学部生のときに勉強していて、「誰々の研究」と、名前だけしか知らない論文が結構あった。
名前は知っているが、読んだことはない。そういうエラそうな学者さまの研究は、学部生にはとてつもなく高尚ですばらしいものに思えたものだ。

長く勉強しているうちに、名前を知ってるだけでは済まなくなり、実際にそういう論文を読むハメになってきた。
ところがどうだろう。実際に細かく論文を読んでみると、「なーんだ」という程度のアイデアであることが結構あるではないか。中にはつまらないと感じるものすらある。
「勉強」と違い、「研究」は、今までに誰も言っていないことを自ら言う必要がある。先行研究を積み上げてきたエラい研究者さま方にビビっていては、問題点の指摘も反論もへったくれもない。

相手の手の内が見えると、なんとなく相手になりそうな気がするものだ。
逆に相手が何者かが分からないと、不気味な感じがする。
孫子によると「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」だそうだが、これは実質的な可能性を言ってるものではなく、多分に精神的な効用が含まれてないだろうか。
一晩、楽しく飲むことを目的とする合コンでも、気に入った相手の経歴、学歴、家族構成などを聞きたくなるのも同じ理由なんだろう。これらは本来、知る必要のない情報だが、知ると知らないのとでは親近感がまったく違うのだろう。

世阿弥は『風姿花伝』の中で、「秘すれば花なり、秘さずば花なるべからずとなり」と言っている。奥義とは、隠すこと自体に価値があるのであり、人に知られてはならない。
昔、武道の世界では、一門の奥義は門外不出の最高機密だったのではあるまいか。大事なのは、そういう奥義が「存在する」ということは人に知られる必要がある、ということだ。他流試合のとき、相手が「正体はまったく分からんが、相手には一撃必殺の奥義があるらしい」という状態で臨んでくれれば勝ったも同然だ。相手が分からない、というのは、かように不安のもとになるものだ。

「秘することの重要性」という大事なことを、全く秘していない世阿弥はずいぶんユーモアのある奴だ。
600年後の現在に至るまで広く知られて、何が「秘すれば花」か