えー、コロナウィルスのせいで自粛生活が続いておりますが。
大学の授業も家からの遠隔授業となりまして、出勤せずに家で仕事をする日々です。
日程も大幅にずれ込んでおりまして、前期授業の開始は5月のゴールデンウィークを過ぎてから、という有様です。
当然、授業開始が遅れるということは、授業終了も遅れるということで、どうやら今年の授業はお盆をまたぐ頃にようやく終わりそうな感じです。
もともと東京オリンピックが予定されていたため、普通通りの夏ではないだろうと予想していたところ、予想を大幅に上回る混乱っぷりです。
で、コロナやら仕事やら猛暑やらで、今年の夏はどこにも旅行には行けそうもない、ということになりまして。
しかしピンチはチャンス。これを機会に、兼ねてからの夢だった夏休みのイベントを打ちたいと思います。
朝顔を育てる。
好きなんですよね、朝顔。いかにも夏休みって感じがします。
しかし朝顔を栽培するとなると、旅行にも行けないので、いままで老後の楽しみに取っておいたんですが
コロナウィルスによる自粛の夏こそ朝顔の夏なのではないか。
というわけで諸々を揃えに100円均一に行ってきました。
まぁ、ほとんどのものは100均で揃います。便利な時代だ。
で、栽培法をいろいろとネットで調べてみたら、どうやら鉢には受け皿が必要で、肥料を使ったほうが安定して成長するそうなんです。
それらはホームセンターに行って買い足しました。
で、日当りのよいベランダに置いて、毎日観察日記をつけることにしました。
ちゃんと花が咲くといいなー、朝顔。
大学の授業も家からの遠隔授業となりまして、出勤せずに家で仕事をする日々です。
日程も大幅にずれ込んでおりまして、前期授業の開始は5月のゴールデンウィークを過ぎてから、という有様です。
当然、授業開始が遅れるということは、授業終了も遅れるということで、どうやら今年の授業はお盆をまたぐ頃にようやく終わりそうな感じです。
もともと東京オリンピックが予定されていたため、普通通りの夏ではないだろうと予想していたところ、予想を大幅に上回る混乱っぷりです。
で、コロナやら仕事やら猛暑やらで、今年の夏はどこにも旅行には行けそうもない、ということになりまして。
しかしピンチはチャンス。これを機会に、兼ねてからの夢だった夏休みのイベントを打ちたいと思います。
朝顔を育てる。
小学校2年生以来だから実に30〜40年振り。
めざせ満開。
好きなんですよね、朝顔。いかにも夏休みって感じがします。
しかし朝顔を栽培するとなると、旅行にも行けないので、いままで老後の楽しみに取っておいたんですが
コロナウィルスによる自粛の夏こそ朝顔の夏なのではないか。
10年以上ぶりにたくつぶ記事に新しいカテゴリーを作るくらいの気合の入れっぷりだ。
というわけで諸々を揃えに100円均一に行ってきました。
最近は植物のタネも100均で売ってる
つるを巻き付ける支柱。
もちろん水をあげるのはコレだ。
まぁ、ほとんどのものは100均で揃います。便利な時代だ。
で、栽培法をいろいろとネットで調べてみたら、どうやら鉢には受け皿が必要で、肥料を使ったほうが安定して成長するそうなんです。
それらはホームセンターに行って買い足しました。
で、日当りのよいベランダに置いて、毎日観察日記をつけることにしました。
ちゃんと花が咲くといいなー、朝顔。
小学2年生の頃にはなかった大人力をフル稼働してやる。
「五輪1年延期 コロナ収束が大前提だ」
(2020年3月26日 朝日新聞社説)
「五輪1年延期 開催実現へ手立てを尽くそう 」
(2020年3月26日 読売新聞社説)
「東京五輪1年延期 乗り越えるべき課題多い」
(2020年3月26日 毎日新聞社説)
「東京五輪延期 日本は成功に責任を負う まず感染の収束に力を尽くせ」
(2020年3月26日 産経新聞社説)
「前例なき五輪延期に知恵と力を集めよ」
(2020年3月25日 日本経済新聞社説)
春休みなのに新型コロナのせいで外出できずにヒマなので、新聞を読むくらいしかすることがないんですわ。
そんなわけで東京オリンピック延期を論じた新聞社説。例によって全国五紙を読み比べてみた。
まぁ、なんというか、僕自身の「新聞を読む癖」を我ながら強く自覚する社説だった。
僕は新聞社説を読むとき、どうしても「論旨」「構成」「語彙・表現」を重視して読んでしまう。一般社会人が書く文章として妥当なものかどうか、広く世間に発信する文章として適切か、「審査」するような感覚で読んでしまう。
大学の授業では、教養科目や基礎科目で、学生に新聞の読み方や文章の書き方を教えるために社説を使うことがある。だから僕自身が社説を読むときに、「講義ではどうやってこの文章を教材として使うか」という眼で読んでしまう。
しかしまぁ、そんな新聞の読み方をする人のほうが稀だろうし、そもそも新聞は大学の授業の教材として作られているわけでもない。一般読者の人が読みたい内容と、僕が想定する「良い内容」が合致していることのほうが、むしろ珍しいのだろう。
今回の社説は、どの社説も本当に指摘すべきことを見逃している。しかし、それは別に各新聞社の落ち度というよりも、「一般の読者は、そんなこと気にしていない」というほうが実情に近いだろう。新聞はまず、買ってくれる読者の皆様が知りたいことをまず書く。商売の鉄則として、それは如何ともしがたいことだろう。僕の眼から見て「足りないなぁ」と思う社説でも、世の中からしてみれば「そんな話を読みたいわけじゃない」ということも、大いに有り得るのだ。
まぁ、標準的な日本人が最も気になることは、ここのところだろう。勤め人にとっては、仕事の内容がオリンピックによって影響を受ける業種ということもあるだろう。見込まれていた利益と来年度予算を見直さなくてはならないこともあり得る。そういう「カネに関する影響」が最も気になるのが、おおかたの日本人の本音ではあるまいか。
この問題については、5紙すべてがそれぞれ触れている。最も読者が気になることを書くのは新聞としてあたりまえのことなので、これは自然なことだろう。主にこの経済問題を社説の主要テーマとして書いている新聞が多いのは十分にうなずける。それをきちんと問題提起していれば、世間的には合格点の社説と評価できる・・・のだろう。
ところが、大学の授業でこれらの社説を使って講義をするとなると、あまり良い評価はできない。大学で行う学問では、まず何よりも「疑問を発見し、問題点を指摘する」という段階が出発点となる。大学の勉強というのは「答えを出すためのもの」ではなく「疑問を見つけるためのもの」だ。だから出発点となる問題提起のピントがずれていたら、どんなに完璧な解答を出したとしても研究としての価値は無い。
今回のオリンピック延期は、いままで例がなかった事態だ。だから決まった手続きというものが存在しない。どの団体も、お互いに顔を見合わせながら、状況を読みつつ意思決定をしている迷いが見える。
つまり、今回のオリンピック延期に最も強い意志を示したのは「日本政府」なのだ。これは産経社説が指摘している通り、異例といってよい。例えば、さきにマラソンと競歩を札幌開催に移転したのはIOCの独断だった。オリンピックに関する決定事項に関しては、まずIOCが理事会に諮るのが通常の手続きだろう。
保守系の産経新聞は、この日本政府の動きを評価する論調で書いている。しかし「異例」といえば聞こえはいいが、要するにいま起きていることは「異常」なのだ。競技団体も日本政府も、今回の延期決定に関して何らかの発言権はあるだろう。しかしここまで日本政府が前に出て強く延期を要望し、しかもそれがすんなり通るというのは普通ではない。伝染病拡大という緊急事態であることを差し引いても、意思決定の筋道が不透明に過ぎる。
この「異常事態」がなぜ問題かというと、次の問題、「では開催を具体的にいつにするのか」の決定方法に関わってくるからだ。延期はとりあえず日本政府の強い意向で決まった。すると次に具体的な開催日程を決定するのは、誰がどうやって、何に基づいて行うのか。なにせ前例がないことだから、競技場や宿泊施設などのインフラ面では「現場」の日本政府と東京都が大きな役割を担わざるを得ない。日程の決定にはその辺の調整が不可欠なので、IOCが上から一方的に決められる種類のものではない。
競技の種類によっては、開催時期がいつになるかによって、有利・不利になる国が出てくる。どの時期に決定されても、必ずどこかの国が反対してくる。そのへんの綱引きは各競技団体の内部で収めるべき問題だが、それをIOCに丸投げしてくる競技団体もあるだろう。そうすると、オリンピックの運営に関わるIOCの役割が、これまでと大きく変わってくることになる。
つまり、今回の「延期決定」のプロセスを見ていると、オリンピックに諸々に関する意思決定の力関係が、従来と比べて大きく歪んでいるのだ。事実上、オリンピックの準備はこれまで6年かけてきたものを全部白紙に戻し、1年足らずで新しい計画を立て直さなければならない。その時間との戦いで「誰がどのような決定権を持つのか」がはっきりしない。
新聞社説ではその手の問題を「綿密な意思疎通が必要だ」などと漠然と書いているが、そんなことは、あたりまえだ。必要なのは「綿密に意思疎通ができない状況で、どうやって意思疎通を行えばいいのか」の具体的な方法論だ。
今回のオリンピック延期が日本政府の要望通りに通ったのは、国際陸連のセバスチャン・コー会長が世界陸上の日程変更をいち早く決定したことが大きい。オリンピックが1年延期すると、世界陸上、世界水泳の開催とかぶってしまう。だからオリンピック延期には世界陸連と世界水連の強い反発が予想された。ところが世界陸連がオリンピック延期を優先したことで、3者のうち「競技団体」の意思共有が短時間のうちに進んだ。
セバスチャン・コーは西側諸国のボイコットが相次いだ1980年モスクワオリンピックで、アメリカの反対を押し切って強行出場したイギリス代表の選手だ。800mで銀、1500mで金メダルをとっている。両種目で同国選手のスティーブ・オベットとの一騎打ちは名勝負だった。自身の「オリンピックにおける例外的措置は、軋轢なく解消されるのが望ましい」という体験が、今回の国際陸連の決定につながったという側面はあろう。
陸連、IOC、日本政府という団体は、それ自体が意思をもつ実態ではない。どんなに大きな団体だろうと、最終的に意思を決定するのは特定の「人」なのだ。いま新型コロナウィルスの対応で世界中から叩かれている世界保健機関(WHO)も、テドロス・アダノム事務局長というひとりの言動が、あたかもWHOの全人格であるかのように報じられている。
オリンピックが実際にいつ開催されるのか、決定される過程には、必ず誰か「特定の人間」の意思が強く働く。大事なのは、その「人間」を選ぶ方法を確立すること、その人間が暴走せず各条件を勘案して意思が決定できるようまわりの環境を整えること、だろう。「団体間の意思疎通」などというものはない。あるのは「そこに属する人間の意思疎通」だ。そのチャンネルをいかに確保するか、それが当面の具体的な問題だろう。
新聞に限らず、文章というものは読む側の立場によって如何ようにも読める。今回の各社説の出来が悪いとは言わない。それぞれ、読者が読みたい記事にはなっているだろう。「知りたい情報を提供する」ということと「まだ知られていない問題点を指摘する」というのは、両立しがたい部分がある。その辺の比重をどうするか、バランス感覚が試されるテーマだった。
(2020年3月26日 朝日新聞社説)
「五輪1年延期 開催実現へ手立てを尽くそう 」
(2020年3月26日 読売新聞社説)
「東京五輪1年延期 乗り越えるべき課題多い」
(2020年3月26日 毎日新聞社説)
「東京五輪延期 日本は成功に責任を負う まず感染の収束に力を尽くせ」
(2020年3月26日 産経新聞社説)
「前例なき五輪延期に知恵と力を集めよ」
(2020年3月25日 日本経済新聞社説)
春休みなのに新型コロナのせいで外出できずにヒマなので、新聞を読むくらいしかすることがないんですわ。
そんなわけで東京オリンピック延期を論じた新聞社説。例によって全国五紙を読み比べてみた。
まぁ、なんというか、僕自身の「新聞を読む癖」を我ながら強く自覚する社説だった。
僕は新聞社説を読むとき、どうしても「論旨」「構成」「語彙・表現」を重視して読んでしまう。一般社会人が書く文章として妥当なものかどうか、広く世間に発信する文章として適切か、「審査」するような感覚で読んでしまう。
大学の授業では、教養科目や基礎科目で、学生に新聞の読み方や文章の書き方を教えるために社説を使うことがある。だから僕自身が社説を読むときに、「講義ではどうやってこの文章を教材として使うか」という眼で読んでしまう。
しかしまぁ、そんな新聞の読み方をする人のほうが稀だろうし、そもそも新聞は大学の授業の教材として作られているわけでもない。一般読者の人が読みたい内容と、僕が想定する「良い内容」が合致していることのほうが、むしろ珍しいのだろう。
今回の社説は、どの社説も本当に指摘すべきことを見逃している。しかし、それは別に各新聞社の落ち度というよりも、「一般の読者は、そんなこと気にしていない」というほうが実情に近いだろう。新聞はまず、買ってくれる読者の皆様が知りたいことをまず書く。商売の鉄則として、それは如何ともしがたいことだろう。僕の眼から見て「足りないなぁ」と思う社説でも、世の中からしてみれば「そんな話を読みたいわけじゃない」ということも、大いに有り得るのだ。
今回の東京オリンピック延期を受けて、一般読者が一番気になるのは何か。「選手選考はやり直すのか」「開催はいつになるのか」など、観客的な目線での興味関心ももちろんあるだろうが、それよりも日本国民が一番気になるのは「経済的な影響はどうなるのか」だろう。オリンピックの延期は、日本国民の懐事情を直撃する。遠くの国で起きてるスポーツ大会というだけでなく、開催国という現場で暮らしている日本人には「いま、ここにある問題」なのだ。
延期には新たな支出の発生が避けられず、追加分をどこが負担するのかが大きな問題になる。五輪とパラリンピックの開催経費について、都と組織委は昨年末時点で1兆3500億円にのぼると公表している。IOCなどの試算では延期に伴う競技施設やホテルの借り換え、職員の人件費増などで3000億円の経費が増えるという。都や国の新たな負担となる場合は、丁寧に理解を求めねばならない。
(日経社説)
財政問題も重要だ。ただでさえ総経費が当初言われていたものより大きく膨らんでいるなか、延期によってどれだけの額が上乗せされるのか。それを誰が、どうやって負担するのか。都民・国民の財布を直撃する話だ。見通しをできるだけ早く示すことが求められる。
(朝日社説)
まぁ、標準的な日本人が最も気になることは、ここのところだろう。勤め人にとっては、仕事の内容がオリンピックによって影響を受ける業種ということもあるだろう。見込まれていた利益と来年度予算を見直さなくてはならないこともあり得る。そういう「カネに関する影響」が最も気になるのが、おおかたの日本人の本音ではあるまいか。
この問題については、5紙すべてがそれぞれ触れている。最も読者が気になることを書くのは新聞としてあたりまえのことなので、これは自然なことだろう。主にこの経済問題を社説の主要テーマとして書いている新聞が多いのは十分にうなずける。それをきちんと問題提起していれば、世間的には合格点の社説と評価できる・・・のだろう。
ところが、大学の授業でこれらの社説を使って講義をするとなると、あまり良い評価はできない。大学で行う学問では、まず何よりも「疑問を発見し、問題点を指摘する」という段階が出発点となる。大学の勉強というのは「答えを出すためのもの」ではなく「疑問を見つけるためのもの」だ。だから出発点となる問題提起のピントがずれていたら、どんなに完璧な解答を出したとしても研究としての価値は無い。
今回のオリンピック延期は、いままで例がなかった事態だ。だから決まった手続きというものが存在しない。どの団体も、お互いに顔を見合わせながら、状況を読みつつ意思決定をしている迷いが見える。
各紙社説によると、オリンピック延期の決定に関与しているのは、主に「国際オリンピック委員会(IOC)」「日本政府」「各競技団体(国際陸連、国際水連など)」の3者だ。問題は「この3者のうち、どこが最も強力な決定権を持っているのか」だが、その関係がはっきりしない。それが今回の社説で最も大きく採り上げなければならなかった問題だろう。
今回の決定過程では安倍晋三首相が前面に出た。中止になれば、経済などへのダメージは大きい。最悪の事態を避けるために、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長との直談判に動き、延期の流れを作った。(中略)予定通りの開催にこだわっていたIOCには、各国の選手やオリンピック委員会から批判の声が相次いだ。ビジネスの契約や損失ばかりに気を取られ、他のスポーツ大会との日程調整が進まなかった。
(毎日社説)
延期の決定に、驚かされたことが2つある。1つは、安倍晋三首相が国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長との電話会談で「大会の1年程度延期の検討」を提案し、バッハ会長がこれに「百パーセント同意する」と応じたことだ。これで事実上、大会の延期は既定の方針となり、その後のIOC臨時理事会で承認された。五輪マラソン・競歩コースの札幌変更に代表されるように、これまで五輪組織委員会や東京都は、いわばIOCの言いなりだった。異を唱えることは、はばかられる空気もあった。世界的な新型コロナウイルスの感染拡大を受けた五輪の大会日程についても、「決定権はIOCにある」との声ばかりが聞かれた。IOC会長が開催国首脳の提案を受け、理事会を経ずに重大な決定を示唆したこと自体、極めて異例である。
(中略)
2つ目の驚きは、IOCの決定に対して世界陸連や国際水泳連盟といった主要競技団体がいち早く賛同の意を示したことだ。来夏には米オレゴン州で世界陸上、福岡市で水泳の世界選手権といった大イベントが予定されており、これが五輪1年延期の最大の障壁となるとみられていた。だが両連盟は、柔軟に日程変更を検討することまで表明した。
(産経社説)
つまり、今回のオリンピック延期に最も強い意志を示したのは「日本政府」なのだ。これは産経社説が指摘している通り、異例といってよい。例えば、さきにマラソンと競歩を札幌開催に移転したのはIOCの独断だった。オリンピックに関する決定事項に関しては、まずIOCが理事会に諮るのが通常の手続きだろう。
保守系の産経新聞は、この日本政府の動きを評価する論調で書いている。しかし「異例」といえば聞こえはいいが、要するにいま起きていることは「異常」なのだ。競技団体も日本政府も、今回の延期決定に関して何らかの発言権はあるだろう。しかしここまで日本政府が前に出て強く延期を要望し、しかもそれがすんなり通るというのは普通ではない。伝染病拡大という緊急事態であることを差し引いても、意思決定の筋道が不透明に過ぎる。
この「異常事態」がなぜ問題かというと、次の問題、「では開催を具体的にいつにするのか」の決定方法に関わってくるからだ。延期はとりあえず日本政府の強い意向で決まった。すると次に具体的な開催日程を決定するのは、誰がどうやって、何に基づいて行うのか。なにせ前例がないことだから、競技場や宿泊施設などのインフラ面では「現場」の日本政府と東京都が大きな役割を担わざるを得ない。日程の決定にはその辺の調整が不可欠なので、IOCが上から一方的に決められる種類のものではない。
競技の種類によっては、開催時期がいつになるかによって、有利・不利になる国が出てくる。どの時期に決定されても、必ずどこかの国が反対してくる。そのへんの綱引きは各競技団体の内部で収めるべき問題だが、それをIOCに丸投げしてくる競技団体もあるだろう。そうすると、オリンピックの運営に関わるIOCの役割が、これまでと大きく変わってくることになる。
つまり、今回の「延期決定」のプロセスを見ていると、オリンピックに諸々に関する意思決定の力関係が、従来と比べて大きく歪んでいるのだ。事実上、オリンピックの準備はこれまで6年かけてきたものを全部白紙に戻し、1年足らずで新しい計画を立て直さなければならない。その時間との戦いで「誰がどのような決定権を持つのか」がはっきりしない。
新聞社説ではその手の問題を「綿密な意思疎通が必要だ」などと漠然と書いているが、そんなことは、あたりまえだ。必要なのは「綿密に意思疎通ができない状況で、どうやって意思疎通を行えばいいのか」の具体的な方法論だ。
今回のオリンピック延期が日本政府の要望通りに通ったのは、国際陸連のセバスチャン・コー会長が世界陸上の日程変更をいち早く決定したことが大きい。オリンピックが1年延期すると、世界陸上、世界水泳の開催とかぶってしまう。だからオリンピック延期には世界陸連と世界水連の強い反発が予想された。ところが世界陸連がオリンピック延期を優先したことで、3者のうち「競技団体」の意思共有が短時間のうちに進んだ。
セバスチャン・コーは西側諸国のボイコットが相次いだ1980年モスクワオリンピックで、アメリカの反対を押し切って強行出場したイギリス代表の選手だ。800mで銀、1500mで金メダルをとっている。両種目で同国選手のスティーブ・オベットとの一騎打ちは名勝負だった。自身の「オリンピックにおける例外的措置は、軋轢なく解消されるのが望ましい」という体験が、今回の国際陸連の決定につながったという側面はあろう。
陸連、IOC、日本政府という団体は、それ自体が意思をもつ実態ではない。どんなに大きな団体だろうと、最終的に意思を決定するのは特定の「人」なのだ。いま新型コロナウィルスの対応で世界中から叩かれている世界保健機関(WHO)も、テドロス・アダノム事務局長というひとりの言動が、あたかもWHOの全人格であるかのように報じられている。
オリンピックが実際にいつ開催されるのか、決定される過程には、必ず誰か「特定の人間」の意思が強く働く。大事なのは、その「人間」を選ぶ方法を確立すること、その人間が暴走せず各条件を勘案して意思が決定できるようまわりの環境を整えること、だろう。「団体間の意思疎通」などというものはない。あるのは「そこに属する人間の意思疎通」だ。そのチャンネルをいかに確保するか、それが当面の具体的な問題だろう。
新聞に限らず、文章というものは読む側の立場によって如何ようにも読める。今回の各社説の出来が悪いとは言わない。それぞれ、読者が読みたい記事にはなっているだろう。「知りたい情報を提供する」ということと「まだ知られていない問題点を指摘する」というのは、両立しがたい部分がある。その辺の比重をどうするか、バランス感覚が試されるテーマだった。
2年続けて夏休みの計画が立てづらい。
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「感染症と世界 「鎖国」は解にはならぬ」
(2020年3月19日 朝日新聞社説)
「G7首脳会議 感染拡大の阻止へ指導力示せ 」
(2020年3月18日 読売新聞社説)
「G7首脳がコロナ協議 個別対策と協調の両立を」
(2020年3月18日 毎日新聞社説)
「世界的感染拡大で問われる政治の指導力」
(2020年3月14日 日本経済新聞社説)
なんというか、世の中の正論が、事実よりも先走って幅を利かせるようになると、こういう支離滅裂なことを言って辻褄を合わせなければならなくなる、という典型的な例だろう。端的に言うと、「『グローバル化』なる高尚な理念は嘘っぱちだ」ということをまざまざと露呈している。
これらの社説を読むときの視点はただひとつ、「出入国封鎖は是か非か」だけだ。
事実としては、伝染病が発生したときは発生源を封鎖しなければならない。そんなことは疫学上の常識だ。人の行き来を凍結し、誰も立ち入れないようにする。ところが問題は、「封鎖」という行政的な手続きを実行するとき、どの単位でその施策を実行するのか、ということだ。
人の行動に対する強制権を行使できる必要かつ十分な行政単位は、「国」でしか有り得ないだろう。ある国の中で伝染病が発生したら、直ちに国の出入りを禁止し、世界中に伝播することを避ける。これが国際社会に対する責任であるはずだ。
しかし現在、「ボーダーレス社会」「グローバル化」という大義名分のもと、「国」という単位で他と区別する施策はすべて「悪」と見なされるようになっている。「自国民に限る」という施策は「国籍で差別するのか」となり、他国とは違う独自路線はすべて「国際社会から孤立するぞ」という脅迫がついてまわる。
今回の新型コロナウィルスは、そうした「『グローバル化』という正義」に対して、本当にそれは正しいのか、世界中の人々に問題点を突き付けているように見える。グローバル化というお題目を嘲笑うかのように「国境封鎖」を各国に迫っている。特にヨーロッパの国々でその傾向が顕著だ。フランスやイタリアは自国内で爆発的に感染者が増加したことを受けて、あわてて入国制限に走った。EUの理念などクズ同然に吹っ飛び、自国の安全しか考えていない。
それが悪いと言っているのではない。伝染病の時には、そもそもそうするべきなのだ。EUの理念がコロナウィルスの前にクズ同然に吹っ飛んだのは、EUの理念がクズ同然だったからだ。ボーダーレス、国境の廃止、人の自由な行き来、物流の流動性。すべて20世紀終わりごろから世の中に押し付けられてきた「正しい世界のあり方」だ。ところが、そんなことは人が頭の中だけで考えた「理想の正義」でしか無いことが明々白々となっている。
今回の騒ぎでどのマスコミも報じていないが、先にさっさとEUを離脱したイギリスは、真っ先に他国からの入国制限をかけている。島国という地理的な要因もあろうが、その封鎖体勢は徹底している。EUの理念など真っ向からガン無視だ。このイギリスの対応をどのメディアも報じていないのは、「『グローバル化』という『正義』に反するから」だ。イギリスの対応策を報じてその有効性が周知されると「うちも」「うちも」と入国制限をかける国が続出する。それはEUが高らかに奉じているところの「グローバル化」に対するアンチテーゼに他ならない。
ところが今の言論界では、そのような「グローバル化」に反することは、もはやタブーと化しているのだろう。上に挙げた4つの新聞でも、なんとかその虎の尾を踏まないように、慎重に慎重に記事を書いている。ぶっちゃけていうと、「グローバル化」に反しないようにビビってる社説と断じて良い。
おおむね、社説の方向性は3つに分かれる。
1. 「ある程度の出入国制限はやむを得ないが・・・」(読売、毎日)
2. 「伝染は止めろ。でも鎖国するな」(朝日)
3. まったくの意味不明(日経)
現実路線なのは読売と毎日。まぁ、新聞としてはこのような言い方をせざるを得ないのだろう。本当に世界規模での伝染拡大を防ぐためには「完全に出入国を封鎖しろ」と言うべきところなのだが、いまのご時世、そうは言えない。だから「ある程度はやむを得ない」という、腰が砕けた言い方になる。むろんそう言ってしまったら「『ある程度』というのは、何に基づいて誰が策定するのか」という問題が次に控えているわけだが、いまの段階でその「正解」が分かる者など誰もいない。読売と毎日の社説からは、現実に基づいた施策を提案したくても出来ない、という新聞社としての葛藤が読み取れる。気の毒な感じすら漂う社説だ。
朝日新聞はまったくの矛盾。「伝染拡大は止めろ」と言っておきながら、「人と物資の自由な行き来は止めるな」と主張している。これは伝染拡大を煽る方策に他ならない。
実際のところ、朝日新聞は日本ではなく中国・韓国の利益を優先している新聞社だ。だから日本に物流を封鎖されると困る中・韓の主張を代弁している。その本音は「伝染病がどれだけ広がろうと知ったこっちゃない。中国様・韓国様の機嫌を損ねる方策は許さん」というところだろう。「鎖国」などという負のイメージがつきまとう用語で印象操作をしようとしているあたりに、朝日新聞の意図がよく表れている。
朝日新聞は主張としては唾棄すべきものだが、それでも一応、主張としての体裁は成り立っている。「日本人は勝手に死ぬだけ死ね、出入国封鎖は許さん」という内容でも、主張として何を言いたいのかはよく分かる。
ところが日経の社説は、そもそも主張になっていない。この日経社説を読んで、何をどうしろと言っているのか理解できる人がいるだろうか。
よくもまぁ、ここまで意味のない軽佻浮薄な妄言が並べられたものだ。日経の言っていることを一言で要約すると「ちゃんとしなければいけないのである」ということに過ぎない。そんなこと、誰だって分かってる。その具体的な方策を提言するのが、新聞社の仕事ではないのか。
大筋で日経が言っていることは、「今回の伝染病みたいな大きい問題は一国だけでは対処不可能なので、各国が手を取り合って協力しましょうね」ということだ。これは伝染病の伝播防止の鉄則の真逆をいく主張だ。各国で手を取り合って、協力体制を敷いて、交流をしまくった結果が、いまのヨーロッパの惨状なのだ。つまるところ日経も、現在の世界の潮流「グローバル化」という宗教に洗脳され、「狭い範囲で封鎖しろ」という主張ができなくなっている。
医療が進歩し、世界はここ百数十年、人間が大量死するレベルの伝染病を経験してこなかった。その間に「ボーダーレス」「グローバル化」なる概念が拡大し、一人歩きを始め、今やそれは絶対的な教義になりつつある。イギリスのようにそれに異を唱える国もあるが、それについては誰も触れない。高い理想を掲げ過ぎ、現実的な方策をとれなくなった例というのは、世界史上、数え上げたらきりがない。今回の騒動も、その延長線上にある、人間の過ちの繰り返しのひとつに過ぎないだろう。
(2020年3月19日 朝日新聞社説)
「G7首脳会議 感染拡大の阻止へ指導力示せ 」
(2020年3月18日 読売新聞社説)
「G7首脳がコロナ協議 個別対策と協調の両立を」
(2020年3月18日 毎日新聞社説)
「世界的感染拡大で問われる政治の指導力」
(2020年3月14日 日本経済新聞社説)
なんというか、世の中の正論が、事実よりも先走って幅を利かせるようになると、こういう支離滅裂なことを言って辻褄を合わせなければならなくなる、という典型的な例だろう。端的に言うと、「『グローバル化』なる高尚な理念は嘘っぱちだ」ということをまざまざと露呈している。
これらの社説を読むときの視点はただひとつ、「出入国封鎖は是か非か」だけだ。
事実としては、伝染病が発生したときは発生源を封鎖しなければならない。そんなことは疫学上の常識だ。人の行き来を凍結し、誰も立ち入れないようにする。ところが問題は、「封鎖」という行政的な手続きを実行するとき、どの単位でその施策を実行するのか、ということだ。
人の行動に対する強制権を行使できる必要かつ十分な行政単位は、「国」でしか有り得ないだろう。ある国の中で伝染病が発生したら、直ちに国の出入りを禁止し、世界中に伝播することを避ける。これが国際社会に対する責任であるはずだ。
しかし現在、「ボーダーレス社会」「グローバル化」という大義名分のもと、「国」という単位で他と区別する施策はすべて「悪」と見なされるようになっている。「自国民に限る」という施策は「国籍で差別するのか」となり、他国とは違う独自路線はすべて「国際社会から孤立するぞ」という脅迫がついてまわる。
今回の新型コロナウィルスは、そうした「『グローバル化』という正義」に対して、本当にそれは正しいのか、世界中の人々に問題点を突き付けているように見える。グローバル化というお題目を嘲笑うかのように「国境封鎖」を各国に迫っている。特にヨーロッパの国々でその傾向が顕著だ。フランスやイタリアは自国内で爆発的に感染者が増加したことを受けて、あわてて入国制限に走った。EUの理念などクズ同然に吹っ飛び、自国の安全しか考えていない。
それが悪いと言っているのではない。伝染病の時には、そもそもそうするべきなのだ。EUの理念がコロナウィルスの前にクズ同然に吹っ飛んだのは、EUの理念がクズ同然だったからだ。ボーダーレス、国境の廃止、人の自由な行き来、物流の流動性。すべて20世紀終わりごろから世の中に押し付けられてきた「正しい世界のあり方」だ。ところが、そんなことは人が頭の中だけで考えた「理想の正義」でしか無いことが明々白々となっている。
今回の騒ぎでどのマスコミも報じていないが、先にさっさとEUを離脱したイギリスは、真っ先に他国からの入国制限をかけている。島国という地理的な要因もあろうが、その封鎖体勢は徹底している。EUの理念など真っ向からガン無視だ。このイギリスの対応をどのメディアも報じていないのは、「『グローバル化』という『正義』に反するから」だ。イギリスの対応策を報じてその有効性が周知されると「うちも」「うちも」と入国制限をかける国が続出する。それはEUが高らかに奉じているところの「グローバル化」に対するアンチテーゼに他ならない。
ところが今の言論界では、そのような「グローバル化」に反することは、もはやタブーと化しているのだろう。上に挙げた4つの新聞でも、なんとかその虎の尾を踏まないように、慎重に慎重に記事を書いている。ぶっちゃけていうと、「グローバル化」に反しないようにビビってる社説と断じて良い。
おおむね、社説の方向性は3つに分かれる。
1. 「ある程度の出入国制限はやむを得ないが・・・」(読売、毎日)
2. 「伝染は止めろ。でも鎖国するな」(朝日)
3. まったくの意味不明(日経)
現実路線なのは読売と毎日。まぁ、新聞としてはこのような言い方をせざるを得ないのだろう。本当に世界規模での伝染拡大を防ぐためには「完全に出入国を封鎖しろ」と言うべきところなのだが、いまのご時世、そうは言えない。だから「ある程度はやむを得ない」という、腰が砕けた言い方になる。むろんそう言ってしまったら「『ある程度』というのは、何に基づいて誰が策定するのか」という問題が次に控えているわけだが、いまの段階でその「正解」が分かる者など誰もいない。読売と毎日の社説からは、現実に基づいた施策を提案したくても出来ない、という新聞社としての葛藤が読み取れる。気の毒な感じすら漂う社説だ。
朝日新聞はまったくの矛盾。「伝染拡大は止めろ」と言っておきながら、「人と物資の自由な行き来は止めるな」と主張している。これは伝染拡大を煽る方策に他ならない。
実際のところ、朝日新聞は日本ではなく中国・韓国の利益を優先している新聞社だ。だから日本に物流を封鎖されると困る中・韓の主張を代弁している。その本音は「伝染病がどれだけ広がろうと知ったこっちゃない。中国様・韓国様の機嫌を損ねる方策は許さん」というところだろう。「鎖国」などという負のイメージがつきまとう用語で印象操作をしようとしているあたりに、朝日新聞の意図がよく表れている。
朝日新聞は主張としては唾棄すべきものだが、それでも一応、主張としての体裁は成り立っている。「日本人は勝手に死ぬだけ死ね、出入国封鎖は許さん」という内容でも、主張として何を言いたいのかはよく分かる。
ところが日経の社説は、そもそも主張になっていない。この日経社説を読んで、何をどうしろと言っているのか理解できる人がいるだろうか。
「科学的知見と社会や経済への影響を見極め、的確に対応していく政治の指導力が問われている」
今後は医療や経済、社会活動の専門家らの意見を踏まえ、対策の効果と影響を分析した総合的な判断が求められる
日本は感染者の隔離や治療の経験を踏まえ、国際的な協力態勢の確立に主導的な役割を果たしていくべきだ。
よくもまぁ、ここまで意味のない軽佻浮薄な妄言が並べられたものだ。日経の言っていることを一言で要約すると「ちゃんとしなければいけないのである」ということに過ぎない。そんなこと、誰だって分かってる。その具体的な方策を提言するのが、新聞社の仕事ではないのか。
大筋で日経が言っていることは、「今回の伝染病みたいな大きい問題は一国だけでは対処不可能なので、各国が手を取り合って協力しましょうね」ということだ。これは伝染病の伝播防止の鉄則の真逆をいく主張だ。各国で手を取り合って、協力体制を敷いて、交流をしまくった結果が、いまのヨーロッパの惨状なのだ。つまるところ日経も、現在の世界の潮流「グローバル化」という宗教に洗脳され、「狭い範囲で封鎖しろ」という主張ができなくなっている。
医療が進歩し、世界はここ百数十年、人間が大量死するレベルの伝染病を経験してこなかった。その間に「ボーダーレス」「グローバル化」なる概念が拡大し、一人歩きを始め、今やそれは絶対的な教義になりつつある。イギリスのようにそれに異を唱える国もあるが、それについては誰も触れない。高い理想を掲げ過ぎ、現実的な方策をとれなくなった例というのは、世界史上、数え上げたらきりがない。今回の騒動も、その延長線上にある、人間の過ちの繰り返しのひとつに過ぎないだろう。
もうちょっとまともなことは書けんものかね。
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日比谷公園のルーン文字石碑を見てきました。
こないだ、まぁ、不要不急の遠足などやってきたわけですが、本当の目的はこの石碑を見ることだったわけです。日比谷公園を入って、大噴水から右、日比谷通りに面した、心字池という日本庭園っぽい池のほとりにあります。
ルーン文字の石碑、というわけのわからないものが東京のど真ん中に鎮座ましましておるとは、ほとんどの人は知りますまい。
日比谷公園には、「なんか珍しいものだけど、博物館に入れるほどのものではない」というものが、わりと雑に置いてあります。あちこちに「なんだこれ」というものが陳列してあります。
このルーン文字石碑もそのうちのひとつでしょう。もともと北欧と日本の航路が北極経由で開拓されたことを記念して寄贈されたもののようです。碑文の単語からして、おそらく寄贈したのはスウェーデンでしょう。
だそうです。
最も有名なルーン文字は「Bluetooth」のロゴだろう。
電子デバイスの無線通信規格として、現在最も流通しているものだ。しかし、どうして無線規格が「青い歯」という名称なのか知っている人は少ないだろう。
Bluetoothは最初、エリクソン、インテル、IBM、ノキア、東芝の5社がプロモーターとなって策定された。この中で北欧企業(スウェーデン)のエリクソン社の技術者が、伝説のデンマーク王、ハーラル・ブロタンの名前を冠した「H・B」を名称として使用した。Bluetoothのロゴは、長枝ルーン文字の「H」と「B」を併せた合字だ。
ルーン文字は、小説「ハリー・ポッター」シリーズにも出てくる。
ホグワーツ魔法学校には3年時から「古代ルーン文字学」(Ancient Runes)という選択授業があり、ハーマイオニーがこの授業を履修している。リドルの日記を盗まれたハリーが慌ててグリフィンドール寮の談話室に駆け込んでくると、ハーマイオニーは『古代ルーン語のやさしい学び方』(Ancient Runes Made Easy)という本を読んでいた。
また、ふくろう試験(Ordinary Wizarding Levels Test, OWL試験)を受験したハーマイオニーが、食堂でのんびりチェスをしていたハリーとロンのところに来ると、不機嫌そうに「古代ルーン文字の試験がめちゃめちゃだった。ひとつ訳し間違えた」と言い、ロンが驚いて「たった1カ所!?」と驚くシーンがある。
物語の終盤、ダンブルドア校長はハリー、ロン、ハーマイオニーの3人に形見を贈る。ハーマイオニーに贈られたのは『吟遊詩人ビードルの物語』(The Tales of Beedle the Bard)。魔法界ではよく知られた伝説や童話を編纂した書物で、3つの「死の秘宝」の正体を3人に知らせるためのものだ。この物語、表紙の題名が古代ルーン文字で書かれている。また、物語中の吟唱詩のいくつかはルーン文字で書かれている。ハリーとロンはルーン文字の授業を履修していないため、この本はハーマイオニーしか読むことができない。
ルーン石碑というのは、北欧のヴァイキングが各地に遠征して征服行為をした時、その成果として記念に建立する石碑のこと。北欧各地に6千ほどの石碑が発見されている。700年から1100年ごろに建てられたものが多い。その性質上、内容としては「何年何月、誰々がここの地を征服した」のようなものが多い。
ルーン文字というのは言語学的にちょっと特殊な文字で、その文字資料がほとんど石碑にしか残っていない。文字の形を見れば分かるが、ほとんどが直線で形成されており、最初から石に刻むための文字として作られたことが分かる。
ルーン石碑の特徴は「書いてある内容よりも、『どこに残っているのか』のほうに価値がある」ということだ。なにせ残存している文字資料は征服記念の石碑しかないものだから、どの石碑も内容は似たり寄ったり。だからルーン石碑というのは言語学的にはたいした価値はない。
しかし、歴史学的には価値が高い。ルーン石碑が残っているということは「むかしヴァイキングがここまで勢力を伸ばしていた」という証拠に他ならず、彼らの行動範囲と交易圏を特定するための根拠になる。北欧言語の分布と変遷を研究すると、いろんなところにこのルーン文字というものが出てくる。
ルーン文字は死滅文字のひとつだが、わりと現在でもいろんなところで使われている。
ルーン文字というのは言語学的にちょっと特殊な文字で、その文字資料がほとんど石碑にしか残っていない。文字の形を見れば分かるが、ほとんどが直線で形成されており、最初から石に刻むための文字として作られたことが分かる。
ルーン石碑の特徴は「書いてある内容よりも、『どこに残っているのか』のほうに価値がある」ということだ。なにせ残存している文字資料は征服記念の石碑しかないものだから、どの石碑も内容は似たり寄ったり。だからルーン石碑というのは言語学的にはたいした価値はない。
しかし、歴史学的には価値が高い。ルーン石碑が残っているということは「むかしヴァイキングがここまで勢力を伸ばしていた」という証拠に他ならず、彼らの行動範囲と交易圏を特定するための根拠になる。北欧言語の分布と変遷を研究すると、いろんなところにこのルーン文字というものが出てくる。
ルーン文字は死滅文字のひとつだが、わりと現在でもいろんなところで使われている。
電子デバイスの無線通信規格として、現在最も流通しているものだ。しかし、どうして無線規格が「青い歯」という名称なのか知っている人は少ないだろう。
Bluetoothは最初、エリクソン、インテル、IBM、ノキア、東芝の5社がプロモーターとなって策定された。この中で北欧企業(スウェーデン)のエリクソン社の技術者が、伝説のデンマーク王、ハーラル・ブロタンの名前を冠した「H・B」を名称として使用した。Bluetoothのロゴは、長枝ルーン文字の「H」と「B」を併せた合字だ。
このハーラル・ブロタンという王は、当時抗争に明け暮れていたノルウェーとデンマークを、はじめて交渉によって無血統合した「平和の王」として名高い。この王は、歯が青かったという伝説があり、「青歯王」という別名でも呼ばれている。これにちなみ、「いろいろと規格が入り乱れている通信無線規格を、平和のうちに統合したい」という願いをこめ、ハーラル・ブロタンの青い歯(Bluetooth)を名称として使用することにした。
ルーン文字は、小説「ハリー・ポッター」シリーズにも出てくる。
ホグワーツ魔法学校には3年時から「古代ルーン文字学」(Ancient Runes)という選択授業があり、ハーマイオニーがこの授業を履修している。リドルの日記を盗まれたハリーが慌ててグリフィンドール寮の談話室に駆け込んでくると、ハーマイオニーは『古代ルーン語のやさしい学び方』(Ancient Runes Made Easy)という本を読んでいた。
また、ふくろう試験(Ordinary Wizarding Levels Test, OWL試験)を受験したハーマイオニーが、食堂でのんびりチェスをしていたハリーとロンのところに来ると、不機嫌そうに「古代ルーン文字の試験がめちゃめちゃだった。ひとつ訳し間違えた」と言い、ロンが驚いて「たった1カ所!?」と驚くシーンがある。
物語の終盤、ダンブルドア校長はハリー、ロン、ハーマイオニーの3人に形見を贈る。ハーマイオニーに贈られたのは『吟遊詩人ビードルの物語』(The Tales of Beedle the Bard)。魔法界ではよく知られた伝説や童話を編纂した書物で、3つの「死の秘宝」の正体を3人に知らせるためのものだ。この物語、表紙の題名が古代ルーン文字で書かれている。また、物語中の吟唱詩のいくつかはルーン文字で書かれている。ハリーとロンはルーン文字の授業を履修していないため、この本はハーマイオニーしか読むことができない。
マグル育ちはそんな童話を知らず、ロンだけが知っていた。
「ハリー・ポッター」シリーズの魔法学校の授業として使われているように、ルーン文字というのは欧州文化圏の人々にとって「なんか古代っぽい、ミステリアスな文字」という印象のあるものらしい。言語的にはルーン文字はアルファベットと同じ表音文字だが、それぞれの文字に意味がこめられている。ルーン文字のアルファベットを、最初の6文字をとって「フサルク」というが、それぞれのフサルクには発音の他に、名称と意味が設定されている。 その神秘的なイメージから、神託や占いにもよく使われていたらしい。ルーン文字の「ルーン」の語源は、ルーナ(runa)。「秘密」という意味だ。
まぁ、ハーマイオニーほど勉学に勤勉ではない僕も、一応、言語学者の端くれ。ルーン文字の解読くらいはできるかな、と思って日比谷公園の石碑を解析してみた。
まず石碑に書かれているルーン文字を単語ごとに区切って転写してみると、次のようなものになる。
ところが、そう考えると時代が合わない。
ケルト文化というのは、現在のイギリス、フランス、ドイツ、東欧圏に広がっていたケルト人の活動領域に包括される文化を指す。古代ローマで「ガリア人」と称されていた民族ではないか、という説もある。現在のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォールあたりにケルトの文化遺産が残されている。
現在ではイギリス系の印象が強いが、ケルト語はインド・ヨーロッパ語族なので、ケルト人もおそらくは大陸由来だろう。ケルト文化がヨーロッパで発展したのは青銅器時代、およそ紀元前1200年くらいだ。かなり歴史の古い民族といえる。
それが、ローマ帝国、ゲルマン民族の侵攻を受け、衰退に向かったのが紀元前1世紀ごろ。紀元後になってからは、その文化は当時でもすでに歴史遺産と化していたと思われる。
一方、ルーン文字というのはゲルマン民族であるヴァイキングが使用した文字だ。ヴァイキングの活動時期は約800年から1000年ほどの間だ。航海技術や戦闘武器の発達を背景としているため、その時代はほぼ中世に近い。ルーン石碑も、その多くはその時代に建立されている。
つまり、『吟遊詩人ビードルの物語』の物語は、紀元前のケルト物語が、1000年ほど後に発達したルーン文字で書かれた物語ということになる。「ハリー・ポッター」シリーズで登場する「古代ルーン文字」というものは実際には存在しないが、相当に初期のルーン文字だって紀元200年よりも昔ということはない。なぜ古代ケルトの物語が、当時存在しなかったルーン文字で書かれているのだろうか。
まぁ、いずれにしてもひとつ分かるのは、かようにヨーロッパ文化圏ではルーン文字は「神秘的な文字」という印象が強い、ということだ。ルーン文字の独特の雰囲気は、ハリー・ポッターシリーズの魔法界の印象を形づくるアイテムとして、重要な役割を果たしている。
「ハリー・ポッター」シリーズの魔法学校の授業として使われているように、ルーン文字というのは欧州文化圏の人々にとって「なんか古代っぽい、ミステリアスな文字」という印象のあるものらしい。言語的にはルーン文字はアルファベットと同じ表音文字だが、それぞれの文字に意味がこめられている。ルーン文字のアルファベットを、最初の6文字をとって「フサルク」というが、それぞれのフサルクには発音の他に、名称と意味が設定されている。 その神秘的なイメージから、神託や占いにもよく使われていたらしい。ルーン文字の「ルーン」の語源は、ルーナ(runa)。「秘密」という意味だ。
まぁ、ハーマイオニーほど勉学に勤勉ではない僕も、一応、言語学者の端くれ。ルーン文字の解読くらいはできるかな、と思って日比谷公園の石碑を解析してみた。
まず石碑に書かれているルーン文字を単語ごとに区切って転写してみると、次のようなものになる。
なんかシャーロック・ホームズの「踊る人形」みたいな作業。
この文字列をラテン文字(アルファベット)に変換すると、次のようになる。どうやらスウェーデン語らしい。ちなみに角カッコ [ ] の表記は現代スウェーデン語の正書法。
これでOWL試験もばっちり。
なかにローマ数字(XXIV「24」、MCMLVII「1957」)が使われており、これはそのまま読める。また、skandinaverは「スカンジナビア」、japanは「日本」、europaは「欧州」、nordpolenは「北極」、februariは「2月」だろう。このくらいの見当はつく。
でも僕はスウェーデン語が読めないので、辞書と参考文献を借りようと思って国立国会図書館に行ってみた。日比谷公園から外務省横の坂を上って、国会議事堂を過ぎたところに国立国会図書館がある。便利な場所だ。
でも僕はスウェーデン語が読めないので、辞書と参考文献を借りようと思って国立国会図書館に行ってみた。日比谷公園から外務省横の坂を上って、国会議事堂を過ぎたところに国立国会図書館がある。便利な場所だ。
ところが国会図書館がまさかの新型コロナウィルス流行に際し臨時休館。
そ、そりゃそうですよね・・・。
仕方ないので、近くにある某大学図書館に足を運び、参考図書を借りた。
そこでスウェーデン語を調べながら訳してみると、石碑に書いてあったのは
という内容。
そこでスウェーデン語を調べながら訳してみると、石碑に書いてあったのは
スカンジナビアの人々が、1957年2月24日、日本とヨーロッパ間に北極経由の航路を開き、その10年後に記念としてこの石碑を建てた
という内容。
特に新しい情報はありませんでしたね。
(な、泣いてないっす・・・)
でも、内容と石碑の存在意義が噛み合ってない気がする。
もともとルーン石碑というのは、北欧のヴァイキングの方々が「征服の証」として残していたものだ。これを日本に置いたというのは、日本は北欧諸国の軍門に下った、という意味になりはしないか。文面に書いてあるような、友好の証としてルーン石碑を使うというのはいかがなものか。
まぁ、そこまで固く考えることもあるまい。現在、北欧諸国ではルーン文字は一種の文化遺産扱いをされており、占いでも使われている。日本とスカンジナビアの友好の証として、なにか置物か記念物を、と考えて「いかにもスカンジナビアっぽいもの」と考えた時、ルーン石碑はどうだろうか、という感じだったのだと思う。まぁ、一種のジョークと考えればよいものだろう。
そんなことよりも、「ハリー・ポッター」シリーズの、『吟遊詩人ビードルの物語』(The Tales of Beedle the Bard)のほうが気になった。
この本は作中書物だが、スピンオフとして2008年に実際に出版されている。日本でも翻訳が出版されており、マニアには必須の本らしい。作中世界では、原著はルーン文字で書かれており、2008年にハーマイオニーが現代英語に翻訳した、ということになっている。
この物語は、イギリス魔法界に古くから伝わる寓話・童話を集めた作品集ということになっている。原題の「Bard」というのは吟遊詩人のことだが、一般的にはケルトの吟遊詩人のことを指す。おそらく、収録されている童話や寓話も、主にケルト民族の物語を下地にしているのだろう。
もともとルーン石碑というのは、北欧のヴァイキングの方々が「征服の証」として残していたものだ。これを日本に置いたというのは、日本は北欧諸国の軍門に下った、という意味になりはしないか。文面に書いてあるような、友好の証としてルーン石碑を使うというのはいかがなものか。
まぁ、そこまで固く考えることもあるまい。現在、北欧諸国ではルーン文字は一種の文化遺産扱いをされており、占いでも使われている。日本とスカンジナビアの友好の証として、なにか置物か記念物を、と考えて「いかにもスカンジナビアっぽいもの」と考えた時、ルーン石碑はどうだろうか、という感じだったのだと思う。まぁ、一種のジョークと考えればよいものだろう。
そんなことよりも、「ハリー・ポッター」シリーズの、『吟遊詩人ビードルの物語』(The Tales of Beedle the Bard)のほうが気になった。
この本は作中書物だが、スピンオフとして2008年に実際に出版されている。日本でも翻訳が出版されており、マニアには必須の本らしい。作中世界では、原著はルーン文字で書かれており、2008年にハーマイオニーが現代英語に翻訳した、ということになっている。
この物語は、イギリス魔法界に古くから伝わる寓話・童話を集めた作品集ということになっている。原題の「Bard」というのは吟遊詩人のことだが、一般的にはケルトの吟遊詩人のことを指す。おそらく、収録されている童話や寓話も、主にケルト民族の物語を下地にしているのだろう。
OEDの記述。「ancient Celtic」と明記してある。
ところが、そう考えると時代が合わない。
ケルト文化というのは、現在のイギリス、フランス、ドイツ、東欧圏に広がっていたケルト人の活動領域に包括される文化を指す。古代ローマで「ガリア人」と称されていた民族ではないか、という説もある。現在のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォールあたりにケルトの文化遺産が残されている。
現在ではイギリス系の印象が強いが、ケルト語はインド・ヨーロッパ語族なので、ケルト人もおそらくは大陸由来だろう。ケルト文化がヨーロッパで発展したのは青銅器時代、およそ紀元前1200年くらいだ。かなり歴史の古い民族といえる。
それが、ローマ帝国、ゲルマン民族の侵攻を受け、衰退に向かったのが紀元前1世紀ごろ。紀元後になってからは、その文化は当時でもすでに歴史遺産と化していたと思われる。
一方、ルーン文字というのはゲルマン民族であるヴァイキングが使用した文字だ。ヴァイキングの活動時期は約800年から1000年ほどの間だ。航海技術や戦闘武器の発達を背景としているため、その時代はほぼ中世に近い。ルーン石碑も、その多くはその時代に建立されている。
つまり、『吟遊詩人ビードルの物語』の物語は、紀元前のケルト物語が、1000年ほど後に発達したルーン文字で書かれた物語ということになる。「ハリー・ポッター」シリーズで登場する「古代ルーン文字」というものは実際には存在しないが、相当に初期のルーン文字だって紀元200年よりも昔ということはない。なぜ古代ケルトの物語が、当時存在しなかったルーン文字で書かれているのだろうか。
また、ケルト民族にとってゲルマン民族は侵略民族にあたる。ケルト民族とヴァイキングは時代が合わないが、一応民族上、被征服者と征服者の関係にある。歴史の古いケルト文化の童話や物語を、征服者の言語であるルーン文字で書き残す、というのはどう考えても不自然だ。
日比谷公園の石碑だって、アルファベットに書き下したらスウェーデン語だった。『吟遊詩人ビードルの物語』は、記述文字としてはルーン文字で書いてあるとして、その文字はいったい何語を表記したものだったのだろうか。
この謎を解く鍵のひとつは、題名に使われている「Bard」(吟遊詩人)という単語だ。
ひとつの考え方だが、『吟遊詩人ビードルの物語』は古代ケルト文化を題材としていながら、本として編纂されたのはそれほど昔ではない、ということだろう。先に挙げたOEDの記載によると、現存している資料のなかで「Bard」という言葉の初出例は15世紀だ。しかも引用例を見てみると、17世紀中盤までは「Baird」「Barth」「Bardh」など、綴りが一定ではない。ようやく「Bard」に綴りが定まったらしい最初の例は、1627年の資料だ。もし『吟遊詩人ビードルの物語』の英語表記がThe Tales of Beedle the Bardだったとしたら、この物語は少なくとも17世紀以降に書かれたことになる。そうだとしたら、当時すでに死滅語となっていたルーン文字で記されていても、いちおう時代的な辻褄は合う。
まぁ、いずれにしてもひとつ分かるのは、かようにヨーロッパ文化圏ではルーン文字は「神秘的な文字」という印象が強い、ということだ。ルーン文字の独特の雰囲気は、ハリー・ポッターシリーズの魔法界の印象を形づくるアイテムとして、重要な役割を果たしている。
ところが、謎の石碑、神秘的な古文書を、苦労して解読してみても、その内容は「そんなことは知ってるぞ」という程度のもの、ということは多い。まぁ、神秘というものは、暴いてみれば、そんなものなのだろう。
外務省横の桜がきれいでした。
春休みの自由研究としては中級くらいの難易度だろうか。
春休みであったかくなってきたので、ぶらっと日比谷公園から霞ヶ関界隈に出かけてきました。
別になにか用があるわけでもなく、不要不急の外出です。
いま一番やっちゃいけないやつです。
卒業式が中止になっちゃったのかな。
伊達政宗ってこの辺で死んだのか。
東京の公園のど真ん中に、なぜはにわ。
凄いイチョウがありました。人呼んで「首賭け銀杏」。
伐採されそうになったところを、担当者が「首を賭けて」移植したそうです。
今年の初桜は外務省の外壁周り。
いまいろいろと大変な所。
お巡りさんがあちこちに立ち番してました。
これは「桜田門」。
このあたりで井伊直弼が暗殺されたんですね。
こちらは「通称・桜田門」。
いわゆる警視庁ですな。
嫁がいないので一緒に登城ごっこができなかった。
そりゃ、こんなビル群ばっかり見て暮らしてたら、
ゴジラに全部壊させる映画くらい作りたくなるってものでしょうな。
よく晴れていて暖かかったのですが、春風がけっこう吹いていたので、サングラスをかけて歩きました。
もちろんコロナウィルス対策としてマスクもばっちりです。
サングラスかけて、マスクして、カメラを構えながら霞ヶ関の官庁街を練り歩きました。
3回職務質問されました。
「もう職務質問済みですカード」みたいなのくれないんですかね。
「休校の決断 重みに見合う説明を」
(2020年2月29日 朝日新聞社説)
「全国臨時休校へ 混乱抑え感染防止に全力を」
(2020年2月28日 読売新聞社説)
「「全国休校」を通知 説明不足が混乱を広げる」
(2020年2月29日 毎日新聞社説)
「首相の休校要請 説得力ある呼びかけを 「緊急事態宣言」へ法整備急げ」
(2020年2月29日 産経新聞社説)
「新型肺炎厳戒で政府がすべきこと」
(2020年2月28日 日本経済新聞社説)
新型コロナウィルスの流行を鑑みて、政府が突然、全国の学校に休校の要請を出した。それを受けての社説。
まあ予想通りというか、ほぼ揃いも揃って異口同音。特に読むに値する社説は無い。
おおむね批判的な論調が多い。その原因は、出した要請の内容ではなく、要請の出し方にある。今回の首相要請は、会議で諮られることもなく、専門家の検討もなく、ほぼ独断で出されたものだ。それに噛み付いている社説が多い。
今回の措置を批判しているのは、朝日、毎日、日経などの左派系新聞だ。読売、産経などの保守的新聞は今回の対策に一定の理解を示している。
今回の措置を、妥当とするかそうでないとするかは、今するべき議論ではないと思う。少なくとも、新聞の社説として今書くべきことは他にあるのではないか。
まず、今回の騒動の原因は、伝染病であって政府ではないということだ。今回の首相要請を非難している新聞は、暗黙のうちに「政府は『いままでの生活水準を1ミリも落とすことのないように』対策を講じろ」という無茶な要求をしているように見える。
しかし今回の新型コロナウィルスの大発生というのは、いわば降って湧いた国難だ。それに対処する過程では、どのみち何らかの不便は生じる。各紙の社説では「いずれにせよ何らかの犠牲は避けられない事態だ」ということが認識できていない。各新聞とも、「学校を一斉休校にするのはけしからん」と言うのであれば、その前提としては「生徒が何人死んでも構わないから」という文言が入ることになるのを忘れてはならない。
政府に求められているのは、いわば「新型肺炎で多数が死ぬか」「死なない替わりに多少の不便を我慢するか」という種類の二者択一なのだ。ところが新聞社説は「両方ダメ。何ひとつ不自由ない完璧な状態を保て」と言っているに等しい。
今回の社説で最も提言するべきことは、「政策の評価軸を定めること」ではないか。
今回の政府の休校措置は、いま現在、その妥当性を評価することは誰にもできない。問題は、数ヶ月、数年経って問題が収束した後で、「あの時の措置は妥当だった」「あの措置はまずかった」と、評価するための軸を用意して、そのためのデータをしっかり蓄積することではないか。
もし今回の新型肺炎が世界中で予想を上回る死者数を出し、日本はその傾向に巻き込まれず死者が少なかったら、今回の休校措置は「妥当だった」と判断できる。一方、大山鳴動鼠一匹、大した疾病ではなかったことが後日明らかになったら「施策は過剰だった」という評価を下さなければならない。
後日そのような客観的な評価をするためには、「何をもって政策を是とするのか」という、明確な評価軸がなくてはならない。しかし、どの新聞もそんな評価軸を明らかにしていない。暗黙のうちに「今回の施策は過剰だ」という前提のうちに話をすすめている。これが各社説の大きな問題点だろう。
新聞は一旦、政策の非難記事を書いてしまうと、後に施策が妥当であったことが明らかになっても、それを頑として認めない。マスコミのそういう「印象と感覚だけで評価を下す」という傾向は、のちに同じ問題が発生したときに同じ過ちを繰り返す原因となる。いま現在は、緊急事態なのだ。政策の非難は後からでもできる。大切なことは、妥当な非難を行えるための用意をしておくことではないか。
個人的には、今回の政府からの要請は、一種の「ショック政策」だと思う。
伝染病という緊急事態で、感染拡大を防ぐためには人の移動を差し控え、多人数が集まるイベントは控えてほしい。しかし、最初から「できるだけ控えてください。個々の判断は当事者に任せます」では、政府の指示として意味がない。そんなふんわりとした指示は、指示とは言わない。いままでの日本の事例から言っても、そんな指示など誰も聞かないだろう。誰もが無視して「いままで通りの普通の生活」をし続ける。
だから、政府が「この危機は本物だぞ」と国民に知らしめ、活動自粛を本域に高めるために、政府の指示として「全国の学校を休校にする」という形をとったのではないか。学校が休みになるというのは、相当の緊急事態だ。会社を休みにしづらい管理職も休みの指示を出しやすくなるし、イベントを中止にしづらい企画者も中止にしやすい。台風のときに「JRがまず電車を止める」という措置を取ることによって、各企業が自宅待機命令を出しやすくなったのと同じ効果を期待しているのではないか。
もちろん政府も、地域によっては休校措置が実情に合わないこともあることくらい、百も承知だろう。しかし、これとて最初から「休校にするかどうかは地域によって事情が違うので、その辺は各自治体が判断してください」と言ってしまうと、政府の指示として役を成さない。最初にきつめの要求をしておいて、後で状況により緩めることは可能だが、その逆は難しい。最初の指示が曖昧なものだと、全体として効果のある指示にはなりにくい。伝染病のような緊急時の指示であればなおさらだろう。
新聞各紙は、各家庭の事情や、職種によって休みがとれない仕事に就いている人達への配慮を問題点として挙げている。もしそれらを問題点として挙げるのであれば、政府が最初からそのような事情をいちいち勘案した「例外だらけの指示」を出したときの指示効果について、責任をもって立証しなければならない。
各紙とも、「専門家の検討なしに」「この指示の効果は疑わしいという専門家もいる」と、やたらに「専門家」という言葉を並べているが、この「専門家」なるものは何の専門家なのか、どの新聞もはっきり書いていない。伝染病に関する医学専門家なのか、人の行動が疾病伝播に影響する度合いを考察する社会行動学者なのか、学校教育の専門家である教育研究者なのか、どの「専門家」であれば今回の施策の妥当性をきっちり査定できるというのか。新聞は、評価の軸も曖昧なまま、印象だけで政府指示を非難している。 読者の学歴コンプレックスにつけ込んで、「専門家」とさえ書けば説得力のある記事になるだろう、という雑な書き方だ。テレビ番組がやたらと「大学教授」に喋らせて権威付けをしている構造と、何ら変わりはない。
現在の民主主義は間接民主制なので、国民は決断権を選挙によって特定の人達に委託している。その委託が間違っていれば、また選挙によって妥当な人を選び直さなければならない。そこでは「妥当」かどうかをしっかり評価するための基準が必要だろう。今回の新聞各紙の社説では、そのへんの評価軸をしっかり作ろうという気がまったく無く、最初から「非難ありき」の姿勢で書かれている。政府を非難するときは、印象や感情によって曖昧に非難するのではなく、明確な事実やデータによって明確に非難しなければならない。
(2020年2月29日 朝日新聞社説)
「全国臨時休校へ 混乱抑え感染防止に全力を」
(2020年2月28日 読売新聞社説)
「「全国休校」を通知 説明不足が混乱を広げる」
(2020年2月29日 毎日新聞社説)
「首相の休校要請 説得力ある呼びかけを 「緊急事態宣言」へ法整備急げ」
(2020年2月29日 産経新聞社説)
「新型肺炎厳戒で政府がすべきこと」
(2020年2月28日 日本経済新聞社説)
新型コロナウィルスの流行を鑑みて、政府が突然、全国の学校に休校の要請を出した。それを受けての社説。
まあ予想通りというか、ほぼ揃いも揃って異口同音。特に読むに値する社説は無い。
おおむね批判的な論調が多い。その原因は、出した要請の内容ではなく、要請の出し方にある。今回の首相要請は、会議で諮られることもなく、専門家の検討もなく、ほぼ独断で出されたものだ。それに噛み付いている社説が多い。
首相が方針を表明した時点で文部科学省内で知らされていたのは、一部の幹部だけだった。全国の教育委員会への連絡はその後に始まった。学童保育を受け持つ厚生労働省との調整など、具体策は詰めきれないままの見切り発車だった。政府の専門家会議は24日に出した見解の中で「1~2週間が急速な感染拡大が進むかの瀬戸際」との見方を示したが、休校には触れていない。翌日に政府が発表した基本方針でも、臨時休校の適切な実施に関して都道府県から要請するとの内容が入っていただけだ。専門家会議のメンバーからは「(一斉休校は)諮問もされず、提言もしていない。効果的であるとする科学的根拠は乏しい」との声が漏れる。
(朝日社説)
政府が設けた専門家会議は、全国での一斉休校が感染防止に現時点でどれだけ効果があるかを検討していない。政府は専門家会議の助言を得て、クラスターと呼ばれる小規模な感染者の集団が発生した地域に支援要員を派遣し、感染をおさえこむ計画だった。
全国一律の休校要請は、クラスターごとの対応では追いつかない特別な状況が生じたとの判断なのか。高齢者は重症化するリスクが高いが、子どもにそうした傾向は出ていない。根拠に基づく行動基準を示さないと、自治体が判断に迷うケースも出るだろう。
トップダウンによる臨時休校は、教育現場を混乱させている。感染症にかかった児童・生徒を出席停止とし、臨時休校とする法律はある。だが患者ゼロの学校も休校とする法的根拠は曖昧だ。3月は入試や合否発表があり、結果を踏まえて進路指導を予定する学校も多い。文部科学省は休校期間について「地域や学校の実情を踏まえ設置者の判断を妨げない」とややトーンダウンした通知を出したが、当然だろう。
(日経社説)
今回の措置を批判しているのは、朝日、毎日、日経などの左派系新聞だ。読売、産経などの保守的新聞は今回の対策に一定の理解を示している。
学校は大勢の子供が集まり、ひとたび生徒が発症すると、感染が一気に広がりやすい。家庭に戻って家族にうつす恐れもある。新型肺炎では、感染経路のわからない患者集団が各地で見つかっている。ここ1~2週間は本格的な流行を抑止するための極めて重要な時期である。
全国一斉休校という異例の措置は、危機感の表れと言える。北海道では27日から、小中学校の臨時休校が始まっていた。東京都は都立高校など約200校で、期末試験の終了後、前倒しで春休みに入ることを決めていた。各自治体で独自に休校の動きが広がる中、政府として、統一的な考え方を示す必要に迫られた面もあったとみられる。
(読売社説)
休校要請の対象となる児童、生徒らは約1300万人いる。日本の歴史にこれまでなかった規模だ。新型ウイルスとの戦いが容易ならざるもので、日本が緊急事態の渦中にあることを意味する。休校を決める権限は政府ではなく、全国の教育委員会や学校法人にある。首相の表明を受けて文部科学省や各教委からは驚きの声があがった。首相が打ち出さなければ全国一斉休校は到底実現できない。各地の教委などは要請を重く受け止めて対応すべきである。
学校は、大勢の子供が日々、同じ教室で学び、食事もとる集団生活の場だ。ウイルスにとって格好の温床となる。子供たちがウイルスを持ち帰り、高齢者を含む家族に感染を広げる図式はインフルエンザと共通する。一斉休校の意義は大きく、感染者や犠牲者を減らすことに寄与するだろう。およそ百年前にスペイン風邪が日本で大流行した際は、学校や軍隊から全国へ感染が広がった。その教訓を忘れてはならない。
(産経社説)
今回の措置を、妥当とするかそうでないとするかは、今するべき議論ではないと思う。少なくとも、新聞の社説として今書くべきことは他にあるのではないか。
まず、今回の騒動の原因は、伝染病であって政府ではないということだ。今回の首相要請を非難している新聞は、暗黙のうちに「政府は『いままでの生活水準を1ミリも落とすことのないように』対策を講じろ」という無茶な要求をしているように見える。
しかし今回の新型コロナウィルスの大発生というのは、いわば降って湧いた国難だ。それに対処する過程では、どのみち何らかの不便は生じる。各紙の社説では「いずれにせよ何らかの犠牲は避けられない事態だ」ということが認識できていない。各新聞とも、「学校を一斉休校にするのはけしからん」と言うのであれば、その前提としては「生徒が何人死んでも構わないから」という文言が入ることになるのを忘れてはならない。
政府に求められているのは、いわば「新型肺炎で多数が死ぬか」「死なない替わりに多少の不便を我慢するか」という種類の二者択一なのだ。ところが新聞社説は「両方ダメ。何ひとつ不自由ない完璧な状態を保て」と言っているに等しい。
つまり、各新聞は今回のコロナウィルス流行を舐めているのだ。各新聞は、ペストや天然痘レベルの、致死性の高い伝染病の流行でも「各家庭の事情が」「両親への負担が」などと並べて休校措置に反対するだろうか。新聞各紙は、暗黙のうちに「『この程度の伝染病』でこの措置はおかしい」と言っているように見える。ところが「この程度」がどの程度なのか、という事実はどの新聞も触れていない。
マスコミの常として、連日ショッキングな事例ばかりを強調し、繰り返し報道する。「◯◯県で感染者が発生」「◯◯県では感染者が◯人に到達」など、視聴率のためにインパクトのあるニュースばかりをこれでもかこれでもかと報道する。マスコミの基本姿勢として「こんなにひどい事態なんですよ」と過度に強調して報道している。なのに政府が「じゃあ学校を休みに」という指示をした途端、「それはやりすぎだ」と来る。報道姿勢と政府批判の内容が矛盾している。
朝日、毎日などの左派系の新聞の目的は「対策の是非を問わず、常に政府を批判すること」だ。だから政府が対策を講じて不便な状況を招いても非難するし、対策をなにも講じずに死者が多数出ても非難する。どのみち非難するのだ。だから、何ひとつ建設的な提言になっていない。
今回の社説で最も提言するべきことは、「政策の評価軸を定めること」ではないか。
今回の政府の休校措置は、いま現在、その妥当性を評価することは誰にもできない。問題は、数ヶ月、数年経って問題が収束した後で、「あの時の措置は妥当だった」「あの措置はまずかった」と、評価するための軸を用意して、そのためのデータをしっかり蓄積することではないか。
もし今回の新型肺炎が世界中で予想を上回る死者数を出し、日本はその傾向に巻き込まれず死者が少なかったら、今回の休校措置は「妥当だった」と判断できる。一方、大山鳴動鼠一匹、大した疾病ではなかったことが後日明らかになったら「施策は過剰だった」という評価を下さなければならない。
後日そのような客観的な評価をするためには、「何をもって政策を是とするのか」という、明確な評価軸がなくてはならない。しかし、どの新聞もそんな評価軸を明らかにしていない。暗黙のうちに「今回の施策は過剰だ」という前提のうちに話をすすめている。これが各社説の大きな問題点だろう。
新聞は一旦、政策の非難記事を書いてしまうと、後に施策が妥当であったことが明らかになっても、それを頑として認めない。マスコミのそういう「印象と感覚だけで評価を下す」という傾向は、のちに同じ問題が発生したときに同じ過ちを繰り返す原因となる。いま現在は、緊急事態なのだ。政策の非難は後からでもできる。大切なことは、妥当な非難を行えるための用意をしておくことではないか。
個人的には、今回の政府からの要請は、一種の「ショック政策」だと思う。
伝染病という緊急事態で、感染拡大を防ぐためには人の移動を差し控え、多人数が集まるイベントは控えてほしい。しかし、最初から「できるだけ控えてください。個々の判断は当事者に任せます」では、政府の指示として意味がない。そんなふんわりとした指示は、指示とは言わない。いままでの日本の事例から言っても、そんな指示など誰も聞かないだろう。誰もが無視して「いままで通りの普通の生活」をし続ける。
だから、政府が「この危機は本物だぞ」と国民に知らしめ、活動自粛を本域に高めるために、政府の指示として「全国の学校を休校にする」という形をとったのではないか。学校が休みになるというのは、相当の緊急事態だ。会社を休みにしづらい管理職も休みの指示を出しやすくなるし、イベントを中止にしづらい企画者も中止にしやすい。台風のときに「JRがまず電車を止める」という措置を取ることによって、各企業が自宅待機命令を出しやすくなったのと同じ効果を期待しているのではないか。
もちろん政府も、地域によっては休校措置が実情に合わないこともあることくらい、百も承知だろう。しかし、これとて最初から「休校にするかどうかは地域によって事情が違うので、その辺は各自治体が判断してください」と言ってしまうと、政府の指示として役を成さない。最初にきつめの要求をしておいて、後で状況により緩めることは可能だが、その逆は難しい。最初の指示が曖昧なものだと、全体として効果のある指示にはなりにくい。伝染病のような緊急時の指示であればなおさらだろう。
新聞各紙は、各家庭の事情や、職種によって休みがとれない仕事に就いている人達への配慮を問題点として挙げている。もしそれらを問題点として挙げるのであれば、政府が最初からそのような事情をいちいち勘案した「例外だらけの指示」を出したときの指示効果について、責任をもって立証しなければならない。
各紙とも、「専門家の検討なしに」「この指示の効果は疑わしいという専門家もいる」と、やたらに「専門家」という言葉を並べているが、この「専門家」なるものは何の専門家なのか、どの新聞もはっきり書いていない。伝染病に関する医学専門家なのか、人の行動が疾病伝播に影響する度合いを考察する社会行動学者なのか、学校教育の専門家である教育研究者なのか、どの「専門家」であれば今回の施策の妥当性をきっちり査定できるというのか。新聞は、評価の軸も曖昧なまま、印象だけで政府指示を非難している。 読者の学歴コンプレックスにつけ込んで、「専門家」とさえ書けば説得力のある記事になるだろう、という雑な書き方だ。テレビ番組がやたらと「大学教授」に喋らせて権威付けをしている構造と、何ら変わりはない。
現在の民主主義は間接民主制なので、国民は決断権を選挙によって特定の人達に委託している。その委託が間違っていれば、また選挙によって妥当な人を選び直さなければならない。そこでは「妥当」かどうかをしっかり評価するための基準が必要だろう。今回の新聞各紙の社説では、そのへんの評価軸をしっかり作ろうという気がまったく無く、最初から「非難ありき」の姿勢で書かれている。政府を非難するときは、印象や感情によって曖昧に非難するのではなく、明確な事実やデータによって明確に非難しなければならない。
初めてのことで狼狽しているだけのようにも見える。
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「トイレ紙品薄 潤沢な供給で不安の解消急げ」
(2020年3月4日 読売新聞社説)
「生活必需品の売り切れ 情報見極め冷静な行動を」
(2020年3月3日 毎日新聞社説)
「新型肺炎とマスク 製造と配分の努力不足だ」
(2020年3月4日 産経新聞社説)
「パニック消費をあおる高額転売を許すな」
(2020年3月3日 日本経済新聞社説)
日本人というものは、とにかくトイレットペーパーというものが大好きらしい。何かと言っちゃあトイレットペーパーの買いだめに走る。東日本大震災、先の集中台風など、大災害のたびに店頭からトイレットペーパーが姿を消す。おそらくこの傾向は今後も消えることはないだろう。
各紙ともその現象について問題提起をしているが、その矛先がちょっとずつ異なる。最も記事の焦点が狭いのは産経新聞だ。似たような記事だが、実情は全然違う。他紙が「非常時の買いだめ・高価転売の是非」について話しているのに対し、産経新聞は「マスク」だけに絞って話をしている。話題を絞ることでそれだけ提言が具体的になれば結構なことなのだが、残念ながら焦点とともに内容も萎んでいる。
「いま世の中で問題になっていることは、そういうことじゃない」という、ピントのずれた提言だ。医療機関でのマスク不足は、それはそれで問題ではあろうが、一般の新聞社説で提言を鳴らすべき種類の問題ではない。市井の読者にそれを主張したところで、どうにもならない。
のこりの読売、毎日、日経の3紙の中ではさらに、ちょっと趣旨が分かれる。主に読売・毎日は「買いだめ」にフォーカスを当て、日経は「高額転売」に注目している。これは、どちらが妥当な目の付け所かどうかという問題ではなく、純粋に購買層の違いだろう。一般家庭の読者が多い読売・毎日とは異なり、日経の主な購買層は経済・商業・財界従事者だ。それらの業種の人々にとって、現在最も深刻な問題は「流通」だろう。新型コロナウィルスの最も深刻な影響は、人とモノの行き来を流動化する自由な流通が阻害されていることだ。各国政府が躍起になって渡航制限をかけている中、流通の停滞は一部の産業界にとって死活問題だ。それに拍車をかけているのが転売業者だ。日経が高額転売を問題視するのも当然だろう。
一方、一般家庭のお父さんお母さんが読者の読売・毎日は、より日常生活の感覚に近しい「買いだめ」を問題視している。この問題に関して、読売と毎日の両紙は、同じような視点をもち、同じような問題点を指摘し、同じような提言をしているが、その説得力が高いとは言いがたい。
今回の買いだめ騒動には、「製造業者」「政府」「消費者」の3者が関連する。読売も毎日も、要するに言っているのは「製造業者」と「政府」がしっかりしろ、という内容だ。
「在庫はあります」と言うのなら、製造業者はしっかり生産して流通させろ。政府は法令を駆使して騒動の鎮火に努めろ。言っているのはそれだけだ。
このくらいの提言であれば、小学生でも書ける。さらに言うと、このくらいの提言はすでに何度も何度も新聞各紙が繰り返し書き続けてきたことだ。1973年のオイルショック以降、日本の新聞は同じような現象が起きるたびに同じような主張を繰り返してきた。そしてその結果が、今回のザマだ。全く提言が活かされていない。
70年代のオイルショック時の買いだめ騒動は、情報の不足が原因だった。一般消費者にとっては商品の在庫量など見当もつかず、「どうやら足りなくなるらしい」という噂が出た途端、誰も彼もがパニックに陥った。
あれから50年、社会の情報能力は飛躍的に向上し、一般市民も高度な情報を大量に入手できる時代になった。しかし相変わらずやっていることは同じなのだ。簡単に社会不安に陥り、50年前のスマホもネットもなかった時代の主婦と同様、簡単にデマに操られる。
「情報社会」なるものが世の中を決して良いものにしているわけではない、ということだろう。今回のパニック騒動は、「情報が足りないから起こった」のではなく、「情報が多過ぎるから起こった」ものだ。SNSによって、誰もが情報の発信源となり得る時代となり、デマの発生源が飛躍的に増加した。誰でも簡単にドラッグストアの空っぽの商品棚を写真にとり、SNSにアップできる。その結果、パニックが増加する。
世の中がどんなに変化し、テクノロジー的には進歩しても、起きていることは変わっていない。とすると、今回の騒動の真の原因となっているのは「製造業者」でも「政府」でもなく、明らかに「消費者」たる一般市民だろう。買い占め騒動の主体的な参加者である消費者が、もっと頭を使って理性的に判断できるようにならない限り、同じ事態は今後何年経っても相変わらず発生し続けるだろう。
台風や大震災のように製造業の工場稼働が止まるような事態であれば、商品が品薄になることも考えられる。しかし少なくとも今回の新型コロナウィルスの発生では、流通は多少の被害を被るだろうが、生産過程そのものに影響があるとは思えない。「原材料を中国から輸入している」などというデマに至っては、小学校の社会科資料集程度の情報でも嘘だと分かる。今回のデマに簡単に騙された人達は、小学校の授業で習う程度の知識さえ身に付いていないのだ。
人は社会不安に巻き込まれたとき、自分が見たい情報しか見ない。自分の頭で考えることを放棄し、誰かが大声で言っていることを安易に鵜呑みにしてしまう。そういう傾向と危険性に関しては、日本はおそらく世界で最も経験値が高いはずだ。しかしその経験が活かされているとは全く言えない。同じ過ちを、何度も何度も繰り返している。
今回の新聞記事で、各紙が警鐘を鳴らさなければいけないのは、そこではないのか。政府を批判すれば気分が良くなる人もいるだろうし、一般市民としては製造業に喝を入れてほしい気持ちも分かる。しかし、「読みたい内容を読んで喜んでいる」程度の思考能力では、今回のような社会不安を自力で乗り切れるだけの知的体力はとうてい望めないだろう。
蛇足だが、主要5紙のなかで、朝日新聞だけが買いだめ騒動について社説で触れていない。朝日新聞の主な購買層が製造業であることを考えると、朝日新聞の考えとしては「今回の諸悪の根源は、製造業」と考えているのだろう。購買層を非難するわけにはいかないから、いっそのこと社説を載せない。そういう態度だと思われても仕方がない。毎日世の中をこれだけ騒がせている問題に対して、全く問題意識を感じないのであれば、それはそれで大問題だ。
(2020年3月4日 読売新聞社説)
「生活必需品の売り切れ 情報見極め冷静な行動を」
(2020年3月3日 毎日新聞社説)
「新型肺炎とマスク 製造と配分の努力不足だ」
(2020年3月4日 産経新聞社説)
「パニック消費をあおる高額転売を許すな」
(2020年3月3日 日本経済新聞社説)
日本人というものは、とにかくトイレットペーパーというものが大好きらしい。何かと言っちゃあトイレットペーパーの買いだめに走る。東日本大震災、先の集中台風など、大災害のたびに店頭からトイレットペーパーが姿を消す。おそらくこの傾向は今後も消えることはないだろう。
各紙ともその現象について問題提起をしているが、その矛先がちょっとずつ異なる。最も記事の焦点が狭いのは産経新聞だ。似たような記事だが、実情は全然違う。他紙が「非常時の買いだめ・高価転売の是非」について話しているのに対し、産経新聞は「マスク」だけに絞って話をしている。話題を絞ることでそれだけ提言が具体的になれば結構なことなのだが、残念ながら焦点とともに内容も萎んでいる。
緊急時に政府は、国民のために権限をふるうことをためらってはいけない。医療機関や介護施設などでのマスク不足は医療の機能不全や肺炎拡大を招く。政府と自治体は医療機関への優先供給を始めている。全力を尽くすべきだ。
(産経社説)
「いま世の中で問題になっていることは、そういうことじゃない」という、ピントのずれた提言だ。医療機関でのマスク不足は、それはそれで問題ではあろうが、一般の新聞社説で提言を鳴らすべき種類の問題ではない。市井の読者にそれを主張したところで、どうにもならない。
のこりの読売、毎日、日経の3紙の中ではさらに、ちょっと趣旨が分かれる。主に読売・毎日は「買いだめ」にフォーカスを当て、日経は「高額転売」に注目している。これは、どちらが妥当な目の付け所かどうかという問題ではなく、純粋に購買層の違いだろう。一般家庭の読者が多い読売・毎日とは異なり、日経の主な購買層は経済・商業・財界従事者だ。それらの業種の人々にとって、現在最も深刻な問題は「流通」だろう。新型コロナウィルスの最も深刻な影響は、人とモノの行き来を流動化する自由な流通が阻害されていることだ。各国政府が躍起になって渡航制限をかけている中、流通の停滞は一部の産業界にとって死活問題だ。それに拍車をかけているのが転売業者だ。日経が高額転売を問題視するのも当然だろう。
一方、一般家庭のお父さんお母さんが読者の読売・毎日は、より日常生活の感覚に近しい「買いだめ」を問題視している。この問題に関して、読売と毎日の両紙は、同じような視点をもち、同じような問題点を指摘し、同じような提言をしているが、その説得力が高いとは言いがたい。
今回の買いだめ騒動には、「製造業者」「政府」「消費者」の3者が関連する。読売も毎日も、要するに言っているのは「製造業者」と「政府」がしっかりしろ、という内容だ。
「在庫はあります」と言うのなら、製造業者はしっかり生産して流通させろ。政府は法令を駆使して騒動の鎮火に努めろ。言っているのはそれだけだ。
このくらいの提言であれば、小学生でも書ける。さらに言うと、このくらいの提言はすでに何度も何度も新聞各紙が繰り返し書き続けてきたことだ。1973年のオイルショック以降、日本の新聞は同じような現象が起きるたびに同じような主張を繰り返してきた。そしてその結果が、今回のザマだ。全く提言が活かされていない。
70年代のオイルショック時の買いだめ騒動は、情報の不足が原因だった。一般消費者にとっては商品の在庫量など見当もつかず、「どうやら足りなくなるらしい」という噂が出た途端、誰も彼もがパニックに陥った。
あれから50年、社会の情報能力は飛躍的に向上し、一般市民も高度な情報を大量に入手できる時代になった。しかし相変わらずやっていることは同じなのだ。簡単に社会不安に陥り、50年前のスマホもネットもなかった時代の主婦と同様、簡単にデマに操られる。
「情報社会」なるものが世の中を決して良いものにしているわけではない、ということだろう。今回のパニック騒動は、「情報が足りないから起こった」のではなく、「情報が多過ぎるから起こった」ものだ。SNSによって、誰もが情報の発信源となり得る時代となり、デマの発生源が飛躍的に増加した。誰でも簡単にドラッグストアの空っぽの商品棚を写真にとり、SNSにアップできる。その結果、パニックが増加する。
世の中がどんなに変化し、テクノロジー的には進歩しても、起きていることは変わっていない。とすると、今回の騒動の真の原因となっているのは「製造業者」でも「政府」でもなく、明らかに「消費者」たる一般市民だろう。買い占め騒動の主体的な参加者である消費者が、もっと頭を使って理性的に判断できるようにならない限り、同じ事態は今後何年経っても相変わらず発生し続けるだろう。
台風や大震災のように製造業の工場稼働が止まるような事態であれば、商品が品薄になることも考えられる。しかし少なくとも今回の新型コロナウィルスの発生では、流通は多少の被害を被るだろうが、生産過程そのものに影響があるとは思えない。「原材料を中国から輸入している」などというデマに至っては、小学校の社会科資料集程度の情報でも嘘だと分かる。今回のデマに簡単に騙された人達は、小学校の授業で習う程度の知識さえ身に付いていないのだ。
人は社会不安に巻き込まれたとき、自分が見たい情報しか見ない。自分の頭で考えることを放棄し、誰かが大声で言っていることを安易に鵜呑みにしてしまう。そういう傾向と危険性に関しては、日本はおそらく世界で最も経験値が高いはずだ。しかしその経験が活かされているとは全く言えない。同じ過ちを、何度も何度も繰り返している。
今回の新聞記事で、各紙が警鐘を鳴らさなければいけないのは、そこではないのか。政府を批判すれば気分が良くなる人もいるだろうし、一般市民としては製造業に喝を入れてほしい気持ちも分かる。しかし、「読みたい内容を読んで喜んでいる」程度の思考能力では、今回のような社会不安を自力で乗り切れるだけの知的体力はとうてい望めないだろう。
蛇足だが、主要5紙のなかで、朝日新聞だけが買いだめ騒動について社説で触れていない。朝日新聞の主な購買層が製造業であることを考えると、朝日新聞の考えとしては「今回の諸悪の根源は、製造業」と考えているのだろう。購買層を非難するわけにはいかないから、いっそのこと社説を載せない。そういう態度だと思われても仕方がない。毎日世の中をこれだけ騒がせている問題に対して、全く問題意識を感じないのであれば、それはそれで大問題だ。
見出し語数の関係で「トイレ紙」という略語が定着しつつある
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「死刑判決の破棄 裁判員に無力感を与える」
(2020年2月3日 産経新聞社説)
最近、韓国や中国の動向がやかましく、保守系の新聞として国際問題を論じることが多かった産経新聞が、珍しい社説を載せている。一般人によって構成される裁判員の判決を職業裁判官が否定し、事実上裁判員制度が形骸化していることを批判した社説だ。時期を同じくしてこの件を社説で論じた全国紙は他に無く、産経新聞だけがこの件をとりあげている。
産経新聞が具体例として挙げているのは、兵庫県洲本市で平成27年3月、男女5人を刺殺したとして殺人罪などに問われた被告の控訴審判決。1審神戸地裁の裁判員裁判の判決では求刑通り死刑としたが、大阪高裁はこの判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。
産経の報道が正しければ、2度にわたって行われた精神鑑定に意味がなかったことになる。なぜ高裁が「職権」で3度目の鑑定を実施したのか、その鑑定が先の2回とどのように異なるのか、納得のいく説明がない。
これに対する産経新聞の提言はストレートだ。
僕は裁判員を引き受けたことはないが、相当な負担であることは想像できる。少なくとも、平日に数日間も拘束されるほど仕事に余裕がある人はそういるまい。裁判員制度があまり一般市民に浸透しているとも言えない状況で、このような自体は制度の存続そのものの妥当性に直結する、という指摘だ。
はっきり言及してはいないが、産経新聞がこの一件に注目した契機は、死刑判決との兼ね合いだろう。なまぬるい目で見れば、高裁が死刑判決を強引に翻したのは「一般市民の裁判員に『死刑』という極刑を宣告させる精神的負担を軽減したもの」という見方もできる。
しかし、それが正しければ、裁判員制度というものは死刑反対論者が死刑の履行を強引に覆すための制度的な装置、というだけのことになってしまう。ことの良し悪しは別として、現実問題として日本の法律は死刑制度を定めている。法を直接改訂することなく、運用のほうに枷をかけることにより刑の執行を妨げる、という方策は、法のまっとうな履行のしかたとは言えまい。
僕はつねづね、新聞社説の価値は、主張の内容そのものよりも「そもそもどのような件を採り上げるか」という、視点の持ち方だと思っている。裁判員裁判という、いわば世間的には訴求力の低い静的な話題で、しっかりと現在の日本の問題点を指摘している。最近、似たり寄ったりの社説が多いなか、秀逸な社説と評価できるだろう。
(2020年2月3日 産経新聞社説)
最近、韓国や中国の動向がやかましく、保守系の新聞として国際問題を論じることが多かった産経新聞が、珍しい社説を載せている。一般人によって構成される裁判員の判決を職業裁判官が否定し、事実上裁判員制度が形骸化していることを批判した社説だ。時期を同じくしてこの件を社説で論じた全国紙は他に無く、産経新聞だけがこの件をとりあげている。
産経新聞が具体例として挙げているのは、兵庫県洲本市で平成27年3月、男女5人を刺殺したとして殺人罪などに問われた被告の控訴審判決。1審神戸地裁の裁判員裁判の判決では求刑通り死刑としたが、大阪高裁はこの判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。
裁判員裁判の死刑判決を控訴審が破棄したのは7例目であり、5件は最高裁が控訴審判決を支持して確定している。
洲本の事件で1審と2審の判断が分かれたのは、被告の責任能力の評価による。1審では2人の担当医の鑑定結果を検討して完全責任能力を認めたが、高裁は職権で3度目の鑑定を実施し、この結果から心神耗弱を認定して刑を減じた。被害者遺族の一人は代理人弁護士を通じ、「1審の判断を否定して被告人を守ることは、裁判員裁判の趣旨を台無しにするものと思います」とコメントした。
裁判員裁判の判決は、原則として裁判員6人、裁判官3人の合議で行われる。法解釈や判例の判断については裁判官から十分に説明を受けることができる。決して裁判員のみによる感情に任せた結論が導かれることはない。
産経の報道が正しければ、2度にわたって行われた精神鑑定に意味がなかったことになる。なぜ高裁が「職権」で3度目の鑑定を実施したのか、その鑑定が先の2回とどのように異なるのか、納得のいく説明がない。
これに対する産経新聞の提言はストレートだ。
裁判員制度導入前の判例と、国民の日常感覚や常識との間に、ずれが生じていると理解すべきだ。裁判員裁判の判決の破棄が続く現状は、裁判員に無力感を生じさせることにつながる。
僕は裁判員を引き受けたことはないが、相当な負担であることは想像できる。少なくとも、平日に数日間も拘束されるほど仕事に余裕がある人はそういるまい。裁判員制度があまり一般市民に浸透しているとも言えない状況で、このような自体は制度の存続そのものの妥当性に直結する、という指摘だ。
はっきり言及してはいないが、産経新聞がこの一件に注目した契機は、死刑判決との兼ね合いだろう。なまぬるい目で見れば、高裁が死刑判決を強引に翻したのは「一般市民の裁判員に『死刑』という極刑を宣告させる精神的負担を軽減したもの」という見方もできる。
しかし、それが正しければ、裁判員制度というものは死刑反対論者が死刑の履行を強引に覆すための制度的な装置、というだけのことになってしまう。ことの良し悪しは別として、現実問題として日本の法律は死刑制度を定めている。法を直接改訂することなく、運用のほうに枷をかけることにより刑の執行を妨げる、という方策は、法のまっとうな履行のしかたとは言えまい。
僕はつねづね、新聞社説の価値は、主張の内容そのものよりも「そもそもどのような件を採り上げるか」という、視点の持ち方だと思っている。裁判員裁判という、いわば世間的には訴求力の低い静的な話題で、しっかりと現在の日本の問題点を指摘している。最近、似たり寄ったりの社説が多いなか、秀逸な社説と評価できるだろう。
適当にやっても済むことになっちゃうもんね。
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第96回箱根駅伝。
青山学院が2年ぶり5回めの優勝を飾った。一言でいうと、「挑戦者」になった青山学院は、本当に強い。実に7区間で区間新記録が破られ、往路記録は4校が新記録、復路も新記録、総合記録も2校が新記録という、記録尽くめの大会だった。
従来の常識が通用しない高速駅伝と化し、それに対処できたチームとできなかったチームで明暗がはっきりと分かれた。去年までの箱根駅伝とはまったく違う大会となった感があった。時代の移り変わりとともに箱根駅伝の戦術は変化するが、それが全く新しいステージに進化している。
時代の変化にうまく対応できたチームは、青山学院、國學院、東京国際大、創価の4チームだろう。どのチームも今回大会の大きな傾向にしっかり対処している。すなわち、「序盤重視」「エース投入のタイミング」「適正に合わせたピーキングの必要性」だ。
一般的に箱根駅伝の戦術上、欠かせないのは「エース」「クライマー」「ダウンヒラー」「ルーラー」の4種類の走者だ。区間の特性上、クライマーは5区、ダウンヒラーは6区だが、ふつうエースは2区、ルーラー(単独走が可能な走者)は復路の7、8、9、10区に置かれることが多い。
ところが今回大会の傾向として、「エースを何区に置けるか」によって明暗が分かれた。最も分かりやすいのは青山学院だ。前回大会で苦杯を舐めた4区に副将の吉田祐也を置き、区間新記録の爆走で往路の勝負を決めた。今年の青山学院には絶対的なエースがいない。そこで「2区は集団走になる」という予想をたて、「つなぎの区間」として敢えて1年生を投入した。集団走で様子を見ながら他校の選手からペース配分を盗み、ラストの競り合いで抜け出すことで、2区に集まる他校のエースを「無力化」した。
國學院も作戦が明確だった。藤木、土方、青木、浦野の主力4枚を惜しげもなく往路につぎ込み、往路優勝を狙った。去年までの箱根駅伝だったら成功していただろう。誤算は、青山学院が去年までの想定とは違う次元の高速レースを展開したことだった。その代償として往路で大砲を使い果たし、復路では苦戦した。9区では区間20位で失速している。しかし10区で区間4位と踏みとどまり、最後のスパート合戦を制して総合3位を勝ち取った。
東京国際大は上位チームで最もエース投入が功を奏したチームだろう。2区にエースの伊藤達彦が入ることによって、留学生のヴィンセントを2区以外の区間で使えるというアドバンテージがあった。しかも東京国際大はヴィンセントを補欠エントリーで隠し、他校の区間配置を揺さぶった。結果としてヴィンセントは3区で59分25秒という、ハーフマラソンの世界記録に匹敵する驚異的な記録でぶっち切り、往路での優位を確立した。
エース投入がユニークだったのは創価大学だ。1区と10区に両エースを置き、その両方で区間賞を取った。創価大学の区間賞は初めてのことで、目論みが100%当たった。目標がシード権獲得という現実を見据え、「序盤で出遅れず、上位で戦い続ける」「10区のラスト勝負で競り勝つ」という中堅チームの鉄則を愚直に実行した。その結果として、各校のエース格が集まり高速レースとなった1区を制して区間賞、10区では現存の最も古い区間記録を破る新記録というおまけつきで、見事に初のシード権を獲得した。特に10区最後の競り合いでは、シード権確保については鉄壁のノウハウを持つ中央学院大を下してのシード権獲得だ。創価大学がどのようなレースプランを組んでいたのかが明確に分かる10区だった。
毎年話題になる青山学院大学の「なんとか大作戦」だが、今回の青山学院の最も大きな作戦は「吉田圭太の1区投入」だろう。これを当日のオーダー変更で行なった。これで他の大学は、かなり動揺したと思う。
近年の1区は、様子見からのスローペースになることが多く、最後のラストスパートだけで勝負が決まることが多かった。だから1区の適正は、ここ数回の大会では「集団走に強く、我慢して終盤に備えることができ、ラストスパートがキレる走者」であることが多かった。1区がスローペースの展開になると、ここにエース格を投入しても差をつけることができず、主力が「ムダ駒」に終わってしまう。特に東洋大学は、2017年(第93回大会)で1区に服部弾馬を投入し、区間賞は取ったものの2位に1秒差という無駄撃ちをしてしまい、それ以後1区の戦力を出し控える傾向にある。
その傾向はここ数年、青山学院も同じだったが、青山学院が連覇を始めた頃は1区に久保田和真というエースを躊躇なく投入していた。全区間1位通過の完全優勝を達成した2016年(第92回大会)では、その1区久保田が区間賞を獲得し、金栗四三杯を獲得している。
今回、青山学院が1区にエース格の吉田圭太を投入したのは、その頃の青山学院の「挑戦者」としての姿勢を取り戻すべく、原監督がチーム全体を引き締めるために行なった賭けだろう。この区間配置で、チーム全体に「序盤で主導権を握る」という目的意識が明確な形で共有されたと思う。
つまり青山学院の作戦は、1区と2区が連動している。2区に1年生を配置した以上、1区で出遅れるわけにはいかない。そこで1区にエース級を配置する。その2区間で無理矢理にでも上位を確保し、有利に戦いを進める。「序盤で支配権を取る」という駅伝の鉄則を守る、基本に忠実な作戦と言える。
時代の変化に対応できなかった大学は、東洋大学、法政大学、中央学院大学だろう。特に東洋大学の失墜は、毎年箱根駅伝を見ている人にとっては信じられない出来事だっただろう。しかし、去年の箱根駅伝復路、今年のトラックシーズンで、すでに東洋大学の凋落の兆しは見えていた。
東洋大学の特徴は、上級生になるほど戦力数が激減することだ。4年生の数が極端に少なく、4年生までチームの主力を張り続ける選手が少ない。相澤晃の突出した実力が注目されることが多いが、言い方を変えれば「相澤晃しかいない」のだ。他に順調に成長した東洋大学の選手は、副将の今西駿介くらいだろう。
2年連続1区区間賞の実績をもつ西山和弥は区間14位、3区の吉川洋次は区間13位、4区の渡邉奏太に至っては区間20位に沈んだ。上級生が相次いでチームの足を引っ張った。 また今年に入ってからようやく主力に定着した定方駿も、コンディション不足でメンバー落ち。その結果、シード権を争う10区に駅伝未経験の1年生・及川瑠音を置くというちぐはぐな配置だった。当然ながら1年生には荷が重く、及川は10区で区間19位に沈んでいる。
東洋大学は全体的に、できる選手とできない選手の差がありすぎる。思うに東洋大学の練習というのは、「30人の大学生を30人全員伸ばす方法」なのではなく、「100人の部員の中で、世界に通用する3〜4人だけが伸び、残りは潰れていく方法」なのだと思う。将来オリンピックに出るほどの素質を持たない学生は、東洋大学の練習についていけず、次々と脱落していくのではあるまいか。「将来、世界で戦うことを見据える練習」にこだわり過ぎるあまり、「普通の大学生の選手」を片っ端から潰しているように見える。
それが如実に現れているのはピーキングだ。今回の東洋大学は特に故障明けの選手が多い。西山和弥は今シーズンの駅伝が軒並み不調で、走り込み不足が明らかだ。吉川洋次に至っては他のレースに出場すらできていない。各自の特質と調子に合わせて、それぞれに合うような調整をしているようには見えない。「相澤を見習え」「相澤について行け」と、やたらと相澤晃を基準にした、無茶な練習を繰り返していたのではないか。 出場選手を万全の状態にもっていけないのは、基本的には監督の手腕に問題がある。
東洋大学は全体的に、できる選手とできない選手の差がありすぎる。思うに東洋大学の練習というのは、「30人の大学生を30人全員伸ばす方法」なのではなく、「100人の部員の中で、世界に通用する3〜4人だけが伸び、残りは潰れていく方法」なのだと思う。将来オリンピックに出るほどの素質を持たない学生は、東洋大学の練習についていけず、次々と脱落していくのではあるまいか。「将来、世界で戦うことを見据える練習」にこだわり過ぎるあまり、「普通の大学生の選手」を片っ端から潰しているように見える。
それが如実に現れているのはピーキングだ。今回の東洋大学は特に故障明けの選手が多い。西山和弥は今シーズンの駅伝が軒並み不調で、走り込み不足が明らかだ。吉川洋次に至っては他のレースに出場すらできていない。各自の特質と調子に合わせて、それぞれに合うような調整をしているようには見えない。「相澤を見習え」「相澤について行け」と、やたらと相澤晃を基準にした、無茶な練習を繰り返していたのではないか。 出場選手を万全の状態にもっていけないのは、基本的には監督の手腕に問題がある。
結局、東洋大学の敗因は、1区西山の失速で「序盤で主導権を握る」に失敗し、2区エースの相澤晃の威力を十分に発揮できなかったことだろう。いくら相澤が区間新の快走でも、14位を7位に押し上げる位置取りでは優勝争いに絡めない。戦前、酒井監督は「相澤を活かすチーム戦術」を掲げていたが、1区でそれに失敗し、早くも打つ手がなくなった。
選手のピーキングに関しては法政大学も大失敗をしている。特にダブルエースの一角、佐藤敏也を欠いたのは痛かった。トラックシーズンの後、故障から長い不調に陥ったが、それを回復させ切れなかったのが痛い。半分本人、半分監督の責任だろう。手駒が足りなくなり、1区に1500mが専門の2年生を配置するという苦肉の策をとり、区間19位で完全に高速レースに取り残された。今回の法政大学の作戦は「5区青木」のみと言ってよく、まだ2区を走ってる選手に対して、監督が「青木が何とかしてくれる!」と声掛けする始末だ。
中央学院大学は、得意の「10位確保」が通用せず、よりによって例年勝負区間としている9、10区で逆転されて11位に沈んだ。去年、10位でぎりぎりシード権を確保したときの総合記録は11時間9分23秒、今年の記録は11時間1分10秒。実はチーム記録を8分以上も縮めている。例年であれば、今年の戦い方で十分にシード権は取れただろう。ちなみに今年の中央学院大の記録は、去年であれば6位に相当する好記録だ。
ところが今年は異様ともいえるほどペースが上がり、箱根駅伝全体が高速レースと化した。従来の9、10区の備えでは、シード権をめぐる最後の削り合いには勝てなかった。事実、10区に区間新を叩き出す選手を配置した創価大学の執念の前に屈する形となった。
中央学院と同様に、「出来が悪かったわけではないが、全体のレベルが上がったため、取り残された」というのが東海大学と駒沢大学だ。圧倒的な選手層を誇り、優勝候補の筆頭とされていた東海大学は、今回は勝てなかった。「黄金世代」と称された現4年生は、4年間が終わってみれば、3大駅伝をそれぞれ1勝ずつしかできなかった。一方、原監督に「ダメダメ世代」と呼ばれた青山学院大学の現4年は、4年間で出雲2勝、全日本2勝、箱根3勝の、合計7勝を重ねている。どちらが黄金世代だか分かったものではない。
両角監督が話していた通り、今回の東海大学は大きなミスがあったわけではない。区間賞を狙っていた5区山登りの西田壮志が体調不良による調整不足で7位に沈んだのは誤算だっただろうが、6区山下りで区間新の爆走をした主将・館澤亨次の走りで相殺できる程度のことだ。全体の記録でも、去年の10時間52分09秒に比べて、今年は10時間48分25秒。十分に優勝に資する結果と言える。
しかし、今回の東海大学が「これ以上強くならないベストのチーム」だったか、というと、決してそんなことはない。「黄金世代」の主力とされていた選手のうち、阪口竜平は出走できず、關颯人、中島怜利はエントリー入りさえできていない。8区区間記録保持者の小松陽平は、大差を詰めるはずの8区で青山学院の岩見秀哉に1秒ギリギリしか勝てず、この段階で事実上東海大学の逆転の可能性が静かに潰れた。去年よりも気候のコンディションが良かったことを考えると、小松の不調は直前の調整不足によるものだっただろう。TV放送では、区間賞のインタビューにも関わらず、小松は泣きながら悔いの言葉を並べていた。まるで勝負に負けたかのような応答だった。
つまり東海大学も、東洋大学と同様、「選手個々人の能力を伸ばす」という指導の仕方ではないのだと思う。あまりにも4年間で才能を潰し、大会を絶好調で迎えられない選手が多すぎる。個々の選手の特性に合わせた練習方法も考えていないだろうし、潰れた選手は潰れたまま埋もれていく環境なのだろう。
翻って青山学院の選手を見ていると、1年をかけて「区間適正に合わせた走り方」を練り上げていたことが分かる。
今回大会の大きな特徴は「高速シューズ」と呼ばれるナイキの厚底シューズ(ヴェイパーフライネクスト%)が席巻していたことだ。青山学院の公式スポンサーはアディダスだが、今年からナイキのシューズを解禁した。このシューズが高速化の理由になったことは間違いないが、これを履いたチームが全員速くなったわけではない。勝負に負けた東海大学も、大失墜した東洋大学も、みんなこのシューズを履いている。
このシューズの特性は、正確に言うと「速く走れること」ではない。「速く走っても、ダメージが少ない」ということだ。普通であれば足にダメージが溜まるような無茶な突っ込みをしても、足への負担が少なくて済む。だからこのシューズを効果的に使うためには、そもそも速く走るスピードと、それを維持するスタミナが大前提になる。
またこのシューズは、ソールに「カーボンプレート」が内蔵されている。反発性が従来の靴とは違うため、前傾姿勢を保って体重移動をスムースに行なう走り方が要求される。正確な接地技術と、フォームの維持が必要になる。誰が履いても速く走れる魔法の靴ではないのだ。
今回の青山学院の特徴は、全選手が区間前半から区間記録を更新する勢いのハイペースで突っ込んでいたことだ。集団走での駆け引きが必要な往路序盤だけでなく、前半から飛ばす必要がない復路の7、8、9、10区でも序盤から猛烈なペースで突っ込んでいた。また、後半から終盤になってフォームが崩れて上体が振れてしまっても、前傾姿勢と接地は崩れていなかった。
おそらく青山学院は、1年をかけて箱根駅伝だけにターゲットを定め、高速シューズの利点を活かす走り方を練習していたのだと思う。20キロ前後の距離走を延々と積み重ね、「前半から飛ばし、前傾姿勢を保ったまま、可能な限りペースを維持する」という練習を積みかさねていたのではないか。
復路の青山学院は、後続と大差がつき、それぞれが単独走になった。しかし、それでペースを乱すことなく、全員が「前半から突っ込み後半まで我慢する」という走り方ができていた。典型的なルーラーの走り方で、かなり時間と距離をかけて練習していないと身に付く走り方ではない。
今年の青山学院は、夏前のトラックシーズンと、3大駅伝の出雲、全日本では結果がまったく出ていない。おそらく箱根の長距離に対応する練習のため、捨てたのだと思う。青山学院にとって出雲と全日本の両駅伝は、「駅伝の未経験者に、経験を積ませるための『練習』」に過ぎなかったのだと思う。岸本大紀、湯原慶吾、飯田貴之、中村友哉、神林勇太など、駅伝経験が不足する選手を出雲・全日本にどんどん投入し、駅伝経験を積ませて箱根に備えた。
今回の箱根駅伝を見て、大学スポーツが目指すところに迷走が見られないか、という感じがしてならなかった。
今年はオリンピックイヤーということもあり、箱根駅伝の周辺ではオリンピックのマラソン代表に関する話題が頻繁に聞かれた。中村匠吾(駒沢大出身)、服部勇馬(東洋大出身)が「箱根ランナーが目指すべきお手本」のようにもてはやされ、やたらと「箱根から世界へ」が喧伝されていた。しかし実際には、駒沢大学も東洋大学も、優勝争いどころか、シード権ギリギリの下位に沈んでいる。
大学在籍時から世界を見据えた練習を積み重ねるのも結構だが、大学の選手全員が世界を目指す資質があるわけでもないし、その意思を持ち続けられるわけでもない。世界を目指す前に潰れてしまっては、身も蓋もない。特にここ数年の「東京オリンピックシンドローム」によって、学生スポーツ界全体が、「オリンピックを目指せ」という崇高かつ気高い理想に、気疲れしてしまっているのではないか。東洋大学で不調に陥る多くの選手や、前評判ほど実力を出し切れていない駒沢大学の選手を見ると、そのような「高すぎる意識の高さ」が、指導者の呪いとなっている気がする。
青山学院の4区で区間新記録を叩き出した吉田祐也は、卒業後に実業団に進まず、一般企業に就職する。区間賞のインタビューでそのことを訊かれても、晴れやかな顔で「悔いはありません」と笑顔で答えている。いい大学生活を送り、今後の社会人生活にも資するところ大だろう。大学スポーツを「大学教育の一環」として捉える場合、一握りのオリンピック選手の育成のために多くの「犠牲者」を出すあり方と、すべての学生にそれぞれのやり方で取り組ませるのと、どちらが健全なあり方なのだろうか。
現状では、オリンピックや世界陸上を見据えて現時点の練習を「割り算」で考える大学と、とりあえず目先の目標を一歩ずつ積ませる「足し算」で考える大学が、はっきり分かれているように見える。大学での競技を考えている高校生は、そういう所を見極めて大学を選ぶべきだろう。今回の箱根駅伝を見て、そんなことを思った。
去年の青山学院は、出雲と全日本の駅伝に勝ち、箱根に負けた。今年は出雲と全日本に負けたが、箱根に勝った。ちょうど結果が表裏の関係になったが、どちらが年度締めの総括として「成功」と捉えているか、というと、すべてを捨てて箱根駅伝の勝利に賭けた今年度のほうだろう。関東インカレや日本インカレで勝っても、出雲や全日本駅伝に勝っても、箱根に負けたら意味がないのだ。それだけ大学長距離界における価値の比重が箱根駅伝に偏っている、ということだろう。最終的に何を目指し、何のために練習をしているのか、その辺を見失った大学は、わけの分からない迷走をすることになるだろう。
ピコンピコン鳴り過ぎ。
「日本と韓国の対立 『最悪』を抜け出すために」
(2019年12月25日 朝日新聞社説)
日韓関係を壊滅的にする虚言を自らバラまくだけバラまいておいて、他人事のように「いけませんね」などとほざく無責任。こんなことになった根本的な原因が自分たちにあるなどという自覚は微塵も無い。
朝日新聞としてはさっさと日本を韓国に売り渡したいところだろうから「日本は無条件に韓国に土下座しろ」とでも書きたいところだろうが、正直にそう書いてしまったら世論からの乖離を招く。一方、朝日新聞の主要な購買層である生産業からは「政治・外交はともかく、経済関係だけでも日韓関係が友好的になるように世論を操作しろ」という圧力がかかっているのだろう。書かされている文章だから、内容が支離滅裂になる。
本当に日韓関係の悪化について言及するなら、ことの発端である「慰安婦問題」に触れないはずはない。しかし社説内にはそんなことは一言も触れていない。自社の責任に直結する部分だけきれいに無視して、表層的な事柄にだけ偉そうに講釈を垂れる。新聞社としてだけでなく、一企業としての倫理観が全く無い。
(2019年12月25日 朝日新聞社説)
さほど損害が伝えられない韓国側でも、多くの業者や関係者が困難な状況にあるはずだ。政府間にはそれぞれ譲れぬ原則があるにせよ、国民の経済的な実利や、市民同士のふれあいの機会を互いに損ねる現状を放置してよいわけがない。
両政府とも、相手の政権が代わらない限り、解決は難しいという突き放し感が漂う。だが、それは両首脳が偏った隣国観に固執するあまり、柔軟性を欠く外交をしかけ、ナショナリズムをあおる結果になっているからだろう。
一方、安倍首相は、朝鮮半島に残る歴史的な感情のしこりに無神経な態度が相変わらずだ。先の臨時国会の所信表明で、100年前のパリ講和会議で日本が人種差別撤廃を提案したことを誇らしげに語った。だが、当時の日本が朝鮮の植民地支配で差別を批判されていたことへの言及はなかった。戦後70年を機に出した「安倍談話」でも、朝鮮支配には触れなかった。韓国市民が「ノー安倍」と呼びかけるのは、そんな歴史観が影響している。
日韓関係を壊滅的にする虚言を自らバラまくだけバラまいておいて、他人事のように「いけませんね」などとほざく無責任。こんなことになった根本的な原因が自分たちにあるなどという自覚は微塵も無い。
朝日新聞としてはさっさと日本を韓国に売り渡したいところだろうから「日本は無条件に韓国に土下座しろ」とでも書きたいところだろうが、正直にそう書いてしまったら世論からの乖離を招く。一方、朝日新聞の主要な購買層である生産業からは「政治・外交はともかく、経済関係だけでも日韓関係が友好的になるように世論を操作しろ」という圧力がかかっているのだろう。書かされている文章だから、内容が支離滅裂になる。
本当に日韓関係の悪化について言及するなら、ことの発端である「慰安婦問題」に触れないはずはない。しかし社説内にはそんなことは一言も触れていない。自社の責任に直結する部分だけきれいに無視して、表層的な事柄にだけ偉そうに講釈を垂れる。新聞社としてだけでなく、一企業としての倫理観が全く無い。
令和になっても相変わらず。
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「日韓情報協定 関係改善の契機とせよ」
(2019年11月23日 朝日新聞社説)
「GSOMIA 韓国の破棄見直しは当然だ」
(2019年11月23日 読売新聞社説)
「日韓情報協定の維持 最悪の事態は回避された」
(2019年11月23日 毎日新聞社説)
「GSOMIA延長 日米韓の協力を立て直せ」
(2019年11月23日 産経新聞社説)
「協定維持を機に日米韓体制を立て直せ」
(2019年11月23日 日本経済新聞社説)
さすがに韓国も、アメリカから見放されるのは怖かったと見える。日本に対して一方的に通告してきたGSOMIA破棄を、失効寸前1日前という直前ギリギリの場面で翻した。この騒動で日韓関係は戦後最悪のレベルに達し、両国は極度の緊張状態に置かれた。
今回の騒動を表層だけ見ると、韓国の常套手段「論点のすり替え」を積み重ねた挙句、韓国が自縄自縛に陥ったように見える。もとはといえば根本の問題は元徴用工問題だ。韓国が1965年の日韓請求権協定を無視し、国民感情を焚き付けて国内経済の停滞から目を逸らそうとしたことが、ことの発端だった。
それ以降、韓国は反日世論を煽るだけ煽り、「日本が悪い」の理屈を積み重ねるべく、論点をずらし続ける。自衛隊機へレーダーを照射し、自衛隊は韓国軍に強い不信感を抱くようになる。韓国はフッ素化合物や軍事転用可能な物資を不透明に流出させており、北朝鮮への横流しを警戒した日本は輸出規制をかけた。ところが韓国は詳細を説明するどころか、逆ギレを起こして「日本が輸出規制をかけるのであれば、GSOMIAを破棄する」と一方的に通告してきた。国内では反日感情を煽り、日本製品の不買運動を政府が主導して行なった。
どの段階でも、本質的な問題から論点をそらし続け、状況が悪化し続けていた。その根本原理はただひとつ、韓国政府が「メンツ」を守ることだけだ。日本の輸出規制は経済的な問題であり、GSOMIAの破棄は安全保障に関する問題だ。本来は別個に扱うべき全然関係ない問題をぐちゃぐちゃに混ぜ、どさくさに紛れて全部一括で解決しよう、という雑な思考回路が読み取れる。日本政府が終始一貫して「輸出規制とGSOMIAは別問題」と言い続けてきたのは、そういう韓国政府の目論みを遮断するためだ。
韓国としては、「さすがに安全保障に関するGSOMIAの破棄をチラつかせれば、日本はビビって言うことを聞いてくるだろう」という意図に見えた。表層だけ見る限り、韓国の最大のミスはこの錯誤だった、ということになるだろう。実際のところ、情報収集能力は韓国よりも日本のほうが高く、軍事衛星の数も群を抜いて多い。今回の騒動の最中にも、韓国軍は北朝鮮のミサイル発射の情報を、よりによってGSOMIAの締結内容を根拠として日本に情報提供を求めている。日本は別にGSOMIAが必要なわけではなく、GSOMIAの最大の受益者はアメリカだ。この状況を見誤ったのが韓国の最大の失敗、という見方が多い。
韓国は、ひとつの問題から目を背けるべく、次の新たな問題を火種として火を点けて回り、最後には大炎上して自爆した・・・と、まぁ、表層から見ればこういう騒動に見える。ところが実際のところは、逆だったのではないかと思う。韓国は最初からGSOMIAの破棄を目指しており、全ての騒動はそこから逆算した「筋道」だったのではないか。
文在寅はもともと、大統領選挙の際にGSOMIAの撤廃を公約に掲げている。GSOMIAは朴槿恵政権のときに締結された軍事協定で、日米韓の秘密軍事情報の保護に関するものだ。だから親族が北朝鮮出身で、北朝鮮を愛する文在寅にとっては、是が非でも撤廃させなければならないものだった。
ところが、正面から「GSOMIAを撤廃する」と発表してしまうと、日米の猛烈な反発を喰らう。国民だって不安がる。そこで文在寅は「日本のせいでGSOMIAを撤廃せざるを得ない」というシナリオを考えた。日本を悪者にすれば、世論は簡単に煽動できるし、アメリカに対しても面目が立つ。そのため文在寅は、多少無理をしてでも結末をGSOMIA破棄に持っていくように話を混乱させなければならなかった。その無茶が災いしたのだろう。
だから韓国は、「経済問題に、安全保障問題という関係ない問題を絡めて、自縄自縛になった」のではない。「もともと安全保障問題に話を持ち込みたくて、その口実として使えそうだったのが経済問題しか無かった」のではないか。はじめから強引にその話に持ち込みたかったのだから、論理が通っていなくて当たり前だ。
つまり韓国は、ふたつのシナリオを描いていたのだろう。
(1)「日本の輸出規制を撤廃させる」← GSOMIA撤廃をチラつかせて、日本から譲歩を引き出す
(2)「GSOMIAを撤廃する」← 日本の輸出規制を大義名分に、日本のせいにして誰も敵を作らずにGSOMIAを破棄する
韓国にとっては、というより文在寅にとっては、どっちでもよかったのだと思う。最低でもどっちかは取れる、王手飛車取りのような感じだったのではないか。騒動の最中の、文在寅の自信満々な態度からは、そういう目論みが読み取れる。
そして日本は、韓国の「表のシナリオ」と「裏のシナリオ」の、両方を見抜いていたようだ。だから日本は終始一貫して「無視」を決め込んだ。韓国としては、日本にあわてふためいて狼狽してもらわなければ困るところだったが、日本は基本方針を一切ぶれさせず、正論を押し切った。その一方で、GSOMIA破棄を憂慮したアメリカが猛烈に韓国にプレッシャーをかけてきた。
今回の騒動のポイントは、「アメリカはなぜ韓国にだけ圧力をかけ、日本側には何も要求してこなかったのか」ということにある。韓国の言い分としては「日本が輸出規制を緩めれば、GSOMIAは継続する」という理屈なので、アメリカとしては日本に対して「韓国への輸出規制を緩めろ」と圧力をかけることだって可能だった。そしてそれが韓国の狙いだっただろう。ところがアメリカ政府は日本には何も言って来ず、韓国だけに圧力をかけた。それはなぜだったのか。
端的に言うと、「安倍首相と、文在寅大統領の、外交手腕の圧倒的な差」だろう。簡単に言うと、トランプ大統領との個人的な信頼関係の構築度合いの差だ。安倍首相はトランプ大統領の就任以来、日米関係が緊張しないように細部にわたって対策を敷き続けた。
一方、韓国のアメリカに対する姿勢は最悪だった。のっけから「GSOMIA破棄は、アメリカも了解している」と大嘘をついてしまった。この公式発表に仰天したアメリカは瞬時にそれを否定して、激しく非難している。GSIMOA失効直前の数週間でアメリカ政府が怒濤のごとく政府高官を韓国に派遣し、方針の翻意を迫った事実だけを見ても「アメリカも了解している」という韓国の発表が嘘以外の何者でもないことは明白だろう。アメリカ政府はもはや韓国を全く信頼しておらず、「日韓関係は知らん。そっちが勝手に解決しろ。これは韓米関係の問題だ」と構図を局所化して迫った。
アメリカのこの出方によって、韓国の目論みとしての両方のシナリオが消えた。「アメリカが仲裁して日本から譲歩を引き出す」も「日本を悪者にしてGSOMIAを破棄する」も、両方とも行き詰まってしまった。韓国の敗因はただひとつ、アメリカの操縦に失敗したことだろう。今回の騒動を通して、韓国の対日方針は「日本に何かを直接言う」だけで、絡め手が絶望的に下手だ。一方の日本は、中国という背後を固め、アメリカを味方に引き入れ、気付いた時には韓国が孤立しているように、長い時間をかけて外堀を埋めた。
韓国はGSOMIA継続を発表してもなお、「いつでも破棄できるとの認識でいる」などと強がっている。これは、最低でも、裏のシナリオ「誰からも非難されずにGSOMIAを破棄する」の方針だけでも残したい、という最後のあがきだろう。実際のところ、いまの状況で韓国がGSOMIAの破棄を一方的に通告してきたら、アメリカが激怒する。もし文在寅が本当にGSOMIAの破棄を一方的に通告してきたら、その時は韓国が西側の同盟から外れ、中国・北朝鮮・ロシアの側に回るときだろう。韓国国内で頻繁に発表されていた世論調査では、大多数の国民が「GSOMIA破棄に賛成」だった。ということは韓国国民も、西側同盟からの離脱し、中国の傘下に堕ちることを希望しているのだろう。
結局のところ、韓国は今もなお「中国の植民地」ということなのだと思う。数千年をかけて熟成された被支配民としてのメンタリティーは、いまもなお韓国国民の中に脈々と生きている。「過去の過ちを謝罪せよ」などと日本には頻繁に言ってくるが、何世紀にもわたって蹂躙されてきた中国にはそんなことは一言も言わない。なぜなら韓国にとって中国は今もなお「宗主国様」だからだ。北朝鮮を愛して止まない大統領と、ふたたび中国の植民地に戻ることを希望している韓国国民は、相性がとてもよく支持率も高いようだ。念願の朝鮮半島の統一も、そう遠いことではないかもしれない。文在寅は「北朝鮮主導での半島統一」を指向している。韓国国民には、ぜひとも刈り上げ黒電話の支配のもと、経済が破綻し貧困と飢餓に満ちた、北朝鮮式の生活を楽しんでいただきたい。
(2019年11月23日 朝日新聞社説)
「GSOMIA 韓国の破棄見直しは当然だ」
(2019年11月23日 読売新聞社説)
「日韓情報協定の維持 最悪の事態は回避された」
(2019年11月23日 毎日新聞社説)
「GSOMIA延長 日米韓の協力を立て直せ」
(2019年11月23日 産経新聞社説)
「協定維持を機に日米韓体制を立て直せ」
(2019年11月23日 日本経済新聞社説)
さすがに韓国も、アメリカから見放されるのは怖かったと見える。日本に対して一方的に通告してきたGSOMIA破棄を、失効寸前1日前という直前ギリギリの場面で翻した。この騒動で日韓関係は戦後最悪のレベルに達し、両国は極度の緊張状態に置かれた。
今回の騒動を表層だけ見ると、韓国の常套手段「論点のすり替え」を積み重ねた挙句、韓国が自縄自縛に陥ったように見える。もとはといえば根本の問題は元徴用工問題だ。韓国が1965年の日韓請求権協定を無視し、国民感情を焚き付けて国内経済の停滞から目を逸らそうとしたことが、ことの発端だった。
それ以降、韓国は反日世論を煽るだけ煽り、「日本が悪い」の理屈を積み重ねるべく、論点をずらし続ける。自衛隊機へレーダーを照射し、自衛隊は韓国軍に強い不信感を抱くようになる。韓国はフッ素化合物や軍事転用可能な物資を不透明に流出させており、北朝鮮への横流しを警戒した日本は輸出規制をかけた。ところが韓国は詳細を説明するどころか、逆ギレを起こして「日本が輸出規制をかけるのであれば、GSOMIAを破棄する」と一方的に通告してきた。国内では反日感情を煽り、日本製品の不買運動を政府が主導して行なった。
どの段階でも、本質的な問題から論点をそらし続け、状況が悪化し続けていた。その根本原理はただひとつ、韓国政府が「メンツ」を守ることだけだ。日本の輸出規制は経済的な問題であり、GSOMIAの破棄は安全保障に関する問題だ。本来は別個に扱うべき全然関係ない問題をぐちゃぐちゃに混ぜ、どさくさに紛れて全部一括で解決しよう、という雑な思考回路が読み取れる。日本政府が終始一貫して「輸出規制とGSOMIAは別問題」と言い続けてきたのは、そういう韓国政府の目論みを遮断するためだ。
韓国としては、「さすがに安全保障に関するGSOMIAの破棄をチラつかせれば、日本はビビって言うことを聞いてくるだろう」という意図に見えた。表層だけ見る限り、韓国の最大のミスはこの錯誤だった、ということになるだろう。実際のところ、情報収集能力は韓国よりも日本のほうが高く、軍事衛星の数も群を抜いて多い。今回の騒動の最中にも、韓国軍は北朝鮮のミサイル発射の情報を、よりによってGSOMIAの締結内容を根拠として日本に情報提供を求めている。日本は別にGSOMIAが必要なわけではなく、GSOMIAの最大の受益者はアメリカだ。この状況を見誤ったのが韓国の最大の失敗、という見方が多い。
韓国は、ひとつの問題から目を背けるべく、次の新たな問題を火種として火を点けて回り、最後には大炎上して自爆した・・・と、まぁ、表層から見ればこういう騒動に見える。ところが実際のところは、逆だったのではないかと思う。韓国は最初からGSOMIAの破棄を目指しており、全ての騒動はそこから逆算した「筋道」だったのではないか。
文在寅はもともと、大統領選挙の際にGSOMIAの撤廃を公約に掲げている。GSOMIAは朴槿恵政権のときに締結された軍事協定で、日米韓の秘密軍事情報の保護に関するものだ。だから親族が北朝鮮出身で、北朝鮮を愛する文在寅にとっては、是が非でも撤廃させなければならないものだった。
ところが、正面から「GSOMIAを撤廃する」と発表してしまうと、日米の猛烈な反発を喰らう。国民だって不安がる。そこで文在寅は「日本のせいでGSOMIAを撤廃せざるを得ない」というシナリオを考えた。日本を悪者にすれば、世論は簡単に煽動できるし、アメリカに対しても面目が立つ。そのため文在寅は、多少無理をしてでも結末をGSOMIA破棄に持っていくように話を混乱させなければならなかった。その無茶が災いしたのだろう。
だから韓国は、「経済問題に、安全保障問題という関係ない問題を絡めて、自縄自縛になった」のではない。「もともと安全保障問題に話を持ち込みたくて、その口実として使えそうだったのが経済問題しか無かった」のではないか。はじめから強引にその話に持ち込みたかったのだから、論理が通っていなくて当たり前だ。
つまり韓国は、ふたつのシナリオを描いていたのだろう。
(1)「日本の輸出規制を撤廃させる」← GSOMIA撤廃をチラつかせて、日本から譲歩を引き出す
(2)「GSOMIAを撤廃する」← 日本の輸出規制を大義名分に、日本のせいにして誰も敵を作らずにGSOMIAを破棄する
韓国にとっては、というより文在寅にとっては、どっちでもよかったのだと思う。最低でもどっちかは取れる、王手飛車取りのような感じだったのではないか。騒動の最中の、文在寅の自信満々な態度からは、そういう目論みが読み取れる。
そして日本は、韓国の「表のシナリオ」と「裏のシナリオ」の、両方を見抜いていたようだ。だから日本は終始一貫して「無視」を決め込んだ。韓国としては、日本にあわてふためいて狼狽してもらわなければ困るところだったが、日本は基本方針を一切ぶれさせず、正論を押し切った。その一方で、GSOMIA破棄を憂慮したアメリカが猛烈に韓国にプレッシャーをかけてきた。
今回の騒動のポイントは、「アメリカはなぜ韓国にだけ圧力をかけ、日本側には何も要求してこなかったのか」ということにある。韓国の言い分としては「日本が輸出規制を緩めれば、GSOMIAは継続する」という理屈なので、アメリカとしては日本に対して「韓国への輸出規制を緩めろ」と圧力をかけることだって可能だった。そしてそれが韓国の狙いだっただろう。ところがアメリカ政府は日本には何も言って来ず、韓国だけに圧力をかけた。それはなぜだったのか。
端的に言うと、「安倍首相と、文在寅大統領の、外交手腕の圧倒的な差」だろう。簡単に言うと、トランプ大統領との個人的な信頼関係の構築度合いの差だ。安倍首相はトランプ大統領の就任以来、日米関係が緊張しないように細部にわたって対策を敷き続けた。
あまり報道されていないが、個人的には、安倍首相がアメリカと良好な関係を保つために採った策は「中国」だと思う。いま日本は中国と珍しいほど良好な関係にあり、年度末には習近平の国賓としての来日が予定されている。一方、アメリカと中国の関係は最悪だ。経済、軍事、政治、外交、すべての面で最悪の状況にある。だからアメリカにとって、対中国という観点から日本は絶対に味方にしておかねばならない「手駒」であり、自陣側に引き入れるためには良好な関係を保つ必要がある。
正直なところ、いまのアメリカは「韓国ごときに関わっている暇はない」のだろう。対中国が重要な局面を迎えていて、外交の全神経を中国対策に集中しなければならない。今回の騒動でアメリカが韓国にとった行動は「高官を派遣して圧力をかけ説得する」という、なんのひねりもないストレートなものだ。策を弄するだけの余裕がアメリカにはないのだろう。力で押し切る棍棒外交だ。それは逆の韓国側から見れば、対話の余地のない、とりつく島もない一方的な圧力だ。日本は「アメリカにこういう態度をとらせることに成功した」といえる。
報道だけを見ていると、現在の日本政府の、対中国の基本方針は「アメリカとの距離感をうまく作り出すために中国を踊らせる」というものに見える。安倍首相は、こういう外堀の埋め方で、あの扱いにくい元不動産屋を手なずけているのだろう。正攻法以外にも、トランプが来日した際には一緒にゴルフをし、鉄板焼に連れて行き、良好な関係を保つ努力を怠らなかった。こうした硬軟取り混ぜての外堀の埋め方が、今回の韓国との関係においてアメリカを味方に引き入れる布石になっていたと思う。
一方、韓国のアメリカに対する姿勢は最悪だった。のっけから「GSOMIA破棄は、アメリカも了解している」と大嘘をついてしまった。この公式発表に仰天したアメリカは瞬時にそれを否定して、激しく非難している。GSIMOA失効直前の数週間でアメリカ政府が怒濤のごとく政府高官を韓国に派遣し、方針の翻意を迫った事実だけを見ても「アメリカも了解している」という韓国の発表が嘘以外の何者でもないことは明白だろう。アメリカ政府はもはや韓国を全く信頼しておらず、「日韓関係は知らん。そっちが勝手に解決しろ。これは韓米関係の問題だ」と構図を局所化して迫った。
アメリカのこの出方によって、韓国の目論みとしての両方のシナリオが消えた。「アメリカが仲裁して日本から譲歩を引き出す」も「日本を悪者にしてGSOMIAを破棄する」も、両方とも行き詰まってしまった。韓国の敗因はただひとつ、アメリカの操縦に失敗したことだろう。今回の騒動を通して、韓国の対日方針は「日本に何かを直接言う」だけで、絡め手が絶望的に下手だ。一方の日本は、中国という背後を固め、アメリカを味方に引き入れ、気付いた時には韓国が孤立しているように、長い時間をかけて外堀を埋めた。
結果として韓国はふたつの目論みの両方に失敗している。これを外交戦争と見なすなら、日本の圧勝だろう。結果云々ではなく、過程を見るだけでも相当な差がついた。8月のGSOMIA破棄通告から11月までの4ヶ月間、韓国政府にかかったストレスは甚大なものだろう。対して日本は事態を静観し、黙って見ていただけだ。どちらの政府がより疲弊したのかは明らかだろう。
韓国政府としては「危機を乗り切った」「両国が融和ムードのなれば」「これを機に日本の経済措置の緩和を」などと楽観ムードのようだが、今回の一件は韓国が勝手にGSOMIA破棄というカードを切って、勝手に危機に陥り、勝手に前言撤回しただけだ。7月から何も事態は変わっていない。元徴用工の問題と、韓国が軍事転用可能物品を横流ししている疑惑の問題については、日本は依然として韓国の対応を迫る状態に戻っただけだ。韓国は自分で火を点けて自分で消し、融和ムードに浸っている場合ではなかろう。本当の勝負はこれからだ。
韓国はGSOMIA継続を発表してもなお、「いつでも破棄できるとの認識でいる」などと強がっている。これは、最低でも、裏のシナリオ「誰からも非難されずにGSOMIAを破棄する」の方針だけでも残したい、という最後のあがきだろう。実際のところ、いまの状況で韓国がGSOMIAの破棄を一方的に通告してきたら、アメリカが激怒する。もし文在寅が本当にGSOMIAの破棄を一方的に通告してきたら、その時は韓国が西側の同盟から外れ、中国・北朝鮮・ロシアの側に回るときだろう。韓国国内で頻繁に発表されていた世論調査では、大多数の国民が「GSOMIA破棄に賛成」だった。ということは韓国国民も、西側同盟からの離脱し、中国の傘下に堕ちることを希望しているのだろう。
結局のところ、韓国は今もなお「中国の植民地」ということなのだと思う。数千年をかけて熟成された被支配民としてのメンタリティーは、いまもなお韓国国民の中に脈々と生きている。「過去の過ちを謝罪せよ」などと日本には頻繁に言ってくるが、何世紀にもわたって蹂躙されてきた中国にはそんなことは一言も言わない。なぜなら韓国にとって中国は今もなお「宗主国様」だからだ。北朝鮮を愛して止まない大統領と、ふたたび中国の植民地に戻ることを希望している韓国国民は、相性がとてもよく支持率も高いようだ。念願の朝鮮半島の統一も、そう遠いことではないかもしれない。文在寅は「北朝鮮主導での半島統一」を指向している。韓国国民には、ぜひとも刈り上げ黒電話の支配のもと、経済が破綻し貧困と飢餓に満ちた、北朝鮮式の生活を楽しんでいただきたい。
さてどうやって面子を保つのかな。
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ペンギン命
takutsubu
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