たくろふのつぶやき

秋はやきいも ほくほくしてうまし。

学問的知見と教育(2)

専門学校で非常勤をしていた頃、最近の中学高校の英語の教科書を見る機会があった。
特に中学の教科書に驚いた。文法事項の説明が一切無い。しかも、私が中学のころの英語の教科書は、いわゆる「本文」というのがずらっと書いてあったものだが、最近の教科書はすべて登場人物の絵に吹き出しがついていて、セリフ調で英文が書いてある。まるでマンガだ。

前回、「学校教育の現場に理論言語学の知見は無意味だ」という趣旨のことを書いたら、反響のメールが来て驚いた。まだページを作ったばかりで、カテゴリーにも登録されてないというのに、結構こんなページを見ているヒマな方がいらっしゃるものだ。
メールは高校の現職を退いて、私立高校で嘱託講師をされている年配の女性だった。初学の段階で文法中心に英語を学ぶことの重要性をこんこんと説かれている。「文法をより効果的に教えようと、今までにない知見を用いようとする件の女性の姿勢はすばらしいものだと思います」とあった。

何か誤解があるようだ。
私は、高校の英語の授業で文法が一切無用だとは言っていない。語学を学ぶ上で、文法知識はどのみち必要だ。そんなことは、あたりまえだ。問題は、文法をどういうタイミングで、どのように教えるか、そこに学問的な知見は有用なのか、である。

そもそも、日本での英語教育は何を目的に始まったのか。
簡単に言うと、「欧米の技術を盗むため」である。明治政府は、日本が欧米に比し格段に学問、技術力で劣ることを素直に認めていた。欧米の技術を盗むには向こうの書物を読めないことには話にならない。よって読解中心の英語教育が行われた。聞く、話すは後回し、とにかく書物に書いてあることを吸収する能力の育成が先決だった。今となっては笑い話だが、当初は英語を、漢文のごとく返り点を打って日本語で読み下すという案もあったそうだ。いかに音声教育が軽視されていたかを物語る。

良かれ悪しかれ、日本の英語教育はこのように「読み中心」で行われていた。こういう旧態依然の方法をここでは便宜上、「文法偏重読解系」と呼ぶことにしよう。また、明治政府が軽視していた音声に基づく会話能力を育成する方法を「音声重視系」と呼ぶことにしよう。「文法偏重読解系」の教育方針においては、とにかく書面の英語に書いてある意味さえ分かれば目的は達成されたことになる。その教育方針では、文法というのは謎の文章を解き明かすことができる魔法の鍵だった。一種の奥義と言える。数多くの文法奥義に通じている者が、数多くの文献を読むことができる。当然、文法が一種の技術となり、「それさえ修めれば英語に通じることができる」という幻想をもたらした。日本の英語教育は、このような事情を土台として一世紀もの間進展してきたのだ。

ところが時代は変わった。日本が欧米を一方的に追随する関係は終焉し、英語で書かれた文献を読み、書かれていることを理解して満足している段階は終わった。日本は自国でもたらされた成果を世界に発信するべき立場になった。対等のレベルで欧米諸国と技術共同開発を行い、成果を競い合う時代だ。がむしゃらに頑張った挙句、気がついたら日本は経済、国際関係、技術、すべてにおいて発信すべき側に回ってたのだ。ここで問題なのは、時代と立場が変わり、するべきことが変わっても、英語教育の基本方針は変わっていなかったということだ。「文法偏重読解系」の英語教育しか受けていない者は、下の世代にもその教育しか施すことができない。日本の英語教育は時代に対応していなかったのだ。

文部科学省は、遅ればせながらそのことに気がついた。平成11年の学指導要領改正で、「外国語」の項目を見ると、やたらと「コミュニケーション」という言葉が強調されていることに気がつく。ここにきて「音声重視系」式の教育の必要性が叫ばれるようになった。しかし問題は、高校の現場において「文法偏重読解系」の教育しか受けていない中高年の英語教師が、英語を話せないことだ。ここでいう「英語が話せる」というのは、日常会話や質問ができるレベルのことをいうのではない。自分の考えを伝えるために英語で議論や喧嘩ができるようになってはじめて「英語が話せる」と言うのだ。当然、教える側ができないのに、教わる側ができるようになるはずはない。かくして文部科学省の指導のもとで作られた「オーラルコミュニケーション」という授業は、その名を冠した文法の授業と成り果てる。教師が「音声重視系」で英語を教育するノウハウを持っていないからだ。

文部科学省の意図する「コミュニケーション能力に基づく英語力」をつけるには、音声を用いることが不可欠だ。言語というのは、脳の中で記憶を司る部分とは独立した「ことば専門の領域」に蓄積されるとされている。だから記憶喪失になった者でも母国語は忘れない。この部分は、音を聞き音を発することによって活性化される。英会話に習熟するためには、とにかく聞いて聞いて聞きまくり、喋って喋って喋り倒すことが必要である。文法はとりあえず無視する。とにかく喋って表現をかたっぱしから口に覚えさせる。

ある程度、頭の中に表現を詰め込んだ後で文法を説明されると、理解がもの凄くクリアになる。今までがむしゃらに暗記するだけだった外国語に、「文法という秩序」が与えられることで、頭の中で知識が体系化される。霧が晴れるように鮮明な全体像が見える。気をつけなければならないのは、教える順序を逆にすると学習意欲を奪うことだ。英語はまだ文法が溶けているからよい。たとえば外国語でロシア語を学ぶとする。ロシア語は寒いだけあって昔のラテン語の特徴が冷凍保存され、えらく複雑怪奇な文法を擁する。そのロシア語を学ぶときに、ぶ厚い文法書を渡され、「これをマスターしてから音声に入る」などと言われたら、第一章「格変化」の男性名詞三人称単数あたりで挫折する。文法は、ある程度の量の表現に慣れ親しんだ後でないとその効果を発揮しないものだ。

その点では、初学の中学一年生の段階から文法事項を削除した文部科学省の方針は妥当と言える。しかし、私の印象では、表現を詰め込むにしてはすこし英文の量が少ないと感じた。ためしに全文暗記をしてみたら、5日で教科書一冊が暗記できた。20代中盤(文句あるか怒)の私にしてこの容易さだ。12歳の柔軟な脳ではもっと容易に違いない。

件のメールを送ってきた女性は、「まず文法ありき」の授業で生徒がちゃんとついてきている自信があるんだろうか。いやそれよりも、彼女が英語以外の言語を勉強しようとするとき、まず何をおいても文法を完璧にマスターする自信があるのだろうか。
いや、高校を定年なさる世代でもWebでblogサーフィンなどなさるくらいだから、結構、柔軟に対応できたりするのかな。

フリーターという職業

「まるで日記のように」さんのページで面白い記事を見つけた。
神戸女学院大の内田樹という方のコメントらしい。

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100円ショップは品出しやセキュリティもみんな時給900円のバイトがやるらしい。

そういうことができるのは日本だけである。

正社員がろくにいない店舗が時給900円のバイトだけで経営できるという事実は、日本の「フリーター」諸君の提供する労働力のクオリティの高さを証明している。

彼らは監督者がいないからといって商品を略奪したり、レジの金を盗んだりしない。
そんなことは思いもつかないのである。

時給850円の女子大生がハンバーガーの仕入れから迷子の世話から新人研修までやってくれるのであるからこそ、59円でハンバーガーを売るというようなことも可能だったのである。

そういうことがいかにインターナショナルな基準からして特異なことであるか、ということはあまりアナウンスされない。

外国から来た人が驚くのは日本の「自動販売機」の多さである。

管理者が誰もいないところに自動販売機がわんさと置いてあるが、自動販売機を壊して商品を盗む人間も、金を取る人間も、まずみかけることがない。

フランスのコカコーラ自動販売機なんて、ほとんど「要塞」のような作りになっていて、トラックで略奪されないように太い鎖で二重三重に壁に縛り付けてあり、お金をいれてから商品を取り出すまでに鉄の扉を二つもこじあけないと手が届かない。

誰も見ていないところに商品とお金があれば、「遅かれ早かれ盗まれる」ということがかの地では「常識」に登録されているわけである。

日本はそういうことがない。このセキュリティの確かさが社会のインフラとして整備されているからこそ、100円で商品を売ることが可能になるのである。

日本の若い人はモラルが低いと言う人が多いが、それはずいぶん一面的な決めつけではないかと思う。

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こう言われてみると、日本ではフリーターってのもひとつのポジションなのかもね。
「フリーター」を毛嫌いする中年が多いけど、その恩恵を考えたことはあるんだろうか。確かにアメリカではバイトの店員は一律に「無責任で無愛想」だしなぁ。
「モラルの低さ」の次元も日本と違う。

日本には「卑怯」って概念があるからな。
英語には訳せない。

サンタクロース

アメリカはちょうど今がクリスマスだが、アメリカで祭日というのはホントに誰も働かない。ウワサによると警察署も休むので911通報しても留守電が応答するそうな。
もうちっと働けよ怒

ヒマだから昼にジョギングに出かけた。見事に誰ともすれ違わない。自分以外の人間はみんなどこかに集合しているんじゃないかと思ったくらいだ。大きな通りに出たら車が3台通りかかったのでホッとした。

「サンタクロースっていつまで信じてた?」
よくある質問。
自分に関して言うと、去年までは信じてた。
おととしのクリスマスイブ、部屋にやってきたサンタが金に困ってるというので少し貸してやった。「来年のイブには返しに来ます」と言ってたし、まぁサンタが嘘つくこともないだろうと思って安心してた。
ところが去年のクリスマスイブ、ぜんぜん来やしねぇ。踏み倒された、と思ったときは遅かった。サンタクロースを信じてた俺がバカだった。

学問的知見と教育(1)

先日、学部時代の友人で都内の私立高校で英語教諭をしている女性からメールをもらった。彼女は大学院の修士課程まで進んで専修免許を取得している。専門は文学だったが、単位の都合で英語学を履修する必要があり、私とも面識があった。どうやら職場内の軋轢が原因で高校を辞めたらしい。大手予備校の英語科に採用された、とあった。
曰く、「予備校で教えるには確固たる文法知識で理論武装する必要があるから、簡単に参照可能な『虎の巻』的な理論言語学の本を紹介してくれ」ということだった。

唖然とした。彼女は大学時代から真面目で、専門外の英語学もそれなりに頑張って勉強していたと記憶している。それなのに、理論言語学を学べば当然気づくことに気づいていないのだ。

言語学と聞けば、博物学的な言語収集学を連想する人もいようが、現在の理論言語学は経験科学的方法論に基づく理論構築を目的としている。科学であるものと、そうでないものを分けるのは、「扱う対象」ではなく「方法論」である。データを観察し、謎を発見し、それに対する仮説を立てる。その仮説に対して更なるデータを検討し、反例が出たら仮説の立て直し、出なかったら更なるデータを求めて反証の土台とする。これが経験科学の方法論である。潜在的に存在可能な全てのデータを検証するのは事実上不可能なので、経験科学には証明という概念がない。そこが数学や論理学などの形式科学と異なる。
この科学論のもとでは、シェイクスピアもれっきとした経験科学の対象となる。「シェイクスピアは偉大な作家だ」という命題は直接的な反例となるデータが存在し得ないので科学的考察の対象とはなり得ないが、「シェイクスピアは1564年に誕生した」という命題は科学的考察の対象となる。それ以前に書かれた文書に彼に関する記述があれば、それが直接的な反証になるからだ。

理論言語学による英語の分析では、言語直感に照らし合わせて容認可能な形式と、容認不可能な形式を対比させることによって、人間の持つ言語能力がどのようにプログラムされているのかを探ることを目的としている。一般的に学校の現場で「文法」と呼ばれているものは、理論言語学のSyntax(統語論)という分野と軌を一にする部分が多い。英語学、なかんずく統語論では、非文法的な文を排除する説明方法を追及するから、理論言語学的な知見を用いれば大学受験を控えた生徒に効果的な文法説明ができる、という発想らしい。

大学受験を目的として勉強する場合、理論言語学に基づく文法説明を生徒に施しても、混乱させるだけではあるまいか。そもそも理論言語的な知見は、大学受験が求める能力に対応していない。少なくとも語学である英語は、他の教科とは異なり、上達の方法はスポーツと同じと思われる。すなわち、思考によって頭脳に訴えかけるのではなく、反復修練によって反射的反応が可能になるまで体に叩き込む。大学受験の英語を目的とする生徒に言語理論を振りかざして文法を説明するのは、ちょうどバスケットボールの試合に勝つべく努力する選手に対し、筋肉の組成構造、連動のしくみから有酸素運動の効率的な方法までを理論的に叩き込むに等しい。そんなことをするくらいなら練習して汗をかいたほうが試合に勝てることは明白だ。

理論言語学は、あくまで真理の追究が目標である。たまたま英語の構造というものを検証の対象としているだけであって、「それにさえ習熟すれば無限の語学力が手に入る」というのは誤解である。運動生理学を専攻している研究者が卓越した運動能力を持っているわけでもなく、バスケ部の優秀なコーチになれるわけでもない。修士課程で二年もの間、英語学を真面目に勉強しているならば、「学問が目指しているもの」と「教育現場で求められるもの」は根本的に違う、ということくらいは悟ってしかるべきだろう。

教育現場のことはよく分からないが、私個人の見解では大学入試は一種のゲームだと思っている。ゲームなので、ルールもあれば勝つためのノウハウもある。ゲームである以上、勝つために最も重要なのは「バカになる」ことではあるまいか。入試に勝つためには、「受験が人生で本当に意義のあることなのか」だの、「入試学科の知識が今後の人生で本当に必要なのか」だの、「日本の受験制度は本当に妥当なのか」だのといった小賢しいことを考えてはいけない。ただひたすら勝つことだけに没入し、バカのように勉強しまくる以外に方法はないと思われる。

私自身、受験生を教えてたときに、関係形容詞whatの意味になぜ「全部」という意味が含まれるのかを質問されたことがある。
Bring what friends you have. は「友だちを全部連れてきなさい」という意味だが、この文に含まれる語の中で「全部」という意味に当たる単語はない。なぜか関係形容詞のwhatを使うと「全部」という意味が含まれる。
よい質問だ。大学に入ってから大いに伸びる可能性が伺える質問と言える。質問の内容は良いが、「その回答を受験の準備段階で求めること」自体は間違っている。その質問に対し、理論言語学の知見を駆使し、高度に理論的な見解を平易な言葉で説明する努力をしても、果たして生徒がその見解を受験の当日に生かせるほど理解を浸透させることができるのだろうか。ましてや、そもそも教える教師の側の理論言語学の知識が付け焼刃である場合は絶望的といっていい。そうではなく、教師がすべきことは、そういう興味関心を追求するのは大学に入学してからの楽しみに取っておくことを諭し、とりあえずは勝負に勝つために疑問を棚上げし、関係形容詞の用法に習熟させることであろう。「いい質問だが、そんなことにいちいち疑問を持ってたら受験に勝てない。つべこべ言わずにその文を200回唱えて暗記しろ」と言ってやるほうが、よっぽど受験に勝てる能力を育成できるのではなかろうか。そこでバカになりきれない学生は、無駄に時間を浪費する。バスケットボールのチームで、3ポイントシュートの練習をしているシューティングガードが、「筋肉組成がいかなる連動をすることによってより効果的な運動効率が得られるのだろう」などと小賢しいことに興味を持ってはいけない。そんなことを考えるくらいなら毎日200本のシュート練習をしたほうが勝てる。

よく高校や予備校の英語教員は「感覚で解くな」というが、そういう英語教師が自分で問題を解くときは感覚を使って解いている。英語は語学なので、頭脳で解いているうちは真の実力ではなかろう。真に英語の能力が身につけば、考えるよりも前に感覚が正解を教えてくれる。「感覚で解けるようになるまでに英語にどっぷり浸ること」こそ重要ではあるまいか。これは英語に特有のことであって、数学、理科、社会等の科目とは異なることは注意を要する。そういった科目ではまさしく感覚で解くことはご法度であり、自分の頭の中で解答の根拠を組み立てる思考作業が不可欠である。語学は思考ではない。文法を数学の公式のごとく扱って、思考作業によって正答を導こうとする受験指導は、「英語は語学である」という単純な前提をないがしろにしているのではあるまいか。

いちいち説明するのも面倒なので、彼女には適当な統語論の概論書を何冊か紹介しておいた。修士まで進んで得た自分の信念ならば、いまさら私が異を唱える性質のものでもあるまい。なによりも、新しい環境に進んで張り切っている彼女に水を差すのが悪いような気がした。

いいことだけ載せる新聞?

Newspaper Publishes Only Good News for Xmas

BERLIN (Reuters) - Germany's top-selling newspaper published nothing but good news Wednesday, dropping its normal fare of crime, violence and scandal for stories about tax cuts, falling petrol prices and accelerating economic growth.
"There's only good news today," Bild wrote in two-inch high letters at the top of page one, where the giant headlines are usually devoted to sex scandals, Germany's cannibal trial, killers, adulterers or dishonest politicians.

Urging Germans to shed their natural frosty demeanor for the Christmas holiday season, Bild columnist Peter Bacher said there was always plenty of good news around, even if it was "sometimes overshadowed by evil, horror and terror."

Bild also reported churches were full for Christmas services, California's earthquake spared San Francisco, president Johannes Rau appealed for more state money for families, share prices rose, and political leaders promised more big tax cuts.

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何か勘違いしてないか?

いくら世の中にいやなニュースが多いからって、「じゃあクリスマスくらいはいいニュースだけを載っけよう」ということにはならんだろう。なんなんだドイツは。

その前日に不祥事を起こしてクビになった教員とか、セクハラでクビになった公務員なんかは報道されなくって「あぶねー、セーフ」とか言ってるのかな。

セックスの必要性

いうまでもなく人間は高等動物であり、進化が進んだ部類に属する。身体的な運動能力は他の動物に譲るところはあったとしても、知能の点では他を大きく引き離していると考えられる。
ところが、人間を進化の進んだ生物と考えると、私にはどうにも納得がいかない生物学的事実があった。

私は常々、なぜ人間をはじめ哺乳類などの高等生物は、セックスをしないと子孫を残せないのかが疑問だった。人間とアメーバを比較しよう。生殖能力において勝っているのは間違いないくアメーバのほうである。アメーバは両性生殖ではなく単体で分裂生殖をするので、パートナーを必要としない。ほっておけば指数関数的に増加する。かたや人間はというと、必死になってパートナーを探し、はずれの多いセックスという作業を地道にくりかえし、奇跡的とも言える確率で妊娠し、やっとのことで一個体の子孫を得る。普通は一生をかけて2、3個体の子孫を得るのがやっとだろう。種の保存ということを考えれば、単体で分裂できるほうが子孫を残しやすいに決まってる。少子化なんていう問題もそもそも生じないに違いない。進化の究極系に属する人間が、なぜこんな不便な生殖法をとるに至ったのだろう。

Lyall Watosonは著書、Lifetideの中でこの問いに触れている。曰く、高等生物は両性生殖という面倒な生殖法をとっているからこそ進化したんだそうな。仮にアメーバのプルスケくんが細胞分裂をしたとしよう。その子孫はプルスケの能力を上回ることは絶対にない。もとの個体が単一なのだから劇的な変化が起こる余地がない。ところが人間のように両性生殖をすると、両性の遺伝子が結合することで新個体の能力、特徴は決定される。この「結合」というのがあやふやなところで、うまくいかないことも多い。まちがった結合の仕方をしてしまうこともあり得る。そして、これが進化の原因になる。アメーバの場合とちがい、両者の遺伝子結合の際に、いわば「まちがって」くっついてしまった場合は、先の世代とは違った特徴を備えた世代が誕生する余地ができる。親の2個体のいずれも持ち得ない特徴が具現する可能性がある。

こう考えると、人間は「高等生物なのに両性生殖」なのではなく、「両性生殖だから高等生物」になれたと言える。生殖の方法が同じなのに、なぜ人間だけが知能がこんなに発達し、なぜ人間以外の両性生殖動物で人間に匹敵する動物が存在しないのかは未だに謎だ。進化の過程で「人間」と「それ以外の動物」を分ける何かがあったはずだが、そのmissing link(失われた環)は今もって不明のままだ。

ちょうど今日はクリスマスだが、日本の街では、人間に飛躍的進化をもたらしてくれた両性生殖という宿命の行為を完遂すべく、生物的本能に従う若者達があふれているに違いない。たしかに、両性生殖を達成させるべく女の子を篭絡しようと必死に手練手管を駆使し、その開発に昼夜努める男子諸君の奮闘を見るにつけ、「こりゃ進化もするわ」という気分にもなる。

よかったなお前ら、日本に生まれて。アメリカにゃラブホってのがないから学生はしたくてもできねーんだとよ。

スコッチの水割りの数学的考察

サルトルは寝る前に、スコッチのオンザロックを好んで飲んだ。これは、イギリス以外のヨーロッパではあまり品のいいことではないらしい。
品がよかろうと悪かろうと、寝酒としてスコッチは非常によろしい。健康を考えて水割りにしたりする。

ここで問題。スコッチの水割りは、スコッチと水がどれくらいの比率になるのがベストか。
これは、数学的に検証可能な問いである。

注目すべきは、
スコッチに水を足しても
スコッチに水をかけても
スコッチを水で割っても
結果はすべて同じになる、という事実である。

スコッチの量をx,水の量をyという変数でおいてみる。
すると、

x+y = x・y = x/y

という等式が得られる。
x,yは題意より正の実数だから、絶対値をかけて

|x| : |y| = 1:2

が得られる。
つまり、スコッチ1に対して水2の比率が、数学的に正しいという結論になる。

俺の飲み方は間違ってないな、うん。グラス

名前の呼び方の謎

サッカーでは、ふつうテレビの報道では選手の名前をfamily nameで呼ぶ。
たとえば、Miroslav Kloseは「クローゼ」、David Beckhamは「ベッカム」、Alessandro DelPieroは「デルピエロ」と呼ばれる。

ところが、どう考えてもfirst nameで呼ばれてるとしか考えられない選手が2人いる。奇遇にも、彼らの無視されたfimily nameは同じだ。

その2人とは

Raul Gonzalez Blanco (Spain)
Kily Gonzalez (Argentina)

「ラウル」「キリ」と呼ばれており、二人とも「ゴンザレス」とは呼ばれていない。どう考えても呼ばれているのはファーストネームだろう。

Kily Gonzalezの方は、本名をCristian Gonzalezというそうで、kilyというのはニックネームだそうな。まぁ本邦にも「KAZU」でFIFAに登録していたのがいたから、ニックネームで呼ばれるのは、まあ分かる。それは許す。

問題はRaulだ。なんで「ゴンザレス」じゃいかんのだ。友達のスペイン人の女の子に聞いてみたら、「ゴンザレス」という苗字は日本の佐藤さん鈴木さんレベルの苗字らしい。スペイン語系の国はたくさんあり、そのなかにGonzalezという苗字の人はたくさんいよう。うちの研究室にさえ一人いる。しかし、スポーツの報道で「ゴンザレス選手」という名を聞かないのは何故だ。

なんかタブーっぽいGonzalezという苗字、なぜイカンのか気になる。
そういえば僕が日本にいた頃の研究室にも、日本人でありながら明らかなGonzalezさんがいらっしゃったな。

高校物理教諭が定理覆す発見

私立岩手高(盛岡市)の佐々木修一教諭(46)らが24日、永久磁石を使った磁性体の浮上実験に世界で初めて成功したと発表した。成果は米専門誌「ジャーナル・オブ・アプライドフィジックス」(来年2月号)に掲載される。世界的に権威のある同誌に高校教諭が筆頭執筆者として論文を載せるのは、日本人としては初めてという。
 
佐々木教諭は約20個の鉄球(パチンコ玉)と、縦横約10センチ、幅が鉄球の直径ほどのプラスチック箱を用意。箱に鉄球を入れ、上から永久磁石を近づけると鉄球5、6個が1列に並び、その下でほかの鉄球が中空に浮くことを見つけた。

 佐々木教諭は「パチンコ玉を大量に持ってきた生徒がいて、磁石でつるしてみたところ、宙に浮く現象が見られ驚いた。さらに研究を進め現象を解析したい」と話している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031225-00000001-khk-toh

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すごいねぇ。
僕も知り合いに高校教諭がいるけど、口癖は「忙しい」だなぁ。中には忙しかろうがなんだろうが自分で研究してる先生ってのはいるもんだね。確かに学会では、ひとりか二人は高校の先生が発表してるな。

ちょっと気になるが、「パチンコ玉を大量に持ってきた生徒」って、いったいどこから持ってきたんだ

色々、色について

科学の授業で、「空はなぜ青いか」という問題を出した。
一番多かった答えは、「海の色を写しているから」。なかなかロマンがあってよい。女の子がこう答えた場合は特に好ましい。ぜひとも実地研修のために海に連れて行ってやりたい。
「宇宙が透けて見えるから」というのもあった。宇宙が透けるとなぜ青くなるのかわからないが、ちょうどこの問いを出したのが夏だったので、女の子の服でも眺めてたのではないかと思われる。
ひとつ秀逸だったのは、「俺が青く塗ったから」。迷うことなくこれを最優秀答案としたのは言うまでもない。

ただ、残念ながら科学の授業では、上の答案はすべてマルというわけにはいかない。
正解は、「青以外の波長はすべて大気に吸収されてしまうから」。
この問いと正解を正しく理解するためには、実は「色とは何か」という、より根源的な知識を必要とする。

赤いバラがあるとする。なぜそのバラは赤く見えるか。
「肥料をよくやって育てているから」という答えではなく、赤が赤と見える理由を問う。
赤いバラは、正確に言うとバラそのものが赤いのではなく、光を受けると赤以外のすべての波長をすべて吸収し、赤い波長だけを跳ね返している。光は、昔から単一で純粋なものと考えられていた。しかしニュートンはプリズムを使って白色光を七色に分散してみせ、スペクトル解析の端緒を開き、光に関する物理的考察を飛躍的に進歩させた。ちなみにこの発見はニュートンの「奇跡の23歳」の年に行わている。この年、ペストの流行のためケンブリッジを離れ実家でのんびり研究をしていたニュートンは、スペクトル解析、微分積分法、万有引力という3大発見を成し遂げる。すべて、従来の科学を飛躍的に進展させる契機となる画期的発見であった。不愉快な奴だ。

ニュートンが示したとおり、光の波長は雑多な色彩の束なので、そのいくつかが吸収されると残った波長が我々の眼に届く。空が青く見えるのは、青以外の波長は大気中で乱反射し、拡散してしまので、青い波長だけが我々の眼に届くからだ。

「赤いセロファンは何色か」という問いもある。大多数の生徒は問いの意味すら分からない。
赤いセロファンは、セロファン自身が赤いのではない。「赤以外の波長をすべて吸収し、赤い波長だけを通過させるセロファン」である。よって赤いセロファンを通してみると、すべてが赤く見える。この問いも、「色とは何か」という根源的な問いに答えて初めて回答可能な問いである。

素朴な疑問は、疑問が素朴であればあるほど、その前提条件を構成する問いにすべて答えて初めて回答可能となる。
子供はそういったステップを行儀よく踏まえて論理を構築するのが苦手なので、「ぶっちゃけた単純回答」を欲しがる傾向にある。科学の授業とは、単純な問いの裏に隠されている、必要な論理的考察のステップを自ら構築し、それを正しく踏む重要性を認識させることが最重要であろう。釘も打てない、材木も切れない者は、犬小屋ひとつ作れないのと同じことだ。答えだけを性急に欲しがる者は、考察の各ステップを軽視するため自分で思考を再構築できず、知識が定着しない。

現在の初等教育では、科学的思考法をどのように教えているのか興味深い。私は高校時代に、数学の行列の問題で、答案に「ケーリー・ハミルトンの定理により」という言葉を絶対に書くな、と教わった。定理というのは証明可能な言明なので、証明なしに使うことは許されない。答案に書く際には、そのステップを飛ばすことなくきっちり言及することが求められる。

「空はなぜ青いか」という問題は、こういった「問いに答えるために必要なことを自分で見抜く必要性」の具体例として出題した。
なぜかその日は曇りだった雲

モーニング娘。「Memory―青春の光―」考

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ambiguousは「あいまいな」と辞書に載ってるが、正確には「多義的な」という意味である。ひとつの表現に複数の意味があることを言う。「あいまいな」というのは「ぼやけていてよくわからない」という意味なので、英語ではvagueと言う。

モーニング娘。の初期の作品に、「Memory―青春の光―」というのがある。この歌詞の中で、非常にambiguousな歌詞がある。
「私のように愛さないで」という一節である。

Memory/去って行くけど/新しい彼女の事/私の様に愛さないで/Good Bye…

可能な解釈は
(1)「私があなたを愛したようには、あなたはあの人を愛さないでちょうだい」
  要するに、「私のマネをするな」
(2)「あなたが私を愛したようには、あなたはあの人を愛さないでちょうだい」
  要するに、「今までとパターンを変えろ」
(3)「私が新しい彼女のことを愛するようには、あなたはあの人を愛さないでちょうだい」
  要するに、「新しい彼女は実はわたしのものだったのよ」
(4) 「新しい彼女を私だと思って愛するのはやめてちょうだい」
  要するに、「勝手に死んだことにするな」

このような様々な解釈ができる原因は、「愛さないで」という動詞句の主語が、「わたし」なのか「あなた」なのかが不明確なことだ。

ちょっと言語学的に考えると、
日本語は、ヨーロッパの言語とは違い、格は名詞句が変化するのではなく、助詞をくっつけて表す。
たとえば英語では、誰でも中学校のときに唱えた呪文、I(主格)-my(所有格)-me(対格)-mine(独立所有格)というように、名詞句そのものが変化する。ラテン語や、その名残をとどめるロシア語などは、固有名詞であろうとも格変化を起こす。ところが同じことを日本語でやると、「わたしは」-「わたしの」-「わたしに」-「わたしのもの」というように、名詞「わたし」は変化しないまま、助詞「は、の、に」などをくっつけることによって格を表す。このことを言語学では、「日本語は名詞句に形態的変化による格表示が具現しない」などと言う。

しかも面倒なことに、日本語の喋り言葉では、よくこの助詞が欠落する。しかし各言語には基本語順というものがあって、それで何を言ってるのかが分かる。「俺、おまえ、好き」といったら、それは「俺はおまえが好きだ」という意味であって、「おまえは俺が好きだ」という意味ではない。これは日本語の基本語順が「主語、目的語、動詞」となっているからである。

件の表現「私のように愛さないで」の「私(のように)」は、基底構造では
・動詞句「(あなたを)愛する」の主語(解釈1)
・動詞句「(新しい彼女を)愛する」の主語(解釈3)
・動詞句「(あなたが)愛する」の目的語(解釈2)
・目的語「新しい彼女」にかかる形容詞(解釈4)
の4通りの可能性がある。
日本語は格についての制限が緩いから、動詞の主語に何を入れるのかによって可能な解釈は分かれる。日本語の特徴によって、たとえば解釈3が可能になるとすれば、この曲は「女の子が、彼との別れを悲しむ曲」ではなく、「女の子が、彼女を奪われたことを悲しむ曲」ということになってしまう。

私が高校の時、体育教官が生徒を整列させるとき、よく「日本語が分からん奴がいるな」と言っていた。そのとおり、私はまったく分からない。日本語は主語と目的語を明確にすることなくコミュニケーションがある程度可能になってしまうという、なんとも変な言語と言える。

ナポレオンは「余の辞書に不可能の文字はない」とは言っていない。正確には「明確でないものはフランス語ではない」と言ったとされている。人の口から口に伝わるたびに、英雄伝にふさわしいように言葉が脚色され、原形をとどめない表現に作り変えられてしまった。蓋し、フランス語などは格の関係が明確に表示され、主語の省略などという現象も原則的には生じない。ナポレオンが胸を張って「明確」とする所以である。フランス語では「私のように愛さないで」のような類の混乱は生じないのだろう。

それにしても、この歌詞の「愛する」という動詞は、具体的にどのような行為を指しているんだろう。
低年齢化が進む最近のモーニング娘。にあって、12、3歳がこの歌を歌っても、どうもピンとこない。

雨ってのはどういうことだ

まだアメリカではクリスマスイブ。時差ばんざい。
しかし気温52度ってのはどういうことだ。
摂氏にすると12-5度くらいか。

おかげで雨なんか降ってるし。雨
いつも通りの寒さだったら雪になってホワイトクリスマスになるところなのに、こう雨に降られるとうざくてかなわん。
となりの席でもSerkanがぶつぶつ文句言ってる。

今日から家主のおじいちゃんの甥夫婦とその息子が遊びに来るらしい。このところおじいちゃんが張り切って2階のベッドルームを掃除してる。なんか楽しそう。なんとなくクリスマスらしいすごし方にはなりそうな気配。

やばい。明日クリスマスってことは店が全部閉まるじゃないか。買い物に行っておかないと。

右折信号

ペンギンアメリカで車を運転していて戸惑うことは、赤信号でも右折してよいこと。とうぜん、アメリカでは右側通行なので、日本に置き換えると、赤信号でも左折してよいということに等しくなる。赤信号のときに右折のレーンで止まってると、後ろからプップッと催促される。

ところが左折の時はそうではなく、普通の信号の横に「左折信号」なるものがついている。ちょうど日本で右折信号があるのと同じ。正面通行の信号が赤のときでも、左矢印の信号が点ってたら、左折に関しては通行が許されることになる。

論理的には、同じ効果を出す方法は二種類ある。
ひとつは現行の方法。メインの正面通行が赤信号のときに「左折だけはしてもよし」とする方法。
もうひとつは逆の方法で、基本的には青信号なんだけれども、「正面通行だけはダメ」と表示する方法。
どちらの方法でも、「正面通行はダメ、左折だけはOK」と同じことを言ってることになる。

ところが、世界共通で前者を採用している。当たり前といや当たり前なんだけど、これを形式的な思考方法で原因を説明するとどういうことになるだろう。
まず、交通の流れにとっては「正面通行がunmarked、左折がmarked」ということになる。数量的にはunmarkedの方が多数派なので、大多数の方に適用されるものを基本として表示していることになる。
一般化すると、「数が多いほうを中心に扱え」という行動原則がある、と言える。

ところが、この原則は社会で一般的でありながら、思考法においては一般的ではない。
ある雑多な現象を一般化する規則を考えるときに、まず簡単なのは、極端な少数の例外的な事例を先に考えることだ。

2次方程式を解くとき、われわれ人間はまず因数分解を考える。二次変数、一次変数の係数と定項がそれぞれ因数分解できない組み合わせのとき、仕方なく解の公式を使う。ところが、潜在的に存在可能なすべての二次方程式の中で、因数分解できるものはほんのごく少数に過ぎない。つまり我々は二次方程式を解くときに、まず「特殊な事例と仮定して」扱っていることになる。人間の行動原理として「量が多いほうを中心に扱え」というものがあるならば、いきなり解の公式を使うほうが理に適っている。事実、コンピューターが多次方程式を処理するときには、すべての可能な整数解の組み合わせを高速で代入し、あてはまる解だけを抽出する、という力技に頼っている。Sieve(篩)といわれる方法である。

PhonologyやMorphologyで変形規則適用順序を考えるときにも、特殊な事例を先に適用させる。英語の複数形をつくる操作を考えてみよう。話を単純にするために、
-sをつける、-esをつける、-iesをつける、-enをつける、-renをつける
という5つの規則を仮定しよう。この5つの規則は、どういう順で適用されるか。もちろん、「特殊で例外的な事例に適用される規則が先に適用される」ことになる。-enはoxにしか適用されないし、-renはchildにしか適用されない。この二つはかなり上位の順位で適用される。
しかるのち、
「子音+y」で終わる語幹には-ies、
sで終わる語幹には-es、
それ以外にはすべて-s、
という順にルールは適用される。
このなかで、もっとも多数のデータを扱えるのは、最後に適用される-sの規則である。規則の適用順では、「大多数のものは後回し」になっている。

アインシュタインが相対性理論を考える契機となったのは、「光速で移動できたら、光はどのように見えるだろう」という素朴な疑問だった。それまでの万能薬だったニュートン物理学は、光速を超えるとその説明力を失い、扱えない反例が多数生じる。アインシュタインは「物理現象とは独立普遍のものではなく、他者(主に観察者)の状態に左右される相対的なものだ」ということを、森羅万象、すべての物理現象に対して形式化しようと試みた。まず彼がとりかかったのは、観察者が特殊な状況におかれた場合―つまり運動量ゼロ―として相対性を形式化することだった。人が歩きながら光を見ても、光の速度は変わらない。人の歩く速度は秒速1m,光は秒速30万Km,相対化すると人の歩くスピードはゼロに等しい。いわゆる特殊相対性理論である。その特殊な場合での形式化に成功したことで、彼はゼロだったパラメーターを動かし、さまざまな変数の元でも統一的に扱えることを示そうとした。いわゆる一般相対性理論である。この場合でも、特殊で例外的な事象が先に処理されている。蓋し、人間の思考法では「まずmarkedなものを処理し、つぎにunmarkedなものを処理する」という傾向がありそうだ。

信号機をはじめ、一般社会の約束の適用順を考えると、どうも「最大多数の最大幸福」という原則があるような気がしてならない。税金や社会保険政策を鑑みるとそうも言えない側面もあるが、基本的には左折信号のように「多数のものをまず処理する」というのが一般的だろう。人間の論理思考法と社会の一般規則の適用で、順序に違いが出てるのはなぜなんだろう。

信号機の場合、事故の防止がその第一義だから、まぁわからんでもない。人間は「やってよし。ただし、こいつらだけはダメ」よりも、「やっちゃダメ。ただし、こいつらだけはよし。」の方が、好ましくない結果を生みにくい。高校などの校則でも、とりあえず禁止する。信号でも、左折信号に気づかずにボケっと止まっていても事故にはならないが、もし「青信号、ただし正面通行だけはダメ」という表示を採用し、直進車がその信号を見誤ったら大事故に繋がる。扱っている対象が自然現象、物理現象ではなく人間の時には、まず大多数のほうを先に処理しなければならない、ということなんだろうか。

Frente!

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Frente!というオーストラリアのユニットです。
僕が一番好きな曲はBizarre Love Triangle.
Marvin The Album (Mammoth, 1994)の14曲目です。

僕は曲を好きになるというよりも、声を好きになることが多いようです。
好きな声がいい曲とシンクロすると、そのアーチストに興味が出るんですね。
Frente!のvocalの女の子も、飾りのないストレートな声をしてます。
細めの声で、せつせつと囁くように歌います。
この曲は伴奏がギターだけ。余計な装飾音がなくて染み入るような曲です。

服と同じように、音楽にもTPOが在ると思います。
その考えでいくと、Frente!は「夜の歌」だと思います。決してお日様のもと、野外で、友達と聞く歌ではありません。夜、一日の全てが終わったあとで、仄かな明かりのもとでゆっくりと聴く曲です。「癒し系」という概念は好きではないんですが、一般的にはそれに属する音楽でしょう。

僕ははしゃぎがちな傾向にあるにもかかわらず、趣味は夜方面が多いです。音楽、絵画、物語、思想、だいたいにおいて陽より陰が好きです。
プロデューサーのつんくは面白いことを言っています。人は、景気のいいときには涙を求め、景気の悪いときには陽気さをもとめるのだそうです。だから彼の作る曲は、バブル時代のシャ乱Qは涙物が多く、不況期のモー娘。は唖然とするほどノリノリです。
そのアナロジーに従って、僕は人生の波において、おおむね好調なのかな、と思うことにしています。

Romane Bohringer

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大好きな女優というのはいませんが、気になる女優ならいます。
Romane Bohringer (ロマーヌ・ボーランジェ)。
まぁ、皆さん知らないでしょう。

Mina Tannenbaum (「ミナ」1994)
Total eclipse (「太陽と月に背いて」1995)
などが代表作とされています。
特に後者ではLeonardo DiCaprioと共演しているので有名になりました。

ところが,僕が気になる作品はこういう代表的な作品ではないんです。

L'accompagnatrice (「伴奏者」1992)

という作品。
第二次世界大戦のパリを舞台に,ある声楽家の伴奏者として雇われた少女が,人生のさまざまな陰影を知り成長していく,という内容です.伴奏者という決して表舞台に立つことのない立場から、登場人物の人間模様をみつめる視線が基本的なスタンスになっています。

はっきりいってB級映画です.興行収入を上げられる作品でも,後世に残る作品でも,賞を受賞する作品でもありません.ストーリーは平凡で,あっと驚く展開も,手に汗握る展開もありません.

僕がこの映画が気になる理由はただひとつ,「作品の持つ雰囲気」です.作品を通して,常に闇の中の仄かな灯を頼りにストーリーが進みます.霧に包まれたパリの街を舞台に,ナチスがパリに落とした暗い影が作品全体を覆っています.

ふつう,「好きな映画」というのは,度肝を抜くアクションや込み入ったストーリーにその魅力があると思います.僕も今までそうでした.
僕の好きな映画の要素は,「撃ち合い,殴り合い,爆発」です.しかし,この映画ははじめてアクションでもストーリーでもない,雰囲気にのまれた映画でした.この映画の主人公のRomaneも,決して華のある女優ではありませんが,彼女以外にこの役をやれる女優がそう何人もいるとは考えられません.
ハリウッドでは,どうがんばってもこの手の作品は作れないでしょう.わかりやすいアクションやストーリーを売り物にし,興奮系か感動系のどちらかに分類できるハリウッドとは,あまりに作風が違いすぎます.フランス映画はたまにこういう作品を作るから無視できないんですね.

この映画は街のレンタルビデオ屋さんに行っても貸し出してません.日本では発売すらされてません.僕はテレビの深夜映画で見ました.なんとなく見てたんですが,引き込まれて,最後まで見てしまいました.ゴールデンアワーに流す映画ではないと思います.深夜枠に,人知れずひっそりと流れるにふさわしい映画だと思います.

この作品を彩る印象の原因をもうひとつ。Romaneの陰のあるフランス語ですね.英語は張り上げる言葉で,フランス語はささやく言葉と聞いたことがありますが,この作品に関する限り言いえて妙です.Romaneのしっとりとしたフランス語を聞くだけでもいい作品です.

この作品のビデオは,アメリカに来てから通販で買いました.
もう品切れだそうです.
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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