たくろふのつぶやき

BBQ強化月間。

オレでも弾けるぜ

Silence the Star in Radio 3 Concert
(2004.1.12 News Scotsman)

ジョン・ケージ作曲の「4分33秒」がラジオ放送されたらしい。
マジっすか。

この曲はケージが1953年に発表した曲で、4分33秒の間、全く演奏せず無音の状態が続く。観衆はひたすら無音の中で周囲の音と沈黙に晒される、という実験的な音楽。CDでも発売されたら面白いだろうな。

いつも思うんだが、なんで4分33秒なんだろう。
高校1年のときにこの曲を知ったときは、「ちょうどオレの1500M走一本分かぁ」と思ったのを覚えてる。

マイナス20度ですから。

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L.L.Beanを愛用している。

日本にいるときからフィールドコートやオックスフォードシャツなどは定番だったが、アメリカに来てからL.L.Beanの性能を再確認。いかなるものも、それが作られた所で最もその性能を発揮する。日本の蒸し暑い夏に浴衣と団扇が似つかわしいように、アメリカの冬にL.L.Beanのイクイップメントは非常にフィットする。

特に冬に入ってから雪が多いので、ビーンブーツが非常に重宝する。このブーツはほんとに雪でも悪天候でもビクともしない。ありがたいことに保温性がズバ抜けているので、戸外がマイナス15度くらいでもつま先が凍らない。


僕が日本で着ていたフィールドコートは日本の冬程度の対応品だったので、一段防寒性の高いフィールドコートを買った。届いたときに、今まで持ってるのとまったく同じのが届いたと思ってびっくりしたが、ちゃんと内側にインナーが補強してある。外見はまったく同じ。これは適応温度がマイナス20度と、こっちの冬向け。中にセーターを着るだけで外出できる。ぶらぼー。

今くらいの時期で寒さは底をついたと思ったら、2月はまだもう一段寒くなるらしい。もういいよ、あったかくなろうよ(泣)。

リズムの魔力

細き流れを集め来て 木を裂き岩を穿ちつつ
大河滔々波を揚ぐ これ大利根の壮観ぞ
朝(あした)に花の露を受け 夕べに藤の陰浸し
八千草匂ふ武蔵野を 二つに断ちて流るなり
時勢を創る英雄の 姿は此れに似たらずや
忍耐剛毅我が剣 誠実質素我が盾

どこの漢詩から取ってきた一節だとお思いだろうか。
実はこの詩は、私の出身高校の校歌である。これで全部。この校歌には校名が入っていない。私の高校時代は、この校歌の基に全校生徒が同じ魂を共有したものだ。大学時代に教育実習で久しぶりに母校に戻ったときにも、私の在学時代と何も変わっていなかった。実習の最終日には、学生全員が肩を組み輪になって校歌を張り上げエールを切ってくれ、響き渡る大声に職員室の先生方が苦笑いしていた。この学校の卒業生は、何年経っても校歌を諳んじることができる。

良い詩が心に残るのはなぜだろう。
思うに、人は詩を頭で読むのではなく、心で読むのではないか。詩には、明晰な論理も首尾一貫した主張もない。詩が表すのは、壮大な景色であり、人の情であり強さであり優しさである。理性を働かせて読むものではないために、詩とは理解するものではない。感じるものだと思う。言語のあり方に携わるもののはしくれとして、言語を用いる表現形態としてやや異端な「詩」というものの存在は、前からずっと気になっていた。

詩が情で読むものであるとしたら、情を直接揺さぶる工夫がしてある方が心に直に届きやすい。詩が理性を通り越して感情に届くのは、詩に特有で、他の言語表現形態が持ち得ない特徴、つまり「韻律」のせいだと思う。人はリズムを理性で暗記するのではない。身体に、脳に、染み込ませて覚えるのだ。統一された韻による直接的な揺さぶりが、理性の気付かぬところで感情に影響を与えるのだろう。詩は、音にされて始めて生命を持つ。音のない詩は、情報を伝えるだけの詩の抜け殻だ。

ヒトラーの演説の録音を聞いたことがある。「催眠術」と評される彼の演説は、一字一句記された文面を読むと、それほどたいしたものではない。むしろ退屈で、論旨が一貫せず、論理が飛躍している。ところがどうだろう、演説を録音で聴くと、ものすごい統一されたリズムをもって詩を謡うような「流れ」がある。聞いて改めて文面を読むと、細かく頭韻、脚韻が踏んであることに気付く。実際に演説を見ると、もっともの凄かったらしい。ヒトラーの演説は、必ず夕暮れ時、日が沈む1時間ほど前に行われたという。演説をするヒトラーに夕日が後ろから差すように場所や向きが周到に計算されていた。そのようなドラマチックな演出に加え、全員が同じハーケンクロイツをつけた軍服を着ているという連帯感が相まって、ナチスの結束力は生まれていた。

シェークスピアの歴史物(「歴史劇」ではない。念のため)の中に、『ジュリアス・シーザー』という作品がある。「ブルータス、お前もか」というセリフはよく知られているが、このセリフを創ったのがシェークスピアであることはあまり知られていない。この作品は、大衆煽動の例としてよく引き合いにされる。
物語はシーザー暗殺後が中心となっている。己の大義を信じてシーザーを暗殺したブルータスは、なぜ自分がシーザーを暗殺せねばならなかったのかを、広場で一般大衆に演説する。彼はシーザーを愛していたこと、また祖国を愛しているがゆえに彼を殺さざるをえなかったことを告げ、市民に称えられる。ブルータスの演説の直後に、やはりシーザーの忠臣であったアントニーが弔辞を述べる。彼はブルータスら暗殺者たちを責めることはせず、シーザーが野心など微塵も持っていなかったことを強調する演説を行った。その結果、どうなったか。
アントニーの演説には、ところどころに民衆を焚きつける工夫がこらしてあった。アントニーの演説を聴き、先ほどまでブルータスの心意気を賞賛していた民衆は態度を一変、ブルータスを国賊、謀反人呼ばわりして暴動を起こす騒ぎとなったのだ。そのためブルータスら暗殺者たちは命からがらローマを脱出する羽目になる。

ブルータスとアントニーの演説がこの作品のハイライトだが、二人の演説を比べてみると、文章の違いがよく分かる。
ブルータスの演説は整然とした理詰めだ。原因を説明し、解決案を列挙し、他の要因を考慮し、残された方法はシーザー暗殺しかありえない、と「論証」している。それに対し、アントニーの演説は詩といって良い。韻を踏む、一定した韻律をもつ、リフレインを効かせる、すべてが流れるように「詠唱」されている。民衆に直接影響するのはどちらか、火を見るよりも明らかだろう。私が大学でこの物語を読んだときに、「ブルータスの演説の論旨を論理的にまとめてこい、アントニーの演説を100回朗読してこい」という宿題が出た。

アフリカのルワンダという国で1994年、信じられない虐殺事件が起きた。この国はフツ族とチツ族という部族に分かれているが、両族間で婚姻関係も結ばれるほど密接な関係にあった。ところがチツ族を嫌う過激派がフツ族民を煽動し、チツ族を大量虐殺する内乱状態に発展した。このときフツ族過激派が煽動手段として使ったのはラジオだった。「千の丘ラジオ(千の丘・自由ラジオテレビ)」という放送局は、軽快な語り口、今でいうラップのようなリズムに乗せてチツ族静粛を呼びかけた。その結果、興奮したフツ族民は「マシェット」と呼ばれるナタや斧やナイフ、さらに銃や手榴弾を使って、昨日まで隣人であった多くのツチ族を虐殺していった。この虐殺事件については、1998年1月18日にNHKスペシャル『なぜ隣人を殺したか――ルアンダ虐殺と煽動ラジオ放送』が放映されている。

「リズムが人の感情に及ぼす影響」に仰天した例に、映画「太陽がいっぱい」がある。
あなたに好きな異性がいたとする。その人は残念ながら、あなたの友人の恋人である。さて、ある事故でその友人が死んだ。悲しみに暮れるあなたの想い人はひとりぽっち。これはチャンス。さぁ、どうやってその人にアプローチするか。
「友人は可哀想でしたね。それはそうと、これからは私と付き合いませんか」などと正面攻撃をかけるのは愚の骨頂だろう。こういう状況に置かれたアラン・ドロンはどうしたか。
夕暮れ時、仄かな明かりに照らされる部屋で、アランは彼女の後ろから背中をそっと抱く。ギターを手に取り、後ろからギターを持たせ、彼女の手をとり、彼女の指でギターをつまびかせる。他の音は一切なし。彼女の手を取って途切れ途切れにつまびくギターだけが流れる。言葉は何もない。
その道の達人によると「薄暗さ、身体接触、音楽」は落とすための3大要素なのだそうだ。真昼間の太陽の下で、5メートル離れたところから自分の魅力を論理的に説得するのはダメらしい。百万言の金科玉条よりも、ポロンと弾くギターの方が、彼女の心を揺らすらしい。しかもこの映画はアラン自身がその友人を事故に見せかけて殺しているのだから、なおさら度肝を抜く。


人間は、理性では分かっていながら情に流されて不可解な行動をとってしまうことがある。相当に賢い人間でもその轍は踏んでいる。人がそのような行動に出る原因は何なのか、また意図的に人をそういう行動に駆り立てるようにするための方法はあるのか、私は常々興味を持っていた。そういう不埒なことを考えると、理性と感情のそれぞれについて、違いをはっきりさせたくなる。私は従来、理性側の人間で、人の感情についてはあんまり興味がなかったが、感情というものを理性で把握しようとする分にはなかなか面白そうだということが分かった。もうちょっと上達すると、己だけでなく、人の感情までもコントロールできるようになるかもしれない。そうなったらもっと面白い。

私の感じるところ、英語の韻律は煌びやかで美しいが、日本の詩歌や漢詩のような重厚な深みがない。日本の詩歌は1500年以上の歴史がある。重みがあって当然だ。高々500年足らずの歴史しか持たない欧米の詩歌が日本の韻律に深みで対抗しようなど、文字通り1000年早い。日本古来の韻律に基づく母校の校歌は、十数年の時を隔てて尚、在校当時の魂を召還せしめる力がある。この韻律の力を、あらゆる方向に自由自在に使えたとしたら、と想像されたい。もの凄い呪術だと思う。

よっしゃ来いやー。

火曜日から春セメスターが始まる。

TAの授業について、早速仕事の指示が来た。学部生が受講する大講堂の授業のシラバスを全員分コピーしてくれとのこと。まかせなさいコピーなんぞなんぼでもやってやる。僕の仕事はコピーを取ったり、PC画面上で試験問題を作ったり、授業中にスライドやパワーポイントの操作を手伝ったりという作業系が多いので、アタマを使わなくていいからラクだ。次のacademic yearもこの仕事させてください…って言ってもダメだろうなぁ…。

する授業だけじゃなくて、受ける授業も始まる。むしろこっちのほうが本筋なので、徐々に気合ゲージを溜めて一撃必殺の機会を狙う。そもそもコントローラーは僕の使ってるほうが操作性がいいはずなので、連打で後退させて最後にとどめの一撃を打ち込めばノックアウトできるはず!!
…あれ?
(どこで道を間違えたのかな)

受ける授業のほうは、基本的に4コマ。先セメのSyntax, Semantics, Phonologyに加え、春セメにはAcquisitionが加わる。この4コマは普通に登録して履修するんだが、僕としては自分をちょっと高いところに置いてみたいので、Semanticsのセミナーに出ることにする。最初、登録ナシの座敷わらしでいようと思ったんだけど、今セメからそーゆー気合の入ってないマネはペケになったそうな。なんでも、independent studiesとゆー聴講登録をしなきゃいかんそうだ。これは通常の3単位とは差のつく1単位。発表義務が免除になるぶん、単位が安いらしい。どうやって聴講するかについて、ちょっと指導教官のご意見伺いにでも行くことにしよう。

よっしゃ気合入ってきた!とりあえず昼寝しよう。

雪降る街から

雪を見るたびに思うことがある。

点に等しい、一次元的な雪の結晶が重なって、二次元的な面になり、それが積もって三次元的な雪のカタマリになる。ここまでは普通の物体と同じだ。しかし雪の場合は、四次元的に、時間とともに溶けては積もるサイクルを繰り返し、その総体が「雪」として認識される。

たとえば私の部屋の窓に積もった雪は、以前に積もった雪とは物理的には違うが、観念的には同じものだ。英語でsnowは不加算名詞だが、時間・空間を問わず、どの任意の点を占める物質を取り出しても、他との識別に意味がないから個体として認識されていないんだと思う。

この三次元の世の中で、四次元という高次の次元を実感させてくれるから雪が好きだ。
雪が積もると、噴水や滝が見たくなる。

ぐてーっと寝っころがって論文読み

学会の提出締め切りが近い(泣)。

日本で修士課程にいたときからそうだったが、長期の休みの後になると、思考力を極限にまで高める力が落ちている。ちょうど、スポーツ選手がオフ明けすると、身体のナマリを感じるのと同じなんだろう。身体のキレを取り戻すには、練習あるのみ。僕も長いこと院生をしてるので、アタマのリハビリから自主トレを経て、セメスター本番に突入するまでの勉強計画メニューの作り方くらい心得てる。

人間は習慣の動物で、どんな厳しい環境にでも慣れることができるらしい。拷問を受けているものは、時間が経つにつれて苦痛を感じにくくなるという話をどこかで聞いた。それと同じで、睡眠不足が続き、ぶっ通しの徹夜が日常茶飯事の大学院生も、セメスター中にそういう生活が普通に感じてくる。体の疲れと反比例して頭脳は明晰になる気さえする。

今回は月末までに学会に提出なので、エンジンを空ぶかしするくらいにして強引に回転数を上げていかなければならない。ほとんど話はまとまっているんだが、突っ込まれ所満載なので、通ったらそっちのほうが大変だ。
お前冬休みに何してたんだ、という突っ込みはナシで。

そんなもんなのかな

センター試験:「5教科7科目」負担? 受験生の声は
(2004年1月17日 毎日新聞)

掲載されている高校生の意識の低さにがっかりした。
彼らは大学に何をしに行くのだろう。

勉強が、なにかの役に立つとでも思っているのだろうか。
役に立つことを勉強をしようと思っている限り、本当の勉強などできないと思う。

どうせ大学で勉強しようと思うのなら、役に立つとか立たないとかつまらないことを言ってないで、もっと高いところを目指してほしい。

このような高校生ばかりではなく、なぜ自分は勉強するのか、という根本的なことをしっかり考えている高校生もいると願いたい。

最近の若者は

[最年少芥川賞]「活字文化は引き継がれている」
(2004年1月17日付・読売新聞社説)

2004年1月17日 読売新聞「編集手帳」

2004年1月17日 毎日新聞「余録」

芥川賞が正常な機能を取り戻しつつある。

芥川賞、直木賞は、もともと新人賞だ。結構な額の賞金は、もともと「ごほうび」ではなく、若手の将来に対する選考委員会の「投資」という意識があった。近年、功成り名を遂げた壮年の作家が両賞を受賞する事態が増え、賞の意義がすこし疑問だった。直木賞に関しては、今回も受賞者はもはや新人ではない。しかし芥川賞については、若い世代の受賞を正直に喜びたい。

しかし、どうも各誌の言っている「今の若い世代は活字離れしているというが、実はそうでもないのではないか」と言った論調は安易すぎて賛成できない。私自身も10代後半、20代前半の若者を教えたことがあるが、彼らは本当に本を読んでいない。卒業の危機を感じてあわてて勉強するために本屋で参考書を買い、「初めて自分の本を買った」という学生もいた。

小学校から高校にかけての生徒の基礎体力は、年々低下の傾向にあるそうだ。しかし、世界のスポーツシーンでは、陸上、水泳などで世界記録は着実に更新され続けている。この一見矛盾した現象はどういうことだろう。

僕が思うに、最近では若年層の行動が多様化している、というだけのような気がする。一昔前ならば、本を読み、運動をし、勉強をし、という一通りのことをすべての者がある程度こなす平均的な文化だったのではあるまいか。それが最近では本を読む者と読まない者、運動をするものとしない者が極端に分かれたのだろう。読書に関しては、本を読む若年層の絶対数はどうも減少傾向にあるような気がする。しかし、数少ない「読む組」が、信じられないくらいの勢いで光を放っている。少数精鋭の猛者と、大多数の怠け者の平均をとると、「最近の若者は活字を読まない」ということになるような気がする。

最近の傾向がどういうことになってるのかは推測の域を出ない。安易に「最近の若者は活字を読まない」と決め付けるのはもちろん誤りだが、かといって最少年の芥川賞受賞者をもって「実は最近の若者は本をよく読むのではないか」と決め付けるも、同じように誤りだと思う。

おひっこし♪(超さむかった)

友人夫妻の引越しを手伝った。
大学時代はラグビー部だったので、よく引越しの手伝いには駆りだされる。

アメリカは業者に引越しを頼まない。自分で荷造りをし、トラックを借りて、自分で引っ越す。自分もいつか引越しすることがあるかもしれないから、どういうふうにやるのかよく見ておいた。

貸し倉庫というのはなかなか便利だ。今回手伝った友人は、次の夏にはドイツに引っ越すことがもう決まっており、かつ新居が家具付きの家なので、いらない家具をすべて貸し倉庫においておくことにしたそうな。一月で75ドル。東京の一月の駐車場代よりも安い。

この国は免許区分がおおらかで、普通免許でも日本と4トントラックくらいのクルマを運転できる。おおざっぱだなぁ。そうじゃないと生活に困る地域もあるから仕方ないんだろうけど。

今回手伝った友人夫妻は、両方ともものすごく優秀な研究者。結局、人と人とのつながりってのはどの世界でも大事なんだなぁと実感。引越し作業が済んで、ゴハンをごちそうしてもらったときに、今、自分が考えているネタなどいろいろとディスカッションできた。ピザを食べながらFocusの解釈について延々と議論するわたしたち。食事をしながらのディスカッションがうんざりするのではなく、むしろ食が進むようになると一般社会への復帰は難しい段階に入っているらしい。ダンナの博士論文のコピーをもらえることになった。いい奴だー。

彼はドイツ人で、「ウリ」と呼ばれている。彼の論文はその名で出ている。今回引越しを手伝って、いろんな手続きで正式な文書を書くのをちょっとのぞいたら、本名は「ウーリッヒ」というらしい。「ッヒ」は、喉の奥を鳴らす音。「特に日本人は発音しにくいらしいんだよね」と言って苦笑いしていた。研究者の中には、このように世界中の人に発音されやすいような名前に変えて発表している人も多い。確か「スージー」も本名は「スザンナ」だったな。

歴史を紡ぐ糸

苔(こけ)というものは、良いもんなんだろうか、悪いものなのだろうか。

昔から君が代の歌詞が不思議だった。
最初は「細石」、つまり砂利だろう。それが時間をかけると「巌」となる。さらに時間が経つと「苔」が生す。

まず第一に不思議なのは、細石が巌となることはあるのか、という疑問だ。君が代が謳っているのは、「それほどの長い年月のあいだ、君が代は歌い継がれるものですよ」ということだろう。普通は、巌が崩れて細石となるのではないか。普通に考えれば、小が勝手に大と化すというのは、エントロピー増加という物理の大前提に激しく逆らっている。千代に八千代に待ってみても、どうも砂利が巌に化けるのは無理がある。なんでこんな物理の法則に逆らったことが起きるのだろう。

当然、極相である「苔が生す」という状態を謳いたいがためだろう、という予測が立つ。巌→細石の流れだと、細石に苔が生すことになってどうもありがたみがない。苔が生すのは、やはりどーんとそびえる巌でなくてはなるまい。苔が生える一歩手前が巌であるとすれば、それよりも前の段階は逆に小さい細石であることになり、細石→巌の順でなくてはならない。このように、君が代の歌は、結果としての「苔が生す」という状態を作り上げたいがために、時間の流れを逆に作ったのではないだろうか。

そこで疑問。「苔が生す」というのは、いいことなのか?
私は日本庭園の作りと美学について疎いのでよく分からないが、どうも古くからの由緒ある日本の庭には、確かに苔はつきもののような気がする。緑がびっしりと埋め尽くす庭の景観は、理屈抜きで時間の流れを感じさせる重さがある。

「転石苔生さず」ということわざがある。転がる石に苔は生えない。これは英語にも同様のことわざがあって、Rolling Stones gather no moss, という。おもしろいのは、表している物理現象は同じだが、意図は正反対、ということだ。日本語の「転石苔生さず」は、「あっちこっちに転がるような落ち着きのない奴は風格が身につかない」と、動かないことを奨励している。ところが、英語のRolling Stones gather no mossの方は、「いつも生き生きと動く者はいつまでも新鮮でいられ、躍動感にあふれている」という意味で、動くことを奨励している。つまり苔の立場としては、日本ではいいもんで、英語ではわるいもんなのだ。ひと昔前に話題になった寓話「チーズはどこに消えた?」は原作が英語だけあって、現状に固執する姿勢をあざ笑う、変化を求めて動く者の賛歌となっている。

日本語と英語の正反対の意味は、どちらがより真実に近いだろうか。どうも私の感覚だと、奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・江戸・明治の昔ならいざ知らず、世の中の流れがスピード化した現代社会においては、英語のほうの解釈のほうが事実に近いのではないか。日本の企業も終身雇用制度を見直す段階にきている。ひとところにどっしりと構えて動かない姿勢は体制の硬直化を生み、時代に取り残される時代錯誤な結果を生むのではないか。

アメリカに来るまで、私はそう思っていた。

この国に来てから、ちょっと考えが変わった。
日本は国土が狭く、人口が多い。島国であるため、遥か悠久の昔から一本の歴史に沿って人が生きてきた。その結果、国土のどこに行っても、先人の跡がある。日本で、誰一人踏んだことのない地はないのではないか。日本人がある景観を眺めたとき、遥か昔に同じ景色に臨んだ先人がいたことを感じ取ることができる。私たち日本人は、1400年前に立てられた寺社の門の前に立ち、それを立てる為に奮闘した者や、それぞれの思いをもってその門をくぐった者を想い、連綿と続く時間の先に今の自分がいるという、歴史の流れを感じることが出来る。

それに対して、アメリカは未開の土地はおろか、人を拒む自然が多すぎる。日本と違い国土が広大なため、単調な景観が多い。国としての歴史が浅いため、過去を持たない。草木が一本も生えない広大な砂漠、自然の力が織り成す大渓谷、雄大な水を湛える大河を見て、私たちは自然の驚異に感嘆はするものの、そこに太古の人たちとの対話はない。

つまり、アメリカという国には涙がないのだ。景色は自然が作ったものであり、そこに人の魂は眠っていない。国土の中に、先人の姿を見出すことができない。殺風景で馬鹿でかい景観を見ても、流せる涙がない。
それに対して日本の場合は、剛の者と剛の者がお互いにしのぎを削った古戦場、歴史の舞台となった建築物、文化を作り続けた名匠の跡が、至るところに感じられる。どんな景色や場所にも、かつてそこで流れた涙がある。「夏草や兵共が夢の跡」という感慨は、日本人であれば容易に追憶に想いを馳せることができる意識であるのに対し、アメリカではそれを感じることができない。

「苔」というのは、こうした歴史の積み重ねを感じられるものを示す具象ではあるまいか。和風庭園の庭に生す苔は、最初に生し始めた数百年前と、現在とを紡ぐ歴史の糸ではないだろうか。数百年前に、同じ石の同じ苔を見た者と、現在、それを見る自分とが、同じ場所で同じ意識を共有する。これは、脈々と続く歴史を持つ日本人だけが持つことの出来る意識だろう。

日本人にとっては、「転石苔生さず」は、どっしりと構えよ、弛まず動け、どちらの意味にも取ることができる。先人が積み重ねた歴史の重さと、現代世界のスピード化した文化の、両方を享受できる民族であることによる選択の幅だ。しかし、アメリカでは、「どっしりと構えよ」という意味を実感として感じることが出来る文化的な背景がない。アメリカ人にとってRolling stones gather no mossという言葉は、ただひとつしか意味を選ぶ余地のない言葉なのだ。

現代社会においては、「転石苔生さず」という言葉は、「弛まず動け」の方が当てはまることが多いと思う。しかしながら日本人は、この言葉をして、英語が持ち得ない「どっしり構えよ」という意味たらしめる壮大な歴史を持つことを、誇りに思っていいのではないか。

売るほうもバカなら買うほうもバカだ

米国の州、ネット・オークションに「まるごと」出品
(2004年01月16日 CNN)

ウェスト・バージニア州がネットオークションで売りに出されたんだそうな。

最高入札金額は9999万9999ドル(約106億円)。出せるだけ出したな。
しかし知事の報道官の怒り方が間違ってるような気がする。「安すぎる」って、おい、高けりゃマジで売るつもりかい。

ひとり歩き

いつか、自分の書いた論文が勝手に引用されていることがあった。そりゃべつに構わない。むしろ自分の勉強が人の役に立っている気がして単純にうれしい。「おおーオレの論文が使われてるー!!」ていうのはなんか気合のモトになる。

僕の書いているblogが、Yahoo!やGoogleから検索できることが分かった。いつの間に紛れ込んだんだ(泣)。Myblog Japanに登録すると、遅かれ早かれ検索システムの網にひっかかるらしい。しまいにゃこんなのにまで登場。なんじゃこりゃ。こんなのに登録した覚えないぞ。しかもご丁寧に「平均アップデート時間」なんて出してくれちゃって。頼んでねぇよ。

ホームページのヒット数を増やすのは簡単だ。いろいろな人のページを廻って、BBSやコメントにとても好意的なコメントを入れて、自分のページのURLをさりげなく置いてくればいい。気に入ってくれれば、その人がページ内にリンクを張ってくれる。かくして指数関数的に読者が増える。

僕は、そういう「営業」をまったくやってない。ヒマないし。(すいませんいっぱいありました)
僕のページは、自分の考えてることをいったん脳の外にアウトプットして、それを再びインプットするというループを廻すことを目的としているメモみたいなもん(Noriyoshiさん卓見だと思うなぁ)。だから、最初から特定の読者を想定していない。数少ない友達はURLを知ってるし、メールで話題についてしゃべったりするけど、そもそも趣味程度のモンだから、爆発的なカウンターヒットを狙ってるわけじゃない。

自分の書いたテキストがなんか一人歩きしてるようでなんか変な感じ。まぁいいんだけど。
自分の思考のため、とか言いながら、記事に対するメールやコメントやTBがあると、超うれしかったりする。こういう世界に生きがい感じる輩は、そりゃ出てくるだろうなと思うよ。

映画、「12人の怒れる男」のなかで、自分の言動が人に引用されることによる自己意識の満足感がもたらす弊害がポイントになる場面があったけど、人間ってそういうことで生きがい感じるヘンな生き物なのかもね。

各国文化論

フランス語で愛を語り、
ドイツ語で神を説き、
英語で演説し、
ロシア語で馬を叱る

++++++++++

シェークスピアを一番理解しているのはどの国か、というわけで 各国それぞれが得意とする分野でシェークスピアを表現することになった。

アメリカは、数億ドルをかけて映画化した。
フランスは、前衛的な舞台を作り上げた。
日本は、アニメにした。
イタリアは、高らかなカンツォーネを歌った。
ドイツは、作品中の人物の行動様式を数式にしてみせた。
中国は、場面の一つ一つを米粒に描いた。
スペインは、何故かはわからないが牛と戦った。
韓国は、シェークスピアは韓国人であると論じた。

イギリスは、それら全てを批評した。

++++++++++

ある船に火災が発生した。船長は、乗客をスムーズに海へ飛び込ませるために

イギリス人には 「紳士はこういうときに飛び込むものです」
ドイツ人には 「規則では海に飛び込むことになっています」
イタリア人には 「さっき美女が飛び込みました」
アメリカ人には 「海に飛び込んだらヒーローになれますよ」
ロシア人には 「ウオッカのビンが流されてしまいました、今追えば間に合います」
フランス人には 「海に飛び込まないで下さい」
日本人には 「みんなもう飛び込みましたよ」
中国人には 「おいしそうな魚が泳いでますよ」
北朝鮮人には 「今が亡命のチャンスですよ」
大阪人には 「阪神が優勝しましたよ」

と伝えた。

船員「船長!まだ韓国人が残っていますが!」
船長「ほっておけ。」
船員「なぜですか!」
船長「生き残られると迷惑だ。服が濡れたと賠償請求されてしまう。

++++++++++

フランスは国土のほぼほとんどが平地である。非常に見晴らしがよいため、昔からフランス人は危険を目で察知していた。そのため、フランス人は色彩表現がゆたかな民族となり、絵画が発達した。言語としてのフランス語の文法は平坦で、全体像の見晴らしがしやすい。

ドイツは、グリム童話に描かれているように、国土の大半が鬱蒼とした森に覆われているという。森の中で暮らすドイツ人は、音で危険を察知していた。そのためにドイツ人は聴覚に優れ、優れた音楽家を多数輩出する国となった。言語としてのドイツ語は、迷いの森のように複雑怪奇な文法を擁するが、オペラや朗読などで鑑賞するに非常に美しい旋律を醸す音をもつ。

ロシアは一年の大半を凍った国土に覆われるため、内にこもって思索の世界で飛翔する術を発達させた。そのため、小説、演劇、音楽、思想など、ロシアのものは何でも長い。言語としてのロシア語は、凍る気候で他言語と交わることが少なかったため、昔のラテン語の特徴がそのまま保存されている。

イギリスはヨーロッパを望む島国でありながら、貧弱な土地、霧に覆われる気候のため、生き生きとした文化が発達しにくい土壌にある。そのため、他の国の文明を略奪して廻る以外に文化を築く方法を持たなかった。その大半は今も大英博物館に安置されている。良心的な人々による自らの文化を築く営みは鬱屈した気候によって抑圧されるため、思わぬ爆発力をもって世界にショックを与える突然変異的な衝撃をもたらす。音楽の概念を変えたビートルズ、肉感、官能的な体型が趨勢を占めるファッション界に、40キロ台の細身にミニスカート・セーターだけを巻きつけて登場したモデル・トゥイッギー、世界のファンタジー出版地図を一変させたハリー・ポッター。言語としての英語は、世界中を点々と伝播することによって擦り切れ、古代の文法がほとんど消えて無くなっている。

アメリカは過去を持たない国だ。過去に見るべきものがないので、意識は常に未来に向かっている。今までがどうなのかよりも、これからがどうなのかを重視する。その実、従うべき伝統を持たないというコンプレックスがあるため、大体のアメリカ人は実は保守的だ。ディズニーのアニメは、完全なオリジナルの話はなく、すべて既存の物語の焼き直しである。他民族からなる複合国家であるため、民族間の思考の唯一の共通項である「論理」を徹底的に重視する。

日本は狭い国土、海に囲まれた土地で逃げ場がないために、お互いの顔色を伺いながら共存する和の文化が生まれた。既存の価値の破壊は安定した感覚を脅かすものとして排斥される。関係によって個が確立するため「恥」という道徳律が生まれた。人の目があるか否かが決定的に重要であり、日向と影、表と裏、本音と建前が激しく異なる。人生において快楽を悪と考え、苦難を耐え忍ぶことを美徳とする道徳律が潜在的に支配している。ゆがんだ平等感から個人間で差が生じることを嫌い、出る杭を徹底的に叩く。「調子に乗るな」という言葉はいかなる言語にも翻訳不可能。「正しいことが良いこととは限らない」ということに気付いている、世界唯一の民族。

やさしさとは

「やさしい人」ってどんな人?

以前、非常勤で教えていたときに、学期末に授業評価のアンケートをしていた。私が勤めていた学校は語学系ということもあって、9割を女の子が占める。
ひととおり授業についてのアンケートを作ったあとで、スペースが余ると、「好きな音楽は」「よく行く遊び場所は」「好きな異性のタイプは」などの質問を付加していた。興味の集中はすべて最後の質問にあることは言うまでもない。

「お金をいっぱい持ってる人」
「服のセンスがいい人」
「話が面白い人」
「イケメンくん・かっこいい人」

…きみたち正直なのね。
ちょっとは繕えよ。
そういう正直な回答のなかで、相変わらずもれなく挙げられる条件があった。
それが、「やさしい人」。

今も昔も、「やさしい人」というのは異性に対する条件としては不動の一位だろう。
とはいえ、どういう人が「やさしい人」なのか、休み時間に女の子に聞いてみたりする。

「えー、よくメール入れてくれる人とか」
「夜、寂しいと電話してくれるとか」
「記念日をちゃんと覚えててプレゼントしてくれるとか」
「会いたくなったらいつでも会いに来てくれるとか」
「荷物が重いときに持ってくれるとか」

それは「マメな人」じゃないのか?

どうも、最近では手数(てかず)の多さをかけることが「やさしさ」と呼ばれているようだ。メールだの電話だの誕生日だの、そんなものは自分の人生を顧みたときに本当に根本的な要因を成していると言えるだろうか。自分が生きていくうえで、それほど大事なものなのだろうか。蓋し、最近では目先の気持ちを満たしさえすれば、それが「やさしさ」と呼ばれるようだ。

どうやら、私の世代とは「やさしい」の意味が変わってしまっているようだ。
「やさしさ」とは、そう日常的に触れられる情ではあるまい。「やさしさ」とは、本人が行き詰まり、道に迷い、苦しみに嵌り、人生の袋小路に迷い込んだ最後の最後に、あらかじめ気を配ってあったかのようにそこに待ち構えているような思いやりのことを言うのではなかろうか。当然、やさしさとは、自分が窮地に追い込まれたときにしか出会うことのない情ではあるまいか。自分の損得を省みることなく相手のことを思う気持ちが、「やさしさ」の本質だろう。

彼女が仕事後の彼氏に会ったとしよう。なんか彼氏の機嫌が悪い。やたらと不平不満、文句が多く、ほとんど八つ当たりに近い。ここで、

(1)「なんでそんなこと私に言うのよ。私には関係ないでしょ」とキレる
(2)(ああ、なんか仕事で上司と衝突してるって言ってたから、なんか会社でイヤなことがあったんだな。しばらく当り散らしたら落ち着くかしら)と思って、相手の目を見てニコッと微笑む

世の女性諸君は、自分ならどちらの反応を選ぶだろうか。
どっちの対応が「やさしい」だろうか。
これは間違いなく(2)だろう。「自分の損得を顧みず、相手のことを思いやる」というのは、こういうことではないだろうか。男の一員として断言するが、(2)の態度をとられて上目遣いに微笑まれたら、130%の野郎は己の理不尽を悟り、土下座して落とし前をつけるだろう。詫びの印にモノのひとつも買ってくれるかもしれない。

最近でいう「やさしさ」が、手数をかける程度の浅いものだとしたら、優しい人を装うことなど簡単だ。心など要らない。はっきりいって単純作業だ。そのような表面上の「やさしさ」を重視する女の子たちは、のちのち大きな誤算に気づくのではなかろうか。

私の見たところ、「手数をかける頻度」と、「相手を思いやる心」は、どうも反比例の関係にあるような気がする。やたらと彼女にアプローチするマメな男は、どうも相手のためというよりも自分のためにやってはいまいか。反対に、相手を思いやる心の深い人は、あまりその心を相手に伝える手間暇をかけることには執着しないようだ。
中には、「相手を思いやる心」が深く、かつ「手数をかける頻度」も多い、というパーフェクトな優しさを持つ人もいる。しかし、そういう人は例外なく、自分自身の人生の主人公になっていない。他人に情をかけすぎるあまり、自分自身に気を回す余裕がないのだ。一人の人間が廻せる情の量に限界があるとすれば、その情をどう配分するかで、その人の情の質は決まるのではなかろうか。

「…もう一度…」
「十年後にもう一回言ってやるよ」
「十年に一度?」
「ああ。」
「…ケチ」

十年に一度でも、本当にその言葉が必要な一瞬にためらわずその言葉をかけるのなら、それがやさしいってことじゃないのかな。

「ひとつだけ約束してくれ」「なぁに?」「毎年、和也の墓参りに付き合うこと」「うん。」

鉄拳食らった強盗もアホだな

90歳の老人が強盗に正義の鉄拳食らわす
(2004.01.15 CNN News)

なんとまぁ。
こういう元気があるうちは当分元気なんだろう。無茶すんなよ。

このニュースを読んだ家主おじいちゃんが、全身から炎を出さんばかりに気合入ってるのがちょっと気になる。
おいおいおじいちゃん、強盗を見かけたら逃げろって。
「現地警察は凶器を持った強盗に立ち向かうことは奨励していない」ってところ、ちゃんと読んだか?
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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