たくろふのつぶやき

春は揚げ物。

カップラ

買い置き非常食、カップラーメン。

これがまた、よく非常事態になるんだな。
夜食が必要だったり、雨が降って外に出れなかったり。

アメリカにも「カップヌードル」が売ってる。チキンフレーバー、ビーフフレーバー、ベジタブルと売ってる。どのバージョンにもなぜかグリーンピースが入ってる。

まずい。

というよりも味がない。日本で売ってるカップヌードルとは大違い。日本人はもともと濃い味が好みらしい。日本のオリジナルのやつはアメリカ人には濃すぎるんだろうが、これはちょっとヒドいのでは。全然味がしないから。

よい解決方法が見つかった。「ほんだし」かつおのダシのフレークみたいなやつ。これを入れると味が出ておいしくなる。ほんだしはアメリカのいけてない料理をおいしく食べる必殺技になることが判明。

僕がアメリカに渡る前に、兄がくれた餞別袋のなかに、なぜかこの「ほんだし」が一箱入ってた。なんじゃこりゃ、と思ったが、まさか実用価値が出るとは思わなかった。

捏造体質

女子十二楽坊、曲を無断使用 所属プロ「中国では普通」
(2月26日 朝日新聞)
女子十二楽坊を目の敵にする朝日新聞誤報の「裏」
(「ことのは研究室」さん)

最初に朝日の報道を読んだときに「何かうさんくさいな」、と思った。
こういう書き方するから朝日新聞って嫌い。

「新聞と学歴と子どもの成績」(「憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記」さん、2004年2月23日)の指摘によると、「朝日新聞を購読している家庭の子どもほど、学校の成績が良い」そうだが、ここで使ってるデータは20年前のものだしなぁ。もしかしたら「こんな文章の書き方をしちゃいけませんよ」っていう素材の為に読んでるのかな。

先入観と煽動の意図がまる見えの新聞は、ちょっと記事が信用できない。

あたりまえ

2足す2は?

答えは4。あたりまえですね。
では、なぜ4なんだろう。
子供に、「なんで2足す2は4なの?」と聞かれたらなんとしよう。

発明王、トーマス・アルバ・エジソンはこの問題に固執したため小学校を退学になった。小学校の算数の時間で、なぜ2足す2が4なのかをしつこく質問する。小学校の先生は「理解力なし、集団教育に対応する能力に欠ける」と判断し、母親に家庭での教育を薦めた。

レベルが違いすぎた、と言わざるを得ない。小学校の先生レベルでは、少年エジソンが疑問に思ったことに答える技量がなかったのだろう。それどころか、エジソンが何を疑問に思っているのかすら理解できなかった。

エジソンは2足す2の計算問題の答えが出せなかったのではない。正確には、「2足す2が絶対に4にしかならず、他の答えにはなり得ない理由」に疑問を感じたのだ。整数同士の加法演算の解がただひとつしか存在しない理由は、整数の定義、数論の基礎、ペアノの公理系などをみっちり勉強してはじめて証明できる。大学の数学科3年生くらいのレベルである。

この疑問を本当にエジソンが小学校低学年の段階で発したならば、それは明らかに少年エジソンがただ者ではなかったことを示している。既存の知識を「あたりまえ」として丸憶えせず、自分の頭で思考して納得するまで考える。幸いだったのは、エジソンの母親が本人に輪をかけてただ者ではなかったことだ。母親はエジソンが疑問に感じていることを正しく理解し、それが小学校の教師には理解できないことを見抜き、学校を退学し自宅で学習させることに何も異を唱えなかったという。自宅で知的好奇心を満たす勉強を重ねたエジソンの幼少時代は、彼が後に発揮する大いなる独創性と無関係ではあるまい。

「あたりまえ」という概念は、人間が世界をありのままに受け入れたときに発する言葉だ。しかし、科学的思考においては「あたりまえ」は禁物だ。すべてを疑うところから哲学や科学は始まる。言葉を憶えたての子供は、「なぜ空は青いの」「なぜ雲は浮いているの」など、多くの「なぜ」を発する。世の中のことを当然と見る常識がまだ身に付いていないからだ。成熟した大人がこういう問いを発しないのは、そういう日常にあふれる疑問点にいちいち興味をもっていては社会生活に支障がでるからだ。そのため、世の中の事象に関して「そうだから、そんなんだ」と理解することによって、余計な思考に迷い込む手間を省いている。

大人は、そういう生活態度を送ることによって、疑問に感じる能力を錆び付かせている。科学の研究において最も重要なのは、答えを求めることではなく、問いを発見することだ。未だに解かれていない謎を見つける為には、既存の現象をあたりまえと思わず、澄んだ目で事実を見、先入観のない思考で考えることが必要になる。

疑問など持たなければ、人生は楽だ。
しかし疑問を持つと、人生は楽しい。

マフラー

バーバリーのマフラーを愛用している。

いろいろとマフラーを使ってみたけど、最後はコレに戻る。グレーのバーバリーチェック。長さといい素材といい、非常に使いやすい。

これは、日本では女子高生御用達の品だ。日本の街中では女子高生と一緒にされるみたいでちょっと違和感を感じるが、アメリカではそうではない。なにせ、学生はみんなCoopで5ドルの大学ロゴ入りマフラーなんぞしてるのだ。ここの世界では、バーバリーのマフラーは

上流階級の証、上品さを醸し出す知的アイテム。

僕と同じ柄で色違いのマフラーをしている人を何人か見かけたが、みんな「大学教授でございます」という出で立ちの紳士淑女。

人間、見栄えがすべてじゃないけどね。スウェットにスニーカーで授業に来る学部生とは違う、ちょっと洗練された格好するくらいはしたほうがいいんじゃないの、大学院生。

コーヒー・ルンバ

コーヒーが好きだ。

勉強をするときには不可欠。徹夜で勉強をするときなどは5, 6杯は飲んでるんではなかろうか。コーヒーは好みが分かれ、味にうるさいひとは豆の品種から入れ方まで徹底的に凝ると聞く。そういう僕も実はコーヒーにはうるさい。かなりのこだわりがある。

インスタントしか飲まない。

どうやら私はコーヒーそのものを楽しんでいるわけではないらしい。論文を読んだり、ペーパーを書いたり、自分でネタを考えているときなどは、どうやら頭の中で思考とコーヒーの味を混ぜ合わせているらしい。猛烈に頭を回転させる必要があるときには、コーヒーの味覚が脳に届いてると脳が滑らかに動いているような気がする。思考の正体は知らないが、どうも知覚しうる感覚との相性というのがあるような気がする。

猫を膝に乗っけてその背中をなでる感触を楽しみながら物思いにふけるのが好きな人がいる。雨の降る音が聞こえると俄然仕事の能率があがる人もいる。触覚、聴覚、味覚などの感覚は外界を認知するための方法に過ぎないが、その感覚が脳内で知覚された後、他の意識系統にちょっかいを出して影響を及ぼすことがあるのではないか。特定の香りをかいだり、音楽を聞いたときに、その香りや音に関連深い情景を思い出すのは、誰もが経験していることだと思う。

私にとって、コーヒーはあくまでも思考と混ぜる触媒なので、味に個性がありすぎては都合が悪い。脳の中でコーヒーが自己主張してしまい、思考の領域が狭くなるからだ。カロリーメイトが院生に欠かせないストック用食品であるのは、簡単に食べられる便利さもさることながら、あの自己主張しない味が思考を妨げないという理由もあるような気がする。

それ自体の味を楽しんでいるわけではないので、あんまり高いコーヒーはいらない。インスタントの「はい、一応コーヒーですよ」という程度で十分だ。インスタントだと30秒で入れられるので、時間の制約がある場合には非常に都合が良いという事情もある。

そういうコーヒーの飲み方をしていると、外出先でコーヒーを飲んだときに論文の内容や考えているネタがフラッシュバックするのでちょっと困る。友達によると、コーヒーを飲んでいるときの私の会話は「ゆえに」「しかるに」「ではあるが」「というのも」などの論理表現が多くなるそうだ。

茶道でも始めるべきかな。

澄み渡ったいい天気。

今日の学内新聞のトップ記事。

「Mirror Lakeを渡ろうとした学生、湖に落ちる」

研究室のみんなが、「バカだよなー」と言ってさんざんサカナにしてた。

僕?

当然、「まったくだよねー」と適当に調子を合わせてたに決まっておろうが。


あぶねー、セーフ。

手話通訳者

僕がTAをしている学部生の授業に、聴覚障害の学生がひとりいる。

その学生が授業を聴講できるように、手話通訳の女性が毎時間きている。アメリカはこういうことに非常に敏感で、ハンディキャップという理由で不便を感じることのないように至る所に配慮が行き届いている。手話通訳者は大学が雇っている場合もあるし、州から派遣されてくる場合もある。とくに大学の授業となると、そのへんの「手話できます」のようなボランティアでは間に合わないことが多いので、専門の訓練を受けたプロの通訳者が派遣されてくる。

僕の授業に来ている手話通訳のおばちゃんは、いつも授業5分前にきっちり現れる。どこかの筋に提出するんだろう、毎時間、書類にZeljkoのサインをもらっている。非常にきびきびした人で、手話がわからない僕にも、見ててわかりやすいんだろうなー、という手話を操る。変な話だけど、手話通訳者の技量は、手話が分からなくても何となく分かる。大学の講義レベルの手話通訳でも少しのよどみも迷いもなく、はきはきと訳す。

明らかに有能な人なんだけど、ついている学生がどうもそれにそぐわないみたい。その聴覚障害の学生は、明らかにだらしない。着てるものはシャツをパンツに入れずにでれっとしてるし、いつも靴のかかとを踏んで歩いてる。授業にノートもペンも持ってこない。くちゃくちゃガムをかみながら教室に現れ、授業中にグビグビ音を立ててコーラを飲む。
最近は、授業にほとんど来なくなった。学生がサボっても、手話通訳のおばちゃんは仕事だから学生がくるのを待ってる。大講堂で学生の方を向いて、教壇の脇の椅子に座っているので、非常に目立つ。授業が始まって20分すると学生は欠席扱いになるので、20分を確認して後ろのドアからしずかに出て行くことが多くなった。

これって、どうなの。

サボる学生なんぞ掃いて捨てるほどいる。その聴覚障害の学生に関しては、手話通訳の女性がいるからサボってることが誰の目にもわかりやすいに過ぎない。他の学生との差がそういうところで出るのは仕方がないとして、仕事とはいえ自分の為に働きにくる人を放っておいて授業に出てこないというのはいかがなものか。

手話通訳は給料をもらってやっている仕事であって、ボランティアではない。言ってみれば、その学生がサボることで通訳のおばちゃんは一時間タダ稼ぎができるわけだ。しかし彼女にとって、20分待った挙げ句に退室してタダ稼ぎをするのと、学生が必死に勉強するのを助けてフルタイムで手話を通訳し続けるのと、どちらがいい一日なんだろう。

給料に影響がない以上、その学生がサボったところで、通訳のおばちゃんに迷惑をかけているわけではない。しかし、彼がそうやって授業をサボりつづけている以上、授業で身につけるべき知識が身に付かないというだけではない。障害のあるなしに関係なく、社会人となるに必要な、人としてなにか大切なものに気づかないのではないだろうか。

ほのぼの

ミッフィーのオフィシャルサイトを見つけた。

おもちゃ屋さんみたいな雰囲気で楽しめる。
あの顔についてるバッテンは鼻か口か、決着がつくようなつかないような。Q&Aのコーナーに載ってます。

救急車

同居している先輩が足を捻挫した。

この先輩は運がないというか、いつも「なんでオレが」みたいなトラブルにいつも巻き込まれる。この先輩のやっていることを見てると「ほほうトラブルはこういうふうに対処するのか」と勉強になる。

Field houseにバスケをしに行く。だいたいいつもシュート練習で遊んでると、まわりでにたようなことをやってる者共が声をかけてきて、3 on 3や、人数によってはフルコートのゲームをすることもある。

今日もそういう流れで3 on 3をしていた。相手はだいたい体力の余ってる学部生。スタミナ十分。しかもアメリカの大学生でバスケなんぞしようという輩の例に漏れず、無駄にデカい。僕が打つシュートなんて余裕でブロックされる。あれ結構ムカつくんだよね。

先輩がマークを振り切りジャンプシュート。そのときにブロックに跳んだディフェンス二人と空中で交錯。「バキュッ!」という妙ーな音をたてて足首から落下。何もなかった音ではない

巡回しているスタッフがすぐに駆けつけてきて、氷を持ってくる。本人が要請したので救急車が呼ばれた。救急車が届く間、僕が証人ってことで、何が起きたのかを説明する用紙に記入。アメリカの救急車、初めて。日本と違って赤、青、黄のフラッシュみたいなランプがハデに光ってる。

いろいろと勉強になりました。
1. 救急隊の第一声は「クレジットカードはあるか、保険に入っているか」
2. 身分証明書は生年月日記載で写真付きのものが2つ必要。学生証は写真付きでも生年月日が書いてないので、たいてい役に立たない。パスポート、免許証がほとんどだけど、日本で作った国際学生証がものすごく便利。
3. 保険証書のカードは絶対に肌身離してはいけない。病院で治療費は、保険カードを見せただけでタダだった。保険は学科で強制加入。経済援助で掛け金も負担してくれている。
4. 松葉杖は「クラッチ」という。「足をケガしてるから車に乗れない」は、Crutch prevents clutch (クラッチのせいでクラッチを踏めない)と言う。
5. アメリカの学部生小僧とバスケで張り合うべからず。

突っ込み型をあきらめ長距離砲を目指すことに。

処世術

昨日のblogで、仕事を勤務時間外に持ち込むことで疲弊する危険性について書いた。どうやら、僕が「サラリーマンは仕事が終わればとっととラクになれる気楽な身分」と思ってる、と思われたみたい。
「日本のサラリーマンの生活は甘くない。本当に大変。」

常識でしょう(泣)。

大学時代の同期に、日本で業績ナンバーワンの自動車会社に就職したのがいる。営業ではなく、デザインや企画の周辺を担当しているらしい。彼は、毎日、仕事終わるのが夜の11時。家に帰ると1時らしい。しかも毎日きっちり朝9時出勤。彼からのメールは、いつも一行。最小限度の分量で必要かつ十分な情報を送ってよこす。昼ごはんは、それだけのために時間を使ったことがないという。こういう同期から就職してからの仕事の話を聞くと、


「オレ学生でほんとによかった」と心の底から思う。
(社会不適応とか言うな)


まぁ質が違うといっても、学生の苦労を100とするならサラリーマンの苦労は100000くらいだろう。だって学生って辞めようと思えばいつでもやめられるし、責任なんてないし。背負ってるものが違いすぎる。話にならない。

企業に勤める人は、あたりまえだが、会社で働くのが普通だろう。中には忙しくて家に仕事を持ち帰るという生活を送る人がいるだろうが、基本は会社という場で働くのが普通だろう。そういう生活は、基本的には出社とともに仕事をはじめ、退社とともにその日の仕事は終わり、という「切り」がはっきりした生活になるのではないか。
大学をはじめとする研究職は、そうではない。一日24時間、すべてが仕事の時間なのだ。研究室に出勤している時間だけではなく、むしろ家に帰ってからが本気で勉強する時間という人も多い。

忙しすぎて体を壊す、という状況を避けるために、どちらの労働環境の方が良いか。これは一長一短で簡単に決められない。企業で働く会社員は、拘束される絶対時間が重圧となりかねない。仕事が終われば家に帰れるが、逆に言えば仕事が片付かないと家にも帰れないという状況に陥る。ノルマをこなせなければ他に迷惑をかける危険もあろう。それが原因で退社後も仕事が頭から離れないかもしれない。一方、大学などの研究者は、比較的自分で時間を自由に組み立てられる。極端な話、雨が降ってたら研究室に行かなくても自宅で勉強できる。しかし、勤め先だけでもなく自分の家でも仕事を続けるのが普通のため、疲弊したときの真の逃げ場がない。作業ではなく発想と思考が必要なため、一旦スランプになると、相当なきっかけがないと容易なことでは柔軟な思考が回復できない。

私が昨日のBlogで指摘したのは、サラリーマンと研究者はどちらがラクか、ということではない。単に「両者は異なる」ということだ。会社勤めの人は、勤務後退社によって物理的に開放される一瞬が一日に一回はある。その開放感をストレスの解消に使わない手はないと思う。ところが研究者は研究室を出るときは単に勉強の場を研究室から家に変えるだけに過ぎず、仕事が終わった後の開放感を感じられない。だからストレスの開放のためには他の方法が必要なのだ。

異なる以上、勤続疲労からくるスランプに対処する仕方も異なってくる。私は大学の中の世界しか知らないので、研究職を目指すものに関してのみ「こういう姿勢も必要じゃないかな」と感じるのが関の山だ。サラリーマンの世界については何も知らない。会社員がどうやってストレスをためないようにすればいいのか、どうやれば蓄積疲労を取れるのかは、私には分からないのだ。私は今の段階では、大学で研究を続ける方の道を選ぶと思う。そうである以上、そっち側に合った「過労死を避ける方法」を身につけなければならない。ただ、それだけの話だ。

仕事から感じるストレスや疲労の類は、研究職よりも、企業に勤めるサラリーマンのほうが重いと思う。研究者は基本的に自分のやりたい研究をして、自分の意思で解くべき問題を好きに見つけられる。基本的に一人で研究が出来るため、対人関係のストレスが少ない。一方、会社勤めの人は自分で仕事を選べることが少なく、嫌いな仕事でもしなければならず、上下関係、対人関係によるストレスが多いのではなかろうか。

プロとアマの違いがよく気になる。単に技術の習熟度合いとか、仕事にかける気迫や姿勢とか、そういったものはむしろ結果論だと思う。プロとアマを明確に分けているものは、「退路を断っている姿勢」だろう。後ろを崖っぷちで臨み、前進しなければ落下するのみという環境に自らをあえて置く姿勢が、気迫をもって仕事を極める厳しさを生むのではないか。
一旦、研究者を志し大学に就職すると、一日24時間をすべて勉強に賭ける覚悟をしなければならない。勉強のプロになるわけだから、「家に帰ったらはいおわり」「考えが詰まったら別ネタに逃げよう」というわけにはいかない。アイデアが枯渇しても、気力を振り絞って論文にまとめめ上げる執念が必要になる。逃げが許されず、常識とはすこし違う生活になり得るからこそ、その中で疲労をためない生き方を学んでおくのは大切だと思うのだ。くりかえすが、どちらが楽かということではない。両者は明らかに違うので、別の方法を考える必要がある、というだけのことに過ぎない。

適正や慣れもあるだろう。分刻みのスケジュールで仕事に会議、得意先周りといったことをひとつの漏れなくこなす生活のほうが性に合う人と、3時間のゼミで問題を考え抜いたあとでも結論が気にかかり、同じ問題を延々と考え続けるあまり徹夜してしまう、という生活のほうが性に合う人と、それぞれだろう。他にも、公務員、スポーツ選手、個人事業、自営業、家庭の主婦など、それぞれの生き方にはそれぞれの異なった生活環境が強いられる。大事なのは、自分の生活環境を冷静に把握し、自分のストレスと疲労度に常に気を配り、許された余暇の中でそれを効率的に解消する方法を見つけることだろう。

甘い生き方なんてないと思う。どの生き方も、それなりに険しいものだろう。
だからこそ、それぞれ選んだ道に合った生き方が必要だと思う。

まじめ病

最近、meniere (メニエール病)という疾患を学内新聞でよく見かける。

日本では聞いたことのなかった病気だが、髄膜炎と並んで典型的な「学生病」らしい。症状としてはめまい、一時的難聴、ひどいときには耳鳴りがする。また精神的に鬱になり、集中力が欠け、細かい作業などができなくなる。倦怠感や無気力感に苛まれて、やる気が起きない、というような病気らしい。

メニエール病の原因はよく分かっていないらしい。最も有力な説は、体内にもともとある菌が抵抗力の低下によって活性化し、症状をもたらす、というもののようだ。当然、患者のほとんどは過労気味で、睡眠不足、ひどい精神的ストレスを恒常的の被っているとのこと。

どうやらこれは、僕が勝手にカテゴリー化している「マジメ病」のひとつのようだ。

日本では、マジメ、勤勉、努力一直線が手放しの美徳とされている。いまいち真剣さを感じられないちゃらんぽらんな態度に眉をひそめ、「真面目にやれ」と叱り飛ばす。一般社会で働いていらっしゃる方は、他に迷惑をかけないために、確かに規律ある仕事ぶりは必要だろう。

しかし、大学の研究者のように、精神活動が日常生活に浸食するような生活をしていると、手を抜けることが非常に大切になる。日中は仕事で忙しくても、終業時間になればとりあえず解放、自分の時間になる、というサラリ?マンと違い、研究というのは一日24時間、すべてを注ぎ込まなければなかなか真実が見えてこない。ご飯を食べながら、研究室の往復をしながら、片時も考えることを止めない。真摯な研究者は、それこそ放っておけば10日でも20日でも同じ問題ばかりを考え続ける。体がおかしくならないほうが不思議だろう。

長い研究生活を健やかに乗り切る為には、楽観的であることも重要な才能だ。一部の天才を除いて、研究者と言えどひとりの人間なのだから、気分解放もバケーションも必要なのだ。私の周りを見てみると、優秀な研究者ほど余暇の使い方がうまい。本気で遊べる場を持っている。

思うに、人間はゴムと同じで、伸ばしっぱなしにしていると弾力を失ってしまうものではあるまいか。人生は長いんだから、一時の短期的な視野で自分を追い込み、精神的に自滅するのはあまりにもったいない。真剣で真面目でありすぎる人は、短期的な仕事では理想の働きを示すだろうが、長期にわたってコンスタントに柔軟性を維持できるかというと、ちょっと危険だと思う。自転車操業的な、その瞬間に固執しすぎる態度は長くは持たないだろう。「決して手を抜かない」人は、そういう姿勢が保てる程度の量のことしかできないのではあるまいか。

日本の修士課程のとき、帯状疱疹にかかった。授業のペースがものすごくきつく、体調を崩した。何時間勉強をしても頭に入らない。勉強時間に比べて身に付いているものが感じられない。勉強に焦りを感じた。
指導教授の勧めで1週間くらい完全に休みをとり、仙台郊外の作並温泉で保養した。かなり効いた。このときに、「休み方を知っているっていうのは大事なんだな」とあたりまえのことを学んだ。僕は子供の頃から体育会系で育ったので、休むことに罪悪感がある。

今では、授業、仕事、自分の勉強が重なりすぎる生活が続くと、「あ、そろそろ休んだほうがいいな」と分かるようになってきた。そういうときには、思い切って休む。開き直って寝てやる。授業にちょっとくらい遅れをとったところで、体調を崩すリスクには換えられない。正直な話、この「授業の予習復習をちょっとくらいサボッてもそれなりに授業についていくような手の抜き方」は、大学院生であれば必須の能力だと思う。すべての授業で完璧完全にすべての理解を目指していたら、一日30時間、自分が3人いても足りない。要は、自分の専門の勉強に100%の気力を残してあればいいのだ。

そう思ってるの、オレだけ?

どこのバカたれだ

先セメからの累積コピー料金を請求された。50ドルちょっと。

日本の大学院にいたときは無料だったんだけどなぁ。
しかし、今の僕の研究室はそれでも他と比べると安いらしい。日本人の他の院生に聞いてみると、「日本ではもっとコピー代は高かった。アメリカのコピーは安い」らしい。

勉強の必要経費ですからね。きちんと払わないと。
即、チェックを切って学科の秘書さんに持っていく。
「あら早ーい。たくろふみたいに早く払ってくれると助かるわ。なんせ2年も滞納してる人もいるくらいだから。」


性悪説、採用決定。

社説とは

女児略取ーよりによって警官とは
(2004年2月24日 朝日新聞社説)

朝日の社説によくある書き方だ。

誰にでも書ける。
この社説で論じていることは、畢竟、「警官がこんなびっくりする事件を起こしました。警察の体制は何をやっているんでしょう」というだけのことだ。感想文のレベルである。

社説とは、「事実を伝えるのが使命」の報道機関が、特定の社会事象に対し、社としての立場と見解を伝えるものだ。そこでは論理を一貫させ、筋道の通った議論を展開するべきだ。ともすれば論理的な文章に触れる機会のない人々に、「なるほどこう言われると一理ある」と論理的思考のお手本となるようなものでなければなるまい。また、普通の人が気づかない視点や切り口から事象を見ることの大切さも、社説が重視しなければならない点だろう。ひとつの事件に対し、誰もが思うことをつらつらと並べるだけではなく、多くの人が見落としがちな陥穽を指摘し、多面的な視野を持つことの重要性を啓発する役割も期待したい。

で、今回の女児略取事件についての社説である。
始めの6段落は、要するに事件のあらましの紹介だ。こんなに行数をかけることはない。この内容は1段落で足りる。非常に字数稼ぎの印象を受ける。

真ん中の、問題の警官についての疑問は、朝日に特徴的な意味の無い指摘だ。「私生活が乱れたり、勤務態度が悪くなったり、といった予兆はなかったのだろうか」はないだろう。勤務態度も良好、私生活も問題のない警官が起こした事件だからこそ衝撃的なのだ。そういう特殊性を無視している。朝日の社説には、「今回の事件は、大部分の不祥事と同様に、私生活の乱れや勤務態度に注意を払っていれば防止できたものですよ」という前提がある。はたしてそうだろうか。大部分の不祥事はそれで対処可能だろうが、今回の女児略取事件は、そういう従来の姿勢では決して萌芽を摘み取りにくい類いの不祥事なのではないか。そもそも今回の事件が特記に値する特殊性を無視し、議論すべき段階を一段下げるような不毛な内容だ。少年犯罪然り、公務員の不祥事然り、日常生活や外面に問題なく見える「まさかあの人が」という人の起こす類いの犯罪に対処する為には、従来の犯罪防止の認識とは違うレベルの意識に基づく相互監視のあり方が必要だ。「いままで通りの管理体制とは違った、別種の視点からの管理も必要なのではないか」ということこそ指摘すべき点だろう。

しかも、社説の最後に至っては、「警察よ、そんなんで大丈夫かね」のようなため息をつくだけで終わっている。そんなこといちいち社説に書くな、と言いたい。この事件をもとに新聞社が最も世間に問うべきことは何か。その最も重要なポイントが一行も書いてない。
今回の事件を通して、朝日が世に問うべき最も重要なことは、「地域と警察がどう付き合うかを再考する必要性」の提言ではあるまいか。この事件後も毎日毎日、子供たちが危険にさらされる犯罪は起こりうる可能性がある。そんな中、早急に地域住民が認識しなければならないことは、「自分たちの中で警察をどのように位置づけ、犯罪防止のために警察とどのように連携するか」を改めて考え直すことだろう。今回の事件の持つ意味は、「今まで盲信的にその位置づけを疑わなかった警察も、絶対ではない」という明白な事実を通し、それを踏まえて今後の地域住民の防犯のあり方を再考する契機となり得ることだ。それを書かずして何を書くか。朝日の書き方は、「地域住民は今まで通り、なにも意識を新たにする必要はありませんよ。警察がしっかりしてくれればいいだけの話です」という態度だ。のんきすぎはしないか。

一貫するほどの論理もない。提言するほどの主張もない。事件から真に見いだすべき意義も見落としている。全く意味の無い社説だ。レベルが低すぎる。

大学入試によく出る新聞なんでしょう。
論理的思考の訓練をする中高生に、この社説を要約させてみたい。

「おまわりさんがわるいことをしました。いいひとだったのにびっくりしました。こういうことはよくないです。けいさつはしっかりしてほしいとおもいます」

とでも書ければ満点だろう。

白と黒のモノトーン

寝相が悪い。

以前、一人暮らしをしていたときにはロフトがあって、そこに寝ていた。しかし、そのロフトの柵がすごく間隔が広いので、下手すれば落ちる。シャレにならないので、じーっとおとなしく寝ていた。

アメリカはベッドなので、落ちてもタカが知れている。そんなわけでアメリカに来てから行儀よく寝る必要がなくなり、えらく寝相が悪くなった。ひどいときには体の上下が反対になり、ベットの反対側のほうに頭がきてたりする。

そんなこともありBody pillow (抱きマクラ)を購入。
実はこれは前から欲しかった。抱きマクラにしがみついて寝ると、体の力が分散されて、姿勢を保つために使ってる筋力が楽になるため、熟睡できるんだそうだ。

すごくイイ。
横向いて寝るときに不自然な力がかからない。異様にリラックスできる。寝るときだけじゃなく、プレステで遊ぶときなどはヒザ上において肘置きに使ってる。
いいもの買っちゃった気分。

祝!

鐘1万アクセス達成。鐘
びっくり。

このくらいの数字は、ガンガンにアクセスされる大手のblogからすればたいしたことない数字なんだろうな。でも、他のページさんにあまりコメントもTBもしない、書き捨て主義のたくろふのページでこんなに多くの人がアクセスしてくれるのがびっくり。

僕はアクセス解析などの面倒なことを一切やってないので、僕のblogにたどり着く人がどんな興味を持っている客層なのかがよくわからない。このblogは僕の思考を形にするためのメモなので、自分の中にあるものを頭の外に出すのがもともとの意趣だ。

三次元の物体に光を当てると、スクリーンに二次元の映像として写像される。blogを書く作業は、この影絵に似ている。
人間の頭による思考は、どのようなアルゴリズムなんだろう。イメージや感覚も含め、人間の思考はかなりの多重次元を形成していると思う。ひとつのことを考えているときに、他の考えが頭をよぎる。ひとつの問題を解くために使う思考法に、無意識のうちに他の種類の思考法が交わる。こういった混沌とした多重次元を成す意識や思考が、blogを書く作業によって、一次元的な記号の羅列に写像される。この「概念の次元を絞る過程」がたまらなくおもしろい。あまつさえ、このblogを読んでいらっしゃる読者の方は、一次元的、線状的に羅列された記号列を読むことによって、本来、僕の頭の中にあった多元的思考を自分の頭に再現することができる。言語というのは、人間がもつ偉大なマジックだと思う。

多重次元と多重次元をつなぐ一次元的記号列。
言語に関心をもつ僕がその威力を試す実験、でしょうかね、このblogは。
ペンギン命

takutsubu

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