たくろふのつぶやき

食欲の秋の季節がやってまいりました!o(^▽^)o

はらくるしい

昼ごろのこのこ起きだして、お昼を食べにカレー屋さんに行った。お昼はビッフェ方式の食い放題
いつものように、調子に乗って食いすぎた
なにやっとるんだ俺は。

はらくるしいので大学の本屋にピットイン。店番やってた女の子とちょっとおしゃべり。

Simon Winchesterの新作、The Meaning of Everything を発見。彼は、何年か前にThe Professor and the Madman (「博士と狂人―世界最高の英語辞書OED秘話―」)という本を書いてベストセラーになった作家。今回もタイトル通り、OEDの物語。
そもそも百科事典、年鑑などの参考図書が大好き。世界中の叡智をわが手に入れた気分になる。OEDも辞典としてはえらく使いにくいシロモノだけど、なんいってもその規模と根性が頼もしい。

結局、即買い。いいのかオレ。
何週間かしてペーパーバックで出たらブチ切れるぞ。

裸の王様

アンデルセンの「裸の王様」。有名な寓話なので読んだことがある方が多いだろう。

インチキ洋服屋が、王様に洋服を献上するフリをして、「この洋服は愚か者には見えないのです」などと抜かす。王と家臣は愚か者と思われないために、服が見えるフリをする。王はパレードを行う際に、その服を着ることにする。観衆も事情を知っており、みな服が見えるフリをする。そこで一人の子供が「王様は裸だ!」と叫ぶ。王を含め、居並ぶ大人はリアクションに困る、という話だ。

この寓話から、大部分の読者は教訓を読み取るだろう。すなわち、「見えもしないものを、見えるフリをするな」とでもいうべき教訓である。

ん?

アンデルセンの原作を読んでみると、「…このように、見えないものを見えるフリしてはいけませんね。皆さん気をつけましょう」などという地の文はまったくない。アンデルセンは教訓をはっきりと書いているわけではないのだ。

つまり、我々は、「見えもしないもの見えるフリするな」という教訓を、「見えもしないのに勝手に見えるフリをしている」ことになる。
この寓話ははたして教訓話なんだろうか。

文学理論の方法論のひとつに、脱構築というものがある。簡単に説明すると、

1与えられたシステムを形式化し、
2そこに自己言及的な決定不能性を見いだし、
3そのポイントを超越論化することでシステム全体の構造を逆説的に説明する

というステップを辿る。簡単すぎてかえって分からないが、つまり物語からAとBという二つの対立する要素を抜き出し、どっちかの勝ち、という優劣をつけたあとで、矛盾をみつけ、「そういうお前はどうなんだ」というツッコミを入れる、とでも思うとよい。

気をつけなければならないのは、最後のツッコミは、物語の外の視点から行う必要があることだ。3.の「ポイントを超越論化する」というのはそういうことを言っている。

「裸の王様」の場合、
王様・家臣・観衆など「場のノリに合わせて見えるフリにノる」のがA、
子供のように「見たまんま正直に言う」のがB、
と分けられる。物語の意図は、明らかに「Bの勝ち」であろう。ところが、この物語自体が寓話として教訓を含んでいるとしたら、この本はBの「見たまんま主義」を重視しておきながら、物語自体は「見たまんま」解釈されることを拒んでいる。つまりテキストとして書いていない教訓を読み取ってもらわないと困るのである。
つまり読者は、「見たまんま主義」を標榜する物語そのものに対し、「そういうお前はどうなんだ」というツッコミを入れることができる。

このように、脱構築の観点によると、自ら肯定している読解を否定するような高次の盲点が存在することを暴くことができる。

小さい子供にこの物語を読んで聞かせたあと、「こういうふうにね、見えないものはちゃんと見えないって言わないといけないのよ」とでも言ってみると面白い。即座に「でもそんなことどこにも書いてないから見えないよ」などというガキは、理屈を並べてまったく勉強しないガキか、理屈を並べすぎて30歳過ぎても勉強をやめようとしないガキか、どっちかだと思われる。

オレのことじゃないぞ。

「ゆとり教育」早くもピンチ

<指導要領>ゆとり重視を見直し改定へ 文科省
 文科省は、学習指導要領を超える内容を児童生徒に教えられることや、総合的な学習の時間を有効に使うことを明確にするため、指導要領を改正して26日付で告示する。10月の中央教育審議会の答申に沿ったもので、導入されて間もないゆとり重視の現行指導要領は、学力低下の批判に押され、見直された。(毎日新聞)

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早すぎゃしないか?

まだ「ゆとり教育」とか言い出してからそんなに経っちゃいまい。
小中高校はゆとり教育に「右へならえ」で、すでに2学期制を導入済み。カリキュラム的には元に戻すのは不可能だろう。そんなに早く見直すハメになることくらい、施行前にイヤってほど指摘されてただろうに。
だから言わんこっちゃない。

見直しの答申を見てみたいな。
つねづね、文科省の謳う「生きる力」ってのが何なのか不思議だった。中教審でその方針が見直されるとしたら、「やっぱり、『生きる力』ってのはどうでもいいです」なんて改定をしてくんないかな。

ハダカで煙突にはまり捕まったバカ

Nude Man Pulled From Chimney on Christmas

MINNEAPOLIS (AP) -- A naked man got stuck in the chimney of a bookstore early Christmas morning. Don't worry, it wasn't Santa Claus.

The 34-year-old man was treated Thursday for bruises and abrasions at Hennepin County Medical Center after being found naked and lodged in the furnace flue at Uncle Hugo's Bookstore. He was expected to be charged with attempted burglary on Friday.

"He was lucky," said police Lt. Mike Sauro. "He was only stuck in that chimney for a few hours. It's kind of a happy ending, because if he had been in there until that store opened Friday morning, it's my judgment he would have died.

"He doesn't appear to be a hard-core criminal, just stupid."

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アメリカにはこういうバカがいるから楽しい。

強盗に入ろうというのはいいとして、なぜハダカで、しかも煙突から入らにゃならんのだ。
クリスマスだったから血迷ったか。

警官のコメントがまたふるってる。

"He doesn't appear to be a hard-core criminal, just stupid."
(「いや、凶悪犯罪者ってわけじゃないですよ、ただのバカです」)

…言われたほうも本望だろう。体張った甲斐があったな。

学問的知見と教育(4)

高等学校における従来の英語教育の目的は、「読解によって英文の内容を理解する」という以外に、もうひとつの側面がある。学校教育一般的に言えることだが、「与えられた任意の知識体系を、整理し把握する能力」である。

よく高校生が発する疑問に、「数学なんか勉強して人生になんの役に立つのか」というのがある。それを言うならプレイステーション、マンガやサッカーは人生になんの役に立つのか、はたまた真の意味で人生の役に立つものって一体何だ、と問いたいが、まぁそれは置いておこう。数学を学ぶ上で、数学自体に絶対的価値があるわけではない。「数学」というひとつの知識体系の全体像を捉える訓練こそが重要なのである。要するに、歴史だろうが、化学だろうが、建築だろうが、料理だろうが、分野はなんでもよろしい。ひとつの分野を体系的に把握する能力の育成が中等教育の目的のひとつであろう。高校で学ぶ数学などは数学全般からしてみれば、所詮、箱庭のごときものだが、その箱庭を完璧に整備する能力こそが重要である。物理、世界史、古典など、高校で教わる科目はすべてこの目的を含んでいるといってよい。

高校時代に「知識体系を自分なりに整理して理解する方法」を習得していると、就職して社会に出てからどんな分野にも対応できる柔軟性が生まれる。高校時代から就職に直結する技術を身につけているケースは例外で、大抵は就職してから、初めて触れる分野や世界に対応する必要が出る。そのときに、自分なりの把握の仕方ができているとできていないとでは大きな差がある。

そこで英語である。英語は語学であり、頭脳で理解すべき知識体系ではない。それが英語の例外的な性質である。英語は数学、化学、日本史などと同列に扱うべきものではなく、体育と同列に扱うべきものだ。つまり、思考によって頭脳に知識を蓄積させるのではなく、口と手を動かす反復練習によって体に浸透させるべきものである。頭で英作文をしながら会話しているうちは、英会話ができるとは言えまい。無意識のうちに、染み付いた表現が口をついて出てくるようになってこその会話だ。

そこに大きな陥穽がある気がしてならない。英語教師の側に、「英語は数学や理科と同じく、一般化された基本原則からすべての現象を導くことができる知識体系である」という誤解がないだろうか。すべての文章を例外なく説明できる万能の文法規則などあり得ない。高校の授業では、文法規則を数学の公式の如くルールとして扱う教師がいる。文法というのは、「その言語を観察してみると、どうやらこういう傾向がありそうだ」というものを記述しただけに過ぎない。予備校の英語の授業でも、英文法を「正答を導き出す魔法のアルゴリズム」の如く振りかざす者がいるが、果たして語学をする姿勢として正しいだろうか。

以前に記したように、文法は雑多な言語知識を整理し、体系的な全体像を与えてくれるという点では有用だ。しかし、あくまで手段であって目的ではない。私が高校生のころ、一言も英語の文章を口から発することのないまま、黙って板書をノートするだけ、という英語の授業があった。立ち止まって一歩も動くことのないまま練習が終わる運動部に等しい。何の力もつかない。

語学に必要なものは「慣れ」だ。週4時間、授業を受ければ上達するという性質のものではない。一日24時間、常に機会を狙って口にする執念がぜひとも必要である。アメリカに留学してみると、各国から集まる留学生が非常に流暢に英語を話すのを見て驚く。TOEFLで満点を取っている者も珍しくない。彼らに語学の勉強の仕方を聞くと、例外なく「native speakerとやたらめったら喋り倒す」という返事が返ってくる。とにかく喋る。間違えたら直してもらう。直してもらったらその場でその表現を10回ほどマッハで繰り返す。そして以後、意識的にその表現を多用する。彼らは、椅子に座り机に向かい、教科書を広げて語学を習得するのではない。

理論言語学は、言語という現象を一般化した規則で説明することを試みる学問である。英語が語学であることを失念した教師が魅力を感じるのは当然と言えよう。文法を規則として公式化し生徒に伝授したい英語教師が飛びつきたくなる気持ちは分かる。しかし、理論言語学は当該の言語の上達を目標とはしていない。極端な話、その言語の文字がまったく発音できなくてもその言語に対する理論的分析は可能である。日本語が話せないのに日本語の分析をしている海外の研究者も多数いる。英語教師が理論言語学の扉を開いても、そこにあるものは天文学、物理学、地質学などと同様の経験科学の方法論に基づく理論構築があるだけで、入試問題を一瞬に氷解させる魔法の奥義があるわけではない。

外から理論言語学を眺めるだけの者ならいざしらず、大学で仮にも言語学を履修した者ならば、教育現場で言語学的知見などを振りかざしたりしたら、見識を疑われるのではなかろうか。

学問的知見と教育(3)

文部科学省が音頭をとって「コミュニケーション重視」の外国語教育を謳って久しい。これからの時代は、読みだけに偏重せず、会話能力をはじめ総合的な言語能力を育成しようというのは、まぁ、自然な流れであって非難するには当たらない。

ところが高等学校の現場を見てみると、どうもその精神が徹底しているとは思えない。私にはその原因が明らかであるように思える。それは、大学側が高校生に要求する英語能力と文部科学省の新方針が一致していないからだ。高校の現場では、どちらかの要求にしか応えられない二者選択を迫られてるのではあるまいか。

大学は、英会話ができる学生が欲しいのではない。英語の文献を読みこなし、疑問点を発見し、それに対する自分の見解を英語で表現できる学生が欲しいのである。「英語ができる」学生ではなく、「英語で学問ができる」学生である。つまり、大学という環境では、明治政府の目指していた「英文書の内容を把握する能力」が未だに大きなウェイトを占めている。

大学側が学生にどのような能力を欲しているのかは、入試問題を見れば分かる。顕著なのは京都大と一橋大だ。この二つの大学は相当な英語力が要求される手ごわい論説文と英作文を出題する。その問題形式は、まさしく「書いてあることをきっちりと理解し、作文で表現する」ことに尽きる。学問を修めるのに最低限度の能力と言える。文部科学省の新方針など知ったこっちゃない。
高校の授業は、大学入試の傾向によって大きく内容が左右される。大学側が依然として旧態の英語能力を要求しているのであれば、高校の現場も授業方針を大きく変える必要はないという大義名分が手に入る。

文部科学省の新方針にいち早く反応したのが、センター試験と東京大学だ。特に東京大学の、ここ5年ほどの問題傾向の激変は目を見張るものがある。従来の定番だった下線部訳と要約問題が著しく縮減され、パラグラフの並べ替え、リスニングの増加など、「多角的な英語力」を問うものになっている。東大の受験準備には、ひとまわり前の赤本は、もはや役に立たない。センター試験も、単発知識を問う問題が減り、コミュニケーション能力をはじめ「いかに英語に慣れているか」を問う問題に移行しつつある。2006年にはリスニング導入の予定もある。

現場の教師に歓迎されるのは、前者の出題形式だろう。「受験問題の解答指導はできるがALTとは会話ができない」という不思議な英語能力を持った英語教員は、前者のように伝統的な英語の授業が通用する出題形式を歓迎するのではあるまいか。

そういった教員には残念ながら、大学入試の傾向は、徐々に後者の出題形式に移行しているようだ。英語でコミュニケーションをとる能力をつけなければならないのは、生徒以前にまず教師だろう。

学問的知見と教育(2)

専門学校で非常勤をしていた頃、最近の中学高校の英語の教科書を見る機会があった。
特に中学の教科書に驚いた。文法事項の説明が一切無い。しかも、私が中学のころの英語の教科書は、いわゆる「本文」というのがずらっと書いてあったものだが、最近の教科書はすべて登場人物の絵に吹き出しがついていて、セリフ調で英文が書いてある。まるでマンガだ。

前回、「学校教育の現場に理論言語学の知見は無意味だ」という趣旨のことを書いたら、反響のメールが来て驚いた。まだページを作ったばかりで、カテゴリーにも登録されてないというのに、結構こんなページを見ているヒマな方がいらっしゃるものだ。
メールは高校の現職を退いて、私立高校で嘱託講師をされている年配の女性だった。初学の段階で文法中心に英語を学ぶことの重要性をこんこんと説かれている。「文法をより効果的に教えようと、今までにない知見を用いようとする件の女性の姿勢はすばらしいものだと思います」とあった。

何か誤解があるようだ。
私は、高校の英語の授業で文法が一切無用だとは言っていない。語学を学ぶ上で、文法知識はどのみち必要だ。そんなことは、あたりまえだ。問題は、文法をどういうタイミングで、どのように教えるか、そこに学問的な知見は有用なのか、である。

そもそも、日本での英語教育は何を目的に始まったのか。
簡単に言うと、「欧米の技術を盗むため」である。明治政府は、日本が欧米に比し格段に学問、技術力で劣ることを素直に認めていた。欧米の技術を盗むには向こうの書物を読めないことには話にならない。よって読解中心の英語教育が行われた。聞く、話すは後回し、とにかく書物に書いてあることを吸収する能力の育成が先決だった。今となっては笑い話だが、当初は英語を、漢文のごとく返り点を打って日本語で読み下すという案もあったそうだ。いかに音声教育が軽視されていたかを物語る。

良かれ悪しかれ、日本の英語教育はこのように「読み中心」で行われていた。こういう旧態依然の方法をここでは便宜上、「文法偏重読解系」と呼ぶことにしよう。また、明治政府が軽視していた音声に基づく会話能力を育成する方法を「音声重視系」と呼ぶことにしよう。「文法偏重読解系」の教育方針においては、とにかく書面の英語に書いてある意味さえ分かれば目的は達成されたことになる。その教育方針では、文法というのは謎の文章を解き明かすことができる魔法の鍵だった。一種の奥義と言える。数多くの文法奥義に通じている者が、数多くの文献を読むことができる。当然、文法が一種の技術となり、「それさえ修めれば英語に通じることができる」という幻想をもたらした。日本の英語教育は、このような事情を土台として一世紀もの間進展してきたのだ。

ところが時代は変わった。日本が欧米を一方的に追随する関係は終焉し、英語で書かれた文献を読み、書かれていることを理解して満足している段階は終わった。日本は自国でもたらされた成果を世界に発信するべき立場になった。対等のレベルで欧米諸国と技術共同開発を行い、成果を競い合う時代だ。がむしゃらに頑張った挙句、気がついたら日本は経済、国際関係、技術、すべてにおいて発信すべき側に回ってたのだ。ここで問題なのは、時代と立場が変わり、するべきことが変わっても、英語教育の基本方針は変わっていなかったということだ。「文法偏重読解系」の英語教育しか受けていない者は、下の世代にもその教育しか施すことができない。日本の英語教育は時代に対応していなかったのだ。

文部科学省は、遅ればせながらそのことに気がついた。平成11年の学指導要領改正で、「外国語」の項目を見ると、やたらと「コミュニケーション」という言葉が強調されていることに気がつく。ここにきて「音声重視系」式の教育の必要性が叫ばれるようになった。しかし問題は、高校の現場において「文法偏重読解系」の教育しか受けていない中高年の英語教師が、英語を話せないことだ。ここでいう「英語が話せる」というのは、日常会話や質問ができるレベルのことをいうのではない。自分の考えを伝えるために英語で議論や喧嘩ができるようになってはじめて「英語が話せる」と言うのだ。当然、教える側ができないのに、教わる側ができるようになるはずはない。かくして文部科学省の指導のもとで作られた「オーラルコミュニケーション」という授業は、その名を冠した文法の授業と成り果てる。教師が「音声重視系」で英語を教育するノウハウを持っていないからだ。

文部科学省の意図する「コミュニケーション能力に基づく英語力」をつけるには、音声を用いることが不可欠だ。言語というのは、脳の中で記憶を司る部分とは独立した「ことば専門の領域」に蓄積されるとされている。だから記憶喪失になった者でも母国語は忘れない。この部分は、音を聞き音を発することによって活性化される。英会話に習熟するためには、とにかく聞いて聞いて聞きまくり、喋って喋って喋り倒すことが必要である。文法はとりあえず無視する。とにかく喋って表現をかたっぱしから口に覚えさせる。

ある程度、頭の中に表現を詰め込んだ後で文法を説明されると、理解がもの凄くクリアになる。今までがむしゃらに暗記するだけだった外国語に、「文法という秩序」が与えられることで、頭の中で知識が体系化される。霧が晴れるように鮮明な全体像が見える。気をつけなければならないのは、教える順序を逆にすると学習意欲を奪うことだ。英語はまだ文法が溶けているからよい。たとえば外国語でロシア語を学ぶとする。ロシア語は寒いだけあって昔のラテン語の特徴が冷凍保存され、えらく複雑怪奇な文法を擁する。そのロシア語を学ぶときに、ぶ厚い文法書を渡され、「これをマスターしてから音声に入る」などと言われたら、第一章「格変化」の男性名詞三人称単数あたりで挫折する。文法は、ある程度の量の表現に慣れ親しんだ後でないとその効果を発揮しないものだ。

その点では、初学の中学一年生の段階から文法事項を削除した文部科学省の方針は妥当と言える。しかし、私の印象では、表現を詰め込むにしてはすこし英文の量が少ないと感じた。ためしに全文暗記をしてみたら、5日で教科書一冊が暗記できた。20代中盤(文句あるか怒)の私にしてこの容易さだ。12歳の柔軟な脳ではもっと容易に違いない。

件のメールを送ってきた女性は、「まず文法ありき」の授業で生徒がちゃんとついてきている自信があるんだろうか。いやそれよりも、彼女が英語以外の言語を勉強しようとするとき、まず何をおいても文法を完璧にマスターする自信があるのだろうか。
いや、高校を定年なさる世代でもWebでblogサーフィンなどなさるくらいだから、結構、柔軟に対応できたりするのかな。

フリーターという職業

「まるで日記のように」さんのページで面白い記事を見つけた。
神戸女学院大の内田樹という方のコメントらしい。

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100円ショップは品出しやセキュリティもみんな時給900円のバイトがやるらしい。

そういうことができるのは日本だけである。

正社員がろくにいない店舗が時給900円のバイトだけで経営できるという事実は、日本の「フリーター」諸君の提供する労働力のクオリティの高さを証明している。

彼らは監督者がいないからといって商品を略奪したり、レジの金を盗んだりしない。
そんなことは思いもつかないのである。

時給850円の女子大生がハンバーガーの仕入れから迷子の世話から新人研修までやってくれるのであるからこそ、59円でハンバーガーを売るというようなことも可能だったのである。

そういうことがいかにインターナショナルな基準からして特異なことであるか、ということはあまりアナウンスされない。

外国から来た人が驚くのは日本の「自動販売機」の多さである。

管理者が誰もいないところに自動販売機がわんさと置いてあるが、自動販売機を壊して商品を盗む人間も、金を取る人間も、まずみかけることがない。

フランスのコカコーラ自動販売機なんて、ほとんど「要塞」のような作りになっていて、トラックで略奪されないように太い鎖で二重三重に壁に縛り付けてあり、お金をいれてから商品を取り出すまでに鉄の扉を二つもこじあけないと手が届かない。

誰も見ていないところに商品とお金があれば、「遅かれ早かれ盗まれる」ということがかの地では「常識」に登録されているわけである。

日本はそういうことがない。このセキュリティの確かさが社会のインフラとして整備されているからこそ、100円で商品を売ることが可能になるのである。

日本の若い人はモラルが低いと言う人が多いが、それはずいぶん一面的な決めつけではないかと思う。

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こう言われてみると、日本ではフリーターってのもひとつのポジションなのかもね。
「フリーター」を毛嫌いする中年が多いけど、その恩恵を考えたことはあるんだろうか。確かにアメリカではバイトの店員は一律に「無責任で無愛想」だしなぁ。
「モラルの低さ」の次元も日本と違う。

日本には「卑怯」って概念があるからな。
英語には訳せない。

サンタクロース

アメリカはちょうど今がクリスマスだが、アメリカで祭日というのはホントに誰も働かない。ウワサによると警察署も休むので911通報しても留守電が応答するそうな。
もうちっと働けよ怒

ヒマだから昼にジョギングに出かけた。見事に誰ともすれ違わない。自分以外の人間はみんなどこかに集合しているんじゃないかと思ったくらいだ。大きな通りに出たら車が3台通りかかったのでホッとした。

「サンタクロースっていつまで信じてた?」
よくある質問。
自分に関して言うと、去年までは信じてた。
おととしのクリスマスイブ、部屋にやってきたサンタが金に困ってるというので少し貸してやった。「来年のイブには返しに来ます」と言ってたし、まぁサンタが嘘つくこともないだろうと思って安心してた。
ところが去年のクリスマスイブ、ぜんぜん来やしねぇ。踏み倒された、と思ったときは遅かった。サンタクロースを信じてた俺がバカだった。

学問的知見と教育(1)

先日、学部時代の友人で都内の私立高校で英語教諭をしている女性からメールをもらった。彼女は大学院の修士課程まで進んで専修免許を取得している。専門は文学だったが、単位の都合で英語学を履修する必要があり、私とも面識があった。どうやら職場内の軋轢が原因で高校を辞めたらしい。大手予備校の英語科に採用された、とあった。
曰く、「予備校で教えるには確固たる文法知識で理論武装する必要があるから、簡単に参照可能な『虎の巻』的な理論言語学の本を紹介してくれ」ということだった。

唖然とした。彼女は大学時代から真面目で、専門外の英語学もそれなりに頑張って勉強していたと記憶している。それなのに、理論言語学を学べば当然気づくことに気づいていないのだ。

言語学と聞けば、博物学的な言語収集学を連想する人もいようが、現在の理論言語学は経験科学的方法論に基づく理論構築を目的としている。科学であるものと、そうでないものを分けるのは、「扱う対象」ではなく「方法論」である。データを観察し、謎を発見し、それに対する仮説を立てる。その仮説に対して更なるデータを検討し、反例が出たら仮説の立て直し、出なかったら更なるデータを求めて反証の土台とする。これが経験科学の方法論である。潜在的に存在可能な全てのデータを検証するのは事実上不可能なので、経験科学には証明という概念がない。そこが数学や論理学などの形式科学と異なる。
この科学論のもとでは、シェイクスピアもれっきとした経験科学の対象となる。「シェイクスピアは偉大な作家だ」という命題は直接的な反例となるデータが存在し得ないので科学的考察の対象とはなり得ないが、「シェイクスピアは1564年に誕生した」という命題は科学的考察の対象となる。それ以前に書かれた文書に彼に関する記述があれば、それが直接的な反証になるからだ。

理論言語学による英語の分析では、言語直感に照らし合わせて容認可能な形式と、容認不可能な形式を対比させることによって、人間の持つ言語能力がどのようにプログラムされているのかを探ることを目的としている。一般的に学校の現場で「文法」と呼ばれているものは、理論言語学のSyntax(統語論)という分野と軌を一にする部分が多い。英語学、なかんずく統語論では、非文法的な文を排除する説明方法を追及するから、理論言語学的な知見を用いれば大学受験を控えた生徒に効果的な文法説明ができる、という発想らしい。

大学受験を目的として勉強する場合、理論言語学に基づく文法説明を生徒に施しても、混乱させるだけではあるまいか。そもそも理論言語的な知見は、大学受験が求める能力に対応していない。少なくとも語学である英語は、他の教科とは異なり、上達の方法はスポーツと同じと思われる。すなわち、思考によって頭脳に訴えかけるのではなく、反復修練によって反射的反応が可能になるまで体に叩き込む。大学受験の英語を目的とする生徒に言語理論を振りかざして文法を説明するのは、ちょうどバスケットボールの試合に勝つべく努力する選手に対し、筋肉の組成構造、連動のしくみから有酸素運動の効率的な方法までを理論的に叩き込むに等しい。そんなことをするくらいなら練習して汗をかいたほうが試合に勝てることは明白だ。

理論言語学は、あくまで真理の追究が目標である。たまたま英語の構造というものを検証の対象としているだけであって、「それにさえ習熟すれば無限の語学力が手に入る」というのは誤解である。運動生理学を専攻している研究者が卓越した運動能力を持っているわけでもなく、バスケ部の優秀なコーチになれるわけでもない。修士課程で二年もの間、英語学を真面目に勉強しているならば、「学問が目指しているもの」と「教育現場で求められるもの」は根本的に違う、ということくらいは悟ってしかるべきだろう。

教育現場のことはよく分からないが、私個人の見解では大学入試は一種のゲームだと思っている。ゲームなので、ルールもあれば勝つためのノウハウもある。ゲームである以上、勝つために最も重要なのは「バカになる」ことではあるまいか。入試に勝つためには、「受験が人生で本当に意義のあることなのか」だの、「入試学科の知識が今後の人生で本当に必要なのか」だの、「日本の受験制度は本当に妥当なのか」だのといった小賢しいことを考えてはいけない。ただひたすら勝つことだけに没入し、バカのように勉強しまくる以外に方法はないと思われる。

私自身、受験生を教えてたときに、関係形容詞whatの意味になぜ「全部」という意味が含まれるのかを質問されたことがある。
Bring what friends you have. は「友だちを全部連れてきなさい」という意味だが、この文に含まれる語の中で「全部」という意味に当たる単語はない。なぜか関係形容詞のwhatを使うと「全部」という意味が含まれる。
よい質問だ。大学に入ってから大いに伸びる可能性が伺える質問と言える。質問の内容は良いが、「その回答を受験の準備段階で求めること」自体は間違っている。その質問に対し、理論言語学の知見を駆使し、高度に理論的な見解を平易な言葉で説明する努力をしても、果たして生徒がその見解を受験の当日に生かせるほど理解を浸透させることができるのだろうか。ましてや、そもそも教える教師の側の理論言語学の知識が付け焼刃である場合は絶望的といっていい。そうではなく、教師がすべきことは、そういう興味関心を追求するのは大学に入学してからの楽しみに取っておくことを諭し、とりあえずは勝負に勝つために疑問を棚上げし、関係形容詞の用法に習熟させることであろう。「いい質問だが、そんなことにいちいち疑問を持ってたら受験に勝てない。つべこべ言わずにその文を200回唱えて暗記しろ」と言ってやるほうが、よっぽど受験に勝てる能力を育成できるのではなかろうか。そこでバカになりきれない学生は、無駄に時間を浪費する。バスケットボールのチームで、3ポイントシュートの練習をしているシューティングガードが、「筋肉組成がいかなる連動をすることによってより効果的な運動効率が得られるのだろう」などと小賢しいことに興味を持ってはいけない。そんなことを考えるくらいなら毎日200本のシュート練習をしたほうが勝てる。

よく高校や予備校の英語教員は「感覚で解くな」というが、そういう英語教師が自分で問題を解くときは感覚を使って解いている。英語は語学なので、頭脳で解いているうちは真の実力ではなかろう。真に英語の能力が身につけば、考えるよりも前に感覚が正解を教えてくれる。「感覚で解けるようになるまでに英語にどっぷり浸ること」こそ重要ではあるまいか。これは英語に特有のことであって、数学、理科、社会等の科目とは異なることは注意を要する。そういった科目ではまさしく感覚で解くことはご法度であり、自分の頭の中で解答の根拠を組み立てる思考作業が不可欠である。語学は思考ではない。文法を数学の公式のごとく扱って、思考作業によって正答を導こうとする受験指導は、「英語は語学である」という単純な前提をないがしろにしているのではあるまいか。

いちいち説明するのも面倒なので、彼女には適当な統語論の概論書を何冊か紹介しておいた。修士まで進んで得た自分の信念ならば、いまさら私が異を唱える性質のものでもあるまい。なによりも、新しい環境に進んで張り切っている彼女に水を差すのが悪いような気がした。

いいことだけ載せる新聞?

Newspaper Publishes Only Good News for Xmas

BERLIN (Reuters) - Germany's top-selling newspaper published nothing but good news Wednesday, dropping its normal fare of crime, violence and scandal for stories about tax cuts, falling petrol prices and accelerating economic growth.
"There's only good news today," Bild wrote in two-inch high letters at the top of page one, where the giant headlines are usually devoted to sex scandals, Germany's cannibal trial, killers, adulterers or dishonest politicians.

Urging Germans to shed their natural frosty demeanor for the Christmas holiday season, Bild columnist Peter Bacher said there was always plenty of good news around, even if it was "sometimes overshadowed by evil, horror and terror."

Bild also reported churches were full for Christmas services, California's earthquake spared San Francisco, president Johannes Rau appealed for more state money for families, share prices rose, and political leaders promised more big tax cuts.

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何か勘違いしてないか?

いくら世の中にいやなニュースが多いからって、「じゃあクリスマスくらいはいいニュースだけを載っけよう」ということにはならんだろう。なんなんだドイツは。

その前日に不祥事を起こしてクビになった教員とか、セクハラでクビになった公務員なんかは報道されなくって「あぶねー、セーフ」とか言ってるのかな。

セックスの必要性

いうまでもなく人間は高等動物であり、進化が進んだ部類に属する。身体的な運動能力は他の動物に譲るところはあったとしても、知能の点では他を大きく引き離していると考えられる。
ところが、人間を進化の進んだ生物と考えると、私にはどうにも納得がいかない生物学的事実があった。

私は常々、なぜ人間をはじめ哺乳類などの高等生物は、セックスをしないと子孫を残せないのかが疑問だった。人間とアメーバを比較しよう。生殖能力において勝っているのは間違いないくアメーバのほうである。アメーバは両性生殖ではなく単体で分裂生殖をするので、パートナーを必要としない。ほっておけば指数関数的に増加する。かたや人間はというと、必死になってパートナーを探し、はずれの多いセックスという作業を地道にくりかえし、奇跡的とも言える確率で妊娠し、やっとのことで一個体の子孫を得る。普通は一生をかけて2、3個体の子孫を得るのがやっとだろう。種の保存ということを考えれば、単体で分裂できるほうが子孫を残しやすいに決まってる。少子化なんていう問題もそもそも生じないに違いない。進化の究極系に属する人間が、なぜこんな不便な生殖法をとるに至ったのだろう。

Lyall Watosonは著書、Lifetideの中でこの問いに触れている。曰く、高等生物は両性生殖という面倒な生殖法をとっているからこそ進化したんだそうな。仮にアメーバのプルスケくんが細胞分裂をしたとしよう。その子孫はプルスケの能力を上回ることは絶対にない。もとの個体が単一なのだから劇的な変化が起こる余地がない。ところが人間のように両性生殖をすると、両性の遺伝子が結合することで新個体の能力、特徴は決定される。この「結合」というのがあやふやなところで、うまくいかないことも多い。まちがった結合の仕方をしてしまうこともあり得る。そして、これが進化の原因になる。アメーバの場合とちがい、両者の遺伝子結合の際に、いわば「まちがって」くっついてしまった場合は、先の世代とは違った特徴を備えた世代が誕生する余地ができる。親の2個体のいずれも持ち得ない特徴が具現する可能性がある。

こう考えると、人間は「高等生物なのに両性生殖」なのではなく、「両性生殖だから高等生物」になれたと言える。生殖の方法が同じなのに、なぜ人間だけが知能がこんなに発達し、なぜ人間以外の両性生殖動物で人間に匹敵する動物が存在しないのかは未だに謎だ。進化の過程で「人間」と「それ以外の動物」を分ける何かがあったはずだが、そのmissing link(失われた環)は今もって不明のままだ。

ちょうど今日はクリスマスだが、日本の街では、人間に飛躍的進化をもたらしてくれた両性生殖という宿命の行為を完遂すべく、生物的本能に従う若者達があふれているに違いない。たしかに、両性生殖を達成させるべく女の子を篭絡しようと必死に手練手管を駆使し、その開発に昼夜努める男子諸君の奮闘を見るにつけ、「こりゃ進化もするわ」という気分にもなる。

よかったなお前ら、日本に生まれて。アメリカにゃラブホってのがないから学生はしたくてもできねーんだとよ。

スコッチの水割りの数学的考察

サルトルは寝る前に、スコッチのオンザロックを好んで飲んだ。これは、イギリス以外のヨーロッパではあまり品のいいことではないらしい。
品がよかろうと悪かろうと、寝酒としてスコッチは非常によろしい。健康を考えて水割りにしたりする。

ここで問題。スコッチの水割りは、スコッチと水がどれくらいの比率になるのがベストか。
これは、数学的に検証可能な問いである。

注目すべきは、
スコッチに水を足しても
スコッチに水をかけても
スコッチを水で割っても
結果はすべて同じになる、という事実である。

スコッチの量をx,水の量をyという変数でおいてみる。
すると、

x+y = x・y = x/y

という等式が得られる。
x,yは題意より正の実数だから、絶対値をかけて

|x| : |y| = 1:2

が得られる。
つまり、スコッチ1に対して水2の比率が、数学的に正しいという結論になる。

俺の飲み方は間違ってないな、うん。グラス

名前の呼び方の謎

サッカーでは、ふつうテレビの報道では選手の名前をfamily nameで呼ぶ。
たとえば、Miroslav Kloseは「クローゼ」、David Beckhamは「ベッカム」、Alessandro DelPieroは「デルピエロ」と呼ばれる。

ところが、どう考えてもfirst nameで呼ばれてるとしか考えられない選手が2人いる。奇遇にも、彼らの無視されたfimily nameは同じだ。

その2人とは

Raul Gonzalez Blanco (Spain)
Kily Gonzalez (Argentina)

「ラウル」「キリ」と呼ばれており、二人とも「ゴンザレス」とは呼ばれていない。どう考えても呼ばれているのはファーストネームだろう。

Kily Gonzalezの方は、本名をCristian Gonzalezというそうで、kilyというのはニックネームだそうな。まぁ本邦にも「KAZU」でFIFAに登録していたのがいたから、ニックネームで呼ばれるのは、まあ分かる。それは許す。

問題はRaulだ。なんで「ゴンザレス」じゃいかんのだ。友達のスペイン人の女の子に聞いてみたら、「ゴンザレス」という苗字は日本の佐藤さん鈴木さんレベルの苗字らしい。スペイン語系の国はたくさんあり、そのなかにGonzalezという苗字の人はたくさんいよう。うちの研究室にさえ一人いる。しかし、スポーツの報道で「ゴンザレス選手」という名を聞かないのは何故だ。

なんかタブーっぽいGonzalezという苗字、なぜイカンのか気になる。
そういえば僕が日本にいた頃の研究室にも、日本人でありながら明らかなGonzalezさんがいらっしゃったな。

高校物理教諭が定理覆す発見

私立岩手高(盛岡市)の佐々木修一教諭(46)らが24日、永久磁石を使った磁性体の浮上実験に世界で初めて成功したと発表した。成果は米専門誌「ジャーナル・オブ・アプライドフィジックス」(来年2月号)に掲載される。世界的に権威のある同誌に高校教諭が筆頭執筆者として論文を載せるのは、日本人としては初めてという。
 
佐々木教諭は約20個の鉄球(パチンコ玉)と、縦横約10センチ、幅が鉄球の直径ほどのプラスチック箱を用意。箱に鉄球を入れ、上から永久磁石を近づけると鉄球5、6個が1列に並び、その下でほかの鉄球が中空に浮くことを見つけた。

 佐々木教諭は「パチンコ玉を大量に持ってきた生徒がいて、磁石でつるしてみたところ、宙に浮く現象が見られ驚いた。さらに研究を進め現象を解析したい」と話している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031225-00000001-khk-toh

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すごいねぇ。
僕も知り合いに高校教諭がいるけど、口癖は「忙しい」だなぁ。中には忙しかろうがなんだろうが自分で研究してる先生ってのはいるもんだね。確かに学会では、ひとりか二人は高校の先生が発表してるな。

ちょっと気になるが、「パチンコ玉を大量に持ってきた生徒」って、いったいどこから持ってきたんだ
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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