苔(こけ)というものは、良いもんなんだろうか、悪いものなのだろうか。
昔から君が代の歌詞が不思議だった。
最初は「細石」、つまり砂利だろう。それが時間をかけると「巌」となる。さらに時間が経つと「苔」が生す。
まず第一に不思議なのは、細石が巌となることはあるのか、という疑問だ。君が代が謳っているのは、「それほどの長い年月のあいだ、君が代は歌い継がれるものですよ」ということだろう。普通は、巌が崩れて細石となるのではないか。普通に考えれば、小が勝手に大と化すというのは、エントロピー増加という物理の大前提に激しく逆らっている。千代に八千代に待ってみても、どうも砂利が巌に化けるのは無理がある。なんでこんな物理の法則に逆らったことが起きるのだろう。
当然、極相である「苔が生す」という状態を謳いたいがためだろう、という予測が立つ。巌→細石の流れだと、細石に苔が生すことになってどうもありがたみがない。苔が生すのは、やはりどーんとそびえる巌でなくてはなるまい。苔が生える一歩手前が巌であるとすれば、それよりも前の段階は逆に小さい細石であることになり、細石→巌の順でなくてはならない。このように、君が代の歌は、結果としての「苔が生す」という状態を作り上げたいがために、時間の流れを逆に作ったのではないだろうか。
そこで疑問。「苔が生す」というのは、いいことなのか?
私は日本庭園の作りと美学について疎いのでよく分からないが、どうも古くからの由緒ある日本の庭には、確かに苔はつきもののような気がする。緑がびっしりと埋め尽くす庭の景観は、理屈抜きで時間の流れを感じさせる重さがある。
「転石苔生さず」ということわざがある。転がる石に苔は生えない。これは英語にも同様のことわざがあって、Rolling Stones gather no moss, という。おもしろいのは、表している物理現象は同じだが、意図は正反対、ということだ。日本語の「転石苔生さず」は、「あっちこっちに転がるような落ち着きのない奴は風格が身につかない」と、動かないことを奨励している。ところが、英語のRolling Stones gather no mossの方は、「いつも生き生きと動く者はいつまでも新鮮でいられ、躍動感にあふれている」という意味で、動くことを奨励している。つまり苔の立場としては、日本ではいいもんで、英語ではわるいもんなのだ。ひと昔前に話題になった寓話「チーズはどこに消えた?」は原作が英語だけあって、現状に固執する姿勢をあざ笑う、変化を求めて動く者の賛歌となっている。
日本語と英語の正反対の意味は、どちらがより真実に近いだろうか。どうも私の感覚だと、奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・江戸・明治の昔ならいざ知らず、世の中の流れがスピード化した現代社会においては、英語のほうの解釈のほうが事実に近いのではないか。日本の企業も終身雇用制度を見直す段階にきている。ひとところにどっしりと構えて動かない姿勢は体制の硬直化を生み、時代に取り残される時代錯誤な結果を生むのではないか。
アメリカに来るまで、私はそう思っていた。
この国に来てから、ちょっと考えが変わった。
日本は国土が狭く、人口が多い。島国であるため、遥か悠久の昔から一本の歴史に沿って人が生きてきた。その結果、国土のどこに行っても、先人の跡がある。日本で、誰一人踏んだことのない地はないのではないか。日本人がある景観を眺めたとき、遥か昔に同じ景色に臨んだ先人がいたことを感じ取ることができる。私たち日本人は、1400年前に立てられた寺社の門の前に立ち、それを立てる為に奮闘した者や、それぞれの思いをもってその門をくぐった者を想い、連綿と続く時間の先に今の自分がいるという、歴史の流れを感じることが出来る。
それに対して、アメリカは未開の土地はおろか、人を拒む自然が多すぎる。日本と違い国土が広大なため、単調な景観が多い。国としての歴史が浅いため、過去を持たない。草木が一本も生えない広大な砂漠、自然の力が織り成す大渓谷、雄大な水を湛える大河を見て、私たちは自然の驚異に感嘆はするものの、そこに太古の人たちとの対話はない。
つまり、アメリカという国には涙がないのだ。景色は自然が作ったものであり、そこに人の魂は眠っていない。国土の中に、先人の姿を見出すことができない。殺風景で馬鹿でかい景観を見ても、流せる涙がない。
それに対して日本の場合は、剛の者と剛の者がお互いにしのぎを削った古戦場、歴史の舞台となった建築物、文化を作り続けた名匠の跡が、至るところに感じられる。どんな景色や場所にも、かつてそこで流れた涙がある。「夏草や兵共が夢の跡」という感慨は、日本人であれば容易に追憶に想いを馳せることができる意識であるのに対し、アメリカではそれを感じることができない。
「苔」というのは、こうした歴史の積み重ねを感じられるものを示す具象ではあるまいか。和風庭園の庭に生す苔は、最初に生し始めた数百年前と、現在とを紡ぐ歴史の糸ではないだろうか。数百年前に、同じ石の同じ苔を見た者と、現在、それを見る自分とが、同じ場所で同じ意識を共有する。これは、脈々と続く歴史を持つ日本人だけが持つことの出来る意識だろう。
日本人にとっては、「転石苔生さず」は、どっしりと構えよ、弛まず動け、どちらの意味にも取ることができる。先人が積み重ねた歴史の重さと、現代世界のスピード化した文化の、両方を享受できる民族であることによる選択の幅だ。しかし、アメリカでは、「どっしりと構えよ」という意味を実感として感じることが出来る文化的な背景がない。アメリカ人にとってRolling stones gather no mossという言葉は、ただひとつしか意味を選ぶ余地のない言葉なのだ。
現代社会においては、「転石苔生さず」という言葉は、「弛まず動け」の方が当てはまることが多いと思う。しかしながら日本人は、この言葉をして、英語が持ち得ない「どっしり構えよ」という意味たらしめる壮大な歴史を持つことを、誇りに思っていいのではないか。
昔から君が代の歌詞が不思議だった。
最初は「細石」、つまり砂利だろう。それが時間をかけると「巌」となる。さらに時間が経つと「苔」が生す。
まず第一に不思議なのは、細石が巌となることはあるのか、という疑問だ。君が代が謳っているのは、「それほどの長い年月のあいだ、君が代は歌い継がれるものですよ」ということだろう。普通は、巌が崩れて細石となるのではないか。普通に考えれば、小が勝手に大と化すというのは、エントロピー増加という物理の大前提に激しく逆らっている。千代に八千代に待ってみても、どうも砂利が巌に化けるのは無理がある。なんでこんな物理の法則に逆らったことが起きるのだろう。
当然、極相である「苔が生す」という状態を謳いたいがためだろう、という予測が立つ。巌→細石の流れだと、細石に苔が生すことになってどうもありがたみがない。苔が生すのは、やはりどーんとそびえる巌でなくてはなるまい。苔が生える一歩手前が巌であるとすれば、それよりも前の段階は逆に小さい細石であることになり、細石→巌の順でなくてはならない。このように、君が代の歌は、結果としての「苔が生す」という状態を作り上げたいがために、時間の流れを逆に作ったのではないだろうか。
そこで疑問。「苔が生す」というのは、いいことなのか?
私は日本庭園の作りと美学について疎いのでよく分からないが、どうも古くからの由緒ある日本の庭には、確かに苔はつきもののような気がする。緑がびっしりと埋め尽くす庭の景観は、理屈抜きで時間の流れを感じさせる重さがある。
「転石苔生さず」ということわざがある。転がる石に苔は生えない。これは英語にも同様のことわざがあって、Rolling Stones gather no moss, という。おもしろいのは、表している物理現象は同じだが、意図は正反対、ということだ。日本語の「転石苔生さず」は、「あっちこっちに転がるような落ち着きのない奴は風格が身につかない」と、動かないことを奨励している。ところが、英語のRolling Stones gather no mossの方は、「いつも生き生きと動く者はいつまでも新鮮でいられ、躍動感にあふれている」という意味で、動くことを奨励している。つまり苔の立場としては、日本ではいいもんで、英語ではわるいもんなのだ。ひと昔前に話題になった寓話「チーズはどこに消えた?」は原作が英語だけあって、現状に固執する姿勢をあざ笑う、変化を求めて動く者の賛歌となっている。
日本語と英語の正反対の意味は、どちらがより真実に近いだろうか。どうも私の感覚だと、奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・江戸・明治の昔ならいざ知らず、世の中の流れがスピード化した現代社会においては、英語のほうの解釈のほうが事実に近いのではないか。日本の企業も終身雇用制度を見直す段階にきている。ひとところにどっしりと構えて動かない姿勢は体制の硬直化を生み、時代に取り残される時代錯誤な結果を生むのではないか。
アメリカに来るまで、私はそう思っていた。
この国に来てから、ちょっと考えが変わった。
日本は国土が狭く、人口が多い。島国であるため、遥か悠久の昔から一本の歴史に沿って人が生きてきた。その結果、国土のどこに行っても、先人の跡がある。日本で、誰一人踏んだことのない地はないのではないか。日本人がある景観を眺めたとき、遥か昔に同じ景色に臨んだ先人がいたことを感じ取ることができる。私たち日本人は、1400年前に立てられた寺社の門の前に立ち、それを立てる為に奮闘した者や、それぞれの思いをもってその門をくぐった者を想い、連綿と続く時間の先に今の自分がいるという、歴史の流れを感じることが出来る。
それに対して、アメリカは未開の土地はおろか、人を拒む自然が多すぎる。日本と違い国土が広大なため、単調な景観が多い。国としての歴史が浅いため、過去を持たない。草木が一本も生えない広大な砂漠、自然の力が織り成す大渓谷、雄大な水を湛える大河を見て、私たちは自然の驚異に感嘆はするものの、そこに太古の人たちとの対話はない。
つまり、アメリカという国には涙がないのだ。景色は自然が作ったものであり、そこに人の魂は眠っていない。国土の中に、先人の姿を見出すことができない。殺風景で馬鹿でかい景観を見ても、流せる涙がない。
それに対して日本の場合は、剛の者と剛の者がお互いにしのぎを削った古戦場、歴史の舞台となった建築物、文化を作り続けた名匠の跡が、至るところに感じられる。どんな景色や場所にも、かつてそこで流れた涙がある。「夏草や兵共が夢の跡」という感慨は、日本人であれば容易に追憶に想いを馳せることができる意識であるのに対し、アメリカではそれを感じることができない。
「苔」というのは、こうした歴史の積み重ねを感じられるものを示す具象ではあるまいか。和風庭園の庭に生す苔は、最初に生し始めた数百年前と、現在とを紡ぐ歴史の糸ではないだろうか。数百年前に、同じ石の同じ苔を見た者と、現在、それを見る自分とが、同じ場所で同じ意識を共有する。これは、脈々と続く歴史を持つ日本人だけが持つことの出来る意識だろう。
日本人にとっては、「転石苔生さず」は、どっしりと構えよ、弛まず動け、どちらの意味にも取ることができる。先人が積み重ねた歴史の重さと、現代世界のスピード化した文化の、両方を享受できる民族であることによる選択の幅だ。しかし、アメリカでは、「どっしりと構えよ」という意味を実感として感じることが出来る文化的な背景がない。アメリカ人にとってRolling stones gather no mossという言葉は、ただひとつしか意味を選ぶ余地のない言葉なのだ。
現代社会においては、「転石苔生さず」という言葉は、「弛まず動け」の方が当てはまることが多いと思う。しかしながら日本人は、この言葉をして、英語が持ち得ない「どっしり構えよ」という意味たらしめる壮大な歴史を持つことを、誇りに思っていいのではないか。