たくろふのつぶやき

お出かけの時には保冷剤を持つのだ

高校物理教諭が定理覆す発見

私立岩手高(盛岡市)の佐々木修一教諭(46)らが24日、永久磁石を使った磁性体の浮上実験に世界で初めて成功したと発表した。成果は米専門誌「ジャーナル・オブ・アプライドフィジックス」(来年2月号)に掲載される。世界的に権威のある同誌に高校教諭が筆頭執筆者として論文を載せるのは、日本人としては初めてという。
 
佐々木教諭は約20個の鉄球(パチンコ玉)と、縦横約10センチ、幅が鉄球の直径ほどのプラスチック箱を用意。箱に鉄球を入れ、上から永久磁石を近づけると鉄球5、6個が1列に並び、その下でほかの鉄球が中空に浮くことを見つけた。

 佐々木教諭は「パチンコ玉を大量に持ってきた生徒がいて、磁石でつるしてみたところ、宙に浮く現象が見られ驚いた。さらに研究を進め現象を解析したい」と話している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031225-00000001-khk-toh

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すごいねぇ。
僕も知り合いに高校教諭がいるけど、口癖は「忙しい」だなぁ。中には忙しかろうがなんだろうが自分で研究してる先生ってのはいるもんだね。確かに学会では、ひとりか二人は高校の先生が発表してるな。

ちょっと気になるが、「パチンコ玉を大量に持ってきた生徒」って、いったいどこから持ってきたんだ

色々、色について

科学の授業で、「空はなぜ青いか」という問題を出した。
一番多かった答えは、「海の色を写しているから」。なかなかロマンがあってよい。女の子がこう答えた場合は特に好ましい。ぜひとも実地研修のために海に連れて行ってやりたい。
「宇宙が透けて見えるから」というのもあった。宇宙が透けるとなぜ青くなるのかわからないが、ちょうどこの問いを出したのが夏だったので、女の子の服でも眺めてたのではないかと思われる。
ひとつ秀逸だったのは、「俺が青く塗ったから」。迷うことなくこれを最優秀答案としたのは言うまでもない。

ただ、残念ながら科学の授業では、上の答案はすべてマルというわけにはいかない。
正解は、「青以外の波長はすべて大気に吸収されてしまうから」。
この問いと正解を正しく理解するためには、実は「色とは何か」という、より根源的な知識を必要とする。

赤いバラがあるとする。なぜそのバラは赤く見えるか。
「肥料をよくやって育てているから」という答えではなく、赤が赤と見える理由を問う。
赤いバラは、正確に言うとバラそのものが赤いのではなく、光を受けると赤以外のすべての波長をすべて吸収し、赤い波長だけを跳ね返している。光は、昔から単一で純粋なものと考えられていた。しかしニュートンはプリズムを使って白色光を七色に分散してみせ、スペクトル解析の端緒を開き、光に関する物理的考察を飛躍的に進歩させた。ちなみにこの発見はニュートンの「奇跡の23歳」の年に行わている。この年、ペストの流行のためケンブリッジを離れ実家でのんびり研究をしていたニュートンは、スペクトル解析、微分積分法、万有引力という3大発見を成し遂げる。すべて、従来の科学を飛躍的に進展させる契機となる画期的発見であった。不愉快な奴だ。

ニュートンが示したとおり、光の波長は雑多な色彩の束なので、そのいくつかが吸収されると残った波長が我々の眼に届く。空が青く見えるのは、青以外の波長は大気中で乱反射し、拡散してしまので、青い波長だけが我々の眼に届くからだ。

「赤いセロファンは何色か」という問いもある。大多数の生徒は問いの意味すら分からない。
赤いセロファンは、セロファン自身が赤いのではない。「赤以外の波長をすべて吸収し、赤い波長だけを通過させるセロファン」である。よって赤いセロファンを通してみると、すべてが赤く見える。この問いも、「色とは何か」という根源的な問いに答えて初めて回答可能な問いである。

素朴な疑問は、疑問が素朴であればあるほど、その前提条件を構成する問いにすべて答えて初めて回答可能となる。
子供はそういったステップを行儀よく踏まえて論理を構築するのが苦手なので、「ぶっちゃけた単純回答」を欲しがる傾向にある。科学の授業とは、単純な問いの裏に隠されている、必要な論理的考察のステップを自ら構築し、それを正しく踏む重要性を認識させることが最重要であろう。釘も打てない、材木も切れない者は、犬小屋ひとつ作れないのと同じことだ。答えだけを性急に欲しがる者は、考察の各ステップを軽視するため自分で思考を再構築できず、知識が定着しない。

現在の初等教育では、科学的思考法をどのように教えているのか興味深い。私は高校時代に、数学の行列の問題で、答案に「ケーリー・ハミルトンの定理により」という言葉を絶対に書くな、と教わった。定理というのは証明可能な言明なので、証明なしに使うことは許されない。答案に書く際には、そのステップを飛ばすことなくきっちり言及することが求められる。

「空はなぜ青いか」という問題は、こういった「問いに答えるために必要なことを自分で見抜く必要性」の具体例として出題した。
なぜかその日は曇りだった雲

モーニング娘。「Memory―青春の光―」考

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ambiguousは「あいまいな」と辞書に載ってるが、正確には「多義的な」という意味である。ひとつの表現に複数の意味があることを言う。「あいまいな」というのは「ぼやけていてよくわからない」という意味なので、英語ではvagueと言う。

モーニング娘。の初期の作品に、「Memory―青春の光―」というのがある。この歌詞の中で、非常にambiguousな歌詞がある。
「私のように愛さないで」という一節である。

Memory/去って行くけど/新しい彼女の事/私の様に愛さないで/Good Bye…

可能な解釈は
(1)「私があなたを愛したようには、あなたはあの人を愛さないでちょうだい」
  要するに、「私のマネをするな」
(2)「あなたが私を愛したようには、あなたはあの人を愛さないでちょうだい」
  要するに、「今までとパターンを変えろ」
(3)「私が新しい彼女のことを愛するようには、あなたはあの人を愛さないでちょうだい」
  要するに、「新しい彼女は実はわたしのものだったのよ」
(4) 「新しい彼女を私だと思って愛するのはやめてちょうだい」
  要するに、「勝手に死んだことにするな」

このような様々な解釈ができる原因は、「愛さないで」という動詞句の主語が、「わたし」なのか「あなた」なのかが不明確なことだ。

ちょっと言語学的に考えると、
日本語は、ヨーロッパの言語とは違い、格は名詞句が変化するのではなく、助詞をくっつけて表す。
たとえば英語では、誰でも中学校のときに唱えた呪文、I(主格)-my(所有格)-me(対格)-mine(独立所有格)というように、名詞句そのものが変化する。ラテン語や、その名残をとどめるロシア語などは、固有名詞であろうとも格変化を起こす。ところが同じことを日本語でやると、「わたしは」-「わたしの」-「わたしに」-「わたしのもの」というように、名詞「わたし」は変化しないまま、助詞「は、の、に」などをくっつけることによって格を表す。このことを言語学では、「日本語は名詞句に形態的変化による格表示が具現しない」などと言う。

しかも面倒なことに、日本語の喋り言葉では、よくこの助詞が欠落する。しかし各言語には基本語順というものがあって、それで何を言ってるのかが分かる。「俺、おまえ、好き」といったら、それは「俺はおまえが好きだ」という意味であって、「おまえは俺が好きだ」という意味ではない。これは日本語の基本語順が「主語、目的語、動詞」となっているからである。

件の表現「私のように愛さないで」の「私(のように)」は、基底構造では
・動詞句「(あなたを)愛する」の主語(解釈1)
・動詞句「(新しい彼女を)愛する」の主語(解釈3)
・動詞句「(あなたが)愛する」の目的語(解釈2)
・目的語「新しい彼女」にかかる形容詞(解釈4)
の4通りの可能性がある。
日本語は格についての制限が緩いから、動詞の主語に何を入れるのかによって可能な解釈は分かれる。日本語の特徴によって、たとえば解釈3が可能になるとすれば、この曲は「女の子が、彼との別れを悲しむ曲」ではなく、「女の子が、彼女を奪われたことを悲しむ曲」ということになってしまう。

私が高校の時、体育教官が生徒を整列させるとき、よく「日本語が分からん奴がいるな」と言っていた。そのとおり、私はまったく分からない。日本語は主語と目的語を明確にすることなくコミュニケーションがある程度可能になってしまうという、なんとも変な言語と言える。

ナポレオンは「余の辞書に不可能の文字はない」とは言っていない。正確には「明確でないものはフランス語ではない」と言ったとされている。人の口から口に伝わるたびに、英雄伝にふさわしいように言葉が脚色され、原形をとどめない表現に作り変えられてしまった。蓋し、フランス語などは格の関係が明確に表示され、主語の省略などという現象も原則的には生じない。ナポレオンが胸を張って「明確」とする所以である。フランス語では「私のように愛さないで」のような類の混乱は生じないのだろう。

それにしても、この歌詞の「愛する」という動詞は、具体的にどのような行為を指しているんだろう。
低年齢化が進む最近のモーニング娘。にあって、12、3歳がこの歌を歌っても、どうもピンとこない。

雨ってのはどういうことだ

まだアメリカではクリスマスイブ。時差ばんざい。
しかし気温52度ってのはどういうことだ。
摂氏にすると12-5度くらいか。

おかげで雨なんか降ってるし。雨
いつも通りの寒さだったら雪になってホワイトクリスマスになるところなのに、こう雨に降られるとうざくてかなわん。
となりの席でもSerkanがぶつぶつ文句言ってる。

今日から家主のおじいちゃんの甥夫婦とその息子が遊びに来るらしい。このところおじいちゃんが張り切って2階のベッドルームを掃除してる。なんか楽しそう。なんとなくクリスマスらしいすごし方にはなりそうな気配。

やばい。明日クリスマスってことは店が全部閉まるじゃないか。買い物に行っておかないと。

右折信号

ペンギンアメリカで車を運転していて戸惑うことは、赤信号でも右折してよいこと。とうぜん、アメリカでは右側通行なので、日本に置き換えると、赤信号でも左折してよいということに等しくなる。赤信号のときに右折のレーンで止まってると、後ろからプップッと催促される。

ところが左折の時はそうではなく、普通の信号の横に「左折信号」なるものがついている。ちょうど日本で右折信号があるのと同じ。正面通行の信号が赤のときでも、左矢印の信号が点ってたら、左折に関しては通行が許されることになる。

論理的には、同じ効果を出す方法は二種類ある。
ひとつは現行の方法。メインの正面通行が赤信号のときに「左折だけはしてもよし」とする方法。
もうひとつは逆の方法で、基本的には青信号なんだけれども、「正面通行だけはダメ」と表示する方法。
どちらの方法でも、「正面通行はダメ、左折だけはOK」と同じことを言ってることになる。

ところが、世界共通で前者を採用している。当たり前といや当たり前なんだけど、これを形式的な思考方法で原因を説明するとどういうことになるだろう。
まず、交通の流れにとっては「正面通行がunmarked、左折がmarked」ということになる。数量的にはunmarkedの方が多数派なので、大多数の方に適用されるものを基本として表示していることになる。
一般化すると、「数が多いほうを中心に扱え」という行動原則がある、と言える。

ところが、この原則は社会で一般的でありながら、思考法においては一般的ではない。
ある雑多な現象を一般化する規則を考えるときに、まず簡単なのは、極端な少数の例外的な事例を先に考えることだ。

2次方程式を解くとき、われわれ人間はまず因数分解を考える。二次変数、一次変数の係数と定項がそれぞれ因数分解できない組み合わせのとき、仕方なく解の公式を使う。ところが、潜在的に存在可能なすべての二次方程式の中で、因数分解できるものはほんのごく少数に過ぎない。つまり我々は二次方程式を解くときに、まず「特殊な事例と仮定して」扱っていることになる。人間の行動原理として「量が多いほうを中心に扱え」というものがあるならば、いきなり解の公式を使うほうが理に適っている。事実、コンピューターが多次方程式を処理するときには、すべての可能な整数解の組み合わせを高速で代入し、あてはまる解だけを抽出する、という力技に頼っている。Sieve(篩)といわれる方法である。

PhonologyやMorphologyで変形規則適用順序を考えるときにも、特殊な事例を先に適用させる。英語の複数形をつくる操作を考えてみよう。話を単純にするために、
-sをつける、-esをつける、-iesをつける、-enをつける、-renをつける
という5つの規則を仮定しよう。この5つの規則は、どういう順で適用されるか。もちろん、「特殊で例外的な事例に適用される規則が先に適用される」ことになる。-enはoxにしか適用されないし、-renはchildにしか適用されない。この二つはかなり上位の順位で適用される。
しかるのち、
「子音+y」で終わる語幹には-ies、
sで終わる語幹には-es、
それ以外にはすべて-s、
という順にルールは適用される。
このなかで、もっとも多数のデータを扱えるのは、最後に適用される-sの規則である。規則の適用順では、「大多数のものは後回し」になっている。

アインシュタインが相対性理論を考える契機となったのは、「光速で移動できたら、光はどのように見えるだろう」という素朴な疑問だった。それまでの万能薬だったニュートン物理学は、光速を超えるとその説明力を失い、扱えない反例が多数生じる。アインシュタインは「物理現象とは独立普遍のものではなく、他者(主に観察者)の状態に左右される相対的なものだ」ということを、森羅万象、すべての物理現象に対して形式化しようと試みた。まず彼がとりかかったのは、観察者が特殊な状況におかれた場合―つまり運動量ゼロ―として相対性を形式化することだった。人が歩きながら光を見ても、光の速度は変わらない。人の歩く速度は秒速1m,光は秒速30万Km,相対化すると人の歩くスピードはゼロに等しい。いわゆる特殊相対性理論である。その特殊な場合での形式化に成功したことで、彼はゼロだったパラメーターを動かし、さまざまな変数の元でも統一的に扱えることを示そうとした。いわゆる一般相対性理論である。この場合でも、特殊で例外的な事象が先に処理されている。蓋し、人間の思考法では「まずmarkedなものを処理し、つぎにunmarkedなものを処理する」という傾向がありそうだ。

信号機をはじめ、一般社会の約束の適用順を考えると、どうも「最大多数の最大幸福」という原則があるような気がしてならない。税金や社会保険政策を鑑みるとそうも言えない側面もあるが、基本的には左折信号のように「多数のものをまず処理する」というのが一般的だろう。人間の論理思考法と社会の一般規則の適用で、順序に違いが出てるのはなぜなんだろう。

信号機の場合、事故の防止がその第一義だから、まぁわからんでもない。人間は「やってよし。ただし、こいつらだけはダメ」よりも、「やっちゃダメ。ただし、こいつらだけはよし。」の方が、好ましくない結果を生みにくい。高校などの校則でも、とりあえず禁止する。信号でも、左折信号に気づかずにボケっと止まっていても事故にはならないが、もし「青信号、ただし正面通行だけはダメ」という表示を採用し、直進車がその信号を見誤ったら大事故に繋がる。扱っている対象が自然現象、物理現象ではなく人間の時には、まず大多数のほうを先に処理しなければならない、ということなんだろうか。

Frente!

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Frente!というオーストラリアのユニットです。
僕が一番好きな曲はBizarre Love Triangle.
Marvin The Album (Mammoth, 1994)の14曲目です。

僕は曲を好きになるというよりも、声を好きになることが多いようです。
好きな声がいい曲とシンクロすると、そのアーチストに興味が出るんですね。
Frente!のvocalの女の子も、飾りのないストレートな声をしてます。
細めの声で、せつせつと囁くように歌います。
この曲は伴奏がギターだけ。余計な装飾音がなくて染み入るような曲です。

服と同じように、音楽にもTPOが在ると思います。
その考えでいくと、Frente!は「夜の歌」だと思います。決してお日様のもと、野外で、友達と聞く歌ではありません。夜、一日の全てが終わったあとで、仄かな明かりのもとでゆっくりと聴く曲です。「癒し系」という概念は好きではないんですが、一般的にはそれに属する音楽でしょう。

僕ははしゃぎがちな傾向にあるにもかかわらず、趣味は夜方面が多いです。音楽、絵画、物語、思想、だいたいにおいて陽より陰が好きです。
プロデューサーのつんくは面白いことを言っています。人は、景気のいいときには涙を求め、景気の悪いときには陽気さをもとめるのだそうです。だから彼の作る曲は、バブル時代のシャ乱Qは涙物が多く、不況期のモー娘。は唖然とするほどノリノリです。
そのアナロジーに従って、僕は人生の波において、おおむね好調なのかな、と思うことにしています。

Romane Bohringer

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大好きな女優というのはいませんが、気になる女優ならいます。
Romane Bohringer (ロマーヌ・ボーランジェ)。
まぁ、皆さん知らないでしょう。

Mina Tannenbaum (「ミナ」1994)
Total eclipse (「太陽と月に背いて」1995)
などが代表作とされています。
特に後者ではLeonardo DiCaprioと共演しているので有名になりました。

ところが,僕が気になる作品はこういう代表的な作品ではないんです。

L'accompagnatrice (「伴奏者」1992)

という作品。
第二次世界大戦のパリを舞台に,ある声楽家の伴奏者として雇われた少女が,人生のさまざまな陰影を知り成長していく,という内容です.伴奏者という決して表舞台に立つことのない立場から、登場人物の人間模様をみつめる視線が基本的なスタンスになっています。

はっきりいってB級映画です.興行収入を上げられる作品でも,後世に残る作品でも,賞を受賞する作品でもありません.ストーリーは平凡で,あっと驚く展開も,手に汗握る展開もありません.

僕がこの映画が気になる理由はただひとつ,「作品の持つ雰囲気」です.作品を通して,常に闇の中の仄かな灯を頼りにストーリーが進みます.霧に包まれたパリの街を舞台に,ナチスがパリに落とした暗い影が作品全体を覆っています.

ふつう,「好きな映画」というのは,度肝を抜くアクションや込み入ったストーリーにその魅力があると思います.僕も今までそうでした.
僕の好きな映画の要素は,「撃ち合い,殴り合い,爆発」です.しかし,この映画ははじめてアクションでもストーリーでもない,雰囲気にのまれた映画でした.この映画の主人公のRomaneも,決して華のある女優ではありませんが,彼女以外にこの役をやれる女優がそう何人もいるとは考えられません.
ハリウッドでは,どうがんばってもこの手の作品は作れないでしょう.わかりやすいアクションやストーリーを売り物にし,興奮系か感動系のどちらかに分類できるハリウッドとは,あまりに作風が違いすぎます.フランス映画はたまにこういう作品を作るから無視できないんですね.

この映画は街のレンタルビデオ屋さんに行っても貸し出してません.日本では発売すらされてません.僕はテレビの深夜映画で見ました.なんとなく見てたんですが,引き込まれて,最後まで見てしまいました.ゴールデンアワーに流す映画ではないと思います.深夜枠に,人知れずひっそりと流れるにふさわしい映画だと思います.

この作品を彩る印象の原因をもうひとつ。Romaneの陰のあるフランス語ですね.英語は張り上げる言葉で,フランス語はささやく言葉と聞いたことがありますが,この作品に関する限り言いえて妙です.Romaneのしっとりとしたフランス語を聞くだけでもいい作品です.

この作品のビデオは,アメリカに来てから通販で買いました.
もう品切れだそうです.

しまったクリスマスだ。

油断してた。
なにもしてない。

師走といっても走り回ってるのは学生らしく、後輩が留学のためのapplyをしているらしい。こっちの様子がわかるように日記をたまに更新してやっかな。
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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