たくろふのつぶやき

秋はやきいも ほくほくしてうまし。

いいのかこれ

墓地を散歩する。

夜は怖そうだが、昼はただの芝生。アメリカの墓石は地面ににょきっと立っているだけなので、背が低く、見晴らしがよい。人間の背以上もの墓石が建ち並んで、かくれんぼができそうな日本の墓地とは違う。

さっぱりわからんのが、墓銘碑にジョークを入れるアメリカ人の感覚。よくよく読んでみると、目が点になるものが多い。

「ここに我が妻眠る。妻の魂ここに安らぐ。私もまた然り」

「C.U.Latorここに眠る。あの世でまた会おう(See you later).」

「冒険家L.Jackson。 一所に留まる事無き活動家。おそらくはまだこの下に眠る」

「Jaklineここに眠る。明朗快活にして会話好き。願わくは他の死者が安らかに眠れんことを」

「我らの師W.J.ここに眠る。先生は常に朗らかな喜びの大切さを強調なさった。今ここに我々は先生の死を喜ぼう」

…いいのか?

こういう書き方があるのか

産経抄 (2004年1月8日 産経新聞)

最初は笑いながら読んでたけど、最後で物凄く凍った。
下手に言葉を尽くすよりも遥かに強烈。
びっくりした。

トーナメントに強いチーム

高校サッカー選手権準決勝、鹿児島実業(鹿児島)vs筑陽学園(福岡)の試合結果を見た。
筑陽高校の監督のコメントとは裏腹に、完全に鹿児島実業を手玉にとった試合だったと見える。初出場で決勝進出はフロックではないだろう。

セットプレーで点をもぎとり、守備を固めるというスタイルは、相手にとっては戦いようがない。焦りがスキを生み、裏を取られて自滅する。トーナメント式の短期決戦では、最も戦力の消耗が少なく、確実な戦い方だ。

思うに、90分に及ぶ戦いで、すべての時間が同じ密度をもつわけではないのではないか。
勝負には、まさしく「ここが勝負どころ」というポイントの一瞬がある。実力が伯仲していながら、その一瞬のポイントを読めないばかりに勝負の天秤が傾く場合がある。そのポイントの一瞬をそれとわかるには、相当の経験値が必要だ。

私はナショナルチームではドイツ代表がひいきだが、ドイツはまさしくそういうチームだ。勝ち方を知っている。勝負をかける時間帯を11人全員が共通して理解して総攻撃をかけ、ワンチャンスをものにする。華麗なテクニックを操るファンタジスタは存在しないが、各々の役割分担がはっきり決められており、負傷やサスペンションにより選手を欠いても戦力が落ちない。190センチを上回る選手を揃え、セットプレーの重要性を知っている。ディフェンスが堅く、本気で守られると得点が非常に困難だ。
ドイツ代表歴代得点3位のクリンスマンは、競技場で実際に見ると非常に運動量が少なく、やる気がなく見えたそうだ。しかし、勝負どころを熟知しており、勝負の時間帯になるといきなり運動量が増え、気づくと得点をあげている。通はクリンスマンの運動量を観察し、彼が動き始めると得点を予感できたらしい。

筑陽学園の監督は、勝負どころを熟知し、状況に応じた戦い方を柔軟に変えられるようだ。トーナメントの戦い方の常套手段の正道を踏んでいると見る。なかなか面白いチームが勝ちあがったもんだ。

20ドルあったらそーとーうまいもん食えるぜ

アメリカの値引きのシステムは面倒だ。
まず、とりあえず定価で買う。しかるのち、商品に添付されている所定の用紙に住所、氏名、年齢、電話番号などを記載してメーカーに郵送する。そうすると、割引額に相当する小切手が送られてくる。つまり、メーカーは値引に相当する金額で、客の個人情報を買ってることになる。合理的といえば合理的だが、こんなやり方じゃ日本の値引き商戦と競合したら全く相手になるまい。客がどっちに流れるかは明らかだ。ヨドバシカメラの勝ち。
僕は夏にケンジントンのコンピューターバッグを買った。キャッシュバックは20ドル。さっそく送ったが、半年経った今でもぜんぜん小切手は届きゃしねぇ。
俺の20ドル返せ!!
(確かに事前通知なしにいきなり引っ越したけどさ)

家主おじいちゃんが冷凍食品のハコからなにやら切り抜いている。キャッシュバックのために郵送するらしい。
ハコの注意書きに、「このバッケージについているUPCを同封しろ」と書いてある。
おじいちゃん、UPCが何なのか分からんらしい。僕も知らない。
ちょっと待ってな調べてやっから、と、辞書を見たけどぜんぜん載ってない。
最終兵器、インターネット辞書。さすがに載ってた。ビバ21世紀。
UPC: Universal Product Code。バーコードじゃねえか。
だったらそう書けよ。老人世代が困るだろうが。
老人が略語に翻弄されるのは洋の東西を問わず一緒らしい。

記号は相互理解が前提で使えるものであって、片方が分かってなかったらただの暗号だ。自分が知ってるから使うのではなく、相手に分かる記号を使おうという当然の気遣いがない。そりゃ業者にとっちゃUPCなんて略語は常識だろうさ。だけど隠居してる87歳じいちゃんにとって常識かどうかを考えてる気配が全くなし。
なんでそう自己中心的かなぁ。顧客をなんだと思ってるんだ。

僕もメールで、当たり前のように書かれた略語の意味が分からなくて、友達に聞いても、みんな知らない、ということが何回かあった。送り主はそれで通じると思ったんだろうか。
どうもこの国、「自分の常識は世間の常識」と思い込んでいる方が多くないか。

不完全性定理の恐怖

数学の魅力はその永遠性にある。

形式科学である数学において、形式に基づいてなされる考察は証明が可能である。これは観察に基づく一般化が求められる物理学、天文学、化学、地質学、言語学、生物学などの経験科学などと厳然たる違いを成す数学独自の特徴である。

数学において一度証明された言明は、永遠に真実である。
中学生でも知っている「三角形の内角の和は180度である」という命題は紀元前に証明されたが、20000年以上経ってなお真実だし、2000年後にもなお真実であり続ける。仮説の構築と事実の検証というサイクルを永遠に繰り返すことで成り立つ経験科学に終わりはないのに対し、数学は山の頂上に立てる一瞬がある。その快感は想像するに余りある。前人未到の処女峰を征服する数学者の悦楽は、人類のいかなる快楽にも増して深く広いものであるに違いない。

数学的な命題は、証明可能か反証可能かのいずれかである。つまり、ある数学的命題が提示されたとき、それは「正しい」か「間違っている」かのいずれかである。正しいことは「証明」でき、間違っていることは「提示」できる。ゼロかイチか、マルかバツか、シロかクロかの世界。理を重んじる者にとって、これほど納得のできる世界はない。

私はかつてそう思っていた。
私だけではない。数学者を含めた世界中がそう思っていた。

1931年。その信念が崩壊した年だ。
数学は完璧ではあり得ない。そのことが証明されてしまった。
どんなに難しい命題も、証明もしくは反証できるという幻想はもろくも崩壊した。数学的命題のなかには、その真理値を決定できない、正しくもないし間違ってもいない、邪悪な命題が存在するのだ。

これがゲーテルの「不完全性定理」である。

不完全性定理は二つの定理から成る。
第1不完全性定理は「いかなる論理体系において、その論理体系によって作られる論理式のなかには、証明する事も反証することもできないものが存在する。」というもの。
第2不完全性定理は「いかなる論理体系でも無矛盾であるとき、その無矛盾性をその体系の公理系だけでは証明できない」というものである。
誤解を恐れず平たく言うと、「数学には正しくもなく間違ってもいない命題がある。そのようなことがあり得ないということは、、数学自身では証明できない」ということだ。

これは数学者にとって眠れぬ夜の始まりだった。自分が取り組んでいる命題が正しいか間違っているかを突き止めようと日夜研究を重ねるときに、「そもそも、どちらとも決められない命題かもしれない」という恐怖が襲うことになる。

アラン・チューリングは、数学的命題の中にそのような「邪悪な命題」が含まれるのなら、せめて有限回の手順でそれを見抜く操作はないか、と考えた。彼は1937年の論文で、そんな方法は存在しないことを証明した。このなかで彼は「有限回の操作」を厳密に定義し、あらゆる論理手続きを演算できる計算プログラムを考案している。これが「チューリング・マシン」である。これが現代のコンピューターの始まりであった。今に繋がるコンピューターは、この、当時25歳の青年による論文が出発点となっている。

不完全性定理はコンピューターの分野において、人工知能の実現性に対して限界を突きつけた。
精神を持つ機械は製作可能であろうか?デカルトによって「精神とは何か」という問いが提示されて以来、人間は精神について考察を重ねてきた。精神についての仕組みが明らかになれば、人工的にそれを再現可能なはずだ。そう信じ、人工知能の開発研究が進められた。

ところがペンローズは不完全性定理を元に、人間精神と完全相似の人工知能は設計不可能であることを見抜いた。「量子脳理論」である。
Deep Blueというスーパーコンピューターは、チェスの世界チャンピオンと対決して勝利した。コンピューターがチェスをできるのは、単純な計算の集積にすぎないからだ。真の人工知能は、単純な計算の集積以上に深いレベルで人間の脳が果たす役割を再現しなくてはならない。ところがコンピューターはその性質上、計算集積以外のアルゴリズムを持たない。そして、不完全性定理は、非計算的事実の存在を証明してしまった。現実世界には、0でも1でもない、計算不可能な命題が存在する。開けてはいけない扉が開かれたとき、そこに人工知能の限界が見えたのだ。不完全性定理によって、人間にできることと機械にできることの区別が冷酷に区切られた。

人間の脳は規則正しく機械仕掛けに動いているのではない。
20世紀の科学の成果である量子力学は、「物理現象は外界と完全独立の規則性をもつわけではない。観察者による観察という行為が、対象に影響を与え、ゆらぎをもたらす」ということを示した。きわめてファジーだ。人間の脳は、量子力学が明らかにした「ゆらぎの効果」を示して「計算」以上の「判断」をしている。脳がもたらす精神は、有限回の演算による予測可能な計算ではなく、対象によって様々な変化形をとる意思である。この現代科学の説明力を凌駕する機能こそ「心」であろう。この存在の特徴を解明するためには、現代科学はほんの緒端を発したに過ぎない。

認知能力の一分野である言語を解明しようとする者のなかには、言語機能のしくみを明らかにすれば、自動的に人間の精神構造が把握可能になり、人工的に再現可能になるという楽観視をしている者が少なくない。心に直結する精神構造において言語はほんの数パーセントの役割しか果たさない。しかも、人間の精神構造そのものが人工的に再現不可能であることがすでに示されている。言語を「心」とは独立した純粋な計算手続きと見なし、したがって人工的にプログラムが再現可能であると信じる者は、言語の計算機構と心のゆらぎを厳密に区分する覚悟が必要だ。

言語は知能に含まれるか。この問いは、不完全性定理によって心の再現が不可能であることが示されてはじめて成り立つ問いであることを、失念している言語学者が多いのではないか。

冬休み、時間をもてあます余り、最近の認知意味論の動向を読んで、ふとそんなことを思った。

うるさいなよくあるんだよこういうことは。

欧米人は刺身のことをraw fishとか呼んで珍しがるくせに、ユッケ食うのかよお前ら、と思った。

テレビのCNNニュースショーを見ていた。
BSE(牛海綿状脳症、いわゆる狂牛病)についての討論で、貿易関係にある国は、国際伝播を防ぐためにどういう反応をとればよいのか、というディスカッションをやっていた。
聞いてると、やたらと「ユッケ」「ユッケ」と聞こえる。
「ユッケは危ない」とか「ユッケのこれからの展開は」とか。
確かBSEはナマで食べようと焼いて食べようと関係ないはずだったけどな。

…ご存知の通り、英語では我々が「イギリス」と呼ぶ国を「UK」と呼ぶ。
イギリス衛生管理局のスポークスマンが出てくるに至って初めて気がついた。
こんなアメリカ在住の大学院生(英語学専攻)

落葉して枝だけの木々がクリスタルみたいにキラキラ輝いてる。
なんだろうと思ったら、雨でついた水滴がそのまま凍って、光ってるみたい。
ちょっといいもの見た気分。

透明な眼

ある新聞の文芸欄のアーカイブで、糸井重里のコラムを読んだ。

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「若者好きになれる?サイト」

おもしろいぞーっ。

こういうサイトを紹介するのは、書いてるぼくのほうもわくわくする。

「侍魂」というコラムのページだ。

23歳の青年がひとりでつくっているらしいのだが、これがため息がでるくらいおもしろい、ユーモア、真剣さ、大小の文字やスクロールの間の(ま)を利用した表現の技術、これだけ上手にネットで語れる人は、そうはいないだろう。

累計で600万ヒットを越えるアクセスがあることに、びっくりする人もいるだろうが、これには理由がある。

中国で開発されたという、どう評価していいのか分からないロボット「先行者」のニュースを、ここで演出を加えて紹介した企画が大ヒットしてしまったのだ。

掲示板やメールで口コミ的に評判を呼び、知る人ぞ知る名物サイトになってしまったのである。これはもう事件だったとさえ言える

むろん先行者についての抱腹のコラムもおもしろいのだけれど、せっかく訪問するなら、ぜひ、このサイトのメイン「魂」のページに行って「ヒットマン事件簿」という膨大な日記を読んでください。この頃の若い人を、とても好きになるかもしれないから

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さっそく「侍魂」にアクセスしてみた。
このページはWebの世界では伝説のページで、一時期は一日のアクセス数が、個人運営のホームページとしては当時の世界記録となる20万件を超えていたらしい。Web日記という分野に革新をもたらし、個人運営のホームページ数を爆発的に増やし、そのコメントは東証株価までをも動かす影響力があったという。現在ではアクセスカウンターが1億を越す信じられない数字を示している。

徹夜ですべて読んでしまった。

超面白い。信じられないくらい面白い。
「ヒットマン事件簿」は確かにめちゃくちゃ面白かった。この日記は、現在、出版されているという。

糸井重里は何回か著作を読んだことがあるが、あまり琴線に触れる作家ではなかった。
印象として、言っていることよりも、目の付け所が普通の人と違うなという感じがある。
しかし、今回の「侍魂」を紹介しているコラムは、正直に凄い。
コラムが書かれた当時は、すでに「侍魂」は相当な人気を博していたため、人に知られない価値を発掘したという凄さではない。
先入観を持たず、透明な眼でものを見ることができること、そしてなによりも、自ら進んでそういう機会を求めてるであろう姿勢が垣間見えることに驚愕を覚える。

「最近の若い者の考えていることは良く分からん」という嘆きは時代に普遍の嘆きだろう。
しかし、こう嘆く中高年世代は、なにをもとにこう嘆くのだろうか。
本当の理解を求めて何を行っているから、そういう嘆きが出るのだろうか。
一握りの、例外的な若者がひきおこす凶悪犯罪を目の当たりにして、それを若者一般の傾向と安易に一般化してはいないか。
「よく分からん」という以前に、本当に分かろうとしているのだろうか。
自らの価値観だけで世界を見ている、狭い視野から抜け出せていないだけではあるまいか。

「この頃の若い人を、とても好きになるかもしれないから」という言葉に、現代の日本に欠けている何かを感じる。

そりゃあ驚いたろう。

'Dead' Man Comes Back to Life at Funeral Home
(死者が葬儀屋で生命回復)
Mon January 5, 2004 08:00 AM ET

SANTA FE, N.M. (Reuters) - A New Mexico funeral home owner received the surprise of his career when a man pronounced dead at a hospital came back to life just before he was to be embalmed.

Russell Muffley, the owner of Muffley Funeral Home in Clovis, New Mexico, said he noticed Felipe Padilla breathing when the man pronounced dead at a hospital was being transferred to his facility on Wednesday. Padilla, 94, was rushed back to the same hospital, but did not recover. He was declared dead for a second time.

"When we were getting ready to move him from the stretcher to the embalming table, we noticed signs of life," Muffley said.

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おいおい頼むよ。
死亡確認くらいちゃんとやってくれ。

アメリカは土葬だ。焼かない。なんかの拍子に死亡確認が誤ったまま埋められたら、文字通り生き埋めになってしまう。

日本の墓石はものものしくて、夜に一人で墓地を通るとすこし涼しさを感じるが、アメリカはぺらっとした墓石が一個あるだけで、墓地はなんとなく間延びして見える。
だけどよく考えると、ちゃんと骨になってる日本の墓地と違って、アメリカののんきそうな墓地の足の下には、ナマで埋められた死者さま方がお休み中なんだよなぁ。
こっちのほうが怖ぇじゃねえか。

「問題なし」に読売サマ一票

[靖国・伊勢参拝]「戦没者追悼は日本の国内問題だ」
(2004年1月6日 読売新聞社説)

さぁて、朝日はどう出るかな。

非優等生の爆発力

テレビで「Drunk Master (ドランクモンキー・酔拳 (1978))」という映画を見た。
ジャッキー・チェンの映画はガキの頃から死ぬほど見た。僕がはじめて語学に興味を持ったきっかけもこれだった。
特に「酔拳」はジャキー・チェンが成功のきっかけをつかんだ出世作。男の常識、紳士のたしなみと言える逸品だろう。英語で見ようが広東語で見ようが、セリフもストーリーも全部覚えてる。

子供の頃に見たときには気にならなかったが、改めて見て非常に印象的なシーンがあった。

この作品は、中国拳法界の伝説の達人、黄飛鴻(ジャッキー・チェン)を主人公にして展開する。拳法道場のドラ息子である彼に手を焼いた父親は、弟子を痛めつけ再起不能までシゴき抜く蘇化子という達人に彼を弟子入りさせる。修行嫌いの黄飛鴻はいったん逃げ出すものの、街で会った殺し屋に半殺しの屈辱にあい、執念で修行をおさめ、伝説の秘拳「酔八仙」を伝授される。

黄飛鴻は様々な素材に登場しており、映画では「酔拳」のほかにも「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」で中国拳法全国大会優勝者のリー・リン・チェイが演じている。ほぼすべての作品で黄飛鴻は人格高潔な真面目人間として描かれている。その黄飛鴻が、なぜジャッキー・チェンの映画でだけこれほどグータレた人間像として描かれているのかは私が幼い頃から少し疑問だった。

酔八仙は八つの酒仙の型から成るが、八仙目の何仙姑(かせんこ)は女仙であるため、その型は腰をくねらせ足をからませ、はっきりいってオカマっぽい。その型をバカバカしく感じた黄飛鴻は、何仙姑の型を習得するのをサボる。
作品の最後に、黄飛鴻は因縁の殺し屋と再び闘うことになる。幻の酔八仙を、一度自分が倒した若造が使うことに殺し屋は一旦は驚くが、実は、彼には酔八仙についての知識があった。黄飛鴻の繰り出す技はすべて見切られる。技を出し尽くしたとき、彼は闘いを見守る師匠の蘇化子に、何仙姑の習得をサボったことを白状する。
ここで蘇化子が黄飛鴻に喝を入れる。「お前の知っている型を組み合わせて、お前だけの何仙姑を作れ」

黄飛鴻は咄嗟に女仙に見立てた型を自分で編み出す。自分の知らない何仙姑の型にうろたえる殺し屋に向かって、彼は言い放つ。

「術は変化する。師の教えを弟子が発展させるんだ」

このシーンこそ、この作品が最高傑作と評されている点ではないだろうか。
先達の教えを忠実に踏襲することは、自らの道程において通過点であって、目的地ではない。伝授された技に自らの技術を盛り込み、師匠の技を超えるところがこの作品のポイントではなかろうか。黄飛鴻が真面目な拳徒ではなく、グータラな修行嫌いとして描かれていたのも、この最後のシーンを魅力あるものにするための伏線なのではあるまいか。この伏線は実に利いている。「師匠の技を超える」というコンセプトは次作の「スネーキーモンキー・蛇拳」にも踏襲されているが、伏線の利かせ方、人物描写の魅力など、「酔拳」の方が数倍上回ると感じる。

世の中のエリートと呼ばれる優等生は、教わったことをほぼパーフェクトに理解する信じられない能力をもつ努力家だ。教わったことを反復し理解することが求められる段階では、真面目な態度は賞賛に値する。しかし、そこから階段を上り、自ら新しい知見を上積みすることが求められる段階になると、1000の知識は1の発想に劣る。学問の世界では大学院に入ってからが奉公の始まりのようなものだが、大学院において既存の知識を理解するのは手段であって、目的ではない。最終目標はあくまでも自らが新しい知見を切り拓くことにある。大学院生は、素直な優等生である必要はない。むしろ、先行研究を胡散臭そうに斜めに読み、少しでも穴が見つかると嬉々として穿り出すような生意気な態度のほうが伸びる。既存の概念を破壊する爆発力を持つ。

「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」
2003年2月の東京大前期入試、数学の問題だ。まさに良問と言える。ほとんどの学生は最後のページをめくって出てきた1行だけのこの問題に仰天したという。明らかに手持ちの型で解ける問題ではない。このときにパニックを感じた優等生は相当の数に上るだろう。むしろ、入試中にイスにあぐらをかいて、鉛筆を齧りながらニヤリと笑って考えることを楽しむ現代の黄飛鴻のほうが、試験時間内に自分なりの何仙姑を編み出せたのではないか。
実際、この問題はそれほど難しくない。私でも解けた。基本的な発想は円に内接する多角形(たとえば24角形)を考え、円の面積の方が内接多角形よりも大きいという当たり前のことを示せばいいだけの話だ。ネタを明かせば中学生にでも分かる。しかし、常日頃から既存の技に頼らず、自ら考えて前に進む気概のある者のみが開けられる扉だろう。

優等生であることが賞賛に値するのは、他人が自分を評価する間だけだ。真の意味で自分の人生を歩くものには、他人の評価など副次的な産物に過ぎない。まさかこの歳になって「酔拳」から感じることがあるとは思わなかった。

うっしゃ、泳ぐぞ。

今日は久しぶりにField Houseがオープンする。
このジムはフルタイム資格を持つ学生だとタダで利用可。バスケ、スカッシュ(←なかなか発音が通じなかった)、フィットネス、プール、いろんな整備が整ってる。久しぶりに泳いでこよう。最近、ずっと運動不足だし。
ベンチプレスのMAXも測ってくるかな。どんなに落ちても100Kgは上がるはず。

結局、QRをかけるときにスコープが広くなる要素が上がるわけだが、その要素はFocusで決まる、と言っちゃっていいんだろうか。Roothではスコープで真理条件が変わる文なんかを扱ってるから意味的に考えていいんだろうけど、ぶっちゃけFocusってPragmaticsっぽい要因だからなぁ。QRにダイレクトに影響するって言っていいんだろうか。Pragmaticな要因がSyntaxに影響するって、アリ? Focusってなんなのか、考えれば考えるほどわからん。

先輩が置いていった「三国志VIII」で遊ぶ。もう何回も全滅喰らった。俺って戦争が下手なのか?
呂布強すぎ。何だお前は。
むきになってやるもんだから、一気呵成の短期決戦に走る傾向があるみたい。
熱血してやるもんだから勉強中断しすぎ。罠かな?

最近、雨が多い。雪にならんくらいだから日中は暖かい。
たまに雪になることはあっても昼には雨に変わって全部溶けちゃうから雪かきがいらなくてよい。
ただ雨だと外に出るのが億劫になっちゃって、運動不足になることなること。
そんなこんなで部屋で逆立ちなんかしてるオレ。
家主じいちゃんの散歩にでも付き合うかな、と思ったけど、昨日なんて雨の中1時間半も歩ってきたらしい。即取りやめ。

国語という教科

最近、ちょっとしたきっかけで国語という教科について考える機会があった。

自慢じゃないが、学生時代から国語は得意だった。必死になって勉強した覚えもなければ、点数に苦労した覚えもない。よく友達からどうやって勉強しているのかを聞かれた。

国語能力は大きく分けて、「文学」と「言語」という、方法論の異なる二つの分野から成る。言語の方は記述文法であり、日本語の仕組みと変遷についての基礎的な知識を身につけること程度のことなので、高が知れている。日本人であれば日本語能力は持っているわけで、それに体系的な説明方法を提示されるだけなので、知的な興奮を覚えることはあっても混乱することはあるまい。

問題は文学のほうだと思われる。文学というのは広義の芸術に属し、感性で触れるべきものであるため正解がない。ひとつの作品について、正しい読み方が規定されている作品などというものは存在しない。学校では特に入試問題の対策を考えなければならないから、文学作品を「問いに答えるため」に読むという矛盾が生じることになる。芸術の一分野たる文学に、正解を求める入試問題という形態は矛盾しているのだろうか。

私に言わせれば、高校の授業や大学入試で求められる文学的素養など、文学を自ら楽しもうとするための下地に過ぎない。野球に例えれば、星一徹の如くプロで通用する即戦力を養成するレベルなのではなく、球場に野球観戦に行ったときに楽しめるように基本的なルールと醍醐味を学ぶレベルに相当するものだ。文学作品は、作家が命を削って作り上げた魂の結晶である。なんの素養も持たない者が素手で読んで理解できるものではない。文学作品を読むには、基本的なルールと価値観と下地を身につける訓練が必要なのだ。中学校、高校で学ぶ文学は、しょせんその程度のものではないか。中等教育の段階で自国の文学を理解できるくらいのレベルに達することは文明国として必須だろう。

こういった文学的素養の下地は、ガイドなしでも豊富な読書経験によって自ら作ることが出来る。学校教育を受けてないものでも、日常的な読書生活によって文学の読み方を習得し、自ら楽しむ者も大勢いる。私は小学校の5,6年生のとき、担任の先生が宿題を出さないのをいいことに本を読みまくった。学校の図書館など棚の端から端まで読破した。あらゆる分野において、経験値は絶対的なアドバンテージになる。学校で週に何時間しか文学に触れてない者と開きが出て当然だ。

文学は、広義の芸術に属する。芸術の定義はさまざまあると思うが、私は「言葉に表現しにくい概念を表現するための手段」と定義している。音楽は音を、絵画は色彩を、彫刻は形状を手段とする表現手段である。それと同様に考えると、文学というのは「言葉で表現しにくい概念を、他ならぬ言葉そのものを使って表現する」という矛盾した芸術ということになる。文学作品には、必ず作者の表現したかった概念なり世界観なり人間像が含まれる。その作者の魂に触れるのはある程度の修練と経験が必要だ。鑑賞力というのは、経験によって培われるものである。世界に誉れ高い名作を読む機会に恵まれても、他との比較ができるほどの経験値がないと良いものを良いと感じることができない。

文学作品には、「ストーリーの論理性」と、「使われている言葉の芸術性」という二つの側面がある。その配分は作品によってまちまちだ。緻密にストーリーを練り上げることに主眼が置かれている作品と、ストーリーはさておいて言葉の洗練度に走った作品とがある。後者の極みは詩だろう。高等学校では特に他教科で科学的方法論に基づく論理思考を育成するため、文学に接する生徒は前者の「ストーリーの論理性」に目を向ける傾向が多い。「要するにこの作品は何を言っているのか」を掴もうとする傾向にある。文学を読み慣れると、作品の中で中心的な役割を担う「楔の言葉」が見抜けるようになる。交換不可能で、作品の命を左右する、練りに練られた珠玉の言葉。そういう言葉に対する感性が磨かれた読者とそうでない読者では、同じ作品を読んでも得るものが違う。当然、海外の文学を翻訳で読むとストーリーの論理性しか味わうことができず、使われている言葉の凄さがわからない。詩はストーリーの論理性など皆無に等しく、使われている言葉が命なので、詩を翻訳で読むのは、限りなく意味のないことではあるまいか。

大学入試において要求される国語教科の能力というのは、実は言語知識でも文学的素養でもない。論理的思考能力である。大学入試の国語の問題の大半は、古典を除いて、論説文か評論である。あるテーマについての論説を論理的に読み解き、筆者の主張を迷いなく読み取ることができるか否かを問う問題が多い。当然、素材は、一度読んだだけでは理解できない、高度に論理的思考能力を要求する悪文が採用されることが多い。入試問題に数多く掲載される新聞などは恥以外の何者でもない。畢竟、高校の受験対策では国語とて他教科同様に論理的思考能力の育成に全力を注がざるを得ない。純粋な文学は、鑑賞はできても真実を問うことができないため、大学入試の問題になりにくい。

国語力の低下はいつの時代も問題視される。学校の国語で学ぶ言語能力、文学鑑賞力、論理思考能力のうち、真の国語力の根幹を成すのは言語能力、文学鑑賞力で、大学入試に出るのは論理思考能力である。学校が大学入試の対策を中心としていたら、感性がやわらかい時期に真の国語力を育成する機会を失う。人間の脳のなかで、言語と論理を扱う場所は別々である。人間が文字を読むとき、その二つの場所が同時に活性化している。最近の学校現場では、その二つの領域を同時に活性化する訓練が行われていないのではないか。脳の言語野は、音に反応することによって爆発的に活性化する。言語野と論理野を同時に使う読書法、つまり音読が、最近の学校で行われなくなってはいないか。昔の文学の鑑賞法は暗記だった。明治の文化人は漢詩を白文で喉が枯れるまで素読し、名文を何も見ずに諳んじることができた。現在の中学高校の国語の先生は、どれくらいの文学・古典を諳んじることができるのだろう。

文学作品のなかには、石の言葉に混じって、光り輝く珠玉の言葉がある。それをそれと分かる程度にはなるべきだろう。

箱根の追想

読売新聞、1月4日付の編集手帳に、今年の箱根駅伝二区で八人を抜き、東洋大に二十一年ぶりの区間賞をもたらしたエース、三行幸一選手の話がある。「自分を信じ抜いた人だけが重圧をはねのけ、暴走と紙一重のところで練習以上の未知の自分に出会えるのだろう」という言葉になにか熱いものを感じる。

勝負する人間には野心が必要だと思う。野心とは「身分にふさわしくない欲望」のことだ。慎ましく、己に見合うだけの「身分にふさわしい」ものしか望まない篤実温厚の士は、人間性を尊敬はされても、真剣勝負の世界に生きる勝負士にはなれまい。自分の力でできる以上のものを無謀に望み、ギラついた野心で本気でそれをもぎ取ろうと狙うものだけが、真に成長できるのではないだろうか。目線の低い者には、しょせん低い位置にあるものしか見えない。

成長とは、過去の自分に勝つことに他ならない。過去の自分に勝つためには、満足は致命傷だろう。一流と二流を分けるのは、能力ではなく欲求の差だと思う。現状に満足することなく、飽くなき欲求を持ち続けることで、人間は前に進むのではなかろうか。

移動後の構成素性の維持、か。

Abusch 1994 (NLS2)を読む。
基底構造で作られた構成素が移動によって崩れはするが、LFで解釈される際に意味的に構成素性を維持する、というアイデア。Strage (inherent)と呼ぶらしい。ネタとしてはIndefinitesなんだけど、意味的な構成素性の維持というのは僕の考えていることと同じなので、使えるシステムかどうかお手並みを拝見。

このblogの反響が結構メールに届くようになった。みんなヒマなのか。
例外なく同世代かちょっと下の女性なのはどういうことだろう。罠かな?
女性のフリすれば、まぁどんなことを言っても不快感を持たれないだろうと思って、野郎のくせに女性名でメール送ってくるそこのお前!
気が利くじゃねえか。

今のところ「異議あり!」みたいな反論じゃなくてあたりさわりのない感想みたいなのが多いけどね。ちょっと骨太の反論が欲しい気もする。コメントを直接書き込まないのはどういうことだろう。
ああ、けっこう共通してる質問があった。
「こういうことをお考えになるのは、たくろふさんにとってどのような意味をもつことなんでしょうか」という質問。

ヒマつぶしです。

セメスターが始まったらこんなこと毎日考えてるヒマなんてないってば。更新が滞るようになったら「たくろふは授業で大変なんだな」と思いねぇ。
励ましのメール募集。

ほーら来た。

■靖国参拝――独りよがりに国益なし
(2004年1月4日 朝日新聞社説)

来たーーーー!!
出たな朝日!!
言うと思った。3日に何の意見も出てないからおかしいと思った。
もしかしたら昨日の産経の社説に物申す形か?

中国と韓国との関係を円滑にすることが第一で、絶対不可侵の前提になっている。彼国の声明が昨今の国際情勢を鑑みて妥当か否かを問う姿勢がまるでない。中国が「三回廻ってワンと鳴け」と言ってきたら「するべきである」と本気で言いかねない勢いだ。

この辺が日本の道徳観の欠落の典型的な例じゃないか?
なんだ、「参拝の収支勘定は全く合わない」ってのは。
戦没者慰霊や初詣は収支勘定でするものなのか。
道徳観というものは、理屈でも損得勘定でもなく、するべきものはするべきだし、してはならないことはしてはならないだろう。戦没者慰霊や初詣を、損だからしない、得だからする、というのが今の日本の道徳なのか。
若者の道徳観の欠落を嘆いてる場合じゃないぞ。

アジア諸国の機嫌をとるためなら日本の誇り、伝統、道徳などなどクズ同然の扱い、たいした犬だ。独立国家のとる姿勢じゃない。「日本だけでなく『アジアの平和や繁栄』を大事に、というのも戦没者の思いではないのか。そういう視点が首相にも欲しい」とあるが、大東亜戦争のときにも日本は「アジア繁栄のため」を高々と標榜していた。朝日は前回の戦争と同じ過ちを犯そうとしてないか。日本がどういう姿勢で本当のアジアの平和や繁栄に参加するべきか、真面目に考えてるのだろうか。

アジアのことを考えるなら、まずあんたらの社旗を変えろ。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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