たくろふのつぶやき

秋はやきいも ほくほくしてうまし。

イスラム圏の新年儀式禁止

Morality Police to Ban New Year Trinkets
Mon December 29

RIYADH (Reuters) - Morality police in southern Saudi Arabia plan to conduct raids to ensure that shops do not sell flowers, candles and gifts to those planning to celebrate New Year, a local newspaper reported on Monday.
The Arabic-language al-Watan said the Authority for the Promotion of Virtue and Prevention of Vice (APVPV) in Aseer province was determined to uphold a ban by the conservative Muslim kingdom on non-Muslim celebrations.

"Patrols will be dispatched to gift and flower shops in the next two days before the New Year to ensure that ornaments are not sold for New Year celebrations," al-Watan quoted the local APVPV head as saying.

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なんじゃ、the Authority for the Promotion of Virtue and Prevention of Vice (「美徳推進ならびに悪徳追放事業機関」)ってのは。
イスラム圏には凄い機関があるんだな。現代の特高か。「道徳的に好ましくないから逮捕する」なんてことをやってるんだろうか。

ずっと、イスラム圏の人はクリスマスを祝うのかどうか疑問だった。
だめだったのねー。そりゃそうか。
特に昨今の緊迫した現状ではもっての外だろうな。

クリスマスは分かるが…新年も祝っちゃいけないっていうのはどういうことだろう?
西暦はキリスト教の概念だけど、1月1日ってのは別にキリスト教と関係ないだろうし…。
考えてみたら、なんで1月1日にあたる日を一年の基点にしたんだろう。
自然的に、1月1日ってなんの日なんだ?

一年のちょうど真ん中の日(183日め)を計算してみた。
7月2日らしい。

Quirky Case

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アイスランド語が非常に気になる。

格の振る舞いが狂ってる。普通、時制文の主語は主格(nominative、日本語の「…は」)、直接目的語は対格(accusative、日本語の「…を」)という格になるのが普通だが、アイスランド語は主語だろうが目的語だろうが斜格(dative、日本語の「…に」)が出てこれる。当然、従来のCase theoryに基づく格付与のシステムでは説明できない。
なんじゃこりゃ。
まさしく人間言語の例外だ。

今まで格付与に関する分析は正面攻撃せず、横目で眺めるだけだったが、気になるものは気になる。
Marantzの1991、ESCOLの論文で仰天して以来、どうもnominativeなんかにはdefault caseという考えは妥当な気がする。
格付与の方法をすべてgovernmentで説明し切った生成文法のやり方は、一見、統一感があって美しいが、冷静に考えてみたらすべての格が統一の方法で付与される必要はどこにもないんだよね。Marantzみたいに格付与に序列があって、「残ったものがnominative」みたいなものもアリかなぁ。

理論的分析だけでなく、アイスランド語そのものに興味がでたので、ちょっと遊んでみることにした。
音声教材をインターネットで注文してみる。
Eurotalkという会社が、現存、死滅を問わず、世界中の言語の音声教材のCD-ROMを作ってるらしい。
アイスランド語なんて外国語学習のなかではマニアックな方だと思うが、なんのなんの、ラテン語、アフリカーンス語、マオリ語、ナバホ語、ほかにも「こりゃどこの言葉じゃ」という言語教材がいっぱいある。
いい仕事するじゃねぇか、Eurotalk。

話のネタに、どこの言葉かもわからん言語をひとつくらい覚えてみようかな。

「奥の手」の効用

学部生のときに勉強していて、「誰々の研究」と、名前だけしか知らない論文が結構あった。
名前は知っているが、読んだことはない。そういうエラそうな学者さまの研究は、学部生にはとてつもなく高尚ですばらしいものに思えたものだ。

長く勉強しているうちに、名前を知ってるだけでは済まなくなり、実際にそういう論文を読むハメになってきた。
ところがどうだろう。実際に細かく論文を読んでみると、「なーんだ」という程度のアイデアであることが結構あるではないか。中にはつまらないと感じるものすらある。
「勉強」と違い、「研究」は、今までに誰も言っていないことを自ら言う必要がある。先行研究を積み上げてきたエラい研究者さま方にビビっていては、問題点の指摘も反論もへったくれもない。

相手の手の内が見えると、なんとなく相手になりそうな気がするものだ。
逆に相手が何者かが分からないと、不気味な感じがする。
孫子によると「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」だそうだが、これは実質的な可能性を言ってるものではなく、多分に精神的な効用が含まれてないだろうか。
一晩、楽しく飲むことを目的とする合コンでも、気に入った相手の経歴、学歴、家族構成などを聞きたくなるのも同じ理由なんだろう。これらは本来、知る必要のない情報だが、知ると知らないのとでは親近感がまったく違うのだろう。

世阿弥は『風姿花伝』の中で、「秘すれば花なり、秘さずば花なるべからずとなり」と言っている。奥義とは、隠すこと自体に価値があるのであり、人に知られてはならない。
昔、武道の世界では、一門の奥義は門外不出の最高機密だったのではあるまいか。大事なのは、そういう奥義が「存在する」ということは人に知られる必要がある、ということだ。他流試合のとき、相手が「正体はまったく分からんが、相手には一撃必殺の奥義があるらしい」という状態で臨んでくれれば勝ったも同然だ。相手が分からない、というのは、かように不安のもとになるものだ。

「秘することの重要性」という大事なことを、全く秘していない世阿弥はずいぶんユーモアのある奴だ。
600年後の現在に至るまで広く知られて、何が「秘すれば花」か

研究とおカネ

国立大予算――角を矯めて牛を殺す愚
(12月30日 朝日新聞社説)

厳しいなぁ、国立大学。

今まで日本では国立大学、アメリカでは州立大学に在籍しているので、税金のお世話になりっぱなしだ。
「予算削減」の字にはやはり反応してしまう。

朝日の論調はおおむね予算削減について批判的だが、批判の仕方がちょっと面白い。
大学という機関を独立して見るのではなく、各種特殊法人と比較して「一緒にするべきではない」という国会決議を持ち出してる。
その根拠は「すぐに成果が出ない」という基礎研究独自の特殊性だ。
言ってることは同じだろうが、大学がすでに特殊法人として見られている視点には気づかなかった。

「まずは大学側のお手並み拝見といこう」には参るね。
税金を投入してもらって研究する側にとって、成果を世間に還元するのは当然の義務だけど、還元の効果的な方法を考えるのは、研究そのものと同じくらいのウェイトを占めることになるんだろうな。
日本の研究者は研究成果を見せびらかす能力と意欲に無頓着だしなぁ。

年末、年末、と。

なんかし忘れたことがあるような気がして、郵便の束を整理した。
やっぱり。
定期購読している雑誌の、来年分の更新手続きをしてなかった。

きようび、雑誌掲載の論文はダウンロードできるんだけど、やっぱり紙の雑誌は持っておかないとね。

日本の年末とはずいぶん感じが違う。
門松もダルマもないし、酉の市も初詣の広告もない。
思うに、欧米の祝日というのは「感謝の日」だから、ひっそりと過ごすのが通なのかな。お店も全部休むし。日本の祝日の方がダイナミックなお祭り騒ぎをしているような気がする。

なんか年末っぽくないのはそのせいかなぁ、と思ってたら、もっと簡単な理由があった。
忘年会がないからだ困った

自由の手に入れ方

アメリカに来てから、妙に自由な気分を感じることがあった。
別に日本が窮屈な国で、アメリカが自由な国とは思えないんだけど。
この正体不明な開放感はなんだろう…。

最近、その原因が判明した。
携帯を持ってないからだ。

思えば日本で携帯を持っていたときは、携帯を持ってるが故にかかる制約がいかに多かったことか。
充電しなきゃいけない、メールを頻繁にチェック、出先でも電話がかかってくる、毎月の請求書…。

よく、「せっかくXXXしたんだからXXXしなきゃ」という言い方を聞く。
「せっかく新しいお皿買ったんだから、たまには使う料理でも作んないと」
「せっかくあの本買ったんだから、すこしは読まなくちゃ」など。

それって一種の呪いでは。

もしPCなんて持ってなければ、1日24時間、ものすごく自由になれるような気がする。
blogにこんなネタ書くこともなくなるし。

自由になりたい、と潜在的に思ってる方は多いはず。
自由ってのは、手に入れるものではなく、手にしてるものを全て捨てることで勝手に得られるものなのかもね。

テレビ

いい天気でいい気分。

家主おじいちゃんのクルマがピンチ。とうとうイカれたらしい。パークウェイを走ってたときにいきなりのエンジントラブル。
しょーがねーよな。あのクルマ、オレより歳くってるから。
「たくろふはクルマ探してたよね、あれ、いる?」だって。いるか。

アメリカのTVガイドは見方がよくわからん。
日本みたいに、時間と放送局順に表になってない。各時間帯ごとにだらだらと横書きに記述してあるだけ。インターネットの番組表もよく見方が分からん。
一番確実なのは、「TVガイド専用チャンネル」というチャンネルで、その時間にどんな番組をやってるのかをチェックすること。2時間先までしかわからんけど。

テレビで日本のアニメをよく見かける。一番多いのはポケモン。英語で見てもストーリーがよく分からん。
ドラゴンポールはよくDVDが売ってるが、なんと14歳以下制限付き。お子様向けではないらしい。人を爆死させたり、腕ちぎったり、挙句の果ては街を破壊したりしてるからなぁ。

お前も違うぞトッティ。

バロンドール受賞ネドベドにトッティ大批判

 ネドベド(ユベントス)のバロンドール(欧州最優秀選手)に、イタリアサッカー界が猛反発している。「彼はファンタジスタではない」と、このブーイングの大合唱はしばらく続きそうだ。

 「ネドベドはバロンドールにふさわしくない」と口火を切ったのは、セリエAで首位に立つASローマの主将トッティ。テレビ番組で「彼は今季、最上のプレーをしたが、テクニックの面で特に優れているわけではない」と批判した。

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出典が「夕刊フジ」なんで、念のためイタリアの報道を調べてみたら、ホントだった。

いいじゃんねぇ、ネドヴェド。
個人的にはあーゆー泥ヨゴレ仕事するプレーヤーは好きだけどな。
ネドヴェドって「うまい」っていうより「強い」って感じのプレーヤーだしね。

トッティは「彼はファンタジスタではない」と言ってるけど、ファンタジスタがパロンドールの条件ってわけじゃないのにね。
だったらキーパーは絶対受賞できない。

イタリアのマスコミも「もしタイトルを取っていたらトッティがパロンドールだったろう」といってるみたいだけど、ネドヴェドは実際にタイトル取ったしね。
だまれ敗者、というところだ。

もしかしたらこういう不満を感じるところに、最近イタリアがタイトルから遠ざかってる原因があるのかもしれないな。
サッカーはファンタジスタが11人揃っても勝てるわけじゃないのにね。
イタリアのサッカーってのは、どーしてそうファンタジスタをひいきするかなぁ。

でも、個人的にはこれでネドヴェドに調子に乗ってもらいたくないなぁ。
チェコは、EURO2004の予選プールで、たくろふひいきのドイツと当たってるからなー。

おーいネドヴェド、ケガしていいぞー。

ことわざロジック

「ペンは剣よりも強し」

わははは。ウソをつけ。
だったらためしに戦ってみろ。

ある大手新聞社の入社試験で、「ペンは剣よりも強し」という題で作文を書かせたそうだ。試験を受けたほぼ全員が必死になって「ペンはいかに剣よりも強いか」を論じており、逆に「実は剣のほうが強い」ということを書いた受験生はひとりもいなかったという。採点官はうんざりして、「剣のほうが強い」ということを書いた受験者がいたら、もうそれだけで2次、3次面接を免除して採用したくなったらしい。

歴史を紐解くまでもなく、焚書坑儒をはじめとして文筆が権力に屈した例は数限りない。現在では世界最高の水準を誇るドイツ医学界さえ、20世紀前半には権力に屈し、「人間の能力の優劣比較は民族間の相違に基づく」という遺伝子学の見解を取らざるを得なかった暗黒の時期がある。

ことわざというのは、世の中の真理を表すものでは決してない。
「二度あることは三度ある」
「三度目の正直」
どっちだ。
「ペンは剣よりも強し」という言葉は、「こういうふうにできている」と世の中を喝破したものではない。そうではない世の中を憂い、「こうあれかし」という願望をこめたものだ。

よく教訓話で偉そうにことわざを引用する手合いがいるが、よく内容を検証してみると、ことわざの使い方で論理的に破綻していることが多い。有能な社員としては、社長の訓示に内在する論理の破綻をその場で指摘し、社長に一回り大きく成長して頂くに如くはない。クビの危険など顧みてはならない。

個人的に好きなことわざは「二階から目薬」である。
場面を想像しただけで爆笑できる。

ゆとり教育

「指導要領改正 死語化した「ゆとり教育」」
(12月27日 産経新聞社説)
[指導要領改訂]「誤った教育観が混乱を招いた」
(12月27日 読売新聞社説)

両者とも手厳しい。
「見直しは当たり前だ」という論調だ。

計算、漢字などの上達は「1000本ノック」式のドリル学習以外に、上達は無理だろう。
読売の方には「最近、ドリル学習が盛んになっている」とあるが、今までやってなかったのか?
オレが小学生の頃は、計算ドリルを友達と競争して解いて、勝ったの負けたのとよくやっていたものだ。

「ゆとり教育」的発想は、実はアメリカで20年ほど前に実施され、悲惨な結果に終わっている。
「個性を尊重・自由な発想」などと、ちょうど今の日本の文部科学省と同じことを謳って初等教育のカリキュラムが大幅に削減された。結果としてどうなったか。
陸軍の新配卒の兵士が、弾薬を取り扱う説明書に書いてある英語が読めなくなっていたそうだ。
それまでは「知ってて当たり前」の言葉の意味が通じない。

産経の指摘、「日本人は元来、学問好きな国民である」は、もっともだと思う。
お稽古をはじめ、自分の能力を伸ばすのが好きなんだろうな。
どこぞの国みたいに「知育に優れることが良いことであるというのは一面的な価値観だ」などと小うるさいことを言う奴もいないし。
少なくとも初等教育において、知育に優れることは良いことだろ。

「天空の城 ラピュタ」

スタジオジブリの作品の中では「天空の城 ラピュタ」が一番好きだ。
夢と冒険にあふれたストーリー、速い展開としっとりとした情景のバランスは、シリーズの中で秀逸だろう。
シータとパズーがお互いを想いあう、ほのかな恋の要素もよろしい。

DVDで見る。年末でヒマだからのんびり見れる。
ベットにひっくり返り、ポップコーンをもぐもぐ食べながら見ることにした。

DVDのいいところは、音声、字幕が日本語と英語で選択できるところだ。
英語を勉強してる身としては、ここはやはり英語だろう。
英語の映画を見ると、口語表現がダイレクトに身につくので非常に勉強になる。

物語の途中で、非常に気になるセリフがあった。
軍隊から開放されたパズーが、とぼとぼと家に帰り着くと、海賊のドーラ一家が勝手に家を占領している。
飛行石を奪うべく軍隊に襲撃をかけようとするドーラに、シータを助けたいパズーが仲間に入れてもらう場面だ。

「おばさん、僕を仲間に入れてくれないか、
シータを…助けたいんだ。

このセリフを、英語で聞いて驚いた。

"Dola, please let me come along with you.
Sheeta means everything to me."
(「シータは僕の全てなんだ」)

ほのかな恋どころの騒ぎではない。
大きく出たなパズー。お前はイタリア人か、フランス人か。

なぜ英語に吹き替るえときに、こんなセリフにしたのだろう。
I have to rescue Sheeta、ではダメなのだろうか。

ここらへんに、男女関係に関する日米間の相違が見られやしないか。
男女は平等である。そんなことは常識である。
しかし日本において、若年の男女関係において男女が平等というのはまったくのウソである。

「私の彼、毎日大学まで車で送ってくれるの。」
「へえー。いいなぁ。」

自分で動け。
こういう風潮をよしとするのは、「男は女のために働く」という一方的な認識がありはしないか。
学校は、自分が自分のために行く場所だ。その場所に、他人に依存して通うのを喜ぶとは何事か。
女性の側が本当に独立した立場で男性と共存するとしたら、可能な限り自分で行動しようとするはずではあるまいか。
毎日の送り迎えなどを押し付けられたら、怒ってしかるべきだろう。

どうも日本では、「女性は男性に助けられるもの」という前提がありはしないだろうか。
軍隊に拘禁されている間も、パズーは自力で脱出しようと懸命に壁を這い上がる努力をする一方、シータは窓際にぽつんと座ったっきりなんの努力もしない。

平等という意味をきちんと考える欧米では、男女とも一方的な依存関係に陥ることを嫌う。
「独立した個人同士」、せいぜい「持ちつ持たれつ」というのが当たり前の関係だ。
当然、「お前は俺がいなきゃダメなんだな」などという言動は、もっともプライドを傷つける禁句である。

もしパズーが、"I have to rescue Sheeta" などと口走ったらどういうことになるか。
印象として、「パズーはシータの保護者ぶってる、偉そうな顔をした奴」というイメージができてしまうのではあるまいか。

「シータを…助けたいんだ」というセリフは、日本の価値観の中では、パズーがシータに対する万感の想いをこめたセリフとして受け取れる。
だったら、英語に訳すときにも、「英語圏における、相手に対する万感の想いをこめた表現」に訳せばいいのだ。
それがSheeta means everything to me.であろう。
日本語でこんなことを言ったら赤面ものだが、英語では普通に使う。
なにも一字一句を辞書に忠実に訳す必要はないのだ。
翻訳というのは、表現ではなく、心を訳すことではあるまいか。

以前レンタルビデオ店でアルバイトをしていたときに、店長に「ありがとうございました」というのは英語でなんていうのか訊かれたことがある。
「ありがとうございました」というのは、礼ではあるまい。来店した客と商品のやりとりという触れ合いをもったあとに、その一時的な人間関係に対する「残心」を伝えるものだろう。
そう考えれば、英語でそういう「残心」をあらわす表現を使えば、「ありがとうございました」を英語で言うことになるのだ。
英語ではレジの女の子はThank you very muchなどとは決して言わない。
Have a nice day.と声をかけてくれる。

ちなみに個人的には、適度に甘え上手な女の子は大好きである。
なぜなら日本人だからだ。文句あるか。

ああ起きたのは1時さ。文句あるか。

晴レルヤ。いい気分。

家主おじいちゃんの甥さんとその息子さんが帰宅。
おじいちゃんがガクーっと落ち込まないように夕ご飯でも一緒に食べに行くかな。

アメリカは電話の市内通話がタダ。だからインターネットでダイヤルアップを常時接続しても、どうってことはない。

ただ遅い。ダウンロードなんてメチャクチャ時間かかる。そーゆーのは研究室のLANを使うことにしてるが、たまに部屋でなにかダウンロードする必要があるときとかはトサカにくる。

Yahoo!BBみたいなサービスもあることはあるが、お金もったいないしなぁ。うーむ。

否定のスコープ

否定表現に興味がある。

日本語の否定疑問文ってのは、一体何をスコープにとってるんだ?
「わたしのこと好きじゃない?」と女の子に聞かれたら、「うん」か「いや」か、どっちで答えりゃいいんだ。
聞かれたときに備えて、ぜひとも答えを準備しておかねばなるまい。

英語は簡単だ。肯定疑問だろうが否定疑問だろうが、OKはOK、NOはNOなんだから。

マジメに考えると否定表現はonlyなんかとscope interactionを起こす量化表現なんだから、その量化対象をはっきりさせないとキモチ悪いな。
「たくろふは、昌博だけをいじめなかった」と言ったら。
(1)たくろふはいじめっ子だが、昌博だけをひいきして、いじめなかった
(2)昌博だけでなく、彼もろとも全員いじめた
二つ意味があるもんな。

そんなこんなでロシア語にちょっかい出してみた。ロシア語の否定表現は二重否定が否定のままだったり、case licenserになったり、ちょっと異様。否定の構造を考えるのにちょっと面白いかも。ちょうどOkusamaもいることだし。

待てよ。否定疑問文をやるということは、
鬼門の疑問文の意味を正面攻撃する必要があるのか?
ひえー!!

まぁいいや。
とりあえず女の子に「わたしのこと好きじゃない?」と聞かれたら
「問いが妥当ではない」と答えておこう。

一撃で終わるな。

はらくるしい

昼ごろのこのこ起きだして、お昼を食べにカレー屋さんに行った。お昼はビッフェ方式の食い放題
いつものように、調子に乗って食いすぎた
なにやっとるんだ俺は。

はらくるしいので大学の本屋にピットイン。店番やってた女の子とちょっとおしゃべり。

Simon Winchesterの新作、The Meaning of Everything を発見。彼は、何年か前にThe Professor and the Madman (「博士と狂人―世界最高の英語辞書OED秘話―」)という本を書いてベストセラーになった作家。今回もタイトル通り、OEDの物語。
そもそも百科事典、年鑑などの参考図書が大好き。世界中の叡智をわが手に入れた気分になる。OEDも辞典としてはえらく使いにくいシロモノだけど、なんいってもその規模と根性が頼もしい。

結局、即買い。いいのかオレ。
何週間かしてペーパーバックで出たらブチ切れるぞ。

裸の王様

アンデルセンの「裸の王様」。有名な寓話なので読んだことがある方が多いだろう。

インチキ洋服屋が、王様に洋服を献上するフリをして、「この洋服は愚か者には見えないのです」などと抜かす。王と家臣は愚か者と思われないために、服が見えるフリをする。王はパレードを行う際に、その服を着ることにする。観衆も事情を知っており、みな服が見えるフリをする。そこで一人の子供が「王様は裸だ!」と叫ぶ。王を含め、居並ぶ大人はリアクションに困る、という話だ。

この寓話から、大部分の読者は教訓を読み取るだろう。すなわち、「見えもしないものを、見えるフリをするな」とでもいうべき教訓である。

ん?

アンデルセンの原作を読んでみると、「…このように、見えないものを見えるフリしてはいけませんね。皆さん気をつけましょう」などという地の文はまったくない。アンデルセンは教訓をはっきりと書いているわけではないのだ。

つまり、我々は、「見えもしないもの見えるフリするな」という教訓を、「見えもしないのに勝手に見えるフリをしている」ことになる。
この寓話ははたして教訓話なんだろうか。

文学理論の方法論のひとつに、脱構築というものがある。簡単に説明すると、

1与えられたシステムを形式化し、
2そこに自己言及的な決定不能性を見いだし、
3そのポイントを超越論化することでシステム全体の構造を逆説的に説明する

というステップを辿る。簡単すぎてかえって分からないが、つまり物語からAとBという二つの対立する要素を抜き出し、どっちかの勝ち、という優劣をつけたあとで、矛盾をみつけ、「そういうお前はどうなんだ」というツッコミを入れる、とでも思うとよい。

気をつけなければならないのは、最後のツッコミは、物語の外の視点から行う必要があることだ。3.の「ポイントを超越論化する」というのはそういうことを言っている。

「裸の王様」の場合、
王様・家臣・観衆など「場のノリに合わせて見えるフリにノる」のがA、
子供のように「見たまんま正直に言う」のがB、
と分けられる。物語の意図は、明らかに「Bの勝ち」であろう。ところが、この物語自体が寓話として教訓を含んでいるとしたら、この本はBの「見たまんま主義」を重視しておきながら、物語自体は「見たまんま」解釈されることを拒んでいる。つまりテキストとして書いていない教訓を読み取ってもらわないと困るのである。
つまり読者は、「見たまんま主義」を標榜する物語そのものに対し、「そういうお前はどうなんだ」というツッコミを入れることができる。

このように、脱構築の観点によると、自ら肯定している読解を否定するような高次の盲点が存在することを暴くことができる。

小さい子供にこの物語を読んで聞かせたあと、「こういうふうにね、見えないものはちゃんと見えないって言わないといけないのよ」とでも言ってみると面白い。即座に「でもそんなことどこにも書いてないから見えないよ」などというガキは、理屈を並べてまったく勉強しないガキか、理屈を並べすぎて30歳過ぎても勉強をやめようとしないガキか、どっちかだと思われる。

オレのことじゃないぞ。
ペンギン命

takutsubu

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