たくろふのつぶやき

この夏、またしてもお化けを捕まえ損なった。

blog文化論

My So-Called Blog
(New York Times, January 11, 2004)


だれだってそう心配するわな。ここまで社会現象になるか。

Blogって、自分がやってみて思うけど、自分が考えていることを世間に公表して、その反応が帰ってくるという不特定のコミュニケーションが結構おもしろい。ひとつの自己実現の形になるんだろう。トラックバックなんてされて自分の意見が人に引用されるとそれに快感感じる手合いもいるんだろう。それが逸脱すると、記事に出てくるM君みたいに、対面関係に弱く、ネット上でしかコミュニケーションできないサイバー世界の住人が増えて来るんだろうな。

Blogをする51パーセントは13歳から19歳の年代だそうな。ちょうど、対人関係の対処法を体で覚えるべき年代だろう。実際に生身の人間に接して、様々な失敗をして、時には殴り合いの喧嘩をするくらいにして人間関係を経験するべき世代だろう。リアルな世界じゃなく、仮想現実の世界で、ハンドルネームでコミュニケーションをとるほうが正常になると、自己同一性障害が出やしないか。まだ10代だったら自己の確立がしっかりできてない世代じゃあるまいか。

もしかしたら21世紀は仮想現実上の対人関係のほうがむしろ重要で、現実世界の人間関係がそれほど重視されない世紀になるのかもしれない。そりゃわからんが、時代の要求を満たすからといって迎合するには、なにか人間の本質的な部分が薄れすぎるような気がする。人間が自分を支えるための自己の確立は、やはりリアルな生身の人間との人間関係からでしか培えないんじゃないかな。もともと持ってる自己があっての、サイバー世界の自己があり得ると思うんだが、どうだろうか。

Blogはあくまで情報公開の手段であって、人間が利用するものだと思う。Blogごときに人格を支配される人間が出てきそうでちょっと気になるな。

なになに、Blog人口の90パーセントは13歳から29歳…。

セーフ

大学図書館の管理

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大学図書館というところは管理が厳重だ。

IDカードを持たないものは基本的に入館禁止のところが多い。飲食物の持ち込みはもちろん禁止、貸し出しは正規の学生か職員に限る。

で、どうなのよコレ

Cambridge University Libraryが度重なる書籍の被害にブチ切れて、被害状況と原因を徹底的に調べたらしい。ご苦労なことだ。現在の大学図書館は温度、湿度が保たれている密閉の作りになっているところが多いから、ネズミやコドモや、ましてやイヌなどによる破損被害がそれほど多いとは思えないんだけど、どんな管理の仕方をしてるんだろう。

Cambridgeくらいになると、もう世界でそこにしか現存してない本もあるんだろうから、もっとちゃんと管理してもらいたいなぁ。

アホかあいつら

今日はバスケットボールの公式戦。大学内にあるバスケ専用スタジアムに長蛇の列ができていた。

当日券狙いなのか、列のあちこちに小型のテントが張ってある。徹夜組らしい。徹夜って、夜は零下15度だぞ。そんなにしてまだバスケ見たいんだろうか。アホか。

今日の午後にフィールドハウスに泳ぎに行く途中にちょいと見たら、並んでる若い連中がチーム名を合唱して大騒ぎしていた。血が余ってる連中はこれだから。

テレビで試合を見たけど、余裕で勝った。夏になるまでに、オレも一回スタジアムに見に行くかな。

ウワサによると春セメのSyntaxの成績は、学科内で金曜午後にやるバスケの出来如何でつくらしいから、今のうちに練習しておくか。見てろよZeljko、クビ洗って待っておけ。

ラテン語って生きてるのか。

ラテン語について「おいそりゃねぇだろ」と疑問に思ったことがあったので、blogに書いたことがあった。
世の中に先達はあらまほしきかな。学部時代の友人フルカワ氏が調べてくれた。彼は僕が学部時代に歴史学のゼミに出てたときに稽古をつけてくれた先輩で、今はドイツで中世史を研究している。当然、ラテン語学習も現役なので、僕が疑問に思ったことを調べる手段を持っている。フルカワ兄さんサンキュー。昔、同じ教室で学んだ人から今になっても新しい知見を得られるというのはいもんだね。blogバンザイ。ビバ21世紀。いい世の中だ。
言語学、論理学専攻の僕がなぜ歴史学のゼミに出てたか、っていう疑問はナシで。

僕も学部時代、一応ラテン語は勉強した。
成績を見てみると、「優」がついている。おかしいなぁ。
学部で歴史学を専攻していた「ことよ」さんと同じ授業を受けていた。僕もあの呪文だけは覚えてるな、懐かしい。たしか動詞の受動形の接辞変化じゃなかったっけ。ラテン語そのものよりもコメディアンみたいなウケのする先生が面白かった記憶がある。
最近、スラブ系の言語に興味があるので、ラテン語はできるに越したことはない。ロシア語なんて、けっこう几帳面にラテン語の特徴が生き残ってる。アメリカに来たら、イタリア人の友人がラテン語の文章を延々と暗記しているのを聞いてびっくりした。さすがだ。彼らにとっては「自国の古典」という誇りがあるらしい。

最近、学部生のときにいいかげんにとってた授業を、真剣にやり直すハメになってきている。ラテン語しかり、音声学しかり。そうやって考えてみると、僕は学部時代にちゃんと将来のことを考えて授業をとってたんだなぁ(歴史学は?)。しかしイマイチちゃんと身についておらず、今になって必死にやり直す必要があるところが、そこはそれ、たくろふということで
気分は初心者

感性と理性

「ねぇ、私のこと好き?」
「ああ、好きだよ」
どうして?ねぇ、私のどこが好き?

よくある無意味な問答だ。禅問答の方がまだ意味がある。電車、喫茶店、図書館の談話コーナーなどで、こういう会話が聞こえるとイライラする。
きっと訊かれてる彼氏の方もイライラしていることだろう。
覚えておけ訊かれる相手がいるだけまだ幸せなんだぞ(泣)。

感性と理性はどう違うのだろう。
私が察するに、「理由のあるのが理性、ないのが感性」なのではないだろうか。理(ことわり)を由(よし)とするものが理性であり、そこから得られるものが「判断」であろう。一方で、感性は理とは関係ない。そこから得られる「感情」は、当然ながら不条理であり得る。アタマで導く「判断」と、ココロで感じる「感情」は、むしろ一致しないことのほうが多いのではないか。

買い物に行く。AスーパーとBスーパー、どっちに行くか。
「今日はAスーパーの特売日だからAに行く」というのは理性に基づく「判断」だ。理由がある時点で理性が働いている。「なぜ特売日だとそっちを選ぶのか→特売日だと安く買い物ができ、お金が節約きる」→「なぜお金が節約できるほうがいいのか→余ったお金を他の目的に向けられる」→「なぜ他の目的にお金を向けられるのが好ましいのか→様々な経済活動にお金を費やすほうが、生活が楽しくなる」というように、判断はすべて理由に基づくため、基点になる理由まで遡ることができる。

二人の女の子あり。AちゃんとBちゃん。どっちが好みのタイプか。
これは理由に基づく判断をするものではあるまい。好きなほうが好きなのであって、理由もへったくれもない。本当に感情に基づいているのであれば、理由などないのではあるまいか。思うに、心の働きを形式化する試みというのは、心の構造そのものに矛盾している試みなのではないだろうか。感情は理由がないとすれば、その感情の源を探るのは不毛であろう。「ナイキよりもアディタスが好き」「季節は春が一番好き」「あの課長、すげームカつく」これらの感情は、すべて理由のないものだろう。仮に理由らしきものを挙げられたとして、そのポイントが修正されたら、容易に感情を変えることができるだろうか。

女の子が「私のどこが好き?」と理由を訊いている時点で、彼氏が自分と付き合ってるのは感情でなく、思考による理由を鑑みた判断に基づいている、という前提を作っていることになる。好きな理由をすらすらと答えられるとしたら、彼氏は彼女のことを心から好きという「感情」を持っているのではなく、「この人間と一緒にいると、自分にとっては…という利点がある」という「判断」をしていることになる。大方の人間は家族を大事にしていると思うが、その理由を問われて答えられるほうが尋常ではない。

察するに、「私のどこが好き?」と訊いてくる女の子は、要するに褒められたいのだろう。だったら正直に「私のことを思いっきり褒めてください」と頼んだほうが清々しくないか。

ここに私は世の男性諸君に声を大にして提案する。
諸君を悩ませる「私のどこが好き?」に対する回答としては

「私があなたのことを好きなのは感情に基づくものであって理由はない。
それともあなたは私が特定の理由に基づく判断によってあなたを選んだと思っているのか」


と訊き返せばいい。

結果については責任を持たない。

音楽の色彩

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カンディンスキー、「コンポジションVIII」です。

超ヘンな奴です。なんでしょうこれ。最初は「へんな模様だなぁ」と思うだけでした。
でも、なんとなく好きなんです、この絵。
もともと絵の好みとしては、何が描いてあるのかがはっきりした、写実的なものが好みでした。抽象画はその存在意義がまったく分かりませんでした。
その好みが変わったきっかけは、この絵だったような気がします。

この絵を知ったきっかけは、NHKの「ドイツ語講座」でした。ストーリーに登場する女の子がこの絵を見て、首をひねってるシーンがありました。自分の好みのものから脱却して新しいものを知るには、歩き回って棒に当たるのが一番だと思います。あてのない逍遥は芸術に有用なんですね。

芸術とは何か。人にとっていろいろな定義があると思いますが、僕は「言葉にしにくい概念を表現する手段」と定義しています。音楽は音を、絵画は色彩を、彫刻は形状を媒体とする表現手段です。絵画において、「何を表すか」以前に、「何で表すか」という、もともと手段であるはずの色彩が、目的化した絵画も当然あるでしょう。色の鮮やかさだけを読み取る絵画。何を描いているのかは不問。そういう絵だと思います。この絵の色彩は僕の好みです。何を書いているのかさっぱり分かりませんが、使っている色が僕の好みです。今までにはできなかった絵の見方でした。

後から知ったことですが、カンディンスキーは「音楽を絵画化する」という変なことを試みていた画家でした。音楽は聴覚、絵画は視覚に基づき、それぞれの認知のしくみはまったく異なるため、科学的にはまったく無意味なことをしていることになります。でも僕個人としては、こういう無意味なことをする面白い奴が、もっともっといていいんじゃないかなと思います。

行為に目的なし、存在に定義なし。本質よりも実存が先立つ人間だからこそ、破れた殻なんでしょうね。

南半球の強さ

時計はなぜ右回りなのかご存知だろうか。

このあいだの秋に行われたラグビー・ワールドカップで、イングランドが初優勝した。

ご存知のように、ラグビーは、イングランドの名門パブリックスクール、ラグビー校ののエリス少年が、フットボール中にいきなりボールを抱えて走り出したのが起源である。ラグビーの母国にとって、ワールドカップ(エリスカップ)を母国に持ち帰るのは悲願だった。実は、ラグビーのワールドカップにおいて、北半球の国が制したのはこれが初めてのことである。

20世紀は、経済、技術のみならず、スポーツの世界でも南北問題は厳然と存在していた。オリンピックでは北半球が圧倒的な強さを占め、サッカーのワールドカップにおいても、ベスト8以上に進出できるのは、ブラジル、アルゼンチンやアフリカの何カ国かを除き、ほとんどヨーロッパ勢で占められている。

そんなスポーツ界の趨勢に逆らうのがラグビーである。ラグビーの場合、圧倒的に南半球の方が強い。先のワールドカップまでは、優勝国はすべて南半球が独占していた。ベスト8までを見ても、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、アルゼンチン、トンガ、サモアなど、南半球の強さは際立っている。なぜ北半球が席捲するスポーツ界において、ラグビーは例外的に南半球が強いのだろう。

ラグビーは、力の差が如実に結果となって現れる。他のスポーツと比べて、番狂わせが起きにくい。また、短期的な作戦の如何によっていきなり強くなったり弱くなったりするものではない。強くなるには「ごまかし」は効かず、個々の能力を底上げする以外に方法はない。結局のところ、一人一人のタックル力と突破力、中央ラインの展開力で力のほとんどが決まってしまう。長い年月をかけて累々と築き上げてきた南半球の国々の伝統的な強さは、短期的なプランではなかなか崩せないのだろう。ニュージーランドは国技がラグビーである。代表チーム・オールブラックスのメンバーは、国内では日本の横綱に相当する名誉と誇りを担っている。街中の原っぱでは、ラグビーで遊ぶ小学生たちが、8対8の本気でスクラムを組んでいる。

現代に繋がる文明の歴史は、そのほとんどが北半球を中心に展開されてきた。人間最古の文明とされているのは、ほとんどが北半球に発生している。当然、現在でも世界共通の約束事とされているのは北半球の視点で作られたものが多い。自らを上と見なす視点が地理学上の地図で北が上という約束をつくり、太古の昔に北半球で日時計が作られたときの回転そのままに、現在でも時計は右回りになっている。

今回のラグビー・ワールドカップで、南半球最後の砦だったラグビーにおいても北半球に凱歌が上がった。次回のワールドカップに向けて南半球諸国の巻き返しを期待したいところだ。

やっぱりピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドよりもイアン・ソープを応援しちゃうんだよね。

ヤク漬け

アメリカはほんとに薬がいっぱいある。

痛み止め(アスピリン)、下痢止め、カゼ薬、抗生剤、なんでも種類が多い。僕はカゼひいてたときにこっちのカゼ薬を飲んだが、ものすごく強力だった。すぐ眠くなる。一晩で熱がひいた。

西洋医学は、人間の調整力なんか念頭におかず、強引に薬の力で病気の原因を殺すという発想が原則だ。だから、薬はものすごく強力なモノが売っている。日本ではたぶん許可されないくらい強力。僕はカゼ薬の副作用ですこし頭痛がしたくらい。

驚くのは、睡眠薬が普通に売ってること。大学のCoopに入ってるコンビニでも普通に売ってる。いいのかな。こわいからまだ試してはいない。でもなんかに使えそうだから買っておこうかな。

朝起きたら雨が降ってる。誰だって「あーあ」とすこしうんざりする。このうんざりする気持ちをも、アメリカ人は薬で治すんだそうだ。そういうための薬も売っている。そういう気分を晴れやかにするために精神科医に通う人もいる。歯医者よりも精神科医の方が多いんだそうな。なんだかなぁ。

僕の場合は、人間本来の生命力を引き出して、体の中から健康体を維持する東洋医学のほうが、まだ性に合ってるみたい。

家でぬくぬく

マイナス15度って。

そりゃあもう寒いこと寒いこと。
窓は凍ってるし、道路はムチャクチャ冷たいし。
これじゃDepartmentに行く気もしない。
でもField Houseに泳ぎに行ったオレ。

長いことほっとかれてたPhonologyの成績がついた。
結構、むふふハートな成績。
がんばったからなぁ。この後に及んでああいう新しい分野でもちゃんと吸収できるからまだまだオレも捨てたもんじゃないな。

再びMirror Lakeが凍った。
そろそろ肝試しに湖の上を渡ろうとする勇者が出てくる頃ではないかな。

すげぇな

小2女児、危険物取扱者試験を突破=最年少の合格

「門前の小僧、習わぬ経を読む」と言うが、これは経というよりアブない呪文では

試験は合格者30%だったらしいが、小学校2年生に負けた不合格者の奴ら、恥を知れ。

いいのかこれ

墓地を散歩する。

夜は怖そうだが、昼はただの芝生。アメリカの墓石は地面ににょきっと立っているだけなので、背が低く、見晴らしがよい。人間の背以上もの墓石が建ち並んで、かくれんぼができそうな日本の墓地とは違う。

さっぱりわからんのが、墓銘碑にジョークを入れるアメリカ人の感覚。よくよく読んでみると、目が点になるものが多い。

「ここに我が妻眠る。妻の魂ここに安らぐ。私もまた然り」

「C.U.Latorここに眠る。あの世でまた会おう(See you later).」

「冒険家L.Jackson。 一所に留まる事無き活動家。おそらくはまだこの下に眠る」

「Jaklineここに眠る。明朗快活にして会話好き。願わくは他の死者が安らかに眠れんことを」

「我らの師W.J.ここに眠る。先生は常に朗らかな喜びの大切さを強調なさった。今ここに我々は先生の死を喜ぼう」

…いいのか?

こういう書き方があるのか

産経抄 (2004年1月8日 産経新聞)

最初は笑いながら読んでたけど、最後で物凄く凍った。
下手に言葉を尽くすよりも遥かに強烈。
びっくりした。

トーナメントに強いチーム

高校サッカー選手権準決勝、鹿児島実業(鹿児島)vs筑陽学園(福岡)の試合結果を見た。
筑陽高校の監督のコメントとは裏腹に、完全に鹿児島実業を手玉にとった試合だったと見える。初出場で決勝進出はフロックではないだろう。

セットプレーで点をもぎとり、守備を固めるというスタイルは、相手にとっては戦いようがない。焦りがスキを生み、裏を取られて自滅する。トーナメント式の短期決戦では、最も戦力の消耗が少なく、確実な戦い方だ。

思うに、90分に及ぶ戦いで、すべての時間が同じ密度をもつわけではないのではないか。
勝負には、まさしく「ここが勝負どころ」というポイントの一瞬がある。実力が伯仲していながら、その一瞬のポイントを読めないばかりに勝負の天秤が傾く場合がある。そのポイントの一瞬をそれとわかるには、相当の経験値が必要だ。

私はナショナルチームではドイツ代表がひいきだが、ドイツはまさしくそういうチームだ。勝ち方を知っている。勝負をかける時間帯を11人全員が共通して理解して総攻撃をかけ、ワンチャンスをものにする。華麗なテクニックを操るファンタジスタは存在しないが、各々の役割分担がはっきり決められており、負傷やサスペンションにより選手を欠いても戦力が落ちない。190センチを上回る選手を揃え、セットプレーの重要性を知っている。ディフェンスが堅く、本気で守られると得点が非常に困難だ。
ドイツ代表歴代得点3位のクリンスマンは、競技場で実際に見ると非常に運動量が少なく、やる気がなく見えたそうだ。しかし、勝負どころを熟知しており、勝負の時間帯になるといきなり運動量が増え、気づくと得点をあげている。通はクリンスマンの運動量を観察し、彼が動き始めると得点を予感できたらしい。

筑陽学園の監督は、勝負どころを熟知し、状況に応じた戦い方を柔軟に変えられるようだ。トーナメントの戦い方の常套手段の正道を踏んでいると見る。なかなか面白いチームが勝ちあがったもんだ。

20ドルあったらそーとーうまいもん食えるぜ

アメリカの値引きのシステムは面倒だ。
まず、とりあえず定価で買う。しかるのち、商品に添付されている所定の用紙に住所、氏名、年齢、電話番号などを記載してメーカーに郵送する。そうすると、割引額に相当する小切手が送られてくる。つまり、メーカーは値引に相当する金額で、客の個人情報を買ってることになる。合理的といえば合理的だが、こんなやり方じゃ日本の値引き商戦と競合したら全く相手になるまい。客がどっちに流れるかは明らかだ。ヨドバシカメラの勝ち。
僕は夏にケンジントンのコンピューターバッグを買った。キャッシュバックは20ドル。さっそく送ったが、半年経った今でもぜんぜん小切手は届きゃしねぇ。
俺の20ドル返せ!!
(確かに事前通知なしにいきなり引っ越したけどさ)

家主おじいちゃんが冷凍食品のハコからなにやら切り抜いている。キャッシュバックのために郵送するらしい。
ハコの注意書きに、「このバッケージについているUPCを同封しろ」と書いてある。
おじいちゃん、UPCが何なのか分からんらしい。僕も知らない。
ちょっと待ってな調べてやっから、と、辞書を見たけどぜんぜん載ってない。
最終兵器、インターネット辞書。さすがに載ってた。ビバ21世紀。
UPC: Universal Product Code。バーコードじゃねえか。
だったらそう書けよ。老人世代が困るだろうが。
老人が略語に翻弄されるのは洋の東西を問わず一緒らしい。

記号は相互理解が前提で使えるものであって、片方が分かってなかったらただの暗号だ。自分が知ってるから使うのではなく、相手に分かる記号を使おうという当然の気遣いがない。そりゃ業者にとっちゃUPCなんて略語は常識だろうさ。だけど隠居してる87歳じいちゃんにとって常識かどうかを考えてる気配が全くなし。
なんでそう自己中心的かなぁ。顧客をなんだと思ってるんだ。

僕もメールで、当たり前のように書かれた略語の意味が分からなくて、友達に聞いても、みんな知らない、ということが何回かあった。送り主はそれで通じると思ったんだろうか。
どうもこの国、「自分の常識は世間の常識」と思い込んでいる方が多くないか。

不完全性定理の恐怖

数学の魅力はその永遠性にある。

形式科学である数学において、形式に基づいてなされる考察は証明が可能である。これは観察に基づく一般化が求められる物理学、天文学、化学、地質学、言語学、生物学などの経験科学などと厳然たる違いを成す数学独自の特徴である。

数学において一度証明された言明は、永遠に真実である。
中学生でも知っている「三角形の内角の和は180度である」という命題は紀元前に証明されたが、20000年以上経ってなお真実だし、2000年後にもなお真実であり続ける。仮説の構築と事実の検証というサイクルを永遠に繰り返すことで成り立つ経験科学に終わりはないのに対し、数学は山の頂上に立てる一瞬がある。その快感は想像するに余りある。前人未到の処女峰を征服する数学者の悦楽は、人類のいかなる快楽にも増して深く広いものであるに違いない。

数学的な命題は、証明可能か反証可能かのいずれかである。つまり、ある数学的命題が提示されたとき、それは「正しい」か「間違っている」かのいずれかである。正しいことは「証明」でき、間違っていることは「提示」できる。ゼロかイチか、マルかバツか、シロかクロかの世界。理を重んじる者にとって、これほど納得のできる世界はない。

私はかつてそう思っていた。
私だけではない。数学者を含めた世界中がそう思っていた。

1931年。その信念が崩壊した年だ。
数学は完璧ではあり得ない。そのことが証明されてしまった。
どんなに難しい命題も、証明もしくは反証できるという幻想はもろくも崩壊した。数学的命題のなかには、その真理値を決定できない、正しくもないし間違ってもいない、邪悪な命題が存在するのだ。

これがゲーテルの「不完全性定理」である。

不完全性定理は二つの定理から成る。
第1不完全性定理は「いかなる論理体系において、その論理体系によって作られる論理式のなかには、証明する事も反証することもできないものが存在する。」というもの。
第2不完全性定理は「いかなる論理体系でも無矛盾であるとき、その無矛盾性をその体系の公理系だけでは証明できない」というものである。
誤解を恐れず平たく言うと、「数学には正しくもなく間違ってもいない命題がある。そのようなことがあり得ないということは、、数学自身では証明できない」ということだ。

これは数学者にとって眠れぬ夜の始まりだった。自分が取り組んでいる命題が正しいか間違っているかを突き止めようと日夜研究を重ねるときに、「そもそも、どちらとも決められない命題かもしれない」という恐怖が襲うことになる。

アラン・チューリングは、数学的命題の中にそのような「邪悪な命題」が含まれるのなら、せめて有限回の手順でそれを見抜く操作はないか、と考えた。彼は1937年の論文で、そんな方法は存在しないことを証明した。このなかで彼は「有限回の操作」を厳密に定義し、あらゆる論理手続きを演算できる計算プログラムを考案している。これが「チューリング・マシン」である。これが現代のコンピューターの始まりであった。今に繋がるコンピューターは、この、当時25歳の青年による論文が出発点となっている。

不完全性定理はコンピューターの分野において、人工知能の実現性に対して限界を突きつけた。
精神を持つ機械は製作可能であろうか?デカルトによって「精神とは何か」という問いが提示されて以来、人間は精神について考察を重ねてきた。精神についての仕組みが明らかになれば、人工的にそれを再現可能なはずだ。そう信じ、人工知能の開発研究が進められた。

ところがペンローズは不完全性定理を元に、人間精神と完全相似の人工知能は設計不可能であることを見抜いた。「量子脳理論」である。
Deep Blueというスーパーコンピューターは、チェスの世界チャンピオンと対決して勝利した。コンピューターがチェスをできるのは、単純な計算の集積にすぎないからだ。真の人工知能は、単純な計算の集積以上に深いレベルで人間の脳が果たす役割を再現しなくてはならない。ところがコンピューターはその性質上、計算集積以外のアルゴリズムを持たない。そして、不完全性定理は、非計算的事実の存在を証明してしまった。現実世界には、0でも1でもない、計算不可能な命題が存在する。開けてはいけない扉が開かれたとき、そこに人工知能の限界が見えたのだ。不完全性定理によって、人間にできることと機械にできることの区別が冷酷に区切られた。

人間の脳は規則正しく機械仕掛けに動いているのではない。
20世紀の科学の成果である量子力学は、「物理現象は外界と完全独立の規則性をもつわけではない。観察者による観察という行為が、対象に影響を与え、ゆらぎをもたらす」ということを示した。きわめてファジーだ。人間の脳は、量子力学が明らかにした「ゆらぎの効果」を示して「計算」以上の「判断」をしている。脳がもたらす精神は、有限回の演算による予測可能な計算ではなく、対象によって様々な変化形をとる意思である。この現代科学の説明力を凌駕する機能こそ「心」であろう。この存在の特徴を解明するためには、現代科学はほんの緒端を発したに過ぎない。

認知能力の一分野である言語を解明しようとする者のなかには、言語機能のしくみを明らかにすれば、自動的に人間の精神構造が把握可能になり、人工的に再現可能になるという楽観視をしている者が少なくない。心に直結する精神構造において言語はほんの数パーセントの役割しか果たさない。しかも、人間の精神構造そのものが人工的に再現不可能であることがすでに示されている。言語を「心」とは独立した純粋な計算手続きと見なし、したがって人工的にプログラムが再現可能であると信じる者は、言語の計算機構と心のゆらぎを厳密に区分する覚悟が必要だ。

言語は知能に含まれるか。この問いは、不完全性定理によって心の再現が不可能であることが示されてはじめて成り立つ問いであることを、失念している言語学者が多いのではないか。

冬休み、時間をもてあます余り、最近の認知意味論の動向を読んで、ふとそんなことを思った。
ペンギン命

takutsubu

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