たくろふのつぶやき

この夏、またしてもお化けを捕まえ損なった。

歴史を紡ぐ糸

苔(こけ)というものは、良いもんなんだろうか、悪いものなのだろうか。

昔から君が代の歌詞が不思議だった。
最初は「細石」、つまり砂利だろう。それが時間をかけると「巌」となる。さらに時間が経つと「苔」が生す。

まず第一に不思議なのは、細石が巌となることはあるのか、という疑問だ。君が代が謳っているのは、「それほどの長い年月のあいだ、君が代は歌い継がれるものですよ」ということだろう。普通は、巌が崩れて細石となるのではないか。普通に考えれば、小が勝手に大と化すというのは、エントロピー増加という物理の大前提に激しく逆らっている。千代に八千代に待ってみても、どうも砂利が巌に化けるのは無理がある。なんでこんな物理の法則に逆らったことが起きるのだろう。

当然、極相である「苔が生す」という状態を謳いたいがためだろう、という予測が立つ。巌→細石の流れだと、細石に苔が生すことになってどうもありがたみがない。苔が生すのは、やはりどーんとそびえる巌でなくてはなるまい。苔が生える一歩手前が巌であるとすれば、それよりも前の段階は逆に小さい細石であることになり、細石→巌の順でなくてはならない。このように、君が代の歌は、結果としての「苔が生す」という状態を作り上げたいがために、時間の流れを逆に作ったのではないだろうか。

そこで疑問。「苔が生す」というのは、いいことなのか?
私は日本庭園の作りと美学について疎いのでよく分からないが、どうも古くからの由緒ある日本の庭には、確かに苔はつきもののような気がする。緑がびっしりと埋め尽くす庭の景観は、理屈抜きで時間の流れを感じさせる重さがある。

「転石苔生さず」ということわざがある。転がる石に苔は生えない。これは英語にも同様のことわざがあって、Rolling Stones gather no moss, という。おもしろいのは、表している物理現象は同じだが、意図は正反対、ということだ。日本語の「転石苔生さず」は、「あっちこっちに転がるような落ち着きのない奴は風格が身につかない」と、動かないことを奨励している。ところが、英語のRolling Stones gather no mossの方は、「いつも生き生きと動く者はいつまでも新鮮でいられ、躍動感にあふれている」という意味で、動くことを奨励している。つまり苔の立場としては、日本ではいいもんで、英語ではわるいもんなのだ。ひと昔前に話題になった寓話「チーズはどこに消えた?」は原作が英語だけあって、現状に固執する姿勢をあざ笑う、変化を求めて動く者の賛歌となっている。

日本語と英語の正反対の意味は、どちらがより真実に近いだろうか。どうも私の感覚だと、奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・江戸・明治の昔ならいざ知らず、世の中の流れがスピード化した現代社会においては、英語のほうの解釈のほうが事実に近いのではないか。日本の企業も終身雇用制度を見直す段階にきている。ひとところにどっしりと構えて動かない姿勢は体制の硬直化を生み、時代に取り残される時代錯誤な結果を生むのではないか。

アメリカに来るまで、私はそう思っていた。

この国に来てから、ちょっと考えが変わった。
日本は国土が狭く、人口が多い。島国であるため、遥か悠久の昔から一本の歴史に沿って人が生きてきた。その結果、国土のどこに行っても、先人の跡がある。日本で、誰一人踏んだことのない地はないのではないか。日本人がある景観を眺めたとき、遥か昔に同じ景色に臨んだ先人がいたことを感じ取ることができる。私たち日本人は、1400年前に立てられた寺社の門の前に立ち、それを立てる為に奮闘した者や、それぞれの思いをもってその門をくぐった者を想い、連綿と続く時間の先に今の自分がいるという、歴史の流れを感じることが出来る。

それに対して、アメリカは未開の土地はおろか、人を拒む自然が多すぎる。日本と違い国土が広大なため、単調な景観が多い。国としての歴史が浅いため、過去を持たない。草木が一本も生えない広大な砂漠、自然の力が織り成す大渓谷、雄大な水を湛える大河を見て、私たちは自然の驚異に感嘆はするものの、そこに太古の人たちとの対話はない。

つまり、アメリカという国には涙がないのだ。景色は自然が作ったものであり、そこに人の魂は眠っていない。国土の中に、先人の姿を見出すことができない。殺風景で馬鹿でかい景観を見ても、流せる涙がない。
それに対して日本の場合は、剛の者と剛の者がお互いにしのぎを削った古戦場、歴史の舞台となった建築物、文化を作り続けた名匠の跡が、至るところに感じられる。どんな景色や場所にも、かつてそこで流れた涙がある。「夏草や兵共が夢の跡」という感慨は、日本人であれば容易に追憶に想いを馳せることができる意識であるのに対し、アメリカではそれを感じることができない。

「苔」というのは、こうした歴史の積み重ねを感じられるものを示す具象ではあるまいか。和風庭園の庭に生す苔は、最初に生し始めた数百年前と、現在とを紡ぐ歴史の糸ではないだろうか。数百年前に、同じ石の同じ苔を見た者と、現在、それを見る自分とが、同じ場所で同じ意識を共有する。これは、脈々と続く歴史を持つ日本人だけが持つことの出来る意識だろう。

日本人にとっては、「転石苔生さず」は、どっしりと構えよ、弛まず動け、どちらの意味にも取ることができる。先人が積み重ねた歴史の重さと、現代世界のスピード化した文化の、両方を享受できる民族であることによる選択の幅だ。しかし、アメリカでは、「どっしりと構えよ」という意味を実感として感じることが出来る文化的な背景がない。アメリカ人にとってRolling stones gather no mossという言葉は、ただひとつしか意味を選ぶ余地のない言葉なのだ。

現代社会においては、「転石苔生さず」という言葉は、「弛まず動け」の方が当てはまることが多いと思う。しかしながら日本人は、この言葉をして、英語が持ち得ない「どっしり構えよ」という意味たらしめる壮大な歴史を持つことを、誇りに思っていいのではないか。

売るほうもバカなら買うほうもバカだ

米国の州、ネット・オークションに「まるごと」出品
(2004年01月16日 CNN)

ウェスト・バージニア州がネットオークションで売りに出されたんだそうな。

最高入札金額は9999万9999ドル(約106億円)。出せるだけ出したな。
しかし知事の報道官の怒り方が間違ってるような気がする。「安すぎる」って、おい、高けりゃマジで売るつもりかい。

ひとり歩き

いつか、自分の書いた論文が勝手に引用されていることがあった。そりゃべつに構わない。むしろ自分の勉強が人の役に立っている気がして単純にうれしい。「おおーオレの論文が使われてるー!!」ていうのはなんか気合のモトになる。

僕の書いているblogが、Yahoo!やGoogleから検索できることが分かった。いつの間に紛れ込んだんだ(泣)。Myblog Japanに登録すると、遅かれ早かれ検索システムの網にひっかかるらしい。しまいにゃこんなのにまで登場。なんじゃこりゃ。こんなのに登録した覚えないぞ。しかもご丁寧に「平均アップデート時間」なんて出してくれちゃって。頼んでねぇよ。

ホームページのヒット数を増やすのは簡単だ。いろいろな人のページを廻って、BBSやコメントにとても好意的なコメントを入れて、自分のページのURLをさりげなく置いてくればいい。気に入ってくれれば、その人がページ内にリンクを張ってくれる。かくして指数関数的に読者が増える。

僕は、そういう「営業」をまったくやってない。ヒマないし。(すいませんいっぱいありました)
僕のページは、自分の考えてることをいったん脳の外にアウトプットして、それを再びインプットするというループを廻すことを目的としているメモみたいなもん(Noriyoshiさん卓見だと思うなぁ)。だから、最初から特定の読者を想定していない。数少ない友達はURLを知ってるし、メールで話題についてしゃべったりするけど、そもそも趣味程度のモンだから、爆発的なカウンターヒットを狙ってるわけじゃない。

自分の書いたテキストがなんか一人歩きしてるようでなんか変な感じ。まぁいいんだけど。
自分の思考のため、とか言いながら、記事に対するメールやコメントやTBがあると、超うれしかったりする。こういう世界に生きがい感じる輩は、そりゃ出てくるだろうなと思うよ。

映画、「12人の怒れる男」のなかで、自分の言動が人に引用されることによる自己意識の満足感がもたらす弊害がポイントになる場面があったけど、人間ってそういうことで生きがい感じるヘンな生き物なのかもね。

各国文化論

フランス語で愛を語り、
ドイツ語で神を説き、
英語で演説し、
ロシア語で馬を叱る

++++++++++

シェークスピアを一番理解しているのはどの国か、というわけで 各国それぞれが得意とする分野でシェークスピアを表現することになった。

アメリカは、数億ドルをかけて映画化した。
フランスは、前衛的な舞台を作り上げた。
日本は、アニメにした。
イタリアは、高らかなカンツォーネを歌った。
ドイツは、作品中の人物の行動様式を数式にしてみせた。
中国は、場面の一つ一つを米粒に描いた。
スペインは、何故かはわからないが牛と戦った。
韓国は、シェークスピアは韓国人であると論じた。

イギリスは、それら全てを批評した。

++++++++++

ある船に火災が発生した。船長は、乗客をスムーズに海へ飛び込ませるために

イギリス人には 「紳士はこういうときに飛び込むものです」
ドイツ人には 「規則では海に飛び込むことになっています」
イタリア人には 「さっき美女が飛び込みました」
アメリカ人には 「海に飛び込んだらヒーローになれますよ」
ロシア人には 「ウオッカのビンが流されてしまいました、今追えば間に合います」
フランス人には 「海に飛び込まないで下さい」
日本人には 「みんなもう飛び込みましたよ」
中国人には 「おいしそうな魚が泳いでますよ」
北朝鮮人には 「今が亡命のチャンスですよ」
大阪人には 「阪神が優勝しましたよ」

と伝えた。

船員「船長!まだ韓国人が残っていますが!」
船長「ほっておけ。」
船員「なぜですか!」
船長「生き残られると迷惑だ。服が濡れたと賠償請求されてしまう。

++++++++++

フランスは国土のほぼほとんどが平地である。非常に見晴らしがよいため、昔からフランス人は危険を目で察知していた。そのため、フランス人は色彩表現がゆたかな民族となり、絵画が発達した。言語としてのフランス語の文法は平坦で、全体像の見晴らしがしやすい。

ドイツは、グリム童話に描かれているように、国土の大半が鬱蒼とした森に覆われているという。森の中で暮らすドイツ人は、音で危険を察知していた。そのためにドイツ人は聴覚に優れ、優れた音楽家を多数輩出する国となった。言語としてのドイツ語は、迷いの森のように複雑怪奇な文法を擁するが、オペラや朗読などで鑑賞するに非常に美しい旋律を醸す音をもつ。

ロシアは一年の大半を凍った国土に覆われるため、内にこもって思索の世界で飛翔する術を発達させた。そのため、小説、演劇、音楽、思想など、ロシアのものは何でも長い。言語としてのロシア語は、凍る気候で他言語と交わることが少なかったため、昔のラテン語の特徴がそのまま保存されている。

イギリスはヨーロッパを望む島国でありながら、貧弱な土地、霧に覆われる気候のため、生き生きとした文化が発達しにくい土壌にある。そのため、他の国の文明を略奪して廻る以外に文化を築く方法を持たなかった。その大半は今も大英博物館に安置されている。良心的な人々による自らの文化を築く営みは鬱屈した気候によって抑圧されるため、思わぬ爆発力をもって世界にショックを与える突然変異的な衝撃をもたらす。音楽の概念を変えたビートルズ、肉感、官能的な体型が趨勢を占めるファッション界に、40キロ台の細身にミニスカート・セーターだけを巻きつけて登場したモデル・トゥイッギー、世界のファンタジー出版地図を一変させたハリー・ポッター。言語としての英語は、世界中を点々と伝播することによって擦り切れ、古代の文法がほとんど消えて無くなっている。

アメリカは過去を持たない国だ。過去に見るべきものがないので、意識は常に未来に向かっている。今までがどうなのかよりも、これからがどうなのかを重視する。その実、従うべき伝統を持たないというコンプレックスがあるため、大体のアメリカ人は実は保守的だ。ディズニーのアニメは、完全なオリジナルの話はなく、すべて既存の物語の焼き直しである。他民族からなる複合国家であるため、民族間の思考の唯一の共通項である「論理」を徹底的に重視する。

日本は狭い国土、海に囲まれた土地で逃げ場がないために、お互いの顔色を伺いながら共存する和の文化が生まれた。既存の価値の破壊は安定した感覚を脅かすものとして排斥される。関係によって個が確立するため「恥」という道徳律が生まれた。人の目があるか否かが決定的に重要であり、日向と影、表と裏、本音と建前が激しく異なる。人生において快楽を悪と考え、苦難を耐え忍ぶことを美徳とする道徳律が潜在的に支配している。ゆがんだ平等感から個人間で差が生じることを嫌い、出る杭を徹底的に叩く。「調子に乗るな」という言葉はいかなる言語にも翻訳不可能。「正しいことが良いこととは限らない」ということに気付いている、世界唯一の民族。

やさしさとは

「やさしい人」ってどんな人?

以前、非常勤で教えていたときに、学期末に授業評価のアンケートをしていた。私が勤めていた学校は語学系ということもあって、9割を女の子が占める。
ひととおり授業についてのアンケートを作ったあとで、スペースが余ると、「好きな音楽は」「よく行く遊び場所は」「好きな異性のタイプは」などの質問を付加していた。興味の集中はすべて最後の質問にあることは言うまでもない。

「お金をいっぱい持ってる人」
「服のセンスがいい人」
「話が面白い人」
「イケメンくん・かっこいい人」

…きみたち正直なのね。
ちょっとは繕えよ。
そういう正直な回答のなかで、相変わらずもれなく挙げられる条件があった。
それが、「やさしい人」。

今も昔も、「やさしい人」というのは異性に対する条件としては不動の一位だろう。
とはいえ、どういう人が「やさしい人」なのか、休み時間に女の子に聞いてみたりする。

「えー、よくメール入れてくれる人とか」
「夜、寂しいと電話してくれるとか」
「記念日をちゃんと覚えててプレゼントしてくれるとか」
「会いたくなったらいつでも会いに来てくれるとか」
「荷物が重いときに持ってくれるとか」

それは「マメな人」じゃないのか?

どうも、最近では手数(てかず)の多さをかけることが「やさしさ」と呼ばれているようだ。メールだの電話だの誕生日だの、そんなものは自分の人生を顧みたときに本当に根本的な要因を成していると言えるだろうか。自分が生きていくうえで、それほど大事なものなのだろうか。蓋し、最近では目先の気持ちを満たしさえすれば、それが「やさしさ」と呼ばれるようだ。

どうやら、私の世代とは「やさしい」の意味が変わってしまっているようだ。
「やさしさ」とは、そう日常的に触れられる情ではあるまい。「やさしさ」とは、本人が行き詰まり、道に迷い、苦しみに嵌り、人生の袋小路に迷い込んだ最後の最後に、あらかじめ気を配ってあったかのようにそこに待ち構えているような思いやりのことを言うのではなかろうか。当然、やさしさとは、自分が窮地に追い込まれたときにしか出会うことのない情ではあるまいか。自分の損得を省みることなく相手のことを思う気持ちが、「やさしさ」の本質だろう。

彼女が仕事後の彼氏に会ったとしよう。なんか彼氏の機嫌が悪い。やたらと不平不満、文句が多く、ほとんど八つ当たりに近い。ここで、

(1)「なんでそんなこと私に言うのよ。私には関係ないでしょ」とキレる
(2)(ああ、なんか仕事で上司と衝突してるって言ってたから、なんか会社でイヤなことがあったんだな。しばらく当り散らしたら落ち着くかしら)と思って、相手の目を見てニコッと微笑む

世の女性諸君は、自分ならどちらの反応を選ぶだろうか。
どっちの対応が「やさしい」だろうか。
これは間違いなく(2)だろう。「自分の損得を顧みず、相手のことを思いやる」というのは、こういうことではないだろうか。男の一員として断言するが、(2)の態度をとられて上目遣いに微笑まれたら、130%の野郎は己の理不尽を悟り、土下座して落とし前をつけるだろう。詫びの印にモノのひとつも買ってくれるかもしれない。

最近でいう「やさしさ」が、手数をかける程度の浅いものだとしたら、優しい人を装うことなど簡単だ。心など要らない。はっきりいって単純作業だ。そのような表面上の「やさしさ」を重視する女の子たちは、のちのち大きな誤算に気づくのではなかろうか。

私の見たところ、「手数をかける頻度」と、「相手を思いやる心」は、どうも反比例の関係にあるような気がする。やたらと彼女にアプローチするマメな男は、どうも相手のためというよりも自分のためにやってはいまいか。反対に、相手を思いやる心の深い人は、あまりその心を相手に伝える手間暇をかけることには執着しないようだ。
中には、「相手を思いやる心」が深く、かつ「手数をかける頻度」も多い、というパーフェクトな優しさを持つ人もいる。しかし、そういう人は例外なく、自分自身の人生の主人公になっていない。他人に情をかけすぎるあまり、自分自身に気を回す余裕がないのだ。一人の人間が廻せる情の量に限界があるとすれば、その情をどう配分するかで、その人の情の質は決まるのではなかろうか。

「…もう一度…」
「十年後にもう一回言ってやるよ」
「十年に一度?」
「ああ。」
「…ケチ」

十年に一度でも、本当にその言葉が必要な一瞬にためらわずその言葉をかけるのなら、それがやさしいってことじゃないのかな。

「ひとつだけ約束してくれ」「なぁに?」「毎年、和也の墓参りに付き合うこと」「うん。」

鉄拳食らった強盗もアホだな

90歳の老人が強盗に正義の鉄拳食らわす
(2004.01.15 CNN News)

なんとまぁ。
こういう元気があるうちは当分元気なんだろう。無茶すんなよ。

このニュースを読んだ家主おじいちゃんが、全身から炎を出さんばかりに気合入ってるのがちょっと気になる。
おいおいおじいちゃん、強盗を見かけたら逃げろって。
「現地警察は凶器を持った強盗に立ち向かうことは奨励していない」ってところ、ちゃんと読んだか?

そりゃやりすぎだろ

アメリカの大学生はいまいち垢抜けてない。

授業にはスウェットにサンダルで来る。バッグなんてCoopで売ってる大学ロゴ入りのデイバッグ。化粧っ気も全くない。考えてみれば、学部生は全員入寮が原則だから、暮らしてる場所内でウロウロ歩き回るような感覚なんだろう。完全に大学内は「晴れ」じゃなくて「褻」の空間と化している。

もともと化粧の濃いのは好みじゃない。
健康な生活がにじみ出るような、屈託のない顔が好きなので、コテコテに塗りたくった顔はどうも違和感を感じる。

友達が化粧品会社に勤めている。
彼女がblogで、とんでもなく仰天モノのページを紹介していた。

おまえらそりゃ人としてレッドカードだろ。

女の子はすっぴんに限るという信念が固い確信に変わった。
技術じゃなくて魔法だろこれは。
何に魂を売り渡せばそんなになれるようになるんだ?
おそろしいなぁ。騙されちゃうじゃないか。

待機部隊っていう名前が。

【主張】民主党大会 改憲への姿勢は買いたい
(2004年1月14日 産経新聞社説)

■民主党――外交でも選択肢を磨け
(2004年1月14日 朝日新聞社説)

[民主党大会]「いまさら『国連待機部隊』とは」
(2004年1月14日 読売新聞社説)

社説1 民主党の国連待機部隊構想への疑問
(2004年1月14日 日本経済新聞社説)


これだけ、今の民主党は注目されているということだろう。現在の小泉政権に寄せられる期待がいかに風前の灯であるかを物語る。

首相の正月靖国参拝問題で、朝日以外の各誌からボコボコに叩かれた管直人だが、今回の民主党大会でも、総合するとあまりいい評価ではないようだ。

各誌とも、今回の民主党党大会での、夏の参院選に向ける方針としてポイントになるのは外交問題・国際協力体制にあると見ている。ずばり自衛隊派兵問題だろう。管代表は自衛隊とは別の「国連待機部隊」を設立し、国連の要請によってのみ海外活動に参加できる体制を提案している。

なんだかなぁ。

読売の鼻息が荒い。大反対、言語道断という勢いだ。顔を真っ赤にし青筋をたてる勢いを差し引けば、大筋としては妥当な議論だろう。
日経も国連待機部隊には反対の方針。
産経は今の憲法を取り巻く環境を常々憂いていたため、改憲についての民主党の姿勢は買いながらも、「国連待機部隊」については「なんじゃそりゃ」と渋い顔だ。

ただ、「国連待機部隊」について各誌の主張を並べてみると、日経が説得力において一歩抜きん出ている気がする。
日経は「国連待機部隊」発足に対する反対根拠として、
(1)準備、費用の圧迫
(2)出向形態の妥当性
(3)自主的判断の欠如に関する正当性
の3つを上げている。(1),(2)は実際問題、(3)は根本的な問題だろう。これらのポイントをしっかり明記しているだけでも相当に意見が整理されている。

他誌が問題にしているのは(3)だけだ。このポイントだけを採ってみても、日経が優れていると思う。
事の発端は、日本が「自主的な判断」で、「武力行為」を発動したときが第九条に抵触する、という問題意識だ。これでは「日本の自主的判断」でなければ「武力行為」をしてもよい、という極論に走りかねない。「自国の判断放棄」という問題と、「結果としての平和貢献」という問題の両端をきっちり指摘しないと、管代表を論駁することはできない。その両端の指摘は、日経がいちばんわかりやすい。読売は取り乱しながらも、一応その両方の問題点を抑えているが、論理的にまとまった書き方とは言い難い。

そもそも、産経が指摘しているように、民主党内では、この「国連待機部隊」についての見解が一致していないのだから話にならない。いわんや、提案そのものが妥当でないのでは、叩き潰される案のために一生懸命に党内意見を調整するムダを犯すことになる。

そのムダを「がんばるべきだ」と論じる朝日は血迷ったとしか思えない。主張のレベルが、他の3誌にまったく追いついていない。構造改革の具現政策、正月参拝問題などで現政権を叩いてきた朝日としては、民主党に肩入れしたい気持ちが働いているのかもしれないが、むしろ朝日内部で賛否両論が飛び交い、どこに対してもあたりさわりのない意見にこじんまりと纏まった、という記事に見える。世の中は、励ませばいいってもんでもあるまい。

ことばの能力

この時期になると、受験生が必死になって英語を勉強してることだろう。
「英語の読解力がいきなり上がるような勉強方法ってないかなぁ」と望むのは誰もが同じだ。

どうも、入試に限らず、外国語というのは「読めればとりあえず用が足りる」という場合が多い。
たとえば「まるで日記のように」さんのように感じるのは、まさに日本人の語学学習者に共通した実感だろう。

そこで問題。
「聞く、話す」はどうでもいいから、手っ取り早く「読む」能力を鍛える方法はあるだろうか?

答えは、残念ながら、ない
人間の脳は、そういうふうには出来ていないのだ。

電話をかける。
電話帳を見て、その番号を一発で覚えて電話をかけるとしよう。
(1) 目で見るだけで、番号を映像として記憶する
(2) 番号を声に出して口で言うことによって、その音の並びを覚える
どちらが効率よく覚えられるだろうか。
これは、ぶっちぎりで声に出すほうが覚えやすい。絵画などのイメージ映像と違い、シーケンシャルに並ぶ記号の羅列は、視覚能力よりも聴覚能力の方が記憶に深く関与していることが最近明らかになっている。歴史の年号を覚えるのに語呂合わせを使う受験生は、そのことを無意識のうちに使っているのだ。

アメリカ人はやたらと人の名前をつけて話す。
初対面の時にお互いの名前を交換すると、「オー、たくろふさんですか。よろしくお願いしますたくろふさん」と、目を見てしっかりと名前を発音する。その後の会話でも、「よろしかったらゴハンでも一緒に行きませんかたくろふさん」「明日のミーティングは3時ですよねたくろふさん」と、やたらと名前をつける。どうやら、彼らはそうすることで人の名前を覚えていくらしい。声に出すと記憶が定着することを、経験的に知っているのだろう。名刺をもらって、名前の文字をじーっと一分くらい眺めていても、翌日には忘れてしまう。

人間の脳の中には、言語を司る独立した領域がある。
その領域は、論理、計算、情報処理などの「頭脳系」に分類されるのではなく、運動、知覚、反射などの「運動系」に位置していることが分かっている。人間が言語を習得するときには、アタマを動かすというよりは、反射による反応に近い脳の働きをしている。

ホウキか、その長さに近い棒を用意して、手のひらの上に立ててみよう。支える手を離し、片手だけでバランスをとって手のひらの上に棒を立ててみる。誰でも10秒くらいは持つのではないか。実は、人間がこの「バランスをとる」という行為をしている間に、実に信じられない量の情報演算をしていることが分かっている。少し棒が傾いたら、その傾きを相殺するだけの距離と方向を割り出し、その距離を移動するだけに必要十分な運動を筋肉に命じる。現段階では、この芸当をするために必要な情報処理は、世界で最も優秀なスーパーコンピューターでも計算不可能とされている。人間がこれができるのは、頭脳で情報を演算するというよりも、感覚運動神経によって反射的に行動しているからだ。運動神経は経験によって上達可能なため、何回もやっているとコツが分かってきて、長い時間の間、棒を立てられるようになる。

言語も、これと同じ感覚運動神経に基づく反射行為である。「聞く、話すの訓練は面倒だし、そもそもそんな能力使わないから、読めるようにする能力だけつけてくれ」というのは、言ってみれば「棒を手の上に立てる練習をするのは面倒なので、どちらの方向にどのくらい棒が傾いたら、どれだけの力でどの方向に手を戻せばいいのかを現す一般式を作ってくれないか」と言っているのと似ている。そんなことするくらいなら、練習したほうが早いのだ。仮にそんな一般式を示されたとしても、それで棒立てがうまくなるはずはない。

言語は、音声を基本として人間の脳に定着する。音を発するよりも早く文字が読めるようになる赤ん坊はいないし、音があって文字のない言語はあっても、文字があって音のない言語は存在しない。生まれついての聾唖者は手話を母語として習得するが、それとて「腕を動かす」という運動を繰り返すことによって、反射動作となるまで体に染み込ませているのだ。決して、頭で手話の動きを情報として暗記しているのではない。

多くの日本人の共通の願い「話せなくてもいいから読めるようにしてくれ」という外国語学習の姿勢は、ひとえに学校教育にその責任がないか。
前にも書いたが、どうも現在の学校における語学教育には、「読みは文法と一体を成す、頭脳志向の営みだ」という固定観念がないだろうか。日本はTOEFL, TOEICがアジアで最低レベルなのを見ても、学校教育のあり方が間違っているのは明らかだろう。多くの国では、外国語学習の初期段階では、まず教科書を使わない。ひたすら喋る練習をする。相当に流暢に喋れるようになってからでも、その言葉の文字が読めない人は大勢いる。なんだかんだ言って、我々はローマン・アルファベットに慣れている。英語とはまったく違う記号体系、たとえばロシア語やアラビア語を学ぶことを思ってみよう。字が読めるようになるのは、学習過程の相当進んだ段階になってからだと思う。まずは聞くべし聞くべし聞くべし、マネして声に出すべし出すべし出すべし、なのだ。

「話せなくてもいいから読めるようにしてくれ」という望みが出ること自体、この国の語学教育は何かが変なのだ。

引きこもり中(プチ冬眠とでも呼んでくれ)

また雪が降ってる。しかも風が強いのでちょいとブリザード。

家の庭に雪が積もってるんだが、今朝よく見ると、ケモノの足跡がそこらじゅうに点々とついている。この辺はリスが多いからその足跡がつくのはまぁいいとして、歩幅からしてどうしてもシカとシカ思えない足跡もあり。シカも子供づれらしく、ちょっと小さめの足跡も傍らに揃ってる。

最初は面白いから餌付けでもしてみようと思ったが、ペットにするにはちょいとデカすぎる気がしたのでやめておいた。夜に「ハラへったぞ」とか言って襲撃されても困るし。

大学に人の気配が多くなってきた。建物の横を通ると、なんか人の気配を感じる。来週からは春セメスターが始まるので、みんなそろそろ準備をしているみたい。
そんなわたしゃなーんも準備してない丸腰状態。ほほほ。
いいのかこんなんで。

雪とかけて麻雀と解く。
その心は、フリコムほどにツモる。

免許制成人に一票。

it_teacherさんが、成人式について面白いことを言っている。

どこかで聞いたことのある話だな、と思ったら、

星新一編「ショートショートの広場(5) / 大人免許 (星野光浩)」(講談社文庫)

で、似たような話があった。
たしか上記のショートショートでは、年齢に相応した段階に見合う様々な試験があり、最終的に「老人試験」に合格すると年金が授与され、若くして悠々自適の生活が送れる、というオチだったと思う。奇抜なこと考えるなぁ、と思ったけど、同じことを考える人っていうのはいるもんだ。

たしかに、人間を見るときに、その年齢に相応な「合格ライン」をクリアしてるか否かで人を見ることは誰もがよくやってることだろう。
ホントのところ、誕生から物理的に20年経てば自動的にみんな同じ社会的立場、ってのは実際問題としてヘンだよな。

プリウスほしいな。

社説 日本車の躍進と米ビッグスリーの凋落
(2004年1月13日 日本経済新聞社説)

日経、容赦ねぇ。

「悔しかったら日本車よりも優秀なクルマ作ってみろ」といわんばかりの、なかなかの啖呵だ。たしかにアメリカ車と日本車の大きな違いは「燃費」と「故障頻度」だから、日本車がよく売れるのも当然だ。アメリカではFORDとはFix Or Repair, Dailyの謂だというのが、冗談になってない。

日本の主幹産業がこれほど海外の脅威になってるとはね。
やっぱこっちでも日本車買おうっと。

メッセージ

20歳の君に――世界に一つだけの花
(2004年1月12日 朝日新聞社説)

こういうのをメッセージというのだろう。

本文中には、新成年を名指しして意識を植え付けようという記述はない。しかし、表題がなくても、読む人がきちんと読めば、読み取るべきものがちゃんと書いてある。読みやすい書き方だが、書きにくい書き方だと思う。

「そんな時代に巡り合わせた若者たちは、父親や母親たちとは違う生き方を自分たちで見つけなければならないから大変だ」という言葉は、むしろ若者よりも両親の世代こそ認識する必要があろう。

ドレミの詩(うた)

昔、ピアノをたしなんでいた。
楽譜を見るたびに不思議だったことがある。

音楽では、「音名」と「階名」を区別するのをご存知だろうか。
「音名」というのは、周波数で絶対的に表される音の高さを示すものだ。440HzをAと定め、周波数が2の整数乗になれば、その整数分だけオクターブが上がる。日本では音名は「ハ、ニ、ホ、へ、ト、イ、ロ」で表している。他の音との比較ナシに単音で周波数を感知できる能力が、いわゆる絶対音感である。I wishのキーボード、naoはこの絶対音感の持ち主。ゴスペラーズには絶対音感の持ち主がいないため、歌い始めの音を取る為に音叉を使っている。

それに対し「階名」というのは、主音との関係によって音階の各音に付けられた、相対的な名前のことだ。長調の場合、主音をドとし、上に向かって以下レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シと名付ける。一方、短調の場合は、主音をラとし、上に向かって以下シ、ド、レ、ミ、ファ、ソと名付けるのが一般的だ。

つまり、ハ長調の「ド」と、ニ短調の「ド」は、階名は同じでも、違う音名のつく違う音なのだ。説明するとややこしいが、これはピアノやバイオリンを習っている5歳の女の子でも感覚として身につけているほど基本的なことである。

音名を「ハ、ニ、ホ、へ、ト、イ、ロ」という大和ことばで表すのは、まぁ分かる。私が疑問だったのは、階名の「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ」というのは、いったい何なのだろう、ということだ。何語なのかすらも分からない。この謎の記号は、いったいいつ、どこで、どうやって決まった名前なのだろうか。

最近、その謎が解けた。
「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ」というのは、ラテン語だそうだ
ラテン語で古くから伝わる「パプテスマのヨハネ賛歌」という歌がある。

Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famili tuorum
Solve Polluti
Labil reaturn
Sancte Johanes

この歌は「ドレミの歌」のように、それぞれの行で一音ずつ上がっていく。各行の歌詞の先頭の音をとって、階名がつけられたらしい。主音の「ut」は口調をよくするために「do」に変えられ、第七音はSancte Johanes(聖ヨハネ)をフランス語表記したSaint-Ianから「Si」になったそうだ。この歌から「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ」を作った人も分かっている。11世紀のイタリア人、グィードという人だそうだ。Johanesを勝手にIanに変えてしまうと、もはや「ヨハネ賛歌」ではなくなっちゃうのではないかという懸念はないのだろうか。

外来語を母国語と勘違いしたり、その逆の勘違いをしたり、ということはよくある。まさか小学校の時に習った「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ」が、ラテン語だとは思わなんだ。我々が小学校で最も早く習う外来語は、実はラテン語だったという衝撃の事実。

僕と違い、兄は長じてもピアノをたまにつまびくらしい。兄曰く、「音を聞くと、本当にその音に聞こえる」んだそうだ。ドの音は、ほんとうに「ド」、ファの音は本当に「ファ」という言語として聞こえるらしい。それって本当だったら絶対音感では。絶対音感はそれだけで相当なカネになる才能だ。鍛えて身につくものではない天性のものなので、使わない手はない。

おい兄、職業間違えてないか?

はらいっぱい

アメリカ経済は例外的に景気がいい。

なにせムダ使いする。「必要なもの」じゃなくて、「欲しいもの」「面白そうなもの」を買う。景気というのは貯蓄通貨量じゃなく、流通通貨量で決まるから、ひっきりなしにカネが流れるアメリカはのべつまくなしに景気がいい。お母さんが「ムダ使いするんじゃありません!」なんて子供を叱ってるうちは、日本の景気は良くならないだろう。貯金は景気の敵なのだ。

部屋の近くにあるファミレスに行く。アイスクリーム屋さんが母体になってる、まぁ日本の不二家みたいな感じのファミレス。勉強して頭が疲れるとちょっと甘いものが食べたくなるので、サンデーを頼んだらまぁびっくり。大ジョッキみたいな量のガラスの器に山盛りになって出てきた。ほんとに一人分なんだろうか。

アメリカの甘いものは、ほんとに甘い。ケーキなんて砂糖のカタマリみたいのが出てくる。それをペロッと食べるアメリカ人。で、太らないようにせっせとジムに通って運動する。

日本の女の子は、極力甘いものを食べないようにしてカロリーを調整しているような気がする。甘いものが好きな娘でも、さすがにあのアメリカのパフェやサンデーは食べられんだろう。で、運動をしない。
甘いものをバリバリ食べて、バリバリ運動する種族と比べると、どっちが金を使うかは明らかだ。こういうところにも、景気の浮き沈みの原因がある気がする。

サンデーを食べながら日米の景気比較に思いをはせる午後でした。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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