たくろふのつぶやき

BBQ強化月間。

これだからこの国は

「MikeRoweSoft.com」論争で和解、マ社が製品など提供
(2004.01.24 CNN News)

双方、互角にアホだ。

まずマイクロソフト側。
件の高校生はドメイン名を変更する代わりに1万ドル(約107万円)を要求したが、マ社は10ドル(約1070円)を主張。たしかに大人げない

高校生の側。
こいつネットワークのモラルが分かってない。特定の個人や企業を想起させるドメイン名が、どれほど人を不愉快にさせるかを考えてない。「法律に抵触しなければいい」という話ではない。人としてどうかと思う。世にあふれるパチもんのニセブランド品と同じだ。
コメントもおかしい。「ちっぽけな人間1人だって、大会社に勝つことが出来るんだということを証明したかった」
勝ってないと思う。著作権法すれすれの不快な所業に及んだ挙句、カツあげまがいのことをして、本当に「勝った」と思ってるんだったら、こいつなんとかしたほうがいいぞ。

おいおいおいおいおい

編集ミスで「崖転落」の下山ルートを紹介、英誌
(2004.01.22 CNN News)

ばかたれ。

素人がガイドブック片手に蘊蓄をたれる危険性を再確認。
本に載ってりゃ正しいとは限らないといういい教訓。

編集ミスとは言うが、いったいどういう編集ミスをすればそうなるのかを聞いてみたい。

枠のない思考

「時計」と「ホウレン草」と「ブッシュ米大統領」の共通点がおわかりだろうか。

ある玩具メーカーの入社試験の面接問題を知る機会があった。
エンピツが一本あるとする。表面に、メーカー名と芯の堅さを記す記号がついている。

問題は、
「このエンピツ表面の、メーカー名と芯の固さの表示を見なくて済む方法を10個以上挙げなさい」

制限時間は5分だそうだ。
最初、問題の意味が分からなかった。なんの能力を見る問題なのか、意図が分からない。

コレを教えてくれた友人はすらすらと20個ほど方法を挙げ、無事に採用されたそうだ。
教えてもらったもののうち、僕が覚えているのだけ挙げてみると…。

1. 眼をつむる
2. 表示をナイフで削る
3. エンピツに色テープを巻く
4. エンピツを包装紙で包む
5. 顔を横にそむける
6. エンピツを捨てる、焼く
7. 寝る
8. 夜になるのを待ち、電気を消す
9. 眼隠しをつける
10. 自分の眼を潰す
11. 空腹で気絶するまでじっと待つ

僕だったら絶対に落ちるこの面接。
自力で考えると5, 6個くらいしか浮かばない。

普通の人間は、常識にとらわれて問いの意図を察し、そこから逆算して答えを出そうとすることがある。人間の思考というのは、思いのほか常識に縛られているものらしい。その常識の枠を外して思考ができるというのは、並外れた自由度が要求される。もしかしたら人間は、「常識」という枠によりかかり頼り切って、純粋な思考をサボっているところがあるのではあるまいか。

「時計」と「ホウレン草」と「ブッシュ米大統領」の共通点など、いくらでもある。

1. 火を噴かない
2. 単独で空を飛べない
3. 卵を産まない
4. 中国語が読めない
...

僕では5分で20個はムリだな。

料理って。

アメリカにはオール電化の家が多い。

僕の住む家にも電気が幅を利かせている。いちばんすごいのはストーブ(日本のガスレンジ)がないことだ。つまり、僕の家ではフライパンは使えないし、煮物もできない。電子レンジとオーブントースターのみ。家主おじちゃんは電子レンジだけで87年生きている。

僕のあさごはんは、いつもソーセージエッグマフィン。目玉焼きは電子レンジでつくる。何回か爆発させちゃううちに、「卵が爆発するギリギリの時間」が43秒であることがわかった。ソーセージは冷凍のミートパテ。夜はよくパスタをゆでるが、これも専用の容器に入れて電子レンジでゆでる。徹底して電子レンジ一本。

よく、アメリカ人で「特技は料理」と誇らしげに言う人がいるが、よくよく訊いてみるとパスタに味をからめるだけだったりする。この国は、基本的に料理などできなくっても生きていけるのだ。食材だったら冷凍食品で在らざる者なし。カン詰めやレトルトを含めると、余裕で暮らせる。レンジでチンすればいいだけなので、「自分で味をつくる」行いは須く料理と言える。

お湯も電気で沸かす。僕がアメリカで唯一感心した電化製品は、12ドルくらいの安物の電気ポット。水を入れてスイッチを入れると1分でお湯が沸く。超早い。こういう手抜きのための商品を作らせると、アメリカ人ってのはがんばっちゃうみたい。

堕ちていく力

[高校学力調査]「習熟度に応じた教育が必要だ」
(2004年1月24日 読売新聞社説)
全国高校学力テスト 遠のく「科学技術立国」 まず教師の努力/我慢足りぬ子供
(2004年1月24日 産経新聞朝刊)

ここ数年の「ゆとり教育」ブームを鑑みるに、当然の結果だろう。
十分に予測可能な事態だったはずだ。何をいまさら大騒ぎすることがあるか。

現状のまま小、中、高校の教育がゆとり一直線に向かい、出来ない生徒に合わせて出る杭を叩き潰し、円周率を3と教える教育が続く以上、10年後の高校生は相加相乗平均もラ行変格活用も知らないような無知無学の徒に成り下がると思う。学校は友達に会いに行く場所。悪い成績を取るのは教える教師のせい。まったくいい世の中だ。

だいたい、文部科学省も学校現場も生徒も、揃いも揃って勉強をなめてると思う。
勉強は、やさしく図解したマンガもどきの教科書を使って分かったつもりになるハイキングではない。重装備の上で念入りな準備をし、限界の能力を賭けて挑む登山だ。ちょいと簡単に登れる近所のポンポコ山よりも、8000メートル級に聳え立つ巨峰を制したほうが得られる喜びは段違いに大きい。勉強の喜びに到達するには、遥かな道のりを一歩一歩踏破する力が必要なのだ。
ところが、最近の学校では、「ゆとり教育」という血迷った方針に基づいて教育内容をごそっと削ることにより、大きな喜びを見出すことのできる高い峰を軒並み削り取ってしまった。ポンポコ山ばかりになった教科を勉強して、何の面白さを見出せようか。
平成10年に改正された学習指導要領を見ると、せつなさを感じるほどつまらない。こんなに教育内容を削って「学ぶ面白さ」もヘチマもない。征服欲をそそるチョモランマも、K2も、カンチェンジュンガもすべて削られ均され、跡形もない。円周率を「3」と斬って捨てて、どうやって円という図形のもつ深遠な神秘に興味を持てと言うのか。二次方程式の解の公式を教えずして、すべての現象を統一的に説明可能な原理がもたらす興奮をどうやって伝えられるのか。

それぞれの立場に原因があると思う。
文部科学省の失敗は二つあると思う。統一的な方針に拘りすぎた事と、すべての現象を下に合わせたことだ。
そもそも、高校生ともなれば15年以上生きている。それだけの年数があれば、人間の能力、適性に格段の差が生じて当然だ。それを指導要領で統一した方針にまとめるとは片腹痛い。学習指導要領の内容が悪いのではない。存在が悪いのだ。何を教えるかなど、基本的に各学校に自由裁量を持たせていいのではないか。基本的には各学校で自由にしておいて、逸脱しすぎる地域格差などを文部科学省が調整するという方が現実的ではないか。個人的には、生徒が望めば、高校の時点で量子力学を教えようが第2外国語を教えようが一向に構わないと思う。どんなに各校の自由裁量と言っても、しょせん高校で教えることなど大学入試に必要な能力に収束する。やらしておきゃいいのである。それを「出来ないものに劣等感を与え、理解できない生徒を生み、不登校を引き起こす」という下を見る姿勢で考えるから、視線が下がる一方だ。
勉強ができない生徒の12割は、勉強をしてないからできないのだと思う。すればいいと思う。なぜしないのか。

勉強が面白くないからだろう。ここで教師の役割を問う。
はたして中等教育の教壇に立つものは、自分の教える教科に本当に知的興奮を感じているのか。自分の教科だけではない。今の教師は、本当に勉強が好きなのだろうか。本当に勉強しているのだろうか。去年の自分より、今年の自分のほうが知見が広まり能力が高まったと胸を張って言えるのか。教え方がうまくなったか否かということではない。それまで自分が知らなかった未知の世界を拓く勉強をしているのか、ということである。
学校は勉強を教えるところではないと思う。勉強の仕方を教えるところだろう。学校を卒業してから自分ひとりである分野を学ぶ必要が生じたときに、柔軟に対応して、その分野の勉強の仕方を自分で見抜く力こそ、本当に必要な力だろう。その力こそが、真の生涯教育の普及のために必要な力だと思う。たとえば学校の英語の先生に、今まで自分が学んだことのない言語を学習させてみたい。本当に自分で自分を鍛える力があるのか。
教える教師の側が、存分に教科の面白さ、知ることの喜びを感じていれば、おのずとそれを伝える授業になろう。生徒には、面と向かい合うだけではいけないと思う。教師自身が、生徒のはるか前方を同じ方向に向かって進む努力をしている背中を見せられないようでは教師として3流であろう。人間の生きる姿勢は、現時点での到達地点で決まるのではない。その時点で自分の姿勢がどれだけ上向いてるのかの傾きで決まるものだと思う。たとえ教師が生徒よりも知識量で勝るからといって、一年間に生徒が成長するほどには自分自身が成長できない教師は、生徒にも劣る生活態度だと思う。

生徒の側では、卑屈な謙虚さが気に食わない。
勉強ができないことを恥と思わない。点数が取れなくても悔しがらない。「ほらオレってバカだから」と平気でほざく腑抜けばかりがそろっているように思える。勉強とは、極限まで自分の力を振り絞り、今まであり得なかった自分に生まれ変わる行為だ。人間は、追い込まれないと極限の力など出せない。プレッシャーのない奴にいい仕事はできない。生徒が歯を食いしばり、自分の限界の壁に苦しみながらも力を振り絞る気力をもたらすものは、「悔しさ」ではないか。皆が分かるものが自分だけわからない。現時点では他人よりも能力が劣る。そういう悔しさがプレッシャーとなって初めて、極限を越える力を出せ、階段を一歩上れるのだと思う。どうも最近の学校現場はこういう「劣等感」に直結するものはタブーであるようだ。その挙句が、「生徒がわからないのなら、内容を簡単にしましょう」という愚策だ。悔しさを感じた生徒に時には喝を入れ、時には見守り、時には支える、というのではない。悔しさそのものを感じないように環境のほうを変えてしまうのだ。不登校が社会問題になっている昨今、生徒を能力で序列化するのは劣等感の原因として排斥される。運動会のかけっこはゴール直前で後続の生徒を待ち、みんなでゴールする。クラス代表、選抜の競技は「選ばれなかった生徒のことを思って」廃止になる。世の中をなめているとしか思えない。世間に出たら、結果がすべての競争社会だ。能力のある者だけが生き残り、無能な者は脱落する。かわいそうなどとは誰も思ってくれない。
本当に強い者とは、挫折しない者ではない。挫折しても這い上がる者だと思う。現在の教育は、挫折を感じる機会そのものを根底から消滅させることによって、挫折から這い上がる力を培えなくしているのではないか。己の無能を認められない者には成長などありえない。無能な者にまず必要なのは、自分は無能であると正しく悟ること、その後にそこから這い上がる気力を振り絞ることだ。正しい認識から逃げ回ることでは断じてない。自分が無能だと悟った時点で猛烈な悔しさを感じ、這い上がろうとする者は、正しい方法さえ与えられればあとは時間の問題だ。

「競争に勝ちたい」という、生物の本能とも言える欲求が、最近の教育に欠けている気がする。
勝ち方ではない。負けた後に執念で再び立ち上がるような力こそが、本当に必要なものではないか。

給料日ー♪

TAの給料が入った。お金

TAの給料は固定制なので、セメスターが始まっていようといまいとちゃんと2週間に一回、入ってくる。隔週っていうのは結構うれしい。僕の給料は銀行に自動振込みにしてあるので明細票だけぺらっともらうわけだが、セメスター開始一週間記念で今日の夕飯はちょっとおいしいものでも食べにいこうか、と同居してる先輩と相談中。ついでに家主おじいちゃんも連れて行くくらいの勢い。

TAは、フルタイムだと一週間20時間、4分の3TAが週15時間、ハーフTAが週10時間の仕事。僕はハーフTAで、週10時間ってことになってるけど、絶対10時間も働いてない。超ラク。
テロ以来、アメリカに滞在する外国人は、一年の年収が一定額以上ないと「生活力ナシ」ということで滞在許可がおりないそうな。ハーフTAの一年間の給料では、その必要額に届かない。それじゃあってんで、足りない分は「奨学金」という形でドンともらえることになっている。トータルの必要金額はフルタイムTAも4分の3TAもハーフTAも変わらないので、奨学金はハーフTAがたくさんもらえて、4分の3TA以上はちょっとしかもらえないみたい。つまり、隔週にもらえるTAの給料は4分の3のほうが確かに多いんだが、実情はハーフTAは「仕事は少ない、奨学金は多い」、4分の3TAは「仕事は多い、奨学金は少ない」。
「不公平じゃねえか」という声が階下からたまに聞こえてくるが、聞こえないことにしている。

基本的に、勉強をしっかりやっていれば報酬はおのずと入ってくるようになっているみたい。
がんばろっと。

ばびぶべぼ

ba bi bu be boは、なぜ「ばびぶべぼ」と書くのだろう。

はひふへほ
まみむめも

この二行は、発音の仕方が異なる。
「はひふへほ」は両唇をまったく合わせず、喉の奥で摩擦を起こす。言語学的には声門摩擦音(glottal fricative)という。
それに対して「まみむめも」は発音の途中で一旦両唇を合わせ、鼻に空気を逃がす。言語学的には両唇鼻音(bilabial nasal)という。

そこで「ばびぶべぼ」である。
この行は、両唇を合わせる。その点で、「まみむめも」と同じである。ま行と違うのは、口の中で圧縮させた空気を、唇を破裂させて一気に空気を放出する点だ。言語学的には有声両唇閉鎖音(bilabial stop)という。

つまり、ba bi bu be boは、「唇を一旦あわせて発音する」という点で、「はひふへほ」よりも「まみむめも」の方に近いのだ。「゙」(テンテン)が、「空気を破裂させる音につく記号」だとすれば、ba bi bu be boは、むしろ

ま゙み゙む゙め゙も゙

と表記するべきではないだろうか。

日本語わからん

主語、目的語という言葉を聞いて頭が痛くなる方は多いだろう。

言語学に勤しむ者でもこの区分はアタマが痛い。文のどんな要素が主語になり、何が目的語になるのかということは、実はよく分かっていない。

言語学では「格」という概念を使って文法関係を説明する。
一般的には、主語には「主格」、目的語には「対格」という格が与えられる。
主格とは、日本語では「たくろふは/たくろふが」、英語ではI, he, she
対格とは、日本語では「たくろふを」、英語ではとme, him, herに相当する。

だが、世界中の言語で主格の名詞が必ず主語になるのかというと、そう簡単にはいかない。
アイスランド語で、

Eg tel konunginum hafa verith gefnar ambattir
(I believe king(DAT) have been given slave(NOM))

という文は、動詞gefnar (=give)のうしろに主格が来る。ムチャクチャだ。主格(「…は」)が文の一番うしろに来ることは、まあ普通は、ない。アイスランド語ではなんでこんな文の最後の位置に主格が出るのか、困った言語だ。

実は日本語も人のことは言えない。
普通、主格名詞は文につきひとつしかない。しかし、日本語で

「象は鼻が長い」

と言ったときに、主語は「象」だろうか、「鼻」だろうか。
また、

「先進国が男性が平均寿命が長い」

という文は、出ている名詞がとりあえず全部、主格だ。どの主格名詞が主語と決められるのだろう。

世間一般にはあまり知られていないが、日本語には世界の言語で例外的としか思えない現象がいっぱいある。生まれたての赤ちゃんは世界中のどんな言語でも高々2, 3年でもれなく母語として習得する。ということは、人間の脳には世界中の言語すべてに対応可能な文法能力があるに違いない。どんなソフトウェアにも対応可能なOSみたいなものだ。その仕組みを解明しようとして世界中の言語を調べてみると、「日本語に例外がありますね」という場合が非常に多い。

国語の先生で、「この文は主語にくる言葉が間違っていますね」と作文を採点する先生がいたら、日本語ではどういう要素が主語になり得るのかをぜひ教えて欲しい。日本語をちゃんと勉強しておけば良かった(泣)。

天啓、まだかー。

今日はオフの日。
授業もTAもなし。

午前中にField Houseに行き、軽くバスケ。
体が重い。2日間、半徹夜だったからか。

昨日、指導教官とディスカッションしてきてボコボコにされた案を考え直す。
うーん、Determinerの中にはGeneralized Quantifierの予測に反して、conservativityに抵触する読みを含め、多義的なものもある、と。この解釈自体は絶対だから動かせない。問題は様々な読みを、ひとつのlexical entryから派生させて出すか、最初からlexiconで別物と言っちゃうか。

そりゃあひとつだろう。(?ー?)
あとはFocal mappingを使ってガンガンQRさせればどんな読みだろうが出せる。
…うまくいったと思ったんだけどなぁ。

確かに忠告されたように、lexiconではエントリーがひとつです、といっちゃうと、膨大な先行研究すべてを敵に回すことになる。総攻撃くらいそう。
これは怖い。マジでビビる。
それでも正しいと思えば押し切っちゃうけど、さらに「なんで他のDeterminerではそういう解釈は出ないの?」と突っ込まれて撃沈。イタタタタ…。
えーと、他のcategoryに跨るdeterminerの場合はタイプシフト起こすから純粋にfocusが関与し得るけど、他のdeterminerはタイプが絶対で最初からfocusは関係なしに解釈が出来る…ってのはダメ?
いいや、なんでもないです…。

週末、書き直し決定(涙)。

現実逃避のネタも底を尽きたし…。

敲いて壊そう月下の門

月が好きだ。

いつ見てもまん丸な太陽と違い、月は29日周期でその形を変える。変化が誰の目にも分かりやすいため、世界の文化圏では最初、太陰暦を採用するところが多かった。長期休暇などで曜日感覚がない時期でも、月を見ると日付がだいたい分かる。

満月に敏感だ。なんというか、月光が身体の中の何かに直接刺さり、全身に何かが満ち渡るような気がする。自分の身体感覚で唯一説明できない感覚だ。ヨーロッパではこういうことを感じるバカがもっと多かったらしく、月は狂気の象徴とされた。「狂気」(lunatic)、「誘惑」(lure)という言葉は、ともに月を表すラテン語‘luna'に由来している。

月は引力で地球の海水を引き寄せるため、干潮、満潮を引き起こす。あれほどの膨大な量の海水が引っ張られるくらいだ。人間一人の中にある何かが引っ張られないほうが不思議だ。月が真上にくる時間帯になると、見るより先に真上に何かが引かれ、体中が総毛立つのを感じる。その感覚が襲った後に見上げると月が真上にある。

詩を詠むに、李白の「月下独酌」がぶっちぎりで好きだ。

花間、一壺の酒
独り酌んで相親しむ無し
杯を挙げて明月を邀え
影に対して三人と成る
月、既に飲むを解せず
影、徒にわが身に随う
暫く月と影を伴い
行楽、須らく春に及ぶべし
我歌えば月徘徊し
我舞えば影繚乱す
醒時は同に交歓し
酔後はおのおの分散す
永く無情の遊を結び
相期す、遥かなる雲漢に

季節に浮かれて酒壺をひっかけふらついて出たものの、どうも独りで飲むのはつまらん。おや、月が出た。月と影とで三人になったじゃないか。でも月は飲み方が分からんらしく、影は私に随ったきりだ。まぁまぁ一緒にやろうじゃないか、こんないい季節に飲まない手はないだろう。私が歌うと月もふらつき回り、私が踊ると陰も一緒になって舞っている。いい加減に酔っ払うまで一緒に騒ぎ、酔ってしまったら勝手にしよう。いつまでも一緒に飲みたいもんだ。今度は遥かな雲の上で一杯やろうか。

豪放極まる。何たる酒仙の誉れ。
世の行儀作法に迎合することなく己の酔狂を剛毅に晒すその意気や良し。
これほどまでに月と飲んでみたい。

Teaching Assistant

学部の授業のTAしに行った。

先セメと同じように学部生向けの授業。しかし330人って。詰め込んだなぁ。先セメのホールは学部生の授業専用のホールだから、普通の教室みたいな大講堂だったんだけど、今回は超立派な建物の地下にある大講堂。来年ウチが主催する国際学会もそこのホールでやるらしい。とってもピッカピカかつ快適なホール。ちゃんとカネを使っていると見える。

アメリカの学部生向けの授業は、その講義のポイントが分かりやすい。今日はコレとコレとコレを覚えなきゃいけないのね、というポイントがきっちりしている。これは学生がevaluate(授業評価)するからだろう。日本の大学の学部の授業では、研究は優秀なのに授業がヘタ、という先生が多い。生徒の側の立場に立って、白紙に近い状態の学生にどのように教えれば効果的か、ということにあまり気を使わないのだろう。アメリカの学生は講義の下手な先生に対しては「教える本人がその分野をよく分かってない」「授業の準備に十分な時間をかけていない」「話がばらばらで、全くまとまっていない」と手厳しい評価をする。中には、まぁ、「やる気のないお前が悪い」という生徒も何人かいるからevaluationを鵜呑みにするのは危険だが、教える側にとってはある程度のプレッシャーにはなるだろう。

僕はZeljkoのTAだが、彼は研究者として優秀というだけでなく、授業も上手い。なによりも、自分の専門分野が本当に面白く、奥深く、興奮モノである、という感じがビンビンに伝わってくるような、気合の入った授業をする。聞いている学生は、なにかスゴいことを学んでる気になるだろう。学生を気合で引っ張るタイプみたい。ただ、彼のメモはなんとかしてほしい。僕のメールボックスに彼からのメモが入ってたんだが、そこには線文字Bが…。

大学と学問と

先日、センター試験についての記事を読んで思ったことをちょろっと書いたら、思わぬ反響が多くてビビッた。

blogを書いてる皆さん、どれほどのコメントを受け取っていらっしゃるのだろう。
今まで、「おもしろく読ませていただいてます」のようなメールを何回か受け取ったことがある。中にはblog上でコメントをつけてくださる方もいらっしゃる。非常にうれしい。が、今回はコメントがゼロだったにも関わらず水面下でメールを結構送られてびっくりした。トピック別過去最高量。中にはまさしく受験真っ最中の高校生からのメールもあった。慌てたような様子のやつもあったし、中には殺気立ったメールもあった。こんなblog読むくらいなら勉強しろよ受験生。
まぁいいや。世の高校生が主張してることはだいたい間違ってるけど、それを高校生が主張するってこと自体は正しいのだろう。

えーと。
なんの為に勉強するのか、だったっけ。

簡単だ。
楽しむためである

勉強は、他に何の目的もない、楽しむためにするものだと思う。単純に、謎を見つけて、それに対する説明を思いつくという、鋭い発見の喜びを味わうためにやるものだ。はっきり言って娯楽だと思う。

世の中には、「学問というのは世の中を進歩させ、技術の向上をもたらし、豊かな日常生活に直結している気高い行為だ」という誤解をしている人が多いと思う。大学で研究に携わる者で、「世のため人のために役に立つ研究をしよう」などと思って研究をしている者など誰一人いない。みな、自分で「なんでだろう」と疑問に思ったことを、納得いくまで考えることを止めない5歳児がそのまま大人になった者ばかりだ。「大学院で勉強をしています」と人に堂々と言う大学院生はいない。誰もが、「単に自分は楽しいことを続けているだけ」という意識があるからだ。しかも、国立大学の場合は国民の皆様の血税を享受している。

学問は、基本的に役に立たないものだ。しかし、役に立たないことは価値がないことを意味しない。

学問の価値は、絶対的に、人間のみに許された特権を享受することにある。
人間は、この世に遍く存在する事物のなかで例外的に、己の力で自己を変えることができる。たとえば石ころは、置いておいたらいつまでたっても石ころのままだし、ニワトリは本能の命じるままに生きているにすぎず、いつまでたっても精神的成長など起こらない。ところが人間は、外部から影響を受けることなく、己の意思と力で自分の能力を上げることができる。実存主義のサルトルはこのことを「人とは、あるところのものではなく、ないところのものである」と表現した。禅問答みたいだが、噛み砕くといっていることは簡単だ。人は、「今現在の状態の自分」から成長して、「そうではない自分」になることができる(「あるところのものではない」)。また反対に、「今現在は自分に手の届かない高い位置にいる存在」に、「今現在の自分」を変えることができる(「ないところのものである」)。人間がこういう能力を持つのは、思考能力を持つからだ。パスカルの言葉「人間は考える葦である」というのも、基本的には同じことを言っていると思う。

勉強というのは、「それまでの自分」から脱却し、「今までにはあり得なかった自分」に変わる行為だ。今まで自分では分からなかったことが分かるようになり、見えなかったものが見えるようになる。その動力となるのが知識欲だ。人間には食欲、性欲、睡眠欲、排泄欲、自己実現欲などの欲求があるが、知識欲はそれらの欲求とは明白な違いがある。それは、「決して満たされることがない」という点だ。ひとつ分かると、さらにその先に自分が知らないことが見えてくる。世の中は、解かれていない謎だらけだ。その謎を発見し、自分でその謎を解く。これは、人間のみに与えられた栄光だろう。世界でただ一人、自分しか考えていない謎がある、というのは例えようもない興奮だ。

「オレは勉強なんて役に立たねぇことはしねぇぞ」と仰る方がいる。そういう人に問いたい。その人が日々行っている「役に立つこと」とは何だろうか。ビールを飲むことか。テレビで野球中継を見ることか。コンビニでエロ本を立ち読みすることか。「うるせぇ、そういうのは楽しいからいいんだよ」と仰るかもしれない。そこで最初に戻る。勉強も、本来楽しいものなのだ。学校における初等教育では、勉強の楽しみ方こそを教えるべきである。楽しみに一旦火がつけば、あとは放っておいても自分で勉強をするようになるのだ。高校生が「数学が一体なんの役に立つのか」という疑問をもつとしたら、受けてきた教育が失敗だったということだろう。「勉強の喜び」というもっとも大事なことを味わってこなかったということだ。私見では、難問に見えるものが、ちょっとした閃きでスパっと解ける快感は、数学という科目が最も味わい深かった気がする。

ニュートンは「プリンキピア」を執筆した2年間、一切のレクリエーションを取らず、睡眠中以外はぶっ通しで研究と執筆に明け暮れたという。食事さえ忘れる集中力だったそうだ。世の中のしくみについての概念を革新的に変えた研究の最中には、ニュートンは他のレクリエーションなどどうでもよく思えるほど、自らが発見する知見に驚き、興奮し、喜びを見出していたのではないだろうか。人間は苦痛なことを意志の力で継続できるようにはできていない。楽しいからこその勉強であり、学問だろう。ニュートン物理学は近代文明の基礎となり、科学技術を飛躍的に進歩させた。しかし、研究中のニュートンは、自分の研究がどれほど世の中の役に立つかなどは微塵も考えず、ただひたすら発見の興奮を楽しんでいたのではあるまいか。

去年、阪神タイガースが劇的なリーグ優勝を遂げた。日本中が沸き、久々のトラフィーバーを楽しんだ方も多いだろう。僕はあまり野球を見ないが、その僕にして去年の阪神を中心とした野球は面白かったと思う。阪神優勝の経済効果はものすごく、関西を中心に景気の回復の起爆剤となった面もあろう。
しかし、当の阪神の選手達は、何を考えて野球をしていたのだろうか。ただ単に「勝つ」。もっと具体的には「次の球を打つ」「次の一球はあのコースに決める」ということしか頭にないのではなかろうか。間違ってもバッターボックスやピッチャーマウンド上で「元気のない日本に活力を与えよう」とか「日本の景気を少しでも回復させよう」などとは微塵も考えていないに違いない。

大学で学ぶ者と、阪神の選手は、基本的に同じ立場に置かれている。つまり、「自分が成し遂げるべきこと」と、「成し遂げたことによって世の中にもたらせるもの」は、まったく別物なのだ。阪神フィーバーは、純粋に阪神の選手だけによってもたらされたものではない。阪神グッズを製造・販売する業者、阪神の快進撃を連日伝えるマスコミ、球場に足を運ぶファン、そういった「選手以外の人たち」によって、世の中に影響がもたらされているのだ。
大学でもたらされた研究結果が、具体的な技術革新をもたらし、我々の生活を豊かにしてくれることは確かにある。しかしそこには、研究結果を具体的な利用価値のある技術に転換する仕事をしている者が必ずいる。こういう、「純粋な学問」と「我々の日常生活」には、見えない関係を結んでいる無数の努力が存在している。
虚数は紀元前に発見されている。当時は「2乗してマイナスになる数」など、日常生活上でなんの価値もなかったにちがいない。しかし現代では、コンピューターが飛行機の離着陸の時の浮力計算をするときに、虚数値を代入しないと計算不可能な演算がある。

国立大学、州立大学で税金を投入していただいて研究する立場としては、自分が発見し興奮した喜びを、世間の皆様にも味わっていただくように研究結果を公開する義務がある。そうすることにより、大学外の世界にも思考の喜びを享受できる機会が増えることになるだろう。それが文明国のあるべき姿だと思う。「大学の研究が役に立たないのなら、そんなものに税金を払うのは反対だ」という人は、そういう税金がない代わりに、大学をはじめ学問研究機関が一切なく、新しい知見が一切生まれることのない国を想像してみるといい。役に立たないという理由で数学、物理、古典、歴史を教えず、ひたすら職に「役立つ」技術や知識だけを徹底して詰め込む。自分の子供を、そういう文化環境のもとで育てることにも賛成できるだろうか。

はっきり言って、日本の大学の授業はつまらない。役に立つ勉強など、探してもどこにもない。大学とは、教わる場所ではなく、自分で自ら学ぶ場所だ。「世のため人のため役に立つ学問を修めよう」と青雲の志をもって桜の季節を迎える好青年は、賭けてもいい、半年で潰れる。勉強をする意義のいちばんおいしいところを勘違いしている限り、大学など苦痛以外の何者でもない。それに気付かず、辞めていく者も多い。

大学に入る高校生が「役に立つ勉強をしたい」などと口走る時点で、自分の限界を自分で作っている。自分がなにか役に立てるものを見つけたら、はいそれでおしまい、というのではなく、尽きせぬ謎にがむしゃらに取り組み、飽きることなく考え続け、与えられた4年間の間、発見の喜びを可能な限り追求して己の限界をぶち抜き、入学時には「ないところのものであった」自分になって卒業するような気概が欲しい。

ホンモノ志向の末路

こういう記事を読むと、日本の景気もなかなかじゃん、と思ってしまう。

僕はもともとホンモノ志向だ。数は必要ない。万年筆、手帳、カバンなどの学生必需品は一撃必殺で最高のモノを買う。値段は安かろうと高かろうと不問。服はさすがに多少の色モノはあるものの、基本的にはドンと一発いいものを買う。安い3枚よりも良い1枚。だから僕はバーゲンというものに全く魅力を感じない。必要でもないのに「安い」という理由だけで買い物をする必要はないし、めったにないが本当に必要な時には定価でも買う。定価は品質保証代だと思っている。実際に、そういう買い方をしているとお金はあんまり減らない。バーゲンがいくら安いって言っても、買わなきゃタダだ。

ところが最近、日常最も使用する生命線とも言えるモノが、実はそのポリシーから外れていることに気が付いた。

コンピューターである。

あえてパソコンとは言わない。

最近、コンピューターのトラブルが多い。ひどいときには勝手に電源が落ちる。冬休みにはブチ切れてリカバリーする始末だ。いろいろと調べてみると、僕の使っているものは悪いものではないが、最高のモノではないようだ。
最近、耳元にささやき声が聞こえる。




「買っちゃえ。」




ああ…。僕はどうすればいいんだ…。

具体的に囁くNさん、買っちゃったらあなたのせいです

みなさん冬眠明け

セメスターが始まった。
いきなり休講だった。

午前中にsemanticsのゼミ。今回のセメスターでは不定詞の解釈を、おもに主語と時制を軸に考えていくらしい。時制ではかなりハードにintensional semanticsを使って意味計算するみたい。わくわく。やっとオレの時代が来た。時制はどうせ、いつかはちゃんとやんなきゃいけないんだけど、どうも時制に関する研究ってのはとっ散らかってて正面攻撃しにくい。だから不定詞なら不定詞で、そのなかの時制解釈をきっちりと押さえていけば、結構その後で時制一般に広げていけそうな気がする。登る道が細くても、ある程度登って下を見回してみたら結構視界がよくなってた、っていうことはよくあるし。

あいにく意味論の先生がカゼひいて休んでたので、午後のSemanticsの授業は休講。
オレの指導教官なんだけどね。ゆっくり休んでくださいな。って、オレ明日discussionのアポ取ってんだけど、大丈夫かな。

お昼ごろからぼちぼち同学年の連中が研究室に出勤。みんな久しぶり。欧米のこういうときの挨拶はマジで抱き合うので、わたくしめも女性陣に挨拶で抱きつかれてちょっといい気分。先セメの最後あたりは死にそうになって暗い顔してた女の子も、冬休みに国に帰ってたら見違えるように表情が明るくなってた。やっぱり女の子は笑顔が一番と実感。しかし一ヶ月のvacationで鬱屈した気分から回復するってのは心が若いなぁ。オレなんて…。

実家に帰ってた学部生のガキンチョが大挙して寮に戻ってきた。みんなセメスター始めで、教科書、ノート、文房具など勉強用品をCoopで買出しするので、Coopのレジは長蛇の列。数えてみたら124人並んでた(ええヒマですよそれが何か?)。バカたれめ。オレ様みたいに先セメが終わる頃には次のセメスターの用意まで終わらせておかんかい。始まってから買いに来るとは何たる怠慢。どうやって根性入れてくれようか。Coopは買出し連中のために、今週一杯は夜の9時までやってるそうな。勉強に飽きたら冷やかしに行ってくっかな。

宗教、哲学、科学

宗教と哲学と科学はどう違うのだろうか。

「違い」を問う時点で、その3つは根本的には同じだ、という前提があること気をつけられたい。根本的に異質なものに対しては「違う」という概念は当てはまらない。たとえば、「電車とバスと自家用車は違う」。この命題は、電車とバスと車が3つとも「交通手段である」という共通点があるから意義のある命題となる。これが「飛行機とレンコンとパンダは違う」という命題であったとしたら、意義を成さない。

従って、違いを問う以前に、宗教と哲学と科学はどのような共通点を持つのかを考慮する必要がある。私が考えるに、三者の共通点は、「この世界を理解する」という試みである、ということではないだろうか。この世はどのように始まったのか。人間とはどういう存在か。人はなぜ死ぬのか。時間とは何か。星はなぜ輝くのか。なぜ鳥は飛ぶのに人間は飛べないのか。人はどうすれば幸せになれるのか。意識・精神とは何か。物体はなぜ下に落ちるのか。この世に満ち溢れるありとあらゆる問いに答えを求めることが、宗教・哲学・科学の共通の試みではないだろうか。求めるものは同じだが、方法論に違いが表れる。

宗教の方法論は、「信じること」だと思う。宗教の方針は、究極として人間の幸福を追求することに向けられている。この世がどのように始まったのか、自分はどのように生きるべきか、なぜ星は落下してこないのか、そういう不安が解消されないままだと人は生きていくのに不安を感じる。そこにひとつのビジョンが与えられ、あらゆる現象に一通りの説明がなされると、人は安心する。注意すべきは、その説明が真実か否かは問題ではない、ということだ。安心さえできればよい。人が憩い、幸福を見出せたところで宗教の仕事は終わるのだ。「星が落ちてこないだろうか」と不安に思う者に、「天上界におわす主が支えてくださるから大丈夫」というビジョンが与えられたとする。それでその者が納得し、安心して眠れるようになれば、宗教は良い仕事をしたことになる。このような役割を担う宗教が集団化し、団体の維持に経済的な必要が生じたり、教義に矛盾が許されなくなると組織として一種の緊張が要求され、疑うことが許されない歪んだ構造になる危険性は世にあまねく認知されているところであろう。しかし宗教というだけで偏見をもってはいけない。本来の宗教は、乱世にあって人に安心を与え、精神的危機からくる自我崩壊を防ぐという重要な役割を担っていた。現在においても、ストレスを散逸させる目的で、おいしいものをたくさん食べる、買い物に走る、貴重な時間を省みず長電話やゲームをする、などの理性に逆らう感情的行動は、その人が自我を保ち生きる力を得るために独自に考案している一種の宗教的行為と言える。その行為自体が正しい行動か否かは問題ではない。それが精神的な平穏をもたらしてくれるという結果のみが重要なのである。現在、戦乱状態にある地域においても、自らを支える精神的な支柱となる信仰を持つ者と、持たない者では、自己を保つ力に差があるのではなかろうか。

哲学の方法論は「考えること」にある。宗教の場合は、ビジョンが他人から与えられた。しかし、それをゼロからスタートし、己の力ですべてに対する説明を考え出そうとする試みが哲学だ。宗教と哲学の大きな違いは、向けられる意識の方向性にある。宗教の場合は人の幸福が目的なので、他人に対して意識が外に向かう。しかし哲学の場合は、あくまでも自分の力ですべてを考え出し、自分で納得できる説明を考えつくまで思考し続けるために、意識は自分の中のみに向けられる。基本的に他人はどうでもよい。己が納得する知見が得られればそれで良い。哲学は、すべての疑問を徹底的に考えるため、概念・用語の定義から出発する。「人はどうすれば幸せになれるのか」という問いに答えるためには、まず「幸せとは何か」という前提を厳密に定義する必要がある。「あたりまえ」という言葉は哲学には禁句である。あたかも、建物を建てるためにレンガの一個一個を手で作っていくような堅実さが必要なのだ。私は大学の哲学の授業で、「哲学書を読むときには、その著者がどういう問いを立てているのかをまず把握しなさい」と教わった。大方の哲学書の冒頭箇所は、その本で使う概念や言葉の定義がびっしりと列挙される。定義が与えられないと、言葉が使えないからだ。だいたいの読者はその段階でチンプンカンプンになりギブアップするが、ゴールとして「結局何を説明しようとしているからこんな概念が必要になるのか」という全体地図があれば、定義の一つ一つが「使える道具」に変貌する。Philosophyというのはもともと「知を求める」という意味だ。現在でも、学問を極めた者に与えられる称号はph.D (Doctor of Philosophy)という。

科学の方法論は「疑うこと」にある。哲学から発達した科学の方針は、絶対的な真実を求めることにある。哲学の場合は、自分の力で結論に辿りつけさえすれば、それで目的は果たせていた。それが「真実」であるという保障はないし、「真実か否か」を確認する方法を哲学は持たない。あくまで「こうじゃないかな、こう思うんだけどな」という自分の中での結論を出すのが哲学なのだ。当然、哲学者それぞれによって結論は違うし、そもそも立てている問いが個人によって散逸している。私のこの文章も、私が一人で勝手に辿りついた哲学的考察である。このblogのカテゴリーが「philosophy」となっているのはそのためだ。
それに対し科学は、辿りついた結論が世の中を精確に説明できるかどうか、「合ってるか、間違っているか」を追求する。思考の方法が体系化され、手順を踏まえることにより先達の思考を踏襲できる。個人個人が乱雑に問いを立てるのではなく、相関関係にある問いを関連させ、統一的な説明を求める。天体に関する問いは天文学、物体の振る舞いに関する問いは物理学、物質の成り立ちについては化学、人間の身体の構造に関しては医学、というように分野がまとめられ、分野内で生じる問いを、単発ではなく大きな全体像から体系的に説明する。研究する者が同じ目的、同じ方法論を共有するため、場所を越え世代を超えて一本の大きな流れで研究が続けられる。科学の場合、説明が完璧に見えても、さらなる完璧さを求めてその説明を疑い続ける必要がある。宗教と違って、科学を志す者に満足は厳禁だ。絶対的な真実は、おそらく到達不可能なほど高いのだろうが、それでもその峰を不断の努力で目指し続ける。一見、真実に見える説明でも、「本当に真実だろうか」と疑い続け、反例を求め、反証されたらさらなる説明を求める。科学は、真実のある問いのみを対象に絞るため、真か偽かを決められない命題は扱わない。「人間はどうすれば幸せになれるか」という問いは、検証によって到達可能な絶対的真実があり得ないため、科学の範囲外にある。

世界のあり方を求める。この世はどうなっているのだろうと疑問を感じる。これは、人間に特有の欲求だと思う。知能の発達は人間だけが得られた栄光だが、これは不安を覚醒し自我崩壊を引き起こす諸刃の剣でもある。宗教、哲学、科学は、それを回避するために人間が考案した方法論ではなかろうか。宗教は他者から与えられた知見を信じる。哲学は己のみの力で結論まで考え抜く。科学は人間の総力をもって統一的な方法論で問いに正面攻撃をかける。基本的に、どの方法論を採ろうが個人の自由だ。自分の採用している方法論を絶対的なものだと勘違いし、他人に強制する姿勢は他者を尊重しない自己中心的な態度だと思う。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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