人間とその他のものを分ける決定的な違いは何か。
いろんな人に訊く。そのひとの考え方の切り口が見えて面白い。
結構、気に入っている質問である。

サルトルの答えが気に入っている。
「人間は定義よりも実存が先立つ」。
最初、何を言っているのか分からなかった。今でもちゃんと分かっているのか怪しい。
以降、自分なりの解釈で…。

たとえばハサミ、たとえばペン。
ハサミは「ものを切る」、ペンは「字を書く」、そういう目的があってはじめてつくられたものである。
こういう「存在理由」にあたるものを、哲学では「定義」と呼ぶ。「本質」と訳されている場合もある。

人間はどうか。人間に定義はあるのだろうか。
これは、「人間は何故生まれてくるのか」という問いに等しい。
サルトルはここで「人間に定義はない」と喝破する。「人間は、定義よりも先に存在がある。人間が何のために存在するか、それはすでに存在した後で個々人が決めることだ」。
これが「人間は定義よりも実存が先立つ」という言葉の意味だろう。

なんのために己が存在するのか。
それを自分で決められる。
考えてみたら、これこそ人間しか持ち得ないプロパティではなかろうか。
教育現場でもよく引き合いに出される概念だ。「自分は何者か」を発見する手助けをするのが教育の真の役割だ、という見解には一理ある。

詳細は「実存主義とは何か」(Jean-Paul Sartre, 伊吹 武彦訳)に詳しい。
実存主義の大要がよくわからなかったが、この本でだいぶ分かったような気がする。
専門書でありながら、入門書になり得る哲学書というのは珍しい。
ちなみに、原著のほうがわかりやすい。私のつたないフランス語力をもってしても、非常にわかりやすかった。

サルトルは個人的に好きではない。
自分の思想と実生活が一致してないところなど、「口ばっかりじゃねぇか」という思いがある。
しかし、考えてみたら、思想と実生活が完全に一致しているなどというのは、自らの思想の奴隷になってはいまいか。真に自由な人間は、自らの主義主張からも自由になれるのではないか。世間の目も気にならない。
サルトルがノーベル文学賞を辞退した理由は「自由の尊重」だそうだ。ノーベル文学賞を受賞すると、周囲はそういう目で著作を見る。真に自由な視点で著作を評価されることがなくなる。
「―人は自由であるように宣告されている」( l'homme est condamné à être libre)と言い放った哲学者にふさわしい価値観だ。「自由の鎖」という概念は、とっつきとしてカッコよく響くため、昭和中期の学生運動に大きな影響を及ぼした。彼らは本当にサルトルをちゃんと読み、考えていたのだろうか。
現代の大学生は、その大半がサルトルなど読んではいまい。しかし、まったく読まないのは、半端に読んでのぼせあがるよりもましではないか。

サルトルは思想の内容以前に、キャッチコピーで若者を惹きつける術を心得ていた。批判力のない若者が踊らされていたのは、日本現代史の恥部だろう。
全共闘世代はいまや中年だ。「最近の若者は流行に踊らされる」という批判は聞き飽きるほどよく聞く。
しかし、「最近の若者」にとって、全共闘世代の流行に対する踊りっぷりにこそ呆れて声も出ない。
思想の上っ面に溺れ、死者を出し、真摯に学ぶ姿勢のある学生の勉強の機会を奪っておいて、何のための思想か。

結局、批判力はすべての思考活動の根幹を成すんだろう。

2004年にふさわしく、「猿トル」の話題から。
おそまつさま。