちっとも「打線」になってない某巨人を中傷してるわけではn(殴))

微分というのは、線のある一点だけを注目し、その点における変化率を導く操作だ。
つまり微分の操作では、もともと点の集合であった線が、再び点としての性質を取り戻すことになる。
微分でつまずく高校生諸君は、まず第一に「線とは何か」という基本的な定義をおろそかにしてはいないか。
そもそも微分という操作は何のために考え出されたものか。その心中を察することができれば微分の基本概念はもらったも同然だろう。

数学の世界が驚異なのは、関数さえ与えられれば、前後の情況なしに、一点のみで変化率が分かる点だ。
一般社会ではこうは行かない。
たとえば会社の営業成績、たとえば学生の模試成績。
ぐんぐん上っている上昇期かもしれないし、上下のピークにあたる極値点かもしれない。
しかし、ある時期を見て、その時点が上り調子にあるのか、下り調子にあるのかは、その点の前後を見なければ分からない。変化率なのだから当然だ。
しかし数学の世界では前後の状況など不要だ。関数と、任意の一点だけ与えられれば上昇中か下降中か極値か分かる。これは信じられない驚異だと思う。状況や文脈なしに変化率が分かるなど、「変化」の概念を打ち破って余りある。線という「変化」を、点という「固定値」のみで操ることこそ微分の醍醐味ではなかろうか。微分法を発見したとき、ニュートンは、この世を作り上げた神の意思を垣間見たのではあるまいか。

「ラプラスの悪魔」という概念がある。
もし人間が、一般変化率と、現状の様子すべてが手に入れれば、現在、過去、未来に至るまですべての状況が把握可能になる。ちょうど数学で、関数(一般変化率)と定義域(現状の様子)さえ手に入れれば、値域(すべての状況)が分かるのと同じだ。
実際には世の中の一般変化率を表す関数など作ることは不可能だし、現状の様子すべてをもれなく把握することも現実的に不可能なので、そういうことは起きない。しかし、もしその二つを手に入れることができる悪魔がいるとしたら、この世の中のことは時間、空間を問わずすべて予測されてしまうことになる。こういう概念は、時間を連続した概念と捉えるうちは理解できない。連続的な対象を、離散的な対象に引きおろす微分という概念があってはじめて成り立つ思考だろう。
こういう悪魔を想定したときに、人間は何かに憑りつかれているとしか思えない。
「未来を予測できるようになりたい」と願う人はいると思うが、「未来予測ができるためには何が必要なのか」を真剣に追求し切ってしまうところに数学の驚異がありはしないか。

日常生活で、自分の現状は上向きなのか、下向きなのか、はたまた最高点に達しているのか、どん底なのか、自問するときがある。
そんなときに、切実に「自分の人生を記す関数」が欲しい。
現時点さえ入力すれば、全人生の中での相対的な位置を示してくれる。
定義域は知りたくないが。いつ死ぬかわかると怖いから。

数学に、微分と、関数列の一様収束極限との計算順序の交換に関する、ある定理がある。
微分に関する定理であるのにも関わらず、その定理はずっと積分をつかって証明されていた。
高木貞治は、その定理を、微分だけを使って証明することに成功した。
論文の終わりに、高木先生はこう結んでいる。
「昔から言うでしょう、微分のことは微分でしろ、と」

最後に私が一番好きな小噺。

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ある科学者が、長年の苦心の研究の末、この世界の全てを説明可能な一般公式を発見した。
激しい雨が降りしきる夜、彼は震える指で、神そのものを表す式を書き記した。
突如、雷鳴が轟き、あたりに響き渡る厳かな声が聞こえた。
「よくぞ、お前は私を見つけた。次はお前が隠れる番だ。よし、1000億まで数えるからな…」

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高木先生、海外に発表されたときはどう訳されたんでしょうか。