専門学校で非常勤をしていた頃、最近の中学高校の英語の教科書を見る機会があった。
特に中学の教科書に驚いた。文法事項の説明が一切無い。しかも、私が中学のころの英語の教科書は、いわゆる「本文」というのがずらっと書いてあったものだが、最近の教科書はすべて登場人物の絵に吹き出しがついていて、セリフ調で英文が書いてある。まるでマンガだ。

前回、「学校教育の現場に理論言語学の知見は無意味だ」という趣旨のことを書いたら、反響のメールが来て驚いた。まだページを作ったばかりで、カテゴリーにも登録されてないというのに、結構こんなページを見ているヒマな方がいらっしゃるものだ。
メールは高校の現職を退いて、私立高校で嘱託講師をされている年配の女性だった。初学の段階で文法中心に英語を学ぶことの重要性をこんこんと説かれている。「文法をより効果的に教えようと、今までにない知見を用いようとする件の女性の姿勢はすばらしいものだと思います」とあった。

何か誤解があるようだ。
私は、高校の英語の授業で文法が一切無用だとは言っていない。語学を学ぶ上で、文法知識はどのみち必要だ。そんなことは、あたりまえだ。問題は、文法をどういうタイミングで、どのように教えるか、そこに学問的な知見は有用なのか、である。

そもそも、日本での英語教育は何を目的に始まったのか。
簡単に言うと、「欧米の技術を盗むため」である。明治政府は、日本が欧米に比し格段に学問、技術力で劣ることを素直に認めていた。欧米の技術を盗むには向こうの書物を読めないことには話にならない。よって読解中心の英語教育が行われた。聞く、話すは後回し、とにかく書物に書いてあることを吸収する能力の育成が先決だった。今となっては笑い話だが、当初は英語を、漢文のごとく返り点を打って日本語で読み下すという案もあったそうだ。いかに音声教育が軽視されていたかを物語る。

良かれ悪しかれ、日本の英語教育はこのように「読み中心」で行われていた。こういう旧態依然の方法をここでは便宜上、「文法偏重読解系」と呼ぶことにしよう。また、明治政府が軽視していた音声に基づく会話能力を育成する方法を「音声重視系」と呼ぶことにしよう。「文法偏重読解系」の教育方針においては、とにかく書面の英語に書いてある意味さえ分かれば目的は達成されたことになる。その教育方針では、文法というのは謎の文章を解き明かすことができる魔法の鍵だった。一種の奥義と言える。数多くの文法奥義に通じている者が、数多くの文献を読むことができる。当然、文法が一種の技術となり、「それさえ修めれば英語に通じることができる」という幻想をもたらした。日本の英語教育は、このような事情を土台として一世紀もの間進展してきたのだ。

ところが時代は変わった。日本が欧米を一方的に追随する関係は終焉し、英語で書かれた文献を読み、書かれていることを理解して満足している段階は終わった。日本は自国でもたらされた成果を世界に発信するべき立場になった。対等のレベルで欧米諸国と技術共同開発を行い、成果を競い合う時代だ。がむしゃらに頑張った挙句、気がついたら日本は経済、国際関係、技術、すべてにおいて発信すべき側に回ってたのだ。ここで問題なのは、時代と立場が変わり、するべきことが変わっても、英語教育の基本方針は変わっていなかったということだ。「文法偏重読解系」の英語教育しか受けていない者は、下の世代にもその教育しか施すことができない。日本の英語教育は時代に対応していなかったのだ。

文部科学省は、遅ればせながらそのことに気がついた。平成11年の学指導要領改正で、「外国語」の項目を見ると、やたらと「コミュニケーション」という言葉が強調されていることに気がつく。ここにきて「音声重視系」式の教育の必要性が叫ばれるようになった。しかし問題は、高校の現場において「文法偏重読解系」の教育しか受けていない中高年の英語教師が、英語を話せないことだ。ここでいう「英語が話せる」というのは、日常会話や質問ができるレベルのことをいうのではない。自分の考えを伝えるために英語で議論や喧嘩ができるようになってはじめて「英語が話せる」と言うのだ。当然、教える側ができないのに、教わる側ができるようになるはずはない。かくして文部科学省の指導のもとで作られた「オーラルコミュニケーション」という授業は、その名を冠した文法の授業と成り果てる。教師が「音声重視系」で英語を教育するノウハウを持っていないからだ。

文部科学省の意図する「コミュニケーション能力に基づく英語力」をつけるには、音声を用いることが不可欠だ。言語というのは、脳の中で記憶を司る部分とは独立した「ことば専門の領域」に蓄積されるとされている。だから記憶喪失になった者でも母国語は忘れない。この部分は、音を聞き音を発することによって活性化される。英会話に習熟するためには、とにかく聞いて聞いて聞きまくり、喋って喋って喋り倒すことが必要である。文法はとりあえず無視する。とにかく喋って表現をかたっぱしから口に覚えさせる。

ある程度、頭の中に表現を詰め込んだ後で文法を説明されると、理解がもの凄くクリアになる。今までがむしゃらに暗記するだけだった外国語に、「文法という秩序」が与えられることで、頭の中で知識が体系化される。霧が晴れるように鮮明な全体像が見える。気をつけなければならないのは、教える順序を逆にすると学習意欲を奪うことだ。英語はまだ文法が溶けているからよい。たとえば外国語でロシア語を学ぶとする。ロシア語は寒いだけあって昔のラテン語の特徴が冷凍保存され、えらく複雑怪奇な文法を擁する。そのロシア語を学ぶときに、ぶ厚い文法書を渡され、「これをマスターしてから音声に入る」などと言われたら、第一章「格変化」の男性名詞三人称単数あたりで挫折する。文法は、ある程度の量の表現に慣れ親しんだ後でないとその効果を発揮しないものだ。

その点では、初学の中学一年生の段階から文法事項を削除した文部科学省の方針は妥当と言える。しかし、私の印象では、表現を詰め込むにしてはすこし英文の量が少ないと感じた。ためしに全文暗記をしてみたら、5日で教科書一冊が暗記できた。20代中盤(文句あるか怒)の私にしてこの容易さだ。12歳の柔軟な脳ではもっと容易に違いない。

件のメールを送ってきた女性は、「まず文法ありき」の授業で生徒がちゃんとついてきている自信があるんだろうか。いやそれよりも、彼女が英語以外の言語を勉強しようとするとき、まず何をおいても文法を完璧にマスターする自信があるのだろうか。
いや、高校を定年なさる世代でもWebでblogサーフィンなどなさるくらいだから、結構、柔軟に対応できたりするのかな。