アンデルセンの「裸の王様」。有名な寓話なので読んだことがある方が多いだろう。

インチキ洋服屋が、王様に洋服を献上するフリをして、「この洋服は愚か者には見えないのです」などと抜かす。王と家臣は愚か者と思われないために、服が見えるフリをする。王はパレードを行う際に、その服を着ることにする。観衆も事情を知っており、みな服が見えるフリをする。そこで一人の子供が「王様は裸だ!」と叫ぶ。王を含め、居並ぶ大人はリアクションに困る、という話だ。

この寓話から、大部分の読者は教訓を読み取るだろう。すなわち、「見えもしないものを、見えるフリをするな」とでもいうべき教訓である。

ん?

アンデルセンの原作を読んでみると、「…このように、見えないものを見えるフリしてはいけませんね。皆さん気をつけましょう」などという地の文はまったくない。アンデルセンは教訓をはっきりと書いているわけではないのだ。

つまり、我々は、「見えもしないもの見えるフリするな」という教訓を、「見えもしないのに勝手に見えるフリをしている」ことになる。
この寓話ははたして教訓話なんだろうか。

文学理論の方法論のひとつに、脱構築というものがある。簡単に説明すると、

1与えられたシステムを形式化し、
2そこに自己言及的な決定不能性を見いだし、
3そのポイントを超越論化することでシステム全体の構造を逆説的に説明する

というステップを辿る。簡単すぎてかえって分からないが、つまり物語からAとBという二つの対立する要素を抜き出し、どっちかの勝ち、という優劣をつけたあとで、矛盾をみつけ、「そういうお前はどうなんだ」というツッコミを入れる、とでも思うとよい。

気をつけなければならないのは、最後のツッコミは、物語の外の視点から行う必要があることだ。3.の「ポイントを超越論化する」というのはそういうことを言っている。

「裸の王様」の場合、
王様・家臣・観衆など「場のノリに合わせて見えるフリにノる」のがA、
子供のように「見たまんま正直に言う」のがB、
と分けられる。物語の意図は、明らかに「Bの勝ち」であろう。ところが、この物語自体が寓話として教訓を含んでいるとしたら、この本はBの「見たまんま主義」を重視しておきながら、物語自体は「見たまんま」解釈されることを拒んでいる。つまりテキストとして書いていない教訓を読み取ってもらわないと困るのである。
つまり読者は、「見たまんま主義」を標榜する物語そのものに対し、「そういうお前はどうなんだ」というツッコミを入れることができる。

このように、脱構築の観点によると、自ら肯定している読解を否定するような高次の盲点が存在することを暴くことができる。

小さい子供にこの物語を読んで聞かせたあと、「こういうふうにね、見えないものはちゃんと見えないって言わないといけないのよ」とでも言ってみると面白い。即座に「でもそんなことどこにも書いてないから見えないよ」などというガキは、理屈を並べてまったく勉強しないガキか、理屈を並べすぎて30歳過ぎても勉強をやめようとしないガキか、どっちかだと思われる。

オレのことじゃないぞ。