たくろふのつぶやき

食欲の秋の季節がやってまいりました!o(^▽^)o

折田先生像 2016

折田先生像2016



今年はカービィで登場 京大名物の「折田先生像」
(2016年2月26日 朝日新聞)

国公立大の2次試験初日の25日朝、京都大の構内に、人気ゲームソフト「星のカービィ」の主人公、カービィのハリボテ像がお目見えした。

20年ほど前まで、京大の前身、旧制三高の校長・折田彦市の胸像があった。いたずらが続いたため撤去された後、毎年この時期にハリボテ像が登場する。

カービィの得意技は敵の能力をコピーすること。大学で論文などのコピー・アンド・ペースト(引き写し)が横行していることを風刺したいようだ。



kanban2016



縁起物ですので

民主・維新が合併合意

民・維合流へ 穏健な改革勢力目指せ
(2016年02月24日 毎日新聞社説)
公政権との対立軸がみえる野党結集を
(2016年02月24日 日本経済新聞社説)
民主と維新 政策なき合流に新味なし
(2016年02月24日 産経新聞社説)
野党勢力結集 「安倍政治」の対抗軸を
(2016年02月24日 東京新聞社説)
民・維合流へ 「反安倍」超える価値を
(2016年02月25日 朝日新聞社説)



このまま夏の参議院選になだれ込むのかなーと思っていたら、その前に大きな動きがあった。
第一野党の民主党と、維新の党が合流することで基本的に合意。ともに「今のままでは参議院選を戦えない」という、苦肉の策だろう。

両党の合併話は去年の12月あたりから噂されていたが、具体的な方法や施策などについてはまったく提示されておらず、単なる「おはなし」の域を出なかった。それがこの時期に話が具体化したということは、この合併話は政党の指針に端を発する根源的なものではなく、単に参議院選から逆算した時期的な事情だろう。「やばいやばい選挙に勝てない」という事情から、弱いもの同士がとりあえず集まった感がある。


新党名「民主」残るか…「誇りある」「一新を」
(読売新聞 2月24日(水))
民主、維新両党の合流では、新党名に「民主」の名称が残るかどうかが最大の焦点となりそうだ。 民主党の野田前首相らは、党名に「誇りがある」として大幅な変更には否定的だ。名称の存続にこだわる議員の間では「立憲民主党」や「新民主党」などが新党名として取りざたされている。


そんなに誇りがあるなら合併なんかするなよ、と思うのだが、こういう後ろ向きの発言が出てくることからも、民主党としても「したくてするわけじゃない」ということなのだろう。
参議院選を夏に控えて、マスコミとしてはこの合併をどのように捉えているのだろうか。

今の自民党政権は、マスコミにしてみれば、いわば「記事が書きやすい」政権だろう。経済と外交で方向性が突出して顕著であり、異論と反論がわきあがる微妙な問題にビシバシ切り込んでいる。それを矢継ぎ早に実行しているということは、それだけ政権運用能力が高いということの証左でもあるわけだが、その施策が正しいかどうかの議論が放っとかれたまま暴走している面もある。左派のマスコミからしてみれば、それを批判して、政権に対するネガティブキャンペーンを張るのは簡単だ。いまの安倍政権であれば、どんな無能な記者でも批判記事が書ける。

その姿勢が高じると、「政策の妥当性は置いといて、とにかく安倍政権は倒さなければならないのだ」という、反政権ありきの記事が乱発する。そういう記事には例外なく、代案となる施策の提言がない。僕は現在の民主党政権には政権担当能力がないと見ているが、その大きな理由は自民党政権への批判ばかりで、それに続くべき妥当な代案が全くないからだ。勢いだけで政権を奪取し、その施策内容が空虚だった失態をすでに一度犯している。その頃から、施策能力という点で進歩しているようには見えない。安倍政権はいずれ倒さなければならない政権なのかもしれないが、その担い手はこいつらじゃない、という気がしてならない。

今回の合併を評価する際にも、そのポイントが最も重要な焦点だろう。有権者としては、この合併をどう評価するかで、参議院選で投票する相手が決まってくる。だから厳正な目でこの動きを評価する必要がある。 その際、焦点となるのは「この合併政権には、はたして政権運用能力があるのか否か」の一点だろう。
選挙というのは、それに勝つこと自体が目的なのではなく、その先にある政権を担当する資質を有権者に示すのが本来の目的だ。だから今回の合併話を評価する際には、焦点を「選挙」に絞りすぎず、「政権担当能力」の有無を冷静に判断する必要がある。

だから今回の社説の中でも、「選挙」「選挙」と連呼し、とりあえず打倒安倍政権だけを叫んでいる社説は、下の下と評してよい。「合併したところで、ちゃんと施策能力はあるのか?」と、選挙の先を見据えて問題提起をしている社説が「合格」だろう。


その基準で採点すると、合格は日経、産経、朝日。
不合格は毎日、東京。


毎日新聞は、分からないように工夫して書いているが、要するに選挙のことしか言っていない。現在の安倍内閣は歴代の自民党政権のなかでも突出して右傾化が進んでおり、もともと党内に共存できた左派系の議員の居場所がなくなっている。良く言えば政党としての基本指針が堅固になっているということだが、悪く言えば懐が浅く、多様性を認めず狭い人材で固まっている。
毎日新聞が言っているのは「今回の合併は、そういう自民党内で浮いた人材を吸収するために絶好」ということだ。なんのために絶好かといえば、「夏の参議院選を勝つために」である。その先にある政権運用能力など、毎日新聞は知ったこっちゃない。党の再編によって人材があーだこーだ言っているが、記事の目線が近く、日本のあるべき方向をきちんと見ている社説とは言い難い。ヨーロッパのサッカーリーグじゃあるまいし、有権者はどの議員がどの政党に移っただの、どのチームとどのチームが合併しただのという話には興味がない。

いちばんひどいのは東京新聞だ。これは社説と呼べるものではなく、読者を煽動するためのシュプレヒコールに過ぎない。安倍政権打倒のみを焦点とし、それに合致する動きである今回の合併を大絶賛だ。東京新聞の社説を要約すると、「安倍政権の支持率なんてものは、『他に誰もいない』程度の支持層が多いんだから、だいじょうぶ倒せる倒せる。野党は参議院選がんばれ」だ。妥当性を検証してから意見を述べるのではなく、先に意見ありきで現実をそれにあてはまるように押し込める、煽動記事の最たるものと言える。

左派系の新聞のなかで、東京新聞と真逆の書き方をしているのが朝日新聞。
朝日は、東京新聞のようなお気楽なお花畑とは違い、今回の合併を「そうでもしなければ参院選を勝てない」ゆえの苦渋の選択、と見ている。その上で、「その程度の目くらましでは、安倍政権は簡単には倒せないからな」と冷静に釘を刺している

ただし、衆院で100人近い勢力となる民・維の「新党」は、「反安倍」の一点にとどまっているわけにはいかない。民主党には異論があるだろうが、安倍首相は政権に返り咲いてから、経済再生の取り組みに一定の評価を得てきた。また、安保関連法成立後は、「同一労働同一賃金」など民主党のお株を奪うような政策を打ち出している。少子高齢化や財政難といった厳しい条件を考えると、取りうる政策の幅はそう広くない。そのなかで、安倍政権への政策的な対立軸を打ち出すのは容易ではない。それでも、これからの日本がめざすべき社会の姿や共有すべき価値観は何なのか。はっきりと国民に示せなければ、政権交代の選択肢にはなり得ない
(朝日社説)


今回の合併話で言うべきことは、これが全てではないか。
野党が合併したところで、票の上では与党に迫ることはできるかもしれないが、そういう寄せ集め集団に政権を担わせたらどういうことになるか、もう日本国民はいやというほど経験している。今回の合併でいう「党派同士の擦り合わせ」というのは、別に新党名に民主の名前を残すかどうかなどということではなく、安倍政権以上に説得力のある施策の基本方針を早期に打ち出すことだろう。それがなくては、参議院選で夢と希望を語るだけの、根拠のない大ほら吹きになるだけだ。

毎回の社説できっちり平均点を越える日経は、今回もポイントをはずしていない。ただでさえ党内の意見調整が難しい民主党に維新が合流すれば、いままで以上に党としての基本政策が問われることになる。有権者の目線で今回の合併をきっちり見ているといえる。

重要なのはそうした手続きではなく、政策の一致である。「政権交代」しか訴えるものがなかった民主党政権が内紛続きで自滅したことは記憶に新しい。日本経済をどう再生させるのかをはじめ、憲法や外交・安全保障など基本政策でずれを抱えたままで二大政党の一翼を担うことはできない。 民主党はもともと党内にさまざまな考えの議員がいる。そこに維新が加わるのだから、よほどしっかり方向性を定めないと、「一皮むけば野合」(自民党の谷垣禎一幹事長)との批判をはね返せまい。今後の合流協議は政策重視で進めてほしい。
(日経社説)

過去の野党共闘は政策の食い違いを与党に突かれ、最後は足の引っ張り合いで終わることが多かった。与党内に衆参同日選の待望論があるのは、野党の選挙協力は参院選ではできても、選挙区の数が多い衆院選ではできないとたかをくくっているからだ。 将来の政界再編の芽か、単なる選挙互助会か。有権者がみているのはそこである。
(同)


保守系の産経新聞の書き方は手厳しい。維新には、民主党を離党した議員も含まれている。それがまた合併したということは、政策理念に矛盾はないのか、とチクリと刺している。

昨年からくすぶってきた合流構想が一気に進んだのは、今夏の参院選が近づき、野党がばらばらの状態を解消したいからだろう。安全保障関連法の廃止法案を共同提出した直後でもある。 だが、いくら手続き論を先行させても、自分たちならこの国のかじ取りをどうしたいという肝心の点が分からない。青写真を示そうともしない点は首をかしげる。

維新には民主党出身の議員もいる。松野氏は鳩山由紀夫政権下で官房副長官を務めたが、野田佳彦政権下で社会保障・税一体改革関連法に反対した。 党を除名され、旧維新の結成に動いたが、その後、政策的判断がどう変わったのか。受け入れる民主党も、一体改革について今後、どのような姿勢をとるのか。

両党は昨年12月、統一会派の結成に向け「基本的政策」で合意した。だが、憲法や行財政改革など違いの大きい課題は玉虫色の表現で済ませた。 重要な政策のすり合わせを棚上げして、巨大与党との論戦を展開していくことなどできない。 目指す政治理念の実現に向けて離合集散を重ねることは、否定されるものではない。だが国費をもらいながら政党を作っては壊し、結局はもとのさやに収まる。 ほとぼりが冷めたから、では国民への説明にならない。自民党から「政党として未成熟」と酷評されるのも無理はないだろう。
(産経社説)


相手の矛盾を指摘するのは、議論の際の基本的な技術だ。今回のトピックではあまりそういう議論のしかたに意味はないが、合併話が本質的な必要性から生じたものではなく、選挙のための小手先の方策だということを批判する役には立つだろう。

民主党は国政選挙の前になると、やれタレント議員を擁立するだの、やれ合併改名だの、こざかしい印象操作で選挙戦を勝ち抜こうという姑息な手段が目立つ。今回の合併がその延長上にあるものなのかどうか、有権者としては冷静に見極める必要がある。



選挙権をもらう18、19歳はちゃんとこういう記事読んで批判してんのか。
続きを読む

直角三角形への斜辺のへの中線は

講談社ブルーバックスからちょっと面白い本が出てましてね。


x教授殺害

『数学ミステリー X教授を殺したのはだれだ!』
(トドリス・アンドリオプロス、タナシス・グキオカス著) 


殺人事件の捜査に見立てたミステリー仕立てで、手がかりがすべて数学の問題で与えられている、という本です。 数学もこうやって導入すると面白いですね。マンガだから子供にも読みやすそう。

犠牲者として殺される被害者役は、ヒルベルト。動機もそれらしく史実を本歌取りして拵えています。
ちなみに、探偵役はクルト・ゲーデル。彼が探偵役という段階ですでにオチは見えているような気がします。だってどうせ不完全性定理からのアレでしょ。
まぁ、それはさておき。

登場する「容疑者」は、デカルト、フェルマー、ニュートン、ライプニッツ、オイラー、ガウス、リーマンなど、みんな歴代の錚々たる数学者。時代考証もへったくれもありません。彼らが身の潔白を主張するための根拠がみんな数学の問題になっており、それを解くことによって犯人か否かを判断するパズルです。
問題とは別に、それぞれの数学者の個人的なエピソードなどをちょろっと挟んで紹介しているあたり、数学への興味関心をかきたてる工夫がしてあります。

数学の問題そのものは、まぁ、中学程度の数学知識があれば解けるものですが、ちょっとひと工夫必要な問題もあって、なかなかの良問が揃っています。単純にパズルとして楽しめる本といえましょう。

その問題の中に、こんなのがありました。


フェルマー

容疑者はピエール・フェルマーね。 


設定として、犯行現場はM地点です。
つまり、逃走経路としてM-O-Lか、M-K-Lの折れ線の距離を求める問題です。この距離が20以上であれば、ピエールは犯人ではありえない、という設定です。

実はこれ、僕は解けませんでした。中学程度の幾何に遅れをとるとは何たる不覚。
答えを見てみたら、解説にこうありました。

あらゆる直角三角形において、斜辺にひいた中線の長さは、斜辺の長さの2分の1である。



・・・そんな定理、あったか?



(つまり、MOの長さは、KOとOJと同じ。)




トドちゃんと数学




外接円の半径

自明。 



嫁さんは、僕が解けなかった数学の問題をあっさり解けたことがよほど嬉しかったらしく、この後このシーンを何度か再現させられました。



私立文系のこの数学への劣等感は何なんだ。

スーパーゴール




物理的におかしい。

トドちゃん日記07

トド7




気がつけば1月が終わろうとしておりますな

トドちゃん日記06

tododiary06




ことしもよろしく。

トドちゃん日記05

とど日記05




だってハンズはほら。

トドちゃん日記04

tododiary04




鋭意予定消化中。

トドちゃん日記3

トド日記03




無印良品の4コマメモであります。

Sports Graphic 「Number」の取材力

sally

ラグビーW杯2015イングランド大会 予選プールB 南アフリカ対日本戦
日本のジャージを来て「Come on, Japan!!」と応援する姿が国際映像に抜かれたイギリス人女性





number

Sports Graphic 「Number」12月17日号
「特集 日本ラグビー新世紀」内の記事。




よく特定できたな。

完了の助動詞

なぜ古典文法の過去には、「き」「けり」のふたつの助動詞があるのか。


教科書的には、「き」は直接体験過去、「けり」は伝聞過去、ということになっているらしい。
「昔、男ありき」と言ったら、「昔、男がいた(そして私はそいつのことを知っている)」という意味で、「昔、男ありけり」と言ったら、「昔、男がいたそうだ(直接は知らんが)」という伝聞の意味になる。
『竹取物語』の出だしは「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり」。これは「そういう爺さんがいたそうだ」という伝聞の意味になる。また『伊勢物語』ではほとんどの話が「むかし男ありけり」で始まっているが、これは直接体験ではなく伝聞の集成という体裁をとっているためだ。

「き」と「けり」の違いは、それだけではない。おおむね「けり」のほうが、余計な意味がついている。
古典の教科書には、「けり」は非体験過去だけでなく、やれ「伝来」だの「詠嘆」だの、プラスアルファの意味がついている。どうして「けり」だけ、こんな余計な意味がついているのか。

神代より 言い継ぎけらく 父母を 見れば貴く 妻子見れば かなしくめぐし うつせみの 世の理と かくさまに 言いけるものを ・・・
(万葉集 巻18 4106)


大意としては「神の時代から言い伝えられてきていることには、『父母を見ると尊く思われ、妻子を見ると切なく愛しく思われる。これが世の道理である』と、このように言い伝えられてきているのに・・・」くらいの意味だ。
ここで「けり」が、両方とも「・・・されてきている」と訳されている。これは単なる過去形ではなく、ヨーロッパ諸語で言うところの完了形に近い。これを古典文法や国文法では「伝来」と呼んでいる。

物思ふと 隠らひ居りて 今日見れば 春日の山は 色づきにけり
(万葉集 巻9 2199)


この「けり」は、俗に「詠嘆」と呼ばれている用法だ。「物思いをしてじっと引きこもっていて、今日見たら、春日山は紅葉で色づいていることだなぁ」などと訳す。
高校で古典文法を習うときには、過去の「けり」なのだから、「色づいていたそうだ」と訳したくなる。どういう時に過去で訳し、どういう時に詠嘆で訳すのか、一貫した説明を受けた覚えがない。

受験テクニック的には、「和歌の終わりに出てきたら詠嘆で訳せ」のように教えるらしい。しかし、それはたまたま和歌が内容的に詠嘆が多いというだけの十分性であり、必要性ではないだろう。もし和歌ではない普通の文で詠嘆の「けり」を使いたい場合、内容に齟齬は生じないのだろうか。

古語辞典を調べてみると、助動詞の「けり」と並んで、自動詞としての「けり(来り)」というのが載っている。これはカ変動詞「く(来)」の連用形「き」と、ラ変動詞「あり」の複合動詞「きあり」が縮まったものらしい。意味としては「来ている・やって来た」ほどの意味を表す。

この、「やって来た」という意味が、完了形の「いままでずっと・・・という状態だった」という意味に重なる。こういう、意味的にも音声的にも重なっている語彙がある場合、その大元は同一のものではないかと疑うのは自然だろう。
動詞「来り」の用例を調べると、万葉集の例文しか載っていない。「玉梓の 使ひのければ嬉しみと」(万葉集 3957)というのは、「都から使者がやって来たので、うれしくて」というほどの意味だ。ここでは「やって来る」というのは、空間概念の移動を表している。

空間概念と時間概念の語彙が「絡まる」のは、世界中の言語でよく見られる現象だ。「長い・短い」というのは時間にも距離にも使われる形容詞だし、「流れる」という移動動詞は時間の推移についても使われる。一種の比喩なのだろうが、時間と空間の語彙は、相互に干渉し合う関係にある。

すると、空間移動を表す「来り」が、時間概念としての完了形に転化したとしても不思議はない。勘では、その「転移」が起きたのは、奈良時代後期から平安時代にかけてのことだろう。平安以降に書かれた文章では、もともとの意味で「来り」が使われている文献が残っていない。

動詞のような内容語と、助動詞のような機能語では、内容語のほうが派生が早いだろう。すると、助動詞の「けり」は、もともと動詞の「来り」から分化して発生したと考えるほうが自然だ。
そして、その完了形としての意味だけが遊離して助動詞として語彙化されたとしたら、「けり」は過去という時制を表すのではなく、アスペクトを表す語彙だと思う。

よく混同されがちだが、「テンス(時制)」と「アスペクト(相)」は異なる。テンス(時制)というのは、語彙の形態変化として表出される時間概念のことだ。英語では、過去は形態的に-edで活用するので時制だが、未来は助動詞willを使い、動詞そのものが変化するわけではないので時制ではない。
一般的に、動詞の活用として「未来形」をもつ言語は非常に少ない。ラテン語は未来形をもつ数少ない言語なので、ラテン語から派生したロマンス系諸語はもともと未来形をもっていた。しかし現在ではそのほとんどが失われている。ゲルマン系言語はそもそも未来系がなく、ドイツ語も未来を表すときには助動詞werdenを使う。英語もゲルマン系言語なので、助動詞を使うという点では同じだ。

一方、アスペクトというのは、動詞の意味に含まれる時間幅のことだ。動詞によって、瞬間動作を表したり、継続動作や状態を表したり、その意味の「時間幅」は異なる。その差異は、助動詞などの付加的な語彙によって変更されることがある。
わかりやすいアスペクトは、進行形と完了形だろう。「走る」という継続動作は、助動詞をつけると「走っている」という進行形になったり、「走っていた」という完了形になったりする。

そう考えると、「来り」から派生した「けり」は、時制ではなくアスペクトであると考えた方がいいと思う。ある動作が、ずっと継続されて現在まで「伝わって来た」というニュアンスだろう。

鶏が鳴く 東の国に 古に ありけることと 今までに 絶えず言ひける
(万葉集 巻9 1807)


「鶏が鳴く」というのは、「東」にかかる枕詞。「それくらいわけのわからない国」というくらいの意味だ。昔の京都の感覚だと、東というのはそういう未開の土地なのだろう。「東国で昔あったことだと、現在まで途絶えずに言い伝えている」という意味になる。ここで、「言い伝えられている」というのが、伝わっている感を表すアスペクトになっている。

僕の勘だが、この「時間的に伝わってきている」というのが、空間概念にも影響しているのではあるまいか。つまり「伝聞」の意味は、ここかに由来しているのだと思う。「空間的に伝わってきている」→「人から伝えられている」→「〜だったそうだ」という伝聞過去の意味になったのではないか。

アスペクトを考えるときに大事なのは、境界線だ。動詞で表される行動やイベントが、どこから始まり、どこで終わるのか、という時間の境界線が重要になる。動詞によっては、その境界線をもたない動詞もある。
もし助動詞の「けり」が、複合動詞の「きあり」から派生したのだとしたら、アスペクトの重点は、「終点の境界線」にあるはずだ。なにせ「来た結果、ここに在る」という意味なのだから、結果状態に力点が置かれるだろう。

すると、「その結果、いまこういうことになっている」という状況認識の意味が加わるのではないか。状況の認識という意味が加わることによって、「そのことに今気づいた」という発見の意味になる。
俗に助動詞「けり」の詠嘆用法と呼ばれているものの正体は、この「発見」の意味にあるのではないか。「詠嘆」というのは結果論であって、より重要な意味は、その前段階の「そうだったのか、今気づいた」という「発見」のほうにあると思う。

先ほど引用した万葉集の「物思ふと 隠らひ居りて 今日見れば 春日の山は 色づきにけり」という歌は、「春日山は紅葉で色づいていたことだなぁ」ではなく、意味の重点は「紅葉で色づいているのか。いま気がついた」といったところではあるまいか。
そう考えると、助動詞の「けり」の意味は、「詠嘆」ではなく、「発見」とでもしたほうが、より正確な訳につながると思う。

この「過去から引っ張って来た状態から変化して、新しいことを発見する」という観点は、現代語にもその残滓がある。
よく物をなくして探し物をして、見つかったときに「あ、あった」などと言う。なぜここで過去形を使うのか。今その瞬間に「ある」のだから、文法的には「あ、ある」と言うのが適切なはずだ。

「あ、あった」と過去形を使う理由は、助動詞の「けり」が発見=詠嘆の意味をもつのと同じ理由だと思う。「いままで見つからなかった」という状態が、見つけたことによって変化し、「ある」という状態に変化する。そのときの「状態完了」が「発見」に転じた用法だろう。日本語には完了形がないが、この「あ、あった」というときの助動詞「た」は、過去というよりも完了形に近い意味をもつ用法だろう。「あった」を時制の「過去形」と考えれば謎になるが、もしこれがアスペクトの完了形と考えれば、「けり」が発見=詠嘆の意味をもつのと同じ理由と考えることができる。


もし、助動詞の「けり」が、動詞の「き+あり」から派生したのだとしたら、もうひとつ疑問がある。結果状態動詞の「あり」は、「来」以外の動詞と複合することはなかったのだろうか。

古文の教科書の助動詞活用表を見ると、ひとつ異様な接続をする助動詞がある。完了の「り」だ。
完了の助動詞は「つ」「ぬ」「たり」「り」の四つがある。「つ」「ぬ」「たり」の三つは、大雑把にすべての活用語の連用形につく。しかし「り」だけは特殊で、「サ変の未然形、四段の已然形」にくっつく、という特殊な接続をする。巷の高校生は、サー未、四ー已という語呂合わせで「さみしい『り』かちゃん」などと覚えるそうだ。

なぜ「り」だけがこんな面倒な接続をするのか。
この「り」は、「けり」と同じで、複合動詞の一部「あり」が縮まったものではないか。例えば四段活用接続の「咲けり」は、もともと「咲く+あり」で、これが縮まったのではないか。サ変接続の「せり」は、もともと「し+あり」だったのではないか。そして、もともとは動詞「あり」の一部であったものが、単独で遊離して「り」だけが助動詞として独立したと考えれば、説明がつく。

つまり、完了の助動詞は、「つ」「ぬ」「たり」の3つと、「り」は、出自が違う。「つ」「ぬ」「たり」は純粋な助動詞だったものだが、「り」だけは、もともと状態動詞「あり」の一部だったのではないか。
助動詞「けり」が「来+あり」由来だと考えれば、そのような変化が、動詞「来」だけに生じたと考えるのは、むしろ不自然だ。そういう複合は、他の動詞にも生じたと考えたほうがよい。そう考えると、「あり」が複合動詞としてくっついてから、助動詞として遊離した例として「り」を捉えると、サ変未然形・四段已然形という例外的な接続をすることの説明がつく。


これは単に僕が勝手に思っているだけのことだし、推測の域は出ない。この仮説を実証しようとしたら、実際に文献を調べてその妥当性を検証する作業が必要だ。しかし、仮説は別に真理の探求のためだけにあるのではない。こう考えれば、機械作業として覚えていた暗記の必要がなくなるのだ。古典文法なんて暗記教科の最たるものだと考えている高校生が多いだろうが、暗記というのは、もともと「思考」と「理解」を放棄した者の、罰だと思う。そんな頭の使い方はそりゃ面白くないだろうし、苦痛ですらあるだろう。しかし、自分の頭を使って「こういうことかな」と思いついたことは、いつでも頭の中で再生産できるので、覚えておく必要がない。
勉強というのは、こうやってやるべきものではあるまいか。



「きあり」だけに毒が抜けた気分だ。

千種類の中華料理レシピを記憶した周富徳の方法

周富徳さんが亡くなって。意外なところかもしれないですけど、僕、周富徳さんの言ったことで、スゲェ俺の中で座右の銘とまではいかないまでも、「はぁ~、そういうことか」って思ったことがあって。
落語家時代に、師匠にスゲェ言われたんだけど、一切分からなかったことで、落語を辞めたあとに、周富徳さんに言われて「そういうことか」って分かって。

周富徳さんって、千種類くらいの中華料理のレシピが全部頭に入ってるっていう風に言われてて。下手したら、もっと覚えてたらしいんだけどね。凄い量のレシピが入ってるって言うわけ。

落語の凄い名人も、千とまでは言わないまでも、数百って台本が頭の中に入ってる、と。それをどうやって覚えたら良いかってことに関して、若手の頃の俺にしたら、分からないわけ。5個目のネタを教わると、1個目のネタを忘れてたから(笑)。サボりサボり、30~40のネタを教わったと思ったけど、できるのは…在庫は5個(笑)だから新しいプログラムを入れる前には、昔のプログラムを消さなきゃいけなかったから

それで、落語は辞めてしまった後なんだけど、周富徳さんに会って、その話にたまたまなって。それで、「どうやって覚えるんですか?」って話をしたら、


「細かいレシピは覚えていない」


って言うのね。
でも、



「千種類の中華料理の味は覚えている。味と食べた記憶の見た目は覚えている。」



「そうすると、自ずから『この味とこの色を出すには、これとこれが要る』ってことが分かる。その後は、中華料理のルールに従って、『この食材とこの食材は、こちらを先に入れる』とか、『これにこういう味をつけるには、この下ごしらえをする』って分かる」って言うのね。

そのことを聴いて、なんか俺の中で喋るってことも、覚えるってことに関しても、ちょっと革命みたいなことがあったの。「基本のルールが入りさえすれば、後はそんなに細かに覚える必要はない」って思って。落語の口調とか喋るリズムのルールをちゃんと覚えていれば、毎回、毎回、セリフを覚えることじゃないってことが分かって。

「分かった~3年前に分かってればぁ~」ってことを思い出したのとともに、ご冥福を祈らせていただくのが、こんなに番組前半で入っていいのか、そんなにしんみりして良いのかってことですけど…ご冥福をお祈りします。

(伊集院光) 




いつでも知識を脳内で再生産できる礎が、本当の「基礎」

ラグビーW杯2015 決勝戦

wcup2015final



ラグビーW杯2015 決勝戦
ニュージーランド 34ー17 オーストラリア


ニュージーランドが終止リードを保ち、34-17で宿敵オーストラリアを圧倒、2年連続3回目の優勝を飾った。
3回の優勝は単独で最多回数となった。2年連続で連覇したのはワールドカップ史上初。また、ニュージーランドにとっては自国開催以外の大会で初の優勝となった。

試合は、決勝戦とは思えないほどボールが流れる得点の取り合いとなった。普通、決勝戦はミスからの失点を防ぐため、慎重な試合運びとなり、ノートライに終わることも珍しくない。今回の決勝戦がこれだけトライの応酬となったのは、両チームのバックロー陣の精力的な働きによるところが大きい。

オーストラリアの両FLスコット・ファーディー、マイケル・フーパー、No.8のデービッド・ポーコック、対するNZのジェローム・カイノ、リッチー・マコウ、キアラン・リードのバックロー陣のせめぎ合いは、この決勝戦の大きな見どころだった。とにかく、よく走る。密集戦では必ずこの6人がボールを取り合っていた。効果的なジャッカルを見せ、ターンオーバーに次ぐターンオーバーで試合がめまぐるしく動いた。これだけハイレベルのバックロー対決が見られる試合は、そうあるものではない。この試合での両チームのバックローの働きは、バックローのための教科書として使えるほどのものだ。

試合はハイレベルの密集戦で、反則ひとつで3点を失う、決勝トーナメント独特の緊張感のある試合展開そのままに進む。前半の序盤にNZが3つのPG、オーストラリアが1つのPGを得た。
決勝トーナメントのようなノックアウトステージでは、自陣の反則が即3点を失う命取りになる。だから当然ながら攻撃の組み立てとしては、おおまかに陣地を稼ぎ、敵陣でプレーすることが最優先事項となる。

その試合運びに成功していたのは、NZのほうだっただろう。いくらオーストラリアのキックオフで試合が始まっても、気がついたらオーストラリア陣内で試合が進んでいる。アーロン・スミスとダン・カーターの指揮で、FWとBKの両方が「とりあえず敵陣」という意思統一ができていた。
それに比べると、オーストラリアのほうは若干、局地戦での勝敗に拘りすぎているように見えた。どんなにブレイクダウンでマイボールを確保し続けたとしても、それが自陣でのフェイズの積み重ねであれば意味がない。フェイズを積み重ね、マイボールを確保し続けるという忍耐戦は、敵陣で相手の反則を誘うときに効果があるものだ。自陣でやっても仕方がない。オーストラリアは確かに密集戦に強かったが、その強さの使い方に若干の迷走が見られた。

スクラムは互角、モールはむしろオーストラリアが押していた。しかしいかんせん、ラインアウトに差がついていた。NZは今大会を通して、ラインアウトからのターンオーバー率が異様に高い。No.8のキアラン・リードやLOのサミュエル・ホワイトロックが相手ラインアウトをことごとくインターセプトし、自陣ボールに変えてしまった。
オーストラリアのモールの優勢は、そのほとんどが自陣内で展開したものだ。NZにしてみれば、敵陣内で5mや10m押されたところで、試合全体の趨勢には関係ない。ところがオーストラリア陣内でのラインアウトのターンオーバーは、一発で致命傷になり得る。自分たちの長所を上手く使いこなすことに関しては、NZのハーフバックス陣のほうが、より上手く指揮をとっていたと見るべきだろう。

NZは敵陣でプレーし続けることにより、オーストラリアFW陣を疲労させ、集中力の低下からマークのギャップを作る伏線をうまく張っていた。それが前半39分、終了直前のNZのトライに結びつく。
このトライは、いかにもNZというべき、ショートパスからギャップを作り出す手本のようなトライだった。特に、外に意識を集中させておいて内側にノールックパスを出したCTBコンラッド・スミスのパスは秀逸だった。そこに走り込んだSHアーロン・スミスが完全にギャップを作り出し、リッチー・マコウが相手マークを引きつけ、フリーになったミルナースカッダーが外側で完全に余った。このプレーを可能にさせてしまった原因は、NZの効果的な陣地獲得でオーストラリアFW陣が緊張感と疲労を強いられてしまったことにあるだろう。NZのほうが、明らかに、試合展開を自ら作り出す手腕に秀でていた。

前半で16ー3という差がつき、一方的な試合になるかと思われたが、後半にNZの「弱点」が露呈する。バックスリーのキック処理能力だ。
今回のNZのウィングは、攻撃に特化して選抜されている。スタメンの両WTB、ミルナースカッダーとジュリアン・サベアは、ボールを持って走る時には鬼のような力を発揮する。ミルナースカッダーは細かいステップで狭いエリアを走り切る能力があり、サベアは身体能力の高さと当たりの強さで相手ディフェンスを撥ね返す力がある。準々決勝の対フランス戦では、1対3の局面で3人のディフェンスを吹っ飛ばしてトライを奪っている。2人ともキャップ数が少なく、経験が少ないながらも、高い攻撃能力でオールブラックスのスタメンを勝ち取っている。

その替わり、経験不足という弱点がディフェンス面で顕著だった。キック処理が、歴代オールブラックスのバックスリーとは比較にならないほど弱い。特にミルナースカッダーは、何度もボックスキックで裏を取られ、ハイパント勝負では一本もマイボールを確保することができなかった。キック処理に弱い両ウィングを補っていたのは、高い捕球能力をもつFBベン・スミスだった。NZのキック処理は、ベン・スミスのキャチング能力でなんとか保たれていたと言ってよい。

そのベン・スミスが後半12分、危険なタックルでシンビンを受けてしまう。これによりNZの後方守備が後手に回り、オーストラリアが試合の流れをつかんでしまう。
シンビン直後のオーストラリアのラインアウトからのモールのトライは、仕方がないだろう。これはオーストラリアの既定路線であり、あの地域でラインアウトを与えてしまってはどうしようもない。

問題は、そのあとの後半24分に与えたトライだ。オーストラリアはNZのバックスリーの弱点を掴んでおり、ベン・スミスが抜けた後に執拗にキックで陣地を稼ぐ攻撃に出た。キック処理の戻りが遅いミルナースカッダーはその処理に失敗し、オーストラリアの怒濤の逆襲を許してしまう。守備のギャップをつくってしまい、人数的に不利な状況をつくりだし、オーストラリアCTBテビタ・クリンドラニのトライを許してしまう。

結局、NZはベン・スミス退場の間に、2トライ2コンバージョンを許し、4点差まで追い上げられてしまう。
ここで落ち着いてNZの窮地を救ったのは、やはりと言うべきか、「世界最高のSO」ダニエル・カーターだった。

カーターは、1トライで逆転される状況の後半70分、まさかのDGを決め、オーストラリアと観客の度肝を抜く。このDGは、地域的にも体勢的にも、かなり難易度の高いDGだった。しかもW杯の決勝という緊張感の高い舞台で、あの地域、あの時間帯、あの状況で、あのDGを決められるのは、驚異的な技術と精神力だ。
カーターは、自身4回目のW杯でありながら、決勝戦に出場するのは初めてだ。前回大会の優勝時は準々決勝で負傷退場し、決勝戦はスタンドからの観戦だった。自身のラグビー人生の集大成として、今回の決勝戦に賭ける思いは相当なものだっただろう。そういう思い入れが気負いにならず、土壇場の状況で最高のプレーを見せた。決勝戦のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれるのも当然だろう。

手が届くかに思われた時間帯に貴重な3点を奪われ、オーストラリアFW陣の運動量が明らかに陰った。あのDGが与えた精神的なダメージはかなり大きかっただろう。
NZはその動揺を見逃さず、一気にメンバーを入れ替えて走力で圧倒する策に出た。NZが長らく世界ランキング1位を保っている理由、「最後の10分間の驚異的な強さ」の具現だ。スクラムの前列を全員入れ替え、疲労の濃いFLジェローム・カイノを下げ、キックの調子の悪いSHアーロン・スミスさえ替えた。キック処理の悪いミルナースカッダーを下げ、キャッチング能力と走力の高いボーデン・バレットを投入。オーストラリアからすれば、悪夢のような選手交代だろう。

FBに入ったボーデン・バレットは、今までハイパントでやられ続けたお返しとばかり、ハイパントを上げ自ら取り、独走してとどめのトライを奪った。このキックボールの追いかけっこが、まるで勝負にならなかった。交代したばかりのバレットと、すでに長い距離を走らされ続けて疲労が溜まったオーストラリアWTB陣との競争では、勝負は明らかだろう。
トライ後のコンバージョンも、ダニエル・カーターが当然のように決め、34ー17。気がつけばダブルスコアでのノーサイドとなった。

結局オーストラリアは、NZの試合運びの上手さにしてやられた。局地戦では、オーストラリアはかなり優勢に試合を進めていたと思う。しかし、その「局地」をどこに設定するかで、NZとオーストラリアは力の出し方の配分に差が出てしまった。オーストラリアのバックロー陣の体を張ったプレーは、十分にNZに対抗し得るものだった。それだけに、そのバックロー陣の奮闘を、うまくリードに結びつける「大局的な試合勘」が求められる展開だった。

NZは2大会連続で連覇を果たし、W杯の連勝記録を14に伸ばした。ベテランが多い印象のあるNZだが、今大会を最後に代表を引退すると目されている選手は、実は5人しかいない。FWはすでに次の世代がスタメンのポジションを掴んでおり、弱点だったバックスリーもこれからの4年間でさらに経験を積むだろう。試合の最後には、キャプテンのリッチー・マコウが退き、「後継者」サム・ケインが勝利のピッチを踏んでいる。この最後1分での選手交代は、試合としては意味がないが、NZのこれからの4年間の始まりとしては大きな意味をもつだろう。NZを世界王者の位置から引き摺り下ろすためには、他国はよほどの修練を積む必要があろう。


今大会を振り返ると、グループリーグからの全試合を含め、上位国と中堅国の差が著しく縮まった大会だった。毎回大会で必ず存在する、100点ゲームが一回もない。敗れた国も決して勝負を諦めず、最後まで戦う姿勢を貫いた。3位決定戦で南アに敗北確定だったアルゼンチンが、試合終了直前の最後の最後に意地のトライを奪ったのは、その象徴だろう。

そういう中堅国の躍進を引き出したのは、間違いなく日本代表の戦いっぷりだっただろう。過去7大会でわずか1勝だった弱小チームが、南アに勝ち、3勝1敗という見事な成績を残した。個々のレベルアップとチーム戦術の融合が、非常にうまくいった好チームが次々と大躍進を果たした。

しかし、そういう躍進チームにとってさえ、上には上がいる。優勝候補のアイルランドは、フィットネスを倍増させたアルゼンチンに惨敗した。そのアルゼンチンは、さらにフィットネスの差を見せつけられてオーストラリアに負けた。そのオーストラリアは、ゲーム展開の妙を備えたNZに敗れた。どんなに強くなっても、それでも勝てない相手がいる。そういう、ラグビーのもつ底知れなさを、存分に味あわせてくれた大会だった。スリリングな展開が多く、退屈な試合が非常に少ない、とても面白い大会だった。

ひとつ残念だったのは、開催国イングランドが早期に敗退したことだろう。やはり大会は、開催国の活躍があると大いに盛り上がる。そこから日本代表が学ぶことは大きい。次回の開催国として、日本代表にとっての次の4年間はすでに始まっている。さらなる躍進を遂げ、日本が世界を驚かす4年後であってほしい。






また熱い4年間が始まる。

ラグビーW杯2015 準決勝第1試合

NZ南ア



ラグビーW杯2015 準決勝第1試合
NZ 20ー18 南アフリカ


準決勝の第一試合は、NZが2点差で逃げ切り、決勝進出を決めた。
これでNZは、ワールドカップでの連勝記録を13に伸ばし、史上初の2連覇に王手をかけた。

まず何よりも、日本代表がこの南アフリカ代表に勝てた、という事実を誇るべきだろう。日本に負けたとは思えないような強いフィジカルと高いスキルで、終止NZを圧倒した。負けはしたが、南アフリカは優勝候補の呼び声に恥じない戦いを見せた。


ギリギリの攻防戦だったが、試合の勝敗を分けた要素はふたつあった。
「バックスリー」と「天候」だろう。


南アフリカは徹底的にディフェンスを強化する策に出た。NZは外に展開されたら手が付けられないので、可能な限り内側で止める。地域に関係なくBKのディフェンスラインを上げ、詰めで止める。
その策がよく見えるのが、南アのハーフバックスのキックの蹴り方だろう。自陣22Mより内側でも、タッチキックを出さない。敢えてノータッチのハイパントを上げ、一旦イーブンボールにしてから競り合うほうを選んだ。

その意図はふたつあったと思う。ひとつはディフェンスの必然性。スクラムと違って、ラインアウトはBKラインが10M下がらなくてはならない。すると敵味方のBKラインの間は20M空くことになる。この20Mの間隔によって、外展開につながるBK攻撃のサインプレーの自由度が高まる。南アフリカは、NZのラインアウトからのサインプレーを警戒して、NZボールのラインアウトを、可能な限り減らしていた。

もうひとつは、NZバックスリーのキック処理のまずさを突いたものだろう。特に、右WTBのミルナースカッダーは、ことごとくハイパントの競り合いに負けた。ミルナースカッダーは、狭い地域をすり抜けていく走力には特筆すべきものがあるが、キック処理をはじめとするディフェンスに難がある。南アSHのデュプレア、SOのポラードは、最初の数回のハイパントでミルナースカッダーのキック処理のまずさを見て、「いける」と思ったのだろう。

一方のNZは、強力な南アのディフェンスに苦しんだ。最小人数のタックルで止め、かつボールに絡んで楽に出させない。今回の試合を通して、NZはラックからの球出しが非常に遅かった。ラックというのは相手のディフェンスを巻き込んで人数を減らし、数的優位をつくるためのものだから、時間をかけたら意味がない。相手にディフェンスラインを整える時間を与えてしまう。ところが今回のNZはラックからの球出しに、かなりもたついた。これはNZの側の問題ではなく、南アのディフェンスがボールをしっかり殺し、速やかな球出しを防いでいたからだろう。

その結果、NZは攻撃のフェイズを何次重ねても、南アのディフェンス枚数を減らせない、という循環に陥った。いつものNZの攻撃とは違い、全然外側が余らない。集中力の高い南アの守備の前に、NZの攻撃はリズムを失い、反則を重ねてPGでの失点を重ねた。これらはすべて、南アの「徹底的にディフェンスを固める」という基本方針によってもたらされた連鎖だ。南アは、日本戦の敗北から、大きなものを学んだと見える。

ボールを廻しても廻しても人数が余らないNZは、敵陣であってもグラバーキックで裏を狙うしか策がなかった。苦し紛れの策に見えるが、実はこれがなかなか効果があった。南アのディフェンスは詰めなので、自陣深くでのディフェンスではWTBもラインディフェンスに上がる。すると後ろの守備がFBの1枚になるので、キックで陣地を稼ぎやすい。南アのWTBは、ラインディフェンスのために上がり、キック処理のために下がり、かなりの運動量を要求されることになった。

また、NZがBKラインでボールをワイドに展開せず、安易にキックで距離を稼いでいた理由にはもうひとつ、天候があったと思う。試合前から天気予報は雨で、試合中盤から強い雨が降ることが予想されていた。南アとの戦いはいつも消耗戦になるので、試合終盤には疲労でハンドリングの精度が落ちる。ましてやそこに雨が降ればボールが滑るのでなおさらだろう。そこでNZは試合序盤から、グラバーキックを転がしてキャッチからのトライ、という「練習」をしていたように見える。

南アの攻撃は、ハイパントがよく効いていた。南アのバックスリー、ピーターセンとハバナの両WTBと、FBのルルーがよくボールを確保した。一方NZのバックスリーは、FBのベン・スミスはよく捕っていたが、いかんせんミルナースカッダーが全然取れない。試合前半では、ハイパントの応酬によって南アが効果的に陣地を稼ぎ、攻撃のリズムが良かった。

ところが、南アはそのバックスリー自身の手によって、自ら試合のリズムを失ってしまう。 戦犯は、左WTBのブライアン・ハバナだ。
ハバナは、この試合に自身のワールドカップ最多トライ記録更新がかかっていた。準決勝という舞台、相手がNZ、トライ記録、と様々な要因が重なり、漲る闘志は相当のものだっただろう。そして、その闘志を統御することに失敗した。

前半9分、NZはFLカイノがトライを奪う。その後のコンバージョンで、SOダン・カーターがキックモーションを起こす前に、なぜかハバナが飛び出してキックチャージをかけようとした。ここでは単にキックの蹴り直しになっただけだったが、意図的な試合遅延行為としてシンビンが適用されてもおかしくない場面だった。

この後も、ハバナは焦りからか闘志が空回りしたのか、幾度もオフサイドを繰り返した。必ずオフサイドラインよりも1, 2歩だけ前にポジションを取る。試合後半ではハバナは主審に睨まれ、何度もプレーの流れの中で「下がりなさい」と注意を受けている。冷静さを欠いたハバナは、試合中に修正することができなくなり、最後には、ボールをはたき落とす、故意のノックオンによってシンビンを取られた。審判にしてみれば「いい加減にしろ」という措置だっただろう。ハバナは、気合が間違った方向に出てしまった。

南アは、ハバナの無用なキックチャージ、余計なオフサイド、悪質な故意のノックオンによって、せっかくFWが奮闘して掴みかけた試合の流れを失ってしまう。一方、NZのほうがBKを効果的に交代し、途中交代したCTBソニービル・ウィリアムスが良いペネトレイトを見せ、交代WTBのバレットがとどめのトライを奪った。バックスリーによってリズムを失った南アと、バックスリーによってゲームの主導権を取り返したNZの、差が試合の最後に出てしまった。

FW戦の主導権は、試合を通してほとんど南アが握っていた。展開力のあるNZのFWに対するハードタックルは、消耗が激しい。もちろん南アはそのことも織り込み済みで、体力をフレッシュに保つために、試合後半でタイトファイブを総取っ替えする。
しかし、この交代したFWが全然機能しなかった。南アのFWの選手交代は、NZが鬼のように強くなる「最後の10分間」に備えたものだ。しかし、試合を通してずっと優勢だった南アFW陣は、最後の10分になって突然崩れだす。スクラム、モール、ラインアウト、すべてにわたってNZに逆に支配された。

ラグビーに限らず、バスケットボールやサッカーでも、途中交代した選手が5分ほどプレーしただけでスタミナ切れしてしまうことがある。端的に言うとウォーミングアップの失敗だが、この試合に関しては、試合中に急激に低下した気温が原因だったと思う。ウォーミングアップ後、試合に入るまでに時間が開いてしまい、その間に体が冷えてしまったのだろう。

試合後半の選手交代を見ると、南アは後半15分から25分までの間に、6人の選手を替えている。のこり15分を見据えての選手交代は、普通の状況であれば妥当な策だっただろう。
一方、NZのほうは、後半25分を過ぎてからようやくFWを3人替えている。そのうち2人はフロントローだ。選手の消耗度合いと天候を考え、交代選手がスタミナ切れする前に試合が終わるよう、ギリギリまで交代のタイミングを遅らせている。

つまり南アは、選手交代をするのが早すぎたのだ。試合にスムースに入れず、低温により体力を奪われ、最後の10分間にNZが怒濤の攻勢をかけた時に、体力が残っていなかった。ベンチワークまで含めて、NZが80分をトータルでうまく使う技術に秀でていただろう。


これでNZは、2大会続けて決勝進出を決めた。今回の試合は、南アのディフェンスの健闘が光り、傍目に見ると、従来のような「NZらしい強さ」が見られなかった試合に見える。しかし、この6年間にわたり世界ランキング1位を一度も譲っていないNZの本当の強さは、このような膠着状況の試合に陥った時にでも、総合力で勝ちを拾う、「ギリギリのせめぎ合い」にある。試合は2点差で決着がついたが、この2点をきっちり確保するのがNZの本当の強さなのだ。決勝戦はどのみちミスが命取りになる僅差の試合になるだろう。そういうときにこそ、精神力やベンチワークを含めた、総合力の戦いになる。決勝戦の戦いには、そういう点にも注目して見てみたい。



なんだかんだでトライもきっちり2本取ってるし

ラグビーW杯2015 準々決勝3, 4戦

アルゼンチンーアイルランド


アルゼンチン 43ー20 アイルランド


アルゼンチンの完勝。序盤に連続トライで試合の主導権を握ると、強みのタックルと密集戦を完全に制し、アイルランドに付け入る隙を与えなかった。 今大会のアルゼンチンは、本当に強い。

大会前の展望の段階では、アイルランドが優位という予想が多かった。アイルランドはシックスネイションズを2連覇し、北半球の覇者として本大会に臨んだ。世界ランキングも過去最高の2位に上がり、優勝候補に推す声も多かった。

直接の原因は怪我人の続出だろう。予選プールの4試合で、キャプテンのLOポール・オコンネルが離脱。司令塔でスーパーブーツのSOジョニー・セクストンが足の負傷。アイルランドは決勝トーナメント前にFW、BK両方の核を失った。さらにFLピーター・オマホニーとCTBジャレッド・ペインも怪我で欠場。ハードタックルでアイルランドを鼓舞してきたFLショーン・オブライエンは、予選プール最終戦でラフプレーにより出場停止。主力がことごとく離脱する状況でこの試合を迎えた。

しかし、状況はアルゼンチンにも公平だったのだ。アルゼンチンはFWを縦に突っ込ませる強行策が生命線なので、消耗が激しい。目立った怪我人はいないものの、各プレーヤーの消耗度は他チームよりも激しいだろう。そんなチームをマネジメントするため、アルゼンチンは予選プールから意図的な戦術的交代を効果的に行っていた。FWを酷使せず、消耗しない段階で積極的に交代し、チーム全体の戦力を慎重に温存する。

そのアルゼンチンのチームマネジメントは、予選プール初戦でNZと戦うことができた幸運にもよるだろう。優勝候補のNZに善戦し、一時はリードも奪った。しかし試合巧者のNZの戦術によってFW陣を消耗させられ、試合最後の15分で差をつけられた。アルゼンチンは本気でNZに勝ちにいったため、スタメンのFWをできるだけ長くプレーさせてしまったのが、結果として敗因になった。その結果、疲労度が増し、選手交代が後手に回り、80分をトータルで戦いその隙を狙っていたNZに一蹴された。積極的な選手交代でチーム全体の戦力を保ち、南アフリカに逆転勝ちした日本とは、真逆のマネジメントだったと言える。

この敗戦の後から、アルゼンチンの戦術的交代が積極的になった。大一番であるNZが早々に終わり、余裕が出たこともあるだろう。それ以後の試合では、いたずらに選手を消耗させることなく、高いコンディションを保ったまま心身共に充実してアイルランド戦を迎えることができた。

要するに、アルゼンチンの優位は、監督の技量の差によるところが大きいだろう。スタメンと控え選手の戦力差が不利に働かないように、常にセカンドチョイス、サードチョイスを用意する。W杯のような長丁場では、スタメン15人の戦力だけで戦い抜くのは不可能だ。チーム全体の戦力を均し、誰が出ても戦術を実効できる状態に仕上げなくてはならない。それが如実に差となって現れた。

アイルランドのBK陣は、傍から見ててもSOセクストンが抜けたら一大事、というのが明らかだった。セクストンが負傷離脱した後のことを、まるで考えていない。また主力が続々と抜けたアイルランドFW陣は、戦意の低下が明らかだった。ブレイクダウンの攻防戦を失った数々の局面は、技術云々ではなく、FW陣を支えるリーダーが不在だったことが大きく響いていたように見える。

アルゼンチンは、そのことを事前の分析として掴んでいただろう。試合開始と同時にラッシュをかけ、トライを連取した。アイルランドの弱点を付き、うまい試合の入り方ができていた。
またアルゼンチンはNZ戦敗北の教訓から、戦術的選手交代によってスタミナを維持し、80分を全力で戦い切った。

FWの強さばかりに焦点があたるアルゼンチンだが、この試合ではバックスリーの貢献度が高かった。FW戦で押されたアイルランドは、必然的に自陣からのキックが多くなる。いつものSOセクストンが得意とする攻撃的なキックではなく、密集戦から逃げるためのキックだ。アルゼンチンのバックスリーはそれを十分に把握しており、上がりと下がりの見極め加減が見事だった。TVの実況ではあまり写っていないが、どんなに外展開で攻撃に上がっても、フェイズを積み重ねてアイルランドが蹴ったときには、必ず深く下がってキックに備えている。怠けず勤勉に上がり下がりする運動量は相当なものだ。

守備の安定は、攻撃の躍動感に直結する。アイルランドのキック攻撃を完封したアルゼンチンBK陣は、自信をもって外展開を使った。この試合ではWTBフアン・イモフが2トライを挙げている。これでイモフは大会5トライめを挙げ、アルゼンチン記録を更新している。FW戦を中心に戦うアルゼンチンで、WTBがこれだけ活躍するのは珍しい。

試合の内容以前に、アルゼンチンは試合に至るまでのチームマネジメントに成功した。スタメンにベストメンバーを揃えられた時点で、アルゼンチンの勝ちだ。アイルランドだけでなく、ウェールズもイングランドも、同様の理由で敗退することが多い。決勝トーナメント以降の試合を勝ち抜くためには、選手ひとりひとりのフィットネス以前に、監督の技量が必要であることを示す試合だった。




バカ主審


オーストラリア 35ー34 スコットランド


スコットランドが、オーストラリア・ワラビーズを追いつめた。オーストラリアが得点しても得点しても、しぶとく食いつき得点差を離さない。後半のこり5分で、とうとうトライとコンバージョンで逆転に成功した。しかしその4分後、のこり1分の場面でオーストラリアにペナルティーを与える「疑惑の判定」でPGを決められ、再逆転を許した。オーストラリアの薄氷の勝利だった。

試合後、ワールドラグビーは最後のペナルティーについて、クレイグ・ジュベール主審の誤審を認めた。問題のペナルティーは、スコットランドのジョン・ウェルシュのノックオンオフサイドだった。味方がノックオンしたボールを、オフサイドの位置にいるプレーヤーが確保する反則だ。ノックオンは相手ボールスクラムになるが、ノックオンオフサイドはペナルティーになるため、反則の罪が重い。

ところがビデオで確認すると、スコットランドがノックオンしたボールは、オーストラリアのニック・フィップスに弾かれていた。オーストラリア側がボールに触った時点で、オフサイドは解消される。負けている状況と残り時間から考えて、オーストラリアがスクラムに持ち込む可能性は低かっただろう。アドバンテージを活かして、トライを取りにいったと思う。主審はもし笛を吹くなら、ノックオンの反則だけをとり、オーストラリアボールでのスクラムにするべきだった。

このプレイでは、主審はTMO(ビデオ映像確認)を行っていない。TMOはやたらと行ってよいものではなく、使える状況に制限がある。現行のルールでは、トライをとったかどうかの判断と、危険なプレーに対する確認にしか使えないことになっている。プレイのたびにTMOを使っては試合がしょっちゅう止まるので、そういう制限はやむを得ない面もある。

しかし、今回のように試合の趨勢を大きく分けるような場面では、例外的に主審の裁量に委ねる余地を残しておかなければならないのではないか。ルールというのは、円滑なゲーム運営と安全確保のためにある。試合のためにルールがあるのであって、ルールのために試合があるのではない。今回のように、誤審を防ぐに十分な設備がありながら、ルールがそれを使うことを妨げ、誤審によって試合結果が間違ってしまうというのは、本末転倒だ。

スコットランドは予選リーグでのチームマネジメントが成功し、ベストメンバーで準々決勝に臨んだ。体力、気力ともに十分に充実していただろう。キャプテンのSHグレイグ・レイドロー、SOフィン・ラッセルのハーフバックスは、地力で勝るオーストラリア相手によくゲームを組み立てた。リッチーとジョニーのグレイ兄弟が軸になるFW陣もよくオーストラリアの猛攻に耐え、スクラムでもラインアウトでも互角に戦った。予選プールから通して、今大会のスコットランドのベストパフォーマンスだったと思う。

一方のオーストラリアの側は、ごっつぁん誤審によって紙一重で勝利をつかんだものの、試合内容は決して褒められるものではなかった。特に、時間配分によって流れを失うゲームの組み立てが良くない。オーストラリアは終止優勢に試合を進め、62%の時間を敵陣でプレイした。最後の10分を勝負所とみて一気に攻勢をかけたスコットランドに押され、最後の10分に限っては7割の時間を自陣内に押し込まれている。ボール確保率も3割ほどに過ぎず、ほぼスコットランドにボールを支配された。のこり5分でのスコットランドのトライは、偶然でもまぐれでもなく、スコットランドがその時間に溜めた力を一気に出すタイムマネジメントの賜物だった。ゲームの組み立て方としては、スコットランドのハーフバックスに軍配が上がっていただろう。

この誤審によって、仮に今大会でオーストラリアが優勝したとしても、「あの誤審によって、本来負けるべき試合を勝ち上がった」という評価が必ずついてまわる。クレイグ・ジュベール主審の誤審は、スコットランドだけでなく、オーストラリアにも害を与えるものだ。誤審というものは、そういうものなのだ。勝者にも敗者にも等しく被害をもたらす。しかも、不可避な誤審ではなく、防ごうと思えば防げるものを、ルールによって自縄自縛となった誤審であるため、主審本人だけでなくワールドラグビー側にも原因がある。

テストマッチならいざ知らず、ワールドカップの、しかも決勝トーナメントの大事な局面で、このような無様な結果となった。スコットランドはFWで押し切る気合のこもった試合を見せてくれた。今大会絶好調のアルゼンチンとの真剣勝負を見てみたかった気がする。



せっかくの熱戦に水を差された気分。
ペンギン命
ここでもつぶやき
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