2004年01月03日

またかい。

【主張】首相の靖国参拝 続けることで再び定着を
(2004年1月3日 産経新聞社説)

産経はこういうことを堂々と言うから好きだ。
ここまでの強行論は珍しい。

二つ気に入らない。

ひとつは中韓の、意図ミエミエのワンパターン反応だ。首相が靖国参拝するたびに「チャーンス!!」とばかりに不愉快の意を表明してくる。どんなに外交問題でこじれることがあっても、いかに自分たちに非がある事件があっても、靖国参拝問題というカードを持っている限り、中韓はいつでも外交的に日本より優位に立てる。
日本は偉そうなことを言える立場ではない。しかし、中韓はそのカードに固執しすぎて現在の世界情勢を見誤ってないだろうか。日本には先の戦争で国のために死んだものが大勢いる。それを国として弔う気持ちを政府が表明するのは当然だろう。中韓政府は日本が本気で軍国国家に回帰するなどとは微塵も思っちゃいないはずだ。ただ、ひとえに「外交手段」としてのみ不快感を表明している点が気に食わない。過去に受けた負い目を、いつまでも利用しようとする姿勢は近視眼的で、大局を見誤る危険がある。そのうち自らにその刃が返ってくるのではあるまいか。

もうひとつは民主党の反応だ。この背景は明らかにアメリカに対する警戒だろう。ブッシュの今のアメリカは明らかにおかしい。外交手段がヒステリックだ。「お前は俺の味方か敵か」と迫るガキみたいだ。そのアメリカに対する手段として、日本はアジアでの連携を密に取っておかなければいけないという危機感があるのだろう。ある意味では正しい。しかし、やりすぎだろう。参拝問題とは別問題だ。産経の主張が当を得ていると思う。明らかに中韓に不要な媚を売っている。

管直人、薬害エイズ問題の時のあの「漢(おとこ)」はどこに行った…。

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文学の目指すもの

「文学」が分からない。

学部時代、単位埋めに文学の授業を取っていた。あまり興味ももてず、退屈交じりに聞いていた。
実は授業を取る際に、注意したことがひとつある。それは、
「レポートではなく、試験で成績をつける授業」
であること。

一般的な傾向とは逆だろう。日本の大学では、レポートだと「しめた!」とばかりにデキる奴のノートを借りまくり、要点らしきものをつなぎ合わせればなんとかそれらしくまとまるものだ。
逆に、試験は確固たる理解が試されるのでごまかしが効かないと思われ、敬遠されるらしい。

私に言わせればまったく逆だ。本質が分かっていなくても試験など通る。
試験は時間と紙面の都合があるため、その分野が真に問う本質が分かっていなくても、断片的な知識さえ暗記すれば点数が取れる。論述問題といっても高が知れている。私も、本質が分からないままがむしゃらに詰め込んで情報を丸暗記できる程度にはまだ頭がやわらか(現在形か?)
ところがレポートではそうはいかない。読む人が読めば、本質が見えていないことが露呈してしまう。時間もたっぷりかけられるため、できる奴ははるか遠くに行ってしまい、背中が見えない。

文学は、私にはその本質が見えない。目指すものがわからない。
はっきり言うと、文学の論文は感想文とどう違うのだろうか。
文学は何を目指し、文学を専攻する学究の徒は何を掴もうとしているのだろう。

少なくとも科学ではあるまい。「人文科学」などという謎の言葉があるが、きわめて一般的な意味での科学ではないと思う。科学であれば、どんな分野であれ、その目標は「真理の追究」に収束する。ところが、文学ではそもそも真理という概念が意味を成さない。仮にすべての条件を満たす「真の文学作品」という理想状態を仮定し、各々の作品をその理想との比較検討にかける、という作業が文学の方法論とする。そうすると、その「理想の、真の文学作品」というのは一体どこから出てくるのか。少なくとも、居眠りしながら聞いていた大学の文学の講義では、そういうものを目指しているようではなかった。そのくらいは理解できる

思うに、文学の目指すものは、「追求」ではなく「保存」なのではあるまいか。
文学は人間を描く。登場人物が一人も登場せず、自然界の描写だけに終始するものは文学とは言えない。最低でも、語り手の視点という人間的な要素が含まれる。人間が何を感じ、どのように行動するかは、当然ながら時代と地域の特殊性を背景として始めて意味を成す。

朝の満員電車の中で女子高生の携帯が鳴った。彼女は携帯を取り出し、大きな声で喋り始めた。『あ、おはようー。うん、今、電車の中ー。』 周りのサラリーマンたちは苦々しい顔で女子高生の方を見る。顔を見る。しっかりと見ようと皆、首を伸ばす。かわいい娘なら許す。

仮にこれを文学作品とする。さて、1000年後にこの文章を読んだ未来人は、この文学作品が描く状況を正確に把握できるだろうか。
「満員電車」とは何か。どうやら人がいっぱい乗った「電車」という乗り物らしい。そこには「女子高生」や「サラリーマン」という種類の人が乗るらしい。では、彼らは何のために毎朝「電車」に乗るのか。「女子高生」は「学校」に、「サラリーマン」は「会社」に行くらしい。彼らはそこで何をするのか…。
「携帯」とは何か。辞典には「手持ち携える」とあるが、どうやら音を出す物体を示しているらしい。しかもそれに向かって大声で喋る、ということは何かの機械なのか。周りの「サラリーマン」は、なぜそれを「苦々しく」見るのか。これは道徳的に責められる行為なのか…。

1000年後には、電車という交通媒体は跡形もなくなっているかもしれない。収入を得る方法は勤労ではなくなり、学習は在宅で可能となり、「通勤、通学」という形態がなくなっているかもしれない。コミュニケーションの道具ははるかな進歩を遂げ、携帯電話は滅んでいるかもしれない。
このように、社会環境が激変すれば、テキストに書いてある状況が読めなくなって当たり前だ。1000年後にこの文学作品を読む者は、1000年前たる現代に正しくタイムスリップできる背景知識が必要なのだ。

このような「物語を正しく読むに必要な社会背景知識」を保存することが、文学の仕事ではなかろうか。
その作品が書かれた地域と時代の背景を知らないと、主人公が何を感じ、何に苦悩したのかが理解できない。
満員電車で会社員と高校生が通うのは日本くらいのものだ。日本を知らない外国人は「満員電車」の状況を理解できないだろう。この時点で彼らはこの文学作品を読めない。現代の風習で重婚、浮気、幼児通姦が背徳的だからといって、「源氏物語」はけしからん、ということにはならない。当時の風習、感性が分からないものには源氏は読めない。同じものを見たときに、当時の人間と同じことを感じられるようになって、はじめて古典が読めるようになる。

逆に、文学作品を手がかりに、そこから当時の道徳観や感性が明らかになる場合もあろう。私の同期の卒論を読む限り、こちらが文学の初歩的なアプローチのように思える。
世の中の常識や社会構造、文化的背景は変化し得るものだが、そこにおかれた一個の人間が感じることというのは、どうやら古今東西、永続的で普遍的な性質があるものではなかろうか。しょせん人間である。正しい背景知識を持てば古典に登場する人物に共感を感じられるのは、人間の感性は今も昔もそう変化しないからであるように思える。愛するものを失えば慟哭し、新しい命が誕生すれば祝福する。成功するものがいたら妬み、全ての葛藤を乗り切り超越したところに誇りがある。そういった感情は、時代と世界を超えて人間に備わった性質ではあるまいか。

こう考えると、文学は「文楽」と表記するべきではなかろうか。音楽と同じく、「文を楽しむ」ための下地を整えることが、文学の第一義的な仕事ではあるまいか。そこには反証可能な言明も、証明可能な定理もない。「人間というものを理解する」のが人文科学の目的とすれば、そこにはおのずと歴史学との共通点も見えてくる。

私の見たところ、どうも文学を研究してる方々はあまり人間に興味がないようだ。
生身の人間よりも、作品に出てくる人間のほうに真の人間性を見出そうとする傾向があるような気がするのは、気のせいだろうか。

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正月、けっこう店やってる。

家主おじいちゃんのクルマが直ったので、一緒にランチに近くのステーキレストランに行く(Dativeが重なったな)。
当然、ぶ厚いステーキなどをいただく。狂牛病なにするものぞ。まったく怯む気配なし。俺には効かないのか?
おじいちゃんはこってりしたパスタに、ジョッキみたいなのに入ったコーラを2杯。
このおいちゃん、ほんとに87歳か?あんた間違いなくアメリカ人だ。こーゆー食事って、日本でいう「ごはんにみそしる」なのか?

雪が降った。朝起きたら銀世界。
道理で昨日の午後から寒かった。ちょっと寒いとすぐこれだ。雪を見ながら、四次元の存在を実感したりする。
幸い、メチャクチャ降り積もることもなく、午後には溶けてきた。雪かきの必要もないみたい。

大学の本屋でDanielle SteelのSunset in St. Tropez を購入。彼女の作品は日本で読んだことがない。どの作品も引き込まれるように面白いらしい。「魔術はささやく」でがっかりした経験があるので、まぁ話半分に期待。この作品を選んだのは、一番薄かったから。

雪が雨に変わったみたいだ。

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2004年01月02日

変化の捉え方

「微分」という概念が好きだ。

「線」という概念を定義できるだろうか?
数学的には、「線」は「点の集合」と定義される。
「直線」の定義は、「二点間の最短距離間にある点の集合」である。

そう。線とはもともと点の集まりなのだ。
離散的な点が無数に集まることによって、連続的な線が定義される。
点が線になるためには、点ひとつひとつの質ではなく、その結びつきが重要となる。
(4番バッターばかり8人そろえてもちっとも「打線」になってない某巨人を中傷してるわけではn(殴))

微分というのは、線のある一点だけを注目し、その点における変化率を導く操作だ。
つまり微分の操作では、もともと点の集合であった線が、再び点としての性質を取り戻すことになる。
微分でつまずく高校生諸君は、まず第一に「線とは何か」という基本的な定義をおろそかにしてはいないか。
そもそも微分という操作は何のために考え出されたものか。その心中を察することができれば微分の基本概念はもらったも同然だろう。

数学の世界が驚異なのは、関数さえ与えられれば、前後の情況なしに、一点のみで変化率が分かる点だ。
一般社会ではこうは行かない。
たとえば会社の営業成績、たとえば学生の模試成績。
ぐんぐん上っている上昇期かもしれないし、上下のピークにあたる極値点かもしれない。
しかし、ある時期を見て、その時点が上り調子にあるのか、下り調子にあるのかは、その点の前後を見なければ分からない。変化率なのだから当然だ。
しかし数学の世界では前後の状況など不要だ。関数と、任意の一点だけ与えられれば上昇中か下降中か極値か分かる。これは信じられない驚異だと思う。状況や文脈なしに変化率が分かるなど、「変化」の概念を打ち破って余りある。線という「変化」を、点という「固定値」のみで操ることこそ微分の醍醐味ではなかろうか。微分法を発見したとき、ニュートンは、この世を作り上げた神の意思を垣間見たのではあるまいか。

「ラプラスの悪魔」という概念がある。
もし人間が、一般変化率と、現状の様子すべてが手に入れれば、現在、過去、未来に至るまですべての状況が把握可能になる。ちょうど数学で、関数(一般変化率)と定義域(現状の様子)さえ手に入れれば、値域(すべての状況)が分かるのと同じだ。
実際には世の中の一般変化率を表す関数など作ることは不可能だし、現状の様子すべてをもれなく把握することも現実的に不可能なので、そういうことは起きない。しかし、もしその二つを手に入れることができる悪魔がいるとしたら、この世の中のことは時間、空間を問わずすべて予測されてしまうことになる。こういう概念は、時間を連続した概念と捉えるうちは理解できない。連続的な対象を、離散的な対象に引きおろす微分という概念があってはじめて成り立つ思考だろう。
こういう悪魔を想定したときに、人間は何かに憑りつかれているとしか思えない。
「未来を予測できるようになりたい」と願う人はいると思うが、「未来予測ができるためには何が必要なのか」を真剣に追求し切ってしまうところに数学の驚異がありはしないか。

日常生活で、自分の現状は上向きなのか、下向きなのか、はたまた最高点に達しているのか、どん底なのか、自問するときがある。
そんなときに、切実に「自分の人生を記す関数」が欲しい。
現時点さえ入力すれば、全人生の中での相対的な位置を示してくれる。
定義域は知りたくないが。いつ死ぬかわかると怖いから。

数学に、微分と、関数列の一様収束極限との計算順序の交換に関する、ある定理がある。
微分に関する定理であるのにも関わらず、その定理はずっと積分をつかって証明されていた。
高木貞治は、その定理を、微分だけを使って証明することに成功した。
論文の終わりに、高木先生はこう結んでいる。
「昔から言うでしょう、微分のことは微分でしろ、と」

最後に私が一番好きな小噺。

+++++

ある科学者が、長年の苦心の研究の末、この世界の全てを説明可能な一般公式を発見した。
激しい雨が降りしきる夜、彼は震える指で、神そのものを表す式を書き記した。
突如、雷鳴が轟き、あたりに響き渡る厳かな声が聞こえた。
「よくぞ、お前は私を見つけた。次はお前が隠れる番だ。よし、1000億まで数えるからな…」

+++++



高木先生、海外に発表されたときはどう訳されたんでしょうか。

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俺も昼にステーキ食ったけどね

The Offal Truth: People Enjoy Eating Calf Brains
(「仔牛の脳をおいしくいただく人々」)

LOS ANGELES (Reuters) - You can boil it in salted water, drain and chop it into neat little chunks, and then scramble it with a dozen eggs and three tablespoons of butter -- or you could coat it in cream, cheese and spices and fry to a crispy golden brown.

Mmmmmm, yummy, brains! With eggs or fried as fritters, they are just like grandma used to make but after the last few days, you may not want to eat them ever again.

The discovery of mad cow disease in a dairy cow in Washington state has led to renewed warnings that people should eschew cow's brains, as that is the organ most affected by the disease and among the most likely parts to spread the ailment to humans.

Yet for some, according to one historian of American food, the brain of the calf is something still to be enjoyed.

++++++++


どうやら死んでもいいらしい。

アメリカから牛肉を輸入している日本では、「一切の輸入を見合わせる」だの、「在庫を全部廃棄する」だのと徹底した対策をとってるようだけど、原因になったアメリカの現状はこんなもんよ。

結局、アメリカの消費は「自己責任で(at your own risk)」というのが当たり前だから、買うのは消費者がリスクを承知の上で、という発想なんだろうな。
今日、スーパーに行ってきたけど、牛肉はふつうに売ってた。
日本の場合は、みんな行政と業者の責任のせいにするからな。行政も必死だ。
日本のほうが住みやすいね。命の危険が少ない。

それにしても牛丼を出さない吉野屋というのは「ガスの切れたライター」「雪で止まった新幹線」じゃないのか?
カレーなんか出して、すき屋に勝てんのか?

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at 09:56|PermalinkComments(0)News 

Edward Hopper "Nighthawks"

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エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」です。

こういう、写実系が好きです。形状が明確で、直線を基本とした構造が好きです。大きく捕らえると大きな平行線が遠近法で描かれてるように見えますが、その遠近感に不自然さがありません。相当に計算して描いたんでしょう。

音楽も、絵画も、思想も、クリアなものが好きです。基本構造が容易に把握でき、枝葉をそれと理解した上で安心して鑑賞できるものが好みです。
ガラスの透明感もクリア感があっていいですね。一般的に、ホッパーは余計な描写をしないでシンプルに仕上げるので好きです。

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at 02:24|PermalinkComments(0)Art 

年が明けた。

元旦だ。
停電した。

朝、マフィンを焼いていたら、いきなりトースターが止まった。なんじゃぁこりゃと思ったら、家中の電気が消えている。
近所に電話してみると、どこもそうらしいので、地域一帯の停電らしい。
電気会社に問い合わせると、のんびりした声で「2時間くらいしたら復旧しますので」だと。
この国にしては、正月からなんとかしようというだけまだマシか。
2時間寝坊すればよかった ZZZ

それにしても電気がないのは困った。
朝ごはんが食べられない。コーヒーも飲めない。
お湯も使えない。
洗顔しておいてよかったー。セーフ。
オール電化のアメリカ社会の盲点露呈。
しかも元旦。どの店もやってない。
ハラへったよー。

友達にメールの返事もできない。バッテリーあんまり残ってないしなぁ。
というわけで今、研究室。何が悲しゅうて元旦から研究室に来にゃならんのだ怒

今日のまとめ:
「電気を大切にね」

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2004年01月01日

サルトル雑感

人間とその他のものを分ける決定的な違いは何か。
いろんな人に訊く。そのひとの考え方の切り口が見えて面白い。
結構、気に入っている質問である。

サルトルの答えが気に入っている。
「人間は定義よりも実存が先立つ」。
最初、何を言っているのか分からなかった。今でもちゃんと分かっているのか怪しい。
以降、自分なりの解釈で…。

たとえばハサミ、たとえばペン。
ハサミは「ものを切る」、ペンは「字を書く」、そういう目的があってはじめてつくられたものである。
こういう「存在理由」にあたるものを、哲学では「定義」と呼ぶ。「本質」と訳されている場合もある。

人間はどうか。人間に定義はあるのだろうか。
これは、「人間は何故生まれてくるのか」という問いに等しい。
サルトルはここで「人間に定義はない」と喝破する。「人間は、定義よりも先に存在がある。人間が何のために存在するか、それはすでに存在した後で個々人が決めることだ」。
これが「人間は定義よりも実存が先立つ」という言葉の意味だろう。

なんのために己が存在するのか。
それを自分で決められる。
考えてみたら、これこそ人間しか持ち得ないプロパティではなかろうか。
教育現場でもよく引き合いに出される概念だ。「自分は何者か」を発見する手助けをするのが教育の真の役割だ、という見解には一理ある。

詳細は「実存主義とは何か」(Jean-Paul Sartre, 伊吹 武彦訳)に詳しい。
実存主義の大要がよくわからなかったが、この本でだいぶ分かったような気がする。
専門書でありながら、入門書になり得る哲学書というのは珍しい。
ちなみに、原著のほうがわかりやすい。私のつたないフランス語力をもってしても、非常にわかりやすかった。

サルトルは個人的に好きではない。
自分の思想と実生活が一致してないところなど、「口ばっかりじゃねぇか」という思いがある。
しかし、考えてみたら、思想と実生活が完全に一致しているなどというのは、自らの思想の奴隷になってはいまいか。真に自由な人間は、自らの主義主張からも自由になれるのではないか。世間の目も気にならない。
サルトルがノーベル文学賞を辞退した理由は「自由の尊重」だそうだ。ノーベル文学賞を受賞すると、周囲はそういう目で著作を見る。真に自由な視点で著作を評価されることがなくなる。
「―人は自由であるように宣告されている」( l'homme est condamné à être libre)と言い放った哲学者にふさわしい価値観だ。「自由の鎖」という概念は、とっつきとしてカッコよく響くため、昭和中期の学生運動に大きな影響を及ぼした。彼らは本当にサルトルをちゃんと読み、考えていたのだろうか。
現代の大学生は、その大半がサルトルなど読んではいまい。しかし、まったく読まないのは、半端に読んでのぼせあがるよりもましではないか。

サルトルは思想の内容以前に、キャッチコピーで若者を惹きつける術を心得ていた。批判力のない若者が踊らされていたのは、日本現代史の恥部だろう。
全共闘世代はいまや中年だ。「最近の若者は流行に踊らされる」という批判は聞き飽きるほどよく聞く。
しかし、「最近の若者」にとって、全共闘世代の流行に対する踊りっぷりにこそ呆れて声も出ない。
思想の上っ面に溺れ、死者を出し、真摯に学ぶ姿勢のある学生の勉強の機会を奪っておいて、何のための思想か。

結局、批判力はすべての思考活動の根幹を成すんだろう。

2004年にふさわしく、「猿トル」の話題から。
おそまつさま。

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2003年最後の日

アメリカはあと半日2003年。
いわゆる大晦日。

テレビ事情は日本とだいたい同じなんだろうか。深夜に古い映画ばかりやってる。
年が明けたら録画収録かスポーツばかりっぽいのも日本と似てる。

今年最後のPaycheckが入った。
Deduction(諸経費の自動差し引き)がもう終わってるから、最後のcheckはちょっといつもより多かった。ラッキー。
ちょっとうまいもんでも食べに行くかな。

日本の友達からはやくも年始メールが届く。
喪中なんだけど、メールで挨拶ってのはいいのかな。「明けました」とだけ打って、「おめでとうございます」とは書かなきゃいいか。
そういう問題じゃないのかな。

一年を偲んで散歩にでも行くか。
いい天気になってきたし。

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2003年12月31日

なにやってんだこのガキャ

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アメリカはご存知の通り、喫煙に厳しい。
日本で吸ってても、アメリカに来るとなかなか吸えないという人は多い。公共の建物ではほとんど吸えないと言っていい。

あるホームページで、タバコを一服してる子供の写真をみつけた。
ずいぶんうまそうに吸ってるな。
おい。

ちなみにこの写真はホワイトハウスのホームページ
なにやってんだか。

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はーあやれやれ

いつまでも遊んでるわけにもいかんので勉強などしてみる。

提出間際にサボってあんまり本気だせなかったSyntaxのペーパーを考え直す。最初は二重目的語構文をやろうと思ったんだけど、Beck&Johnson (LI to apeear)のペーパーは実は「accomplishnent verbはイベントの特性に応じて語彙分解できる」というところが真価のような気がする。
というわけで日本語のaccomplishment verbを整理しようと思ってるんだけど、面倒なんだこれがまた…。

勉強に飽きたらコトバでも勉強してみる。
最近、興味のある言語が多くて困る。語学好きなわりにはそのどれも極めてないとゆーハンパな語学力。特に英語悲しい

MITにいるTさんが送ってくれた論文を読む。よくこんなアイデア思いついたな、としばし感心。いいなぁー。これ思いついたときは「俺の勝ちだ」と思ったんだろうなー。

気がついたら大晦日なんだね。
早いもんだ。
勉強なんかしてていいのかな。

来年もいい年になるといいね。

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2003年12月30日

死滅したはずが。

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EurotalkのCD-ROM語学学習教材で、「ラテン語」なるものをやってみた。
ラテン語の単語を知ると、なんとなく現在の英語、ドイツ語、フランス語の語源がわかるような気がして面白い。

ただ、ちょっと気になることが。

辞典で「ラテン語」と調べてみると、「古代ローマで使われた言語。現在は死滅し、国語としては存在しない」とある。中世にはすでにラテン語で説教ができることが聖職者のステイタスだったくらいだから、歴史の相当早い時期に死滅したに相違ない。

CD-ROMに出てくる単語のうち、

「ビール」(cervisia)
「ワイン」(vinum)

などといった単語はよい。古代ローマにもビールやワインくらいあっただろう。
しかし、

タクシー」(carrus conductus)
クレジットカード」(charta credita)
飛行機」(velamobile)

といった単語があるのはどういうことだ。
古代ローマ時代に「飛行機のチケットをクレジットカード決済」なんてことがあったのか。

文章の練習のところになるともうめちゃくちゃである。

「電話を使っていいですか?」
(Mihi tua longivoce uti permitteas?)
「救急車を呼んでください」
(Carrum medicum fere.)

ちょっと待て。出典は何だ。
ラテン語で書かれたどの本を調べればそんな文が載ってるんだ。

だいたい、教材のパッケージからして、古代の格好をした男が携帯電話で話をしている。
お前はいつの時代のどこの奴だ。

おそるべしラテン語。
この類推で行くと、Eurotalkの教材のうち、他の死滅した言語にも「インターネット」「メール送信」なんていった言葉が載っていそうだ。

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イスラム圏の新年儀式禁止

Morality Police to Ban New Year Trinkets
Mon December 29

RIYADH (Reuters) - Morality police in southern Saudi Arabia plan to conduct raids to ensure that shops do not sell flowers, candles and gifts to those planning to celebrate New Year, a local newspaper reported on Monday.
The Arabic-language al-Watan said the Authority for the Promotion of Virtue and Prevention of Vice (APVPV) in Aseer province was determined to uphold a ban by the conservative Muslim kingdom on non-Muslim celebrations.

"Patrols will be dispatched to gift and flower shops in the next two days before the New Year to ensure that ornaments are not sold for New Year celebrations," al-Watan quoted the local APVPV head as saying.

++++++++


なんじゃ、the Authority for the Promotion of Virtue and Prevention of Vice (「美徳推進ならびに悪徳追放事業機関」)ってのは。
イスラム圏には凄い機関があるんだな。現代の特高か。「道徳的に好ましくないから逮捕する」なんてことをやってるんだろうか。

ずっと、イスラム圏の人はクリスマスを祝うのかどうか疑問だった。
だめだったのねー。そりゃそうか。
特に昨今の緊迫した現状ではもっての外だろうな。

クリスマスは分かるが…新年も祝っちゃいけないっていうのはどういうことだろう?
西暦はキリスト教の概念だけど、1月1日ってのは別にキリスト教と関係ないだろうし…。
考えてみたら、なんで1月1日にあたる日を一年の基点にしたんだろう。
自然的に、1月1日ってなんの日なんだ?

一年のちょうど真ん中の日(183日め)を計算してみた。
7月2日らしい。

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Quirky Case

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アイスランド語が非常に気になる。

格の振る舞いが狂ってる。普通、時制文の主語は主格(nominative、日本語の「…は」)、直接目的語は対格(accusative、日本語の「…を」)という格になるのが普通だが、アイスランド語は主語だろうが目的語だろうが斜格(dative、日本語の「…に」)が出てこれる。当然、従来のCase theoryに基づく格付与のシステムでは説明できない。
なんじゃこりゃ。
まさしく人間言語の例外だ。

今まで格付与に関する分析は正面攻撃せず、横目で眺めるだけだったが、気になるものは気になる。
Marantzの1991、ESCOLの論文で仰天して以来、どうもnominativeなんかにはdefault caseという考えは妥当な気がする。
格付与の方法をすべてgovernmentで説明し切った生成文法のやり方は、一見、統一感があって美しいが、冷静に考えてみたらすべての格が統一の方法で付与される必要はどこにもないんだよね。Marantzみたいに格付与に序列があって、「残ったものがnominative」みたいなものもアリかなぁ。

理論的分析だけでなく、アイスランド語そのものに興味がでたので、ちょっと遊んでみることにした。
音声教材をインターネットで注文してみる。
Eurotalkという会社が、現存、死滅を問わず、世界中の言語の音声教材のCD-ROMを作ってるらしい。
アイスランド語なんて外国語学習のなかではマニアックな方だと思うが、なんのなんの、ラテン語、アフリカーンス語、マオリ語、ナバホ語、ほかにも「こりゃどこの言葉じゃ」という言語教材がいっぱいある。
いい仕事するじゃねぇか、Eurotalk。

話のネタに、どこの言葉かもわからん言語をひとつくらい覚えてみようかな。

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「奥の手」の効用

学部生のときに勉強していて、「誰々の研究」と、名前だけしか知らない論文が結構あった。
名前は知っているが、読んだことはない。そういうエラそうな学者さまの研究は、学部生にはとてつもなく高尚ですばらしいものに思えたものだ。

長く勉強しているうちに、名前を知ってるだけでは済まなくなり、実際にそういう論文を読むハメになってきた。
ところがどうだろう。実際に細かく論文を読んでみると、「なーんだ」という程度のアイデアであることが結構あるではないか。中にはつまらないと感じるものすらある。
「勉強」と違い、「研究」は、今までに誰も言っていないことを自ら言う必要がある。先行研究を積み上げてきたエラい研究者さま方にビビっていては、問題点の指摘も反論もへったくれもない。

相手の手の内が見えると、なんとなく相手になりそうな気がするものだ。
逆に相手が何者かが分からないと、不気味な感じがする。
孫子によると「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」だそうだが、これは実質的な可能性を言ってるものではなく、多分に精神的な効用が含まれてないだろうか。
一晩、楽しく飲むことを目的とする合コンでも、気に入った相手の経歴、学歴、家族構成などを聞きたくなるのも同じ理由なんだろう。これらは本来、知る必要のない情報だが、知ると知らないのとでは親近感がまったく違うのだろう。

世阿弥は『風姿花伝』の中で、「秘すれば花なり、秘さずば花なるべからずとなり」と言っている。奥義とは、隠すこと自体に価値があるのであり、人に知られてはならない。
昔、武道の世界では、一門の奥義は門外不出の最高機密だったのではあるまいか。大事なのは、そういう奥義が「存在する」ということは人に知られる必要がある、ということだ。他流試合のとき、相手が「正体はまったく分からんが、相手には一撃必殺の奥義があるらしい」という状態で臨んでくれれば勝ったも同然だ。相手が分からない、というのは、かように不安のもとになるものだ。

「秘することの重要性」という大事なことを、全く秘していない世阿弥はずいぶんユーモアのある奴だ。
600年後の現在に至るまで広く知られて、何が「秘すれば花」か

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at 04:45|PermalinkComments(0)Philosophy