たくろふのつぶやき

BBQ強化月間。

「森監督の暴力は善意だからまったくOK」

星野流継承!?中日・森監督が鉄拳復活も

中日・森繁和監督(63)が闘将イズムを継承する!? 

就任1年目の昨年は何があっても口を出さず、コーチ、選手らを一年間じっと見ることに徹した指揮官だったが、結果は59勝79敗5分けのリーグ5位で5年連続Bクラスの屈辱を味わった。今年は何がなんでもAクラス入りのために、元中日監督で先月4日に膵臓がんのため死去した星野仙一氏の代名詞とされる鉄拳制裁も辞さない構えでいるという。  

チーム関係者は「今年の森監督はとにかく結果にこだわるためなら何でもするつもりでいる。もちろん口も出すし、場合によっては手足も出すことさえあるでしょ」と予告する。もともと森監督はリーゼント風の髪形に褐色の肌でこわもてであるばかりか、べらんめえ口調の熱血漢。しかし、2004年から8年間、落合政権下では腹心としてヘッドコーチなどを務めたことで、首脳陣が選手に対して「暴力を振るったら辞めさせる」とのオレ流ルールを守る必要があった。それにもかかわらず、森ヘッドは、当時一度だけある選手の態度の悪さからエキサイトしてつい手を出してしまって禁を破ったことがあり、すぐに辞表を提出したが、落合監督は“悪意の暴力”ではないなどとして翻意させたことがあったという。  

それだけに今年からリミッターを外した森監督についてチーム内では「どんな恐ろしいことになるか分からない。選手もコーチも覚悟した方がいい」との声が出ている。  

とはいえ、別の関係者は「森監督は当たりが強いと思われるかもしれないけど、きついことを言ったり、手を出すときって、その人のことを何とか正そう、直そう、成功させようと思って遠慮がなくなるだけ。コイツをどうにかしようと本気になっている証拠。コーチや選手も分かってくれるはず。優しさと人間の大きさがこれだけにじみ出る人はいないから」ときっぱり。落合&星野イズムを併用させて森監督は竜を闘う集団に変えることができるか。



「体罰」の真の問題点が分かってない。


悪意をもって「コイツを潰そう」と暴力を振るう指導者などいない。すべての体罰、すべての暴力的指導は、どれも「良かれと思ってやったもの」だ

そして、「体罰はいけない」という言葉の意味は、「たとえ『善意』であっても暴力は駄目だ」ということだ。暴力に善意も悪意も関係ない。ただ暴力を振るったという事実だけが問題であって、それを行った意図は一切斟酌してはならない。「体罰根絶」のために必要なのは、そういう認識だ。

ましてや、それを擁護するような人の言うことを楯にとって「分かってくれる人もいる」を容認の根拠にするなど言語同断。
プロ野球がこんな状態であれば、その下部組織や高校野球も推して知るべし。



中日ごと滅んでくれ。

施策の真意を読む

小学校の英語 授業の質と時間を確保したい
(2018年1月31日 読売新聞社説)

2020年度に実施される次期学習指導要領は、小学5、6年生での英語の教科化が柱となる。それを見据えた措置だ。円滑な移行のため、英語学習を先行して充実させる狙いは妥当である。

 気がかりなのは、外国語活動を担う教員の水準が十分とは言えないことだ。英語の指導法を学んでいない学級担任による授業が基本となっているためだ。

 教育委員会は研修を行っているものの、英語力に不安を抱える教員は少なくない。英語を母語とする外国語指導助手(ALT)の配置も、自治体ごとにばらつきがある。授業の質に格差が生じる懸念は、かねて指摘されていた。



まぁ、現場に余計な負担をかけるだけの改悪になることは間違いあるまい。


教育に関する「改革」というものは、大体が目的のための手段ではないことが多い。表向きの目的とは別に、その施策を是が非でも実行しなければならない事情がある。

たとえば大失敗に終わった「ゆとり教育」。あれの本当の目的は、生徒にゆとりをもたせることなどではない。ゆとり教育の背景には、1970年代から80年代にかけての、生徒数の増加がある。

団塊世代の子供にあたる世代で生徒数が激増し、それに伴って学業成績が追いつかず、学校の授業からドロップアウトする生徒が増えた。この時期に荒れた中学・高校の数はかなりの数にのぼり、不良生徒の素行が社会問題となった。マスコミはこぞって「受験地獄」「詰め込み教育」「偏差値重視」「学歴偏重」などをキーワードに、当時の文部省の方針を批判した。教育現場では教師の負担が増加する一方だった。

そういう背景で、「ドロップアウトする生徒が多いなら、いっそのこと、最初から教える項目を少なくすればいいのではないか」という趣旨で導入されたのが、ゆとり教育だ。ゆとり教育は、決してそれが「教育のために効果がある」という意図で実施されたのではない。ゆとり教育が意図する救済の対象となっていたのは、実は教師の側なのだ。増える一方の生徒数によって学校機能がパンクした状態で、教師の側に「落ちこぼれ生徒の面倒を見る手間を減らす」という目的のために採られた方策だ。 教師のためのものであって、生徒のためのものではない。

ゆとり教育によって子供の学力が下がることなど、最初から分かっていたことだ。それでもゆとり教育を断行したのは、当時そうでもしなければ学校現場が成り立たない事情があったからだ。子供の学力低下と引き換えに、学校機能を少しでも回復させる便宜上の措置にすぎない。当時の文部省も、ゆとり教育が未来永劫継続すべき指針だとは露ほどにも考えていなかっただろう。ほんの一時的な「その場しのぎ」に過ぎない。

だから生徒数が減れば、ゆとり教育は不要となる。2000年代になって生徒数が激減し、生徒ひとりひとりに手間と時間をかけた指導が可能になると、ゆとり教育は弊害のほうが重くなってきた。そうなると文科省は軽やかにゆとり教育を捨て、従来の「詰め込み教育」に回帰する動きをみせている。

そういう視点でゆとり教育の是非を考えると、単純に「子供の頭が悪くなったからゆとり教育は失敗」と断じることはできない。ゆとり教育を評価するときには、表向きの看板「子供の学力のため」以外に、裏の真意「学校機能の回復のため」のほうも評価の対象にする必要がある。

そのような複眼的な視野でも、やはりゆとり教育は失敗に終わったというべきだろう。最初から犠牲にするつもりの学力は順調に下がり、かつ学校機能も回復どころか悪化の一途を辿っている。「リーゼント」「長ラン」「派手なシャツ」というクラシックな不良はいなくなったが、代わりに不登校や学級崩壊など違った種類の問題が発生している。「指導力不足」という信じられない教師まで出現するようになり、文科省はあわてて教員免許を更新制にして必死に体裁を取り繕っている。ゆとり教育で学校が良くなったことなど何もなく、生徒の質も教師の質も、ともに下がる一方だ。

ところで、ゆとり教育に特徴的な実施事項に「総合的な学習の時間」というのがある。その趣旨は「地域や学校、児童の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や児童の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行うものとする」。まったく訳が分からない内容だが、要するに「アタマで覚えることだけでなく、実際にその知識を生かして、何かできるようになれ」という無茶振りだ。覚える内容を減らし、覚えた内容で何か生産的なことをしよう、といういかにもお役所的な発想だ。

こんな総合学習が企画倒れに終わることなど見え見えだっただろう。なにせ、教師の側にそんな能力などなかろう。自分がやったこともなければ、それを教えることもできない。もし総合学習が謳うような能力が身に付いているような人材であれば、最初から教師になんてなるまい
学校現場も気の毒だ。いきなり「各自が工夫して授業をつくれ」なんて丸投げされても困るだろう。創意工夫や知的好奇心に長けた教師にとっては良いだろうが、学校の教師は決して創造的な頭脳活動が得意な人種ではない。

「総合的な学習の時間」は、ゆとり教育のカリキュラムが転換した今でも残っている。いわば大失敗に終わったゆとり教育の「負の遺産」であって、学校現場はそれをどうしたものか持て余している。
その受け口として新たに架け替える看板が「英語教育」だろう。ゆとり教育から完全撤退するためには、「総合的な学習の時間」を世間に悟られることなくフェイドアウトさせる必要がある。そのためには、必要性を論じる必要のない「英語教育」は絶好の身代わりだろう。

つまり、小学校の英語教育導入の目的は「生徒の英語力を伸ばすこと」ではない。「批判されることなく、完全にゆとり教育から撤退すること」だと思う。生徒のためではなく、文科省および学校現場の面子を保つためなのだ。ゆとり教育の象徴として具体的に残ってしまっている総合学習の時間を英語教育に振り替えることによって、他科目の授業数を増減させることなく、目立たずに総合学習の痕跡を消す。

かように教育に関する施策というのは、教育の対象となる生徒児童のためを思って実施されることなど皆無だ。施策の目的はすべて「大人側の事情」による。文科省はいまだにゆとり教育の失敗を公式には認めていない。文科省にとっては、面子を守り、体面に固執し、形だけ整えることが何よりも大事なのだ。そういう本質を知らずして、表面だけの「英語教育の是非」を論じても無駄だろう。最初から「そうしなければならない裏の事情がある」という問題に対して、表向きの取り繕った体裁だけ批判しても、方針など変わらない。



本気で潰したければ相手の弱いところを突かないと
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カップラーメン

「カップラーメンの麺がのびている。あぁ、美味しくない…」
これが、ブルース。

「カップラーメンの麺がのびている。けれども、俺は食う!」
これが、ロック。

「カップラーメンの麺がのびている。(15分の間奏) よし、捨てよう」
これが、プログレ。

「カップラーメンの麺がのびている。でも、僕はそんなのびた麺が好きなんだ」
これが、フォーク。

「カップラーメン伸びたじゃねえかふざけんな」
これが、メタル

「カップラーメン作ったけど食わねえ」
これが、パンク

「カップラーメンお湯入れないで食べる」
これが、ハードコア




メモメモ

日本の犯罪

テロリストA:日本でテロをやるぞ!
テロリストB:どんな?

テロリストA:そうだな・・・地下鉄で強力な毒ガスを撒く!
テロリストB:もうそのネタやられ済みだ。しかも俺たちよりマイナーな宗教団体に

テロリストA:夏は祭りの時期!潜入して食い物に毒を入れる!
テロリストB:それに至っては一介の主婦がやったらしい

テロリストA:繁華街で車を暴走させ、無差別に通行人をひき殺す!
テロリストB:単にむしゃくしゃした奴とみなされるのがオチだな

テロリストA:じゃあ、高速道路でバスを乗っ取って・・・
テロリストB:どこかの17歳と同レベルに思われるからやめてくれ

テロリストA:めんどうだ。人の多いところで爆弾をボン!
テロリストB:それもあの国じゃ高校生クラスの犯罪だ

テロリストA:ならもう、ハイジャックだ、ハイジャック!
テロリストB:そりゃ日本では50年前の犯罪だぞ。しかも犯人組は帰国したくてもできず、国内では冷笑されてる。

テロリストA:なんなんだよ日本て!いっそ核ミサイルぶちこんでやるぞ
テロリストB:あのなぁ、それをやった国といちばん仲良くしてんだぞ日本は・・・




どこが世界一安全な国か。

「社説の何も言ってない感がヤバイ」

社説の何も言ってない感がヤバイ


新聞読む習慣がなかったんだけど、ここ1ヶ月ぐらい5誌(朝日、読売、産経、毎日、日経)の社説をぼーっと眺めてて気づいたこと。


社説って何も言ってなくね?


具体的な対案もなければ、事実を究明するわけでもない。

「俺でも調べりゃわかる」ってところは具体的に書いて、さあ主張する土台ができたぞ!ってところであいまいになる。

現行の政治や経済を否定したいなら、具体的な対案を出すべきだと思うんだが。それと、有名な人のブログを見るとだいたい対案が載ってる。そりゃ適当な記事もたくさんあるけど、そういうのはアクセス稼げないから淘汰されてる。

ネットマンセーとかじゃなくて、こう、頑張って取材してきただけのなんかがあるんじゃないの?他誌を出し抜くネタとか載っけたくないの?起こった事実だけならニュースでもいいけどさ、社説っていうんだからなんか言いたいことがあるんじゃないの?

「新聞」って世界のビジネスと政治を知らないからいろいろと大変なんだろうけどさ、あいまいな中学生の憤りにも似た主張を、高めの文章力で掲載してるだけに見えてるぞ今のとこ。


「わざとそう書いている」と考えれば、どうしてそういう書き方ばかりするのか見えるだろ。
事実の観察までは合格。あとは妥当な仮説を考えて検証する癖をつければいい。



あと一息だな。

「私が本を29万ドル売った方法」

290000




まぁ、そりゃ、ね。

口先男。

muramoto


ウーマン村本を中国人が英雄視?「日本の総理大臣に」絶賛報道のワケ



村本の主張は、あくまで非武装中立。『朝生』では「人を殺すくらいなら、自分が殺される方がマシ!」とまで言ってのけ、1月4日のTwitterでは「武器で威嚇して近寄らせないようにする人間はチンパンジー」という趣旨の発言をしている。これも言論の自由が保障されている日本では、「個人」の主張としていっこうに問題ない。しかし、彼にはそんな主張も台無しする恥ずかしすぎる過去があるという。

「15年7月に村本の熱狂的なファンの女子大生がストーカー規制法違反容疑で逮捕されています。2年もの間村本に付きまとい、村本は『ノイローゼになり、襲われる夢を何度も見た』とテレビの取材にも答えています。しかし、村本はこの時、彼女を撃退するため、傘を振り回して追っ払おうとしたものの失敗し、結局は110番に電話をかけて警察にすがっています」(同上記者)

 村本は武器で威嚇しようとし、結局は警察に頼っているのである。個人と国家の違いはあれど”お花畑理論”が通用しないのは同じである。「軍隊を持たない国が他国から攻撃を受けるはずがない」というならば、まずは自分から実践を始めてみてはいかがだろう




強盗にとってはすごい恵まれたターゲットだな。

第94回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)

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第94回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)。


青山学院大学が4連覇。往路優勝こそ東洋大学に譲ったものの、復路に猛烈な巻き返しを見せ、5分以上の差をつけて総合優勝を果たした。


東洋大学の作戦が間違っていたわけではないと思う。むしろ、王者・青山学院をあそこまで追いつめるのは、今回のチーム戦術を見る限り、東洋大学しかあり得なかっただろう。

往路を制した東洋大学は、明らかに往路の序盤に主力を揃えてきた。これはトラック競技と駅伝が大きく違う点のひとつで、「どの位置で走るか」という勝負の流れが選手のパフォーマンスを左右する。単にベストタイムが速い選手を並べれば勝てるというわけではない。東洋大学はそのことをよく分かっていた。東洋大学は近年の箱根駅伝で1区を重視しているが、それは箱根の戦い方を熟知した酒井監督ならではの「定石」だろう。

実際、東洋大学は、1区(西山和弥)、2区(相沢晃)、3区(山本修二)、4区(吉川洋次)の4人で青山学院を振り切り、流れを引き寄せることに成功した。その流れが最も象徴的だったのが3区だろう。実力、実績ともに青山学院の田村和希のほうが上だったが、直接対決で区間賞を制したのは東洋大の山本修二だった。酒井監督が重視した「勝負の流れ」が、田村の快走を封じた形になった。

往路の結果を見てみると、東洋大の積極策によって全体が高速レースになっている。前回大会(93回大会)に往路優勝した青山学院大学のタイムは5時間33分45秒。これは今回大会では往路7位に相当する。今回6位までの大学(東洋、青山学院、早稲田、拓殖、法制、城西)は去年の青山学院よりも速い。7位(日体大)でも2秒差、8位(順天堂)でも9秒差だ。

つまり今回の往路は、「青山学院が遅れた」のではなく、「東洋が速かった」というべきだろう。前回大会の1区で服部弾馬が想定通りのリードをとれず、高速レースに持ち込む作戦が失敗した反省を、腕力で克服した形だ。
しかし、その積極策が復路では裏目に出ることになる。

往路に主力を注ぎ込んだ東洋大は、復路に大砲を確保できなかった。一方、追う立場の青山学院は6区、7区、8区で連続区間賞を穫り、あっさり往路の劣勢を跳ね返した。7区の林奎介は区間新記録のおまけつきだ。
単純に、選手層の差だろう。往路が終わった段階で青山学院の原監督は「30秒程度の遅れは想定内。必ず逆転できる」と語ったが、強がりでもはったりでもなく、本当だったと思う。復路にも往路と同格の主力選手を配置できるところが、青山学院の選手層の厚さだろう。

7区で区間新を叩き出した林奎介は3年生だが、前回の箱根はおろか、いままで学生3大駅伝を1度も走っていない。そういう選手が突如現れるということは、青山学院にはそのレベルの選手がゴロゴロいるということだ。主力と控えの差が少なく、「その時に調子のいい選手」で自在にオーダーが組める。2年生エースの關颯人が故障離脱し、その穴を埋められないまま流れを失った東海大と対照的だ。

今回の東洋大の復路タイムは5時間34分03秒。これは低速レースに終わった前回大会の青山学院の復路タイム(5時間30分29秒)と比べても4分近く遅い。
つまり青山学院は「復路が強い」のだ。復路6、7、8区にエース、準エース級を置くことができる。テレビの解説でも言っていたが、青山学院エースの下田裕太は、他大学であれば8区に置けるような選手ではない。復路序盤で勝負を決め、9区、10区には安定感に優れ独走可能な上級生を配置して逃げ切る。

東洋大は、序盤で流れを掴むことには成功した。しかし青山学院の本当の勝ちパターン「復路でぶっちぎる」を防ぐことまではできなかった。東洋大の復路の選手が想定外に遅かったわけではない。各選手、区間3位~5位前後で無難にまとめ、仕事はきちんと果たしている。10区の小笹椋は区間賞を穫っている。
しかしそれ以上に、青山学院の復路が速すぎた。6区で逆転、7区で引き離し、8区で駄目押し。事実上、その3区間で復路の決着はついた。 

箱根駅伝が他のレースと異なる点はふたつある。ひとつは「区間距離が極端に長いこと」、もうひとつは「5区(山登り)と6区(山下り)の特殊区間があること」だ。もちろん東洋大の酒井監督もそのことを熟知しており、山を攻略する化物走者を確保することで好成績を収めてきた実績がある。

しかし今回の箱根駅伝を見る限り、選手の調子を見極め、適切な区間配置をするという点で最も優れていたのは青山学院の原監督だったと思う。下りのスペシャリスト、6区の小野田勇次は別格として、上り下りだけでなく、「追いながら走る選手」と「逃げながら走る選手」の区間配置が絶妙だった。

たとえば今回、青山学院のダブルエースと称される田村和希は3区、下田裕太は8区を走っている。その逆ではない。田村は追う展開に長けており、長い差を縮める走り方に優れている。逆に下田は自分のペースで独走することが可能で、逃げる展開に強い。
前回大会の7区で、独走で逃げる展開になった田村は脱水症状寸前となり、区間11位に終わった。下田は11月の全日本大学駅伝(伊勢駅伝)で追う展開に巻き込まれ、他ランナーにペースを乱され、区間4位に終わっている。

原監督は、単純に持ちタイムが速い順に選手を10人並べるのではなく、「その区間のときにどういうレース展開になっているのか」を想定した上で、その流れに適正のある選手を並べていたように見える。おそらく、東洋大が往路序盤に勝負をかけてくることも充分に予想していただろう。田村和希を3区に配置していたことがそれを物語っている。

一方の東洋大は、強引に流れを維持しようという力技で復路の作戦をたてていたように見える。一番の誤算は、青山学院の7区(林奎介)に区間新の走りで逃げられたことだろう。林は青山学院の10000m走のベストタイムではチーム9位。決してエース格の選手ではない。しかし今回のレース展開と当日の調子ががっちりかみ合い、区間新記録の快挙に繋がった。その適正と調子を見抜いた原監督の勝ちだ。青山学院からは林のような選手が出てくるが、東洋大からはそういう選手は出てこない。

青山学院と東洋大の差をもうひとつ挙げるなら、チームの雰囲気だろう。東洋大のチームスローガンは「その一秒をけずりだせ」。有力校でありながら2位に甘んじることが多く、数分差、数秒差で勝利を逃すことが続いた。そのために1秒を削る覚悟でチーム全体の雰囲気ができあがっている。

しかし今回の箱根を見たところ、そのスローガンが悲壮感につながり、選手ののびのびした躍動感を封じているように見える。短所の改善ばかりを気にして、長所を伸ばす雰囲気ではない。優勝を逃すようになってから、東洋大の酒井監督が笑顔で話しているのを見たことがない。素っ頓狂なキャッチフレーズで選手からも冷やかされ、陽気な物言いで柔らかい雰囲気をつくっている青山学院の原監督とは対照的だ。

その違いが、「選手の適正を見抜く」「その時の調子を測る」という能力の違いに反映されているように見える。歯を食いしばって耐え抜く姿勢と、笑いながら上を向く姿勢は、土壇場の力の出し方に如実に反映されているのではあるまいか。 東洋大学の選手は「こうしなければならない」、青山学院の選手は「こうやってみよう」という気持ちで走っている気がする。


他に優勝候補と目された大学を見てみると、神奈川大学は仕方ないだろう。5区で区間最下位の20位と大失速。これは区間賞の法政大・青木涼真から10分も遅い。6区の山下りでも区間9位に沈み、特殊区間の備えの薄さが惨敗につながった。

期待はずれ扱いする記事が多いが、実は今年の大学日本王者は神奈川大なのだ。神奈川大学は11月の全日本大学駅伝(伊勢駅伝)を制している。箱根駅伝は関東陸連が管轄している「関東大会」に過ぎない。神奈川大は、関東大会では惨敗したが、全国大会では優勝している。

問題は「そのどっちに勝ったほうが嬉しいのか」だろう。事実上、全国大会である伊勢駅伝は、関東大会に過ぎない箱根駅伝の前哨戦扱いされることが多い。世間の見方では「箱根こそが日本一決定戦」とされていることが多い。それは大学の駅伝戦略が箱根を中心としていることからも分かる。大学にとっても広告効果が大きいのは箱根のほうだろう。
神奈川大は全日本駅伝は制したが、箱根に対する備えが希薄だった。いくら全日本を制しても、総距離にして箱根駅伝の半分にも満たない伊勢駅伝と、ひとり20km前後を走る箱根では、勝つために必要な能力がまったく違うということだろう。

もうひとつの優勝候補として騒がれていた東海大も、底力の浅さを露呈した。あれだけのタレントを揃えて勝てないのであれば、明らかに監督の能力不足だ。東海大は1区を予定していた2年生エースの關颯人を故障で欠き、直前でレースプランが大きく狂った。
しかし、出走予定の選手を万全の調子でレースに送り出せない時点で、監督として不合格だ。東海大はここ数年、有望な高校生をかき集め、人材に不足はないはずだ。トラック競技や出雲駅伝ではちゃんと結果が出ている。それが箱根駅伝となるとまったく勝てないのは、明らかに監督が「箱根の勝ち方」を理解していないからだろう。

他の大学に目を転じてみると、早稲田大、拓殖大、中央学院大が目を引く。
早稲田大は堂々の3位。4位の日体大を19秒差で下し、土壇場での勝負強さがあることも示した。今回の早稲田大は絶対的エースがいない代わりに、区間3位の選手がやたらに多い。全体的に安定感のある選手が多く、極端に失速する区間がない。これは今までの早稲田の戦い方ではない。明らかに相楽監督が、それまでの早稲田とは違うチーム作りを続けており、その結果が出ているということだろう。
早稲田は出雲駅伝が9位、伊勢駅伝は7位でシード権を失っている。神奈川大とは逆に、それらの駅伝を捨て、箱根に特化した準備を進めてきたことが分かる。

拓殖大は予選会8位のギリギリで本戦出場を決め、本大会でも8位でシード権を確保した。2区を走った留学生のデレセも含め、区間5位~7位で無難にまとめる選手が多い。早稲田大学と同様、出雲と伊勢を捨てて箱根一本に絞って準備してきた。出雲と伊勢は出場さえしていない。 20km前後という長丁場の距離に選手ひとりひとりが高度に対応してきた。

そういう躍進校の準備の仕方を見ると、出雲・伊勢の各駅伝と、箱根駅伝との違いが際立つ。そんな中、中央学院大の存在が異様に見える。今回の箱根駅伝は10位。14秒差で順天堂をかわし最後のシード権を確保した。この14秒差はこの先1年の過ごし方の大きな差になるだろう。
中央学院大はこれといった大駒がいるわけでもなく、区間10位内に入っている選手すら少ない。それでも総合で10位をきっちり確保している。さらに不思議なことに、出雲駅伝は8位、伊勢駅伝は6位でやはり最後のシード権を確保している。特に箱根に特化しているわけでもなく、特に絶対的エースがいるわけでもなく、それでも全体的な総合力できっちり成果を出している。これは明らかに川崎勇二監督の手腕によるところが大きいだろう。東海大とはまったく逆だ。


テレビの報道や解説でも言っていたが、今回の箱根の特徴は、大学間の格差がかなり縮み、復路の終盤になっても僅差の勝負が増えてきたことだ。無敵を誇った青山学院の牙城もとうとう往路優勝を譲る形で崩れた。中堅大学が躍進する一方、順天堂、駒沢、山梨学院といった一時代を築いた名門校がシード権確保が難しい時代になっている。「これまでのやり方」に固執する大学は、ますます取り残されていくだろう。理想が先走って現実を置き去りに暴走するのではなく、時代に応じて、選手に応じて、現実に対処する能力のある大学が勝っていく時代になると思う。



冬休みの朝寝坊が2日間だけ治りますな。

独裁者の定番

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特にコメントはありません。

池の水を抜くだけでは足りなくなったらしい。

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箸墓古墳隣接の「池の水抜く」放送中止 地元が協力断る
(朝日新聞デジタル)

テレビ東京は1日、1月2日に放送予定の番組「緊急SOS!池の水ぜんぶ抜きましておめでとう2018」で、既に発表していた卑弥呼の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳に隣接する池部分の放送を中止すると発表した。詳細は明らかにしていないが、地元自治体の意見が影響したとみられる。

この池での水抜きは、11月26日放送の「池の水ぜんぶ抜く大作戦5」内で予告された。桜井市はこの前に番組ディレクターに対し、「ため池の掃除が主体であり、宝探しのような企画内容はやめてほしい」と伝えていたという。だが番組では「出るのはお宝か、それとも未知なる生物か」「約1700年前のお宝が眠る!?」などと予告していた。

26日の放送後、奈良県を通じて文化庁から市に問い合わせがあったり、市の教育委員から「宝探しのような企画に協力するのはどうか」との声が寄せられたりした。1日、市はテレ東側に「協力できない」と伝えたという。テレ東が撮影に入る前だった。

箸墓古墳のため池を管理する地区の区長の杉本義衛さん(69)によると、池の水抜きは毎年実施しているという。「古墳の価値を広めるために番組に協力しようと思っていただけに残念だ。ただ、あの予告編を見れば、市が断るのも仕方がない」と話した。

「池の水」シリーズは今年1月に初めて放送され、これまでに5回放送。水を抜いた池から外来魚のアリゲーターガーなどが次々と見つかり、人気番組となった。26日は視聴率12・8%で、大河ドラマの11・3%を上回った(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。(湊彬子、田中祐也)



テレビ番組が終わる時って、「視聴率がとれなくなった時」ではなくて「番組内容にインフレを起こして、制作者が暴走した時」のほうが多いような気がする。

プロジェクトX、ほこたて、あるある大辞典、みんなそうだった。「もっと数字を取れ」からの「もっと内容を盛れ」という偉い人の要求が、構造的な歪みの本質だろう。



黙って池の水抜いてりゃ面白さが続いてただろうに

自分とは何者なのだろうか

「5月病」というのはよく知られているが、「11月病」というのはあまり知られていない。


そりゃそうだろう。僕が勝手に名付けた症状だからだ。
僕の感覚では、5月病など屁のようなものだが、11月病は下手をすると大学生の一生を狂わせる。

11月病というのは、よくある大学生の戯れ言「自分とは何者なのか」という人生の迷いを指す。命名通り、11月あたりに発症する学生が多い。夏の浮かれた時期が過ぎ、涼しさから寒さへと気候が変わる頃になると、「いまやっていることが本当に自分のやりたいことなのか分からなくなってきたんです」のような、わけの分からないことをほざき出す。

大学生の5月病なんぞ、一種の燃え尽き症候群であることが多い。大学受験のストレスから解放され、勉強という「毎日やらなければならないこと」がなくなる。一人暮らしをはじめてする学生も多い。そういう時期、誰もいない部屋に帰ってひとり、何をすればいいのか分からくなってしまう。
まぁ、僕の感覚では、受験のための勉強など遊びのようなもので、大学に入ってからが本当の勉強の始まりだ。だから「毎日勉強しなくてもよくなった」というのは単なる学生の勘違いなのだが、まぁそれは言うまい。

その手の5月病は、夏が近づけば大抵は良くなる。6, 7月くらいになれば大学で友達もできてくるし、サークルや部活など自分の居場所がみつかる。「5月病が原因で大学をやめました」という学生は非常に稀だ。
基本的には11月病もそれと似たようなものだ。僕も11月病にかかった学生から相談を受けることがあるが、基本的に放っておく。年末が近づき、クリスマス特需で恋人ができ、冬休みに帰省して大学に戻ってくると、けろっと治っていることが多い。

ところが5月病と違って、11月病の自然治癒率は6割程度といったところだろう。1月末の期末試験が終わって、春休みが近くなっても、相変わらず生気のない目で相談に来る学生がいる。ここまでこじらすと、むしろ春休みは危険だ。大学は、夏休みよりも春休みのほうが長い。その春休みの間に11月病を悪化させ、4月になっても大学に戻ってこなくなる学生がいる。
お決まりの「自分探しの旅」にお出かけなのだ。

なぜだか知らないが、僕はこの11月病に対処する名人という評価をいただくことが多い。僕に相談しに来ると、人生の迷いが晴れるという評判が学生に回っているらしい。
迷惑千万だ。そんなくだらん評価のせいで、学生応対に時間をとられ、したい勉強もたまった仕事も削られる。我ながら「自分は教師に向いていないな」と実感する。

教師の側としてみれば、そういう学生への対処に方法には、ある程度の「定番のテクニック」はある。今では僕は、学生応対がどんなに面倒くさくても、作り笑いなど0.5秒で作れる。ひたすら聞き役に徹すること、学生に多く話させること、感情を否定せず、正論をぶつけず、共感に徹すること。昨今では大学教員はカウンセリングの研修が義務化されていることが多いので、どこかの段階でそういう対処の仕方を教わっている。

要するに「頷き魔になれ」ということなのだが、単なる首振り人形ではなく、学生が安心して相談できる教師になるためには、その根底で「自意識というのはいったい何なのか」ということを教師なりに理解している必要があると思う。それを直接的に学生に言うかどうかは別として、自分なりの「答え」として、「自意識」というものを形として掴んでおく必要があると思う。


「自意識とは何ぞや」という議論は、哲学や社会倫理学の分野では正体不明の議論が飛び交っているようだが、僕の考えでは、自意識の正体は時代によって変化しているものだと思う。


昔の日本は、「その人が何者であるのか」は、その人の外側で勝手に決められていた。両親は誰か、祖父母は誰か、祖先は誰か、どこの家の子供なのか、家業は何なのか、住んでいるのはどこなのか。こうした「血縁」「地縁」という因習によって、その人という存在は決まっていた。

アメリカ人は自由奔放、個人主義、能力主義に見えるが、実はそういう血縁や地縁を非常に重んじる。アメリカ人の男の子の名前の付け方に「(父親の名前) Jr.」という名前の付け方があるが、日本人は絶対にしない名前の付け方だ。日本では、父親の名前をそのまま息子に名付ける親はいないだろう。もともと移民の国で、全員がよそ者だった国だからこそ、「自分は何者なのか」を確立するためには「誰々の息子」という血縁にすがりたいのだろう。

現在でも、地縁や血縁によって自意識をつくる輩はいる。『ハリー・ポッター』に出てくる敵役ドラコ・マルフォイは、作品を一貫して「マルフォイ家のお坊ちゃん」という自意識に揺るぎがない。自分の内側に誇るものがなく、自分が何者であるのかを構成している要素がすべて「本人の外側」にあるものだ。
そういう自意識は現代では嫌悪される傾向にあるが、少なくともドラコ・マルフォイは作品中、「自分は何者なのだろうか」「自分はどう生きるべきなのだろうか」などという悩みは微塵も持っていない。蓋し、地縁や血縁という因習は、現在どう評価されているかは別として、揺るぎない自意識を提供してくれるものなのだろう。言ってみれば、そういう因習は、「自意識」という生きるうえで邪魔なものを、くるんで隠してくれる一種の社会装置だったのだろう。

現在では、そういうものはほとんど残っていない。生まれたときから両親との核家族で、祖父母とは夏休みに年に一回会うか会わないか。祖先の墓参りをすることもないだろうし、家業を継がなければならない学生など皆無に等しい。地縁や血縁によって自我を確立している若者は、今や絶滅危惧種だろう。

そういう時代では、「自分は何者なのか」が勝手に決まってくれないので、自分でそれを作らなくてはならない。その元手になるのが「能力」だ。自分はなにができる人間なのか。自分はいままで何を成し遂げてきたのか。そういう「自分の内側にあるもの」しか、自分という存在をつくりあげる材料がない。

能力によって自分が定まるということは、言い換えれば「他人の評価でしか自分が決まらない」ということだ。多くの場合、若者の能力というのは、他人に評価されて初めて存在することになる。「ルービックキューブで6面を揃えられます」などという、誰も褒めてくれない能力を持っていたとしても、「自分は何者であるのか」を確立する役には立たない。

他人の評価の最たるものが「就職活動」だ。能力を下地として、自分の価値が、他人に容赦なく判断される。お祈りメール一本で就活が刎ねられるということは、大学生にとって「お前には価値がない」という非情な宣告だ。そのため今の大学生は、日々、自分の価値を作り出すことに必死になっている。血縁によって家業を継いでいた時代には必要のなかった努力だ。

つまり、「自分が何者なのか分からない」という11月病の根っこをよくよく調べてみると、ほとんどの場合が「就職活動に対する潜在的な恐怖感」であることが多い。就職のために何か能力を身につけなければならない。他の人にはないオリジナリティーを身につけなければならない。大学生活のすべての努力、すべての生活が、「自分にしかない価値」を作るための競争と化している。ご苦労なことだ。

その努力に疲れた学生の行き着く先が「自分探し」だ。要するに、自分の能力を肯定的に評価できなくなっているのだ。「自分探し」をしている学生の多くは、本当の自分を探そうとしているのではなく、能力の不足から「本当になりたい自分」になれず、妥協できる落としどころを探しているに過ぎない。基本的な姿勢は「逃げ」なのだ。厳しく聞こえるだろうが、ほとんどの学生がやっていることは、要するにそういうことだ。

そういう学生が不真面目というわけではない。むしろ、11月病にかかる学生は、とても真面目な優等生が多い。
優等生ということは、言い換えれば、それまでの18年たらずの人生を「他人に評価されるために頑張ってきた若者」だ。両親の期待に応えたい。先生に褒められたい。友達に一目置かれたい。そのために努力を惜しまない。そういう一生懸命な学生が、大学後の進路に「いい子として頑張るだけではどうにもならない現実」が待ち構えていることに薄々気づきはじめ、それまでの努力の仕方が通用しなくなることに絶望し、11月病に陥る。

僕はそういう11月病患者の学生の話を聞く時に、必ず子供の頃からの趣味を聞く。子供の頃、楽しかった思いでは何か。なにか集めていたものはないか。何をしていた時に一番時間を忘れて熱中していたか。
子供の頃からの話を聞くのは、そういう学生は、いま現在、なにも趣味を持っていないことが多いからだ。「それさえしていれば人生は楽しい」という時間をもたない。ひどいのになると、「いまはそういう趣味に熱中している場合ではないから、封印しています」という学生もいる。

本末転倒だと思う。そういう学生は、自分の生き方を「なにをしたいか」ではなく、「なにをしなければならないか」だけでつくりあげている。就職活動という恐怖に立ち向かうために、それに役に立たないものは、趣味だろうが大学の授業だろうが、容赦なく切り捨てる。よく「こんな学問、なんの役に立つんですか」という質問をする学生がいるが、その「役に立つ」とは、多くの場合「私の就職活動に」という前提が隠れている。自分の将来、自分の進路、自分のいまの必要性、という狭い価値観でしか、世の中を見られなくなっている。

そりゃ、生きるのがつまらなくもなるだろう。酷なようだが、そういう学生は、人生がつまらないのではなく、自分で自分の人生をつまらなくしているのだ。
そういう学生だって、子供の頃からそういう価値観だったわけではない。それまでのどこかの時期には、「人生の何の役にも立たないこと」に熱中していた時期があるはずなのだ。そういう生き方を取り戻す以外に、11月病から立ち直る方法はないと思う。

僕に言わせれば、大学教師なんて全員、好きなことだけに熱中して、世のため人のため役に立つことなど知ったこっちゃない社会不適格者ばかりだ。僕も一応、研究者の端くれだが、自分の研究が世の中のために役に立つと思ったことなど一度もない。自分の研究が何の役に立つのか、と学生に訊かれたら、僕はいつも「役になんて立たないよ」と即答している。僕が自分の研究を続けているのは、それが役に立つからではない。単純に、自分の研究分野が好きだからだ。

日本は、どんな分野にでも、どんな対象にでも、それを専門に研究している学者がいる。そのひとりひとりをよく見てみれば、その分野に熱中している5歳児に過ぎない。駅の名前をひたすら覚えていたように、怪獣の人形をいじって遊んでいたように、化学式を覚えたり数式をいじったりしているに過ぎない。そのような熱中のしかたではなく、義務感と使命感だけで、数10年にわたる研究生活の集中力を保つことなど、人間にはできない。

11月病にかかった学生に応対するときには、最終的には「すべての人の期待に応えることなど、そもそも不可能だ」ということを悟ってもらうことになる。自分に肯定的な評価をする人がいれば、必ず否定的な評価をする人もいる。好きになってくれる人がいる代わりに、必ず誰かには嫌われる。進路を決める段階で、両親の期待とは違う道に進むこともあるだろう。「この子はできる学生だ」と評価してくれている先生の期待を裏切ることもあるだろう。僕なんてそんなことはしょっちゅうだった。

言葉にすると、「他人の評価を気にすることなく、自分が本当に熱中できることを見つけなさい」ということなのだが、そんなに簡単なことではない。18年以上の人生を他人の評価で塗りつぶしてきた真面目な若者にとっては、生き方を正反対にするほどの困難を伴うものだ。人はそんなに簡単に自分勝手にはなれない。サルトルの言う「自由という鎖」は、思いのほか現代の学生をきつく縛っているものなのだ。

付け焼き刃ではなく、自分の一生を支えてくれる本当の「自意識」というのは、「何ができるのか」という能力主義では身に付かないと思う。そういう能力主義は義務感に直結して、「しなければならないこと」で毎日を埋め尽くす苦難の道をつくりだす。
朗らかに充実した毎日を送るためには、「何をしたいのか」「何が好きなのか」で自分自身を作りだすほうが王道だと思う。学生は、したくもない努力を耐え忍んで褒められるよりも、本当に自分のしたいことをしている時のほうが、いい顔をするものだ。

そういう生き方をするために、具体的に何をすればいいのか。
それを訊かれたら、僕は「勉強しろ」と返事をすることにしている。大学生である以上、いま一番したいことは「勉強」であるはずだ。その言い方で語弊があるなら、「いま一番やりたいことが勉強である人だけが、高校卒業後の進路に大学を選ぶ」というのが本来あるべき大学進学のあり方だと思う。

「何の役に立つのか」などというくだらないことを考えず、将来につながる能力など関係なく、単純に、学んで面白い分野を自分勝手に勉強する。それが世の中の何の役に立つのか、自分の進路にどう利用できるのか、などのきれいごとは一切禁止。
目的のある勉強など、本当の勉強ではない。本来の勉強というのは、知ることを楽しみ、考えることを楽しみ、それまで知らなかった世界がどんどん広がっていくことを実感する知的興奮を味わうことだ。

「ただひたすらに勉強する」という、実際にやることは変わらない。しかし、「いい成績をとっていい就職をするために勉強する」という他人に評価されるための勉強と、「自分勝手に好きなことを学び散らかす自由奔放な勉強」とでは、それに向かう姿勢はまったく違う。
「一生懸命に勉強する」というのは、ちょっと違う。鉄道好きな子供が駅名をひたすら覚えることを「一生懸命」とは言わないだろう。


頭と尻尾だけをとってみれば、大学の授業に価値を見いだせなくなった学生に、「勉強に熱中しろ」と言っているわけだから、結論だけ聞きたい学生にとっては雲をつかむような話だろう。我ながら、禅問答に近いと思う。
青い鳥の話ではないが、本当に自分にとって必要なものは、意外に自分にいちばん近いところにある。勉強に迷う学生の解決策は、勉強にこそあるのではないか。もちろん、「嫌なものに立ち向かうことでしか困難は解決できない」のような、体育会系的で短絡的な考え方ではない。そんな安直な根性論では、長く続く人生を支えてくれる「自我の確立」など、とうてい無理に相違ない。



大学生たち!勉強はいいぞ!勉強は楽しいぞ!

記名記事である辺りが受けて立つ気満々。

「政治家の言論 その荒廃ぶりを憂える」
(2017年11月18日 朝日新聞社説)

政治は言葉だ、といわれる。みずからの理念を人の心にどう響かせるか。それが問われる政治の営みが、すさんでいる。

加計学園の獣医学部問題を審議した衆院文部科学委員会で、聞くに堪えぬ発言があった。他の政党の議員3人を名指しし、日本維新の会の足立康史氏が「犯罪者だと思っています」と述べた。相応の論拠を示さないままの中傷である。各党から抗議されると「陳謝し撤回したい」とすぐに応じた。その軽薄さに驚く。言論の府を何だと思っているのか。

憲法は議員の国会内での言動に免責特権を認めている。多様な考えをもつ議員の自由な言論を保障するためだ。低劣な罵(ののし)りを許容するためではない。これまでも、他党に対し「アホ」「ふざけるなよ、お前ら」などと繰り返し、懲罰動議を受けてきた人物である。

一向に改めないのは、黙認する雰囲気が国会内にあるからではないか。同じ委員会で、朝日新聞への批判もした。「総理のご意向」などと記された文部科学省の文書を報じた記事について「捏造だ」と決めつけた。自身のツイッターでは、「朝日新聞、死ね」と書いている。

加計問題の報道は確かな取材に基づくものだ。記事や社説などへの意見や批判は、もちろん真摯に受け止める。だが、「死ね」という言葉には、感情的な敵意のほかにくみ取るものはない。昨年、「保育園落ちた日本死ね!!!」の言葉が注目されたが、それは政策に不満を抱える市民の表現だ。国会議員の活動での言動は同列にできない。

政治家による暴言・失言のたぐいは、以前からあった。最近は、政権中枢や政党幹部らからの、とげとげしい言葉が増えている。政権与党が、論を交わす主舞台である国会を軽んじる風潮も一因だろう。昨年は首相周辺が野党の国会対応を「田舎のプロレス」「ある意味、茶番だ」と切り捨てた。国会に限らず、政治の言葉が、異論をとなえる者を打ち負かすだけの道具にされている。

安倍首相は7月の東京都議選で、演説にヤジを飛ばした人々に「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫んだ。「犯罪者」「死ね」「こんな人たち」。国策に重責を担う政治家が論争の相手を突き放し、対立と分断をあおる。そんな粗雑な言動の先にあるのは政治の荒廃であり、それに翻弄される国民である。




「死ね」を憂える荒廃した社説
(2017年11月17日 産経新聞)

18日付の朝日新聞社説「政治家の言論 その荒廃ぶりを憂える」を読んで思わず噴き出してしまった

「朝日新聞、死ね」とツイッターに書き込んだ日本維新の会の足立康史衆院議員を「根拠を示さないままの中傷」「その軽薄さに驚く」「低劣な罵り」などと、実に荒廃した表現で罵倒していたからだ。

では、昨年の流行語大賞に選ばれた「保育園落ちた日本死ね!!!」はどうなのか。こちらは「政策に不満を抱える市民の表現」であり、国会議員と同列にはできないそうだ。

果たしてそうか。「日本死ね」は民進党政調会長だった山尾志桜里衆院議員(現無所属)が国会で取り上げ、注目を浴びた。山尾氏は流行語大賞授賞式にも出席している。これを称賛したのはどこの新聞社だったか

こういうのをダブルスタンダードと言うのではないか。足立氏はさぞにんまりしていることだろう。
(編集局次長兼政治部長 石橋文登)




トムとジェリー。

飯の種


kiken



村本大輔「興味もたせろ」物議呼ぶ投票行かずに持論

ウーマンラッシュアワーの村本大輔(36)が、今回の衆議院選挙の投票に行かなかったことを明かし、物議をかもしている。

村本は過去にも「投票に行ったことがない」と発言していたが、今回も23日にツイッターで「声を大にして言う。僕は今年は選挙に行かなかった」と告白。「全国民で選挙に行かなかったやつの方が多い。多数決の多数が国民の総意なら、選挙に興味なかった俺たちが国民の総意」と持論を展開し、「台風の中、選挙にいかせるぐらい政治に興味をもたせろ」と訴えた。

村本は「たった3週間でいい政党悪い政党判断できない」と投票に行かなかった有権者の思いを代弁。自身が投票しなかった理由については「日本は病気だとして政治家は医者。薬が公約だとして、その薬のいいことだけ教えてくれて肝心の副作用を伝えない医者をおれは信じない。そんな怪しい医者に大切な日本を任せきれない。だから行かない」と説明した。

また「政治意識の低い有権者が悪い」という声に対し、「けど政治は民主主義、税金払ってるんだから田舎の自分の仕事でいっぱいいっぱいで興味ない人を切り捨てるな。お笑いライブで客が少なかったら芸人のせい。政治でタチの悪いのはチケット代はライブにこなくても取ってるということ」と異議を唱えた。





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思ってることを言うのではなく、言った通りに思うようになる。

詐欺師の話し方

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話の意図をごまかそうとする奴しかこんな話し方はしない。

第48回衆議院選挙

「政権継続という審判 多様な民意に目を向けよ」
(2017年10月23日 朝日新聞社説)
「衆院選自民大勝 信任踏まえて政策課題進めよ」
(2017年10月23日 読売新聞社説)
「日本の岐路 「安倍1強」継続 おごらず、国民のために」
(2017年10月23日 毎日新聞社説)
「安倍政権を全面承認したのではない 」
(2017年10月23日 日本経済新聞社説)
「自公大勝 国難克服への強い支持だ 首相は北対応に全力挙げよ」
(2017年10月23日 産経新聞社説)
「安倍政権が継続 首相は謙虚に、丁寧に」
(2017年10月23日 東京新聞社説)


第48回衆院選を受けての各社の社説。
非常にしらけた衆議院選挙だった。対決の構造すら明白ではなく、「政策」よりも「政局」に明け暮れた野党の迷走が目立つ。政局の保持に奔走した挙句、自身の主張が正反対になる本末転倒な候補者も多かった。こんな候補者ばかりが野党では政権奪取どころか現状維持も危うい。はっきりいって今回の選挙は、野党の自滅だろう。

今回の選挙がもうひとつ異様だったことは、マスコミ各社の報道のしかただ。特に朝日新聞、毎日新聞などの左派系の新聞社は、はじめから「ストップ安倍政権ありき」の偏向報道に終止した。迷走し趣旨が一貫しない野党をやたらと褒めちぎり、「世論は安倍政権不信で一色」という報道を繰り返した。

実際に蓋を開けてみたら、自民・公明の圧勝。公明党と合わせて311議席を獲得し、憲法改正の国会発議に必要な3分の2(310議席)を上回った。これにより、与党は単独で憲法改正が可能となった。
普通に考えれば、「世論が安倍政権不信で一色」という事前の報道は、嘘だったことになる。そういう与党批判の報道は、事実を反映した報道ではなく、新聞社がでっちあげた「あるべき姿」に読者を煽動しようとした姑息な試みと断じてよかろう。

与党の大勝という結果を受けてなお、朝日と毎日は自分たちの報道が間違っていたことを認めていない。「選挙の結果は大勝だが、それは有権者に支持されたという意味ではない」という謎理論を展開している。

選挙結果と、選挙戦さなかの世論調査に表れた民意には大きなズレがある。本紙の直近の世論調査によると、「安倍さんに今後も首相を続けてほしい」は34%、「そうは思わない」は51%。

国会で自民党だけが強い勢力を持つ状況が「よくない」が73%、「よい」は15%。

「今後も自民党中心の政権が続くのがよい」は37%、「自民党以外の政党による政権に代わるのがよい」は36%。
(朝日社説)

 衆院選中に実施した毎日新聞の世論調査では、選挙後も安倍首相が首相を続けることに「よいとは思わない」との回答は47%で、「よいと思う」の37%を上回った。
(毎日社説)


単純に考えれば、手前の新聞社で行った世論調査なるものと、実際の選挙の結果が違うのであれば、世論調査の方法に間違いがあったと考えるのが普通だろう。「世論調査」と簡単に言うが、その母集団はどういう選別によるものだったのか。「ストップ安倍政権」の民意を捏造すべく、そういう意見をもつ母集団に対して調査をしたのであれば、それは世論調査でもなんでもない。単なる情報操作だ。

選挙でこれだけ圧勝していながら「民意を反映しているわけではない」というのであれば、いったい何をもって「民意を問う」と言えるのだろうか。
選挙というのは、国民の民意を問うために行うものだ。その結果から目を背け、「国民の真意は別にある」というのであれば、それは民主主義の大前提そのものを全否定する姿勢だろう。朝日と毎日の記事からは、そもそも最初から事実を報道するつもりなどさらさらなく、「なんとしても安倍政権を葬らなければならない」というイデオロギオーが先に立ち、そのためなら情報操作だろうと民意捏造だろうと何をしようと構わない、という歪んだ正義感が透けて見える。

今回の選挙で、野党は明確な政策をもたないまま選挙戦に突入した。あれだけ離散集合を繰り返し、身の振り方に汲々としていた野党候補者には、練られた政策を準備する暇はなかっただろう。希望の党、立憲民主党、共産党、そろいもそろって選挙演説では「打倒・安倍政権」だけをひたすら叫び続けるだけに終止し、自分たちが政権をとった際に実施する政策については何も言わなかった。対立候補の悪口を言い続けるだけの選挙戦で勝てるわけがない。

どうしてそんな事態になってしまったのか。今回の社説の中でそれを最も端的に指摘しているのは、日本経済新聞だろう。日経は、今回の選挙の諸悪の根源を「前原誠司と小池百合子だ」と名指しで批判している。

いちばんの責任は民進党の前原誠司代表にある。いくら党の支持率が低迷していたとはいえ、衆院解散の当日という土壇場になって、野党第1党ができたてほやほやの新党「希望の党」に合流を決めたのは、あまりにも奇策だった。有権者に「選挙目当て」とすぐに見透かされ、7月の都議選に続くブームを当て込んで希望の党になだれ込んだ候補者はいずれも苦戦を余儀なくされた。
(日経社説)

希望の党を立ち上げた小池百合子代表の振る舞いもよくわからなかった。「排除」という物言いが盛んにやり玉にあげられたが、政策を同じくする同志を集めようとするのは当然であり、そのことは批判しない。
しかし、分身的存在だった若狭勝氏らが進めていた新党づくりを「私がリセットします」と大見えを切ったのに、自らは出馬しなかった。これでは政権選択にならない。都知事選と都議選の連勝によって、自身の影響力を過大評価していたのではないか
(同)


すべての原因は、小池百合子が自分の人気の効果を見誤ったことだろう。小池百合子は、都知事選、都議会議員選での連勝に気をよくして、有権者からの人気に酔っていた。おそらくその先に描いていた野望は「日本初の女性総理大臣」だっただろう。都知事を踏み台にして、国政選挙の政党を旗揚げしてその代表となる、という奇異な行動は、そう考えないと説明がつかない。

今回、小池百合子本人は出馬していないが、一方で希望の党は首班指名を行っていない。つまり今回の選挙で、仮に希望の党が第一党となり与党となったとしても、誰が総理大臣になるのか決まっていない状態だった。
自然な流れとしては、党代表の小池百合子が首相となる。しかし、それを選挙戦の段階で明らかにしてしまうと、あまりにもあざとい。都知事が単なる踏み台であったことが露骨すぎる。希望の党が首班指名をしなかったのは、単なる選挙戦術に過ぎず、そしてその本意は有権者にバレバレだった。

結局、希望の党の選挙戦術は「小池百合子人気」だけだったと言ってよい。どれだけ自分の人気に自信があったのか知らないが、その人気にあやかって尻馬に乗るのがいた。それが旧民進党代表の前原誠司だ。
前原は、旧民進党が単独で自民党と互角に渡り合えないことを自覚していたのだろう。だからどうする、という戦略として、小池百合子にすり寄った。都知事選、都議会議員選を爆勝した小池人気を利用すれば、安倍政権を蹴落とせる、という計算だったのだろう。

ところが、小池百合子の将来的な目論みは「自身が総理大臣になること」なもんだから、与党となった時の組閣に不要な人間は入れたくない。そこで「白紙のままの党要項に同意のサインをさせる」という無茶な踏み絵を行った。あまつさえ、「党の方針に沿わない候補者は『排除』する」という強い言葉で、土下座している旧民進党議員の頭を踏みつけた。それに反発するどころか、前原誠司以下、もともと民進党と異なる政策を強要されても、進んで小池百合子の靴を舐める議員が続出した。

この強権的な態度が、旧民進党のうち気骨のある議員の反感を買った。小池百合子に「排除」された旧民進党の残党は、「そんな政党の駒になるつもりはない」と反旗を翻し、新党として枝野幸男が代表となり立憲民主党を立ち上げた。
はじめと終わりだけを見ていると、枝野幸男のやっていることは「民進党から立憲民進党に、看板を付け替えただけ」に過ぎない。しかし、その看板を付け替えざるを得ない原因を作ったのは、前原誠司なのだ。枝野幸男のやったことは「党代表が狂ったことをしでかしたから、代表を見限って、自分たちで動いた」というだけにすぎず、筋は通っている。政策の内容に関しても、立憲民主党は民進党時代から掲げていることと一貫している。

枝野自身に非はないが、こうした野党の迷走は、結果として「野党同士のつぶし合い」という状況を生み出した。今回の選挙結果では、立憲民進党は54議席を獲得した。これは公示前の前職候補の3倍近い議席で、一気に第一野党の座に躍り出た。
しかし、この大量議席の獲得は、与党の議席を奪ったものではない。希望の党は、小池百合子の自信過剰が災いして48議席。これは公示前の57議席からかなり減っている。また共産党も、公示前の21議席から12議席に半減した。

つまり立憲民進党の得票は、「他の野党から奪ったもの」なのだ。いちばん割を食らったのは共産党だろう。共産党は別に政局の紆余曲折にも左右されていなかったし、政策の主張も終始一貫して支離滅裂だった。しかし、立憲民進党という「判官贔屓」に票が流れ、議席を減らす羽目になった。
安倍政権に批判的な有権者にとっては、別に共産党であろうと立憲民主党であろうと、どちらでもよかったのだろう。その中で、たまたま混乱の中でも筋を通して男を上げた枝野新党に票が集まったに過ぎない。

つまり今回の選挙で、立憲民進党の大量議席獲得をもって「安倍政権にノーが突きつけられた」というのは、ちょっと違う。正しくは「安倍政権にノーと言うための勢力として、他の野党にノーが突きつけられた」と言ったほうが正しい。

自民党は公示前勢力の290にやや足りない282議席だったが、今回は衆議院の定数そのものが減少しているので、ほぼ横ばいと言ってよい。公明党と合わせて311議席を穫り、3分の2をとれたのは大勝と言えるだろう。
つまり、国民は自民党に「ノー」を突きつけなかった。正確には「前はイエスだったけど今回からノー」という有権者は少なかった。自民党の支持者は「大して変わっていない」という結果だ。
新聞社が、立憲民進党の躍進を根拠に「自民党は全面承認されたわけではない」と言っているのであれば、結果は合っているかもしれないが、根拠が間違っている。

実際のところ、今回の自民党が勝ったのは、野党の自滅のおかげであって、もっと野党がしっかりしていれば自民党は惨敗していた可能性もあっただろう。選挙後の取材で小泉進次郎もそう言っている。
その薄氷の加減は、「国民が安倍政権に嫌気がさしている」という意味だけではなく、有権者は何を根拠に投票するのか、という有権者意識の反映だろう。

今回の選挙選で、マスコミ各社はやたらと「小池百合子を支持する有権者の声」なるものを取り上げた。中には「小池百合子に総理大臣をやってもらったらいいと思う」などと言うおばちゃんもいた。
しかし実際のところ、今回の選挙を通して、小池百合子に評価できることなど何もない。ではどうして視聴者はそういう小池支持に至るのか。

要するに、有権者は真面目に政策を検討しているわけではないのだ。なんとなく「この人よさそう」という「印象」だけで投票する。だから、その「印象」が崩れてしまったら、あっという間に得票数が減る。今回の小池百合子の失態は、そういう無責任な有権者意識を如実に反映しているだろう。
そもそも小池百合子の選挙戦術が、そういう無責任な有権者意識に乗っかり、印象と好感度だけで新党に票を呼び込もうとしたイメージ戦術だった。都議会程度の選挙であればそれでなんとかなったのかもしれないが、国政選挙となると政策と基盤がしっかりしてなければ太刀打ちできない。

前回の都議会議員選で「都民ファーストの会」が圧勝した理由も、別に有権者がその政策に賛同したからではあるまい。「小池百合子だから」というのが大半の理由だろう。なんとなくよさそう。いま旬でテレビにたくさん出てるから。そんな無責任な理由で投票したのであれば、その結果として惨憺たる政治が履行されても、文句は言えない。

今回の選挙で、小池百合子の求心力は低下を免れないだろう。2020年7月の都知事選まで人気を貯金し、東京オリンピック直前に国政に鞍替えして、オリンピック実施時には総理大臣になる、という青写真だっただろうが、その出だしですでに大きくつまづいた。都政を自身の人気向上に利用し、「都民ファースト」どころか都政をないがしろにして国政選挙に色気を出す都知事の行く末は、いったいどうなるのだろうか。

今回の選挙を、こうした「野党の自滅」として敗因を求める社説を載せたところで、何にもならない。今回の新聞各社で、最も自民党に厳しい論調を並べているのは、意外なことに保守系の産経新聞だ。産経新聞の社説は、野党の迷走についてはあまり紙面を割かず、与党がこれから取り組むべき「政策」をひとつひとつ採点している。

政権基盤を固め直した安倍首相は、自ら掲げた路線の具体化を急がなければならない。その最たるものが、北朝鮮問題である。選挙期間中に懸念された挑発はなかった。だが、北朝鮮は最近の声明で、米原子力空母への「奇襲攻撃」まで叫んでいる。核・ミサイル戦力を放棄する気はさらさらない。首相や与党は、対北圧力の強化という外交努力を選挙戦で訴えた。それにとどまらず、万が一、有事になったとしても、国民を守り抜く備えを、急ぎ固めておかなければならない。
(産経社説)

戦後の平和と安全を保ってきたのは、自衛隊と日米同盟の存在である。憲法9条は自衛隊の手足をしばり、国民を守る手立てを妨げることに作用してきた。安全保障の根本には、国民自身の防衛への決意がなければならない。その有力な方法は国民投票によって憲法を改め、自衛隊の存在を明記することだ。抑止力の向上に資するものであり、自民党はさらに国民に強く説くべきだ。
(同)

もう一つの国難である少子高齢化についても、対策は待ったなしの状況に追い込まれている。求められるのは、人口が減少する一方、社会の年齢構成が極端に高齢者へと偏ることへの対応だ。選挙戦で、自民、公明両党は教育や保育の無償化などを強調するばかりで、社会の仕組みをどう作り替えていくのか、全体像を描き切れなかった。全世代型の社会保障制度を構築するというのも、単なる子供向け予算の加算では許されない。既存制度の無駄を徹底して排すことが求められる。社会保障・税一体改革の再構築を含むグランドデザインを急ぎ描いてほしい。
(同)


どれも、自民党政権にとっては頭の痛い「宿題」だろう。野党にとっては、何十回と審議を重ねてもひとつの証拠も出せない森友・加計問題なんかより、こういう「正道」の政策議論によって与党を潰すほうが近道だと思う。野党が揃いも揃ってそういう政策議論に踏み込まないのは、なんのことはない、自分たちに真っ当な政策の代案がないからだ。

そして何よりも、有権者のほうが、そういう政策議論に無関心だからだろう。そういう無責任な有権者意識が、浮動票の行方が簡単に変わる原因に他ならない。「判断」ではなく「印象」で投票する人が多いうちは、第二、第三の小池百合子が出没し続けるだろう。



まぁ与党になっても馬脚を現すだけだったろうし
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ペンギン命

takutsubu

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