たくろふのつぶやき

お鍋には熱燗をつけてくれたまへ。

いい天気でいい気分。

家主おじいちゃんのクルマがピンチ。とうとうイカれたらしい。パークウェイを走ってたときにいきなりのエンジントラブル。
しょーがねーよな。あのクルマ、オレより歳くってるから。
「たくろふはクルマ探してたよね、あれ、いる?」だって。いるか。

アメリカのTVガイドは見方がよくわからん。
日本みたいに、時間と放送局順に表になってない。各時間帯ごとにだらだらと横書きに記述してあるだけ。インターネットの番組表もよく見方が分からん。
一番確実なのは、「TVガイド専用チャンネル」というチャンネルで、その時間にどんな番組をやってるのかをチェックすること。2時間先までしかわからんけど。

テレビで日本のアニメをよく見かける。一番多いのはポケモン。英語で見てもストーリーがよく分からん。
ドラゴンポールはよくDVDが売ってるが、なんと14歳以下制限付き。お子様向けではないらしい。人を爆死させたり、腕ちぎったり、挙句の果ては街を破壊したりしてるからなぁ。

バロンドール受賞ネドベドにトッティ大批判

 ネドベド(ユベントス)のバロンドール(欧州最優秀選手)に、イタリアサッカー界が猛反発している。「彼はファンタジスタではない」と、このブーイングの大合唱はしばらく続きそうだ。

 「ネドベドはバロンドールにふさわしくない」と口火を切ったのは、セリエAで首位に立つASローマの主将トッティ。テレビ番組で「彼は今季、最上のプレーをしたが、テクニックの面で特に優れているわけではない」と批判した。

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出典が「夕刊フジ」なんで、念のためイタリアの報道を調べてみたら、ホントだった。

いいじゃんねぇ、ネドヴェド。
個人的にはあーゆー泥ヨゴレ仕事するプレーヤーは好きだけどな。
ネドヴェドって「うまい」っていうより「強い」って感じのプレーヤーだしね。

トッティは「彼はファンタジスタではない」と言ってるけど、ファンタジスタがパロンドールの条件ってわけじゃないのにね。
だったらキーパーは絶対受賞できない。

イタリアのマスコミも「もしタイトルを取っていたらトッティがパロンドールだったろう」といってるみたいだけど、ネドヴェドは実際にタイトル取ったしね。
だまれ敗者、というところだ。

もしかしたらこういう不満を感じるところに、最近イタリアがタイトルから遠ざかってる原因があるのかもしれないな。
サッカーはファンタジスタが11人揃っても勝てるわけじゃないのにね。
イタリアのサッカーってのは、どーしてそうファンタジスタをひいきするかなぁ。

でも、個人的にはこれでネドヴェドに調子に乗ってもらいたくないなぁ。
チェコは、EURO2004の予選プールで、たくろふひいきのドイツと当たってるからなー。

おーいネドヴェド、ケガしていいぞー。

「ペンは剣よりも強し」

わははは。ウソをつけ。
だったらためしに戦ってみろ。

ある大手新聞社の入社試験で、「ペンは剣よりも強し」という題で作文を書かせたそうだ。試験を受けたほぼ全員が必死になって「ペンはいかに剣よりも強いか」を論じており、逆に「実は剣のほうが強い」ということを書いた受験生はひとりもいなかったという。採点官はうんざりして、「剣のほうが強い」ということを書いた受験者がいたら、もうそれだけで2次、3次面接を免除して採用したくなったらしい。

歴史を紐解くまでもなく、焚書坑儒をはじめとして文筆が権力に屈した例は数限りない。現在では世界最高の水準を誇るドイツ医学界さえ、20世紀前半には権力に屈し、「人間の能力の優劣比較は民族間の相違に基づく」という遺伝子学の見解を取らざるを得なかった暗黒の時期がある。

ことわざというのは、世の中の真理を表すものでは決してない。
「二度あることは三度ある」
「三度目の正直」
どっちだ。
「ペンは剣よりも強し」という言葉は、「こういうふうにできている」と世の中を喝破したものではない。そうではない世の中を憂い、「こうあれかし」という願望をこめたものだ。

よく教訓話で偉そうにことわざを引用する手合いがいるが、よく内容を検証してみると、ことわざの使い方で論理的に破綻していることが多い。有能な社員としては、社長の訓示に内在する論理の破綻をその場で指摘し、社長に一回り大きく成長して頂くに如くはない。クビの危険など顧みてはならない。

個人的に好きなことわざは「二階から目薬」である。
場面を想像しただけで爆笑できる。

「指導要領改正 死語化した「ゆとり教育」」
(12月27日 産経新聞社説)
[指導要領改訂]「誤った教育観が混乱を招いた」
(12月27日 読売新聞社説)

両者とも手厳しい。
「見直しは当たり前だ」という論調だ。

計算、漢字などの上達は「1000本ノック」式のドリル学習以外に、上達は無理だろう。
読売の方には「最近、ドリル学習が盛んになっている」とあるが、今までやってなかったのか?
オレが小学生の頃は、計算ドリルを友達と競争して解いて、勝ったの負けたのとよくやっていたものだ。

「ゆとり教育」的発想は、実はアメリカで20年ほど前に実施され、悲惨な結果に終わっている。
「個性を尊重・自由な発想」などと、ちょうど今の日本の文部科学省と同じことを謳って初等教育のカリキュラムが大幅に削減された。結果としてどうなったか。
陸軍の新配卒の兵士が、弾薬を取り扱う説明書に書いてある英語が読めなくなっていたそうだ。
それまでは「知ってて当たり前」の言葉の意味が通じない。

産経の指摘、「日本人は元来、学問好きな国民である」は、もっともだと思う。
お稽古をはじめ、自分の能力を伸ばすのが好きなんだろうな。
どこぞの国みたいに「知育に優れることが良いことであるというのは一面的な価値観だ」などと小うるさいことを言う奴もいないし。
少なくとも初等教育において、知育に優れることは良いことだろ。

スタジオジブリの作品の中では「天空の城 ラピュタ」が一番好きだ。
夢と冒険にあふれたストーリー、速い展開としっとりとした情景のバランスは、シリーズの中で秀逸だろう。
シータとパズーがお互いを想いあう、ほのかな恋の要素もよろしい。

DVDで見る。年末でヒマだからのんびり見れる。
ベットにひっくり返り、ポップコーンをもぐもぐ食べながら見ることにした。

DVDのいいところは、音声、字幕が日本語と英語で選択できるところだ。
英語を勉強してる身としては、ここはやはり英語だろう。
英語の映画を見ると、口語表現がダイレクトに身につくので非常に勉強になる。

物語の途中で、非常に気になるセリフがあった。
軍隊から開放されたパズーが、とぼとぼと家に帰り着くと、海賊のドーラ一家が勝手に家を占領している。
飛行石を奪うべく軍隊に襲撃をかけようとするドーラに、シータを助けたいパズーが仲間に入れてもらう場面だ。

「おばさん、僕を仲間に入れてくれないか、
シータを…助けたいんだ。

このセリフを、英語で聞いて驚いた。

"Dola, please let me come along with you.
Sheeta means everything to me."
(「シータは僕の全てなんだ」)

ほのかな恋どころの騒ぎではない。
大きく出たなパズー。お前はイタリア人か、フランス人か。

なぜ英語に吹き替るえときに、こんなセリフにしたのだろう。
I have to rescue Sheeta、ではダメなのだろうか。

ここらへんに、男女関係に関する日米間の相違が見られやしないか。
男女は平等である。そんなことは常識である。
しかし日本において、若年の男女関係において男女が平等というのはまったくのウソである。

「私の彼、毎日大学まで車で送ってくれるの。」
「へえー。いいなぁ。」

自分で動け。
こういう風潮をよしとするのは、「男は女のために働く」という一方的な認識がありはしないか。
学校は、自分が自分のために行く場所だ。その場所に、他人に依存して通うのを喜ぶとは何事か。
女性の側が本当に独立した立場で男性と共存するとしたら、可能な限り自分で行動しようとするはずではあるまいか。
毎日の送り迎えなどを押し付けられたら、怒ってしかるべきだろう。

どうも日本では、「女性は男性に助けられるもの」という前提がありはしないだろうか。
軍隊に拘禁されている間も、パズーは自力で脱出しようと懸命に壁を這い上がる努力をする一方、シータは窓際にぽつんと座ったっきりなんの努力もしない。

平等という意味をきちんと考える欧米では、男女とも一方的な依存関係に陥ることを嫌う。
「独立した個人同士」、せいぜい「持ちつ持たれつ」というのが当たり前の関係だ。
当然、「お前は俺がいなきゃダメなんだな」などという言動は、もっともプライドを傷つける禁句である。

もしパズーが、"I have to rescue Sheeta" などと口走ったらどういうことになるか。
印象として、「パズーはシータの保護者ぶってる、偉そうな顔をした奴」というイメージができてしまうのではあるまいか。

「シータを…助けたいんだ」というセリフは、日本の価値観の中では、パズーがシータに対する万感の想いをこめたセリフとして受け取れる。
だったら、英語に訳すときにも、「英語圏における、相手に対する万感の想いをこめた表現」に訳せばいいのだ。
それがSheeta means everything to me.であろう。
日本語でこんなことを言ったら赤面ものだが、英語では普通に使う。
なにも一字一句を辞書に忠実に訳す必要はないのだ。
翻訳というのは、表現ではなく、心を訳すことではあるまいか。

以前レンタルビデオ店でアルバイトをしていたときに、店長に「ありがとうございました」というのは英語でなんていうのか訊かれたことがある。
「ありがとうございました」というのは、礼ではあるまい。来店した客と商品のやりとりという触れ合いをもったあとに、その一時的な人間関係に対する「残心」を伝えるものだろう。
そう考えれば、英語でそういう「残心」をあらわす表現を使えば、「ありがとうございました」を英語で言うことになるのだ。
英語ではレジの女の子はThank you very muchなどとは決して言わない。
Have a nice day.と声をかけてくれる。

ちなみに個人的には、適度に甘え上手な女の子は大好きである。
なぜなら日本人だからだ。文句あるか。

晴レルヤ。いい気分。

家主おじいちゃんの甥さんとその息子さんが帰宅。
おじいちゃんがガクーっと落ち込まないように夕ご飯でも一緒に食べに行くかな。

アメリカは電話の市内通話がタダ。だからインターネットでダイヤルアップを常時接続しても、どうってことはない。

ただ遅い。ダウンロードなんてメチャクチャ時間かかる。そーゆーのは研究室のLANを使うことにしてるが、たまに部屋でなにかダウンロードする必要があるときとかはトサカにくる。

Yahoo!BBみたいなサービスもあることはあるが、お金もったいないしなぁ。うーむ。

否定表現に興味がある。

日本語の否定疑問文ってのは、一体何をスコープにとってるんだ?
「わたしのこと好きじゃない?」と女の子に聞かれたら、「うん」か「いや」か、どっちで答えりゃいいんだ。
聞かれたときに備えて、ぜひとも答えを準備しておかねばなるまい。

英語は簡単だ。肯定疑問だろうが否定疑問だろうが、OKはOK、NOはNOなんだから。

マジメに考えると否定表現はonlyなんかとscope interactionを起こす量化表現なんだから、その量化対象をはっきりさせないとキモチ悪いな。
「たくろふは、昌博だけをいじめなかった」と言ったら。
(1)たくろふはいじめっ子だが、昌博だけをひいきして、いじめなかった
(2)昌博だけでなく、彼もろとも全員いじめた
二つ意味があるもんな。

そんなこんなでロシア語にちょっかい出してみた。ロシア語の否定表現は二重否定が否定のままだったり、case licenserになったり、ちょっと異様。否定の構造を考えるのにちょっと面白いかも。ちょうどOkusamaもいることだし。

待てよ。否定疑問文をやるということは、
鬼門の疑問文の意味を正面攻撃する必要があるのか?
ひえー!!

まぁいいや。
とりあえず女の子に「わたしのこと好きじゃない?」と聞かれたら
「問いが妥当ではない」と答えておこう。

一撃で終わるな。

昼ごろのこのこ起きだして、お昼を食べにカレー屋さんに行った。お昼はビッフェ方式の食い放題
いつものように、調子に乗って食いすぎた
なにやっとるんだ俺は。

はらくるしいので大学の本屋にピットイン。店番やってた女の子とちょっとおしゃべり。

Simon Winchesterの新作、The Meaning of Everything を発見。彼は、何年か前にThe Professor and the Madman (「博士と狂人―世界最高の英語辞書OED秘話―」)という本を書いてベストセラーになった作家。今回もタイトル通り、OEDの物語。
そもそも百科事典、年鑑などの参考図書が大好き。世界中の叡智をわが手に入れた気分になる。OEDも辞典としてはえらく使いにくいシロモノだけど、なんいってもその規模と根性が頼もしい。

結局、即買い。いいのかオレ。
何週間かしてペーパーバックで出たらブチ切れるぞ。

アンデルセンの「裸の王様」。有名な寓話なので読んだことがある方が多いだろう。

インチキ洋服屋が、王様に洋服を献上するフリをして、「この洋服は愚か者には見えないのです」などと抜かす。王と家臣は愚か者と思われないために、服が見えるフリをする。王はパレードを行う際に、その服を着ることにする。観衆も事情を知っており、みな服が見えるフリをする。そこで一人の子供が「王様は裸だ!」と叫ぶ。王を含め、居並ぶ大人はリアクションに困る、という話だ。

この寓話から、大部分の読者は教訓を読み取るだろう。すなわち、「見えもしないものを、見えるフリをするな」とでもいうべき教訓である。

ん?

アンデルセンの原作を読んでみると、「…このように、見えないものを見えるフリしてはいけませんね。皆さん気をつけましょう」などという地の文はまったくない。アンデルセンは教訓をはっきりと書いているわけではないのだ。

つまり、我々は、「見えもしないもの見えるフリするな」という教訓を、「見えもしないのに勝手に見えるフリをしている」ことになる。
この寓話ははたして教訓話なんだろうか。

文学理論の方法論のひとつに、脱構築というものがある。簡単に説明すると、

1与えられたシステムを形式化し、
2そこに自己言及的な決定不能性を見いだし、
3そのポイントを超越論化することでシステム全体の構造を逆説的に説明する

というステップを辿る。簡単すぎてかえって分からないが、つまり物語からAとBという二つの対立する要素を抜き出し、どっちかの勝ち、という優劣をつけたあとで、矛盾をみつけ、「そういうお前はどうなんだ」というツッコミを入れる、とでも思うとよい。

気をつけなければならないのは、最後のツッコミは、物語の外の視点から行う必要があることだ。3.の「ポイントを超越論化する」というのはそういうことを言っている。

「裸の王様」の場合、
王様・家臣・観衆など「場のノリに合わせて見えるフリにノる」のがA、
子供のように「見たまんま正直に言う」のがB、
と分けられる。物語の意図は、明らかに「Bの勝ち」であろう。ところが、この物語自体が寓話として教訓を含んでいるとしたら、この本はBの「見たまんま主義」を重視しておきながら、物語自体は「見たまんま」解釈されることを拒んでいる。つまりテキストとして書いていない教訓を読み取ってもらわないと困るのである。
つまり読者は、「見たまんま主義」を標榜する物語そのものに対し、「そういうお前はどうなんだ」というツッコミを入れることができる。

このように、脱構築の観点によると、自ら肯定している読解を否定するような高次の盲点が存在することを暴くことができる。

小さい子供にこの物語を読んで聞かせたあと、「こういうふうにね、見えないものはちゃんと見えないって言わないといけないのよ」とでも言ってみると面白い。即座に「でもそんなことどこにも書いてないから見えないよ」などというガキは、理屈を並べてまったく勉強しないガキか、理屈を並べすぎて30歳過ぎても勉強をやめようとしないガキか、どっちかだと思われる。

オレのことじゃないぞ。

<指導要領>ゆとり重視を見直し改定へ 文科省
 文科省は、学習指導要領を超える内容を児童生徒に教えられることや、総合的な学習の時間を有効に使うことを明確にするため、指導要領を改正して26日付で告示する。10月の中央教育審議会の答申に沿ったもので、導入されて間もないゆとり重視の現行指導要領は、学力低下の批判に押され、見直された。(毎日新聞)

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早すぎゃしないか?

まだ「ゆとり教育」とか言い出してからそんなに経っちゃいまい。
小中高校はゆとり教育に「右へならえ」で、すでに2学期制を導入済み。カリキュラム的には元に戻すのは不可能だろう。そんなに早く見直すハメになることくらい、施行前にイヤってほど指摘されてただろうに。
だから言わんこっちゃない。

見直しの答申を見てみたいな。
つねづね、文科省の謳う「生きる力」ってのが何なのか不思議だった。中教審でその方針が見直されるとしたら、「やっぱり、『生きる力』ってのはどうでもいいです」なんて改定をしてくんないかな。

Nude Man Pulled From Chimney on Christmas

MINNEAPOLIS (AP) -- A naked man got stuck in the chimney of a bookstore early Christmas morning. Don't worry, it wasn't Santa Claus.

The 34-year-old man was treated Thursday for bruises and abrasions at Hennepin County Medical Center after being found naked and lodged in the furnace flue at Uncle Hugo's Bookstore. He was expected to be charged with attempted burglary on Friday.

"He was lucky," said police Lt. Mike Sauro. "He was only stuck in that chimney for a few hours. It's kind of a happy ending, because if he had been in there until that store opened Friday morning, it's my judgment he would have died.

"He doesn't appear to be a hard-core criminal, just stupid."

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アメリカにはこういうバカがいるから楽しい。

強盗に入ろうというのはいいとして、なぜハダカで、しかも煙突から入らにゃならんのだ。
クリスマスだったから血迷ったか。

警官のコメントがまたふるってる。

"He doesn't appear to be a hard-core criminal, just stupid."
(「いや、凶悪犯罪者ってわけじゃないですよ、ただのバカです」)

…言われたほうも本望だろう。体張った甲斐があったな。

高等学校における従来の英語教育の目的は、「読解によって英文の内容を理解する」という以外に、もうひとつの側面がある。学校教育一般的に言えることだが、「与えられた任意の知識体系を、整理し把握する能力」である。

よく高校生が発する疑問に、「数学なんか勉強して人生になんの役に立つのか」というのがある。それを言うならプレイステーション、マンガやサッカーは人生になんの役に立つのか、はたまた真の意味で人生の役に立つものって一体何だ、と問いたいが、まぁそれは置いておこう。数学を学ぶ上で、数学自体に絶対的価値があるわけではない。「数学」というひとつの知識体系の全体像を捉える訓練こそが重要なのである。要するに、歴史だろうが、化学だろうが、建築だろうが、料理だろうが、分野はなんでもよろしい。ひとつの分野を体系的に把握する能力の育成が中等教育の目的のひとつであろう。高校で学ぶ数学などは数学全般からしてみれば、所詮、箱庭のごときものだが、その箱庭を完璧に整備する能力こそが重要である。物理、世界史、古典など、高校で教わる科目はすべてこの目的を含んでいるといってよい。

高校時代に「知識体系を自分なりに整理して理解する方法」を習得していると、就職して社会に出てからどんな分野にも対応できる柔軟性が生まれる。高校時代から就職に直結する技術を身につけているケースは例外で、大抵は就職してから、初めて触れる分野や世界に対応する必要が出る。そのときに、自分なりの把握の仕方ができているとできていないとでは大きな差がある。

そこで英語である。英語は語学であり、頭脳で理解すべき知識体系ではない。それが英語の例外的な性質である。英語は数学、化学、日本史などと同列に扱うべきものではなく、体育と同列に扱うべきものだ。つまり、思考によって頭脳に知識を蓄積させるのではなく、口と手を動かす反復練習によって体に浸透させるべきものである。頭で英作文をしながら会話しているうちは、英会話ができるとは言えまい。無意識のうちに、染み付いた表現が口をついて出てくるようになってこその会話だ。

そこに大きな陥穽がある気がしてならない。英語教師の側に、「英語は数学や理科と同じく、一般化された基本原則からすべての現象を導くことができる知識体系である」という誤解がないだろうか。すべての文章を例外なく説明できる万能の文法規則などあり得ない。高校の授業では、文法規則を数学の公式の如くルールとして扱う教師がいる。文法というのは、「その言語を観察してみると、どうやらこういう傾向がありそうだ」というものを記述しただけに過ぎない。予備校の英語の授業でも、英文法を「正答を導き出す魔法のアルゴリズム」の如く振りかざす者がいるが、果たして語学をする姿勢として正しいだろうか。

以前に記したように、文法は雑多な言語知識を整理し、体系的な全体像を与えてくれるという点では有用だ。しかし、あくまで手段であって目的ではない。私が高校生のころ、一言も英語の文章を口から発することのないまま、黙って板書をノートするだけ、という英語の授業があった。立ち止まって一歩も動くことのないまま練習が終わる運動部に等しい。何の力もつかない。

語学に必要なものは「慣れ」だ。週4時間、授業を受ければ上達するという性質のものではない。一日24時間、常に機会を狙って口にする執念がぜひとも必要である。アメリカに留学してみると、各国から集まる留学生が非常に流暢に英語を話すのを見て驚く。TOEFLで満点を取っている者も珍しくない。彼らに語学の勉強の仕方を聞くと、例外なく「native speakerとやたらめったら喋り倒す」という返事が返ってくる。とにかく喋る。間違えたら直してもらう。直してもらったらその場でその表現を10回ほどマッハで繰り返す。そして以後、意識的にその表現を多用する。彼らは、椅子に座り机に向かい、教科書を広げて語学を習得するのではない。

理論言語学は、言語という現象を一般化した規則で説明することを試みる学問である。英語が語学であることを失念した教師が魅力を感じるのは当然と言えよう。文法を規則として公式化し生徒に伝授したい英語教師が飛びつきたくなる気持ちは分かる。しかし、理論言語学は当該の言語の上達を目標とはしていない。極端な話、その言語の文字がまったく発音できなくてもその言語に対する理論的分析は可能である。日本語が話せないのに日本語の分析をしている海外の研究者も多数いる。英語教師が理論言語学の扉を開いても、そこにあるものは天文学、物理学、地質学などと同様の経験科学の方法論に基づく理論構築があるだけで、入試問題を一瞬に氷解させる魔法の奥義があるわけではない。

外から理論言語学を眺めるだけの者ならいざしらず、大学で仮にも言語学を履修した者ならば、教育現場で言語学的知見などを振りかざしたりしたら、見識を疑われるのではなかろうか。

文部科学省が音頭をとって「コミュニケーション重視」の外国語教育を謳って久しい。これからの時代は、読みだけに偏重せず、会話能力をはじめ総合的な言語能力を育成しようというのは、まぁ、自然な流れであって非難するには当たらない。

ところが高等学校の現場を見てみると、どうもその精神が徹底しているとは思えない。私にはその原因が明らかであるように思える。それは、大学側が高校生に要求する英語能力と文部科学省の新方針が一致していないからだ。高校の現場では、どちらかの要求にしか応えられない二者選択を迫られてるのではあるまいか。

大学は、英会話ができる学生が欲しいのではない。英語の文献を読みこなし、疑問点を発見し、それに対する自分の見解を英語で表現できる学生が欲しいのである。「英語ができる」学生ではなく、「英語で学問ができる」学生である。つまり、大学という環境では、明治政府の目指していた「英文書の内容を把握する能力」が未だに大きなウェイトを占めている。

大学側が学生にどのような能力を欲しているのかは、入試問題を見れば分かる。顕著なのは京都大と一橋大だ。この二つの大学は相当な英語力が要求される手ごわい論説文と英作文を出題する。その問題形式は、まさしく「書いてあることをきっちりと理解し、作文で表現する」ことに尽きる。学問を修めるのに最低限度の能力と言える。文部科学省の新方針など知ったこっちゃない。
高校の授業は、大学入試の傾向によって大きく内容が左右される。大学側が依然として旧態の英語能力を要求しているのであれば、高校の現場も授業方針を大きく変える必要はないという大義名分が手に入る。

文部科学省の新方針にいち早く反応したのが、センター試験と東京大学だ。特に東京大学の、ここ5年ほどの問題傾向の激変は目を見張るものがある。従来の定番だった下線部訳と要約問題が著しく縮減され、パラグラフの並べ替え、リスニングの増加など、「多角的な英語力」を問うものになっている。東大の受験準備には、ひとまわり前の赤本は、もはや役に立たない。センター試験も、単発知識を問う問題が減り、コミュニケーション能力をはじめ「いかに英語に慣れているか」を問う問題に移行しつつある。2006年にはリスニング導入の予定もある。

現場の教師に歓迎されるのは、前者の出題形式だろう。「受験問題の解答指導はできるがALTとは会話ができない」という不思議な英語能力を持った英語教員は、前者のように伝統的な英語の授業が通用する出題形式を歓迎するのではあるまいか。

そういった教員には残念ながら、大学入試の傾向は、徐々に後者の出題形式に移行しているようだ。英語でコミュニケーションをとる能力をつけなければならないのは、生徒以前にまず教師だろう。

専門学校で非常勤をしていた頃、最近の中学高校の英語の教科書を見る機会があった。
特に中学の教科書に驚いた。文法事項の説明が一切無い。しかも、私が中学のころの英語の教科書は、いわゆる「本文」というのがずらっと書いてあったものだが、最近の教科書はすべて登場人物の絵に吹き出しがついていて、セリフ調で英文が書いてある。まるでマンガだ。

前回、「学校教育の現場に理論言語学の知見は無意味だ」という趣旨のことを書いたら、反響のメールが来て驚いた。まだページを作ったばかりで、カテゴリーにも登録されてないというのに、結構こんなページを見ているヒマな方がいらっしゃるものだ。
メールは高校の現職を退いて、私立高校で嘱託講師をされている年配の女性だった。初学の段階で文法中心に英語を学ぶことの重要性をこんこんと説かれている。「文法をより効果的に教えようと、今までにない知見を用いようとする件の女性の姿勢はすばらしいものだと思います」とあった。

何か誤解があるようだ。
私は、高校の英語の授業で文法が一切無用だとは言っていない。語学を学ぶ上で、文法知識はどのみち必要だ。そんなことは、あたりまえだ。問題は、文法をどういうタイミングで、どのように教えるか、そこに学問的な知見は有用なのか、である。

そもそも、日本での英語教育は何を目的に始まったのか。
簡単に言うと、「欧米の技術を盗むため」である。明治政府は、日本が欧米に比し格段に学問、技術力で劣ることを素直に認めていた。欧米の技術を盗むには向こうの書物を読めないことには話にならない。よって読解中心の英語教育が行われた。聞く、話すは後回し、とにかく書物に書いてあることを吸収する能力の育成が先決だった。今となっては笑い話だが、当初は英語を、漢文のごとく返り点を打って日本語で読み下すという案もあったそうだ。いかに音声教育が軽視されていたかを物語る。

良かれ悪しかれ、日本の英語教育はこのように「読み中心」で行われていた。こういう旧態依然の方法をここでは便宜上、「文法偏重読解系」と呼ぶことにしよう。また、明治政府が軽視していた音声に基づく会話能力を育成する方法を「音声重視系」と呼ぶことにしよう。「文法偏重読解系」の教育方針においては、とにかく書面の英語に書いてある意味さえ分かれば目的は達成されたことになる。その教育方針では、文法というのは謎の文章を解き明かすことができる魔法の鍵だった。一種の奥義と言える。数多くの文法奥義に通じている者が、数多くの文献を読むことができる。当然、文法が一種の技術となり、「それさえ修めれば英語に通じることができる」という幻想をもたらした。日本の英語教育は、このような事情を土台として一世紀もの間進展してきたのだ。

ところが時代は変わった。日本が欧米を一方的に追随する関係は終焉し、英語で書かれた文献を読み、書かれていることを理解して満足している段階は終わった。日本は自国でもたらされた成果を世界に発信するべき立場になった。対等のレベルで欧米諸国と技術共同開発を行い、成果を競い合う時代だ。がむしゃらに頑張った挙句、気がついたら日本は経済、国際関係、技術、すべてにおいて発信すべき側に回ってたのだ。ここで問題なのは、時代と立場が変わり、するべきことが変わっても、英語教育の基本方針は変わっていなかったということだ。「文法偏重読解系」の英語教育しか受けていない者は、下の世代にもその教育しか施すことができない。日本の英語教育は時代に対応していなかったのだ。

文部科学省は、遅ればせながらそのことに気がついた。平成11年の学指導要領改正で、「外国語」の項目を見ると、やたらと「コミュニケーション」という言葉が強調されていることに気がつく。ここにきて「音声重視系」式の教育の必要性が叫ばれるようになった。しかし問題は、高校の現場において「文法偏重読解系」の教育しか受けていない中高年の英語教師が、英語を話せないことだ。ここでいう「英語が話せる」というのは、日常会話や質問ができるレベルのことをいうのではない。自分の考えを伝えるために英語で議論や喧嘩ができるようになってはじめて「英語が話せる」と言うのだ。当然、教える側ができないのに、教わる側ができるようになるはずはない。かくして文部科学省の指導のもとで作られた「オーラルコミュニケーション」という授業は、その名を冠した文法の授業と成り果てる。教師が「音声重視系」で英語を教育するノウハウを持っていないからだ。

文部科学省の意図する「コミュニケーション能力に基づく英語力」をつけるには、音声を用いることが不可欠だ。言語というのは、脳の中で記憶を司る部分とは独立した「ことば専門の領域」に蓄積されるとされている。だから記憶喪失になった者でも母国語は忘れない。この部分は、音を聞き音を発することによって活性化される。英会話に習熟するためには、とにかく聞いて聞いて聞きまくり、喋って喋って喋り倒すことが必要である。文法はとりあえず無視する。とにかく喋って表現をかたっぱしから口に覚えさせる。

ある程度、頭の中に表現を詰め込んだ後で文法を説明されると、理解がもの凄くクリアになる。今までがむしゃらに暗記するだけだった外国語に、「文法という秩序」が与えられることで、頭の中で知識が体系化される。霧が晴れるように鮮明な全体像が見える。気をつけなければならないのは、教える順序を逆にすると学習意欲を奪うことだ。英語はまだ文法が溶けているからよい。たとえば外国語でロシア語を学ぶとする。ロシア語は寒いだけあって昔のラテン語の特徴が冷凍保存され、えらく複雑怪奇な文法を擁する。そのロシア語を学ぶときに、ぶ厚い文法書を渡され、「これをマスターしてから音声に入る」などと言われたら、第一章「格変化」の男性名詞三人称単数あたりで挫折する。文法は、ある程度の量の表現に慣れ親しんだ後でないとその効果を発揮しないものだ。

その点では、初学の中学一年生の段階から文法事項を削除した文部科学省の方針は妥当と言える。しかし、私の印象では、表現を詰め込むにしてはすこし英文の量が少ないと感じた。ためしに全文暗記をしてみたら、5日で教科書一冊が暗記できた。20代中盤(文句あるか怒)の私にしてこの容易さだ。12歳の柔軟な脳ではもっと容易に違いない。

件のメールを送ってきた女性は、「まず文法ありき」の授業で生徒がちゃんとついてきている自信があるんだろうか。いやそれよりも、彼女が英語以外の言語を勉強しようとするとき、まず何をおいても文法を完璧にマスターする自信があるのだろうか。
いや、高校を定年なさる世代でもWebでblogサーフィンなどなさるくらいだから、結構、柔軟に対応できたりするのかな。

「まるで日記のように」さんのページで面白い記事を見つけた。
神戸女学院大の内田樹という方のコメントらしい。

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100円ショップは品出しやセキュリティもみんな時給900円のバイトがやるらしい。

そういうことができるのは日本だけである。

正社員がろくにいない店舗が時給900円のバイトだけで経営できるという事実は、日本の「フリーター」諸君の提供する労働力のクオリティの高さを証明している。

彼らは監督者がいないからといって商品を略奪したり、レジの金を盗んだりしない。
そんなことは思いもつかないのである。

時給850円の女子大生がハンバーガーの仕入れから迷子の世話から新人研修までやってくれるのであるからこそ、59円でハンバーガーを売るというようなことも可能だったのである。

そういうことがいかにインターナショナルな基準からして特異なことであるか、ということはあまりアナウンスされない。

外国から来た人が驚くのは日本の「自動販売機」の多さである。

管理者が誰もいないところに自動販売機がわんさと置いてあるが、自動販売機を壊して商品を盗む人間も、金を取る人間も、まずみかけることがない。

フランスのコカコーラ自動販売機なんて、ほとんど「要塞」のような作りになっていて、トラックで略奪されないように太い鎖で二重三重に壁に縛り付けてあり、お金をいれてから商品を取り出すまでに鉄の扉を二つもこじあけないと手が届かない。

誰も見ていないところに商品とお金があれば、「遅かれ早かれ盗まれる」ということがかの地では「常識」に登録されているわけである。

日本はそういうことがない。このセキュリティの確かさが社会のインフラとして整備されているからこそ、100円で商品を売ることが可能になるのである。

日本の若い人はモラルが低いと言う人が多いが、それはずいぶん一面的な決めつけではないかと思う。

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こう言われてみると、日本ではフリーターってのもひとつのポジションなのかもね。
「フリーター」を毛嫌いする中年が多いけど、その恩恵を考えたことはあるんだろうか。確かにアメリカではバイトの店員は一律に「無責任で無愛想」だしなぁ。
「モラルの低さ」の次元も日本と違う。

日本には「卑怯」って概念があるからな。
英語には訳せない。

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