今日はお便り紹介。(ご本人の了解をとってあります)
「たくろふさん、いつも楽しく読ませていただいています。以前、blogで『不完全生定理』というものについての記事があったと思うんですが、あれはどういう定理なんですか?数学自身で証明できないことっていうのはどういうことで、それがなぜ問題なんですか?学校で先生に聞いても、『わからない』って言われました」
私は基本的に、勉強というのはそれを始める準備段階をも含むと思っているので、こういう質問にはニコニコ笑うだけで答えないのが原則だが、今回はちょっと答えねばなるまい。なんせ質問メールを送ってくれたのは14歳中学2年生の女の子なわけで。質問された先生も気の毒に。中学校の数学の先生に不完全性定理はキツかろう。こんなblogを「楽しく読む」中学生ってどうよそれ、という気がしないでもないが、ここはたくろふがビシっと回答を。かのアインシュタインもプリンストン高等研究所時代に、近所の女の子に数学の宿題を訊かれ、丁寧に答えてあげていたそうじゃないですか!その経験がその女の子のその後の人生にいかに影響を及ぼしただろうかと考えると、こういう質問には不肖たくろふ、世の中に貢献するつもりで答えなければなりますまい!
不完全性定理とは、「自己に関する言及は矛盾を引き出す可能性がある」ということを示したものだ。数学的な形式化では混乱するから例を変えて問題を出そう。次の問いに答えられるだろうか。
私(たくろふ)はそのことが真であると分かる。あなた(このblogを読んでいるあなた)の周りにいる人もそのことが真であると分かる。実際のところ、あなた以外のすべての人は、それが真であると知ることができる。しかし、唯一あなただけは、それが真であることを知ることができない。それはどういう事柄だろうか。
おわかりだろうか。世界でただ一人あなただけが、真であることを見抜けない命題って、どういう命題だろう。
答えは、
「○○○はこの文が真であることを知ることができない」
(「○○○」にはあなたの名前を入れてください)
この答えの文をPと名付ける。
仮に、「Pが真であるとあなたが知ることができる」と仮定しよう。
すると当然、Pは真である(それをあなたが知ることができるんだから)。すると何を言っていることになるか。「あなたはこの文が真であることを知ることができない(=P)」が真だとあなたが知る、ということになる。これは矛盾である。よって、仮定が誤り。Pが真であることを、あなたは知ることはできない。しかし、この一連の論証によって、我々(「あなた」以外の人)はPが真だと知ったことになる。
よって、Pは「あなた」以外のすべての人にとっては真であると分かるが、「あなた」だけはそれが真であることを知ることができない。
ここには背理法が使われている。例のハイリハイリフレ背理法♪である。ある仮定をたて、それに従って一連の論理を構成すると、帰結が矛盾する。その矛盾をもって仮定が偽であることを示す論証形式だ。
この問題が、不完全性定理の基本的な構造だ。不完全性定理の場合は、この問題を「数学はこの文を真であることを証明できない」ということを数学の言語を用いて論証しているに過ぎない。これは直感で届きながら証明が不可能な命題というべきもので、数学者自身はその命題が真だと分かっているにもかかわらず、数学ではそれを証明することができない。それまで、数学的な命題は真か偽がのいずれかであるとされてきた。ところが不完全性定理によって、真とも偽とも決められない命題が存在することが証明されてしまったのだ。つまり数学は万能ではなく、数学によって扱えない数学的命題が存在する、ということである。これによって、数学者は命題の真偽を問う以前に、「そもそも真偽を決めることができる命題なのか」を検討する必要が生じることになった。これは数学上の大問題で、発表当時は「人間の知能の限界を線引きした」とまで言われたそうだ。
このような直感に合わない混乱のもとは、答えのPの命題が、「この問題」という自己言及を含んでいることだ。自己言及を含む命題は、他ならぬ当の自己による論理演算の仮定で矛盾を引き起こすことがある。ほとんどの論理的命題は、論理構造の外側に向かっている。他のシステムや命題は説明できるが、自分自身を説明しにくい。自己矛盾は、「張り紙するな」という張り紙や、「このカードに書いてあることはウソです」というカードが言っているのはホントかウソか、などの問題でよく取り上げられる。
私が大学生のとき、論理学の試験で「自己矛盾を含む文をひとつあげなさい」という問題が出た。同じ授業をとっていた女の子の答えは、
「美人は得をする」
たしかにかわいい子だったのは認める。でも、授業は聞いてなかったらしい。
「たくろふさん、いつも楽しく読ませていただいています。以前、blogで『不完全生定理』というものについての記事があったと思うんですが、あれはどういう定理なんですか?数学自身で証明できないことっていうのはどういうことで、それがなぜ問題なんですか?学校で先生に聞いても、『わからない』って言われました」
私は基本的に、勉強というのはそれを始める準備段階をも含むと思っているので、こういう質問にはニコニコ笑うだけで答えないのが原則だが、今回はちょっと答えねばなるまい。なんせ質問メールを送ってくれたのは14歳中学2年生の女の子なわけで。質問された先生も気の毒に。中学校の数学の先生に不完全性定理はキツかろう。こんなblogを「楽しく読む」中学生ってどうよそれ、という気がしないでもないが、ここはたくろふがビシっと回答を。かのアインシュタインもプリンストン高等研究所時代に、近所の女の子に数学の宿題を訊かれ、丁寧に答えてあげていたそうじゃないですか!その経験がその女の子のその後の人生にいかに影響を及ぼしただろうかと考えると、こういう質問には不肖たくろふ、世の中に貢献するつもりで答えなければなりますまい!
不完全性定理とは、「自己に関する言及は矛盾を引き出す可能性がある」ということを示したものだ。数学的な形式化では混乱するから例を変えて問題を出そう。次の問いに答えられるだろうか。
私(たくろふ)はそのことが真であると分かる。あなた(このblogを読んでいるあなた)の周りにいる人もそのことが真であると分かる。実際のところ、あなた以外のすべての人は、それが真であると知ることができる。しかし、唯一あなただけは、それが真であることを知ることができない。それはどういう事柄だろうか。
おわかりだろうか。世界でただ一人あなただけが、真であることを見抜けない命題って、どういう命題だろう。
答えは、
「○○○はこの文が真であることを知ることができない」
(「○○○」にはあなたの名前を入れてください)
この答えの文をPと名付ける。
仮に、「Pが真であるとあなたが知ることができる」と仮定しよう。
すると当然、Pは真である(それをあなたが知ることができるんだから)。すると何を言っていることになるか。「あなたはこの文が真であることを知ることができない(=P)」が真だとあなたが知る、ということになる。これは矛盾である。よって、仮定が誤り。Pが真であることを、あなたは知ることはできない。しかし、この一連の論証によって、我々(「あなた」以外の人)はPが真だと知ったことになる。
よって、Pは「あなた」以外のすべての人にとっては真であると分かるが、「あなた」だけはそれが真であることを知ることができない。
ここには背理法が使われている。例のハイリハイリフレ背理法♪である。ある仮定をたて、それに従って一連の論理を構成すると、帰結が矛盾する。その矛盾をもって仮定が偽であることを示す論証形式だ。
この問題が、不完全性定理の基本的な構造だ。不完全性定理の場合は、この問題を「数学はこの文を真であることを証明できない」ということを数学の言語を用いて論証しているに過ぎない。これは直感で届きながら証明が不可能な命題というべきもので、数学者自身はその命題が真だと分かっているにもかかわらず、数学ではそれを証明することができない。それまで、数学的な命題は真か偽がのいずれかであるとされてきた。ところが不完全性定理によって、真とも偽とも決められない命題が存在することが証明されてしまったのだ。つまり数学は万能ではなく、数学によって扱えない数学的命題が存在する、ということである。これによって、数学者は命題の真偽を問う以前に、「そもそも真偽を決めることができる命題なのか」を検討する必要が生じることになった。これは数学上の大問題で、発表当時は「人間の知能の限界を線引きした」とまで言われたそうだ。
このような直感に合わない混乱のもとは、答えのPの命題が、「この問題」という自己言及を含んでいることだ。自己言及を含む命題は、他ならぬ当の自己による論理演算の仮定で矛盾を引き起こすことがある。ほとんどの論理的命題は、論理構造の外側に向かっている。他のシステムや命題は説明できるが、自分自身を説明しにくい。自己矛盾は、「張り紙するな」という張り紙や、「このカードに書いてあることはウソです」というカードが言っているのはホントかウソか、などの問題でよく取り上げられる。
私が大学生のとき、論理学の試験で「自己矛盾を含む文をひとつあげなさい」という問題が出た。同じ授業をとっていた女の子の答えは、
「美人は得をする」
たしかにかわいい子だったのは認める。でも、授業は聞いてなかったらしい。