たくろふのつぶやき

食欲の秋の季節がやってまいりました!o(^▽^)o

「問題なし」に読売サマ一票

[靖国・伊勢参拝]「戦没者追悼は日本の国内問題だ」
(2004年1月6日 読売新聞社説)

さぁて、朝日はどう出るかな。

非優等生の爆発力

テレビで「Drunk Master (ドランクモンキー・酔拳 (1978))」という映画を見た。
ジャッキー・チェンの映画はガキの頃から死ぬほど見た。僕がはじめて語学に興味を持ったきっかけもこれだった。
特に「酔拳」はジャキー・チェンが成功のきっかけをつかんだ出世作。男の常識、紳士のたしなみと言える逸品だろう。英語で見ようが広東語で見ようが、セリフもストーリーも全部覚えてる。

子供の頃に見たときには気にならなかったが、改めて見て非常に印象的なシーンがあった。

この作品は、中国拳法界の伝説の達人、黄飛鴻(ジャッキー・チェン)を主人公にして展開する。拳法道場のドラ息子である彼に手を焼いた父親は、弟子を痛めつけ再起不能までシゴき抜く蘇化子という達人に彼を弟子入りさせる。修行嫌いの黄飛鴻はいったん逃げ出すものの、街で会った殺し屋に半殺しの屈辱にあい、執念で修行をおさめ、伝説の秘拳「酔八仙」を伝授される。

黄飛鴻は様々な素材に登場しており、映画では「酔拳」のほかにも「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」で中国拳法全国大会優勝者のリー・リン・チェイが演じている。ほぼすべての作品で黄飛鴻は人格高潔な真面目人間として描かれている。その黄飛鴻が、なぜジャッキー・チェンの映画でだけこれほどグータレた人間像として描かれているのかは私が幼い頃から少し疑問だった。

酔八仙は八つの酒仙の型から成るが、八仙目の何仙姑(かせんこ)は女仙であるため、その型は腰をくねらせ足をからませ、はっきりいってオカマっぽい。その型をバカバカしく感じた黄飛鴻は、何仙姑の型を習得するのをサボる。
作品の最後に、黄飛鴻は因縁の殺し屋と再び闘うことになる。幻の酔八仙を、一度自分が倒した若造が使うことに殺し屋は一旦は驚くが、実は、彼には酔八仙についての知識があった。黄飛鴻の繰り出す技はすべて見切られる。技を出し尽くしたとき、彼は闘いを見守る師匠の蘇化子に、何仙姑の習得をサボったことを白状する。
ここで蘇化子が黄飛鴻に喝を入れる。「お前の知っている型を組み合わせて、お前だけの何仙姑を作れ」

黄飛鴻は咄嗟に女仙に見立てた型を自分で編み出す。自分の知らない何仙姑の型にうろたえる殺し屋に向かって、彼は言い放つ。

「術は変化する。師の教えを弟子が発展させるんだ」

このシーンこそ、この作品が最高傑作と評されている点ではないだろうか。
先達の教えを忠実に踏襲することは、自らの道程において通過点であって、目的地ではない。伝授された技に自らの技術を盛り込み、師匠の技を超えるところがこの作品のポイントではなかろうか。黄飛鴻が真面目な拳徒ではなく、グータラな修行嫌いとして描かれていたのも、この最後のシーンを魅力あるものにするための伏線なのではあるまいか。この伏線は実に利いている。「師匠の技を超える」というコンセプトは次作の「スネーキーモンキー・蛇拳」にも踏襲されているが、伏線の利かせ方、人物描写の魅力など、「酔拳」の方が数倍上回ると感じる。

世の中のエリートと呼ばれる優等生は、教わったことをほぼパーフェクトに理解する信じられない能力をもつ努力家だ。教わったことを反復し理解することが求められる段階では、真面目な態度は賞賛に値する。しかし、そこから階段を上り、自ら新しい知見を上積みすることが求められる段階になると、1000の知識は1の発想に劣る。学問の世界では大学院に入ってからが奉公の始まりのようなものだが、大学院において既存の知識を理解するのは手段であって、目的ではない。最終目標はあくまでも自らが新しい知見を切り拓くことにある。大学院生は、素直な優等生である必要はない。むしろ、先行研究を胡散臭そうに斜めに読み、少しでも穴が見つかると嬉々として穿り出すような生意気な態度のほうが伸びる。既存の概念を破壊する爆発力を持つ。

「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」
2003年2月の東京大前期入試、数学の問題だ。まさに良問と言える。ほとんどの学生は最後のページをめくって出てきた1行だけのこの問題に仰天したという。明らかに手持ちの型で解ける問題ではない。このときにパニックを感じた優等生は相当の数に上るだろう。むしろ、入試中にイスにあぐらをかいて、鉛筆を齧りながらニヤリと笑って考えることを楽しむ現代の黄飛鴻のほうが、試験時間内に自分なりの何仙姑を編み出せたのではないか。
実際、この問題はそれほど難しくない。私でも解けた。基本的な発想は円に内接する多角形(たとえば24角形)を考え、円の面積の方が内接多角形よりも大きいという当たり前のことを示せばいいだけの話だ。ネタを明かせば中学生にでも分かる。しかし、常日頃から既存の技に頼らず、自ら考えて前に進む気概のある者のみが開けられる扉だろう。

優等生であることが賞賛に値するのは、他人が自分を評価する間だけだ。真の意味で自分の人生を歩くものには、他人の評価など副次的な産物に過ぎない。まさかこの歳になって「酔拳」から感じることがあるとは思わなかった。

うっしゃ、泳ぐぞ。

今日は久しぶりにField Houseがオープンする。
このジムはフルタイム資格を持つ学生だとタダで利用可。バスケ、スカッシュ(←なかなか発音が通じなかった)、フィットネス、プール、いろんな整備が整ってる。久しぶりに泳いでこよう。最近、ずっと運動不足だし。
ベンチプレスのMAXも測ってくるかな。どんなに落ちても100Kgは上がるはず。

結局、QRをかけるときにスコープが広くなる要素が上がるわけだが、その要素はFocusで決まる、と言っちゃっていいんだろうか。Roothではスコープで真理条件が変わる文なんかを扱ってるから意味的に考えていいんだろうけど、ぶっちゃけFocusってPragmaticsっぽい要因だからなぁ。QRにダイレクトに影響するって言っていいんだろうか。Pragmaticな要因がSyntaxに影響するって、アリ? Focusってなんなのか、考えれば考えるほどわからん。

先輩が置いていった「三国志VIII」で遊ぶ。もう何回も全滅喰らった。俺って戦争が下手なのか?
呂布強すぎ。何だお前は。
むきになってやるもんだから、一気呵成の短期決戦に走る傾向があるみたい。
熱血してやるもんだから勉強中断しすぎ。罠かな?

最近、雨が多い。雪にならんくらいだから日中は暖かい。
たまに雪になることはあっても昼には雨に変わって全部溶けちゃうから雪かきがいらなくてよい。
ただ雨だと外に出るのが億劫になっちゃって、運動不足になることなること。
そんなこんなで部屋で逆立ちなんかしてるオレ。
家主じいちゃんの散歩にでも付き合うかな、と思ったけど、昨日なんて雨の中1時間半も歩ってきたらしい。即取りやめ。

国語という教科

最近、ちょっとしたきっかけで国語という教科について考える機会があった。

自慢じゃないが、学生時代から国語は得意だった。必死になって勉強した覚えもなければ、点数に苦労した覚えもない。よく友達からどうやって勉強しているのかを聞かれた。

国語能力は大きく分けて、「文学」と「言語」という、方法論の異なる二つの分野から成る。言語の方は記述文法であり、日本語の仕組みと変遷についての基礎的な知識を身につけること程度のことなので、高が知れている。日本人であれば日本語能力は持っているわけで、それに体系的な説明方法を提示されるだけなので、知的な興奮を覚えることはあっても混乱することはあるまい。

問題は文学のほうだと思われる。文学というのは広義の芸術に属し、感性で触れるべきものであるため正解がない。ひとつの作品について、正しい読み方が規定されている作品などというものは存在しない。学校では特に入試問題の対策を考えなければならないから、文学作品を「問いに答えるため」に読むという矛盾が生じることになる。芸術の一分野たる文学に、正解を求める入試問題という形態は矛盾しているのだろうか。

私に言わせれば、高校の授業や大学入試で求められる文学的素養など、文学を自ら楽しもうとするための下地に過ぎない。野球に例えれば、星一徹の如くプロで通用する即戦力を養成するレベルなのではなく、球場に野球観戦に行ったときに楽しめるように基本的なルールと醍醐味を学ぶレベルに相当するものだ。文学作品は、作家が命を削って作り上げた魂の結晶である。なんの素養も持たない者が素手で読んで理解できるものではない。文学作品を読むには、基本的なルールと価値観と下地を身につける訓練が必要なのだ。中学校、高校で学ぶ文学は、しょせんその程度のものではないか。中等教育の段階で自国の文学を理解できるくらいのレベルに達することは文明国として必須だろう。

こういった文学的素養の下地は、ガイドなしでも豊富な読書経験によって自ら作ることが出来る。学校教育を受けてないものでも、日常的な読書生活によって文学の読み方を習得し、自ら楽しむ者も大勢いる。私は小学校の5,6年生のとき、担任の先生が宿題を出さないのをいいことに本を読みまくった。学校の図書館など棚の端から端まで読破した。あらゆる分野において、経験値は絶対的なアドバンテージになる。学校で週に何時間しか文学に触れてない者と開きが出て当然だ。

文学は、広義の芸術に属する。芸術の定義はさまざまあると思うが、私は「言葉に表現しにくい概念を表現するための手段」と定義している。音楽は音を、絵画は色彩を、彫刻は形状を手段とする表現手段である。それと同様に考えると、文学というのは「言葉で表現しにくい概念を、他ならぬ言葉そのものを使って表現する」という矛盾した芸術ということになる。文学作品には、必ず作者の表現したかった概念なり世界観なり人間像が含まれる。その作者の魂に触れるのはある程度の修練と経験が必要だ。鑑賞力というのは、経験によって培われるものである。世界に誉れ高い名作を読む機会に恵まれても、他との比較ができるほどの経験値がないと良いものを良いと感じることができない。

文学作品には、「ストーリーの論理性」と、「使われている言葉の芸術性」という二つの側面がある。その配分は作品によってまちまちだ。緻密にストーリーを練り上げることに主眼が置かれている作品と、ストーリーはさておいて言葉の洗練度に走った作品とがある。後者の極みは詩だろう。高等学校では特に他教科で科学的方法論に基づく論理思考を育成するため、文学に接する生徒は前者の「ストーリーの論理性」に目を向ける傾向が多い。「要するにこの作品は何を言っているのか」を掴もうとする傾向にある。文学を読み慣れると、作品の中で中心的な役割を担う「楔の言葉」が見抜けるようになる。交換不可能で、作品の命を左右する、練りに練られた珠玉の言葉。そういう言葉に対する感性が磨かれた読者とそうでない読者では、同じ作品を読んでも得るものが違う。当然、海外の文学を翻訳で読むとストーリーの論理性しか味わうことができず、使われている言葉の凄さがわからない。詩はストーリーの論理性など皆無に等しく、使われている言葉が命なので、詩を翻訳で読むのは、限りなく意味のないことではあるまいか。

大学入試において要求される国語教科の能力というのは、実は言語知識でも文学的素養でもない。論理的思考能力である。大学入試の国語の問題の大半は、古典を除いて、論説文か評論である。あるテーマについての論説を論理的に読み解き、筆者の主張を迷いなく読み取ることができるか否かを問う問題が多い。当然、素材は、一度読んだだけでは理解できない、高度に論理的思考能力を要求する悪文が採用されることが多い。入試問題に数多く掲載される新聞などは恥以外の何者でもない。畢竟、高校の受験対策では国語とて他教科同様に論理的思考能力の育成に全力を注がざるを得ない。純粋な文学は、鑑賞はできても真実を問うことができないため、大学入試の問題になりにくい。

国語力の低下はいつの時代も問題視される。学校の国語で学ぶ言語能力、文学鑑賞力、論理思考能力のうち、真の国語力の根幹を成すのは言語能力、文学鑑賞力で、大学入試に出るのは論理思考能力である。学校が大学入試の対策を中心としていたら、感性がやわらかい時期に真の国語力を育成する機会を失う。人間の脳のなかで、言語と論理を扱う場所は別々である。人間が文字を読むとき、その二つの場所が同時に活性化している。最近の学校現場では、その二つの領域を同時に活性化する訓練が行われていないのではないか。脳の言語野は、音に反応することによって爆発的に活性化する。言語野と論理野を同時に使う読書法、つまり音読が、最近の学校で行われなくなってはいないか。昔の文学の鑑賞法は暗記だった。明治の文化人は漢詩を白文で喉が枯れるまで素読し、名文を何も見ずに諳んじることができた。現在の中学高校の国語の先生は、どれくらいの文学・古典を諳んじることができるのだろう。

文学作品のなかには、石の言葉に混じって、光り輝く珠玉の言葉がある。それをそれと分かる程度にはなるべきだろう。

箱根の追想

読売新聞、1月4日付の編集手帳に、今年の箱根駅伝二区で八人を抜き、東洋大に二十一年ぶりの区間賞をもたらしたエース、三行幸一選手の話がある。「自分を信じ抜いた人だけが重圧をはねのけ、暴走と紙一重のところで練習以上の未知の自分に出会えるのだろう」という言葉になにか熱いものを感じる。

勝負する人間には野心が必要だと思う。野心とは「身分にふさわしくない欲望」のことだ。慎ましく、己に見合うだけの「身分にふさわしい」ものしか望まない篤実温厚の士は、人間性を尊敬はされても、真剣勝負の世界に生きる勝負士にはなれまい。自分の力でできる以上のものを無謀に望み、ギラついた野心で本気でそれをもぎ取ろうと狙うものだけが、真に成長できるのではないだろうか。目線の低い者には、しょせん低い位置にあるものしか見えない。

成長とは、過去の自分に勝つことに他ならない。過去の自分に勝つためには、満足は致命傷だろう。一流と二流を分けるのは、能力ではなく欲求の差だと思う。現状に満足することなく、飽くなき欲求を持ち続けることで、人間は前に進むのではなかろうか。

移動後の構成素性の維持、か。

Abusch 1994 (NLS2)を読む。
基底構造で作られた構成素が移動によって崩れはするが、LFで解釈される際に意味的に構成素性を維持する、というアイデア。Strage (inherent)と呼ぶらしい。ネタとしてはIndefinitesなんだけど、意味的な構成素性の維持というのは僕の考えていることと同じなので、使えるシステムかどうかお手並みを拝見。

このblogの反響が結構メールに届くようになった。みんなヒマなのか。
例外なく同世代かちょっと下の女性なのはどういうことだろう。罠かな?
女性のフリすれば、まぁどんなことを言っても不快感を持たれないだろうと思って、野郎のくせに女性名でメール送ってくるそこのお前!
気が利くじゃねえか。

今のところ「異議あり!」みたいな反論じゃなくてあたりさわりのない感想みたいなのが多いけどね。ちょっと骨太の反論が欲しい気もする。コメントを直接書き込まないのはどういうことだろう。
ああ、けっこう共通してる質問があった。
「こういうことをお考えになるのは、たくろふさんにとってどのような意味をもつことなんでしょうか」という質問。

ヒマつぶしです。

セメスターが始まったらこんなこと毎日考えてるヒマなんてないってば。更新が滞るようになったら「たくろふは授業で大変なんだな」と思いねぇ。
励ましのメール募集。

ほーら来た。

■靖国参拝――独りよがりに国益なし
(2004年1月4日 朝日新聞社説)

来たーーーー!!
出たな朝日!!
言うと思った。3日に何の意見も出てないからおかしいと思った。
もしかしたら昨日の産経の社説に物申す形か?

中国と韓国との関係を円滑にすることが第一で、絶対不可侵の前提になっている。彼国の声明が昨今の国際情勢を鑑みて妥当か否かを問う姿勢がまるでない。中国が「三回廻ってワンと鳴け」と言ってきたら「するべきである」と本気で言いかねない勢いだ。

この辺が日本の道徳観の欠落の典型的な例じゃないか?
なんだ、「参拝の収支勘定は全く合わない」ってのは。
戦没者慰霊や初詣は収支勘定でするものなのか。
道徳観というものは、理屈でも損得勘定でもなく、するべきものはするべきだし、してはならないことはしてはならないだろう。戦没者慰霊や初詣を、損だからしない、得だからする、というのが今の日本の道徳なのか。
若者の道徳観の欠落を嘆いてる場合じゃないぞ。

アジア諸国の機嫌をとるためなら日本の誇り、伝統、道徳などなどクズ同然の扱い、たいした犬だ。独立国家のとる姿勢じゃない。「日本だけでなく『アジアの平和や繁栄』を大事に、というのも戦没者の思いではないのか。そういう視点が首相にも欲しい」とあるが、大東亜戦争のときにも日本は「アジア繁栄のため」を高々と標榜していた。朝日は前回の戦争と同じ過ちを犯そうとしてないか。日本がどういう姿勢で本当のアジアの平和や繁栄に参加するべきか、真面目に考えてるのだろうか。

アジアのことを考えるなら、まずあんたらの社旗を変えろ。

で、今プレステ中(うっせーな文句あるか)。

夜、コンビニにミルクを買いに行こうとして、裏庭で鹿に遭遇。シカも親子連れ。
どうもこんばんわ。
LDTビームを照らしたら逃げて行ってくれた。超怖かった。
家主おじいちゃんに話したら、'oh, dear'だって。
シャレてる場合じゃないよじいちゃん(泣)

うっすらと雪。すぐ溶ける気配。霧が出て外は真っ白。水墨画でも描きたい気分。

休み前にアドバイザーの教官にボコボコにされた論文を考え直す。事実を見ると、どうしても自分が考え付いたやり方以外に説明できないんだが、その方法を採ると、従来の説明のしかたに大きく逆らうことになる。
これを一回発表したら、あとで「すいません、やっぱあれナシで」なんて取り消せないんだろうなぁ。
…Determinerのargumentに飛び込むQRって、そんなにダメかなぁ…。Herburgerもそう言ってるじゃん。

現実逃避にPhonologyなどやってみる。
Lexical Phonologyの予習。さすがにこのへんにくるとPhonologyもシステマチック。ふむふむ…



さっぱりわからん
逃げ場なし。

♪あしーたーがあるーさ あーすーがーあーる。

道徳って覚えるものなのか?

【主張】教育基本法改正 与党協議を早く再開せよ
(2004年1月3日 産経新聞社説)

今日の産経はどうしたんだ。面白いぞ。

日本には世界に誇る道徳観があると思う。アメリカに来てからしみじみ実感する。多少、世界の常識から外れていても、守るべきものはある。多数であることは正しいことを意味しない。昔の日本は、そういう日本独自の道徳観が、無形のものとして存在していたのではあるまいか。

成文化する必要に迫られているということは、無形の道徳観が崩れているということに他ならない。しかし、日本の道徳観の保存は学校がやるべきことだろうか?現在の若年世代の育成に関することは、すべて学校がその責を負うのか。

地域社会、姻戚を含む人間関係、家族、教育機関、そういったものが一体となって若年層の育成は可能となる。最近の潮流として、すべての責が教育機関に一本化してはいないか。道徳観なんぞ、学校で机に座って教科書広げて先生から習うものではない。毎日の生活の中から体感し、感じ取り、時には親から鉄拳喰らって体得するべきものだ。

最近、特に親の機能が死んでないだろうか。2003年は世を震撼させる少年犯罪が多発したが、親の世代の道徳観や教育方針を何とかしようという案は聞いたことがない。どこに原因があるのかをちゃんと理解しているのだろうか。

いくら教育基本法を改正しても現状は変わるまい。そもそもが、教育機関が負うべき役割ではないからだ。いくら中教審が汗をかいても無駄汗だろう。教育機関の役割は基礎的学力と科学的思考法の訓練、感性を磨く機会の提供ではないのか。科学思考の基本は「疑うこと」である。押し付けられる道徳観にしても「それが本当に正しいのか」を疑い、自ら判断する力をもつけなくては歴史が繰り返されるだろう。

またかい。

【主張】首相の靖国参拝 続けることで再び定着を
(2004年1月3日 産経新聞社説)

産経はこういうことを堂々と言うから好きだ。
ここまでの強行論は珍しい。

二つ気に入らない。

ひとつは中韓の、意図ミエミエのワンパターン反応だ。首相が靖国参拝するたびに「チャーンス!!」とばかりに不愉快の意を表明してくる。どんなに外交問題でこじれることがあっても、いかに自分たちに非がある事件があっても、靖国参拝問題というカードを持っている限り、中韓はいつでも外交的に日本より優位に立てる。
日本は偉そうなことを言える立場ではない。しかし、中韓はそのカードに固執しすぎて現在の世界情勢を見誤ってないだろうか。日本には先の戦争で国のために死んだものが大勢いる。それを国として弔う気持ちを政府が表明するのは当然だろう。中韓政府は日本が本気で軍国国家に回帰するなどとは微塵も思っちゃいないはずだ。ただ、ひとえに「外交手段」としてのみ不快感を表明している点が気に食わない。過去に受けた負い目を、いつまでも利用しようとする姿勢は近視眼的で、大局を見誤る危険がある。そのうち自らにその刃が返ってくるのではあるまいか。

もうひとつは民主党の反応だ。この背景は明らかにアメリカに対する警戒だろう。ブッシュの今のアメリカは明らかにおかしい。外交手段がヒステリックだ。「お前は俺の味方か敵か」と迫るガキみたいだ。そのアメリカに対する手段として、日本はアジアでの連携を密に取っておかなければいけないという危機感があるのだろう。ある意味では正しい。しかし、やりすぎだろう。参拝問題とは別問題だ。産経の主張が当を得ていると思う。明らかに中韓に不要な媚を売っている。

管直人、薬害エイズ問題の時のあの「漢(おとこ)」はどこに行った…。

文学の目指すもの

「文学」が分からない。

学部時代、単位埋めに文学の授業を取っていた。あまり興味ももてず、退屈交じりに聞いていた。
実は授業を取る際に、注意したことがひとつある。それは、
「レポートではなく、試験で成績をつける授業」
であること。

一般的な傾向とは逆だろう。日本の大学では、レポートだと「しめた!」とばかりにデキる奴のノートを借りまくり、要点らしきものをつなぎ合わせればなんとかそれらしくまとまるものだ。
逆に、試験は確固たる理解が試されるのでごまかしが効かないと思われ、敬遠されるらしい。

私に言わせればまったく逆だ。本質が分かっていなくても試験など通る。
試験は時間と紙面の都合があるため、その分野が真に問う本質が分かっていなくても、断片的な知識さえ暗記すれば点数が取れる。論述問題といっても高が知れている。私も、本質が分からないままがむしゃらに詰め込んで情報を丸暗記できる程度にはまだ頭がやわらか(現在形か?)
ところがレポートではそうはいかない。読む人が読めば、本質が見えていないことが露呈してしまう。時間もたっぷりかけられるため、できる奴ははるか遠くに行ってしまい、背中が見えない。

文学は、私にはその本質が見えない。目指すものがわからない。
はっきり言うと、文学の論文は感想文とどう違うのだろうか。
文学は何を目指し、文学を専攻する学究の徒は何を掴もうとしているのだろう。

少なくとも科学ではあるまい。「人文科学」などという謎の言葉があるが、きわめて一般的な意味での科学ではないと思う。科学であれば、どんな分野であれ、その目標は「真理の追究」に収束する。ところが、文学ではそもそも真理という概念が意味を成さない。仮にすべての条件を満たす「真の文学作品」という理想状態を仮定し、各々の作品をその理想との比較検討にかける、という作業が文学の方法論とする。そうすると、その「理想の、真の文学作品」というのは一体どこから出てくるのか。少なくとも、居眠りしながら聞いていた大学の文学の講義では、そういうものを目指しているようではなかった。そのくらいは理解できる

思うに、文学の目指すものは、「追求」ではなく「保存」なのではあるまいか。
文学は人間を描く。登場人物が一人も登場せず、自然界の描写だけに終始するものは文学とは言えない。最低でも、語り手の視点という人間的な要素が含まれる。人間が何を感じ、どのように行動するかは、当然ながら時代と地域の特殊性を背景として始めて意味を成す。

朝の満員電車の中で女子高生の携帯が鳴った。彼女は携帯を取り出し、大きな声で喋り始めた。『あ、おはようー。うん、今、電車の中ー。』 周りのサラリーマンたちは苦々しい顔で女子高生の方を見る。顔を見る。しっかりと見ようと皆、首を伸ばす。かわいい娘なら許す。

仮にこれを文学作品とする。さて、1000年後にこの文章を読んだ未来人は、この文学作品が描く状況を正確に把握できるだろうか。
「満員電車」とは何か。どうやら人がいっぱい乗った「電車」という乗り物らしい。そこには「女子高生」や「サラリーマン」という種類の人が乗るらしい。では、彼らは何のために毎朝「電車」に乗るのか。「女子高生」は「学校」に、「サラリーマン」は「会社」に行くらしい。彼らはそこで何をするのか…。
「携帯」とは何か。辞典には「手持ち携える」とあるが、どうやら音を出す物体を示しているらしい。しかもそれに向かって大声で喋る、ということは何かの機械なのか。周りの「サラリーマン」は、なぜそれを「苦々しく」見るのか。これは道徳的に責められる行為なのか…。

1000年後には、電車という交通媒体は跡形もなくなっているかもしれない。収入を得る方法は勤労ではなくなり、学習は在宅で可能となり、「通勤、通学」という形態がなくなっているかもしれない。コミュニケーションの道具ははるかな進歩を遂げ、携帯電話は滅んでいるかもしれない。
このように、社会環境が激変すれば、テキストに書いてある状況が読めなくなって当たり前だ。1000年後にこの文学作品を読む者は、1000年前たる現代に正しくタイムスリップできる背景知識が必要なのだ。

このような「物語を正しく読むに必要な社会背景知識」を保存することが、文学の仕事ではなかろうか。
その作品が書かれた地域と時代の背景を知らないと、主人公が何を感じ、何に苦悩したのかが理解できない。
満員電車で会社員と高校生が通うのは日本くらいのものだ。日本を知らない外国人は「満員電車」の状況を理解できないだろう。この時点で彼らはこの文学作品を読めない。現代の風習で重婚、浮気、幼児通姦が背徳的だからといって、「源氏物語」はけしからん、ということにはならない。当時の風習、感性が分からないものには源氏は読めない。同じものを見たときに、当時の人間と同じことを感じられるようになって、はじめて古典が読めるようになる。

逆に、文学作品を手がかりに、そこから当時の道徳観や感性が明らかになる場合もあろう。私の同期の卒論を読む限り、こちらが文学の初歩的なアプローチのように思える。
世の中の常識や社会構造、文化的背景は変化し得るものだが、そこにおかれた一個の人間が感じることというのは、どうやら古今東西、永続的で普遍的な性質があるものではなかろうか。しょせん人間である。正しい背景知識を持てば古典に登場する人物に共感を感じられるのは、人間の感性は今も昔もそう変化しないからであるように思える。愛するものを失えば慟哭し、新しい命が誕生すれば祝福する。成功するものがいたら妬み、全ての葛藤を乗り切り超越したところに誇りがある。そういった感情は、時代と世界を超えて人間に備わった性質ではあるまいか。

こう考えると、文学は「文楽」と表記するべきではなかろうか。音楽と同じく、「文を楽しむ」ための下地を整えることが、文学の第一義的な仕事ではあるまいか。そこには反証可能な言明も、証明可能な定理もない。「人間というものを理解する」のが人文科学の目的とすれば、そこにはおのずと歴史学との共通点も見えてくる。

私の見たところ、どうも文学を研究してる方々はあまり人間に興味がないようだ。
生身の人間よりも、作品に出てくる人間のほうに真の人間性を見出そうとする傾向があるような気がするのは、気のせいだろうか。

正月、けっこう店やってる。

家主おじいちゃんのクルマが直ったので、一緒にランチに近くのステーキレストランに行く(Dativeが重なったな)。
当然、ぶ厚いステーキなどをいただく。狂牛病なにするものぞ。まったく怯む気配なし。俺には効かないのか?
おじいちゃんはこってりしたパスタに、ジョッキみたいなのに入ったコーラを2杯。
このおいちゃん、ほんとに87歳か?あんた間違いなくアメリカ人だ。こーゆー食事って、日本でいう「ごはんにみそしる」なのか?

雪が降った。朝起きたら銀世界。
道理で昨日の午後から寒かった。ちょっと寒いとすぐこれだ。雪を見ながら、四次元の存在を実感したりする。
幸い、メチャクチャ降り積もることもなく、午後には溶けてきた。雪かきの必要もないみたい。

大学の本屋でDanielle SteelのSunset in St. Tropez を購入。彼女の作品は日本で読んだことがない。どの作品も引き込まれるように面白いらしい。「魔術はささやく」でがっかりした経験があるので、まぁ話半分に期待。この作品を選んだのは、一番薄かったから。

雪が雨に変わったみたいだ。

変化の捉え方

「微分」という概念が好きだ。

「線」という概念を定義できるだろうか?
数学的には、「線」は「点の集合」と定義される。
「直線」の定義は、「二点間の最短距離間にある点の集合」である。

そう。線とはもともと点の集まりなのだ。
離散的な点が無数に集まることによって、連続的な線が定義される。
点が線になるためには、点ひとつひとつの質ではなく、その結びつきが重要となる。
(4番バッターばかり8人そろえてもちっとも「打線」になってない某巨人を中傷してるわけではn(殴))

微分というのは、線のある一点だけを注目し、その点における変化率を導く操作だ。
つまり微分の操作では、もともと点の集合であった線が、再び点としての性質を取り戻すことになる。
微分でつまずく高校生諸君は、まず第一に「線とは何か」という基本的な定義をおろそかにしてはいないか。
そもそも微分という操作は何のために考え出されたものか。その心中を察することができれば微分の基本概念はもらったも同然だろう。

数学の世界が驚異なのは、関数さえ与えられれば、前後の情況なしに、一点のみで変化率が分かる点だ。
一般社会ではこうは行かない。
たとえば会社の営業成績、たとえば学生の模試成績。
ぐんぐん上っている上昇期かもしれないし、上下のピークにあたる極値点かもしれない。
しかし、ある時期を見て、その時点が上り調子にあるのか、下り調子にあるのかは、その点の前後を見なければ分からない。変化率なのだから当然だ。
しかし数学の世界では前後の状況など不要だ。関数と、任意の一点だけ与えられれば上昇中か下降中か極値か分かる。これは信じられない驚異だと思う。状況や文脈なしに変化率が分かるなど、「変化」の概念を打ち破って余りある。線という「変化」を、点という「固定値」のみで操ることこそ微分の醍醐味ではなかろうか。微分法を発見したとき、ニュートンは、この世を作り上げた神の意思を垣間見たのではあるまいか。

「ラプラスの悪魔」という概念がある。
もし人間が、一般変化率と、現状の様子すべてが手に入れれば、現在、過去、未来に至るまですべての状況が把握可能になる。ちょうど数学で、関数(一般変化率)と定義域(現状の様子)さえ手に入れれば、値域(すべての状況)が分かるのと同じだ。
実際には世の中の一般変化率を表す関数など作ることは不可能だし、現状の様子すべてをもれなく把握することも現実的に不可能なので、そういうことは起きない。しかし、もしその二つを手に入れることができる悪魔がいるとしたら、この世の中のことは時間、空間を問わずすべて予測されてしまうことになる。こういう概念は、時間を連続した概念と捉えるうちは理解できない。連続的な対象を、離散的な対象に引きおろす微分という概念があってはじめて成り立つ思考だろう。
こういう悪魔を想定したときに、人間は何かに憑りつかれているとしか思えない。
「未来を予測できるようになりたい」と願う人はいると思うが、「未来予測ができるためには何が必要なのか」を真剣に追求し切ってしまうところに数学の驚異がありはしないか。

日常生活で、自分の現状は上向きなのか、下向きなのか、はたまた最高点に達しているのか、どん底なのか、自問するときがある。
そんなときに、切実に「自分の人生を記す関数」が欲しい。
現時点さえ入力すれば、全人生の中での相対的な位置を示してくれる。
定義域は知りたくないが。いつ死ぬかわかると怖いから。

数学に、微分と、関数列の一様収束極限との計算順序の交換に関する、ある定理がある。
微分に関する定理であるのにも関わらず、その定理はずっと積分をつかって証明されていた。
高木貞治は、その定理を、微分だけを使って証明することに成功した。
論文の終わりに、高木先生はこう結んでいる。
「昔から言うでしょう、微分のことは微分でしろ、と」

最後に私が一番好きな小噺。

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ある科学者が、長年の苦心の研究の末、この世界の全てを説明可能な一般公式を発見した。
激しい雨が降りしきる夜、彼は震える指で、神そのものを表す式を書き記した。
突如、雷鳴が轟き、あたりに響き渡る厳かな声が聞こえた。
「よくぞ、お前は私を見つけた。次はお前が隠れる番だ。よし、1000億まで数えるからな…」

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高木先生、海外に発表されたときはどう訳されたんでしょうか。

俺も昼にステーキ食ったけどね

The Offal Truth: People Enjoy Eating Calf Brains
(「仔牛の脳をおいしくいただく人々」)

LOS ANGELES (Reuters) - You can boil it in salted water, drain and chop it into neat little chunks, and then scramble it with a dozen eggs and three tablespoons of butter -- or you could coat it in cream, cheese and spices and fry to a crispy golden brown.

Mmmmmm, yummy, brains! With eggs or fried as fritters, they are just like grandma used to make but after the last few days, you may not want to eat them ever again.

The discovery of mad cow disease in a dairy cow in Washington state has led to renewed warnings that people should eschew cow's brains, as that is the organ most affected by the disease and among the most likely parts to spread the ailment to humans.

Yet for some, according to one historian of American food, the brain of the calf is something still to be enjoyed.

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どうやら死んでもいいらしい。

アメリカから牛肉を輸入している日本では、「一切の輸入を見合わせる」だの、「在庫を全部廃棄する」だのと徹底した対策をとってるようだけど、原因になったアメリカの現状はこんなもんよ。

結局、アメリカの消費は「自己責任で(at your own risk)」というのが当たり前だから、買うのは消費者がリスクを承知の上で、という発想なんだろうな。
今日、スーパーに行ってきたけど、牛肉はふつうに売ってた。
日本の場合は、みんな行政と業者の責任のせいにするからな。行政も必死だ。
日本のほうが住みやすいね。命の危険が少ない。

それにしても牛丼を出さない吉野屋というのは「ガスの切れたライター」「雪で止まった新幹線」じゃないのか?
カレーなんか出して、すき屋に勝てんのか?

Edward Hopper "Nighthawks"

f0e9933d.JPG
エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」です。

こういう、写実系が好きです。形状が明確で、直線を基本とした構造が好きです。大きく捕らえると大きな平行線が遠近法で描かれてるように見えますが、その遠近感に不自然さがありません。相当に計算して描いたんでしょう。

音楽も、絵画も、思想も、クリアなものが好きです。基本構造が容易に把握でき、枝葉をそれと理解した上で安心して鑑賞できるものが好みです。
ガラスの透明感もクリア感があっていいですね。一般的に、ホッパーは余計な描写をしないでシンプルに仕上げるので好きです。
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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