たくろふのつぶやき

食欲の秋の季節がやってまいりました!o(^▽^)o

受身とは何ぞや

大学入試問題を見ていたら、変な英文を見つけた。


To succeed financially without inheritance or advantages in an economic meritocracy lent individuals a sense of personal achievement that the nobleman of old, who had been given his money and his castle by his hater, had never been able to experience. But, at the same time, financial failure became associated with a sense of shame that the peasant of old, denied all chances in life, had also thankfully been spared.
(一橋大 2010年)


経済的能力主義のなかにあって、相続財産も有利な条件もなしに経済的に成功することによって、個人ひとりひとりは、父親から財産や城を譲り受けた昔の貴族では決して経験しえなかったような個人的な達成感を得られるようになった。しかし同時に、経済的な失敗は、人生におけるあらゆる機会を奪われていた昔の農民がありがたいことに感じずにいられていた、恥の意識と結びつけて考えられるようになった


まぁ、構文と文法の知識がない人が、単語だけのイメージから文の意味を理解しようとしても、決して読めない類いの英文だろう。
いまの高校では、ちゃんとこの文が読めるようになる程度の英語の授業を行なっているのだろうか。

この文を読むために知らなければいけない文法事項はふたつある。まずひとつめは、動詞denyとspareの語法だ。
これらの動詞を覚えるときに、安易に単語帳に頼って、「deny: 拒否する」「spare: 〜なしで済ます」と覚えているだけでは、この英文はまったく手も足も出ない。

一橋大学がこの英文読解を課した意図は、おそらく「動詞はちゃんと構文まで含めて覚えていますか」ということだろう。動詞を覚えるときには、単語単独で切り離した「意味」だけでなく、文のなかでどのように使われるかという「構文」まで覚えていなくては、実際には使えない。

denyとspareは、両方とも第4構文(SVOO)がとれる。第4構文をとる動詞は、通称「授与動詞」といって、意味はおおむね「誰かに、何かを、渡す」という意味になることが多い。「渡す」のニュアンスには「伝える」「知らせる」「もたらす」など様々なバリエーションがあるが、ふたつの目的語にヒトとモノをとり、何かを相手に渡す、という意味になることには変わりない。

denyとspareはそれが否定になった語だ。だからdenyは「誰かに、何かを、与えない」、spareは「誰かに、なにか嫌なことを、押し付けない」という意味になる。ともに目的語としてヒトとモノをとり、その授与がブロックされる、というイメージをもつことが大事になる。
ここまでが、一橋大学が受験生に要求している「あたりまえの知識」に相当する。

ところがこの英文ではこれらの動詞のとる構文に、若干の変化が加えてある。一橋大学が要求している知識のふたつめ、「受身(受動態)というのは一体何なのか」という根本的な理解だ。

大学生に「受身って一体何なのか、説明しなさい」と問うと、ほとんどの学生が「何々されること」のように答える。要するに、意味を答えようとする。
受身というのは文の構造を変化させる文法事項だから、受身を定義するときは、文の構造に基づいた答えをしないと、その本質を理解したことにならない。

本当のところ、受身というのは「行為者が不確定なときに、目的語を、主語の位置に移したもの」だ。中学で受身を習うときに、よく能動態を受動態に書き換えるような練習問題をする馬鹿な教師がいるが、両者の構文は発話状況がまったく違う。I ate the apple.と The apple was eaten.は、表している状況がまったく違う。

I ate the apple.という文の場合、リンゴを食べた人間がはっきりしている。だから「僕がそのリンゴを食べた」でよい。しかし、受身というのは「行為者が不確定のとき・わかっていないとき」に使う。そういう時には、文の主語がはっきり定まらない。そういう困った時に、目的語の「リンゴ」を主語にもってきたものが受身だ。だからThe apple was eaten.の正しい訳は、「誰かがこのリンゴを食べた」である。受身の意味上の主語を「by 誰々」と書くのは、「あいつでもない、こいつでもない、誰でもない、他ならぬ私によって食べられたのだ」のように、行為者を他と対比する、一種の強調構文だ。発話の状況を無視して乱雑に両者を書き替えるような授業をしておいて、「コミュニケーション重視の授業」が笑わせる。

My hat has been sat on. という文を学生に訳させると、「私の帽子が座られている」という答えが多い。自分で何を言っているのか分かっているのだろうか。
受身の本質「主語が不確定」ということがちゃんと理解できていれば、「誰かがぼくの帽子の上に座っている」と、きちんと訳せる。

A tree is know by its fruit. という英文は、いままで授業で誰一人きちんと訳せた学生がいない。おおむね「木はその果実によって有名になる」のような誤訳が多い。
これも文が受身になっている理由「主語が不確定」というニュアンスを汲み取れば、「(誰だか分からない不特定のヒト)が、木を知る。それは果実によってである」という意味から、「木は、果実を見れば名前が分かる」と訳せる。

この国ではフランス語を使っています」を英訳しろ、という程度の、簡単な英作文が書けない大学生が本当に多い。いちばんひどいのは This country uses French. というへんてこ英文。国が喋るものか。しかもuseは目的語に道具がくるもので、少なくとも目的語に言語をとれない。
たとえ英作文であっても、「行為者が不特定のときには受身を使う」という基礎的なことが分かっていれば、French is spoken in this country. と素直に英訳できるはずなのだ。

当該の入試英文では、denyとspareの両方が受動態で使われている。denyのほうは形容詞的過去分詞、spareのほうは分かりやすく受動態になっている。
これらの構文をもとに、denyとspareの、SVOO構文のふたつの目的語がどこに行ってしまったのか、きちんと復元できるかどうか。それが、一橋大学が問うている問題だ。

この文の主文そのものは簡単だ。
[financial failure] became associated with [a sense of shame]
という、単純な構文。「経済的な失敗は、恥という感覚に、結びつけられた」という意味。これで文は終わっている。これ以下の部分は、関係代名詞thatに導かれてshameという名詞を修飾し、どういう「恥」なのか、を延々と説明している部分になる。

そのうしろに the peasant of old 「昔の農民」という名詞が出ているが、はじめて出てくる言葉なのに冠詞のtheがついている。これは「後ろにちゃんと説明がありますよ」という、修飾節による説明をつけるときのtheだ。その説明が、denied all chances in life になる。

denyがSVOOの構文をとることを知っていれば、形容詞的過去分詞になったときに「目的語がひとつ抜けてるな」という構造が簡単に見抜ける。ようするにもとの文では

denied (the peasant of old) all chances
「昔の農民に、あらゆる機会を、与えない」

という構文だったことが分かる。そのうち、直接目的語のthe peasant of oldが被修飾節として飛び出してしまっただけだ。だからここまでの部分で「人生であらゆる機会を与えられていなかった昔の農民」という長い名詞句が完成する。

これだけでも充分に入試問題としては難問の部類に入るだろうが、一橋大の問題が鬼なのは、これにさらにもうひとつ受身の構文を重ねていることだ。先に完成した長い名詞句が主語となって、述語のspareがさらに受身になっている。この文はsparedで終わっているため、SVOO構文の目的語が、ふたつともどこかへ行ってしまっている。

目的語のひとつめを見つけるのは簡単だ。受身なのだから、文の主語がもともとの目的語だ。それがthe peasant of oldに相当する。
もうひとつの目的語を探すときには、この文がもともと関係節にあることが分かればいい。関係代名詞thatの節が修飾しているもの、つまりa sense of shameがもうひとつの目的語になる。
だからspareの構文を復元してみると

spare (the peasant of old) (a sense of shame)
「昔の農民に、恥の意識を、味あわせない」

という意味構造になる。これを関係詞節として修飾的に訳すと、

「人生であらゆる機会が与えられなかった昔の農民が、ありがたくも味あわなくて済んでいた、恥の意識」

という長い名詞句になる。
これが、主文の動詞 became associated with の目的語に相当する。


一橋大学がこのような英文解釈を出題しているということから、昨今流行りの「コミュニケーション重視の英語教育」なる代物に対する、一橋大学の明確な姿勢が見て取れる。一言で言えば、「そんなの知るか」だろう。
大学というのは、英会話学校ではないのだ。大学で英語が必要である理由は、日常会話や挨拶表現をするためではない。学問のために英語で論文を読み、論文を書くためだ。そのためには、英語という言語のシステムをきちんと体系的に理解し、それを使いこなせるレベルまで把握していなければならない。

車に例えると、大学の英語入試が要求していることは「車を上手に運転すること」ではない。「車をドライバー1本でバラバラにし、再度それを組み立て直せること」なのだ。知識として知っているだけでは何の役にも立たない。それを実践レベルまで昇華する「使える知識」として縦横無尽に駆使できなければ、知っているうちに入らない。

上の英文を解釈する際だって、言ってみれば必要な知識は「denyとspareの語法」「受身」のふたつだけといってよい。しかし、受身ひとつだけとっても、受身の構文をあいまいに理解したままでは決して解けない。「受身というのはどういう文か」だけでなく、「どういう時に受身は使われるのか」「受身になった時の構文の特徴は何か」というところまで、きっちり極めなくては「受身が分かった」とは言えない。

受身の構文は、Microsoft Wordなんかでは、うるさく赤い波線か何かがついて「受身が使われています」などと、まるで文法エラーのように指摘される。大きなお世話だ。大学に入ってからの英語力は、さらにその上のレベルが要求される。
普通に読めば、当該の入試英文は悪文中の悪文だ。一読して意味が分からない、というのは、悪文と断じて良かろう。問題は、筆者が敢えて、なぜそのような分かりにくい構文で英文を書いたのか、だ。 大学受験のレベルではそんなこと気にしなくてもよいが、大学に入ってからは、筆者がこういう小難しい文を書いた理由までが問題になる。

この英文は、文体論的な効果を狙って書かれている。下線部の前に、「親から財産や城を譲り受けた貴族」というのが出てくる。これと対比して「人生であらゆる機会を奪われていた農民」というのを出している。つまり対句になっている。
意味的な対句は、構文的にも対句にするのが英文の王道だ。貴族の箇所では、「貴族ー(修飾節述語)ー項が欠落している述語(関係節述語)」という構造になっている。下線部は、この構文を繰り返して対句の効果を出したものだ。
また、下線部の箇所にはassociated, old, denied, hadなど、意図的にーdの音で終わる音が多用されている。これに締めのsparedをもってきて、韻を踏む効果も狙っている。

大学では第二外国語を必修として課されることが多いが、そのように知識を体系立てて身につける習慣がついていれば、第二、第三の外国語の習得は簡単になる。僕が見るところ、第二外国語の授業の履修に苦労している学生というのは、その言語に限らず、既習のはずの英語や、はては母国語である日本語においても、知識が雑な学生が多い。


文科省が「コミュニケーション重視の英語」なる世迷い事を言い続けて、はや十年以上が経った。はたして、どれだけ今の若年世代が「英語のコミュニケーション能力」が上がったのだろうか。大学というのは観光地ではない。学問をするための場所だ。せめて英語で議論や喧嘩ができる程度の英語力は身に付いているのだろうか。一億歩譲って、そのような「コミュニケーション能力・括弧笑い」なるものが身に付いたとして、そんなものは大学では何の役にも立たないだろう。そういう「コミュ力お化け」が、英語で論文の一本も書けるのだろうか。

大学教育でいう「コミュニケーション能力」というのは、別に外国人観光客を案内したり、カフェでお茶を注文したり、電話でホテルの予約をしたりすることではない。論文を読んで、論文を書いて、研究会で発表することだ。それらが英語でできるようになることを、大学側は求めている。そのへんをきちんと理解せずに、やみくもに日常会話練習ばかりやっていても、少なくとも大学入試には受からないだろう。



高校ではちゃんと英語を教えているのだろうか

826aska


ルパン三世'78 




MI : III 




宇宙戦艦ヤマト 




Truth 




楽しいだろうなぁ。

超絶技巧



トルコ行進曲(モーツァルト作曲、ヴォロドス編曲)


モーツァルトの有名な『トルコ行進曲』を、ロシアの超絶技巧ピアニスト、アルカーディ・ヴォロドスが編曲したもの。同時に複数の旋律が並行したり、異なるコードでの演奏が同時に進行したり、とても一人で弾いているようには聞こえない曲。

演奏は中国のピアニスト、ユジャ・ワン



指は本当に10本なのだろうか。

「悪文 伝わる文章の作法」

最近、ちょっと面白い本が復刻出版された。


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岩淵悦太郎 編集、角川ソフィア文庫 


文章作法の本は数多く出版されているが、その中でもまぁまぁ面白い本。
僕は復刻前の第三版を読んだことがあるが、このたび文庫として復刻した。こういう「名著」が文庫で復刻されて読みやすくなるのは、非常によろしい。

数ある文章作法の本の中で、良書と屑を見分ける方法は簡単だ。そこで引用されている具体例を見比べればよい。良書というのは、具体例を見るだけでも充分に勉強になる。

端的に言えば、よい文を書けるようになるためには、よい文をたくさん読み込まなければならない。ところがほとんどの文法指南書には、よい例としてのお手本がほとんど載っていない。その理由は、本が「この文がお手本ですよ」として「よい文章」「正解」を載せてしまうと、その文がその本の程度を決めてしまうからだ。どんな美文・良文だって、必ず改良の余地がある。それにビビって、お手本を示さない指南書が非常に多い。

ところがこの「悪文」は、怯みもせずに「よい文章のお手本」を堂々と載ってけている。これだけでも相当な自負の上に書かれた本であることが分かる。チャレンジとして充分に評価できる。
この本は、今となっては「名著」として崇め奉られる本となってしまっているが、その内容の価値は、むしろそういう試みを怯まずに行なっている、挑戦的な意欲にあると思う。守りに入らず、攻めの姿勢で書かれた本といってよい。

悪文を書く人の特徴は、「自分が悪文を書いている」という自覚がないことだ。どういう文が悪文で、そのどこが悪いのかが分かっていない。だからこの本は、まず悪文というのはなぜ悪文なのか、それを示すことから始めている。さらに、その文をきちんとした文章に書き直した「添削例」まで示してある。

悪文の例として本書が掲載している文章は、決して学生の作文のようなものだけではなく、新聞記事や雑誌記事など公に出版されているものもある。そういう、いわば「プロ」の書いた文章の欠点をあげつらうことは、一般的にタブーとされている。書いた文章に欠点があることは、お互い様だからだ。しかし本書では、そのタブーをものともせず、悪文は悪文とはっきり言い切り、酷評している。

エゴの位置するシテュエイションを破壊する為には、自殺まで辞さなかった潔癖さと、通俗性の中に埋没するのを辞さない時代への忠実さと表裏をなして、それぞれの方向に解体していったところに大正の近代文学の運命があった。

この本の冒頭で示されている例だ。確かに悪文だろう。なにせ、一回読んだだけでは意味が分からない。専門知識がある・ない以前の問題だ。こういう文を書く人の中には、わざと分かりにくい言葉や構文を使って衒学的な文を弄する人もいる。そのほうが学術的に品位が高い、という勘違いをしている人もいるだろう。本書は、そういうお高く止まった知性主義を「馬鹿ではあるまいか」とばっさり切って捨てている。


統制をはずして行こうとするこのような動きに対しては、生産者と農協が協力して、予約数量の売り渡しを早めに完了することはもちろん、進んでそれ以上に、余る見込のお米を積極的に政府に売渡して、その実績をあげることが、当面の特別集荷制度の実施をはばみ、従来の強権による供出割当制度の欠陥を是正し、生産者の増産ならびに自主的な売渡しの意欲を高めようとするこんどの予約売渡制を、今年も存続させる事にもなる上に、増配という形で、消費者の期待にもこたえることが出来るのであります。

これで一文、という長い悪文の例。しかもこの文、ラジオのニュースで読まれた文だというのだから恐れ入ってしまう。これを一度聞いただけで理解できる人などいるのだろうか。

かようにこの本は、引用されている「悪文」の例がなかなか面白い。日常的に、かなり時間をかけて言語資料を集めている人が書いている。書き方の原理原則を論じている部分と、具体例としての言語資料の分量的なバランスが非常によい。読んでて面白いし、文章を書く時の心得をつくるためにはよい本だろう。


僕も大学で文章の書き方なんぞを教えることがあるが、実は文章の書き方というのは、中学3年生までの国語で習うことがほぼすべてといってよい。だから、どんな文章作法の教科書を読んだところで、「今まで知らなかった新しいテクニック」などというものは出てこない。野球のルールを知っていても野球がうまくプレイできるわけではないように、文章作法を知っていてもそれを実践できない人が多い。

「文章を書く」というのは一般的に頭脳的作業だと思われがちだが、実のところ料理や日曜大工と同じような単純な肉体的作業に近いと思う。要するに、経験が熟練度を決める。毎日文章を読み、書いていれば、そこそこの文章は書けるようになる。良い文章と悪い文章の見分けもつくようになる。

文章を書くのが下手な人というのは、毎日文章を書いていないのではあるまいか。 自分の書いた文章を他人に添削されたことも、批判されたことも、あまり経験していないと思う。欲を言えばそういう経験を経るのが王道なのだが、学校にでも通っていなければ、なかなかそういう環境は得られない。そのための代替経験として、こういう本で、圧縮してある文章経験を仮想体験してみるのもよいかもしれない。



笑っちゃうような面白い例も出てましたぞ。

「教義」の必要性

今年、ももいろクローバーZが紅白歌合戦に呼ばれたら、どうするんですかね。


そろそろ年の瀬が近づいて参りましたが、たくつぶ読者のみなさまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
年末年始の予定を考えたり、忘年会の予定が入ったり、いろいろと年末的な行事が入ってくる季節ですね。
NHKの紅白歌合戦の当落も、年の瀬らしいニュースといえましょう。

去年の2015年、ももいろクローバーZが紅白歌合戦に「落選」して話題になった。報道では、高圧的なマネジャーがやたらとももクロの演出やら出演方法やらにいろいろと注文をつけ、それにブチ切れたNHKが「そんじゃ出なくていい」と落選にしたんだとか。それに対してももクロ側が「紅白歌合戦を『卒業』します」と声明を出し、紅白ファンから顰蹙を買った。

「卒業宣言」まで出してしまったのだから、普通に考えれば、今年紅白に呼ばれても拒否するだろう。しかしこればかりはいろいろと思惑が錯綜して、本人達の思うようにいかないのが世の中というものだろう。最初から呼ばれないなら呼ばれないで困ったことだろうし、呼ばれたら呼ばれたで去年の言動との辻褄合わせに苦労する。ご苦労なことだ。

そういう時、ももクロのファンとしてはどういう反応になるのだろうか。
僕はアイドルのファンをした経験がないので、追っかけに近いファンの方々の反応のほうが気になる。アイドルのファンというのは、時間も金も使ってアイドルを楽しんでいる方々なので、紅白の当落に際してのファンの気持ちはいかばかりか気になる。

AKB48のような大きなグループでも、ファンの気持ちの持ち方が不思議になることがある。
AKBでは、グループ全体が好き、というよりは、自分一押しの「推しメン」というのがいるファンのほうが多いそうだ。AKB48側でもそれをよく分かってて、総選挙だのじゃんけん大会だの握手会だの様々なイベントで、各メンバーの人気度をランキングする試みを行っている。

たとえば宮脇咲良はAKB48とHKT48を兼任しているが、宮脇が押しメンであるファンは、AKBとHKTの両方のコンサートにも握手会にも行くだろう。そういう時、「純AKB48ファン」から、裏切り者呼ばわりされることはないのだろうか。
AKBとHKTであれば、まぁ、同系列のグループだからまだいい。これがたとえば、AKB48のファンとももクロのファンを兼ねている人が、両方のコンサートに行くことは、「ファンの仁義」としてどう捉えられているのだろうか。


話がまったく変わって申し訳ないのだが、有史以来の人間の知的活動の歴史を紐解くと、中世ヨーロッパを席巻した「スコラ哲学」なるものに行き当たる。
名前だけは世界史や倫理の授業で習ったことがあるが、それがどういうものであるのかは知らん、という人が多いのではあるまいか。

スコラ哲学は、要するにキリスト教の教義の正当性を体系化した学問のことだ。学問とは言っても、「哲学」なる名称を冠していても、その実体は学問でもなければ哲学でもない。
教科書的な知識としては、スコラ哲学の目的は、キリスト教の正当性を追求すること、ということになっている。それは裏を返せば、それに叛くものは「異端」として扱う、ということだ。こっちの見方のほうがスコラ哲学の本質を理解しやすい。

スコラ哲学の成立背景には、内的要因と外的要因がある。
内的要因は、キリスト教が巨大化し過ぎ、各地でそれぞれの生活実体に即した信仰のあり方が分岐したことだ。「○○派」と呼ばれるローカル派閥がいろいろと発生して、ローマの意向とはかけ離れた信仰に向かう宗派もあった。
そもそもキリスト教は395年にローマ帝国が分裂して以来、ローマ・カトリックと東方教会で、ほぼ違う宗教として独自に発展する下地ができあがっている。聖書が編纂されるよりも前の話だ。こうして多岐に渡った教義のあり方を、ひとつの宗教としてみなすには、最初から無理があっただろう。

これはアイドルファンに例えてみれば、「俺は○○ちゃん押しだ」「いや△△ちゃんこそ至高」のような言い争いや、「AKBファンであればHKTに『浮気』するなど邪道」「いや同系列であれば良いはずだ」などという論争に相当する。

外的要因としては、7世紀からキリスト教の「脅威」となったイスラム教の存在がある。イスラム教を「異教徒」「蛮族」と決めつけるためには、「自分達の宗教こそ正当」という理論武装が必要になる。
これはアイドルで言えば、「AKB48ファンであれば、ももクロなどものの数ではない」のような言い方になる。

いずれにせよ、現代的な観点、特に僕のような宗教とは縁なき衆生からすれば、くだらない話だ。宗教というのは本来、人が平穏に生きるためのものであって、誰がどういう方法で何を信じようが、その人の勝手だろう。それを宗教の側が「正当派」のあり方を決め、「こういう信じ方をしない奴は異端だ」のように決めつけることが、宗教本来のあり方からして真っ当だとは思えない。
僕のようにアイドルに疎い者にとっては、別にAKB48とももクロが両方好きでも、別に構わないだろうとしか感じない。それを「正しいアイドルファンのあり方とは」などと規定することが、アイドル人気そのものに寄与する姿勢とは、とうてい思えない。

では中世キリスト教では、なぜそのような自分達の首を絞めるようなことをわざわざしていたのか。
中世ではまだ体系だった政治的方法論が確立しておらず、共同体を治める方法論としてはまだまだ宗教のほうが実効力をもっていた。宗教が、単なる生きる為の信念であるのみならず、政治的な役割を背負う必要があった。

また学問も、哲学や科学が「知の包括的な方法論」として確立するまでには、まだまだ時代を要した。世の中はどうなっているのか、世界を統べる法則はどういうものか、そういう理解を得るための方法論が確立しておらず、キリスト教会が示す「答え」を拠り所にするしか仕方がない時代だった。

スコラ哲学は、そうした時代の中で生まれた。宗教、政治、学問という、基本原理がまったく違う3つの営みを、短期間のうちにまとめあげる必要があったのだ。内的要因と外的要因の必要性に迫られ、世界のあり方と「正解」を、人々に示す必要があった。

スコラ哲学は、13世紀にトマス・アクィナスによって編纂された『神学大全』によって大成した、とされている。僕は学生時代に『神学大全』を通読したが、何が書いてあるのかまったく分からなかった。僕はキリスト教徒ではないし、そもそも『神学大全』が何を目的として書かれたものなのかが不明瞭なままこれを読んでしまった。分かるわけがない。
当時の僕は、『神学大全』を、単に人類の知の集積のひとつとして読んでいた。古代に生まれた哲学と、近代に生まれた科学の、間をつなぐミッシング・リンクとしてこの本を位置づけていた記憶がある。

実際のところ『神学大全』は、当時すでに巨大化していたキリスト教の各分派の教義の違いや、イスラム教に対する正当性をでっち上げるための「辻褄合わせ」が全てと言ってよい。敬虔なキリスト教徒にとってはまた違った位置づけができる書物なのだろうが、キリスト教の外側から見る『神学大全』は、その程度のものだ。少なくとも、現代の科学に立脚した思考方法から逆算して、その方法論の進展を補完する役割としては、まったく役に立たない。

たとえば、キリスト教は「人類に普遍的な愛の必要性」を説いてはいるが、十字軍の時代にはイスラム教徒をぶっ殺して全滅させることを命じている。これは矛盾ではないのか。
こうした素朴な疑問に対して、スコラ哲学は、さももっともらしい「正当性」を説いている。何も矛盾していることはありませんよ、すべて神の御心のままに均整を保っていますよ、という理屈がこね上げられている。

スコラ哲学の必要性のひとつに、「権力」を確立する必要性があっただろう。全体の統一を重んじたキリスト教とよく対比される宗教として、インドや南アジアで広まったヒンドゥー教がある。ヒンドゥー教もキリスト教と同様、広い地域に多くの人を取り込んだ宗教なので、多宗派に分岐する歴史を辿っている。

しかし、ヒンドゥー教にスコラ哲学は発生しなかった。ヒンドゥー教は「分岐したけりゃ分岐すりゃいいじゃん」「この辺とあの辺では生活の仕方が違うからな」のように、宗派が分岐することにあまり抵抗感がなかった。いまでは「ヒンドゥー教」と一言で括るには無理があるほど、各地に根付いた土着宗教のように変容している。それは他宗教に対する姿勢でも同様で、同じ地域にイスラム教が浸透した地域は政治的にも独立している。現在のパキスタンだ。

「統一」を指向するのは、そこに「権力」の存在が必要とされるからだ。少なくとも逆は成り立つ。権力を掌握しようとする者は、必ず統一を指向する。中世のキリスト教がスコラ哲学という理論武装によって教義の統一を図ったのは、当時のキリスト教が政治的な役割を負わざるを得なかったという背景によるものだろう。

当然ながら、そういう姿勢は学問にとってはマイナスでしかない。「これが答えだ」と唯一解が強制され、その他の異論が一切認められない姿勢など、学問とは呼べない。
世の中の成り立ちを理解する学問としてスコラ哲学が採用したのは、アリストテレスの哲学だった。アリストテレスという人物は能力の偏りが激しく、博物学的な分類に関しては驚異的な能力を発揮しているが、自然科学の能力は皆無だった。

クジラが魚ではなく哺乳類であることを発見したのはアリストテレスだ。そういう観察や分類に関しては現代的にも正しいとされる「答え」を出していたが、化学や物理に関しては全くの無能と言ってよい。「物はそれが本来あるべき方向を指向する。だから物は地に落ち、炎は空に上がる」「あらゆる物質は、土、火、空気、水から成り、それを補完するものとして『第五の要素』が満ちている」「軽い物と重い物を同時に落としたら、重い物のほうが早く落ちるに決まってる」「太陽は地球の周りを廻っている」。こうした、現代では中高生でも間違いと分かるような誤謬を、平気で犯している。現代的な観点から答え合わせをしたら、間違いだらけだ。

驚くべきことは、アリストテレスの間違った世界観が、2000年以上の長きにわたって「常識」とされてきたことだ。人間の知を結集すれば、こんな間違った世界観が2000年もまかり通るほど、人間は馬鹿ではあるまい。それがまかり通ってしまったのは、アリストテレスの知見を「教義」にまで昇華し、それに対する異論をすべて犯罪視した、スコラ哲学の弊害があった。人間は2000年の長きに渡って、アリストテレスの間違いに「気がつかなかった」のではなく、そもそも「疑うことを許されていなかった」のだ。

現代の科学では、先行研究に対して「説明できない事実」を発見したら、科学者は嬉々として論文を書く。「間違い」は科学を発展させるための原動力でこそあれ、科学の権威を貶めるものでは決してない。仮説を立て、それに対する反証を見いだし、それを包括するようなさらなる仮説を立てる。そういう無数の階段を積み上げることで、科学は成り立っている。

つまり、科学の実体とは「何か固定化した知識」という静的なものではなく、「間違いを修正していく営み」という動的な方法論なのだ。だから、科学には「聖典」は存在しない。ニュートンの『プリンキピア』であろうと、アインシュタインの『一般相対性理論』だろうと、それらは単に「途中の階段」に過ぎない。その中の矛盾を見いだし、それを克服する営みは、今もなお延々と続けられている。

ところがスコラ哲学では、「これが答えです。これ以外は認めません」という『聖典』を求めてしまい、かつそれを作ってしまった。その枠から外に出ることを禁じたのだから、学問が発展するわけがない。スコラ哲学の「発展」というのは、あくまでもキリスト教的世界観の中での辻褄合わせが遂行されることを指すのであって、それはいわば同じ屋根の下で延々と動き回るような行動に過ぎない。

中世のキリスト教世界では、分化した教義の統一を図るため、「公会議」というものが何度も開催されている。世界史の教科書では、三位一体説を確立した381年のコンスタンチノープル公会議、十字軍派遣を決定した1095年のクレルモン公会議、教会大分裂(シスマ)を収拾した1414年のコンスタンツ公会議などが有名だ。一番新しいところでは、他宗教との対話を重視する声明を発表した1962年のバチカン公会議がある。

公会議を実施するには、決定の基盤となる聖典が要る。理屈づけのために拠り所となる「正しい理由」が必要となる。その目的のためには、聖書は役に立たない。キリストが指向した原始キリスト教は、そもそも政治的・学問的な目的に基づく教義のあり方を目指していない。スコラ哲学は、そうした必要性に迫られて作られた、いわば「最初に目的ありき」の、理屈の集大成だったと言えるだろう。

政治的、学問的な「権威」を確立してしまったら、それを制度に適用する際に、必ず歪みが生じる。特に人間は権力を握ると、必ずそれを濫用する誘惑に駆られる。キリスト教の権威といえどもそれは例外ではなかったようで、スコラ哲学を背景とした政治・学問的な腐敗が顕著になった。それが16世紀のルターによる宗教改革につながっていく。宗教改革というのは、実際のところはカトリックとプロテスタントという二大流派が生じる「宗教分裂」のことだ。教義の統一を図ったはずのスコラ哲学が、行き着く先として宗教分裂を巻き起こしたのは、皮肉としか言いようがない。


スコラ哲学の実体を調べてみると、「多くの人が集まると、あり方を統一しようとする欲求が生じる」「人は人、自分は自分と割り切って、他者を違うものと認めつつ接するのは難しい」という、人間に普遍的な傾向が見て取れる。AKB48のファンであろうと、ももクロのファンであろうと、自分と他人を切り離して、それぞれのあり方を尊重する、というのは、なかなか難しいことなのだろう。「そんな参加の仕方じゃ、本当のファンとは言えないぜ」という言い方は、有史以来スコラ哲学が発生して権威を得た理由を、現代に反映したものだと思う。

もし今年、ももいろクローバーZが紅白歌合戦の出場を打診されたら、スタッフの間でさぞ盛大な「公会議」が開催されることだろう。過去の言動と、実際の行動の辻褄を合わせ、かつファンが納得のいく形で「教義」をでっち上げなくてはならない。
人間というのは、どの時代でも、やっていることは基本的に同じなのだな、という気がする。



初詣に出かけるタイミングが重要なのだ。

何千万回掲載しても無意味な類いの社説

いじめの手記 きみは独りじゃない
(2016年11月17日 朝日新聞社説)

鉛筆で書いたんだろうか。きみの手記を読んで、胸が張りさけそうになりました。  

「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」  

見知らぬ土地でばい菌あつかいされたり、支援物資の文房具をとられたり、福島から転校してきた5年前からずっとつらい思いをしてきた。それが、いたいほど伝わりました。

きみは独りじゃない。そのことをまず知ってほしい。学校の外に目をやれば、味方はいっぱいいる。そして、学校以外に自分の居場所をみつけて、いまかつやくしている大人も大勢いる。東日本大震災のぎせいとなって生きられなかった多くの人やその家族も、「生きる」という決意を後おししてくれるはずです。  

原発事故で自主避難した横浜で、きみがいじめにあったことは、すこし前の新聞にのっていました。でも多くの人は今回あらためて、きみや同じような立場の人たちに思いをはせるようになった。手記の公表を弁護士さんはためらったそうだけど、「ほかの子のはげみになれば」と、きみが求めたと聞きました。その勇気をありがとう。  

東日本大震災では、いまも大勢の人たちが、住みなれた家をはなれて避難しています。事故を起こした原発のある福島県双葉町の伊沢史朗(いざわしろう)町長が先週、こんな話をしていました。避難先で町の人がパートなどにつくと「賠償金をもらっているのに」とかげ口をいわれるというのです。かといって働かずにいると、今度は「賠償金があるからだ」といわれる。
同じ学年の子たちが、きみに「ばいしょう金あるだろ」と言い、大金をはらわせたことなどは許せません。しかし彼らも、そんなまわりの話を耳にしていたのかもしれない。これは大人の社会の問題です。  

福島からの避難者への冷たい仕打ちは各地で問題になっていたし、きみもサインを出し続けていた。だれか気づいてほしい、助けてほしい。そう思っていたんじゃないだろうか。

なのに学校の対応はまったく不十分だった。ほかの保護者からの連絡で、お金がやり取りされているのを2年前に知っていながら、相談をよせたご両親に伝えなかった。教育委員会も本気で向き合ってほしかった。同じことをくり返さないようにしなければなりません。  

きみが将来、自分のことも、他人のことも大切にできる大人になることを信じています。



勝手に浸ってろ。



晒しておく。

アメリカ大統領選挙、トランプ当選

トランプ氏の勝利 危機に立つ米国の価値観
(2016年11月10日 朝日新聞社説)
米大統領選 トランプ氏勝利の衝撃広がる
(2016年11月10日 読売新聞社説)
米大統領にトランプ氏 世界の漂流を懸念する
(2016年11月10日 毎日新聞社説)
米社会の亀裂映すトランプ氏選出
(日本経済新聞 2016年11月10日)
日本は防衛努力を強める覚悟持て 規格外の人物登場「トランプ・リスク」は不可避だ
(2016年11月10日 産経新聞社説)
トランプのアメリカ(上) 民衆の悲憤を聞け
(2016年11月10日 東京新聞)


政治経験皆無の不動産王ドナルド・トランプが、アメリカ合衆国大統領に当確した。
それを受けての新聞各社の社説。大学生に読ませて批判的読解力を試すのにはいいトピックだろう。
上記社説のなかで、ずば抜けて優れた社説がふたつある。実際に読んでみて、それがどれとどれだか分かるだろうか。

それを判断するには、まず今回の社説で言及すべきことは何か、から考える必要がある。
政治経験皆無、暴言連発の候補者が大統領に当選するという事態は、はっきりいって異常だ。アメリカ大統領選というのは大きなイベントなので、誰が当選しても各社は社説として取り上げるだろう。しかし今回は、その取り上げ方が通常とは異なる。異口同音に「こんなので大丈夫なのか」という論調だ。

日本の立場から、アメリカ大統領選の及ぼす影響および対策を考えることは、どのみち必要だ。しかしその前段階として必要なことがある。現状をまず把握することだ。
現状を正しく把握することなく、理想論によってあるべき方策を提言しても、絵に描いた餅に過ぎない。理想論というのは、すべてがうまくいっている理想状態においてさえ、実現が難しいものだ。ましてや、今回の大統領選のように「異常事態」が発生している時に、のんきに理想論など唱えていても、何の役にも立たない。

つまり、今回の社説がまず明らかにするべきことは、「どうするべきか」ではない。それよりも前に、まず「何が起こっているのか」なのだ。なぜトランプのような奴が大統領に当選してしまったのか。それはアメリカでどういう原理が働いているからなのか。その理解なしでは、これからの対策も方針もへったくれもない。
それを明らかにすることなく、「するべき論」で正論ばかりつらつら並べている社説は、無価値と断じてよい。


そういう観点で社説を読み比べてみると、毎日新聞と東京新聞の2紙がずば抜けている。
いや、冗談ではない。普段は主観ズブズブで煽動意欲バリバリのこの2紙が、今回に関しては書くべきことをきちんと書いている。

そもそも、なぜトランプ氏が勝ったのか。10月末、フロリダ州で開かれた同氏の集会では、元民主党員の40代の男性が「民主党のクリントン政権は女性スキャンダルにまみれ、オバマ政権の『チェンジ』も掛け声倒れだった。もう民主党には期待できない」と語った。これはトランプ支持者の代表的な意見だろう。
(毎日社説)
クリントン氏の決定的な敗因は経済格差に苦しむ人々の怒りを甘く見たことだ。鉄鋼や石炭、自動車産業などが衰退してラストベルト(さびついた工業地帯)と呼ばれる中西部の各州は民主党が強いといわれ、ここで勝てばクリントン氏当選の目もあった。

 実際はトランプ氏に票が流れたのは、給与が頭打ちで移民に職を奪われがちな人々、特に白人の怒りの表明だろう。米国社会で少数派になりつつある白人には「自分たちが米国の中心なのに」という焦りもある。教育を受けても奨学金を返せる職業に就きにくく、アメリカンドリームは過去のものと絶望する人々にもトランプ氏の主張は魅力的だった。

政治経験がなくアウトサイダーを自任する同氏は富豪ではあるが、経済格差などは既成政治家のせいにして低所得者層を引き付けてきた。米国社会の不合理を解消するには既成の秩序や制度を壊すしかない。大統領夫人や上院議員、国務長官を歴任したクリントン氏は既成政治家の代表だ--という立場であり、徹底したポピュリズムと言ってもいい。
(毎日社説)

支配層への怒りが爆発した選挙結果だった。ロイター通信の出口調査によると、「金持ちと権力者から国を取り返す強い指導者が必要だ」「米経済は金持ちと権力者の利益になるようゆがめられている」と見る人がそれぞれ七割以上を占めた。

トランプ氏はその怒りをあおって上昇した。見識の怪しさには目をつぶっても、むしろ政治経験のないトランプ氏なら現状を壊してくれる、と期待を集めた。
(東京新聞社説)
政策論争よりも中傷合戦が前面に出て「史上最低」と酷評された大統領選。それでも数少ない収穫には、顧みられることのなかった人々への手当ての必要性を広く認識させたことがある。トランプ氏の支持基盤の中核となった白人労働者層だ。

製造業の就業者は一九八〇年ごろには二千万人近くいたが、技術革新やグローバル化が招いた産業空洞化などによって、今では千二百万人ほどにまで減った。失業を免れた人も収入は伸びない。米国勢調査局が九月に出した報告書によると、二〇一五年の家計所得の中央値(中間層の所得)は物価上昇分を除いて前年比5・2%増加し、五万六千五百ドル(約五百七十六万円)だった。六七年の調査開始以来、最大の伸びだが、最も多かった九九年の水準には及ばず、金融危機前の〇七年の時点にも回復していない。
(東京新聞社説)
 一方、経済協力開発機構(OECD)のデータでは、米国の最富裕層の上位1%が全国民の収入の22%を占める。これは日本の倍以上だ。上位10%の占める割合となると、全体のほぼ半分に達する。これだけ広がった貧富の格差は、平等・公正という社会の根幹を揺るがし、民主国家としては不健全というほかない。階層の固定化も進み、活力も失う。

展望の開けない生活苦が背景にあるのだろう。中年の白人の死亡率が上昇しているというショッキングな論文が昨年、米科学アカデミーの機関誌に掲載された。それによると、九九年から一三年の間、四十五~五十四歳の白人の死亡率が年間で0・5%上がった。ほかの先進国では見られない傾向で、高卒以下の低学歴層が死亡率を押し上げた。自殺、アルコール・薬物依存が上昇の主要因だ。
(東京新聞社説)
ピュー・リサーチ・センターが八月に行った世論調査では、トランプ支持者の八割が「五十年前に比べて米国は悪くなった」と見ている。米国の先行きについても「悪くなる」と悲観的に見る人が68%に上った。

グローバル化の恩恵にあずかれず、いつの間にか取り残されて、アメリカン・ドリームもまさに夢物語-。トランプ氏に票を投じた人々は窒息しそうな閉塞感を覚えているのだろう。
(東京新聞社説)


普通であれば、トランプが勝利することはないだろう。ということは、今のアメリカは「普通でない状態」ということになる。であれば、その「普通でない状態」とは何なのかを知ることが先決だ。

要するに、今のアメリカで、白人層の生活が困窮していることが要因だ。原因は経済赤字による不況と、移民の増大による労働機会の減少。
今回の大統領選挙を動かしたのは、政治がどうの、経済がどうの、国際関係がどうの、といった理想論の実現可能性ではない。 金がない、仕事がない、生活ができない、という、非常に日常的な不満が鬱積したことが要因だ。

しかも今のアメリカは、その不満を公然と口にすることが禁じられている。
「日本のせいだ」「中国の野郎」「メキシコが悪い」などと公然の場で口にしようものなら、直ちに批判されて引責辞任だ。また移民に対する憎悪の根底には、はっきり言って人種差別的な感情があるだろう。「黒んぼはアメリカから出て行け」と言いたいが、言えない。不満が鬱積していることもさることながら、それを口に出して言えない、ということが、ストレスに拍車をかけている。

それを公然と口にして、白人層の「口に出しては言えないけど、誰もが思っていること」を具体化したのがトランプだった。トランプだったら、溜まりに溜ったストレスを解消してくれる。有色人種の移民どもを懲らしめてくれる。

東京新聞の社説は、かなりのスペースをとって、「アメリカ人の生活が困窮している」ということを具体的な数字で表している。ここの具体例に東京新聞が力を入れているということは、東京新聞が「現状を把握することがまず先決」という姿勢で記事を書いていることを示している。



アメリカ国民は、決して「トランプはアメリカ大統領にふさわしい能力がある」と思って投票したのではない。現状がどうにもやるせなく、生活は苦しく、ストレスがたまり、苛々している。そういう破壊欲求が根底にあるため、現状を破壊するエネルギーをもつトランプが票を集めた。
つまり今回、アメリカ国民がトランプに一票を投じたのは、暴動の替わりだったのだ。クリントンは既得権益を持つ側とされ、いわば打ち壊される側に廻ってしまった。

今回の選挙では、事前の窓口調査や、選挙投票場の出口調査がことごとくまったく役に立たなかった。そりゃそうだろう。アメリカ国民の本音は、口に出して言えないことにある。それを出口調査で「どうでしたかー?」とマイクを向けられて、堂々と喋れるものか。
つまり、今回の要因を考えれば、出口調査が実際の結果と食い違っていたのは、必然だった。それなのにアメリカの新聞各社は、「出口調査をもとに予測をたてる」という固定化した思考パターンに固執し、蓋を開けてから慌てふためく有様となった。

アメリカの新聞でトランプを支持する・当選を予想する新聞社は皆無に近かった。これも後から見ればなんのことはない、新聞社は「既得権益をもつ側」の情報発信源だったから、多数派の国民の声を黙殺しただけだ。新聞各社は、口には出せないアメリカ人の本音を、意図的にしろ無意識的にしろ無視し、のんびりと「大統領に必要な資質」「実際に行わなければならない政策」などの理想論をだらだらと並べ、現状を正確に把握できなかった。

今回の日本の社説の中にも、それと同様な社説がある。「普通の場合では妥当な理想論」がまったく役に立たなかったのが、今回の大統領選なのだ。それを無視して、相変わらず「理想論」「するべき論」を並べている社説は、まったくの無価値だろう。

無価値な社説の最たるものが、日本経済新聞。まぁ行儀のよい理想論と正論が、ずらずらと書き並べてある。言っていることは要するに「みんなでよく考えて、しっかり政治をしましょう」ということに過ぎない。こんな屑のような正論、たとえ本一冊分書き並べたところで、何の役にも立たない。
この社説は、本気で現状に対する策を提案しているようにはまったく見えない。なにせ「現状」を最初から無視している。日経社説で提案していることが現実可能な状況であれば、そもそもトランプは当選していないのだ。

思うに、日経のこの社説は、購買層の必要性に迎合したものだと思う。今回の大統領選挙に関して、なにか「建設的な意見」を求められた時には、この日経社説を棒読みで音読すりゃいい。朝のカフェで、意識高い系の若手サラリーマンが「勉強会カッコ笑い」をするときには、うってつけのカンニングペーパーだろう。意気軒昂とした若手の先輩がひと演説したあとに「それって日経社説の丸パクリですよね」とでも言ったら、顔色が変わると思う。


効果的な対策は、正確な現状把握からしか出てこない。トランプの当選原理が「口に出せない不満を解消する」というのであれば、なんのことはない、要するによくあるパターンのポピュリズムだ。その内容は

(1) 有色人種の移民は死ね
(2) 国内の金持ちは死ね
(3) アメリカ経済の困窮は、有色人種のサルどものせいだ。

くらいに集約できる。そこから逆算すれば、トランプが施行するであろう政策の見当はつく。

馬鹿正直に(1)〜(3)を実行に移していたら、たちまち行き詰まることは明らかだ。トランプは今後、これらの「本音」と、実施する「建前」の、つじつまを合わせるために奔走することになるだろう。
だから、「本音」を保つメンツを守ってやりながら、「建前」として実効性のある落としどころをそっと提示してやることが、今後の具体的な対策になる。社説が論じなければならないのは、その詳細な内容だろう。その「本音」を理解しないまま、高い所から偉そうに「こうするべきなのだ」的な理想論を振り回したところで、机上の空論に過ぎない。

以上のことを簡単に要約すると、次のような文章になる。

 欧州連合(EU)離脱を決めた英国の国民投票でも、グローバル化から取り残された人々の怒りが噴き出した。グローバル化のひずみを正し、こうした人たちに手を差し伸べることは欧米諸国共通の課題だ。

トランプ氏は所得の再配分よりも経済成長を促して国民生活の底上げをすると主張する。それでグローバル化の弊害を解消できるかは疑問だ。対策をよく練ってほしい。
(東京新聞社説)


ここでいう「グローバル化」というのは、要するに「表向きに整えた正論」くらいの意味に理解してよい。差別はいけない。機会は均等に。みんな仲良く。こういう世界基準の「いいこと」が、どれだけ多くのアメリカ人にフラストレーションを与えてきたか。
  東京新聞が問うているのは、「じゃあ国民ひとりひとりの所得を増やせば、それが問題の解決になるのかな?」ということだ。生活に困っている白人の所得を上げたところで、それは対処療法でしかなく、根源的な問題解決にはなっていない。

ではその根源とは何か。

女性や障害者をさげすみ移民排斥を唱えるトランプ氏は、封印されていた弱者や少数派への偏見・差別意識を解き放った。そうした暴言は多民族国家である米社会の分断を、一層進行させることにもなった。

オバマ大統領は「先住民でない限り、われわれはよその土地で生まれた祖先を持つ。移民を迎え入れるのは米国のDNAだ」と語ったことがあるが、その通りだ。米国が移民を排除するのは、自己否定に等しい
(東京新聞社説)


いくらアメリカ人が本音として移民を嫌っても、そもそもアメリカというのは移民によって作られた国なのだ。本当の意味で移民を排斥してよいのは、古くからその土地に居たネイティブアメリカンの人達だけだろう。移民のくせに移民を嫌う、そういうアメリカ人のアイデンティティーに関わる問題なのだ。いくらトランプがアメリカ人の差別感情を口に出して放言したとしても、その差別感情は廻り回って自分たちに跳ね返って来る。

要するに、人というものは、正義も正論もまったく関係なく、「自分さえ良ければいい」という生き物なのだろう。他人に禁じることを、自分では平気でやる。他人が特権階級にいるのは我慢ならないが、自分は特権階級に就きたい。自身が移民でありながら、新たに流入する移民は排斥する。「差別はいけない」と言いながら、差別が大好きなのだ。
そういう人たちに対して、「じゃあ、望みを叶えてあげます」といえば、そりゃ支持はされるだろう。しかし、それが支持されたところで、永続的・恒久的な原則から逸れずに正しく国の方向性が示せるのか。


僕の直感だが、アメリカが今後、いわゆる日経的な「正論」を認めざるを得なくなることは、ないと思う。トランプが社会のしくみを一旦すべて壊し、その後に対処療法的な制度をつくったとして、その不備や欠点はいずれ露呈する。しかしその時にも、アメリカという国は、自分たちの過ちを決して認めないだろう。現実的には保守反動が起こるとしても、それを「新たなチャレンジ」的なイメージでごまかすと思う。実際にアメリカは、それと同じことを何度も繰り返している。

結局のところ、今まで何度も起きてきたことが、また繰り返される、というだけのことになるだろう。やたらに「対トランプ」のような未曾有の危機感を煽る前に、少しは冷静になって現状を把握してはいかがか。



人が死ぬ流血騒ぎよりは、よっぽど平和的な暴動だろ。
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小数と分数

小数と分数は、どちらが便利なのか。


直感的には、「分数」と考える人が多いのではあるまいか。「1枚のピザを8人で分けます。1人分はどれくらいになるでしょう」という問題を考えるとき、「1÷8=0.125」と考えるよりも、「8分の1」と考えるほうがビジュアル的に理解しやすい。
また欧米では、いわゆる「÷」という計算記号が無い。割り算はすべて分数の形で記述する。これも、分数を基本と考え、そこから計算によって小数を導く、という「主従関係」が見える。

確かに日常生活では分数というのは直感に近い理解が可能だが、ことを数の概念全般に拡張して考えれば、小数のほうが広い概念を考えられる。それは「有理数」と「無理数」の違いを考えてみれば明かだろう。
有理数というのは、整数比で表される数のことを言う。要するに既約分数のことだ。例えば1/3というのは有理数だが、円周率πは既約分数で表せないので無理数である。有理数は有限小数か循環小数となるため、小数は有理数も無理数も表せる。しかし整数による既約分数では無理数を表すことはできない。

ヨーロッパの数学は分数に基づいて発展し、アジアの数学は小数を駆使して発展してきた。その違いは、代数方程式に対する「姿勢」の違いに反映されているように思えてならない。
2次、3次、4次の方程式には解の公式が存在するが、5次以上の方程式には解の公式が存在しないことが、アーベルによって証明されている。ここまでは数学上の事実として、まぁいいとしよう。問題は、ヨーロッパとアジアでは、「解の公式がないと、どうなのか」という、そこから先の話が違っていることだ。

ヨーロッパの数学では、5次以上の方程式を解く公式が無い、ということが証明されれば、そこで話が止まる。「求まらないんじゃ、しょうがない」とでも言おうか、その事実を前提とした上で、代数学の発展がもたらされた。

ところが、小数を使う中国の数学や、それを取り入れた日本の和算では、5次以上の方程式に解の公式があろうがなかろうが、関係なく腕力で事実に肉薄しようとする馬力を感じる。なんというか、高次方程式の問題を「正確な数値が求められるかどうか」よりも、「どこまで正解に近づけるか」という問題として捉えていたように見える。

算木や天元術(和算で「代数学」に相当する分野)で計算すれば、無限に「近似解」を求めることができる。例え整数解でなくても、小数点以下100桁でも1万桁でも、時間さえかければどこまでも計算できる。また5次方程式どころか、10次方程式でも100次方程式でも、どんなに次数が上がろうとも関係ない。腕力で計算が可能だ。和算の文献を読むと、1000次を越える方程式を解いたという剛の者も登場する。

たとえば、ある高次方程式の解のひとつが 123456.78910233456789… と求められたとしよう。小数点以下を四捨五入すれば、だいたい123457だ。
これはヨーロッパの数学では「解」として認められない。「だいたいこのくらい」では数学としての解の条件を満たさない。有理数であれ無理数であれ、正確な数値でないと解とはならない。

ところが和算では、数学が目指す方向性が違う。その高次方程式の解を「小数点以下いくつまで計算したか」という競争になっている。それが正確に定まるか否かでばっさり分け、定まらない式については切り捨てるヨーロッパ数学とは、はじめから方程式に向かう姿勢が異なる。

5次以上の方程式が「解けない」というのは、あくまでも「解の公式による冪根では解けない」という意味であって、「その値が求められない」という意味ではない。和算が指向したように、小数点以下を延々と求めるチャレンジとして捉えれば、望む範囲での値は手に入る。

例に挙げた高次方程式だって、そもそも「何のための解を求める方程式なのか」を考えてみれば、たとえば小数点以下100桁までの正確性が求められる状況など、そうそうあるものではない。解が 123456.78910233456789… と求まれば、「だいたい123457」としておけば問題ない状況がほとんどだろう。

つまり「全か無か」という分数に比べ、小数は「近似値」というマージンの存在を許す。「だいたいこのくらい」という概算をする必要がある分野では、小数のほうがむしろ直感に近い理解が可能となる。
たとえば1.8769… という数字を見たら、「1と2の間の数で、だいぶ2のほうに寄ってる数」と分かるが、それを同じことを 595/317 という分数の表記で感じ取るのは困難だ。

また、小数というのはすべての実数を表せるが、分数は有理数しか表せない。
「概算」という日常的な必要性を考えても、表記が記述できる数体系を考えても、小数のほうが優れた記述法と言える。
ただし、便利であるがゆえに、和算では代数学の発展が阻害された観は否めない。なにせ、必要なだけ近似値が求まるのだから、代数方程式を形式的に解く必要性を一切感じなかったのだろう。明治期に西洋の数学を輸入するとき、和算に慣れた日本の数学家は、まず代数学の目指すところが理解できずに苦心したのではあるまいか。

有理数と無理数という区分にしても、その対立概念の根底にある「整数による分数表記の可否」という議論の必要性を、そもそも感じていたようには見えない。江戸時代の和算家にとって、無理数と有理数の違いというのは、「小数計算の終わりがあるか・ないか」程度の違いではなかったか。


tan1°は有理数か
(京都大学)


「世界一短い入試問題」として、日本以外の国々でも話題となった、有名な問題だ。
有理数と無理数の境目を考える問題を出しているということは、京都大学が、数学を学ぶ上で日本と西洋の対立概念を念頭に置く必要性を提唱している気がしてならない。

入試問題に「1°」なんて尋常でない角度が出てくる時点で、加法定理を使う問題と思って間違いない。あとは整数論の証明問題の王道に従って、背理法と帰納法を使えばいい。

(こたえ)
tan1°が有理数であると仮定する。
kを正の整数として、tan k°が有理数であれば、加法定理より
tan(k+1)°= (tan k°+tan 1°)/(1-tan k°tan1°)
となり、これは有理数である。従って帰納的に、すべてのkに対してtan k°は有理数となる。
しかし、例えば30°に関して
tan30° = 1/√3
であり、これは無理数となる。これはすべてのkに対してtan k°が有理数となることと矛盾する。
よって仮定が誤り。tan 1°は無理数である。
(Q.E.D.)


「有理数であれば分数で表せる」という特徴を対偶として使うと、「分数で表せないものは有理数ではない」ということになる。されば、「分数で表せない」ということを背理法で導けばいい。見た目ほど怖い問題ではない。

入試問題程度の世界では、「tan 1°は無理数」ということが言えればそれでよく、その事実がもつ意味などはどうでもいい。しかし実際の数学史を考えてみると、この事実は、ヨーロッパの数学では「そうか、じゃあ分数で表せないのか」という「議論の終点」であり、和算では「そうか、じゃあどこまで求めることができるかやってみよう」という「チャレンジの出発点」だったのではないか。ひとつの数学的な事実が、議論のスタートでもあり、ゴールでもあり得る。その違いは事実の側の違いなのではなく、無理数というものをどのようなものとして捉えるか、人の側の違いに過ぎない。

議論を始める際には、まずその議論の必要性を明確にする必要がある。議論の必要性をそもそも認めない立場にとっては、議論の末の結論がどんなものであろうと意味はない。その齟齬に気がつかないまま議論に臨んでも、見当違いなことを追いかけてしまう恐れがある。こういう徒労は、わりとありふれたものではあるまいか。



考えてみりゃ「無理」の反対は「有理」だと習ったのは数学だったな

トドちゃん日記09

todonikkiline




こんなBlog見てんのもヒマ人だろうがよ

手紙に返事を書け。

次の文章は、明治四十年に書かれた、国木田独歩の、友人あての書簡である。この書簡を受けとったと仮定して、一六〇字以上二〇〇字以内で返事を書け(句読点も一字として数える)。なお、解答に関しては、頭語(「拝復」など)・結語(「かしこ」「敬具」など)・書名・あて名・日付け・改行等は不要で、文体も自由である。


 僕もとうとう病人らしい病人の中に加入してしまった。Aドクトルは咽喉カタルと診断し、Bドクトルは肺尖カタルと診断す。右の中、右肺は軽微、左肺は肺尖以上のカタルの由。両ドクトルともに僕の顔を見ると転地転地とすすめ、ぐずぐずすれば死んでしまいそうな口ぶりで僕を東京から追い出す工夫に余念なし。
 さて何処へ転地するか、目下彼方此方とせんさくするばかりで決定せず。ただ今急に思いついたのはC君の別荘なり。差し当たり、あれを借りる事が出来るならすぐにでも行かれるし、万事好都合と案じたのであるが、君が考えてなるほどと思うならば、先方へ、単に独歩が病を養うべくひと月ばかり借りたいというが如何と、掛け合って見てはくださるまいか急に。右御返事を乞う。
 僕は衰えたよ。まるで骨と皮になったよ。君が見たらびっくりするぞ。ひいき目なしに見て「長くはあるまい」が適評ならん。僕も少々悔しくなって来た。今死んでたまるものかと思うと涙がぽろぽろこぼれる。しかし心弱くてはかなわじと元気を出して、これから大いに病と戦い、遠からず凱歌を奏する積りなり。
(国木田独歩『小杉未醒への手紙』明治四十年八月二十六日付)



何の文章作法の問題かと思うだろうが、これが東京大学・現代文の入試問題だと聞くと驚くだろうか。歴とした東大1982年の現代文[二]の問題だ。
東大がこの問題で受験生のどういう資質を試そうとしたのか、見当がつくだろうか。

東大は別に「いい人」を入学させるべくこんな問題を出したのではあるまい。現代文とはいえ、この問題は「大学という場で学問を修める資格のある学生」を選抜するための試験のはずだ。だとすれば、この問題で要求されている答案は、学問を行う上で必須の能力が試されていると思ってよい。間違っても、東大は文豪と対等に手紙をやりとりできる小説家を見分けようとしているのではない。

大学で行われている学問は、おおよそ科学の方法論を土台としている。たくつぶでも今まで何度となく「科学的方法論とは何か」のような記事を書き散らしてきたが、こういう問題を考えるときもまったくやり方は同じだ。

主観と客観を明確に分けること。
客観性を保証するために再現性を備えた観察を行うこと。
漠然とした事象の中に形式化し得る構造を見いだすこと。

そういう「科学的思考法の基本」が備わっていれば、東大がこの問題で何を問いたいのか、見当がつくはずだ。

まず不合格答案としては、「病気なのか、かわいそうだね。早く良くなるように祈るよ」のような返事は全部零点だろう。東大は別に、どれだけ独歩に同情できるか、「いい人競争」をさせようとしているのではない。
むしろ、同情というのは、科学的思考法が必要とする「客観性」と対極にある「主観」に過ぎない。そのような主観まる出しで、「かわいそう」の連打を綴る答案は、すべて学問的な姿勢としては無価値だろう。

科学的思考法の出発点は何か。
現象の中から「謎を見つける」ことだ。「なぜ、こうなっているのだろう?」という疑問を見いだすことが、科学的考察のすべての出発点と言ってよい。

もし僕が独歩からこの手紙を受けとったら、その意図が理解できずに首をひねるだろう。
そもそも、なぜ独歩は自分でC君に直接頼まないのか。なぜ「僕」を介して別荘を依頼するような、回りくどいことを頼んでいるのか。

「独歩はC君とあまり親しい仲ではないから、『僕』に仲介を頼んできた」というのは、違うだろう。誰が死にかけている際の療養に、親しくもない人の別荘を借りようと思うだろうか。余計な気を使い、却って健康に悪いだろう。転地療養の場としてC君のことを考えていることからして、独歩とC君は充分に親しい間柄と考えてよい。

手紙の文面から独歩の意図を察するに、その本意は「別荘を手配すること」ではあるまい。友人である「僕」に、現状を知らせるのが目的ではあるまいか。別荘の手配などはことのついでに過ぎず、今自分がこういう状況に置かれている、ということを知ってもらうためにこの手紙を書いた、と考えられる。

この手紙にテーマがあるとしたら、それは「死」だろう。独歩は手紙の中で死を恐れているし、それに立ち向かう決意表明もしている。受験生がこの文章のテーマとして「死」というものを見いだしたら、その構造を客観的に把握しようと努めなくてはならない。間違っても主観的に「かわいそうだな」などと感想文を書いてはいけない。

また、独歩がこの手紙をわざわざ「僕」に書いてきた、ということは、病気で心が弱くなり、友人としての「僕」に病状を知ってもらい別荘を手配してもらうことにより、「友情を確認したい」という希望があるのだろう。ここから、この文章には「友情」というもうひとつのテーマがあることが察せられる。

ここまで分かったら、もう答案までは一直線だ。東大が問うているのは、「『死』と『友情』に関して、この文章から見いだせる共通点は何か」という問題に過ぎない。自分が死や友情についてどういう考え方をもっているかは一切関係なく、「この文章を読んで」、そのふたつに見いだせる共通点を客観的に示せばよい。

死に瀕している独歩に対して「かわいそうだね」と同情するということは、そう言う自分を「生」という死の対岸に置いていることになる。自分は生きている、独歩は死にかけている、という相反する立場と考えていることになる。死と関係ない安全地帯から、死を他人事のように眺めている。
しかし冷静に考えれば、死というものは、誰にでも平等に訪れる。独歩だけでなく、「僕」もC君も、いずれは死ぬのだ。「死」を独歩のものだけでなく、自分自身も「死」という大きな環からは抜け出せない。

また独歩は、友情を感じたいために、わざわざ僕に別荘の手配を依頼している。つまり独歩にとって友情とは「人とのつながり」であって、人から人へとつながることで友情を確かなものと感じている。

そう考えると、「死」と「友情」の共通点として、「連鎖」というキーワードが思い浮かぶ。死も友情もともに、ひとりの個人が単独で向かい合うものではなく、人と人とのつながりを包括するものだ。その枠の外から他人事のように眺めるものではない。
それを反映させた返事を書けば、東大の要求を満たす答案になるだろう。


東大現代文の第二問は、代々「死」にまつわるテーマが多く、俗に「死の第二問」と呼ばれている。死をテーマにしているだけではなく、受験生にとって答案の書き方がさっぱり分からない、という意味でも「死の問題」と言える。
東大は別に、死についてなにか哲学的・超越的な知見に達している仙人のような受験生を採りたいわけではない。あくまでも学問研究機関として、学問をするに足りる資質を備えている学生を選抜するのが目的だ。

科学に基づく学問を行う以上、どんな学問分野でも「主観」と「客観」を区別することは必須の資質となる。東大が死にまつわる出題を頻発するのは、別に死そのものが重要だからではない。人が誰でも直面する現実問題として、「死」は主観を交えず客観視することが難しいテーマだからだ。たとえ「死」という重いテーマであっても、感情的にならず、冷静に客観視できるような学生を、東大は欲している。

学問というものがどのような営みであるのかをきちんと分かっていれば、そこから逆算して入試問題が問うている資質の見当がつく。東大が求めているのは、他人に共感できる「いい人」ではない。どんな事象にも冷静に客観視できるような学生だ。それは現代文という、一見科学的方法論と無縁に見えるような科目でも例外ではない。
そのような意図が分からずに答案を書いても、ことごとく「学問の本質」から外れた見当違いを書き連ねるだけだろう。


(解答例)
君がC君に直接別荘を依頼せず、僕を介して依頼してきた由、君が僕を友人として大切にしている気持ちを感じる。君と僕とC君と、友人として繋がる関係に感謝する。君は死に直面して辛い日々を送っているだろうが、死に向かうのは君ひとりではない。友人関係と同じく、死も僕ら全員に平等に訪れる。友情と死というものは、すべて等しく人をつなぐ環として、その本質は同じようなものなのだ。君の手紙を読んで、そんなことを思った。
(200字) 




誰か転地休養する別荘、貸してくれませんかね

身体に封じ込める心

ある能楽師のエッセイを読んでいたら、面白いことが書いてあった。


昨今、能楽師や狂言師などの伝統芸能の演者が、現代演劇とコラボして舞台に出演する機会が増えているそうだ。ミュージカルやオペラなどへの出演も増えているという。多くは演劇側からの要請だそうで、日本風の文化を反映させるために伝統芸能の要素を盛り込む工夫をしている。伝統芸能の側でも、演者の所作に新しい風を取り入れるために、そういう企画を歓迎しているのだそうだ。

面白いのは、舞台本番直前の、いわゆる「気持ちを作る」ための時間の使い方が、伝統芸能と現代演劇でまったく違うことだそうだ。
演劇の役者さんは、本番前に、自分が演じる登場人物に「同化」するため、そのキャラクターの心情・感情を心の中に再現する。中には、悲劇を演じる際に、準備の段階で涙を流す俳優さんもいるそうだ。作品に共感できる心理状態を作り上げ、「心」からそのキャラクターになり切る努力をするらしい。

こういう感情移入の方法論を、演劇用語で「スタニスラフスキー・システム」という。モスクワ芸術座の演出家スタニスラフスキーが編み出した手法で、特定のキャラクターを演じるときには、その感情や心情から再現すべく、心をそのキャラクターに一致させる、という演じ方だ。この方法論は、後に「メソッド演劇」として、演じる側の方法論を体系化させる試みに発展している。

実際のところ演劇の世界では、このスタニスラフスキー・システムは、賛否両論ある方法論らしい。「登場人物に感情移入する」ということは、要するに「役者個人の人生経験を、演技に反映させる」ということだ。つまり、役者個人が経験したことがない感情は、演技で再現できない、ということになる。親を亡くして悲しむ役は、実際にそれを経験したことがない者には演じられない。また、演技の質が役者の個人的体験、経験に左右される、ということは、オーディション等で役を決める時の基準が、演技力とは関係ない個人調査に陥りやすい。

現在でも、スタニスラフスキー・システムは、意識的にしろ無意識にしろ、本番前の「気持ち作り」として採用している俳優さんが多いらしい。かくして本番前の舞台裏では、やたらに怒ったり、悲しみのあまりさめざめと泣き出したり、という俳優さんが多くなるそうだ。

能楽師などの伝統芸能の演者さんは、そういう準備を見ると、非常に戸惑うそうだ。
伝統芸能では、本番前にいわゆる「気持ちを作る」ということを全くしない。むしろ、稽古では個別のキャラクターに「感情移入」することを、厳しく禁じられているそうだ。現代演劇とは真逆といっていい。

だから、本番前に能楽師が何をしているかというと、「ぼーっと時間待ちしている」だけなのだそうだ。ところが周りでは、俳優さんたちが必死に怒ったり泣いたり笑ったりして「気持ち」を作っている。「その迫力と、ぼーっとしている自分とのギャップが、なんかいたたまれない」のだそうだ。
その場面を想像してみると、なんとなくおもしろい。さぞ居心地が悪いだろう。

なぜ、能や狂言などの伝統芸能では、「気持ちをつくる」ことを禁じているのか。
伝統芸能の稽古では、演じる側の感情や個人的経験など一切関係なく、ひたすら所作の「型」を習得することに専念する。心の稽古をするのではなく、ただひたすら「体の動き」としての「型」を稽古するのだそうだ。

長い歴史をもつ伝統芸能では、各シーンでの「ココロ」を演じる際に、演じる側が多種多様でも、時代や場所を隔てても、それを忠実に再現する必要がある。たとえ現代と価値観が違う数百年前の演舞を行う時にも、それを忠実に再現する。そんな昔の登場人物に「ココロで接近する」など、どだい無理な話だ。
だから伝統芸能では、各シーンの「ココロ」の奥にある「芯」「思ひ」と言うべきものを、身体の動きに封じている。それが「型」だ。

つまり能や狂言では、各シーンのココロや感情は、それを表す身体の所作によってのみ表す。その「型」は、演じる側の感情や個人的経験に左右されてはならないものだ。個人の体験を越えた、より普遍的なものを保存し、表出するための知恵なのだろう。

だから伝統芸能では、舞台の本番前に「気持ちを作る」などということはしない。むしろ、そういうことをしてはならない。演じるキャラの気持ちがどんなものであろうと、個人の経験が追いつかなくても、関係ない。稽古によって身体に染み込ませた「型」によって、どんな世界のどんな気持ちでも表現する。

同じ演劇という枠でくくられていても、それに対するアプローチのしかたが正反対なのが面白い。世の中のノウハウに正解なんてものはないのだろうが、それぞれの方法にはそれぞれの根拠があり、それぞれの稽古の仕方があるだろう。

これは大きく言うと、「心から入る精神的アプローチ」と「身体から入る『型』のアプローチ」の違い、ということだろう。たとえばスポーツの世界では、昔から試合前に「気持ちを作れ」とよく言われる。試合に負けると「気持ちで負けたからだ」とよく責められる。これは要するに、心を先行させて、身体をそれに追随させる考え方だろう。

こういう指導の仕方は、試合に負けたり上達が滞ったりする原因を、すべて個人の「気持ち」のせいにする風潮につながり、ひいては選手個人への人格を否定することにつながる。
今年の夏に、なでしこリーグの岡山湯郷で、宮間あや、福元美穂ら日本代表経験選手を含む4名が同時に退団するという事件があった。結城治男監督代行に「選手の人格を否定する言動があった」ということが原因と報じられている。
これと近いことは、日本全国の中学・高校の部活に蔓延しているだろう。身体能力に帰着するスポーツの根源資質を「心」「気持ち」「人格」「人生経験」に安易に結びつける傾向は、スタニスラフスキー・システムが重視していることと根っこが同じだと思う。

最近では、選手の側が自発的に工夫をして、メンタルトレーニングやノウハウの蓄積が体系的に行われるようになってきた。ラグビー日本代表の五郎丸選手がプレースキックの前に行う「ルーティン」はかなり有名になった。あれは要するに、「身体の動きによって普遍的なパフォーマンスを表出する」というやり方で、方法論としては能楽師に近い。スポーツ選手のなかには無意識のうちにこれを実行している人もいて、「いつも同じ通路から球場入りする」「試合前にはいつも同じ食事をとる」などの、いわゆる「ジンクス」というものも、要するに身体的な動きによって自らをコントロールする知恵だ。

心で身体を動かそうとするのか、身体で心をコントロールしようとするのか、どちらが正解ということはないだろう。場に応じて、必要に応じて、どちらも正解となり得る方法論だと思う。
しかし、多くの人はそのどちらかに方法論が偏っている気がする。学生が「よし気合を入れて勉強するぞ」と意気込んでいるのを見るたびに、気合が入っていない時にもするのが本当の勉強なんだけどな、とつい茶々を入れたくなる。



たくつぶの更新が多いのは長い論文を書いている時であります。

お作法の恐怖

必ず室内にある

『NHKきょうの料理』2003年年10月号に掲載されている「お作法の恐怖」という随筆は興味深い。

筆者はある時京都で友人に招かれて旧家の邸宅を訪ねる。
そこで友人から「母親がお茶をどうぞと言っている」と招かれ、通された部屋は茶室だった。
茶道の嗜みなど知らない人なら誰でも困惑するだろう。
自分は外国人の如く茶道の事を何も知らないと告白するが、気軽に飲んで下さいと勧められ、筆者は緊張しながら友人の母親の点てた抹茶を頂いた。
抹茶も和菓子も美味だった。

茶を点てた母親が「もう一杯如何ですか?」という意味の事を言った。
そこで辞退しては失礼だろうと気遣って「頂きます」と返事すると隣に座っていた友人から「そこは一応遠慮するのが決まりなの」と“申し訳なさそうに”指導された。
また、後に自分の母親からも調度品を何も褒めなかった事の失態を知らされる。
筆者は羞恥を味わいながら茶室に座っていた、という記事だった。

これを読んで思うに、実に酷い話ではないか。
人を招いておきながら客に飲み食いの仕方で独自の流儀や作法を守る事を要求し、作法の出来不出来を指摘して恥をかかせ肩身の狭い思いを味わわせる。
それも湿った木造家屋の微生物の湧くような植物を編んだものの上で来客に足の痺れる座り方をさせて流儀や作法を要求し、抹茶はともかく暴力的に甘ったるい和菓子を差し出した上に調度品を褒める事までも期待する。

茶を点てる人は何の目的で客を招いたのだろう?
これが日本の伝統文化だと言われればそれまでだが、気位だけは高く、品性卑しく心貧しいとしか言いようが無い。
しかしこれが茶の湯の流儀とされてているらしい。
客人の立場になってみれば、足を痺れさせ舌に刺さり歯にしみるような甘い菓子を提供された上に珍奇な作法を知らないというだけで屈辱を味わわされる、
二重三重の暴力を受けるも同然ではないか。
これが日本の伝統的な“おもてなし”か。




「形骸化」が招いた、絵に描いたような本末転倒。

被害者の救済

「殺したがるばかどもと戦って」 瀬戸内寂聴さんの発言に犯罪被害者ら反発「気持ち踏みにじる言葉だ」 日弁連シンポで死刑制度批判

日本弁護士連合会(日弁連)が6日、福井市内で開催した死刑制度に関するシンポジウムに、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(94)がビデオメッセージを寄せ、死刑制度を批判したうえで「殺したがるばかどもと戦ってください」と発言した。会場には全国犯罪被害者の会(あすの会)のメンバーや支援する弁護士らもおり、「被害者の気持ちを踏みにじる言葉だ」と反発した。

日弁連は7日に同市内で開く人権擁護大会で「平成32年までに死刑制度の廃止を目指す」とする宣言案を提出する。この日のシンポジウムでは、国内外の研究者らが死刑の存廃をめぐる国際的潮流について報告。瀬戸内さんのビデオメッセージはプログラムの冒頭と終盤の2回にわたって流された。

この中で瀬戸内さんは「人間が人間の罪を決めることは難しい。日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」と指摘。「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」と述べた。





君はこの職場にいる限り私の部下だ。そのあいだ、私は君を守ることができる。裁判はいつかは終わる。一生かかるわけじゃない。その先をどうやって生きていくんだ。

君が辞めた瞬間から私は君を守れなくなる。新日鐵という会社には君を置いておくだけのキャパシティはある。勤務地も色々ある。
亡くなった奥さんも、ご両親も、君が仕事を続けながら裁判を見守ってゆくことを望んでおられるんじゃないのか。

この職場で働くのが嫌なら辞めてもよい。君は特別な体験をした。社会に対して訴えたいこともあるだろう。
でも、君は社会人として発言していってくれ。労働も納税もしない人間が社会に訴えても、それはただの負け犬の遠吠えだ。君は社会人になりなさい

(新日鐵に勤務する本村洋さんの上司の言葉。
光市母子殺害事件で妻子を殺された。)




実際に人を殺したばかどものほうが何よりも大切なんだな。

余りで場合分け

3n+2(nは自然数)の形をした数は、決して平方数にならないことを証明せよ。

x≡0 (mod 3)なら、x2≡0
x≡1 (mod 3)なら、x2≡1
x≡2 (mod 3)なら、x2≡4≡1
よって、任意の数の2乗は、決して3で割って2余ることは無い。
(Q.E.D.)


(合同式を使わないバージョン)
x=3nとすると、x2=9n2  これは3で割り切れる。
x=3n+1とすると、x2=9n2+6n+1  これは3で割ると1余る。
x=3n+2とすると、x2=9n2+12n+4  これは3で割ると1余る。
つまり、任意の数の二乗を3で割ると、余りは常に0か1であり、2余ることはあり得ない。
よって、平方数が3n+2の形をとることは無い。
(Q.E.D.)



(体育会系バージョン)
1の2乗は1、これは3で割って1余る。
2の2乗は4、これは3で割って1余る。
3の2乗は9、これは3で割り切れる。
4の2乗は16、これは3で割って1余る。
5の2乗は25、これは3で割って1余る。
6の2乗は36、これは3で割り切れる。
7の2乗は49、これは3で割って1余る。
8の2乗は64、これは3で割って1余る。
9の2乗は81、これは3で割り切れる。
10の2乗は100、これは3で割って1余る。
11の2乗は121、これは3で割って1余る。
12の2乗は144、これは3で割り切れる。
13の2乗は169、これは3で割って1余る。
14の2乗は196、これは3で割って1余る。
15の2乗は225、これは3で割り切れる。
16の2乗は256、これは3で割って1余る。
17の2乗は289、これは3で割って1余る。
18の2乗は324、これは3で割り切れる。
19の2乗は361、これは3で割って1余る。
20の2乗は400、これは3で割って1余る。

このくらいで勘弁してやると、どうも任意の数の2乗は、3で割ると余りが0か1らしい。
よって証明できたような気がする。
(Q.E.D.的な何か)



ふて寝する。

時代とともにある歌

街中の音楽ショップではCDが売れないのだそうだ。


割と大きなショッピングモールでさえ、CD屋さんは規模を縮小したり閉店に追い込まれたりしている。一昔前の絶頂期は音楽を聴くといえばCDを買うしかなかったわけで、それに比べれば音楽を聴く手段が多様化している昨今では致し方がないという面もあるだろう。特にお金のない学生さんなどは、好きなアーティストのCDが発売されても、「TSUTAYAでレンタルに出るまで待つ」という人も多いと思う。

だいたい、こういう「音楽業界の衰退」は、音楽がダウンロードされ課金配信されるようになった、という要因がとりあげられることが多い。しかし、僕はこの要因には懐疑的だ。
確かに、CDで買うよりもダウンロードで買った方が、資材費の分だけ若干安い。しかし、そもそも「CD売上額の低下」は、即「音楽業界の衰退」に直結するのか、といえば、そうではあるまい。

僕が常々疑問に思っていることのひとつに、なぜ音楽業界はCDの売り上げを「金額」でしか計らないのだろうか、というものがある。そりゃ業界というのは評価の尺度が売上高なのだから、売り上げ金額の多寡が重要なのは分かる。しかし、「売上高が減った」ということと「音楽業界が衰退した」ということの間には、論理の飛躍がある。

たとえば、CDが1枚売れても、楽曲が1回ダウンロード購入されても、聴く側にとっては同じ「1曲」の購入に過ぎない。こういう「購入された音楽の絶対数」が問題とされることは、ほとんどない。音楽で儲けようとしている人はともかく、音楽を作り出し広めようとしている人にとっては、「いくら売れたのか」よりも「どのくらいの人が聴いてくれたのか」のほうが重要なのではあるまいか。

また、CDの売り上げが減って街中のCD屋さんがいくら潰れたとはいえ、彼らはしょせん仲介業の「商人」であって、音楽を作り出しているわけではない。CD屋さんが潰れているのは、もはや一般市民がCD屋さんがなくても困らなくなっているからだ。流通経路が大きく変化することによって仲介業がいくら潰れようとも、音楽そのものが衰退しているわけではない。音楽を作り出しているわけでもない商人が倒産することによって「音楽が衰退している」とは、あまりに短絡的な見方だろう。

また、「最近はCDが売れない」という言葉のなかには、「いったい、どの時代と比較しているのか」という前提をぼかしている姿勢を感じる。
おおむね、業界側が「最近」と言うときは、「売り上げが最高潮だったバブル期と比べて」である。ミリオンセラーが続発した音楽絶頂期の「繁栄」が忘れられず、あの頃よもう一度、という単なる懐古主義に聞こえる。

今の時代が、音楽業界の歴史以来、過去最悪の売り上げなのか、と言われたら、決してそんなことはないだろう。昭和40~50年代の一般家庭には、まだレコードプレーヤーを持っていない家庭も多かった。そういう時代と比べても尚、現在の売り上げが劣っているのかというと、そんなことはないと思う。
「最近は音楽の売り上げが少ない」という人のほとんどは、比較の対象を「例外的な時代」に固定してしまい、その時代の価値観から抜けられなくなっているだけのことだと思う。

バブル期というのは、国中の経済が最高潮の景気だっただけではなく、一番音楽に敏感な若者世代の人口が圧倒的に多かった。要するに、買い手がたくさんいたのだ。買い手がたくさんおり、お金も持っているとなれば、売れるのは当たり前だ。そういう時代の変遷を一切見ない振りをして、「ネット配信のせい」とだけ原因を押しつけるようでは、現状の打開策にはまったく結びつかないだろう。


かようにCD売り上げの衰退には様々な要因があると思うが、僕はそれらとはまったく別に、「歌」というもののもつ機能が、時代によってかなり変化しているのではないか、と感じている。

むかしの日本は、今よりももっと生活とともに歌があったような気がする。田植え歌、子守唄、数え歌、遊び歌、仕事歌など、日常行う普通の営みのなかに、「歌」が自然に溶け込んでいた。

今になって考えれば、それらの「生活の歌」は、日々の暮らしを円滑に行うための「ルーティン」だったのだと思う。これは先のラグビーW杯やリオ五輪など、スポーツの世界で普及して、かなり人口に膾炙するようになってきた表現だろう。
ひとは、気持ちの切り替えを、精神力だけで行えるようにはできていない。気持ちというのは、自分の意思ではうまくコントロールできない。だが、体の動きは自分でコントロールできる。だから体の動きとして決まりきった規範をつくっておくことによって、それに伴って心のほうをうまくコントロールすることができる。「平常心を持て」とだけ言われて簡単にそうできる人はいないが、「ゴールキックを狙う前には両手を組み合わせろ」という体の動きとして習慣化すると、心がそれについてくるようになる。

昔はいまほど社会のあり方がシステム化されていなかった。田畑を耕す農耕民は、田んぼに出る時間に遅刻や始末書もなかっただろうし、子守りをする少女には時給も払われていなかった。システムの力によって人間の行動を制御していなかったのだから、人は自分の力で自分を制御しなくてはならない。「歌」というのは、そういう生活制御の力をもっていたのではなかろうか。お昼の休憩のあとで、さて田植えを再開しよう、というときに、田植え歌の持つ「切り替えの力」は、相当なものであっただろう。 兄弟が多かった時代に、年長の少女が子守りをさせられていた時代では、子守唄というのは赤ちゃんのためではなく、子守りをする少女のためのものだったと思う。

時代が変わって、現在ではあらゆるシステムによって人間の行動が制御されるようになった。あらゆる会社では、(終業時間は守られなくても)仕事を開始する勤務時間はきちんと定められている。お昼休みも時計で決まっている。休み時間におしゃべりしていた女子高生でも、チャイムが鳴れば授業を受ける。

ひとを制御するシステムが発展した一方で、いままで歌によってルーティンをつくりあげる必要があった営みのほうも変化した。腰に負担がかかる田植えは全部機械で行える。子守りは幼い子供がわずかな楽しみを見つけながら行う必要がない。ものを数えるときには数計算ソフトで一瞬に行える。今の世の中には、子守唄を歌おうとも、そもそも歌う側にその必要が無くなっている。
それが持つ機能が希薄となり、またその目的のほうも消滅するのであれば、それが廃れるのは必然だろう。だから今の世の中では、田植え歌も子守唄も、ほとんど伝わっていない。

むかし、歌というのは生活とともにあり、「歌うもの」だった。日常の暮らしを円滑に行うための、生活の知恵だっただろう。
しかし今では、そういう生活の歌が不要となり、歌といえば「金を出して買うもの」となった。現在の中高生が歌を歌うのは、音楽の授業かカラオケに行った時くらいのものだろう。少なくとも、その時自分が行う行為の指針として、ルーティンのごとく歌を歌う生活は、現在の若年層は送っていないのではないか。

歌が「金を出して買うもの」であれば、それは単なる消費の対象に過ぎない。使い潰せば、また新しいものを買って済ます。そうやって、音楽とひとの関係が希薄になってきたことが、本当の意味での「音楽の衰退」ではあるまいか。

まだ歌がひとと共にあり、生活の中に歌が染み込んでいた時代には、たとえ流行の歌謡曲であってもそれを生活の一部に取り込み、人生の一場面を彩る要素として、音楽はその機能を果たしていた。ひとつしかないレコードプレーヤーで同じ曲を何度も聞き込み、若い頃の生活を思い出すと、その時期を過ごした歌を思い出す中高年も多いだろう。

しかし、今の若者にとって、歌というのは「iPhoneにダウンロードされた、数メガバイトの情報」に過ぎない。そのとき聴いている曲に気分がのらなければ、クリックひとつで別の曲に切り替わる。新しい曲が出たら、すぐにダウンロードできる。音楽はすでに「消費するもの」であって、生活の根幹を成すものではなくなっている。上質の手ぬぐいではなく、単なるチリ紙に過ぎない。

技術の発達というものは、それまで希少な価値であったものを、大量生産して広く普及させることだ。音楽業界は、その革新を成功させたと言ってよい。
そして、それに成功したがゆえに、それ自体が持つ価値を自ら変容させてしまったのだ。それは単なる変化に過ぎず、良いも悪いもない。それに「悪いこと」と価値感をのせてしまっているのは、勝手に音楽の売り上げを金額に換算している、音楽業界の側なのだ。

むかしと今では、歌とひととの関係が変化している。これからの時代もそうだろう。音楽がひとと共にあり、人に寄り添う音楽を作ろうとするのであれば、これからの時代に即した「音楽との付き合い方」そのものを編み出して行かなければならない。むかしのやり方に固執して「売れないなぁ」と嘆くだけでは、音楽はどんどん時代に取り残されてしまうだけではないか。



幼稚園のとき「おかたづけの歌」というのにずいぶん操縦された。
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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