たくろふのつぶやき

海行くぞ、海。

待機部隊っていう名前が。

【主張】民主党大会 改憲への姿勢は買いたい
(2004年1月14日 産経新聞社説)

■民主党――外交でも選択肢を磨け
(2004年1月14日 朝日新聞社説)

[民主党大会]「いまさら『国連待機部隊』とは」
(2004年1月14日 読売新聞社説)

社説1 民主党の国連待機部隊構想への疑問
(2004年1月14日 日本経済新聞社説)


これだけ、今の民主党は注目されているということだろう。現在の小泉政権に寄せられる期待がいかに風前の灯であるかを物語る。

首相の正月靖国参拝問題で、朝日以外の各誌からボコボコに叩かれた管直人だが、今回の民主党大会でも、総合するとあまりいい評価ではないようだ。

各誌とも、今回の民主党党大会での、夏の参院選に向ける方針としてポイントになるのは外交問題・国際協力体制にあると見ている。ずばり自衛隊派兵問題だろう。管代表は自衛隊とは別の「国連待機部隊」を設立し、国連の要請によってのみ海外活動に参加できる体制を提案している。

なんだかなぁ。

読売の鼻息が荒い。大反対、言語道断という勢いだ。顔を真っ赤にし青筋をたてる勢いを差し引けば、大筋としては妥当な議論だろう。
日経も国連待機部隊には反対の方針。
産経は今の憲法を取り巻く環境を常々憂いていたため、改憲についての民主党の姿勢は買いながらも、「国連待機部隊」については「なんじゃそりゃ」と渋い顔だ。

ただ、「国連待機部隊」について各誌の主張を並べてみると、日経が説得力において一歩抜きん出ている気がする。
日経は「国連待機部隊」発足に対する反対根拠として、
(1)準備、費用の圧迫
(2)出向形態の妥当性
(3)自主的判断の欠如に関する正当性
の3つを上げている。(1),(2)は実際問題、(3)は根本的な問題だろう。これらのポイントをしっかり明記しているだけでも相当に意見が整理されている。

他誌が問題にしているのは(3)だけだ。このポイントだけを採ってみても、日経が優れていると思う。
事の発端は、日本が「自主的な判断」で、「武力行為」を発動したときが第九条に抵触する、という問題意識だ。これでは「日本の自主的判断」でなければ「武力行為」をしてもよい、という極論に走りかねない。「自国の判断放棄」という問題と、「結果としての平和貢献」という問題の両端をきっちり指摘しないと、管代表を論駁することはできない。その両端の指摘は、日経がいちばんわかりやすい。読売は取り乱しながらも、一応その両方の問題点を抑えているが、論理的にまとまった書き方とは言い難い。

そもそも、産経が指摘しているように、民主党内では、この「国連待機部隊」についての見解が一致していないのだから話にならない。いわんや、提案そのものが妥当でないのでは、叩き潰される案のために一生懸命に党内意見を調整するムダを犯すことになる。

そのムダを「がんばるべきだ」と論じる朝日は血迷ったとしか思えない。主張のレベルが、他の3誌にまったく追いついていない。構造改革の具現政策、正月参拝問題などで現政権を叩いてきた朝日としては、民主党に肩入れしたい気持ちが働いているのかもしれないが、むしろ朝日内部で賛否両論が飛び交い、どこに対してもあたりさわりのない意見にこじんまりと纏まった、という記事に見える。世の中は、励ませばいいってもんでもあるまい。

ことばの能力

この時期になると、受験生が必死になって英語を勉強してることだろう。
「英語の読解力がいきなり上がるような勉強方法ってないかなぁ」と望むのは誰もが同じだ。

どうも、入試に限らず、外国語というのは「読めればとりあえず用が足りる」という場合が多い。
たとえば「まるで日記のように」さんのように感じるのは、まさに日本人の語学学習者に共通した実感だろう。

そこで問題。
「聞く、話す」はどうでもいいから、手っ取り早く「読む」能力を鍛える方法はあるだろうか?

答えは、残念ながら、ない
人間の脳は、そういうふうには出来ていないのだ。

電話をかける。
電話帳を見て、その番号を一発で覚えて電話をかけるとしよう。
(1) 目で見るだけで、番号を映像として記憶する
(2) 番号を声に出して口で言うことによって、その音の並びを覚える
どちらが効率よく覚えられるだろうか。
これは、ぶっちぎりで声に出すほうが覚えやすい。絵画などのイメージ映像と違い、シーケンシャルに並ぶ記号の羅列は、視覚能力よりも聴覚能力の方が記憶に深く関与していることが最近明らかになっている。歴史の年号を覚えるのに語呂合わせを使う受験生は、そのことを無意識のうちに使っているのだ。

アメリカ人はやたらと人の名前をつけて話す。
初対面の時にお互いの名前を交換すると、「オー、たくろふさんですか。よろしくお願いしますたくろふさん」と、目を見てしっかりと名前を発音する。その後の会話でも、「よろしかったらゴハンでも一緒に行きませんかたくろふさん」「明日のミーティングは3時ですよねたくろふさん」と、やたらと名前をつける。どうやら、彼らはそうすることで人の名前を覚えていくらしい。声に出すと記憶が定着することを、経験的に知っているのだろう。名刺をもらって、名前の文字をじーっと一分くらい眺めていても、翌日には忘れてしまう。

人間の脳の中には、言語を司る独立した領域がある。
その領域は、論理、計算、情報処理などの「頭脳系」に分類されるのではなく、運動、知覚、反射などの「運動系」に位置していることが分かっている。人間が言語を習得するときには、アタマを動かすというよりは、反射による反応に近い脳の働きをしている。

ホウキか、その長さに近い棒を用意して、手のひらの上に立ててみよう。支える手を離し、片手だけでバランスをとって手のひらの上に棒を立ててみる。誰でも10秒くらいは持つのではないか。実は、人間がこの「バランスをとる」という行為をしている間に、実に信じられない量の情報演算をしていることが分かっている。少し棒が傾いたら、その傾きを相殺するだけの距離と方向を割り出し、その距離を移動するだけに必要十分な運動を筋肉に命じる。現段階では、この芸当をするために必要な情報処理は、世界で最も優秀なスーパーコンピューターでも計算不可能とされている。人間がこれができるのは、頭脳で情報を演算するというよりも、感覚運動神経によって反射的に行動しているからだ。運動神経は経験によって上達可能なため、何回もやっているとコツが分かってきて、長い時間の間、棒を立てられるようになる。

言語も、これと同じ感覚運動神経に基づく反射行為である。「聞く、話すの訓練は面倒だし、そもそもそんな能力使わないから、読めるようにする能力だけつけてくれ」というのは、言ってみれば「棒を手の上に立てる練習をするのは面倒なので、どちらの方向にどのくらい棒が傾いたら、どれだけの力でどの方向に手を戻せばいいのかを現す一般式を作ってくれないか」と言っているのと似ている。そんなことするくらいなら、練習したほうが早いのだ。仮にそんな一般式を示されたとしても、それで棒立てがうまくなるはずはない。

言語は、音声を基本として人間の脳に定着する。音を発するよりも早く文字が読めるようになる赤ん坊はいないし、音があって文字のない言語はあっても、文字があって音のない言語は存在しない。生まれついての聾唖者は手話を母語として習得するが、それとて「腕を動かす」という運動を繰り返すことによって、反射動作となるまで体に染み込ませているのだ。決して、頭で手話の動きを情報として暗記しているのではない。

多くの日本人の共通の願い「話せなくてもいいから読めるようにしてくれ」という外国語学習の姿勢は、ひとえに学校教育にその責任がないか。
前にも書いたが、どうも現在の学校における語学教育には、「読みは文法と一体を成す、頭脳志向の営みだ」という固定観念がないだろうか。日本はTOEFL, TOEICがアジアで最低レベルなのを見ても、学校教育のあり方が間違っているのは明らかだろう。多くの国では、外国語学習の初期段階では、まず教科書を使わない。ひたすら喋る練習をする。相当に流暢に喋れるようになってからでも、その言葉の文字が読めない人は大勢いる。なんだかんだ言って、我々はローマン・アルファベットに慣れている。英語とはまったく違う記号体系、たとえばロシア語やアラビア語を学ぶことを思ってみよう。字が読めるようになるのは、学習過程の相当進んだ段階になってからだと思う。まずは聞くべし聞くべし聞くべし、マネして声に出すべし出すべし出すべし、なのだ。

「話せなくてもいいから読めるようにしてくれ」という望みが出ること自体、この国の語学教育は何かが変なのだ。

引きこもり中(プチ冬眠とでも呼んでくれ)

また雪が降ってる。しかも風が強いのでちょいとブリザード。

家の庭に雪が積もってるんだが、今朝よく見ると、ケモノの足跡がそこらじゅうに点々とついている。この辺はリスが多いからその足跡がつくのはまぁいいとして、歩幅からしてどうしてもシカとシカ思えない足跡もあり。シカも子供づれらしく、ちょっと小さめの足跡も傍らに揃ってる。

最初は面白いから餌付けでもしてみようと思ったが、ペットにするにはちょいとデカすぎる気がしたのでやめておいた。夜に「ハラへったぞ」とか言って襲撃されても困るし。

大学に人の気配が多くなってきた。建物の横を通ると、なんか人の気配を感じる。来週からは春セメスターが始まるので、みんなそろそろ準備をしているみたい。
そんなわたしゃなーんも準備してない丸腰状態。ほほほ。
いいのかこんなんで。

雪とかけて麻雀と解く。
その心は、フリコムほどにツモる。

免許制成人に一票。

it_teacherさんが、成人式について面白いことを言っている。

どこかで聞いたことのある話だな、と思ったら、

星新一編「ショートショートの広場(5) / 大人免許 (星野光浩)」(講談社文庫)

で、似たような話があった。
たしか上記のショートショートでは、年齢に相応した段階に見合う様々な試験があり、最終的に「老人試験」に合格すると年金が授与され、若くして悠々自適の生活が送れる、というオチだったと思う。奇抜なこと考えるなぁ、と思ったけど、同じことを考える人っていうのはいるもんだ。

たしかに、人間を見るときに、その年齢に相応な「合格ライン」をクリアしてるか否かで人を見ることは誰もがよくやってることだろう。
ホントのところ、誕生から物理的に20年経てば自動的にみんな同じ社会的立場、ってのは実際問題としてヘンだよな。

プリウスほしいな。

社説 日本車の躍進と米ビッグスリーの凋落
(2004年1月13日 日本経済新聞社説)

日経、容赦ねぇ。

「悔しかったら日本車よりも優秀なクルマ作ってみろ」といわんばかりの、なかなかの啖呵だ。たしかにアメリカ車と日本車の大きな違いは「燃費」と「故障頻度」だから、日本車がよく売れるのも当然だ。アメリカではFORDとはFix Or Repair, Dailyの謂だというのが、冗談になってない。

日本の主幹産業がこれほど海外の脅威になってるとはね。
やっぱこっちでも日本車買おうっと。

メッセージ

20歳の君に――世界に一つだけの花
(2004年1月12日 朝日新聞社説)

こういうのをメッセージというのだろう。

本文中には、新成年を名指しして意識を植え付けようという記述はない。しかし、表題がなくても、読む人がきちんと読めば、読み取るべきものがちゃんと書いてある。読みやすい書き方だが、書きにくい書き方だと思う。

「そんな時代に巡り合わせた若者たちは、父親や母親たちとは違う生き方を自分たちで見つけなければならないから大変だ」という言葉は、むしろ若者よりも両親の世代こそ認識する必要があろう。

ドレミの詩(うた)

昔、ピアノをたしなんでいた。
楽譜を見るたびに不思議だったことがある。

音楽では、「音名」と「階名」を区別するのをご存知だろうか。
「音名」というのは、周波数で絶対的に表される音の高さを示すものだ。440HzをAと定め、周波数が2の整数乗になれば、その整数分だけオクターブが上がる。日本では音名は「ハ、ニ、ホ、へ、ト、イ、ロ」で表している。他の音との比較ナシに単音で周波数を感知できる能力が、いわゆる絶対音感である。I wishのキーボード、naoはこの絶対音感の持ち主。ゴスペラーズには絶対音感の持ち主がいないため、歌い始めの音を取る為に音叉を使っている。

それに対し「階名」というのは、主音との関係によって音階の各音に付けられた、相対的な名前のことだ。長調の場合、主音をドとし、上に向かって以下レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シと名付ける。一方、短調の場合は、主音をラとし、上に向かって以下シ、ド、レ、ミ、ファ、ソと名付けるのが一般的だ。

つまり、ハ長調の「ド」と、ニ短調の「ド」は、階名は同じでも、違う音名のつく違う音なのだ。説明するとややこしいが、これはピアノやバイオリンを習っている5歳の女の子でも感覚として身につけているほど基本的なことである。

音名を「ハ、ニ、ホ、へ、ト、イ、ロ」という大和ことばで表すのは、まぁ分かる。私が疑問だったのは、階名の「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ」というのは、いったい何なのだろう、ということだ。何語なのかすらも分からない。この謎の記号は、いったいいつ、どこで、どうやって決まった名前なのだろうか。

最近、その謎が解けた。
「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ」というのは、ラテン語だそうだ
ラテン語で古くから伝わる「パプテスマのヨハネ賛歌」という歌がある。

Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famili tuorum
Solve Polluti
Labil reaturn
Sancte Johanes

この歌は「ドレミの歌」のように、それぞれの行で一音ずつ上がっていく。各行の歌詞の先頭の音をとって、階名がつけられたらしい。主音の「ut」は口調をよくするために「do」に変えられ、第七音はSancte Johanes(聖ヨハネ)をフランス語表記したSaint-Ianから「Si」になったそうだ。この歌から「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ」を作った人も分かっている。11世紀のイタリア人、グィードという人だそうだ。Johanesを勝手にIanに変えてしまうと、もはや「ヨハネ賛歌」ではなくなっちゃうのではないかという懸念はないのだろうか。

外来語を母国語と勘違いしたり、その逆の勘違いをしたり、ということはよくある。まさか小学校の時に習った「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ」が、ラテン語だとは思わなんだ。我々が小学校で最も早く習う外来語は、実はラテン語だったという衝撃の事実。

僕と違い、兄は長じてもピアノをたまにつまびくらしい。兄曰く、「音を聞くと、本当にその音に聞こえる」んだそうだ。ドの音は、ほんとうに「ド」、ファの音は本当に「ファ」という言語として聞こえるらしい。それって本当だったら絶対音感では。絶対音感はそれだけで相当なカネになる才能だ。鍛えて身につくものではない天性のものなので、使わない手はない。

おい兄、職業間違えてないか?

はらいっぱい

アメリカ経済は例外的に景気がいい。

なにせムダ使いする。「必要なもの」じゃなくて、「欲しいもの」「面白そうなもの」を買う。景気というのは貯蓄通貨量じゃなく、流通通貨量で決まるから、ひっきりなしにカネが流れるアメリカはのべつまくなしに景気がいい。お母さんが「ムダ使いするんじゃありません!」なんて子供を叱ってるうちは、日本の景気は良くならないだろう。貯金は景気の敵なのだ。

部屋の近くにあるファミレスに行く。アイスクリーム屋さんが母体になってる、まぁ日本の不二家みたいな感じのファミレス。勉強して頭が疲れるとちょっと甘いものが食べたくなるので、サンデーを頼んだらまぁびっくり。大ジョッキみたいな量のガラスの器に山盛りになって出てきた。ほんとに一人分なんだろうか。

アメリカの甘いものは、ほんとに甘い。ケーキなんて砂糖のカタマリみたいのが出てくる。それをペロッと食べるアメリカ人。で、太らないようにせっせとジムに通って運動する。

日本の女の子は、極力甘いものを食べないようにしてカロリーを調整しているような気がする。甘いものが好きな娘でも、さすがにあのアメリカのパフェやサンデーは食べられんだろう。で、運動をしない。
甘いものをバリバリ食べて、バリバリ運動する種族と比べると、どっちが金を使うかは明らかだ。こういうところにも、景気の浮き沈みの原因がある気がする。

サンデーを食べながら日米の景気比較に思いをはせる午後でした。

blog文化論

My So-Called Blog
(New York Times, January 11, 2004)


だれだってそう心配するわな。ここまで社会現象になるか。

Blogって、自分がやってみて思うけど、自分が考えていることを世間に公表して、その反応が帰ってくるという不特定のコミュニケーションが結構おもしろい。ひとつの自己実現の形になるんだろう。トラックバックなんてされて自分の意見が人に引用されるとそれに快感感じる手合いもいるんだろう。それが逸脱すると、記事に出てくるM君みたいに、対面関係に弱く、ネット上でしかコミュニケーションできないサイバー世界の住人が増えて来るんだろうな。

Blogをする51パーセントは13歳から19歳の年代だそうな。ちょうど、対人関係の対処法を体で覚えるべき年代だろう。実際に生身の人間に接して、様々な失敗をして、時には殴り合いの喧嘩をするくらいにして人間関係を経験するべき世代だろう。リアルな世界じゃなく、仮想現実の世界で、ハンドルネームでコミュニケーションをとるほうが正常になると、自己同一性障害が出やしないか。まだ10代だったら自己の確立がしっかりできてない世代じゃあるまいか。

もしかしたら21世紀は仮想現実上の対人関係のほうがむしろ重要で、現実世界の人間関係がそれほど重視されない世紀になるのかもしれない。そりゃわからんが、時代の要求を満たすからといって迎合するには、なにか人間の本質的な部分が薄れすぎるような気がする。人間が自分を支えるための自己の確立は、やはりリアルな生身の人間との人間関係からでしか培えないんじゃないかな。もともと持ってる自己があっての、サイバー世界の自己があり得ると思うんだが、どうだろうか。

Blogはあくまで情報公開の手段であって、人間が利用するものだと思う。Blogごときに人格を支配される人間が出てきそうでちょっと気になるな。

なになに、Blog人口の90パーセントは13歳から29歳…。

セーフ

大学図書館の管理

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大学図書館というところは管理が厳重だ。

IDカードを持たないものは基本的に入館禁止のところが多い。飲食物の持ち込みはもちろん禁止、貸し出しは正規の学生か職員に限る。

で、どうなのよコレ

Cambridge University Libraryが度重なる書籍の被害にブチ切れて、被害状況と原因を徹底的に調べたらしい。ご苦労なことだ。現在の大学図書館は温度、湿度が保たれている密閉の作りになっているところが多いから、ネズミやコドモや、ましてやイヌなどによる破損被害がそれほど多いとは思えないんだけど、どんな管理の仕方をしてるんだろう。

Cambridgeくらいになると、もう世界でそこにしか現存してない本もあるんだろうから、もっとちゃんと管理してもらいたいなぁ。

アホかあいつら

今日はバスケットボールの公式戦。大学内にあるバスケ専用スタジアムに長蛇の列ができていた。

当日券狙いなのか、列のあちこちに小型のテントが張ってある。徹夜組らしい。徹夜って、夜は零下15度だぞ。そんなにしてまだバスケ見たいんだろうか。アホか。

今日の午後にフィールドハウスに泳ぎに行く途中にちょいと見たら、並んでる若い連中がチーム名を合唱して大騒ぎしていた。血が余ってる連中はこれだから。

テレビで試合を見たけど、余裕で勝った。夏になるまでに、オレも一回スタジアムに見に行くかな。

ウワサによると春セメのSyntaxの成績は、学科内で金曜午後にやるバスケの出来如何でつくらしいから、今のうちに練習しておくか。見てろよZeljko、クビ洗って待っておけ。

ラテン語って生きてるのか。

ラテン語について「おいそりゃねぇだろ」と疑問に思ったことがあったので、blogに書いたことがあった。
世の中に先達はあらまほしきかな。学部時代の友人フルカワ氏が調べてくれた。彼は僕が学部時代に歴史学のゼミに出てたときに稽古をつけてくれた先輩で、今はドイツで中世史を研究している。当然、ラテン語学習も現役なので、僕が疑問に思ったことを調べる手段を持っている。フルカワ兄さんサンキュー。昔、同じ教室で学んだ人から今になっても新しい知見を得られるというのはいもんだね。blogバンザイ。ビバ21世紀。いい世の中だ。
言語学、論理学専攻の僕がなぜ歴史学のゼミに出てたか、っていう疑問はナシで。

僕も学部時代、一応ラテン語は勉強した。
成績を見てみると、「優」がついている。おかしいなぁ。
学部で歴史学を専攻していた「ことよ」さんと同じ授業を受けていた。僕もあの呪文だけは覚えてるな、懐かしい。たしか動詞の受動形の接辞変化じゃなかったっけ。ラテン語そのものよりもコメディアンみたいなウケのする先生が面白かった記憶がある。
最近、スラブ系の言語に興味があるので、ラテン語はできるに越したことはない。ロシア語なんて、けっこう几帳面にラテン語の特徴が生き残ってる。アメリカに来たら、イタリア人の友人がラテン語の文章を延々と暗記しているのを聞いてびっくりした。さすがだ。彼らにとっては「自国の古典」という誇りがあるらしい。

最近、学部生のときにいいかげんにとってた授業を、真剣にやり直すハメになってきている。ラテン語しかり、音声学しかり。そうやって考えてみると、僕は学部時代にちゃんと将来のことを考えて授業をとってたんだなぁ(歴史学は?)。しかしイマイチちゃんと身についておらず、今になって必死にやり直す必要があるところが、そこはそれ、たくろふということで
気分は初心者

感性と理性

「ねぇ、私のこと好き?」
「ああ、好きだよ」
どうして?ねぇ、私のどこが好き?

よくある無意味な問答だ。禅問答の方がまだ意味がある。電車、喫茶店、図書館の談話コーナーなどで、こういう会話が聞こえるとイライラする。
きっと訊かれてる彼氏の方もイライラしていることだろう。
覚えておけ訊かれる相手がいるだけまだ幸せなんだぞ(泣)。

感性と理性はどう違うのだろう。
私が察するに、「理由のあるのが理性、ないのが感性」なのではないだろうか。理(ことわり)を由(よし)とするものが理性であり、そこから得られるものが「判断」であろう。一方で、感性は理とは関係ない。そこから得られる「感情」は、当然ながら不条理であり得る。アタマで導く「判断」と、ココロで感じる「感情」は、むしろ一致しないことのほうが多いのではないか。

買い物に行く。AスーパーとBスーパー、どっちに行くか。
「今日はAスーパーの特売日だからAに行く」というのは理性に基づく「判断」だ。理由がある時点で理性が働いている。「なぜ特売日だとそっちを選ぶのか→特売日だと安く買い物ができ、お金が節約きる」→「なぜお金が節約できるほうがいいのか→余ったお金を他の目的に向けられる」→「なぜ他の目的にお金を向けられるのが好ましいのか→様々な経済活動にお金を費やすほうが、生活が楽しくなる」というように、判断はすべて理由に基づくため、基点になる理由まで遡ることができる。

二人の女の子あり。AちゃんとBちゃん。どっちが好みのタイプか。
これは理由に基づく判断をするものではあるまい。好きなほうが好きなのであって、理由もへったくれもない。本当に感情に基づいているのであれば、理由などないのではあるまいか。思うに、心の働きを形式化する試みというのは、心の構造そのものに矛盾している試みなのではないだろうか。感情は理由がないとすれば、その感情の源を探るのは不毛であろう。「ナイキよりもアディタスが好き」「季節は春が一番好き」「あの課長、すげームカつく」これらの感情は、すべて理由のないものだろう。仮に理由らしきものを挙げられたとして、そのポイントが修正されたら、容易に感情を変えることができるだろうか。

女の子が「私のどこが好き?」と理由を訊いている時点で、彼氏が自分と付き合ってるのは感情でなく、思考による理由を鑑みた判断に基づいている、という前提を作っていることになる。好きな理由をすらすらと答えられるとしたら、彼氏は彼女のことを心から好きという「感情」を持っているのではなく、「この人間と一緒にいると、自分にとっては…という利点がある」という「判断」をしていることになる。大方の人間は家族を大事にしていると思うが、その理由を問われて答えられるほうが尋常ではない。

察するに、「私のどこが好き?」と訊いてくる女の子は、要するに褒められたいのだろう。だったら正直に「私のことを思いっきり褒めてください」と頼んだほうが清々しくないか。

ここに私は世の男性諸君に声を大にして提案する。
諸君を悩ませる「私のどこが好き?」に対する回答としては

「私があなたのことを好きなのは感情に基づくものであって理由はない。
それともあなたは私が特定の理由に基づく判断によってあなたを選んだと思っているのか」


と訊き返せばいい。

結果については責任を持たない。

音楽の色彩

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カンディンスキー、「コンポジションVIII」です。

超ヘンな奴です。なんでしょうこれ。最初は「へんな模様だなぁ」と思うだけでした。
でも、なんとなく好きなんです、この絵。
もともと絵の好みとしては、何が描いてあるのかがはっきりした、写実的なものが好みでした。抽象画はその存在意義がまったく分かりませんでした。
その好みが変わったきっかけは、この絵だったような気がします。

この絵を知ったきっかけは、NHKの「ドイツ語講座」でした。ストーリーに登場する女の子がこの絵を見て、首をひねってるシーンがありました。自分の好みのものから脱却して新しいものを知るには、歩き回って棒に当たるのが一番だと思います。あてのない逍遥は芸術に有用なんですね。

芸術とは何か。人にとっていろいろな定義があると思いますが、僕は「言葉にしにくい概念を表現する手段」と定義しています。音楽は音を、絵画は色彩を、彫刻は形状を媒体とする表現手段です。絵画において、「何を表すか」以前に、「何で表すか」という、もともと手段であるはずの色彩が、目的化した絵画も当然あるでしょう。色の鮮やかさだけを読み取る絵画。何を描いているのかは不問。そういう絵だと思います。この絵の色彩は僕の好みです。何を書いているのかさっぱり分かりませんが、使っている色が僕の好みです。今までにはできなかった絵の見方でした。

後から知ったことですが、カンディンスキーは「音楽を絵画化する」という変なことを試みていた画家でした。音楽は聴覚、絵画は視覚に基づき、それぞれの認知のしくみはまったく異なるため、科学的にはまったく無意味なことをしていることになります。でも僕個人としては、こういう無意味なことをする面白い奴が、もっともっといていいんじゃないかなと思います。

行為に目的なし、存在に定義なし。本質よりも実存が先立つ人間だからこそ、破れた殻なんでしょうね。

南半球の強さ

時計はなぜ右回りなのかご存知だろうか。

このあいだの秋に行われたラグビー・ワールドカップで、イングランドが初優勝した。

ご存知のように、ラグビーは、イングランドの名門パブリックスクール、ラグビー校ののエリス少年が、フットボール中にいきなりボールを抱えて走り出したのが起源である。ラグビーの母国にとって、ワールドカップ(エリスカップ)を母国に持ち帰るのは悲願だった。実は、ラグビーのワールドカップにおいて、北半球の国が制したのはこれが初めてのことである。

20世紀は、経済、技術のみならず、スポーツの世界でも南北問題は厳然と存在していた。オリンピックでは北半球が圧倒的な強さを占め、サッカーのワールドカップにおいても、ベスト8以上に進出できるのは、ブラジル、アルゼンチンやアフリカの何カ国かを除き、ほとんどヨーロッパ勢で占められている。

そんなスポーツ界の趨勢に逆らうのがラグビーである。ラグビーの場合、圧倒的に南半球の方が強い。先のワールドカップまでは、優勝国はすべて南半球が独占していた。ベスト8までを見ても、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、アルゼンチン、トンガ、サモアなど、南半球の強さは際立っている。なぜ北半球が席捲するスポーツ界において、ラグビーは例外的に南半球が強いのだろう。

ラグビーは、力の差が如実に結果となって現れる。他のスポーツと比べて、番狂わせが起きにくい。また、短期的な作戦の如何によっていきなり強くなったり弱くなったりするものではない。強くなるには「ごまかし」は効かず、個々の能力を底上げする以外に方法はない。結局のところ、一人一人のタックル力と突破力、中央ラインの展開力で力のほとんどが決まってしまう。長い年月をかけて累々と築き上げてきた南半球の国々の伝統的な強さは、短期的なプランではなかなか崩せないのだろう。ニュージーランドは国技がラグビーである。代表チーム・オールブラックスのメンバーは、国内では日本の横綱に相当する名誉と誇りを担っている。街中の原っぱでは、ラグビーで遊ぶ小学生たちが、8対8の本気でスクラムを組んでいる。

現代に繋がる文明の歴史は、そのほとんどが北半球を中心に展開されてきた。人間最古の文明とされているのは、ほとんどが北半球に発生している。当然、現在でも世界共通の約束事とされているのは北半球の視点で作られたものが多い。自らを上と見なす視点が地理学上の地図で北が上という約束をつくり、太古の昔に北半球で日時計が作られたときの回転そのままに、現在でも時計は右回りになっている。

今回のラグビー・ワールドカップで、南半球最後の砦だったラグビーにおいても北半球に凱歌が上がった。次回のワールドカップに向けて南半球諸国の巻き返しを期待したいところだ。

やっぱりピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドよりもイアン・ソープを応援しちゃうんだよね。
ペンギン命

takutsubu

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