たくろふのつぶやき

お出かけの時には保冷剤を持つのだ

偽りの優等生

二十歳過ぎればただの人(3)
 
偽りの優等生のほとんどは女の子です。男の子でこのタイプは少ないですし、居ても外見上、優等生に見えなかったりします。というのは、このタイプの優等生であり続ける為には、驚異的な暗記能力が要るからです。  

思うに、このタイプの優等生と言うのは小学校高学年での優等生グループの生き残りです。中学校に入ると、小学校とは全く異なる資質が優等生について要求されます。その要求に応えられる子どもは中学校でも優等生ですし、それに応えられない子どもは劣等生または普通の子のグループに転落します。ところが、中には中学校での要求に応えられない部分を、驚異的な記憶力でカバーしながら、優等生であり続けようとする子どもが居るのです。  

彼女達は、中学校での学習内容を全て丸暗記していきます。英文とその訳を対訳形式で覚え込みます。英単語や英熟語なども、意味と一緒に丸暗記です。数学なども、例題の解答法を丸暗記していきます。国語は、先生の板書を写したノートの内容を覚えます。

こうして、偽りの優等生達は授業嫌い、勉強嫌いの大人に育っていきます。彼女達にとって、学校の授業は我慢大会に過ぎませんし、勉強は訳の分からないお経を延々と覚え続ける苦行のようなものです。勉強が何かの役に立つという実感もありません。実際、彼女の勉強方法では、何かに役立てる事の出来る知識など身に付けようもないのですから。  

困るのは、こういう女性が母となって子どもの勉強を見たり、短大で教職免許を取って小学校の先生になったりする事です。  

母親が教育熱心な家庭の男の子が成績不振になるケースで、母親が自分の勉強法を伝授しているケースがままあります。定期試験で悪い点を取って帰った息子に、自分がかつて点を稼いだやり方で良い点を取らせようとしたりするのです。ですが、一般的に男の子は女の子ほどの暗記能力はありませんから、成果は上がりません。論理的理解を拒絶している分、成績は逆に下がっていきます。

彼女達が小学校の教師になるのが困るというのは、学力の問題ではありません。何しろ、彼女達は自分が小学生だった頃は押しも押されもせぬ優等生だった訳ですから、今は四年制大学を出て威張っている男性連中も、小学生の頃は彼女達の足元にも及ばずに小さくなっていたりしたのです。その意味で、小学校での優等生が小学生の指導に当たる事に何の問題も無いように思えます。  

問題は、彼女達の中に根付いてしまった勉強嫌いの感覚です。勉強は面白くないもの、我慢して努力してやるもの、そういう大前提で教壇に立つ先生が多い、と私には思えます。  

そういう先生は、子どもが楽しそうに勉強したり、授業を受けたりしていると不安に思うようです。何か、大事な事を、子ども達が学んでいない、という気になるのです。そこで、授業中の私語を禁じたり、ごそごそ動く生徒に直立不動の姿勢を要求したり、少し難しめの問題で脅して、勉強は楽しいだけでは駄目なのだという事を分からせようとします。  

やがて、生徒達はかつての活力を失っていきます。授業中、横の生徒と話す事も無くなり、黙って先生の話を聞きながら、後どれ位で休み時間になるのだろうと時計を気にし出したりして初めて、この先生は良いクラス作りが出来たと安心するのです。  

ですが、この子ども達の姿はかつてクラスの優等生として活き活きしていた自分の姿ではありません。中・高を通じて、息を殺すようにして自分の気配を消していた、勉強嫌いの頃の自分の姿なのです。その事に、この先生は気が付いているでしょうか。




自分の価値観に縛られた教師ほど有害なものは無い。

トドちゃん日記08

トド日記セイウチの巻




だってほらトドならセイウチでしょ

思考能力を鍛えるには

まずはクイズを。

10個のびんがあります。そのうち9個のびんにはひとつ1グラムのあめ玉が10個入っており、のこり1個のびんにはひとつ1.1グラムのあめ玉が10個入っています。
秤をつかって重さを一回だけはかり、1.1グラムのあめ玉が入っているびんを見つけてください。


まず、びんに1から10まで名前をつける。
そして、びんから名前の数だけあめ玉を取り出す。 すると、量るあめ玉の合計は1+2+3+4+5+6+7+8+9+10 = 55個、になる。

もしあめ玉すべての重さが1グラムだったら、これらのあめ玉の重さは55gのはずだ。
しかし実際には、ひとつのびんだけは1.1グラムのあめ玉が入っているので、実際のあめ玉の重さは、

55 + 0.1n グラム (nは、1.1グラムのあめ玉が入っているびんの名前)


となる。
例えば、量った重さが55.4グラムだったら、4番のびんが答え。55.9グラムだったら、9番のびんが答え。



・・・という枕を振っておいて、本番の問題はコチラ。

10個のびんがあり、そのうち8個のびんにはひとつ10gのあめ玉が100個ずつ入っていて、のこりふたつのびんにはひとつ11gのあめ玉が100個入っている。
11gのあめ玉が入っているふたつのびんを、秤を一回だけ使って重さをはかり、見つけてください。


先の問題ではあめ玉がひとつ1gだったが、こちらの問題ではひとつ10gになっており、あめ玉が10倍でかい。その分だけ、こちらの問題のほうが「大人向けの問題」と言えるだろう。

そんな冗談はともかく、この問題では、びんがふたつあるため、先ほどの方法がそのままの形では使えない。たとえば余剰分の重さが5gだとしたら、探すべきふたつが「1のびん+4のびん」なのか、「2のびん+3のびん」なのか、区別がつかないからだ。

それをもう一歩進めて考えると、「じゃあ、びんから取り出すあめ玉の数は、『2数の和が決して同じにならないような数』にすればいいのではないか」ということに思いつく。
基本的な考え方は先ほどの問題と同じだが、とりだすあめ玉の数にもう一歩工夫がいる。


フィボナッチ数列というのは、1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89, … という数の並びのことだ。前ふたつの数字の和が、次の数字となっている。つまり、
1+2 = 3
2+3 = 5
3+5 = 8
5+8 = 13
8+13 = 21
という関係になっている。
フィボナッチ数列は、花びらの数、ひまわりの種の数、ウサギやアリの子供の数など、自然界にわりと見られる法則性である。

フィボナッチ数列の特徴は、任意の2数の和が等しくなる組み合わせが一通りしかない、ということだ。a=1(初項)、b=2(第2項)とすると、すべてのフィボナッチ数はaとbの2数で表せる。
1 = a
2 = b
3 = a + b
5 = b + (a+b) = a+2b
8 = (a+b)+(a+2b) = 2a+3b
13 = (a+2b)+(2a+3b) = 3a+5b
21 = (2a+3b)+(3a+5b) = 5a+8b
34 = (3a+5b)+(5a+8b) = 8a+13b
見て分かる通り、それぞれの数をa, bを使って表すと、それぞれの係数もまたフィボナッチ数になっている。任意のフィボナッチ数ふたつを足し合わせると、その和はaとbの係数のフィボナッチ数同士の組み合わせになるので、一通りに特定できる。
たとえば、8と34を足すと、(2a+3b)+(8a+13b)=10a+16bとなる。aとbの係数をそれぞれバラに見て、それらをフィボナッチ数の和に分解すると、10=2+8、16=3+13の組み合わせしかない。そのため、それらの数をa, bの係数とする、8と34に特定できる。

この性質を使うと、先の問題が解ける。
この問題でも、びんを順番に1, 2, 3, 4, 5, …, 10と名前をつけ、それぞれのびんにフィボナッチ数をラベルとして順番に貼っていく。1のびんは1, 2のびんは2, 3のびんは5, 4のびんは8, ・・・といった具合だ。

そして、それぞれのびんから、貼ってあるフィボナッチ数のラベルの数だけあめ玉を取り出す。 すると、あめ玉の合計は1+2+3+5+8+13+21+34+55+89 = 231個、となる。

もし全部のあめ玉が10gであれば、この合計は2310gとなるはずだ。しかし実際には、ふたつのびんだけは11gのあめ玉が入っているのだから、実際の合計は

2310 + M (g)

となる。 ここでMは、任意のフィボナッチ数の和になっているはずである。
たとえばM=18だとしたら、これは5+13なので、第4のびんと第6のびんが答えだと分かる。


フィボナッチ数列がどういうものか知っている人は多いが、この問題を解くための道具としてフィボナッチ数列を思い浮かべられる人は、それほど多くないだろう。
フィボナッチ数列を「知っている」という段階から、「問題を解くために使える」という段階までに移行するには、どういう類いの勉強が必要なのだろうか。

そういう発想の転換を可能にするために必要なのは、一般に言われている「勉強」とは、違うと思う。知識は、知っていることが大事なのではなく、それを使いこなせるようになることのほうが大事だ。しかし、どうすれば知識を「使いこなせるようになる」のか、その方法論はあまり教えてもらう機会がないのではないか。

ある知識を使えるようになるには、その知識を、教わった通りの形で覚えているだけでは不十分で、いろんな角度から眺める経験が必要となる。ひととおりの角度だけでなく、上からも下からも横からも逆からも、どこから辿ってもすらすらと論じられるような理解の仕方が必要だ。

そのために必要なのは、ひたすら「勉強しよう」「覚えよう」という、知識の量を問題にする態度ではない。知った知識を面白がって、頭のなかでムダにいろいろと転がし、その使い方にあれこれと思いを馳せるような「知的遊戯」だと思う。「知識の咀嚼」と言ってもよい。

学問に必要な姿勢は、生真面目な義務感ではなく、柔軟な知的好奇心だ。その理由は、義務感で勉強している人は、頭のなかで知識を転がして遊ぶ心の余裕がないからだ。知ること自体が目的なのではなく、その知識を使っていろいろと「考える」ことを楽しむ人でないと、なかなか多面的な視点でものごとを捉える能力は身に付きにくい。
受身で学ばされた知識と、能動的に頭で生み出した思考は、種類が違う。俗に言われる「頭がいい」というのは、後者のことを指す。

ところが多くの人は、勉強というと「知識を覚えること」と思い込み、思考によって知識の使い方をあれこれと編み出していく手間を嫌う。中には、そういう「思考によって生み出した知識の使い方」を他人から聞く人もいる。そういう本もたくさん出版されている。
しかし、そういうズルは、ほとんど実を結ばない。そういうノウハウを他人から聞いた時点で、それは生産的な思考ではなくなってしまう。単なる「覚えなければならない知識」に過ぎなくなってしまう。知識の使い方というのは、他人から貰える類いのものではなく、あくまで自分の頭を使って生み出さなければならないのだ。


以前、ある有名進学校の高校で世界史の講師をしている人と話したことがある。その先生は、国立大学の進学を希望している学生を中心に、論述問題の指導をしているそうだ。その分野では有名な先生で、かなりの実績を上げ、難関国立大学への合格者を多数輩出しているそうだ。
僕も国立大学出身なので、受験時代には歴史の論述問題の勉強をしたことがあるが、当時から勉強のしかたがさっぱり分からなかった。世界史など教科書の太字を覚えるだけでも大変なのに、それらの知識を使って論述問題を解け、など不可能に等しい。僕が入試を受けた時の答案は、さぞ惨憺たるものだっただろう。

一体どういう授業をしているのか非常に気になって、「論述問題の勉強というのは、どうやってやるんですか」と訊いてみた。
その先生は、笑いながら、気前よく方法を教えてくれた。

曰く、その先生が授業でやっていることは、ふたつだけだそうだ。
ひとつは、「すべての歴史上の出来事に対して、『なぜ』を考えさせること」、もうひとつは、「生徒に『入試の予想問題を作らせること』」だそうだ。

普通、歴史の勉強というのは、時系列の順番に教わる。たとえばフランス革命を習うときには、「絶対君主制」→「三部会開催」→「テニスコートの誓い」→「バスチーユ襲撃」→「国王処刑」→「ジャコバン独裁」→「クーデター」→「ナポレオン統領政府樹立」、という具合に教わる。

そして、この順番で教えて、この順番でちゃんと覚える生徒はいないそうだ。だいたい授業では、バスチーユ襲撃あたりで「フランス革命っぽさ」を味わった気分になって、その先の展開を覚える気力がなくなる。
その先生は、「たぶん、歴史は延々と続いて、終わりがないからでしょうねぇ」と言っていた。時系列順に歴史を教える弊害は、「ここで終わり」という勉強のゴールがないために、ひとつの「閉じたストーリー」として歴史を把握する意欲がなくなること、だそうだ。

だからその先生は、いきなり「ナポレオンは一体何をやったのか」と問う。ナポレオンを知っている人は多いが、いざ実際に「ナポレオンって一体なにをやった人なの?」と訊かれて、答えられる人は意外に少ないだろう。中には「フランス革命を行った人」などと答える人もいると思う。

実際のところナポレオンは、ブリュメールのクーデターによって、革命政府から実権を奪って統領政府を樹立している。のちには皇帝を名乗って帝政まで始めている。つまり、「フランス革命をやった人」ではなく、「フランス革命を終わらせた人」なのだ。

「ナポレオンは一体何をやったのか」という問いに対して、生徒が「クーデターで政権を奪いました」と答えたら、そこから本当の勉強が始まる。「なぜ、そんなことをしたのか」。その問いを皮切りに、歴史を逆へ逆へと辿っていく勉強が始まる。
つまりその先生は、教える順番が逆なのだ。時系列にそって出来事を教えていくのではなく、最も歴史にインパクトを与えた事件をまず持ってきて、「なぜその事件が起きたのか」という理由を考えさせる。

なぜナポレオンはクーデターを起こしたのか。当時の革命政府が過激になりすぎて恐怖政治を敷いたからだ。
ではなぜ革命政府は過激になりすぎたのか。王党派を全滅させる必要があったからだ。
なぜ王党派を全滅させる必要があったのか。当時の議会が王党派によって形成されていたからだ。
なぜ議会が王党派ばかりだったのか。その前段階に絶対王政があったからだ・・・。

「なぜ、そうなったのか」を軸に歴史を逆に辿ると、見えてこなかった歴史の流れがすっきりと頭の中に入る。理由を求めて歴史を掘ると、それまでバラバラに見えていた知識が有機的につながり、ひとつのストーリーに編み上がる。
その先生は、「たぶん、人というものは、『これから、どうなるのか』には興味がないけど、『なぜ、そんなことをしたのか』を追求するのは大好きなんでしょう」と言っていた。今現在でも、夏の参議院選について展望をする議論よりも、舛添都知事の不祥事を弾劾するニュースのほうが受けがいい。舛添都知事の不祥事を暴くことには熱心でも、では都議会はこれからどうあるべきなのかを提言するひとは皆無だ。「これからどうなるか」よりも、「なぜそんなことを」という追求のほうが、たしかに受けている。

生徒が歴史のストーリーを辿ったら、それを実際に紙に書いて思考を形にする。つまり、「どうして」「なぜ」と辿った過程で得た知識を使って、そのストーリーを問う入試問題を予想させて作らせる。入試の論述問題なんて、基本的には「なぜ」が基本となっているから、普段から問いを立てさせる練習を繰り返していたら、大学が問うてくる問題の見当がつきやすい。
30人のクラスで授業をしたら、30人の生徒が30通りの論述問題を作ってくる。それをクラスで発表し、発想と思考を共有する。「ひとつのテーマに30通りの論述問題があれば、そこそこの予想問題になりますよ」と笑っていた。

歴史の勉強とは、年号と人名と事件を「暗記すること」と思っている人が多い。そう思っている人は、知識を暗記してから、そこから先なにをやっているのだろうか。覚えるために覚えた知識では、使いこなせないのも、忘れてしまうのも、当たり前だ。知識を「使うため」に掘り出し、頭の中でひとつのストーリーを作り出し、知識を関連づける思考遊戯を行う時間をとらなければ、なかなか思考は定着しにくい。道具は、道具として覚えるのではなく、作業の流れの中で、必要性とともに覚えなければ、熟達しない。


昨今の書店を覗いてみると、ビジネスマンや学生を対象とした自己啓発書がたくさん出版されている。発想力、思考力、ひらめきなど、既存の「暗記学習」では身に付かない方法論が大はやりだ。

僕は、そういう本が大受けしている理由は、「新しい知識を覚える必要がないから」だと思っている。これまで暗記暗記で勉強してきた人は、ひたすら知識を暗記することが苦痛であることをよく知っているし、そういう勉強の仕方はあまり効果がないことを実は悟っている。だから「無理して覚える必要はないんですよ。知っている知識を使うほうが大事なんですよ」という指南書に飛びつく。実際にそういう啓発書を立ち読みしていると、ほぼ例外なく、既存の知識の「使い方」を解き、違う角度から知識体系を眺める多面的な視野の必要性を説いている。

「知識は、覚えている量ではなく、それを使いこなせることのほうが大事」とはよく言われているが、ではどうすれば「知識を使いこなせる能力」が身に付くのか、という方法論が明快に提示されることは少ない。
そういう能力を身につけるためには、別にお金を出して自己啓発書を買う必要はないと思う。早い話が、中学・高校で習った教科をちゃんと復習すれば、それで十分ではないか。フィボナッチ数列だって、フランス革命だって、それを単なる知識として暗記対象と見なしているうちは、苦痛の種でしかない。しかし、勉強の仕方をがらっと変えて、「しくみを知るために分解する」「『なぜ』を問う」「逆に辿る」「答えではなく、問題をつくる」のように、手を変え品を変え「知識を頭の中で転がして遊ぶ経験」として捉えると、わりと勉強というものは楽しいものだ。


知識というのは、思考の材料であって、それ自体を頭に詰め込むことが「頭がいい」ということではない。その知識を縦横無尽に駆使して使いこなす思考に昇華しなければ、知識が無駄になる。その思考能力は、決して他人から与えられるものではない。あくまでも「自分の頭で考える」という経験によってしか身に付かないものだ。
世の中のどんな些細な知識でも、その知識を血肉と化して、思考の燃料としている人がいるのだろう。どういう人が、どういう思考のために、その知識を使っているのだろうと想像してみると、世の中につまらない知識など何もないような気がする。



「歴史は暗記」「数学は不要」という姿勢は、まだ勉強を始めていない人。

広島原爆の日

G7 伊勢志摩サミットと前後して、アメリカのオバマ大統領が広島を訪問することが話題になっている。
もし現職の大統領が原爆被害地を訪れれば、史上初のこととなる。

広島では原爆被害者の関係者が、謝罪の言葉を求める動きがある。原爆被害を受けた国民感情として、謝罪の言葉を要求する気持ちは分からないではない。折しも沖縄で元アメリカ海兵隊員の男による20歳の女性の死体遺棄事件が発生し、オバマ大統領は立場を危うくしている。難しいタイミングで厄介な事件が起きた、という実感だろう。多くの日本人が、アメリカとオバマ大統領について、難しい距離感を感じているようだ。

しかし、今回のサミットでその謝罪要求をすることが、本当によいことなのかどうか、多くの日本人は判断ができていないような気がする。
ちょっと考えれば、アメリカ大統領という公職にある者が、公式に謝罪をすることなどほとんど不可能だ、ということくらい、すぐ分かるはずだ。オバマは個人的には、人道的観点に基づいて謝罪をしたい気持ちがあるのかもしれないが、それを公人として謝罪するわけにはいくまい。公に謝罪をしてしまえば、それは個人としての見解に留めることはできない。賠償請求、国家間のパワーバランス、今後の交渉事など、さまざまな面に影響を及ぼす。
マキャベリは「個人としての人格と、国家としての人格は、別問題だ」ということを歴史上初めてはっきり言った人物だが、このマキャベリの言わんとしていることを理解していない人が多すぎる。

それとは別に僕は、今の日本人が、原爆に対してその背景と要因をきちんと理解しているとは思えない。それはひとつには「被害者感情ありきの原爆史教育」に原因があるだろうし、ひとつには日本の歴史教育のレベルがそこまで高くないことが原因でもあるだろう。

原爆教育というのは、悲惨な写真や映像を見せて「二度とこんなことを繰り返さない」と情緒に訴えることだけではあるまい。アメリカがなぜ原爆を使用せざるを得なかったのか。原爆使用に至るにはどのような背景があったのか。それをしっかりと把握することが、今後の予防につながる。原因をしっかり理解していない者が、再発を防げるわけがない。

たとえば、広島の原爆が8月6日だったことを知っている日本人は多いが、なぜ8月6日であるのか、理由を知っている人は少ない。
もし当時、世界情勢を正しく認識している者が日本政府の中枢にいたならば、原爆は予知できたはずだ。

広島原爆が8月6日である理由は、簡単だ。

ナチスドイツの無条件降伏が、5月7日だったから。


この理由を理解するには、まず第二次世界大戦時にいったい何が起きていたのかを理解する必要がある。
まず、そもそも日本はどこの国に負けたのか。

ほとんどの日本人が、先の大戦は「アメリカに負けた」と思っている。中国やソ連に負けた、と思っている日本人はほとんどいないだろう。
しかし、連合国はアメリカだけでなく、中国、ソ連、イギリス、フランスなど、様々な国を含んでいる。その中で、日本人がアメリカだけを「敗戦の相手」だと思っているのは、なぜなのか。

原爆こそ、その理由だろう。広島と長崎に原爆を落とされ、日本は無条件降伏した。つまり裏を返せば、アメリカが原爆を落としたのは、「日本人に『アメリカに負けた』と思わせるため」だった。世界史の教科書的に言えば、「戦後の日本の占領政策で、他国よりも優位な立場に就くため」だ。

第二次世界大戦の連合国は決して一枚岩ではなく、お互いに戦後の支配圏拡大を目論むための駆け引きの場だった。普通に考えれば、1917年のロシア革命以来、共産主義国と資本主義国が手を結ぶことなど、あり得ない。それがあり得たのは、第一次世界大戦後のベルサイユ体制が破綻し、ドイツやイタリアなどで全体主義国が台頭し、共産主義国よりも脅威となったからだ。伝統的にヨーロッパの大戦には不干渉主義を貫いてきたアメリカが第二次世界大戦に参戦したのも、戦後の影響力を考えてのことに過ぎない。決してアメリカは人道主義的な理由から参戦したのではない。

アメリカは日本を攻撃するにあたって、兵士の負担と犠牲をなるべく少なくしたい、と考えていた。アメリカはいつでも、戦争で多大な死傷者を出した大統領は、歴史の後々まで長きにわたって非難される。当時の大統領ルーズヴェルトは異例の4選を果たした長期政権であり、勇退後に自分の名を汚すような犠牲は避けたかっただろう。

そこでルーズヴェルト大統領は、日本を攻撃するときにソ連の力を利用することを考えた。日本はアメリカが単独で攻撃するのではなく、南の硫黄島・沖縄からアメリカ軍が、北の樺太からソ連軍が、挟み撃ちにする。そのプランに基づいて、ルーズヴェルトはソ連に対日参戦を要求する。
ソ連のスターリンは、それを承諾するかわりに、見返りとして千島・樺太の領土を要求した。ルーズヴェルトは、その程度ならお安い御用、とばかりにその要求を呑む。

ソ連の対日参戦は、ヨーロッパでの戦争の終結、つまりドイツの降伏から数えて3ヶ月後、と決まった。この密約を「ヤルタ密約」という。この密約は、本当に「密約」で、ルーズヴェルト、スターリン、チャーチルの3人しかほぼ知らなかったと言われている。

ところが戦争途中でルーズヴェルトが没し、後任の大統領にトルーマンが就いてから、状況が変わってくる。トルーマンはヤルタ密約のことを知らされておらず、大統領就任後に密約の内容を知らされて仰天した。トルーマンはすでに日本など敵ではなく、ソ連を始めとする共産主義国こそが戦後の相手になる、と睨んでいた。日本は極東の安全保障のためには最も重要な拠点となる。そこに、わずかなりともソ連の影響力を引き込むとは言語道断。
ルーズヴェルトにとっては、ソ連への千島・樺太の譲渡など「お安いもの」であったが、それはトルーマンにとってはちっともお安いものではなかった。

焦るトルーマンのもとに、朗報が入る。アメリカ国内で秘密に進んでいた「マンハッタン計画」から、原爆実験成功の知らせが入った。原爆が使用可能になれば、ソ連軍の力を借りなくとも、アメリカ単独で日本を無条件降伏に追い込める。

トルーマンはさっそく手を打った。対日降伏文書の「ポツダム宣言」から、ソ連を除外する工作をした。ポツダム宣言は、ソ連との事前連絡なしで文書が作成されている。宣言の署名欄には、アメリカ、イギリス、中国(中華民国)のサインだけがあり、ソ連のサインはない。

ソ連のスターリンは、それを知って激怒した。アメリカは明らかに、戦後の日本における影響力からソ連を排除しようとしている。
スターリンはもともと、人道的な理由や国の防衛のために第二次世界大戦に参戦したのではない。旧ロシア帝国の領土復活がスターリンの目的だった。ソ連は、日露戦争、第一次世界大戦で失った旧ロシア帝国の領土を奪うために、第二次世界大戦を利用したに過ぎない。そもそもそれが目的だったのだから、日本から千島・樺太を奪えなくなるポツダム宣言は、断固容認せざる内容だった。

ヤルタ密約によると、ソ連の対日参戦はドイツ降伏の3ヶ月後。スターリンはすでにその日程で対日参戦の準備を進めていた。そしてドイツが5月7日に降伏。そこからちょうど3ヶ月後の8月7日には、ソ連が日本に参戦してしまう。アメリカとしては、なんとしてもその前日までに阻止する必要があった。

つまりアメリカが8月6日に原爆を落としたのは、ソ連軍の介入を妨げ、アメリカが単独で日本を降伏させるための、ギリギリのタイムリミットだったのだ。そして、その日程の決定に深く関わっていたのは、日本ではなくソ連だった。広島の原爆投下は、当事国の日本などまったく蚊帳の外で、戦後の米ソの冷戦構造の前段階こそが本当の背景だった。

結局、ソ連の対日参戦は8月9日と決まる。それを知ったアメリカは、その日に長崎にもう一発原爆を落とした。あくまでもソ連の参戦を封じて、日本を速やかに降伏させるための駄目押しだった。長崎の原爆投下でも、アメリカの目線の先にあったのは、ソ連であって日本ではない。

結局、日本はアメリカの圧力に屈する形で、無条件降伏をした。多くの日本人は、戦後の占領時の印象を、マッカーサーに代表される進駐軍を思い浮かべるだろうが、それは「アメリカ単独での日本占領」というトルーマンの目論みが成功したからだ。
もし原爆が投下されず、ソ連が対日参戦し、日本がアメリカとソ連の勢力争いの場になったとしたら、どうなっていただろうか。


おそらく、日本はいまの朝鮮半島のようになっていただろう。


日本に対する影響力を封じられ、極東地域への拡大策の変換を迫られたスターリンは、その力を朝鮮半島に向けた。朝鮮戦争の勃発だ。朝鮮戦争は単に同じ民族間の内戦ではなく、アメリカとソ連に代表される二大陣営の「代理戦争」だった。

日本において原爆を語る時には、いつも被害者として、受けた被害の甚大さを訴える論調が支配的になる。しかし世界の歴史の中で、被害を受ける者の苦痛の訴えが、戦争の惨禍を食い止めた例など無い。広島や長崎を中心とした現在の原爆教育のやり方で、今後の世界から核の脅威を廃絶できると、本当に思っているのだろうか。

被害の悲惨さを語り継ぐことは大切だ。しかし、それは必要条件であって、十分条件ではない。それさえやっていれば大丈夫、というものではないのだ。
原爆や核兵器は、人道的に、断固使ってはならない。しかし、戦争というのはもともと、人道的な観点を越えたところで発生するものなのだ。人間が人道的な道徳律を常に守れるようなものであれば、そもそも戦争など発生し得ない。人道主義や道徳観に基づいた核兵器の非難は、それを越えた状況ではまったく通用しない。単なるお題目と化す。

だからこそ、核兵器を語る時には、人道主義以外の方法によって使用を封じる方策が必要となる。歴史教育というのは、そのような必要性のために行うものだろう。
原爆被害者の関係者が謝罪を求め、仮にもしオバマ大統領が謝罪したとしたら、被害者および関係者の「感情」は満たされるだろう。しかし、厳しいことを言うようだが、感情が満たされる代償として失われるものを、本当に冷静に理解しているのだろうか。もし原爆被害者が、己の「感情」のためだけに謝罪を要求し、それによって引き起こされる更なる惨禍など知ったこっちゃない、という態度であるのであれば、それは真摯に恒久の平和を希求する態度とは言えない。歴史教育がしっかり行われていれば、「感情」と「理性による判断」の間にきっちり線を引くことの重要性が、理解されているはずだ。



誰もが納得できる落としどころなど無い。

次から次へと注文するのだ

嫁と、週末にふさわしいグルメなお食事をしようということで
横浜中華街に行って休日ランチの食べ放題をしてきました。



もりあわせ

三種前菜盛り合わせ!!


 
ぺきんだっく

北京ダック!!



えびから

有頭海老の湯引き!!



小籠包

小籠包!!



やきしょうろんぽう

焼き小籠包!!



ふかひれすーぷ

フカヒレスープ!!



ゆうりんちー

油淋鶏!!



すぶた

黒酢酢豚!!



ちんじゃおろーす

豚肉と大蒜の芽炒め!!



まーぼどうふ

四川風麻婆豆腐!!



ねぎちゃーしゅーめん

チャーシューネギそば!!



ごもくちゃーはん

五目チャーハン!!





嫁と思うさまおいしいものをたらふくいただいて、はらがぽんぽこりんになりました。
はらくるしい。




おみせがいかん


龍江飯店
横浜中華街 善隣門ちかく
〒231-0023 神奈川県横浜市中区山下町216-5
050-5799-2120
営業時間 11:00~22:00
128品オーダー式食べ放題 1980円(平日)、2480円(土日祝日)



11:40あたりから混んできました。

円山応挙「元旦」

元旦




神髄。

構成素

構成素




最近は「にせたぬきじる」じゃないのか

今日の俺。

ごはん未定




嫁さんが所用で夜遅くまで帰ってこないんです。

なぜ数学を勉強しなければならないの

「なぜ勉強しなければならないの?」という、学生がよく発する質問がある。


僕は勉強が好きなので、勉強する理由など考えたこともないが、学生はそのように思うことが多いようだ。特に学期末の試験期間直前になると、この疑問が湧くことが多いらしい。

正直、僕は学生にこの質問をされるたびに、腹立たしく感じることが多い。それは別に、自分が価値を感じていることを軽んじられたとか、自分の価値観を否定された気がするだとか、そういう理由ではない。僕が勉強が好きなのは、あくまで僕自身の価値観であって、世界の誰もが同じ価値観をもつべきだとは全く思っていない。勉強が好きな人も嫌いな人もいるだろう。そういう人の価値観を否定するつもりは全くない。

僕が腹立たしく感じるのは、入学試験を受けて、学費を払って、大学に所属している立場の学生が、この質問を発するからだ。
例えて言えば、自分が文房具屋さんの店員だったとしよう。そして、ホッチキスを買うお客さんがいたとする。お金を払って、会計を終えてから、そのお客さんに「で、このホッチキスってのは一体何の役に立つんですか?」「私はこのホッチキスを使って、一体何をやればいいんですか?」と聞かれたら、どう答えればいいのだろうか。
自分がもし車販売のディーラーだったら。車を購入した客がいきなり「で、私はこの車でどこに行けばいいんですか?」と訊いてきたら、どうすればいいのか。

つまり、僕が学生に「勉強が一体何の役に立つんですか?」と聞かれて腹が立つのは、「そんなこと知らねぇよ」という気分になるからだ。学生は、学びたいから大学に入ってきているはずだ。そもそも学ぶ意義などというものは人によって異なるし、なぜ学びたいのかという理由はこちらは関知しない。大学教師の仕事はただ、学びたい学生に、その機会と方法論を与えることなのだ。
大学生は、学費という対価を払って、学問を身につけるために大学に入学する。自らそれを希望して入学してきたはずだ。それなのに、自分が金で買った学問の機会を「何の役に立つの?」とは、どういう了見なのだろうか。勉強が役に立たないと思ったら、さっさと退学すればよいのだ。

僕は、勉強が嫌いであれば、義務教育が修了した中学卒業と同時に、さっさと就職して働けばいいと思う。そうすれば学校の勉強なんて一切やらなくて済む。それなのに、わざわざしなくてもいい高校進学、大学進学をしたのであれば、それは本人が望んで学ぶ機会を求めたからだろう。ホッチキスを買おうとしたのは、学生本人のはずだ。

進学の道を自ら断ち切って、中学卒業と同時に就職した人から「勉強が一体何の役に立つの?」と聞かれたら、その質問の意図は納得できるし、尊重できる。そういう立場の人からそう聞かれたら、僕だって正直に「立ちません」と答える。価値観の違う人に、自分の価値観を押し付けるつもりはさらさらない。

しかし、勉強する機会を求めて大学に入ってきた学生が、その質問を発するのは矛盾している。この質問を発する学生からは、もともと自分で機会を求めて入ってきたくせに、それに対応できない能力の不足を、勉強そのものの価値の問題にすり替えて、精神的に逃避する甘ったれた考えが透けて見える。学ぶことの価値を疑わしく思うのであれば、それを振り捨て、さっさと退学して働けばいいものを、そうする度胸もないまま、大学にずるずる在籍したまま文句ばかり言っている。個人的に、「勉強が嫌いな大学生」というのは、「右に左折する」くらいの矛盾した言葉だと思っている。



閑話休題。
最近、ちょっと面白い本を読んだ。


数学が面白くなる 東大のディープな数学
(大竹真一、KADOKAWA出版)

東大数学


最近、類似した本がよく出ている。大学入試や高校入試の面白い問題を集めて、一般の読者にも分かりやすく解説してくれている。
そういう本が、受験参考書ではなく一般書として発行されているあたり、数学を「単に楽しむため」に勉強している層が増えている、ということなのだろう。いいことだと思う。

僕の感覚では、数学が嫌いな人ほど完璧主義者で、「数学の全てを学ばなければならない」と思い込んでいるような気がする。受験時代の呪いがまだ色濃く残っており、数学を「正解を出せなければ、それまでの過程がすべて無価値」と思い込んでいるのではないか。

実際のところ、数学の楽しみは、「答えを当てる」というところにはないと思う。本気で学問をすればすぐに分かることだが、学ぶことというのは、与えられた問題の答えを出すことではない。思考の過程で使う筋道を自ら作り出し、その発想を応用的に使えるまでに昇華させるのが、勉強の醍醐味だろう。正直なところ、僕が数学を勉強するときは、答えの数値が合っているか間違っているかは、わりとどうでもいい。その答えを導くための考え方のほうに興味がある。個人的には、自分の考え方が模範解答通りのときは、かえってがっかりする。

この本は、一応、模範解答を提示してはいるが、そこにはそれほど重点は置かれていない。高校数学の範囲から逸脱した解法さえ平気で載せている。むしろ重視しているのは、過去の東大の問題から、「東大はこの問題で学生に何を求めているのか」を深く掘り下げることだ。 

僕もこのBlogでたまに東大や京大の問題をとり上げることがあるが、それは別に東大、京大という名前の威を借りるためではない。単純に、東大や京大の入試問題には良問が多いのだ。世間からの注目度も高く、大学としても優秀な学生を見分ける必要性が段違いに高い。それだけ時間と人手をかけて問題をつくっているだろうし、よく練られている。

この本のはじめのほうに、まぁ、受験生向けの内容ではあろうが、「なぜ数学を学ぶ必要があるのか」についての記述がある。その内容がなかなか面白い。

昨今、理系離れがよく言われます。数学を何故勉強するのか、しなければならないのか、という若者たちへの返答として、世間には見当はずれなものがあまりにも多く、例えば

・世の中に数学は役に立っているから、数学を勉強しなければならない
・科学技術で立つ日本だから、その基礎となる数学ができることが必要である
・数学を学んだ人のほうが収入はよくなり、君の人生で得するよ

というようなものまであります。
数学が役に立つから勉強しろ、といのは、おそらく最も若者を見ていない教育でしょうね。


数学が社会の役に立つことぐらい、若者は誰でも分かっている


のです。わかった上で、何故(私が)数学を勉強するの?と聞いているのです。
蛍光灯も電子レンジも、新幹線も航空機も、コンピュータソフトも株式市場も、数学抜きでは全く成立しません。しかし、「数学が役に立つから」という理由では「数学は役に立つことは分かってるけど、それらに関わる人が勉強すればいいじゃない。私には関係ないもん」という反論に、論理的に答えることはできません。

数学に限ったことではありません。音楽や美術、生物学、それぞれ自分の気に入ったものを自分の尺度に合わせて懸命に勉強する、これはある意味で非常に個人的な行いだと思います。しかし、そのような個人的な行いなのですが、例えば、数学を勉強すれば、


数学的体験を通して、数学の歴史を追体験することになる


のです。数学は長い歴史をもった、人類の文化の一つだと、私は思っています。
高校レベルの数学でも、ほんの少し前には、最先端の数学であったわけですから。そうした歴史を背負った文化である数学を若い世代の諸君が学ぶことができることは、本人が意識するかどうかは別にして、


身震いしそうなぐらい、「すごいこと」なんです


よね。文化なんですから、もちろん強制し、強制されるものではありません。しかし、人類はこれまで次の世代に脈々と文化を伝えてきました。この大きな人類の歩みの中で、少しでも、人類文化の素敵さを次世代に伝えられたらと思います。

例えば、音楽が好きな人はいっぱいいますよね。絵が好きな人もいっぱいいます。クラシックの音楽をものすごく聞いて、いろんなころを知っている、絵を見てすごくいろいろ思っている、ようなその人は、「じゃあ絵を見て何の役に立つの」って言われたら、「音楽を聴いて何か得するの」って言われたら、どう答えるのでしょうか?
我々が生まれて言語を学び、音楽を奏でるあるいは鑑賞し、スポーツを楽しみあるいは観戦し、美術を創作しあるいは鑑賞する、こうしたことと同じように、数学を楽しみあるいは数学を鑑賞する、「人間になる」とはこういうことだと思います。それらの総体が文化ですね。もちろん、すべてをすべての人が強制されるものではありません。数学に向いていないというなら、別の分野でいいのです。楽しむことです。でも楽しめるかどうかは、しばらくはやってみないとわかりうものではありません。そうした観点からも、


数学は文化だから、一度はやってみる


のがいいのです。それにしても、数学を鑑賞する人が少ないですねぇ。


なかなか面白い考え方だと思う。この本の著者は予備校の講師だが、受験生に数学を教えることを飯の種にしている人とは思えないくらい、高い所から数学を俯瞰している。

僕は数学の先生に会う機会があるたびに、「もし生徒から『なんで数学を勉強しなければならないの』と訊かれたら、どう答えますか」と訊いている。おおむね、本職の中学、高校の先生ほど、きちんとした答えを持っている人は少ない。おそらく、「受験のため」「進学のため」という便利な方便があるため、根源的な解答をもつ必要性が薄いのだろう。

しかし、「受験のために勉強する」という狭いものの考え方では、受験が終わってしまえば勉強する理由がなくなる。それに比べて、「数学はひとつの文化だから、それを味わないのはもったいない」という考え方は、数学だけでなく、学校で学ぶすべての文化に共通したものだろう。

高校を卒業してしばらく経つと分かるが、高校までで習った知識というのは、「その分野を学ぶ機会は、高校時代が人生で唯一、最初で最後だった」という分野が少なくない。物体の落下運動の法則も、夜空に見える星座も、三角形の形状を決定する関数も、平安時代に書かれた文学も、すべて高校までに習った「知識の貯金」で、その後の人生を生きていく人がほとんどだろう。

そして、その貯金の価値を自覚していない人がほとんどなのだと思う。学校教育がきちんと制度化していない発展途上国では、いまだに病気の発生を「神の怒り」だと思っている地域もあるだろう。違う言語を話す人を「よそ者」として排除し、意思の疎通に嫌悪感を示す人もいるだろう。20世紀になってから革命で国が成立したため、その国で生まれた文学が皆無な国だってあるだろう。

その国の文化レベルは、初等教育・中等教育の教科書を見ればすぐに分かる。学校という学ぶ場所は、そのような文化的な礎を作り、後世に残し、発展させていくための最も基本となるものなのだ。日本は、その環境に恵まれている国のひとつだ。その国に生まれて、学校で学ぶことの意義を否定するのは、例えて言えば、金持ちの家に生まれたバカ息子が、「財布が重くなる」というだけの理由で紙幣を嫌うようなものだと思う。価値に囲まれ過ぎているために、自分のもっているものの本当の価値が、分からなくなっているのだろう。

学生は、発展途上国の恵まれない子供たちに慈善活動をするのが大好きだ。簡単にいいことをした気分になれるし、活動を通して学生同士の団結めいた雰囲気を味わうこともできる。
しかし、本当に発展途上国の恵まれない子供たちのことを理解しているのなら、まず自分が置かれている教育的環境に感謝し、まず己が学ぶ姿勢が生まれてしかるべきだろう。個人的に、ろくに勉強もせずに慈善活動に打ち込んでいる学生から、生産的で継続性のあるものなど何も生まれないと思う。

数学を「入試のために勉強するもの」と思うのであればそれで良い。そう思うのであれば、入試によって大学進学の道が自力で開ける国がどれだけあるのか、よく知った上でそう思うべきだろう。そのことを知っていれば、学校で数学を勉強できることがどれだけのことなのか、考えれば分かるだろう。それはすなわち、人類が積み重ねて来た叡智、すなわち「文化」に触れる機会に他ならない。その知見に自ら達し得ない者は、高校、大学という場で学ぶ資格がない。
資格がないというよりも、むしろそういう人は、自ら学ぶ機会を捨てて平気な人なのだろう。



そして東大の入試はそれが分かってるかどうかを問うてくるぞ。

東京大学入試問題・国語1(評論)

今年の東京大学入学試験・国語の第一問(評論)に、内田樹の「日本の反知性主義」の一部が使用された。
これを受けて、「東大は『知的』な人間を入試で排除するのか」「『反知性主義』の何が悪いんだ」といった批判が沸き起こっている。

僕もそれらの批判のすべてを見たわけではないが、どうも批判のほとんどが的外れのような気がする。
僕は個人的に内田樹の著作は眉唾ものが多いと見ており、正直なところ話半分に読む程度がいちばん良い距離感だろうと思ってはいるが、この東大入試に使用された文章を読む限り、それほど支離滅裂なことは言っていない。むしろ、東京大学がこの文章を評論文の読解問題に使用した意図がよく分かる。

あまり重視されていないことだが、大学入試の国語の問題を解く際には、重要なルールがある。
どの大学の、どの問題にも、冒頭には異口同音に必ずこう書いてある。

次の文章を読んで、後の設問に答えよ


つまり、文章に書いていない知識を勝手に動員して、文章の「枠」の外から解答してはいけない、というルールだ。この問題を解く際にも、そもそもホーフスタッターが提唱している「反知性主義」とはどういうものなのか、バルトが「無知」についてどう言っていたのか、著者の内田樹がどういう信条・主張の持ち主なのか、そういう知識は一切必要ない。むしろ、そういう「文章外の知識」を使って、問題を解いてはいけない。

一般的によく誤解されているが、やたらと知識を頭に詰め込んでいる「歩く辞典」のような人が、東京大学の入試に合格するわけではない。大学全入の時代となり、大学で学んだ経験をもつ人が多くなってきたこのご時世に、そんな誤解がいまだに流布しているのもいかがなものかと思うが、テレビのクイズ番組などで「東大芸人」「京大卒タレント」などと喧伝する時には、おおむね「いろんな知識をよく知っている」というイメージで「学力観」をでっちあげていることが多いようだ。

しかし実際のところ、東大入試に合格するためには、漢検一級で出題されるような難解な漢字を知っている必要はないし、アフリカの小国で使われている貨幣通貨の名前を覚えている必要もない。必要なのはただひとつ、「高校までの範囲で習う知識をきちんと身につけ、その知識をもとに思考する能力をもつこと」だけだ。東大に限らず、国立大学であれば、入試合格に必要なのは高校の教科書に載っている情報だけといってよい。

国語の入試というのは、与えられた文章がいわばひとつの「土俵」であり、その土俵の外から考察を加えるのは御法度なのだ。だから、今回の出題箇所を批判するときに「そもそも反知性主義というのはそういう信条ではない」「内田樹は反知性主義を間違って理解している」という批判は、ことごとく筋違いだ。
仮に著者の内田樹が反知性主義について間違った解釈のうえで文章を書いていたとしても、入試の問題を解く際には、著者の言っていることをそのまま解釈して問題を解かなければならない。

だから今回の入試問題を解く際には、「俺、『反知性主義』だったら知ってるぜ、もともとの意味はそういうことじゃなくて〜」のような態度が、真っ先に不合格になる。おそらく、多少なりとも「反知性主義」という言葉を「知っている」人であれば、左翼系の政治主張に絡めて内田樹の論旨を批判するだろう。そして、そう感じた時点で、「入試の基本的なルール」から逸脱している。
ちなみに東京大学の現代文は、そうした「知ってるぜ知ってるぜ」のような人間をふるい落とすために、用語の意味が一般的な定義や理解とは異なる使い方をされている文章をよく使用する。

もともと反知性主義というのは、主に独裁国家において愚民政策として採られた政策の通称だ。例えば、伝統的に中国は、体制維持のためにこの愚民政策=反知性主義を好み、「国民を賢くさせてはならない」という国策を採り続けている。
明代には、国民から「思考する力」「判断する力」を奪い、優秀な頭脳をことごとく「暗記マシーン」にするために、膨大な四書五経を丸暗記する「科挙」を課した。毛沢東は本人が読書好きだったにも関わらず、「本を読むほど馬鹿になる」と言い放ち、国民に読書を禁止している。現在でも中国はインターネットに制限をかけ、共産党に都合の悪い情報を遮断している。

のちに西洋社会では、この反知性主義という言葉がひとり歩きし、キリスト教に基づく「教養」と「道徳律」の概念混同から、「教育を受けてないからといって人間として価値が低いのか」という文脈に使われるようになった。無教育上等、むしろ本来の人間の平等の前では、教育の多寡など瑣末な要素に過ぎない。そう主張し、「教育的特権階級(=エリート)」から政治権力を奪還するための理論的背景になった。その考えが適用される場面は、軍隊による反シビリアンコントロール(文民統制)から共産主義革命まで、幅広い。現在行われているアメリカ大統領選挙で、共和党候補者を争っているドナルド・トランプの言説も、この反知性主義を下敷きにしている。

そして、そのような余計な知識をつけている人ほど、今回の東大入試は解けない。文章中で引用されているホーフスタッターも、著者の内田樹も、「反知性主義」という言葉をそのような辞書的な意味では使っていない。
そもそもこの出題文は、反知性主義について書いたものではない。「知性とはどのようなものか」について、著者の独自の見解を述べたものだ。だから、反知性主義に関するありとあらゆる「前提知識」が、著者の内田樹の論旨に噛み合ない、ということを以て「内田樹の言っていることは論旨が破綻している」ということを根拠に、今回の東大入試の問題を批判するのであれば、そうした批判はすべて的外れだ。

大学で教育をきちんと受けた人がこの文書を読めば、話の筋は科学論だとすぐに分かる。
世の中の真理を探求する方法として、人間は「宗教」「哲学」「科学」という三つの方法を編み出した。そのうち、現在の大学教育で採用されている方法論は(一部の大学、一部の学部を除き)科学である。「人文科学」「社会科学」というよく分からない区分用語は、扱う対象の分野に必要な特異性と、科学という一般的な方法論の、齟齬を埋めるために用いられている便宜上の呼称だ。

「信じること」を方法論とする宗教と、「疑うこと」を方法論とする哲学・科学の違いは、一般的によく知られているだろう。ところが、「哲学」と「科学」の違いについて明確に定義できる人は少ない。
端的に言うと、「哲学」は個人的な職人芸でも構わないが、「科学」は継続性がなくてはならない。科学においては、自分ひとりが世の中の真理に到達できたところで、それを他者と共有し、追体験できなくては意味がない。いくら「STAP細胞を発見した」と主張しても、他者にも同様にその発見が確認できなければ、科学的な事実とは認められない。科学が、真実を記述する際の言語として、誰にでも追体験と確認ができる「数値」を使用するのは、そのためだ。
そして科学は、そのように「いつでも、どこでも、誰にでも」真実であると確認できる事柄しか扱わない。

東大の出題文で内田樹が言っている「知性」というのは、この科学論の考えに沿ったものだろう。単に個人ひとりとしていくら頭が良くても、それが人類が蓄積してきた知識の総体に対してなんら寄与しないものであれば、知性とは呼ばない。既存の知識をやたらに記憶しているだけの「歩く辞書」は、人類が積み重ねている知の総体にとっては何のプラスにもならないのだ。過去から継承されてきた知の総体をきちんと継承するのは確かに必要だが、それは継承自体が目的なのではなく、その先のプロセスに対して必要な基礎だからだ。そうした知識の総体にわずかなりともプラスを加え、人類の知を前進させることが、「知性」の正しいあり方である。

少なくとも、東京大学は受験者にそのような「知性」を求めている。設問(四)は、そういった東京大学の要求を問題文から正しく読み取れなければ答えられない。
東大の態度は明確だ。大学で行われる知的活動がすべて「科学」の方法論に根ざしたものである以上、「科学」の定義における「知」のあり方を正しく認識していない者は、入学を許可できない。東大は、自己の中だけで完結し、他者と互換できないひとりよがりな「知性」など、要らないのだ。この程度の文章からその要求が読み取れないようであれば、科学を研究する態度としては失格だろう。

毎年、東京大学の国語入試問題の隠しテーマとして、「自己と他者」の対比、というものがある。これは国語教育の業界では常識とされている東大入試の傾向で、東大はこのテーマに根ざした出題をもう30年以上続けている。
今回の評論文も、「知性とは自分だけの中に存在するのではなく、それを一般性の高い方法で開示し、他者と共有し前進させることができなくてはならない」という、知識に関する「自己」と「他者」の距離感に話を落とし込んでいる。その点、東京大学が求めている「学力観」と、「知性のあり方」に対する姿勢が、とても分かりやすい問題と言えるだろう。その分、入試問題としては難易度が低くなってしまったのは残念だが、東大が学生の入学を許可する条件を問う問題としては良問の部類に属するだろう。


たとえ百科事典の内容を全部暗記したとしても、東京大学の入試には受からない。人間が協力してつくりあげてきた「知識の総体」を前進させるためには、既存の知識に新しいなにかを足し加える必要があり、言い替えればそれは「新しい知を創造する」ことである。暗記ばかりしている人は、古い知識には強いかもしれないが、自分で何かを新しく考え出すことはできないだろう。
巷ではやたらに情報を覚えている人を「頭のいい人」とみなす傾向があり、勉強といえば「暗記すること」と思っている中高生も多い。東京大学の入試問題は、そういう思い込みに対して「大学の学問ってのは、そういうことじゃないぞ」という、冷徹な姿勢を突きつけている。



ほとんが「反知性主義」という名称に脊髄反射しただけの批判だったけどね。

アメリカ大統領選挙予備選

米国大統領選 分断の政治を憂う
(2016年3月3日 朝日新聞社説)
米大統領選 危うさもはらむトランプ旋風
(2016年3月3日 読売新聞社説)
トランプ氏優勢 これでいいのか共和党
(2016年3月3日 毎日新聞社説)
世界的な影響が懸念される米政治の混迷
(2016年3月3日 日本経済新聞社説)
トランプ現象 「痛快だから」では済まぬ
(2016年3月3日 産経新聞社説)


アメリカで4年に1度のお祭り、大統領選が始まった。
今回の大統領選では、共和党の指名候補者をかけて競っているドナルド・トランプが話題となっている。

アメリカの大統領選挙はほぼ1年をかけて争われる長丁場なので、そのシステムが分かりにくい。
二大政党制をとっているアメリカでは、大統領選はほぼ共和党と民主党の一騎打ちになる。それぞれの党で、党が指名する候補者をまず決める。現在やっている「予備選」がそれにあたる。いわば党内の予選大会のようなものだ。

大統領選挙は一般市民が直接投票することはできない。一般市民が選挙によって選べるのは、大統領選抜の直接選挙権をもつ「選挙人」である。選挙人は、上院、下院の議員数と同数だけ選ばれるため、全国で538名が一般選挙によって選ばれる(議員数がないワシントンDCは特例として3名)。この538名の選挙人は、あらかじめ支持する候補者を明確にしているため、選挙人を選ぶ選挙が終わった時点で、事実上、時期大統領が決定する。

選挙人は州ごとに選抜されるため、それぞれの州で、民主党・共和党がどの候補者を擁立するかを決定しなくてはならない。それが現在行われてる、党内予選となる「予備選」で、それぞれの党がどの候補者を推すか、が州ごとに決定される。

アメリカは伝統的に、国政選挙は火曜日に行われる習慣がある。キリスト教では日曜日は安息日だし、月曜日に選挙をやると遠隔地に住む人は日曜日から移動を開始しなければならないため、火曜日に選挙が行われるのが慣例となっている。
毎年、2月下旬から3月上旬の火曜日には、各州が一斉に党内候補者を決める予備選挙を行うため、「スーパーチューズデー」と呼ばれている。候補者にとっては、スーパーチューズデーは一気に多くの州の支持を取り付けるチャンスになる。
おととい3月1日の火曜日が「スーパーチューズデー」にあたり、ジョージア、アラバマ、テネシーなど11の州で一斉に予備選挙が行われた。このスーパーチューズデーの結果で、その後、各州の動向がある程度予測できる。

スーパーチューズデーの結果、民主党ではヒラリー・クリントン候補、共和党では政治経験がない不動産業者のドナルド・トランプ候補が優勢という結果が出た。それを踏まえての各新聞社の社説。
どの新聞も、民主党のクリントンのことはどうでもいい。もっぱら話題は、共和党候補が濃厚なドナルド・トランプのほうにある。

いま行っているのは党ごとの候補者を決める予備選挙であるため、別にトランプが多くの州で支持を得たからといって、それがすぐに大統領選出につながるわけではない。現在、トランプが競っているのは民主党のクリントンではなく、同じ共和党のテッド・クルーズ上院議員とマルコ・ルビオ上院議員だ。政治経験が豊富な他候補者を抑え、なぜか政治経験皆無のトランプがスーパーチューズデーに圧勝した。

トランプが属する共和党は、一言で言うと「武力で強いアメリカを誇示することで支持率を上げる」ことを党是としている。レーガン、ブッシュ親子など、やたらに戦争屋が多い。湾岸戦争やアフガニスタン派兵など、世界中にアメリカ軍を派遣して、力でアメリカの影響力を誇示しようとする。

だから共和党が支持される時というのは、「アメリカが自信を無くしている時」と言ってよい。現在、アメリカは貿易赤字や移民による労働機会簒奪など、国内の不均衡が顕著になっている。端的に言えば、国民の生活が苦しくなっているのだ。そんな時に、過激な発言で「強いアメリカ」を誇示するトランプが支持を得るのは、いわば当然と言えば当然だろう。なんのことはない、第二次世界大戦前にナチスドイツが国民の熱狂的な支持を受けたのと同じことが、いまアメリカで起きている。

トランプが「仮想敵国」として国民の憎悪を煽っているのが、「イスラム諸国、メキシコ、日本」だ。
イスラム諸国は言うまでもなく、「アメリカのテロの脅威となっている」という理屈だ。メキシコは、流入する移民がアメリカ国民の就労機会を奪っている、という理由だ。もとはといえばメキシコ人労働者を安価な人件費で雇っているアメリカ人の雇用態度がそのような現状を招いたので、自業自得と言えば自業自得なのだが、そんな正論は誰も知ったこっちゃないのだろう。その二者に対しては、トランプは断固排他を叫んでいる。「外国人をアメリカから追い出せ」というスローガンだ。

日本を仮想敵国としているのは、主に経済の退廃の原因を押し付けるための、適当なスケープゴートが日本くらいしか見当たらないからだろう。アメリカの経済停滞は主に国内市場の閉塞と対外貿易赤字が原因だが、アメリカ、特に共和党は「自分たちのせい」とは決して認めない。必ず誰かのせいにする。それに加えて共和党は原理的に白人至上主義なので、有色人種に対して差別的な感情が根底にある。

だから「いまアメリカが苦しいのは、アジアのサルどものせいだ」ということにしたい。そう主張しているトランプがこれだけ熱狂的な支持を受けているということは、いかに多くのアメリカ人が「口には出さないが、心の奥底ではそう思っている」ということの表れだろう。

実際のところ、いまトランプが人気取りのために公言している方針のほとんどは、実際に大統領になれば己の首を絞めることだらけだろう。日米安保条約を「日本が安全のただ乗りをしている」、TPPを「日本が得するだけの不平等条約」など、本末転倒の主張を繰り返している。もともと日米安保もTPPも、アメリカのほうが日本に押し付けてきたものだ。それをアメリカ側から撤回するのであれば、日本としては「どうぞどうぞ」という態度になるだろう。
こうしたトランプの支離滅裂な主張については、共和党本部でも苦言を呈する声が上がっている。今後、大統領予備選で共和党がトランプの手綱をどのように取るのかで、現在の共和党の指導力が見積もれるだろう。


さて、そのトランプについての各社の社説。
ここではトランプの主義主張の是非ではなく、純粋に記事の書き方として意義のある書き方をしているかどうかを見てみたい。

そもそも話の大本として、「なんでこんな輩が大統領選で支持を得られるのか」を考えるのが王道だろう。もしトランプが大統領になったら、日本に対してかなり強行な政策を振りかざしてくることが予想される。それに対処するには、その背景、「なぜこんな奴が大統領に」という根っこを理解しておく必要がある。

だから現時点での社説としては、「もしトランプが大統領になったら日本はどうすればいいのか」という内容はピントがずれているだろう。まだ予備選の段階で、共和党の候補として決定したわけでもない。この段階で対トランプ対策をいろいろと提言したところで、二階から目薬の観が否めない。

そういう目で社説を読み比べてみると、めったにないことだが、一番よく書けているのは毎日新聞だろう。毎日新聞の社説は、トランプのように政治的な基盤がまったくなく、センセーショナルに人気取りを煽り、過激な発言を繰り返す候補者が出てくる背景として、最近の共和党の特質に触れている。

共和党自身の迷走も指摘できよう。トランプ氏を批判するのはいいとして、では共和党本来の姿、主張とは何なのか−−

同党は「家族の絆」を含めて米国のよき伝統と価値観を重んじてきた。だが、近年は原理主義的なキリスト教右派に加え、ブッシュ前政権をイラク戦争へ後押ししたとされるネオコン(新保守主義派)、保守系草の根運動の「ティーパーティー(茶会)」などが影響力を増している。 キリスト教右派はテッド・クルーズ上院議員の支持基盤。ネオコンはマルコ・ルビオ上院議員への支持が厚いとされ、茶会を含む三つの勢力の台頭で、伝統的な共和党の価値観が揺れている。同党執行部などの主流派は候補一本化でトランプ氏に対抗することを検討したが、主流派とされるクリスティー・ニュージャージー州知事がトランプ氏支持に回り、本流の分裂を印象付けた。
(毎日社説)


こと大統領選挙のような大きな権力人事の前では、個人の資質を攻撃して「お前、何言ってるんだ」的な批判は、どんなに正論であっても意味がない。気の狂ったような過激な発言が本当に大統領として不適切であれば、国民はそいつを選ばないはずだ。しかし、ヒトラーの時もそうだが、トランプのケースでも、問題は「国民の中にそれを支持している層がある」ということのほうにある。そういう自体を憂うのであれば、トランプのような個人を批判するだけでは、問題の根本的な解決にならない。第二、第三のトランプが出てくるだけの話だ。

毎日新聞が指摘しているのは、要するに共和党がトランプを押さえつけるだけの力が無くなっている、ということだ。指導部の求心力低下なのか、内部分裂なのか、詳しい事情はよく分からないが、ニュージャージー州の知事が一転してトランプ支持に廻ったのは、共和党の内部崩壊の一端とする見方は正しいだろう。

党内に押さえつける抑止力がなく、白人至上主義に基づく人種差別観のような「国民の本音」をすくい取り、理性を失って熱狂した国民を煽動する。いまアメリカの共和党で起きていることは、ヒトラーが政権を奪取した頃のナチスドイツと、何も変わらない。おおむね、外国からの醒めた目で「なんでこんな奴が支持されるんだ」という時は、いつでもどこでも似たようなことが起きているものだ。

朝日新聞は、絶対に書いてはいけない書き方をしている。

米国の民意はどこへ向かうのか。「トランプ現象」はもはやブームではない。保守層の中で確かな流れになりつつある。 実業家のドナルド・トランプ氏が2大政党のひとつ、共和党の大統領候補指名に向けて着実に歩を進めている。 50州のうち、11州でおとといあった予備選や党員集会でも、ライバルとの差を広げた。この勢いが続けば、党の候補の座を獲得し、11月の大統領選挙に臨むことになるかもしれない。

多くの国の人びとが不安の目を注いでいる。トランプ氏は、米国と世界を覆う難題への冷静な取りくみではなく、むしろ、米国内外の社会の分断をあおる言動を重ねてきたからだ。 やり玉に挙げるのは、メキシコ人であり、イスラム教徒であり、中国や日本でもある。民族や宗教などに標的を定めて攻撃し、テロの心配や雇用難などで怒る有権者の歓心を買う。 そんな扇動的な訴え方が、自由主義の旗手を自負する大国のリーダーとしてふさわしくないのは明らかだ。


「お前が言うな」の一言に尽きる。いままで様々な捏造記事で国民を煽動し、国に害を与え続けてきた朝日新聞がしれっと言ってよいことではない。

また、「多くの国の人びとが不安の目を注いでいる」という書き方は、何の根拠もない。朝日新聞は実際に世界各国で意見調査をしたわけではないだろう。「多くの国の人びと」と言うのであれば、何カ国の、何人くらいの人がそう言っているのか、客観的な根拠を出さなくてはならない。そんな根拠は一切無いだろう。

「不安の目を注いでいる」というのは、一般市民の意見のふりをした、朝日新聞の主観に過ぎない。これは朝日新聞が世論を誘導するときの常套手段で、ものの書き方としては下の下と断じて良い。朝日新聞は、「みんなこう言っている」と他人の意見として捏造するのではなく、正直に「我々は不安の目を注いでいる」と書かなくてはならない。 トランプの煽動的な言動を批判する朝日新聞が、読者を煽動してどうしようというのだろう。

書き方の他にも、内容の面でも朝日新聞は的を外している。朝日新聞の社説は、要するにトランプの言動の内容を非難しているに過ぎない。前述した通り、本当の問題点は「そういう非難に値する言動が、アメリカ国民の支持を得ている」ということのほうだ。国民がそういう言動を支持している限り、もしトランプが出馬を取り消しても、同じような方策をとる候補者が出てくるだけの話だ。ものの表層しか見ていない、薄っぺらい内容といってよい。

トランプ個人ではなく、背景にある構造的な要因を指摘する点については、毎日以外では産経がきちんとクリアしている。

政治経験のないトランプ氏の人気は、既成の政治への不満の反映であり、大衆の本音をずばり口にするポピュリズムにある。オバマ政権が招いた「弱い米国」への批判や、同政権下で広がった保守とリベラルの両極化などが背景にあろう。富裕層に対する不公平感など、米国民にやり場のない不満があることも無視できない。共和党内には、主流派の候補が絞り込まれればトランプ氏に勝ち目はないとの楽観的な見通しがあったが、有権者の不満を読み切れていなかった。 「トランプ現象」が米国の政治、社会の課題を示しているのだとすれば、対立候補はその問題点を指摘し、自ら克服する手法や政策を明確に提示して、巻き返しを図る必要がある。
(産経社説)


トランプ個人を批判するよりも、よほど建設的な提言だろう。問題の根っこを、より深く考察していると言える。

共和党の指導力低下は日経も触れているが、日経の社説はあくまでも「日本はどうするべきか」という論に終止しており、予備選挙のタイミングで出すべき記事とは若干のずれがある。実際にトランプが大統領に選出された際には、日本は経済・外交・軍事などさまざまな面で対応策を講じる必要があろうが、今の時点ではまずその前段階として、トランプがこれだけ騒がれている背景について抑えておくのが筋だろう。その考察を疎かにしては、具体的な策を講じる必要性が生じた時に適切な措置が取れなくなる。


ウィンストン・チャーチルは「いままでで最悪の政治家は?」と問われて、「さよう、最悪の政治家を決めるのは難しい。これぞ最悪という奴がいても、必ず後にそれよりも悪い奴が出てくる」と答えている。
基本的に、指導力に欠け、政治を勘違いしている輩が大統領になって困るのは、アメリカであって日本ではない。もし間違った人間を大統領に選ぶのであれば、それはその国の惨禍に過ぎない。
過去の共和党政権は、国内の支持率を挙げるための対外軍事政策を強行するたびに、国際社会の強い批判に晒された。その轍をまた踏むのであれば、アメリカのレベルはその程度ということだろう。



アメリカ国民はよっぽどストレスが溜まってるのだろうな。
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静電気

seidenki1

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どこで見てたんだ。

折田先生像 2016

折田先生像2016



今年はカービィで登場 京大名物の「折田先生像」
(2016年2月26日 朝日新聞)

国公立大の2次試験初日の25日朝、京都大の構内に、人気ゲームソフト「星のカービィ」の主人公、カービィのハリボテ像がお目見えした。

20年ほど前まで、京大の前身、旧制三高の校長・折田彦市の胸像があった。いたずらが続いたため撤去された後、毎年この時期にハリボテ像が登場する。

カービィの得意技は敵の能力をコピーすること。大学で論文などのコピー・アンド・ペースト(引き写し)が横行していることを風刺したいようだ。



kanban2016



縁起物ですので

民主・維新が合併合意

民・維合流へ 穏健な改革勢力目指せ
(2016年02月24日 毎日新聞社説)
公政権との対立軸がみえる野党結集を
(2016年02月24日 日本経済新聞社説)
民主と維新 政策なき合流に新味なし
(2016年02月24日 産経新聞社説)
野党勢力結集 「安倍政治」の対抗軸を
(2016年02月24日 東京新聞社説)
民・維合流へ 「反安倍」超える価値を
(2016年02月25日 朝日新聞社説)



このまま夏の参議院選になだれ込むのかなーと思っていたら、その前に大きな動きがあった。
第一野党の民主党と、維新の党が合流することで基本的に合意。ともに「今のままでは参議院選を戦えない」という、苦肉の策だろう。

両党の合併話は去年の12月あたりから噂されていたが、具体的な方法や施策などについてはまったく提示されておらず、単なる「おはなし」の域を出なかった。それがこの時期に話が具体化したということは、この合併話は政党の指針に端を発する根源的なものではなく、単に参議院選から逆算した時期的な事情だろう。「やばいやばい選挙に勝てない」という事情から、弱いもの同士がとりあえず集まった感がある。


新党名「民主」残るか…「誇りある」「一新を」
(読売新聞 2月24日(水))
民主、維新両党の合流では、新党名に「民主」の名称が残るかどうかが最大の焦点となりそうだ。 民主党の野田前首相らは、党名に「誇りがある」として大幅な変更には否定的だ。名称の存続にこだわる議員の間では「立憲民主党」や「新民主党」などが新党名として取りざたされている。


そんなに誇りがあるなら合併なんかするなよ、と思うのだが、こういう後ろ向きの発言が出てくることからも、民主党としても「したくてするわけじゃない」ということなのだろう。
参議院選を夏に控えて、マスコミとしてはこの合併をどのように捉えているのだろうか。

今の自民党政権は、マスコミにしてみれば、いわば「記事が書きやすい」政権だろう。経済と外交で方向性が突出して顕著であり、異論と反論がわきあがる微妙な問題にビシバシ切り込んでいる。それを矢継ぎ早に実行しているということは、それだけ政権運用能力が高いということの証左でもあるわけだが、その施策が正しいかどうかの議論が放っとかれたまま暴走している面もある。左派のマスコミからしてみれば、それを批判して、政権に対するネガティブキャンペーンを張るのは簡単だ。いまの安倍政権であれば、どんな無能な記者でも批判記事が書ける。

その姿勢が高じると、「政策の妥当性は置いといて、とにかく安倍政権は倒さなければならないのだ」という、反政権ありきの記事が乱発する。そういう記事には例外なく、代案となる施策の提言がない。僕は現在の民主党政権には政権担当能力がないと見ているが、その大きな理由は自民党政権への批判ばかりで、それに続くべき妥当な代案が全くないからだ。勢いだけで政権を奪取し、その施策内容が空虚だった失態をすでに一度犯している。その頃から、施策能力という点で進歩しているようには見えない。安倍政権はいずれ倒さなければならない政権なのかもしれないが、その担い手はこいつらじゃない、という気がしてならない。

今回の合併を評価する際にも、そのポイントが最も重要な焦点だろう。有権者としては、この合併をどう評価するかで、参議院選で投票する相手が決まってくる。だから厳正な目でこの動きを評価する必要がある。 その際、焦点となるのは「この合併政権には、はたして政権運用能力があるのか否か」の一点だろう。
選挙というのは、それに勝つこと自体が目的なのではなく、その先にある政権を担当する資質を有権者に示すのが本来の目的だ。だから今回の合併話を評価する際には、焦点を「選挙」に絞りすぎず、「政権担当能力」の有無を冷静に判断する必要がある。

だから今回の社説の中でも、「選挙」「選挙」と連呼し、とりあえず打倒安倍政権だけを叫んでいる社説は、下の下と評してよい。「合併したところで、ちゃんと施策能力はあるのか?」と、選挙の先を見据えて問題提起をしている社説が「合格」だろう。


その基準で採点すると、合格は日経、産経、朝日。
不合格は毎日、東京。


毎日新聞は、分からないように工夫して書いているが、要するに選挙のことしか言っていない。現在の安倍内閣は歴代の自民党政権のなかでも突出して右傾化が進んでおり、もともと党内に共存できた左派系の議員の居場所がなくなっている。良く言えば政党としての基本指針が堅固になっているということだが、悪く言えば懐が浅く、多様性を認めず狭い人材で固まっている。
毎日新聞が言っているのは「今回の合併は、そういう自民党内で浮いた人材を吸収するために絶好」ということだ。なんのために絶好かといえば、「夏の参議院選を勝つために」である。その先にある政権運用能力など、毎日新聞は知ったこっちゃない。党の再編によって人材があーだこーだ言っているが、記事の目線が近く、日本のあるべき方向をきちんと見ている社説とは言い難い。ヨーロッパのサッカーリーグじゃあるまいし、有権者はどの議員がどの政党に移っただの、どのチームとどのチームが合併しただのという話には興味がない。

いちばんひどいのは東京新聞だ。これは社説と呼べるものではなく、読者を煽動するためのシュプレヒコールに過ぎない。安倍政権打倒のみを焦点とし、それに合致する動きである今回の合併を大絶賛だ。東京新聞の社説を要約すると、「安倍政権の支持率なんてものは、『他に誰もいない』程度の支持層が多いんだから、だいじょうぶ倒せる倒せる。野党は参議院選がんばれ」だ。妥当性を検証してから意見を述べるのではなく、先に意見ありきで現実をそれにあてはまるように押し込める、煽動記事の最たるものと言える。

左派系の新聞のなかで、東京新聞と真逆の書き方をしているのが朝日新聞。
朝日は、東京新聞のようなお気楽なお花畑とは違い、今回の合併を「そうでもしなければ参院選を勝てない」ゆえの苦渋の選択、と見ている。その上で、「その程度の目くらましでは、安倍政権は簡単には倒せないからな」と冷静に釘を刺している

ただし、衆院で100人近い勢力となる民・維の「新党」は、「反安倍」の一点にとどまっているわけにはいかない。民主党には異論があるだろうが、安倍首相は政権に返り咲いてから、経済再生の取り組みに一定の評価を得てきた。また、安保関連法成立後は、「同一労働同一賃金」など民主党のお株を奪うような政策を打ち出している。少子高齢化や財政難といった厳しい条件を考えると、取りうる政策の幅はそう広くない。そのなかで、安倍政権への政策的な対立軸を打ち出すのは容易ではない。それでも、これからの日本がめざすべき社会の姿や共有すべき価値観は何なのか。はっきりと国民に示せなければ、政権交代の選択肢にはなり得ない
(朝日社説)


今回の合併話で言うべきことは、これが全てではないか。
野党が合併したところで、票の上では与党に迫ることはできるかもしれないが、そういう寄せ集め集団に政権を担わせたらどういうことになるか、もう日本国民はいやというほど経験している。今回の合併でいう「党派同士の擦り合わせ」というのは、別に新党名に民主の名前を残すかどうかなどということではなく、安倍政権以上に説得力のある施策の基本方針を早期に打ち出すことだろう。それがなくては、参議院選で夢と希望を語るだけの、根拠のない大ほら吹きになるだけだ。

毎回の社説できっちり平均点を越える日経は、今回もポイントをはずしていない。ただでさえ党内の意見調整が難しい民主党に維新が合流すれば、いままで以上に党としての基本政策が問われることになる。有権者の目線で今回の合併をきっちり見ているといえる。

重要なのはそうした手続きではなく、政策の一致である。「政権交代」しか訴えるものがなかった民主党政権が内紛続きで自滅したことは記憶に新しい。日本経済をどう再生させるのかをはじめ、憲法や外交・安全保障など基本政策でずれを抱えたままで二大政党の一翼を担うことはできない。 民主党はもともと党内にさまざまな考えの議員がいる。そこに維新が加わるのだから、よほどしっかり方向性を定めないと、「一皮むけば野合」(自民党の谷垣禎一幹事長)との批判をはね返せまい。今後の合流協議は政策重視で進めてほしい。
(日経社説)

過去の野党共闘は政策の食い違いを与党に突かれ、最後は足の引っ張り合いで終わることが多かった。与党内に衆参同日選の待望論があるのは、野党の選挙協力は参院選ではできても、選挙区の数が多い衆院選ではできないとたかをくくっているからだ。 将来の政界再編の芽か、単なる選挙互助会か。有権者がみているのはそこである。
(同)


保守系の産経新聞の書き方は手厳しい。維新には、民主党を離党した議員も含まれている。それがまた合併したということは、政策理念に矛盾はないのか、とチクリと刺している。

昨年からくすぶってきた合流構想が一気に進んだのは、今夏の参院選が近づき、野党がばらばらの状態を解消したいからだろう。安全保障関連法の廃止法案を共同提出した直後でもある。 だが、いくら手続き論を先行させても、自分たちならこの国のかじ取りをどうしたいという肝心の点が分からない。青写真を示そうともしない点は首をかしげる。

維新には民主党出身の議員もいる。松野氏は鳩山由紀夫政権下で官房副長官を務めたが、野田佳彦政権下で社会保障・税一体改革関連法に反対した。 党を除名され、旧維新の結成に動いたが、その後、政策的判断がどう変わったのか。受け入れる民主党も、一体改革について今後、どのような姿勢をとるのか。

両党は昨年12月、統一会派の結成に向け「基本的政策」で合意した。だが、憲法や行財政改革など違いの大きい課題は玉虫色の表現で済ませた。 重要な政策のすり合わせを棚上げして、巨大与党との論戦を展開していくことなどできない。 目指す政治理念の実現に向けて離合集散を重ねることは、否定されるものではない。だが国費をもらいながら政党を作っては壊し、結局はもとのさやに収まる。 ほとぼりが冷めたから、では国民への説明にならない。自民党から「政党として未成熟」と酷評されるのも無理はないだろう。
(産経社説)


相手の矛盾を指摘するのは、議論の際の基本的な技術だ。今回のトピックではあまりそういう議論のしかたに意味はないが、合併話が本質的な必要性から生じたものではなく、選挙のための小手先の方策だということを批判する役には立つだろう。

民主党は国政選挙の前になると、やれタレント議員を擁立するだの、やれ合併改名だの、こざかしい印象操作で選挙戦を勝ち抜こうという姑息な手段が目立つ。今回の合併がその延長上にあるものなのかどうか、有権者としては冷静に見極める必要がある。



選挙権をもらう18、19歳はちゃんとこういう記事読んで批判してんのか。
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直角三角形への斜辺のへの中線は

講談社ブルーバックスからちょっと面白い本が出てましてね。


x教授殺害

『数学ミステリー X教授を殺したのはだれだ!』
(トドリス・アンドリオプロス、タナシス・グキオカス著) 


殺人事件の捜査に見立てたミステリー仕立てで、手がかりがすべて数学の問題で与えられている、という本です。 数学もこうやって導入すると面白いですね。マンガだから子供にも読みやすそう。

犠牲者として殺される被害者役は、ヒルベルト。動機もそれらしく史実を本歌取りして拵えています。
ちなみに、探偵役はクルト・ゲーデル。彼が探偵役という段階ですでにオチは見えているような気がします。だってどうせ不完全性定理からのアレでしょ。
まぁ、それはさておき。

登場する「容疑者」は、デカルト、フェルマー、ニュートン、ライプニッツ、オイラー、ガウス、リーマンなど、みんな歴代の錚々たる数学者。時代考証もへったくれもありません。彼らが身の潔白を主張するための根拠がみんな数学の問題になっており、それを解くことによって犯人か否かを判断するパズルです。
問題とは別に、それぞれの数学者の個人的なエピソードなどをちょろっと挟んで紹介しているあたり、数学への興味関心をかきたてる工夫がしてあります。

数学の問題そのものは、まぁ、中学程度の数学知識があれば解けるものですが、ちょっとひと工夫必要な問題もあって、なかなかの良問が揃っています。単純にパズルとして楽しめる本といえましょう。

その問題の中に、こんなのがありました。


フェルマー

容疑者はピエール・フェルマーね。 


設定として、犯行現場はM地点です。
つまり、逃走経路としてM-O-Lか、M-K-Lの折れ線の距離を求める問題です。この距離が20以上であれば、ピエールは犯人ではありえない、という設定です。

実はこれ、僕は解けませんでした。中学程度の幾何に遅れをとるとは何たる不覚。
答えを見てみたら、解説にこうありました。

あらゆる直角三角形において、斜辺にひいた中線の長さは、斜辺の長さの2分の1である。



・・・そんな定理、あったか?



(つまり、MOの長さは、KOとOJと同じ。)




トドちゃんと数学




外接円の半径

自明。 



嫁さんは、僕が解けなかった数学の問題をあっさり解けたことがよほど嬉しかったらしく、この後このシーンを何度か再現させられました。



私立文系のこの数学への劣等感は何なんだ。
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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