たくろふのつぶやき

秋はやきいも ほくほくしてうまし。

日本語わからん

主語、目的語という言葉を聞いて頭が痛くなる方は多いだろう。

言語学に勤しむ者でもこの区分はアタマが痛い。文のどんな要素が主語になり、何が目的語になるのかということは、実はよく分かっていない。

言語学では「格」という概念を使って文法関係を説明する。
一般的には、主語には「主格」、目的語には「対格」という格が与えられる。
主格とは、日本語では「たくろふは/たくろふが」、英語ではI, he, she
対格とは、日本語では「たくろふを」、英語ではとme, him, herに相当する。

だが、世界中の言語で主格の名詞が必ず主語になるのかというと、そう簡単にはいかない。
アイスランド語で、

Eg tel konunginum hafa verith gefnar ambattir
(I believe king(DAT) have been given slave(NOM))

という文は、動詞gefnar (=give)のうしろに主格が来る。ムチャクチャだ。主格(「…は」)が文の一番うしろに来ることは、まあ普通は、ない。アイスランド語ではなんでこんな文の最後の位置に主格が出るのか、困った言語だ。

実は日本語も人のことは言えない。
普通、主格名詞は文につきひとつしかない。しかし、日本語で

「象は鼻が長い」

と言ったときに、主語は「象」だろうか、「鼻」だろうか。
また、

「先進国が男性が平均寿命が長い」

という文は、出ている名詞がとりあえず全部、主格だ。どの主格名詞が主語と決められるのだろう。

世間一般にはあまり知られていないが、日本語には世界の言語で例外的としか思えない現象がいっぱいある。生まれたての赤ちゃんは世界中のどんな言語でも高々2, 3年でもれなく母語として習得する。ということは、人間の脳には世界中の言語すべてに対応可能な文法能力があるに違いない。どんなソフトウェアにも対応可能なOSみたいなものだ。その仕組みを解明しようとして世界中の言語を調べてみると、「日本語に例外がありますね」という場合が非常に多い。

国語の先生で、「この文は主語にくる言葉が間違っていますね」と作文を採点する先生がいたら、日本語ではどういう要素が主語になり得るのかをぜひ教えて欲しい。日本語をちゃんと勉強しておけば良かった(泣)。

天啓、まだかー。

今日はオフの日。
授業もTAもなし。

午前中にField Houseに行き、軽くバスケ。
体が重い。2日間、半徹夜だったからか。

昨日、指導教官とディスカッションしてきてボコボコにされた案を考え直す。
うーん、Determinerの中にはGeneralized Quantifierの予測に反して、conservativityに抵触する読みを含め、多義的なものもある、と。この解釈自体は絶対だから動かせない。問題は様々な読みを、ひとつのlexical entryから派生させて出すか、最初からlexiconで別物と言っちゃうか。

そりゃあひとつだろう。(?ー?)
あとはFocal mappingを使ってガンガンQRさせればどんな読みだろうが出せる。
…うまくいったと思ったんだけどなぁ。

確かに忠告されたように、lexiconではエントリーがひとつです、といっちゃうと、膨大な先行研究すべてを敵に回すことになる。総攻撃くらいそう。
これは怖い。マジでビビる。
それでも正しいと思えば押し切っちゃうけど、さらに「なんで他のDeterminerではそういう解釈は出ないの?」と突っ込まれて撃沈。イタタタタ…。
えーと、他のcategoryに跨るdeterminerの場合はタイプシフト起こすから純粋にfocusが関与し得るけど、他のdeterminerはタイプが絶対で最初からfocusは関係なしに解釈が出来る…ってのはダメ?
いいや、なんでもないです…。

週末、書き直し決定(涙)。

現実逃避のネタも底を尽きたし…。

敲いて壊そう月下の門

月が好きだ。

いつ見てもまん丸な太陽と違い、月は29日周期でその形を変える。変化が誰の目にも分かりやすいため、世界の文化圏では最初、太陰暦を採用するところが多かった。長期休暇などで曜日感覚がない時期でも、月を見ると日付がだいたい分かる。

満月に敏感だ。なんというか、月光が身体の中の何かに直接刺さり、全身に何かが満ち渡るような気がする。自分の身体感覚で唯一説明できない感覚だ。ヨーロッパではこういうことを感じるバカがもっと多かったらしく、月は狂気の象徴とされた。「狂気」(lunatic)、「誘惑」(lure)という言葉は、ともに月を表すラテン語‘luna'に由来している。

月は引力で地球の海水を引き寄せるため、干潮、満潮を引き起こす。あれほどの膨大な量の海水が引っ張られるくらいだ。人間一人の中にある何かが引っ張られないほうが不思議だ。月が真上にくる時間帯になると、見るより先に真上に何かが引かれ、体中が総毛立つのを感じる。その感覚が襲った後に見上げると月が真上にある。

詩を詠むに、李白の「月下独酌」がぶっちぎりで好きだ。

花間、一壺の酒
独り酌んで相親しむ無し
杯を挙げて明月を邀え
影に対して三人と成る
月、既に飲むを解せず
影、徒にわが身に随う
暫く月と影を伴い
行楽、須らく春に及ぶべし
我歌えば月徘徊し
我舞えば影繚乱す
醒時は同に交歓し
酔後はおのおの分散す
永く無情の遊を結び
相期す、遥かなる雲漢に

季節に浮かれて酒壺をひっかけふらついて出たものの、どうも独りで飲むのはつまらん。おや、月が出た。月と影とで三人になったじゃないか。でも月は飲み方が分からんらしく、影は私に随ったきりだ。まぁまぁ一緒にやろうじゃないか、こんないい季節に飲まない手はないだろう。私が歌うと月もふらつき回り、私が踊ると陰も一緒になって舞っている。いい加減に酔っ払うまで一緒に騒ぎ、酔ってしまったら勝手にしよう。いつまでも一緒に飲みたいもんだ。今度は遥かな雲の上で一杯やろうか。

豪放極まる。何たる酒仙の誉れ。
世の行儀作法に迎合することなく己の酔狂を剛毅に晒すその意気や良し。
これほどまでに月と飲んでみたい。

Teaching Assistant

学部の授業のTAしに行った。

先セメと同じように学部生向けの授業。しかし330人って。詰め込んだなぁ。先セメのホールは学部生の授業専用のホールだから、普通の教室みたいな大講堂だったんだけど、今回は超立派な建物の地下にある大講堂。来年ウチが主催する国際学会もそこのホールでやるらしい。とってもピッカピカかつ快適なホール。ちゃんとカネを使っていると見える。

アメリカの学部生向けの授業は、その講義のポイントが分かりやすい。今日はコレとコレとコレを覚えなきゃいけないのね、というポイントがきっちりしている。これは学生がevaluate(授業評価)するからだろう。日本の大学の学部の授業では、研究は優秀なのに授業がヘタ、という先生が多い。生徒の側の立場に立って、白紙に近い状態の学生にどのように教えれば効果的か、ということにあまり気を使わないのだろう。アメリカの学生は講義の下手な先生に対しては「教える本人がその分野をよく分かってない」「授業の準備に十分な時間をかけていない」「話がばらばらで、全くまとまっていない」と手厳しい評価をする。中には、まぁ、「やる気のないお前が悪い」という生徒も何人かいるからevaluationを鵜呑みにするのは危険だが、教える側にとってはある程度のプレッシャーにはなるだろう。

僕はZeljkoのTAだが、彼は研究者として優秀というだけでなく、授業も上手い。なによりも、自分の専門分野が本当に面白く、奥深く、興奮モノである、という感じがビンビンに伝わってくるような、気合の入った授業をする。聞いている学生は、なにかスゴいことを学んでる気になるだろう。学生を気合で引っ張るタイプみたい。ただ、彼のメモはなんとかしてほしい。僕のメールボックスに彼からのメモが入ってたんだが、そこには線文字Bが…。

大学と学問と

先日、センター試験についての記事を読んで思ったことをちょろっと書いたら、思わぬ反響が多くてビビッた。

blogを書いてる皆さん、どれほどのコメントを受け取っていらっしゃるのだろう。
今まで、「おもしろく読ませていただいてます」のようなメールを何回か受け取ったことがある。中にはblog上でコメントをつけてくださる方もいらっしゃる。非常にうれしい。が、今回はコメントがゼロだったにも関わらず水面下でメールを結構送られてびっくりした。トピック別過去最高量。中にはまさしく受験真っ最中の高校生からのメールもあった。慌てたような様子のやつもあったし、中には殺気立ったメールもあった。こんなblog読むくらいなら勉強しろよ受験生。
まぁいいや。世の高校生が主張してることはだいたい間違ってるけど、それを高校生が主張するってこと自体は正しいのだろう。

えーと。
なんの為に勉強するのか、だったっけ。

簡単だ。
楽しむためである

勉強は、他に何の目的もない、楽しむためにするものだと思う。単純に、謎を見つけて、それに対する説明を思いつくという、鋭い発見の喜びを味わうためにやるものだ。はっきり言って娯楽だと思う。

世の中には、「学問というのは世の中を進歩させ、技術の向上をもたらし、豊かな日常生活に直結している気高い行為だ」という誤解をしている人が多いと思う。大学で研究に携わる者で、「世のため人のために役に立つ研究をしよう」などと思って研究をしている者など誰一人いない。みな、自分で「なんでだろう」と疑問に思ったことを、納得いくまで考えることを止めない5歳児がそのまま大人になった者ばかりだ。「大学院で勉強をしています」と人に堂々と言う大学院生はいない。誰もが、「単に自分は楽しいことを続けているだけ」という意識があるからだ。しかも、国立大学の場合は国民の皆様の血税を享受している。

学問は、基本的に役に立たないものだ。しかし、役に立たないことは価値がないことを意味しない。

学問の価値は、絶対的に、人間のみに許された特権を享受することにある。
人間は、この世に遍く存在する事物のなかで例外的に、己の力で自己を変えることができる。たとえば石ころは、置いておいたらいつまでたっても石ころのままだし、ニワトリは本能の命じるままに生きているにすぎず、いつまでたっても精神的成長など起こらない。ところが人間は、外部から影響を受けることなく、己の意思と力で自分の能力を上げることができる。実存主義のサルトルはこのことを「人とは、あるところのものではなく、ないところのものである」と表現した。禅問答みたいだが、噛み砕くといっていることは簡単だ。人は、「今現在の状態の自分」から成長して、「そうではない自分」になることができる(「あるところのものではない」)。また反対に、「今現在は自分に手の届かない高い位置にいる存在」に、「今現在の自分」を変えることができる(「ないところのものである」)。人間がこういう能力を持つのは、思考能力を持つからだ。パスカルの言葉「人間は考える葦である」というのも、基本的には同じことを言っていると思う。

勉強というのは、「それまでの自分」から脱却し、「今までにはあり得なかった自分」に変わる行為だ。今まで自分では分からなかったことが分かるようになり、見えなかったものが見えるようになる。その動力となるのが知識欲だ。人間には食欲、性欲、睡眠欲、排泄欲、自己実現欲などの欲求があるが、知識欲はそれらの欲求とは明白な違いがある。それは、「決して満たされることがない」という点だ。ひとつ分かると、さらにその先に自分が知らないことが見えてくる。世の中は、解かれていない謎だらけだ。その謎を発見し、自分でその謎を解く。これは、人間のみに与えられた栄光だろう。世界でただ一人、自分しか考えていない謎がある、というのは例えようもない興奮だ。

「オレは勉強なんて役に立たねぇことはしねぇぞ」と仰る方がいる。そういう人に問いたい。その人が日々行っている「役に立つこと」とは何だろうか。ビールを飲むことか。テレビで野球中継を見ることか。コンビニでエロ本を立ち読みすることか。「うるせぇ、そういうのは楽しいからいいんだよ」と仰るかもしれない。そこで最初に戻る。勉強も、本来楽しいものなのだ。学校における初等教育では、勉強の楽しみ方こそを教えるべきである。楽しみに一旦火がつけば、あとは放っておいても自分で勉強をするようになるのだ。高校生が「数学が一体なんの役に立つのか」という疑問をもつとしたら、受けてきた教育が失敗だったということだろう。「勉強の喜び」というもっとも大事なことを味わってこなかったということだ。私見では、難問に見えるものが、ちょっとした閃きでスパっと解ける快感は、数学という科目が最も味わい深かった気がする。

ニュートンは「プリンキピア」を執筆した2年間、一切のレクリエーションを取らず、睡眠中以外はぶっ通しで研究と執筆に明け暮れたという。食事さえ忘れる集中力だったそうだ。世の中のしくみについての概念を革新的に変えた研究の最中には、ニュートンは他のレクリエーションなどどうでもよく思えるほど、自らが発見する知見に驚き、興奮し、喜びを見出していたのではないだろうか。人間は苦痛なことを意志の力で継続できるようにはできていない。楽しいからこその勉強であり、学問だろう。ニュートン物理学は近代文明の基礎となり、科学技術を飛躍的に進歩させた。しかし、研究中のニュートンは、自分の研究がどれほど世の中の役に立つかなどは微塵も考えず、ただひたすら発見の興奮を楽しんでいたのではあるまいか。

去年、阪神タイガースが劇的なリーグ優勝を遂げた。日本中が沸き、久々のトラフィーバーを楽しんだ方も多いだろう。僕はあまり野球を見ないが、その僕にして去年の阪神を中心とした野球は面白かったと思う。阪神優勝の経済効果はものすごく、関西を中心に景気の回復の起爆剤となった面もあろう。
しかし、当の阪神の選手達は、何を考えて野球をしていたのだろうか。ただ単に「勝つ」。もっと具体的には「次の球を打つ」「次の一球はあのコースに決める」ということしか頭にないのではなかろうか。間違ってもバッターボックスやピッチャーマウンド上で「元気のない日本に活力を与えよう」とか「日本の景気を少しでも回復させよう」などとは微塵も考えていないに違いない。

大学で学ぶ者と、阪神の選手は、基本的に同じ立場に置かれている。つまり、「自分が成し遂げるべきこと」と、「成し遂げたことによって世の中にもたらせるもの」は、まったく別物なのだ。阪神フィーバーは、純粋に阪神の選手だけによってもたらされたものではない。阪神グッズを製造・販売する業者、阪神の快進撃を連日伝えるマスコミ、球場に足を運ぶファン、そういった「選手以外の人たち」によって、世の中に影響がもたらされているのだ。
大学でもたらされた研究結果が、具体的な技術革新をもたらし、我々の生活を豊かにしてくれることは確かにある。しかしそこには、研究結果を具体的な利用価値のある技術に転換する仕事をしている者が必ずいる。こういう、「純粋な学問」と「我々の日常生活」には、見えない関係を結んでいる無数の努力が存在している。
虚数は紀元前に発見されている。当時は「2乗してマイナスになる数」など、日常生活上でなんの価値もなかったにちがいない。しかし現代では、コンピューターが飛行機の離着陸の時の浮力計算をするときに、虚数値を代入しないと計算不可能な演算がある。

国立大学、州立大学で税金を投入していただいて研究する立場としては、自分が発見し興奮した喜びを、世間の皆様にも味わっていただくように研究結果を公開する義務がある。そうすることにより、大学外の世界にも思考の喜びを享受できる機会が増えることになるだろう。それが文明国のあるべき姿だと思う。「大学の研究が役に立たないのなら、そんなものに税金を払うのは反対だ」という人は、そういう税金がない代わりに、大学をはじめ学問研究機関が一切なく、新しい知見が一切生まれることのない国を想像してみるといい。役に立たないという理由で数学、物理、古典、歴史を教えず、ひたすら職に「役立つ」技術や知識だけを徹底して詰め込む。自分の子供を、そういう文化環境のもとで育てることにも賛成できるだろうか。

はっきり言って、日本の大学の授業はつまらない。役に立つ勉強など、探してもどこにもない。大学とは、教わる場所ではなく、自分で自ら学ぶ場所だ。「世のため人のため役に立つ学問を修めよう」と青雲の志をもって桜の季節を迎える好青年は、賭けてもいい、半年で潰れる。勉強をする意義のいちばんおいしいところを勘違いしている限り、大学など苦痛以外の何者でもない。それに気付かず、辞めていく者も多い。

大学に入る高校生が「役に立つ勉強をしたい」などと口走る時点で、自分の限界を自分で作っている。自分がなにか役に立てるものを見つけたら、はいそれでおしまい、というのではなく、尽きせぬ謎にがむしゃらに取り組み、飽きることなく考え続け、与えられた4年間の間、発見の喜びを可能な限り追求して己の限界をぶち抜き、入学時には「ないところのものであった」自分になって卒業するような気概が欲しい。

ホンモノ志向の末路

こういう記事を読むと、日本の景気もなかなかじゃん、と思ってしまう。

僕はもともとホンモノ志向だ。数は必要ない。万年筆、手帳、カバンなどの学生必需品は一撃必殺で最高のモノを買う。値段は安かろうと高かろうと不問。服はさすがに多少の色モノはあるものの、基本的にはドンと一発いいものを買う。安い3枚よりも良い1枚。だから僕はバーゲンというものに全く魅力を感じない。必要でもないのに「安い」という理由だけで買い物をする必要はないし、めったにないが本当に必要な時には定価でも買う。定価は品質保証代だと思っている。実際に、そういう買い方をしているとお金はあんまり減らない。バーゲンがいくら安いって言っても、買わなきゃタダだ。

ところが最近、日常最も使用する生命線とも言えるモノが、実はそのポリシーから外れていることに気が付いた。

コンピューターである。

あえてパソコンとは言わない。

最近、コンピューターのトラブルが多い。ひどいときには勝手に電源が落ちる。冬休みにはブチ切れてリカバリーする始末だ。いろいろと調べてみると、僕の使っているものは悪いものではないが、最高のモノではないようだ。
最近、耳元にささやき声が聞こえる。




「買っちゃえ。」




ああ…。僕はどうすればいいんだ…。

具体的に囁くNさん、買っちゃったらあなたのせいです

みなさん冬眠明け

セメスターが始まった。
いきなり休講だった。

午前中にsemanticsのゼミ。今回のセメスターでは不定詞の解釈を、おもに主語と時制を軸に考えていくらしい。時制ではかなりハードにintensional semanticsを使って意味計算するみたい。わくわく。やっとオレの時代が来た。時制はどうせ、いつかはちゃんとやんなきゃいけないんだけど、どうも時制に関する研究ってのはとっ散らかってて正面攻撃しにくい。だから不定詞なら不定詞で、そのなかの時制解釈をきっちりと押さえていけば、結構その後で時制一般に広げていけそうな気がする。登る道が細くても、ある程度登って下を見回してみたら結構視界がよくなってた、っていうことはよくあるし。

あいにく意味論の先生がカゼひいて休んでたので、午後のSemanticsの授業は休講。
オレの指導教官なんだけどね。ゆっくり休んでくださいな。って、オレ明日discussionのアポ取ってんだけど、大丈夫かな。

お昼ごろからぼちぼち同学年の連中が研究室に出勤。みんな久しぶり。欧米のこういうときの挨拶はマジで抱き合うので、わたくしめも女性陣に挨拶で抱きつかれてちょっといい気分。先セメの最後あたりは死にそうになって暗い顔してた女の子も、冬休みに国に帰ってたら見違えるように表情が明るくなってた。やっぱり女の子は笑顔が一番と実感。しかし一ヶ月のvacationで鬱屈した気分から回復するってのは心が若いなぁ。オレなんて…。

実家に帰ってた学部生のガキンチョが大挙して寮に戻ってきた。みんなセメスター始めで、教科書、ノート、文房具など勉強用品をCoopで買出しするので、Coopのレジは長蛇の列。数えてみたら124人並んでた(ええヒマですよそれが何か?)。バカたれめ。オレ様みたいに先セメが終わる頃には次のセメスターの用意まで終わらせておかんかい。始まってから買いに来るとは何たる怠慢。どうやって根性入れてくれようか。Coopは買出し連中のために、今週一杯は夜の9時までやってるそうな。勉強に飽きたら冷やかしに行ってくっかな。

宗教、哲学、科学

宗教と哲学と科学はどう違うのだろうか。

「違い」を問う時点で、その3つは根本的には同じだ、という前提があること気をつけられたい。根本的に異質なものに対しては「違う」という概念は当てはまらない。たとえば、「電車とバスと自家用車は違う」。この命題は、電車とバスと車が3つとも「交通手段である」という共通点があるから意義のある命題となる。これが「飛行機とレンコンとパンダは違う」という命題であったとしたら、意義を成さない。

従って、違いを問う以前に、宗教と哲学と科学はどのような共通点を持つのかを考慮する必要がある。私が考えるに、三者の共通点は、「この世界を理解する」という試みである、ということではないだろうか。この世はどのように始まったのか。人間とはどういう存在か。人はなぜ死ぬのか。時間とは何か。星はなぜ輝くのか。なぜ鳥は飛ぶのに人間は飛べないのか。人はどうすれば幸せになれるのか。意識・精神とは何か。物体はなぜ下に落ちるのか。この世に満ち溢れるありとあらゆる問いに答えを求めることが、宗教・哲学・科学の共通の試みではないだろうか。求めるものは同じだが、方法論に違いが表れる。

宗教の方法論は、「信じること」だと思う。宗教の方針は、究極として人間の幸福を追求することに向けられている。この世がどのように始まったのか、自分はどのように生きるべきか、なぜ星は落下してこないのか、そういう不安が解消されないままだと人は生きていくのに不安を感じる。そこにひとつのビジョンが与えられ、あらゆる現象に一通りの説明がなされると、人は安心する。注意すべきは、その説明が真実か否かは問題ではない、ということだ。安心さえできればよい。人が憩い、幸福を見出せたところで宗教の仕事は終わるのだ。「星が落ちてこないだろうか」と不安に思う者に、「天上界におわす主が支えてくださるから大丈夫」というビジョンが与えられたとする。それでその者が納得し、安心して眠れるようになれば、宗教は良い仕事をしたことになる。このような役割を担う宗教が集団化し、団体の維持に経済的な必要が生じたり、教義に矛盾が許されなくなると組織として一種の緊張が要求され、疑うことが許されない歪んだ構造になる危険性は世にあまねく認知されているところであろう。しかし宗教というだけで偏見をもってはいけない。本来の宗教は、乱世にあって人に安心を与え、精神的危機からくる自我崩壊を防ぐという重要な役割を担っていた。現在においても、ストレスを散逸させる目的で、おいしいものをたくさん食べる、買い物に走る、貴重な時間を省みず長電話やゲームをする、などの理性に逆らう感情的行動は、その人が自我を保ち生きる力を得るために独自に考案している一種の宗教的行為と言える。その行為自体が正しい行動か否かは問題ではない。それが精神的な平穏をもたらしてくれるという結果のみが重要なのである。現在、戦乱状態にある地域においても、自らを支える精神的な支柱となる信仰を持つ者と、持たない者では、自己を保つ力に差があるのではなかろうか。

哲学の方法論は「考えること」にある。宗教の場合は、ビジョンが他人から与えられた。しかし、それをゼロからスタートし、己の力ですべてに対する説明を考え出そうとする試みが哲学だ。宗教と哲学の大きな違いは、向けられる意識の方向性にある。宗教の場合は人の幸福が目的なので、他人に対して意識が外に向かう。しかし哲学の場合は、あくまでも自分の力ですべてを考え出し、自分で納得できる説明を考えつくまで思考し続けるために、意識は自分の中のみに向けられる。基本的に他人はどうでもよい。己が納得する知見が得られればそれで良い。哲学は、すべての疑問を徹底的に考えるため、概念・用語の定義から出発する。「人はどうすれば幸せになれるのか」という問いに答えるためには、まず「幸せとは何か」という前提を厳密に定義する必要がある。「あたりまえ」という言葉は哲学には禁句である。あたかも、建物を建てるためにレンガの一個一個を手で作っていくような堅実さが必要なのだ。私は大学の哲学の授業で、「哲学書を読むときには、その著者がどういう問いを立てているのかをまず把握しなさい」と教わった。大方の哲学書の冒頭箇所は、その本で使う概念や言葉の定義がびっしりと列挙される。定義が与えられないと、言葉が使えないからだ。だいたいの読者はその段階でチンプンカンプンになりギブアップするが、ゴールとして「結局何を説明しようとしているからこんな概念が必要になるのか」という全体地図があれば、定義の一つ一つが「使える道具」に変貌する。Philosophyというのはもともと「知を求める」という意味だ。現在でも、学問を極めた者に与えられる称号はph.D (Doctor of Philosophy)という。

科学の方法論は「疑うこと」にある。哲学から発達した科学の方針は、絶対的な真実を求めることにある。哲学の場合は、自分の力で結論に辿りつけさえすれば、それで目的は果たせていた。それが「真実」であるという保障はないし、「真実か否か」を確認する方法を哲学は持たない。あくまで「こうじゃないかな、こう思うんだけどな」という自分の中での結論を出すのが哲学なのだ。当然、哲学者それぞれによって結論は違うし、そもそも立てている問いが個人によって散逸している。私のこの文章も、私が一人で勝手に辿りついた哲学的考察である。このblogのカテゴリーが「philosophy」となっているのはそのためだ。
それに対し科学は、辿りついた結論が世の中を精確に説明できるかどうか、「合ってるか、間違っているか」を追求する。思考の方法が体系化され、手順を踏まえることにより先達の思考を踏襲できる。個人個人が乱雑に問いを立てるのではなく、相関関係にある問いを関連させ、統一的な説明を求める。天体に関する問いは天文学、物体の振る舞いに関する問いは物理学、物質の成り立ちについては化学、人間の身体の構造に関しては医学、というように分野がまとめられ、分野内で生じる問いを、単発ではなく大きな全体像から体系的に説明する。研究する者が同じ目的、同じ方法論を共有するため、場所を越え世代を超えて一本の大きな流れで研究が続けられる。科学の場合、説明が完璧に見えても、さらなる完璧さを求めてその説明を疑い続ける必要がある。宗教と違って、科学を志す者に満足は厳禁だ。絶対的な真実は、おそらく到達不可能なほど高いのだろうが、それでもその峰を不断の努力で目指し続ける。一見、真実に見える説明でも、「本当に真実だろうか」と疑い続け、反例を求め、反証されたらさらなる説明を求める。科学は、真実のある問いのみを対象に絞るため、真か偽かを決められない命題は扱わない。「人間はどうすれば幸せになれるか」という問いは、検証によって到達可能な絶対的真実があり得ないため、科学の範囲外にある。

世界のあり方を求める。この世はどうなっているのだろうと疑問を感じる。これは、人間に特有の欲求だと思う。知能の発達は人間だけが得られた栄光だが、これは不安を覚醒し自我崩壊を引き起こす諸刃の剣でもある。宗教、哲学、科学は、それを回避するために人間が考案した方法論ではなかろうか。宗教は他者から与えられた知見を信じる。哲学は己のみの力で結論まで考え抜く。科学は人間の総力をもって統一的な方法論で問いに正面攻撃をかける。基本的に、どの方法論を採ろうが個人の自由だ。自分の採用している方法論を絶対的なものだと勘違いし、他人に強制する姿勢は他者を尊重しない自己中心的な態度だと思う。

オレでも弾けるぜ

Silence the Star in Radio 3 Concert
(2004.1.12 News Scotsman)

ジョン・ケージ作曲の「4分33秒」がラジオ放送されたらしい。
マジっすか。

この曲はケージが1953年に発表した曲で、4分33秒の間、全く演奏せず無音の状態が続く。観衆はひたすら無音の中で周囲の音と沈黙に晒される、という実験的な音楽。CDでも発売されたら面白いだろうな。

いつも思うんだが、なんで4分33秒なんだろう。
高校1年のときにこの曲を知ったときは、「ちょうどオレの1500M走一本分かぁ」と思ったのを覚えてる。

マイナス20度ですから。

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L.L.Beanを愛用している。

日本にいるときからフィールドコートやオックスフォードシャツなどは定番だったが、アメリカに来てからL.L.Beanの性能を再確認。いかなるものも、それが作られた所で最もその性能を発揮する。日本の蒸し暑い夏に浴衣と団扇が似つかわしいように、アメリカの冬にL.L.Beanのイクイップメントは非常にフィットする。

特に冬に入ってから雪が多いので、ビーンブーツが非常に重宝する。このブーツはほんとに雪でも悪天候でもビクともしない。ありがたいことに保温性がズバ抜けているので、戸外がマイナス15度くらいでもつま先が凍らない。


僕が日本で着ていたフィールドコートは日本の冬程度の対応品だったので、一段防寒性の高いフィールドコートを買った。届いたときに、今まで持ってるのとまったく同じのが届いたと思ってびっくりしたが、ちゃんと内側にインナーが補強してある。外見はまったく同じ。これは適応温度がマイナス20度と、こっちの冬向け。中にセーターを着るだけで外出できる。ぶらぼー。

今くらいの時期で寒さは底をついたと思ったら、2月はまだもう一段寒くなるらしい。もういいよ、あったかくなろうよ(泣)。

リズムの魔力

細き流れを集め来て 木を裂き岩を穿ちつつ
大河滔々波を揚ぐ これ大利根の壮観ぞ
朝(あした)に花の露を受け 夕べに藤の陰浸し
八千草匂ふ武蔵野を 二つに断ちて流るなり
時勢を創る英雄の 姿は此れに似たらずや
忍耐剛毅我が剣 誠実質素我が盾

どこの漢詩から取ってきた一節だとお思いだろうか。
実はこの詩は、私の出身高校の校歌である。これで全部。この校歌には校名が入っていない。私の高校時代は、この校歌の基に全校生徒が同じ魂を共有したものだ。大学時代に教育実習で久しぶりに母校に戻ったときにも、私の在学時代と何も変わっていなかった。実習の最終日には、学生全員が肩を組み輪になって校歌を張り上げエールを切ってくれ、響き渡る大声に職員室の先生方が苦笑いしていた。この学校の卒業生は、何年経っても校歌を諳んじることができる。

良い詩が心に残るのはなぜだろう。
思うに、人は詩を頭で読むのではなく、心で読むのではないか。詩には、明晰な論理も首尾一貫した主張もない。詩が表すのは、壮大な景色であり、人の情であり強さであり優しさである。理性を働かせて読むものではないために、詩とは理解するものではない。感じるものだと思う。言語のあり方に携わるもののはしくれとして、言語を用いる表現形態としてやや異端な「詩」というものの存在は、前からずっと気になっていた。

詩が情で読むものであるとしたら、情を直接揺さぶる工夫がしてある方が心に直に届きやすい。詩が理性を通り越して感情に届くのは、詩に特有で、他の言語表現形態が持ち得ない特徴、つまり「韻律」のせいだと思う。人はリズムを理性で暗記するのではない。身体に、脳に、染み込ませて覚えるのだ。統一された韻による直接的な揺さぶりが、理性の気付かぬところで感情に影響を与えるのだろう。詩は、音にされて始めて生命を持つ。音のない詩は、情報を伝えるだけの詩の抜け殻だ。

ヒトラーの演説の録音を聞いたことがある。「催眠術」と評される彼の演説は、一字一句記された文面を読むと、それほどたいしたものではない。むしろ退屈で、論旨が一貫せず、論理が飛躍している。ところがどうだろう、演説を録音で聴くと、ものすごい統一されたリズムをもって詩を謡うような「流れ」がある。聞いて改めて文面を読むと、細かく頭韻、脚韻が踏んであることに気付く。実際に演説を見ると、もっともの凄かったらしい。ヒトラーの演説は、必ず夕暮れ時、日が沈む1時間ほど前に行われたという。演説をするヒトラーに夕日が後ろから差すように場所や向きが周到に計算されていた。そのようなドラマチックな演出に加え、全員が同じハーケンクロイツをつけた軍服を着ているという連帯感が相まって、ナチスの結束力は生まれていた。

シェークスピアの歴史物(「歴史劇」ではない。念のため)の中に、『ジュリアス・シーザー』という作品がある。「ブルータス、お前もか」というセリフはよく知られているが、このセリフを創ったのがシェークスピアであることはあまり知られていない。この作品は、大衆煽動の例としてよく引き合いにされる。
物語はシーザー暗殺後が中心となっている。己の大義を信じてシーザーを暗殺したブルータスは、なぜ自分がシーザーを暗殺せねばならなかったのかを、広場で一般大衆に演説する。彼はシーザーを愛していたこと、また祖国を愛しているがゆえに彼を殺さざるをえなかったことを告げ、市民に称えられる。ブルータスの演説の直後に、やはりシーザーの忠臣であったアントニーが弔辞を述べる。彼はブルータスら暗殺者たちを責めることはせず、シーザーが野心など微塵も持っていなかったことを強調する演説を行った。その結果、どうなったか。
アントニーの演説には、ところどころに民衆を焚きつける工夫がこらしてあった。アントニーの演説を聴き、先ほどまでブルータスの心意気を賞賛していた民衆は態度を一変、ブルータスを国賊、謀反人呼ばわりして暴動を起こす騒ぎとなったのだ。そのためブルータスら暗殺者たちは命からがらローマを脱出する羽目になる。

ブルータスとアントニーの演説がこの作品のハイライトだが、二人の演説を比べてみると、文章の違いがよく分かる。
ブルータスの演説は整然とした理詰めだ。原因を説明し、解決案を列挙し、他の要因を考慮し、残された方法はシーザー暗殺しかありえない、と「論証」している。それに対し、アントニーの演説は詩といって良い。韻を踏む、一定した韻律をもつ、リフレインを効かせる、すべてが流れるように「詠唱」されている。民衆に直接影響するのはどちらか、火を見るよりも明らかだろう。私が大学でこの物語を読んだときに、「ブルータスの演説の論旨を論理的にまとめてこい、アントニーの演説を100回朗読してこい」という宿題が出た。

アフリカのルワンダという国で1994年、信じられない虐殺事件が起きた。この国はフツ族とチツ族という部族に分かれているが、両族間で婚姻関係も結ばれるほど密接な関係にあった。ところがチツ族を嫌う過激派がフツ族民を煽動し、チツ族を大量虐殺する内乱状態に発展した。このときフツ族過激派が煽動手段として使ったのはラジオだった。「千の丘ラジオ(千の丘・自由ラジオテレビ)」という放送局は、軽快な語り口、今でいうラップのようなリズムに乗せてチツ族静粛を呼びかけた。その結果、興奮したフツ族民は「マシェット」と呼ばれるナタや斧やナイフ、さらに銃や手榴弾を使って、昨日まで隣人であった多くのツチ族を虐殺していった。この虐殺事件については、1998年1月18日にNHKスペシャル『なぜ隣人を殺したか――ルアンダ虐殺と煽動ラジオ放送』が放映されている。

「リズムが人の感情に及ぼす影響」に仰天した例に、映画「太陽がいっぱい」がある。
あなたに好きな異性がいたとする。その人は残念ながら、あなたの友人の恋人である。さて、ある事故でその友人が死んだ。悲しみに暮れるあなたの想い人はひとりぽっち。これはチャンス。さぁ、どうやってその人にアプローチするか。
「友人は可哀想でしたね。それはそうと、これからは私と付き合いませんか」などと正面攻撃をかけるのは愚の骨頂だろう。こういう状況に置かれたアラン・ドロンはどうしたか。
夕暮れ時、仄かな明かりに照らされる部屋で、アランは彼女の後ろから背中をそっと抱く。ギターを手に取り、後ろからギターを持たせ、彼女の手をとり、彼女の指でギターをつまびかせる。他の音は一切なし。彼女の手を取って途切れ途切れにつまびくギターだけが流れる。言葉は何もない。
その道の達人によると「薄暗さ、身体接触、音楽」は落とすための3大要素なのだそうだ。真昼間の太陽の下で、5メートル離れたところから自分の魅力を論理的に説得するのはダメらしい。百万言の金科玉条よりも、ポロンと弾くギターの方が、彼女の心を揺らすらしい。しかもこの映画はアラン自身がその友人を事故に見せかけて殺しているのだから、なおさら度肝を抜く。


人間は、理性では分かっていながら情に流されて不可解な行動をとってしまうことがある。相当に賢い人間でもその轍は踏んでいる。人がそのような行動に出る原因は何なのか、また意図的に人をそういう行動に駆り立てるようにするための方法はあるのか、私は常々興味を持っていた。そういう不埒なことを考えると、理性と感情のそれぞれについて、違いをはっきりさせたくなる。私は従来、理性側の人間で、人の感情についてはあんまり興味がなかったが、感情というものを理性で把握しようとする分にはなかなか面白そうだということが分かった。もうちょっと上達すると、己だけでなく、人の感情までもコントロールできるようになるかもしれない。そうなったらもっと面白い。

私の感じるところ、英語の韻律は煌びやかで美しいが、日本の詩歌や漢詩のような重厚な深みがない。日本の詩歌は1500年以上の歴史がある。重みがあって当然だ。高々500年足らずの歴史しか持たない欧米の詩歌が日本の韻律に深みで対抗しようなど、文字通り1000年早い。日本古来の韻律に基づく母校の校歌は、十数年の時を隔てて尚、在校当時の魂を召還せしめる力がある。この韻律の力を、あらゆる方向に自由自在に使えたとしたら、と想像されたい。もの凄い呪術だと思う。

よっしゃ来いやー。

火曜日から春セメスターが始まる。

TAの授業について、早速仕事の指示が来た。学部生が受講する大講堂の授業のシラバスを全員分コピーしてくれとのこと。まかせなさいコピーなんぞなんぼでもやってやる。僕の仕事はコピーを取ったり、PC画面上で試験問題を作ったり、授業中にスライドやパワーポイントの操作を手伝ったりという作業系が多いので、アタマを使わなくていいからラクだ。次のacademic yearもこの仕事させてください…って言ってもダメだろうなぁ…。

する授業だけじゃなくて、受ける授業も始まる。むしろこっちのほうが本筋なので、徐々に気合ゲージを溜めて一撃必殺の機会を狙う。そもそもコントローラーは僕の使ってるほうが操作性がいいはずなので、連打で後退させて最後にとどめの一撃を打ち込めばノックアウトできるはず!!
…あれ?
(どこで道を間違えたのかな)

受ける授業のほうは、基本的に4コマ。先セメのSyntax, Semantics, Phonologyに加え、春セメにはAcquisitionが加わる。この4コマは普通に登録して履修するんだが、僕としては自分をちょっと高いところに置いてみたいので、Semanticsのセミナーに出ることにする。最初、登録ナシの座敷わらしでいようと思ったんだけど、今セメからそーゆー気合の入ってないマネはペケになったそうな。なんでも、independent studiesとゆー聴講登録をしなきゃいかんそうだ。これは通常の3単位とは差のつく1単位。発表義務が免除になるぶん、単位が安いらしい。どうやって聴講するかについて、ちょっと指導教官のご意見伺いにでも行くことにしよう。

よっしゃ気合入ってきた!とりあえず昼寝しよう。

雪降る街から

雪を見るたびに思うことがある。

点に等しい、一次元的な雪の結晶が重なって、二次元的な面になり、それが積もって三次元的な雪のカタマリになる。ここまでは普通の物体と同じだ。しかし雪の場合は、四次元的に、時間とともに溶けては積もるサイクルを繰り返し、その総体が「雪」として認識される。

たとえば私の部屋の窓に積もった雪は、以前に積もった雪とは物理的には違うが、観念的には同じものだ。英語でsnowは不加算名詞だが、時間・空間を問わず、どの任意の点を占める物質を取り出しても、他との識別に意味がないから個体として認識されていないんだと思う。

この三次元の世の中で、四次元という高次の次元を実感させてくれるから雪が好きだ。
雪が積もると、噴水や滝が見たくなる。

ぐてーっと寝っころがって論文読み

学会の提出締め切りが近い(泣)。

日本で修士課程にいたときからそうだったが、長期の休みの後になると、思考力を極限にまで高める力が落ちている。ちょうど、スポーツ選手がオフ明けすると、身体のナマリを感じるのと同じなんだろう。身体のキレを取り戻すには、練習あるのみ。僕も長いこと院生をしてるので、アタマのリハビリから自主トレを経て、セメスター本番に突入するまでの勉強計画メニューの作り方くらい心得てる。

人間は習慣の動物で、どんな厳しい環境にでも慣れることができるらしい。拷問を受けているものは、時間が経つにつれて苦痛を感じにくくなるという話をどこかで聞いた。それと同じで、睡眠不足が続き、ぶっ通しの徹夜が日常茶飯事の大学院生も、セメスター中にそういう生活が普通に感じてくる。体の疲れと反比例して頭脳は明晰になる気さえする。

今回は月末までに学会に提出なので、エンジンを空ぶかしするくらいにして強引に回転数を上げていかなければならない。ほとんど話はまとまっているんだが、突っ込まれ所満載なので、通ったらそっちのほうが大変だ。
お前冬休みに何してたんだ、という突っ込みはナシで。

そんなもんなのかな

センター試験:「5教科7科目」負担? 受験生の声は
(2004年1月17日 毎日新聞)

掲載されている高校生の意識の低さにがっかりした。
彼らは大学に何をしに行くのだろう。

勉強が、なにかの役に立つとでも思っているのだろうか。
役に立つことを勉強をしようと思っている限り、本当の勉強などできないと思う。

どうせ大学で勉強しようと思うのなら、役に立つとか立たないとかつまらないことを言ってないで、もっと高いところを目指してほしい。

このような高校生ばかりではなく、なぜ自分は勉強するのか、という根本的なことをしっかり考えている高校生もいると願いたい。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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