たくろふのつぶやき

お鍋には熱燗をつけてくれたまへ。

毎日、日記をつけている。


いままで、習慣として日記を書いていた時期はいくつかある。
子供の頃に書いていた日記は論外だ。あれは、学校によって宿題として課されていたものであり、書いていてちっとも楽しいものではなかった。確か「生活記録帳」とかいう名前で、提出が義務づけられていた。当然、先生が読むことを前提としている。だからいきおい、「先生に読ませるための日記」となる。僕はそういう理不尽に敏感なガキだったから、わざと事実無根の架空日記をつけて、先生を困らせていた記憶がある。

大学院のころに、このたくつぶを書き始めた。僕がいたアメリカの大学街は、まぁ、大学以外に何もない、陸の孤島みたいな所だった。当然、夜や週末にヒマを持て余す。そこでアメリカでの生活を日記のように書き綴るようになった。
思えば、たくぶつも途中から「人に読ませるための日記」になった感がある。当時、地球の反対側で遠距離恋愛をしていた今の嫁に、毎日の生活を知らせるための日記になった気がする。今でも、当時の日記記事を読み返すと、読まなければならない論文を放ったらかして、いそいそとBlogの更新をしていた頃のことを思い出す。

今でも、僕はたくつぶの他に日記をつけている。Blogではなく、紙の日記を書いている。たくつぶと違うことは、絵日記であること。僕は文房具好きなので、定評のある文房具をつい買ってしまう癖がある。世に好評の「ほぼ日手帳」(ほぼ日刊イトイ新聞刊)というものを買ってみたのだが、使い道がない。そこで落書きのように絵日記をつけはじめた。これがまた嫁に好評で、いつのまにか嫁に見せる絵日記になってしまった。僕の日記の宿命として、どうも「誰かに見せるもの」になってしまうらしい。


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日記帳として大変つかいやすい。 


嫁は僕の絵日記に、勝手に『トド記』と名付けて、年ごとに保存している。前のことを思い出そうとして絵日記を読み返すと、その日に何をやっていたのかを思い出してなかなかおもしろい。
しかし、その「おもしろさ」は、ちょっと普通の意味とは違う気がする。

絵日記に書いてないことを思い出そうとしても、なかなか思い出せない。昔のことを思い出そうとすると、自分の記憶にあることと、絵日記に描いてあることが、違うことがある。僕の記憶は、僕目線での、いわば「一人称」の記憶であるのに対し、絵日記に描いたのは、他者の目線で自分を描く「三人称」の記憶だ。その目線の違いがひきおこす記憶との齟齬が、なかなか面白い。これは、日記を描いている本人しか分からない面白さだろう。紙に記録として残したことは、あくまでも保存された情報であり、本当にあったこととは違うのが普通なのだろう。



話は突然変わるのだが、中島敦に『文字禍』、芥川龍之介に『西郷隆盛』という小説がある。


中島敦のほうは有名だろう。代表作のひとつに数えられることもある。
舞台は古代アッシリア。この設定だけでも尋常ではない。普通の日本人になじみのある生活感の設定ではない。主人公は、宮廷に仕える博学者のナブ・アヘ・エリバ。彼は粘土版に彫られた文字を研究しているうちに、文字が意味のない記号の連鎖に見えるような、奇妙な気分を体験する。もしかすると、これは「文字の霊」の仕業ではないか。

人に話を聞いてみると、文字を覚えた途端に人が能力を落とす事例が報告される。文字を覚えてから急に蝨を捕とるのが下手になった者、眼に埃ほこりが余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者。文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった。

中島敦の筆致は格調高く、特定の事件が起こる訳でもない抽象的な「感覚」を描いていながら、まったく澱みがない。おそらく中島敦は、文筆で生計を立てる身でありながら、文字に対して、かたちのない「畏敬の念」を持っていたのではないか。誰でもうっすら感じることなのだろうが、それをひとつの物語に結実させる創作能力は、感嘆に値する。同じ文字を繰り返し読み書きしているうちに、意味のない線のかたまりに見えてしまう現象は、現在の認知科学では「ゲシュタルト崩壊」としてよく知られている。しかし、そういう用語もなかったであろう時代に、そういう現象を拾い上げる感性は、並大抵のものではあるまい。

『文字禍』では、文字がもたらす惨禍の例として、「歴史」をとりあげている。
エリバ博士のもとに、歴史を学ぶことに疑問をもった若い歴史学者が尋ねてくる。

若い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄ことがらをいうのであろうか?それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?
 獅子狩りと、獅子狩の浮彫とを混同しているような所がこの問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌しるされたものである。この二つは同じことではないか。
 書洩らしは? と歴史家が聞く。
 書洩らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。


エリバ博士の言は、乱暴のように聞こえるが、実際の歴史学はまさしくこの考え方を前提にしている。実証的な歴史学が根拠とするのは「過去の文字記録」だけである。今現在、世界史や日本史の教科書に「事実」として書いてある多くの事例は、すべて過去の記録に出典がある。文字記録に残されていないことを推測して書くのは、作り話であり、歴史的事実としては認められない。 中島敦は、文字がもたらす「実体験から遊離した仮想現実」の危うさを、エリバ博士の言を借りて言及している。

物語の最後で、エリバ博士は、「文字の霊」の呪いを受けて死んでしまう。具体的には、大地震の際に書架が倒れ、おびただしい数の粘土版の下敷きになって死ぬ。
この物語が、古代アッシリアなどという素っ頓狂な舞台設定になっているのは、この結末のための伏線だろう。中島敦は、「文字の呪いを受けて死ぬ」という出来事を、具体的な事例に落とし込もうとして、「粘土版の下敷きになる」というアイデアを思いつき、そこから逆算してアッシリアを舞台に設定したのではなかったか。


一方、芥川の『西郷隆盛』のほうは、お世辞にも小説として完成度が高いとは言えない。
テーマは同じく、「文字に書かれたことだけが歴史なのか」という問題だ。

物語は、筆者が「大学の友人の本間さん」という人に聞いた話、という体裁になっている。本間さんは、筆者と同じ大学で、歴史学を専攻している。そして「本当か嘘かは、聞いた人が判断してくれればいいよ」と言って、誰にでもこの話をしてくれる。筆者のまわりでは、この話は「本間さんの西郷隆盛」として有名なのだそうだ。

曰く、本間さんが京都旅行の際に夜行列車に乗ったときのこと。本間さんは窮屈な客車に音を上げて、食堂車に逃げ込んだ。そこで白ワインをちびちび飲んでいると、別のテーブルで、とある老紳士が杯を傾けている。本間さんはどこかでその老紳士を見たことがあるような気がした。するとその老紳士は、本間さんのテーブルに歩み寄り、話しかけてくる。暇を紛らわす話し相手くらいにはいいだろうと、本間さんはその老紳士と話しはじめる。

本間さんが、自分の専門は歴史学だ、という話をすると、老紳士は身を乗り出して語り出す。
君は歴史を学ぶときに書物を読むでしょう。しかし、そこに書かれていることが本当だと断ずることができますか?文字に書かれた記録なんて嘘だらけだ。実際、私はそういう歴史の誤謬を数多く知っている。

本間さんは、自分の歴史研究にケチをつけられたような気分になり、むきになって反論する。すると老紳士は笑いながら、驚くような話をする。
たとえば西郷隆盛。誰もが、彼は西南戦争で死んだと思っているでしょう。でも、もし彼が生きていたらどうします?

本間さんは唖然として、そんなことはあり得ない、と断言する。西郷が死んだことは記録にあるし、多くの人が彼の死体を目にしている。
すると老人は悠然と続けて、「僕はあらゆる弁護を超越した、確かな実証を持っている。君はそれを何だと思いますか。それは西郷隆盛が僕と一緒に、今この汽車に乗っていると云う事です。」

それから本間さんは老紳士に連れられて、一等客車に赴く。
そこで本間さんが目にしたのは、客車のカーテンに寄りかかり、居眠りをしている白頭の肥大漢。まさしく西郷隆盛その人だった・・・。

「君は今現に、南洲先生を眼のあたりに見ながら、しかも猶なお史料を信じたがっている。しかし、一体君の信じたがっている史料とは何か、それからまず考えて見給え。城山戦死説はしばらく問題外にしても、およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。誰でもある事実の記録をするには自然と自分でディテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。そうでしょう。だから一見当あてになりそうで、実ははなはだ当にならない。」


度肝を抜かれている本間さんを見て、老紳士は笑い、種明かしをしてくれる。
「あれは僕の友人ですよ。本職は医者で、かたわら南画を描く男ですが。」

西郷隆盛本人ではないのですね、と念を押す本間さんに、老紳士は「もし気に障さわったら、勘忍し給え。僕は君と話している中に、あんまり君が青年らしい正直な考を持っていたから、ちょいと悪戯をする気になったのです。しかしした事は悪戯でも、云った事は冗談ではない。僕はこう云う人間です。」と名刺を渡してくれる。肩書きも何も書いていない名刺を見て、本間さんは老紳士をどこで見たことがあるのかを思い出す。
「先生とは実際夢にも思いませんでした。私こそいろいろ失礼な事を申し上げて、恐縮です。」


なんじゃこりゃ、という感じの小説だ。
モチーフとなっているのは、文字がもたらす歴史の誤認。人間が実際に経験したことと、文字情報によって得た歴史認識は、まったく別物である。このモチーフ自体は優れた視点だ。芥川くらいの博学才穎であれば、この手の問題意識は持っていて不思議ではない。

しかし、それを小説として昇華させる腕前に、疑問を感じる。起こったことはなんということはない、「西郷隆盛のそっくりさんを見てびっくりした」というだけの話だ。物語として、それほど面白いものではない。老紳士の正体も、結局は最後まで明らかにされない。全体として、曖昧模糊とした印象のまま話が終わる。芥川の多くの作品に感じるような、すぱっと世の中を斬ったような読後感がない。

しかも芥川は、わざわざこの物語を、入れ子の構造にしている。筆者が「こういう経験をした」という一人称で話しているのではなく、わざわざ本間さんという登場人物を間に入れ、「彼からこういう話を聞いた」という体裁にしている。

この入れ子の構造は、19世紀に小説というものが書かれ始めたときに定番だった手法だ。嚆矢はメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』とされている。この伝奇小説は、はじめから最後まで、「北氷洋で遭難していたところを助けられた学者が、死ぬ寸前に、どうしてそうなったのかの経緯を語った話」という体裁をとっている。 この手法には時代背景があり、当時は小説という「つくり話」を読み手が許容する土壌が育っていなかった。科学技術によって作られた人造人間、などという話を書いてしまうと、それを読んだ一般市民は「本当にそういうことがあったのか」と信じ込んでしまう危険がある。教育レベルがそれほど高くなく、無知蒙昧な伝説が闊歩する時代では、独創的なストーリーテラーは、不要な混乱を社会にもたらす危険があっただろう。それを避けるために、「・・・という話を誰々さんから聞いたの」という伝聞の体裁をとる。

しかし、芥川の『西郷隆盛』は、わざわざ入れ子の構造にする必然性が見えない。なにせ、語った事件自体が真に迫ったものではない。作中に登場する本間さんは「本当か嘘かは、聞いた人が判断してくれればいいよ」などともったいぶっているが、そもそも真偽を云々するほど、中身は大した話ではない。

芥川の小説は、時期によって書き方がかなり異なり、しかも劣化に向かっていったのは周知の事実だ。傑作は初期の作品に多い。しかしこの『西郷隆盛』が書かれたのは、初期の1917年。『鼻』『芋粥』が1916年、『蜘蛛の糸』『地獄変』『奉教人の死』が1918年だから、最も創作意欲が旺盛だった時期の作品といってよい。そんな時期の作品に、こんな駄作が紛れていること自体、ひとつの疑問になり得る。

おそらく、中島敦と芥川龍之介では、モチーフを形にするためのアプローチの仕方が、逆だったのではあるまいか。
中島敦の『文字禍』では、「文字とは何か」から話を始めている。文字が意味のない羅列に見える。文字(=間接体験)を覚えると、能力(=直接体験)が疎かになる。そういう話の筋で、文字がもたらす惨禍の最たるものとして、「歴史」を取り上げている。

ところが芥川の『西郷隆盛』では、最初のとっかかりが「歴史とは何か」だったのではないか。歴史とは事実として過去にあった全てのことなのか、現在の我々が資料から知り得るだけのものなのか。
そこでは、「文字」は、資料を残すための媒体としての位置しか占めていない。物語のなかで老紳士が疑義を呈しているのは「資料の信憑性」であって、「文字がもたらす情報形態」ではない。このふたつは、似ているようで異なる。資料の信憑性を論じるときには、調査方法、資料保存、執筆者の事情など、歴史に関わる「研究作業」が焦点になる。文字そのものの機能や存在意義に関してまで否定しているわけではない。

つまり中島敦と芥川では、どっちの端をスタートにして、どっちの端をゴールにするのか、線の引き方が逆なのだ。文字から始めて歴史を論じるのと、歴史から始めて文字資料を論じるのでは、話の奥行きが異なる。ともに歴史を捉える視点をもっていることは共通しているが、彫り方によって完成品の出来が大きく違ってしまった、ということだろう。


そこまでの話を是としても、まだ芥川には疑問がある。
芥川はモチーフの芽を嗅ぎ出して、それを作品に昇華する技としては、天才的な技能をもっていた。少なくとも初期の作品では、ただのお話に過ぎない昔の説話を、鮮やかな小説に作り変えている。
その芥川が、「歴史とは何か」という大きなテーマを扱う際に、料理の仕方を誤るようなヘマをするだろうか。

僕が芥川の全作品を読んだ印象としては、時期によって出来・不出来の差があるのは確かとしても、全作品に共通する特徴がある。それは「人とは何か」「人は社会にどう関わればいいのか」という、人の内面や生き方を描いている点だ。問題作品として議論されることが多い『河童』などは、ほとんど告白小説に近い。

おそらく芥川は、自分の内面を堅固につくりあげることに苦心し続けた作家ではなかったか。そして、それに失敗して自ら命を断った。不安定な自己の内面に直面する努力を続け、それを描くことに創作能力の全てを注ぎ込んだ。

そういう「内面への視点」は、歴史学などという客観的記述を是とする思考作業とは、まったく思考回路が異なる。世の中を大きな流れとして捉え、自分をその流れをつくる要素のひとつとして適切に配置する。世の中における、そういう客観的な自己の置き方は、芥川のような孤高の巨星には、難しかったのだろう。

一方の中島敦は、幼少の頃から喘息を煩い、自分の命が長くないことを早くから悟っていた。「将来に対する漠然とした不安」を感じていた芥川とは異なり、自分の命と使命を早くから悟り、醒めた眼で己と世界を視ていた。そういう達観が、文字と歴史という大きなテーマを追求し切る客観性につながったのではないか。

中島敦は作品の絶対数が少ないが、芥川と同じように、人の内面を鋭く抉る傑作も書いている。『山月記』『李陵』などはそちら側の作品だろう。古典に題材を得ているところも芥川に通じるものがある。技法としては共通、技量としては互角、しかし、作家として書き切ることができる世界の幅が違かったのだろう。

いわば芥川は「ひとつのアプローチ法を突き詰めた一点突破の作家」であり、中島敦は「知的作業そのものに意義を見いだし、幅広い対象に興味を感じる作家」だったのではないかと思う。能力の差というよりは、タイプが違う作家だったのだろう。芥川は幅広い知識を誇り、食事の時でも本を読んでいるような勉強家だった。しかし、得た知識を作品に活かす段になると、その生き方と考え方が、己の作品の幅を狭めてしまった感が否めない。
芥川は終世、長編小説を書き上げることができなかった。その理由についてはいろんな人がいろんなことを言っているが、最も根源的な理由は、ひとの生き方を貫く大きな幹になるものが、自分自身の中に備わっていなかったからではないか。


記録されたことだけが事実なのか。文字がもつ力を人は使いこなせるのか。哲学的には面白いテーマだが、文人が小説にするには抽象的過ぎるテーマだろう。私小説が全盛だった時代に、このようなテーマに取り組むこと自体、ふたりの能力の特異性を示してあまりある。しかし、「記録された文書」と「現実世界」の遊離を描く際には、その一端である「現実世界」をどう生きたか、という作者の人生背景が色濃く影響を及ぼしているような気がしてならない。



なぜ僕の日記が嫁の本棚に並んでいるのだ。

1965年の3月14日にニューファンドランドの海岸で、アメリカ海軍とカナダ当局との間で交わされた実際の無線の記録である。

カナダ  「衝突の危険あり、貴艦の針路を15度南に変更されたし」

アメリカ 「衝突の恐れあり、そちらの針路を15度北に変更されよ」

カナダ  「出来ない。衝突の恐れあり、そちらの針路を15度南へ変更せよ」

アメリカ 「こちらアメリカ海軍の軍艦の艦長である。もう一度繰り返りかえす。 そちらの針路を変更せよ」

カナダ  「NO、それは不可能だ。もう一度繰り返す、貴艦の針路を変更せよ」

アメリカ 「こちらはアメリカ海軍太平洋艦隊最大級の航空母艦エンタープライズである。 我々は駆逐艦八隻、巡洋艦四隻と多数の艦船を従えている。我々はそちらの針路を15度北に変更するよう要求する。もう一度繰り返す。そちらが15度北に変進せよ。 我々の要求が容れられなければ、艦の安全のために対抗措置をとる用意がある」

カナダ  「エンタープライズ、こちら灯台である、どうぞ」


が、ジョークであって史実ではない、ということをアメリカ海軍の公式ホームページが掲載しているのですが。



問い合わせが多いのだろうか。

革命に興味があって、世界史上の革命をいろいろと調べている。


革命というのは、既存の体制に不満をもった民衆が支配層を倒す、一種の下克上だ。ところが面白いことに、革命に成功して「自分たちの新政府」をたてたはずなのに、どう見ても以前よりも民衆が不幸になっているケースが多い。
一応、新政府を樹立できれば革命は「成功」ということになるのだろうが、現代的な観点からみて革命がマイナスに働いている事例が非常に多い。何が理由でそうなっているのだろうか。

思うに、その根本的な要因は「革命を成功させるための力と、新政府を運営する力は、別物である」ということを理解していない人が多かったからではないか。
革命の第一段階は旧体制の破壊だから、そこには暴力的なエネルギーが必要となる。軍事行動やゲリラ戦に長けている人間がリーダーになりやすい。ところが、革命に成功して新政府を樹立して以降は、そういう暴力エネルギーは不要どころか障害になる。新政府のリーダーに必要なのは、国内外の状況をうまく調整して冷静に事態を収束できる行政能力だ。

原始的な革命では、その暴力エネルギーの「熱冷まし」に苦慮し、自らの支持母体である一般市民を抑圧するような本末転倒な愚作を行なった。史上初めての市民革命であるイギリスの清教徒革命では、クロムウェルが独裁主義体制を布いたし、フランス革命ではロベスピエールが文句を言う反対勢力を皆殺しにした。いずれも、革命時に沸き起こした暴力エネルギーを持て余し、その矛先を間違えて発揮してしまった例だろう。

世界史上、「うまくいった革命」というイメージをもたれている革命は、すべてその暴力エネルギーを発散させるための場をもっていた。なければ強引にその場を作った。
清教徒革命の場合は、生贄としてアイルランドが標的にされ、いわれのない「征伐」を受けて虐殺や略奪を被った。フランス革命の場合は、革命が自国に飛び火することを怖れた各国が対仏大同盟を敷いたため、フランスは孤立無援に陥る。それを打ち破るために軍事力を発揮したナポレオンが権力を掌握したのは周知の事実だ。中国の辛亥革命の場合は、革命直後に世界大戦が起きた。また革命の主導的地位をめぐって国民党と共産党で内紛があったため、暴力エネルギーを冷ます暇がなかった。

中世における「王権から共和制への革命」と、現代のトレンドであった共産主義革命では、ともに「革命に必要な暴力的軍事能力」「革命後の社会をつくる行政能力」の両方を備え持つ指導者が少なかった、という共通点がある。現代の共産主義革命の場合は、それに加えて「諸各国に革命政府の承認を得る外交能力」も必要になる。大きく言って、「軍事力」と「行政力」のふたつを併せる指導者の不在は、その国がもともと持っていた教育力による所が多い。

中南米の多くの国は旧支配国からの独立を勝ち取るための革命を経験しているが、そのほとんどは強大な軍事力をもつ超大国に軍事的に対抗するためのゲリラ戦を基本戦略としていた。そういう革命のしかたで国を作ったら、そりゃ軍事政権しか樹立できなかろう。軍事によって作った国は、軍事によってしか維持できない。そういう国にそれぞれのガンディーがいなかったのは不幸だが、インドの場合は例外的な人材に恵まれた希有な例と言えるだろう。

ところが、世界史上の革命家のなかで、ひとりだけ例外がいる。
「軍事力と行政力の両方を兼ね備えていた革命家」ではない。そんな偉人は世界の歴史に存在しない。例外的なひとりとは、「軍事力を公使して革命を成功させたが、自分には行政力がないことを自覚しており、革命後の政権で権力をもつことを放棄した人」だ。




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ジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882)。


めったに偉人を尊敬しないイタリア人から、「建国の三傑」のひとりとして尊敬されている。 世界史の教科書にも太字で載っているが、「イタリア統一戦争」という、わりと隙間の知識であることもあり、あまり知られている革命家ではないだろう。一般的には「Bマイナー程度の重要度」とされている人物ではあるまいか。

しかし、その軍事指導力とカリスマ性はかなりのものだったらしく、当時、諸国分立状態だったイタリア南部を豪腕でまとめあげている。千人隊(赤シャツ隊)を組織してシチリアの反乱を援助し、イタリア南部の両シチリア王国を滅ぼした。反対勢力をも味方に引き込むほどのカリスマ性があり、「戦うたびに味方が増える」という状況だった。当時、イタリア統一の主導的立場にあったサルディーニャ王国も、イタリア南部の民衆から圧倒的な支持を集めているガルバルディの影響力を無視できなかった。

世界史では俗に「ドイツの軍隊に敗北なし、イタリアの軍隊に勝利なし」と揶揄されるほど、とにかくイタリアの軍隊は弱い。ガリバルディも、何度も革命運動を鎮圧され、そのたびに逃亡を余儀なくされている。これは当時のイタリアに眼を光らせていたのがオーストリアとフランスという二大強国だったため、仕方ない部分もあるだろう。

ガリバルディは、秘密結社カルボナリに加入して共和制を求める反乱を起こしたが、失敗して南米に逃亡する。そこでゲリラ戦の能力を磨き、革命に必要な民衆操作の方法論を身につけた。のちに南米の革命児チェ・ゲバラは、ガリバルディのゲリラ戦術を学んで影響を受けている。
ガリバルディは幼い頃から海上貿易に従事しており、基本的な教育を受ける時期はなかっただろう。それに加えて諸国放浪でゲリラ戦を繰り返していたため、行政能力はほぼゼロだったと思われる。

当時のイタリアは諸国分裂状態だったが、その中で最もイタリア統一に意欲的だったのは、サルディーニャ王国だった。国王のカルロ=アルベルトは自由主義的な国王で、在位中に憲法を制定している。わりと「庶民寄りの国王」と言ってよい。
その子であるヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は、宰相にカヴールを重用し、北部イタリアを外交政策によって統一することを目論んでいた。

だから、南部で武力蜂起をおこして両シチリア王国を征服したガリバルディの勢力は、サルディーニャ王国にとって脅威だったはずだ。下手をすれば、イタリアが南北に分裂する危機だった。
しかもガリバルディは、サルディーニャ王国宰相カヴールを、個人的に憎んでいた。カヴールは第二次イタリア独立戦争の際に、フランスの支援を取り付ける密約(プロンビエール密約)を結び、その見返りにサヴォイアとニースを割譲した。ニースはガリバルティの故郷だ。自分の故郷をフランスに売り渡したカヴールは、ガリバルディにとって嫌悪の対象だった。しかもフランスのナポレオン三世は密約を無視し、単独でオーストリアと和平協定を結んでしまう。サルディーニャ王国は、いわばサヴォイアとニースを「取られ損」したことになる。

こうした背景から、北部のサルディーニャ王国と、南部のガリバルディ軍は、いわば水と油の関係だったといえる。統一どころか、支配権力をめぐって武力衝突をしてもおかしくない状態だっただろう。
ところが、ガリバルディは、武力によって制圧した南部イタリアを、あっさりとサルディーニャ王国に「献上」してしまう。革命勢力を動員して打ち立てた新体制を、あっさりと他者に譲り渡す。世界史上の革命において、ほぼ唯一の例外といってもいい行為だ。

1860年、ガリバルディはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と会談する。握手を交わし、自分の軍勢に向かって「ここにイタリア国王がおられるのだ!」と叫んだ。また国王に服従の言葉を誓い、軍職を含む一切の役職や報償を辞した。
もしここでガリバルディが、自力でイタリアを統一することに固執し、サルディーニャ王国を滅ぼす方向に動いていたら、イタリア全土を巻き込む大内乱につながっていただろう。当然、イタリア統一は大きく遅れることになったはずだ。ガリバルディが、自力によるイタリア統一を放棄し、サルディーニャ王国にそれを委ねたのは、いかなる判断によるものなのか。

様々な要因があろうが、一番大きなものは、「自分はゲリラ屋であって、政治家ではない」という判断ではあるまいか。もしサルディーニャ王国と一戦交えて、よしんば滅ぼしたとしても、旧サルディーニャ王国の領域を含む広大なイタリア全土を統治する力は、自分にはない。軍事力を行使して戦争に勝つことはできても、その後の統治ができない。そういう客観的な自己評価が、権力放棄の基本原理ではなかったか。

ガリバルディは、敗走を重ねゲリラに身を投じた経験から、客観的に現状を把握する能力に優れていた。両シチリア王国を滅ぼしたときに、王国を支配していたのはブルボン家だったが、ガリバルディは国王フランチェスコ2世を処刑せず、身柄を保証している。イタリア南部は伝統的に王政が敷かれていた時期が長く、ガリバルディの軍に合流した義勇軍も多くは元王党派だった。そういう民衆感情を汲み取った処置だ。

ガリバルディにとって、故郷を売り渡したカヴールは確かに憎かったが、半面、そういう冷静な措置がとれるカヴールの外交能力を認めてもいたのではないか。当時、イタリアはフランスとオーストリアから圧力を受けており、新興のプロイセンも勢力を拡大していた。イタリアが統一されたら、そういう軍事大国と互角に渡り合う外交能力が必須となる。そして、自分にはその能力がない。この「坊主憎いけどその袈裟なかなかいいじゃん」的な判断は、なかなかできることではあるまい。

現在、カヴールは、ガリバルディ、青年イタリア発起人のマッツィー二と並んで「イタリア統一の三傑」に数えられている。のちのイタリア市民は、カヴールの現実的な外交能力を高く評価しているのだ。ガリバルディは、自分の故郷という個人的な要因に惑わされることなく、「イタリア統一に必要なものは何か」を冷静に、客観的に、判断する能力があったのだろう。

ガリバルディの人徳とカリスマ性は、イタリアのみならず各国でも高く評価されていた。アメリカ南北戦争のときには、リンカーン大統領に北軍の司令官就任を打診されている。
何度敗走しても、民衆からの支持を失わない。それは行動にぶれがなく、信念が揺れていないからだろう。また「革命家が良い政治家とは限らない」ということを自覚しており、自分にできない仕事は請け負わない。いわば「プロの革命家」であり、力を発揮する場と引くべき場を弁えていた人物といえるだろう。


世界史では、わりと早い時期から文民統治(シビリアン・コントロール)の制度が発明されている。しかし、こと革命に関しては、「軍事力、即、権力」となりやすい。革命には民衆をまとめるカリスマが必要だろうし、そういうカリスマは革命後もお役御免というわけにはいかないのだろう。その結果、行政能力が皆無な人物が国の最高権力者の座に就き続けることになる。ゲリラ戦と対国民党軍事行動で辣腕を振るった毛沢東だって、国の政治をさせたら大躍進運動の醜態を晒す有様だった。

それに比べて考えてみると、日本にはわりと軍事力と行政力を兼ね備えた人材が多かったように見える。
誰でも知ってる織田信長。その業績を問うと、多くの人は馬鹿の一つ覚えのように「楽市・楽座」と答える。戦国武将でありながら、後世に伝わっている業績は、行政に関するものなのだ。
日本では三回、幕府が開かれたが、その開祖となった源頼朝、足利尊氏、徳川家康は、いずれも軍事力・行政力ともに高かった。共通点は、幼少期に人質や蟄居などの要因で、学問に励まざるを得ない環境にあったことだ。そういう時に、学ぶべきことをしっかり学んでいたことが、のちの行政力を発揮する際の下地になっていたのではないか。

日本で唯一、「革命」と呼んでもよい政治的転機は明治維新だっただろうが、その際にも明治新政府の指導者の多くは軍事力と行政力を兼ね備えていた。中には西郷隆盛のような武力馬鹿もいたが、そうした人間は日本史上、時代の流れに従って自然に淘汰されている。西郷隆盛はあくまでも「武士の棟梁」であって、「明治新政府を担う政治家」ではあり得なかっただろう。


革命は、旧体制を倒した時点では、道半ばの折り返し点に過ぎない。国を倒すことと、国をつくることは、同様に重要でありながら必要な能力がまったく違うのだ。革命であまり高い理想を掲げ過ぎると、のちにそのハードルが高すぎて自らの首を絞める。革命政権の多くがのちに恐怖政治を敷くのはそのためだ。
そんな中、「自分にできる仕事とできない仕事を見切る」というのは、なかなかできることではあるまい。そういう「歴史に埋もれた事例」を探して、革命史を掘り起こしている。



春休みの自由研究的なおべんきょうで。

野球の盲点ルールに、「第四アウト」というのがある。




かなりややこしいのでまずは映像で。 



このルールは、水島新司の野球漫画『ドカベン』単行本35巻で紹介されている。
夏の甲子園・神奈川県予選大会三回戦。山田太郎擁する明訓高校と、不知火守率いる白新高校の試合。
試合は0-0のまま延長10回表、明訓高校の攻撃。一死満塁で打者は微笑三太郎。


4thout

延長10回ワンアウトでこれはかなり危機的状況。 



投手の不知火が投球モーションに入るや、三塁走者の岩鬼がスクイズのタイミングでホームに突進した。 ここで打者の微笑はスクイズを狙ってバントをする。
ところがバントの打球は小フライとなり、投手の不知火にノーバウンドでキャッチされてしまう。三塁走者の岩鬼は帰塁せず、そのままホームに到達した。
そのとき一塁走者の山田は大きく離塁していたため、不知火は余裕でボールを一塁に転送し、山田をアウトにする。ダブルプレイで3アウトをとった白新高校の守備陣は、全員がベンチに引き上げた。

ところがスコアボードでは、岩鬼の本塁到達が認められ、明訓高校に1点が入る。この1点を守り切り、試合は明訓高校が勝利した。
普通であれば、ダブルプレーが成立してチェンジになれば、その間の本塁帰塁は認められない。なぜ、岩鬼の得点が認められたのか。


このプレイを時系列で並べると、次のようになる。

(a)微笑のバントによる小フライを、不知火が捕球。打者の微笑がアウト
  ↓
(b)三塁走者の岩鬼が、本塁に到達(タッチアップなし)
  ↓
(c)不知火がボールを一塁に転送、一塁走者の山田がアウト


ここで、盲点ルールの成立するポイントが4つある。


(1) 微笑の小フライはバントの飛球であるため、インフィールドフライが宣告されない。
(2) 三塁走者の岩鬼は、不知火の捕球前に離塁しているため、タッチアップをしていない。
(3) 一塁で山田がアウトになる前に、三塁走者の岩鬼が本塁に到達している。
(4) 3つめのアウトをとられたのが、打者走者の微笑ではなく、一塁走者の山田である。


まず(1)のポイントによって、不知火の捕球以前のプレイに関して、各走者には進塁の強制が解除されていない。インフィールドフライの宣告というのは、要するに「ランナーが強制的に次の塁にすすまなければならない義務を解除すること」なので、それが宣告されてない以上、各ランナーは不知火が捕球する以前には進塁しなければならない状態だった。その状態が解除されて帰塁の義務が発生するのは、不知火が小フライを捕球した瞬間だ。

つまり守備側にしてみれば、不知火が小フライを捕球してからは、フォースアウトをとれなくなる。最初に打者走者がアウトになっており、かつ各ランナーは帰塁しなければならないからだ。フォースアウトは、各走者に進塁義務がある場合しかできない。だから一塁走者の山田をアウトにしたければ、二塁に送球するのではなく、一塁に送球しなければならない。

もしフォースプレイで第3アウトをとり、かつ第3アウトが打者走者だった場合には、時間軸に関係なく、三塁走者の本塁生還は認められない。しかし、そのふたつの前提は、両方とも「ドカベン」のケースでは成り立っていない。不知火の一塁転送はフォースプレイではない(ポイント(1))し、第3アウトをとられたのは打者走者の微笑ではなく、一塁走者の山田(ポイント(4))だ。

フォースアウトがとれない状況ということは、第3アウトをとる前に成立した得点は有効(ポイント(3))ということになる。不知火が一塁にボールを転送した時点で、一塁走者の山田はアウトになるが、それより早く本塁に到達した岩鬼はアウトになっていない。それが、岩鬼の本塁生還が認められた理由だ。

これは例えば、一・二塁間に一塁走者が挟まれ、その間に三塁走者がホームインするのと状況が同じことになる。この場合、一塁走者をタッチアウトにしても、それよりも前にホームインした三塁走者の得点が取り消されることはない。それと同じことだ。

つまり、不知火はボールを一塁ではなく、三塁に転送すべきだったのだ。三塁走者の岩鬼はタッチアップしておらず(ポイント(2))、不知火が小フライを捕球した時点で帰塁の義務が生じる。そこで三塁に転送すれば、岩鬼がアウトとなって得点は認められない。


ところが、一塁に転送して、一塁走者の山田をアウトにした後でも、三塁走者の岩鬼をアウトにする方法がある。これが俗に言われる「第四アウト」だ。
一塁走者の山田をアウトにした時点で、3アウトとなりチェンジになる。そのあとベンチに引き上げず、すぐにボールを三塁に転送して触塁したうえで、審判に「タッチアップをしていないので、第3アウトを、三塁走者の岩鬼のアウトに置き換えます」と申告する。するとその時点で、三塁走者の岩鬼にアウトが宣告される。

一塁で山田がアウトになったのが第3アウトなので、その後に三塁で岩鬼からとるアウトは「第4アウト」ということになる。記録上は、山田の第3アウトを、岩鬼のアウトに「置き換える」措置となる。審判にアピールするときに「置き換えます」と申告するのは、そのためだ。
このプレイは、三塁に黙って触塁しても成り立たない。必ず、審判に申告してアピールする必要がある。


野球規則 7.10 「アピールアウト」


次の場合、アピールすれば走者はアウトになる。

(a) リタッチ
飛球が捕らえられた後、走者が再度の触塁(リタッチ)を果たす前に、身体あるいはその塁にタッチされた場合。
(b) 塁の空過
(c) 一塁をオーバーラン後の触球
(d) 本塁空過時の触球


本項規程のアピールは、投手が打者への次の1球を投じるまで、またはたとえ投球しなくてもその前にプレイをしたりプレイを企てるまでに行わなければならない。イニングの表または裏が終わったときのアピールは、守備側チームのプレーヤーが競技場を去るまでに行わなければならない。

アピールするには、言葉と動作とで、はっきりとその旨を表示しなければならない。なお、ある一つの塁を2人以上の走者が通過した際、その塁の空過を発見してアピールするには、どの走者に対するアピールであるかを明示しなければならない。例えば、甲、乙、丙の3人の走者が、三塁を通過し、乙が三塁を踏まなかったときは、乙に対するアピールである旨を明示しなければならないが、もしこのとき甲が空過したと誤って申し出て、審判員に認められなかった場合でも、その塁を空過した走者の数までは、アピールを繰り返して行うことができる。



白新高校の守備陣は、3アウトをとったため、全員がベンチへ引き上げた。このとき、フェアラインを通り過ぎて全員がファウルゾーンに入ってしまった時点で、アピールの権利を喪失した。このとき、岩鬼の本塁生還と得点が、ルール上確定したことになる。



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ルールくらい知っとけ、不知火。 


まとめると、守備側の白新高校がこの回を無得点に抑えるには、次の3つのいずれかの可能性があったことになる。

[ 1 ] 打者・微笑のバントフライを、不知火がわざと落球する。
すかさずボールを拾って二塁に転送(一塁走者の山田がアウト)、さらに一塁に転送(打者走者の微笑がアウト)して、ダブルプレー成立。
この場合、落球によって打者走者がアウトになっていないので、各ランナーには進塁義務がある。よって、フォースアウト(二塁転送で山田からアウトをとる)が可能となる。また第3アウトが打者走者なので、上記のポイント(4)が成り立たたず、得点は認められない。また、このダブルプレーの取り方は、インフィールドフライが宣告された場合には不可能だが、上記のポイント(1)によって、この場合は可能になる。

[ 2 ] 打者・微笑のバントフライを、不知火が捕球(打者走者の微笑がアウト)。
この場合、すでに岩鬼が本塁に達しているので、その得点を取り消すために、ボールを三塁に転送し、タッチアップをしていない岩鬼がアウト。ダブルプレー成立。

[ 3 ] 打者・微笑のバントフライを、不知火が捕球(打者走者の微笑がアウト)。
ボールを一塁に転送(一塁走者の山田がアウト)。これで3アウト。ただし岩鬼の得点は有効
この得点を取り消すために、ボールを三塁に転送して触塁し、「タッチアップをしていない岩鬼に第3アウトを適用する」と審判に申告する(三塁走者の岩鬼が第4アウト=第3アウトに置き換え)。



実際の野球の試合でも、これと似たような状況があった。
2012年8月13日、第94回全国高等学校野球選手権大会の第6日、済々黌高校(熊本)と鳴門高校(徳島)戦。
7回裏、済々黌高校の攻撃中、1死、1・3塁の場面。

ここで済々黌の打者がライナー性のあたりを打つが、ショートがファインプレーでこれを捕球した(第2アウト)。一塁ランナーも三塁ランナーもヒットエンドランを企図してタッチアップなしで飛び出しており、三塁ランナーは本塁に到達。ショートはボールを一塁に転送し、一塁走者がアウト(第3アウト)となった。
ところが、三塁ランナーの本塁到達が認められ、済々黌に得点が入った。鳴門高校はアピールアウトをとらずに全員がベンチに引き上げたため、アピールの権利を失った。



まったく同じ状況。


このとき、済々黌の三塁ランナーは、子供の頃に「ドカベン」を読んだことがあり、アピールアウトのルールを知っていた。あえてタッチアップのための帰塁をせず、一塁ランナーがアウトになるよりも先に本塁に入り、本塁到達のタイミングを主審に確認している。その後は素知らぬ顔をして、鳴門高校が気づかないままベンチに引き上げるのを黙って見ていた。

アピールアウトは、本塁への進塁が絡む際に発生することが多い。主にスクイズだ。プロ野球よりも高校野球のほうがスクイズを多用するので、このルールが適用される状況は高校野球のほうが多い。
甲子園大会を見ていると、1アウトで1, 3塁か2, 3塁という状況は、わりと多い。そういう時にスクイズを選択するチームも多い。そういう時には、「ちゃんとルール分かってるかな」と、要らん心配をしてしまう。



日本の漫画っていろいろ勉強になるなぁ。

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近所に、おいしいインド料理のお店があるんですけどね。


外でカレーを食べるときは、本格派のインド料理店に限ります。日本のカレーとはまたひと味違ったカレーが楽しめます。
店員さんもインド人。カレー以外にも、現地の本格インド料理が多種多様に楽しめます。


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僕のお気に入りはチキンキーマカレー。 


本場のインド料理屋さんでカレーを食べるときは、ライスではなくナンでいただきます。これが本格的な竃で焼き上げるふっくらしたナンで、たいへんにおいしい。
このお店に行くときはいつも


カレーといっしょに食べるとおいしいものはなんでしょうか?

「うん、そうだよ」

いや、だから、なんでしょうか?

「いや、だから、そうでしょ?」


という、噛み合ない会話ごっこを嫁といっしょに楽しむのであります。
しかもこのお店、ナンがおかわりし放題なのです。量を重視するワタクシめにとって非常にポイントの高いところであります。


ところで、このお店の名前は「アグラ」。店の看板には世界遺産で有名なタージ・マハル廟が描かれていて、インドっぽさを醸し出しています。
まぁ、外国でインド人の方々がお店を出す時には、「インドのイメージ」としてそういう表象を使うものなんでしょうね。


こういうお店を見るたびに、僕は非常に不思議なんですが。
インドの人たちっていうのは、これで葛藤とかないんですかね。


まず基本的な知識として、インドは人口の80%以上がヒンドゥー教を信仰している。ヒンドゥー教人口は8.3億人もいて、日本の人口の約6倍だ。キリスト教、イスラム教について信者数は世界で3番目に多く、「世界三大宗教」の一端を担っている。

ところが、インドの象徴ともいえるタージ・マハール廟は、イスラム教の建築物だ。つまり多くのインド人にとっては「異教徒の建物」であり、あまり国民感情にフィットした表象ではありますまい。

しかも、店名の「アグラ」。これは首都デリーの南200Kmくらいに位置する都市の名前で、タージ・マハール廟がある街として世界中から観光客が訪れている。
このアグラという街、16世紀から19世紀にかけてインドを統一していた、ムガル帝国の首都だった。ムガル帝国はモンゴル騎馬民族の末裔で、イスラム教を国教としていた。当時の世界地図でいえば、ムガル帝国はイスラム勢力範囲の東の果てという位置づけだった。

ムガル帝国は、第5代皇帝シャー=ジャハーンの治世下で最盛期を迎える。タージ・マハル廟が作られたのもこの頃だ。愛妃ムムターズ・マハルが死去したことを悲しみ、総大理石の墓廟として建築した。たいした墓だ。タージ・マハルにはモスクや尖塔など、イスラム建築の基本をきちんと踏襲している。あくまでもイスラムの建築物だ。

つまりアグラというのは、歴史上「イスラム教の街」なのだ。ヒンドゥー教徒が大多数を占める現在のインドでは、宗教感情として「これぞインド」という街ではあるまい。
しかもムガル帝国というのは、インド人にとっては征服王朝であり、「よそ者に国を支配されていた王朝」だ。そういう時代の首都と建築物を、インドの表象として使うのは、インド人の国民感情として何の問題もないものなのだろうか。


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これイスラムっすけど、いいんすか


インドの歴史を紐解いてみると、思いのほかヒンドゥー教が政治史に果たしている役割は少ない。インドの歴史上、統一王朝として宗教をヒンドゥー教に定めたのは、グプタ朝(4世紀〜6世紀)しかない。インドの宗教はグプタ朝期を境に二分され、以前は仏教、以後はイスラム教が多い。

「以前」としては、例えばマウリヤ朝(前4世紀〜前1世紀)はアショーカ王が積極的に仏教を保護して信奉した。クシャーナ朝(1世紀〜3世紀)はもともとイランの王朝だが、インドに勢力を拡大した途端に仏教圏に取り込まれている。まぁ、それはそうだろう。今ではインドに仏教徒は1%もいないが、もともとインドは仏教の発祥地なのだ。またグプタ朝の時期は、まだマホメットによってイスラム教が興される前だ。
一方、「以後」としては、怒濤のようなイスラム勢力の東進に押される形で、地域分裂の形でイスラム圏に取り込まれた。小国分裂状態だったインドをようやく統一したのは、ムガル帝国(16世紀〜19世紀)の成立を待たなくてはならない。

ムガル帝国はイスラム教を基盤としていたが、その頃にヒンドゥー教などの土着宗教が衰退していたかというと、そういうわけではない。ムガル帝国は統一王朝ではあったが、成立の頃はまだ支配基盤が強固ではなかったようだ。第二代王のアクバルはイスラム以外の宗教にも寛容策を布いた。ムスリム以外に課せられる人頭税(ジズヤ)を廃止し、他宗教の活動を容認した。アクバルの妻は、ヒンドゥー教徒であるラージプート出身の女性だ。

世界史上、宗教王朝が他宗教に寛容な政策をとるときは、土地所有者である異宗教徒から地税を確保する必要性が理由であることが多い。ムガル帝国勃興時も、土地を所有していたのは現地人(ラージプート)の支配階層だった。アクバルは彼らを取り込むためにジズヤを廃止し、他宗教からも人材を登用した。
宗教寛容策が税収入のためであるならば、その基盤が確立し次第、寛容策をとる必要はなくなる。ムガル帝国も、アウラングゼーブ王の統治下で国の領域が最大に達すると、ジズヤを復活させている。

こうした歴史を眺めていると、インドの歴史において、ヒンドゥー教というのは「政治支配の基盤にはならないが、現地人にはしっかりと定着していた宗教」というものだったことが分かる。ヒンドゥー教によって国が成立することはないが、ヒンドゥー教によって王朝が終焉することはある。

ムガル帝国後期にイギリスに対して起きたインド大反乱(セポイの反乱、1859)も、きっかけとなったのは砲弾の薬包に牛脂が塗ってあったことだった。牛を神聖視するヒンドゥー教徒にとって、牛脂の塗られた薬包を噛み切るのは禁忌になる。

現在のインドでヒンドゥー教の影響力が強くなったのは、イギリスから独立するという目的上、インド人が何らかの精神的なつながりを必要としたからではなかったか。インドには東と西の両翼にイスラム教信者が多かったが、西はパキスタン、東はバングラディシュとして、それぞれ分離独立している。しかしイギリスから独立した後のインドが、ヒンドゥー教に基づく宗教国家をつくったかというと、そんなことはない。

おそらくヒンドゥー教というのは、「政治色の薄い宗教」なのではないか。知識として、ヒンドゥー教というものがあるということを知っている人は多いが、実際にヒンドゥー教の教義を知っている人は少ないだろう。
世界史では、キリスト教やイスラム教など、宗教が政治権力に介入して治世を敷くことが多い。しかし、そうでない宗教だってあるだろう。政治とは無縁のまま、宗教として宗教のみを目的として宗教のために宗教を執り行う宗教だって、広い世界のどこかにはあるだろう。ヒンドゥー教というのは、そういう宗教のひとつではないのか。

宗教も政治も、多種多様な人の思惑をとりまとめ、共同体を維持するという共通点がある。世界史上、政治力を公使する宗教が多いのはそのためだろう。しかし、政治を行なうためには、きれいごとばかり通すわけにはいかない。理想とは異なる現実的な施策を強いられることだってあるし、基本方針と矛盾する策を取らなければならないこともある。

ヒンドゥー教は、そういう政治的に必要とされる現実的な方策を、はじめから放棄しているのではないか。教義のために辻褄を合わせるとか、矛盾に関する論争とか、そういう面倒なことをすべて最初から放り投げているかのようだ。政治的な力がないというよりは、はじめから政治など関心がない宗教に見える。
海外に出たインド人が、イスラム教の建築物や都市の名前をインド料理店に掲げるのも、「だから何だ」という、理屈に合わせることに対する無関心によるものではあるまいか。政治的な感覚では、自分の属する立場に与しないものを掲げるのは、矛盾だろう。しかし、そういう現世的、政治的、理念的な「常識」が、世界のどこでも誰にでも、等しく通用するはずだと思うのは、一面的なものの見方でしかない。

僕はヒンドゥー教徒ではないし、ヒンドゥー教徒のものの考え方も知らない。しかし、インドの歴史から察するに、いわゆる西洋的な理念や常識がそのまま通用する観念ではないことは見当がつく。自分がどんな宗教を信奉していようとも、他宗教の表象を店の看板に使って、「それが何か?」で済ませる。考えてみれば、そういう柔軟性のある考え方のほうが、生きていくのは楽だろう。
日本人だって、人のことは言えない。寺社仏閣で初詣をし、クリスマスの時期には浮かれ騒ぎ、教会で結婚式を挙げることを夢見て、神頼みのためにおみくじを引き、葬式のために坊さんを呼ぶ。いったい何教だ。

宗教というものは、理屈や理論による統一性を指向するためのものではない。人のいない自然世界の真実を見るのが目的ではなく、あくまでも人がつくった、人のためのものなのだ。人が生きやすいような生き方を提供できていれば、宗教はいい仕事をしていると言える。信義や教義にがんじがらめになって「したくてもできない」という縛りが多くなるほうが、宗教としては本末転倒なのだろう。たかがカレー屋さんの看板ではあるが、そこから見える宗教の姿というのは、なかなか面白い。 



珍しいお茶も飲めるのでセットで頼むのだ。

春休み中ですので、ずーっと家で仕事しています。

なんか鬱屈してきたので、ちょっと旅行に出かけることにしました。
関東近郊に日帰り旅行です。ちょうど春らしくなってきましたしね。



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楽しゅうございました。




現地で地図もらえます。
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現実的には、高校生は勉強の目的をどちらかに絞ったほうがいいよ。
「大学入試に合格する」か、「原理原則を徹底して理解する」か。



後者は大学入って以降の楽しみにとっときな。

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「チクショー」とならぬよう 京都大、折田先生像
(京都新聞)

2次試験が始まった京都大の吉田南キャンパス(京都市左京区)に25日、恒例の「折田先生像」が現れた。今年は、お笑いタレントのコウメ太夫さんになり、受験生にエールを送った。 

張りぼての折田先生像は、同地にあった旧制三高初代校長・折田彦市の銅像があった場所に毎年置かれ、2次試験が終わると姿を消す。制作者はわからない。  

コウメ太夫さんの決めぜりふ「チクショー」とならないよう、受験生はミスのないよう落ち着いて試験に臨んでほしい、との思いが込められているのかも。




今年はちょっとクオリティ低いな。

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文末の「や」は、感動詞、間投助詞、係助詞がある。
感動詞は体言接続ではなく単独で使われるので、ここでは助詞。

間投助詞の用法は、詠嘆、呼応、列挙、切れ字。
係助詞の用法は、疑問、反語、応答。

この場合は間投助詞の詠嘆用法(〜だなぁ・〜なことよ)。
なんか据わりが悪く聞こえるのは、現代日本語文法からやや逸脱した古典文法を使っているせい。

助詞というのは本来、名詞につくものだが、この場合は用言連体形に接続している。
間投助詞「や」は、古典文法では用言連体形に普く接続していたが、現代日本語では、「や」のつく用言連体形はほぼ形容詞だけに限られる(「暑いや」「思い出せないや」など)。動詞・形容動詞に接続することはほとんどなくなった。
それが、この文が文語的に聞こえる理由。



一瞬「ん?」ってなったけど、ニュアンスは分かる。

「形而上学」って何のことじゃい。


大学で科学や哲学を教えると、学生が分かった振りして分からないまま先に進もうとすることがある。
特に基本的な用語に関しては、勉強が進んだ段階で質問することが憚られるのか、質問しようとしない。

その代表的な用語として「形而上学」という言葉がある。哲学用語だが、科学論文にも出てくる。ひどい学生になると、「文字では見たことあるけど、何と読むのか知らない」というのもいる。
まぁ、「けいじじょうがく」なんて代物、健康で文化的な生活を送っている範囲では一切関わりのないものだろう。

科学論文でこの用語が出てくる時には、おおむね否定的な文脈で出てくる。「なぜ○○○というものがあるのか、という問いは、もっともな問いではあるのだが、この件に関しては形而上学的な議論になってしまうので、ここでは扱わない」のような言い方が多い。
つまり、科学の立場からでは、形而上学というものは否定するのが一般的だ。その印象から、科学を勉強している学生は、形而上学を「なんか得体が知れないけど、とりあえずダメっぽいもの」という漠然とした理解のままでいることが多い。

学生から「先生、形而上学って何のことですか」と聞かれたとき、僕は「うーん、真面目に覚える必要はないよ。科学が説明できない一切合切を、適当に説明しようとしたもの、と思っておけばいいよ」と答えることが多い。合ってはいないが間違ってもいない。
僕は科学を教える立場だから、形而上学はいずれにせよ否定する立場にある。むろんその存在意義まで否定するつもりはないし、その立場を取ろうとする人は勝手にすればいいと思うが、少なくとも僕の教える教室は形而上学を実践する場ではない。


個人的には、「形而上学」は誤訳だと思う。しかし、一般的な意味での誤訳とはちょっと異なる。
一般的に、用語の翻訳というのは難しい。特に、科学・哲学の用語は、明治期に西洋思想が一気になだれ込んできた時に急を要して翻訳されたものが多い。西周や福沢諭吉などは、そういう西洋の学問用語を翻訳するのに苦心し、造語や借用語などを駆使してなんとか日本名をつけた。

翻訳というのは、訳した言語で理解できなくては意味がない。意味を正確に訳すことに苦心するあまり、母語話者が聞いたこともなく理解もできない用語になってしまうのでは、翻訳した意味がない。
現在でも、「形而上学」という用語を初見で聞いて、一発で理解できる日本人はいないだろう。その時点でこの用語は誤訳、少なくとも悪訳と断じて良い。翻訳としての要件を満たしていない。

形而上学は、英語ではmetaphysics。physicsは「物理」、metaは「超」なので、字面だけ訳すと「超物理学」となる。要するに、物理などの科学的方法論で捉えられない世の道理を探るのがmetaphysicsだ。metaphysicsという英語のほうが、「形而上学」という訳語よりも、どういうものかよっぽど分かりやすい。
もともと「形而上学」が生まれたギリシアでは、physicsは物理だけを表すものではない。もともと形而上学の源流は、古代ギリシア時代、アリストテレスが開設した学校「リュケイオン」の講義ノートに由来する。

リュケイオンでは、初年度に一般教養(動物学、植物学、心理学、論理学など)を勉強する。これは大学の一般教養科目のようなものだろう。高学年になると、一般教養に基づいた「自然学」(ta physica)を学ぶ。これは自然の振る舞いについての学問で、要するに物理学のことだ。いまではこの学問だけ独立してphysicsを名乗っているが、化学や天文学が未発達だった時代にあって、自然を学ぶことは要するに物理学を学ぶことだった。
ちなみにアリストテレスの「自然学」は、今の物理学で答え合わせをすれば間違いだらけで、これが後に2000年以上に及ぶキリスト教の暗黒時代の引き金になる。

リュケイオンの最高学年では、イデア論の批判と検証を交えた存在論について議論をする。カリキュラム上は「第一哲学」という講義名だった。これはアリストテレスの師匠だったプラトンの学説で、実際には眼に見えない現象や道理に対してその原理を問う学問だ。

プラトンのイデア論というのは、かいつまんで言うと、「世の中で目に見えるものはすべて単なるダミーで、それぞれの本質は『イデア』として天界に存在する」という考え方のことだ。
例えば、「たくろふという個体」と「福山雅治という個体」は、見かけや人気や収入に相当の差がある。しかし両者はともに、理想世界にある「男」というイデアが、たまたま現世に写像されたダミーに過ぎない。だから現世で人の眼に見える両者の姿や存在は、実際には「たいした違いはない」ということになる。イデアはidea(アイデア)の語源となっている概念だが、その本当の意味は「発想」ではなく「理想」といったほうが近い。もとはideinという動詞で、これは「見る」という意味だ。

アリストテレスは、プラトンのイデア論を批判するが、結局は師匠越えをすることは叶わず、結局はイデア論を継承することになる。イデア論に関する議論は、科学のように公理や観察を出発点とするものではなく、とても抽象的だ。だからリュケイオンでは、初年度に「一般教養」、高学年で「自然学」を段階的に学習させ、それらをクリアした者だけが「イデア論」に関する議論をすることが許された。

アリストテレスはリュケイオンの講義ノートを書き残しているが、イデア論を論じた「第一哲学」の講義ノートはそのままずばりのタイトルをつけず、なぜか「自然学の後のノート」(ta meta ta physika)という名前をつけている。確かに「第一哲学」は「自然学」を履修してから受講する科目だったが、それをそのまま講義ノートの名前にしている。「自然学(ta physika)の後(ta meta)」という意味だ。つまりここでのmetaは「超」などという大それた意味はなく、文字通り「〜の後の」という意味に過ぎない。
これがラテン語に翻訳されたときに、冠詞のtaが取れる。ラテン語には冠詞がないから、ただ単にmeta physica、つまり「自然学の後」というだけの用語になる。リュケイオンのカリキュラムを知らなければ、なぜ「自然学の後」なんて名前になっているのか分からなかっただろう。

のちにキリスト教が、この用語を勝手にねじ曲げる。
中東の一小宗教だったキリスト教は、徐々に勢力を拡大し、ローマ帝国に布教範囲を広げる。それに伴い、単なる信仰だけではなく、理論武装が必要になった。教義体系が脆弱な宗教は、理詰めでローマ市民を丸め込みにくい。世界がどのようにできているのか、世界はどのような原理で動いているのか、学問的なアプローチで「世界の解」を説かなくてはならなくなった。単なる宗教には酷な要求だろう。

そのためにキリスト教は、約800年前のアリストテレス哲学を利用することを思いついた。リュケイオンの講義録をひっくり返し、いかにも世の中を理解したように書いてある「自然学の後のノート」(=「第一哲学」)を、キリスト教の教義に勝手に組み込んだ。いわゆるスコラ哲学だ。
プラトンのイデア論では、世の中すべての「本質」としてのイデアの正体は、明らかにされていない。それをキリスト教は、勝手に「神の恩寵」にすり変えた。超自然的な現象や奇蹟をすべて「イデアの表出」として捉え直し、世の中の現象はすべて神の意思である、という教義をこね挙げた。講義ノートの内容を勝手に使われたアリストテレスは、墓の下で憤懣やる方なかっただろう。

しかもキリスト教は、アリストテレスの叡智を無断借用しただけでなく、名称の意味までも勝手に置き換えた。metaphysicsという用語は、単に「自然学を履修したに学ぶ分野のノート」に由来する。「自然学の後」というだけの意味だ。しかしキリスト教は、meta(=「後」)の意味を、勝手に「超」という意味に読み替えた。つまり、metaphysicsという名称に「自然学をはるかに超えたもの」という権威付けを行なった。このハッタリによって、キリスト教の教義、なかんずくスコラ哲学は「自然学とはレベルの違うもの」「一般の下々の頭脳では到底及ばないもの」という、ありがたくもうやうやしい学問に昇格した。

しかしスコラ哲学が論じるmetaphysicsの実体は、「神の意思だからそうなっているのだ」という、要するに反論封じだ。自分なりの方法で世の中の真理を掴もうと試みたアリストテレスと違い、キリスト教の目的は最初から「真実の理解」などではない。単に布教と権威付けが目的だ。 ここに至り、metaphysicsは原理的に発展し得ないものに堕ちる。キリスト教の倫理観という枠内に押し込められたアリストテレス哲学は、権威が許す教義の中をぐるぐると廻るだけのものとなり、利用されるだけのものとなった。蓋し、キリスト教の権威と、その教義理念の中心を占めたスコラ哲学が席巻した中世という時代は、学問にとっての暗黒時代と言ってよい。

つまり現代的な眼で見ると、metaphysics、「形而上学」というのは、最初から科学が扱える範囲のものではない。存在に関する議論(「なぜ人間は存在するのか」)、道義に関する議論(「人はどう生きるべきなのか」)など、科学が対象としない問いで、かつキリスト教が権威をもって偉そうに教義を垂れ流していた学問、それが「形而上学」の正体だ。
僕が「真面目に覚えようとする必要はないよ」と説明する所以だ。

元祖のアリストテレスには気の毒だが、中世1000年の間に、metaphysicsという用語の意味が変わり過ぎた。近世以後の哲学史は、スコラ哲学の解体と新たな理論体系の再構築に追われることになる。宗教的世界観と現代科学の橋渡しとして、唯物論が思想的潮流の中心を占めていた時期にも、哲学者はイデア論の亡霊に取り憑かれ続ける。「世の中には何らかの『理想』があり、それを明らかにするのが哲学の仕事、実現するのが政治の仕事」という理念は、近世全体にわたる西洋思想史の傾向だ。のちにニーチェによって虚無主義が提唱され「キリスト教の理念は自壊しもはや思想の中心には成り得ない」という宣言(「神は死んだ」)によってスコラ哲学が終焉するまで、延々とその理念は継承され続けた。

これだけの歴史的背景をもつmetaphysicsを、明治時代の学徒が正確に理解し得たとは思えない。少なくとも、一発で理解できる翻訳をすることは無理だっただろう。元祖のアリストテレスに沿うならば「自然学の後の分野」「第一哲学」「超自然学」などの訳語でも良いだろうが、その思想内容を蹂躙したキリスト教の時代を踏まえると「神の理屈」くらいの日本名が手頃だと思う。「形而上学」よりは1000万倍マシだろう。

「形而上学」という用語は、『易経』繫辞伝にある。


形而上者、謂之道、形而下者、謂之器
(形より上なる者、これを道といい、形より下なるもの、これを器という)


ここでいう「形」というのは、「世の中に実際に存在しており、眼に見えるもの」くらいの意味だ。たくろふとか福山雅治に相当する「実在物」だ。これより「下」にあるもの、つまり「現世」にあるものは、外側だけを示す単なる「器」に過ぎない。その「道」、つまり「本質」は、形を超えた「上」の世界に存在する。

まぁ、プラトンのイデア論と、それほど言っていることは違っていない。しかも、それの「上」に存在する「道」(=イデア)を解明するmetaphysicsの意味として「形而上」の箇所を使っていることも、違ってはいない。
つまり、易経の「形而上」という言葉は、metaphysicsを表す言葉として、それほど間違ってはいない語と言える。

しかし、わざわざ易経から言葉を引っ張ってくる必要はあるまい。metapysicsの訳語として「形而上学」というのは、もともとの易経を知っている人であれば「なるほど」と膝を叩くものかもしれないが、世の中の誰もが易経に通じているわけではないのだ。易経の一説だって、この文だけぽいっと渡されたら、何の事やらさっぱり分からない。説明してもらわにゃ意味が分からん。

metaphysicsという説明が必要な言葉を、易経の説明が必要な言葉に置き換えているだけであれば、翻訳はなにも仕事をしていない。外国語が全然分からない人にドイツ語を訳してくれと頼まれたら、それをフランス語に訳したところで仕事をしたことにならないだろう。翻訳というのは、必ず一方の言語が「その語を使用する人が確実に分かる言語」でなければ意味がない。分からない言葉を分からない言語に訳すことを、翻訳とは言わない。僕がこの語を「誤訳だと思う」というのは、そういう意味だ。

形而上学という用語は、明治期に翻訳された学術用語のなかでも悪名高い。おおむねこの用語を批判する際には、当時の日本人が抱いていた西洋文化に対する劣等感と、教養のない庶民に対する優越感が一体となって、「貴様ら下々には簡単に分かる概念ではないのだ」という驕り高ぶった翻訳、という悪評が多い。すぐには分かりにくい、重々しい用語で訳したほうが、学術用語として権威が感じられる。なんか重要そうな感じに見える。そういった見方でこの用語を捉える人が多い。

しかし僕は、そこまで明治期の学徒に対して否定的な見方をしていない。metaphysicsを「形而上学」と訳したのは、誤訳ではあろうが、それは意図的なものだったのではないか。あくまでも便宜上の措置だったのではないか、というのが僕の印象だ。
明治期に日本が西洋の文化を吸収する必要に迫られたのは、富国強兵のためだ。そのために必要なのは、端的に言って自然科学と法学だ。哲学なんてものは、不必要な学問リストの最上位に位置する。つまりmetaphysicsという用語自体が、当時の日本にとって「それほど必要ではなかったもの」なのだ。

明治期の学徒が、metaphysicsという用語の変遷と歴史を正しく理解していなかったのは確かだと思う。資料、時間ともに足りなさすぎる。キリスト教に基づく世界観の理解の仕方、というあたりまでは見当がついただろうが、ギリシア時代に遡ってアリストテレスやプラトンの思想に由来する言葉であることは知らなかっただろう。ましてや、この語がもともとは単に「自然学の後のノート」というだけの意味だったことは知らなかったに違いない。

この用語が易経なんぞを引用した「形而上学」という名称に訳されたのは、「よく分からない」ということを名称に準えて、その内容の究明を後世に委ねる意図があったのではないか。敢えてよく分からない語に訳したのは、「今は急いで学ぶ必要がない」という、一種の防波堤の意図があったのではあるまいか。手持ちの語彙で簡単に訳せる語ではない。されば「易経」からの当該する箇所を引用して、とりあえず便宜的に訳しておく。「易経」の該当箇所が、metaphysicsの目指す内容とそれほど乖離していないことから、この用語をわざと分かりにくい語に訳したところに何らかの作為を感じる。おそらくそのほうが穿った見方だろう。


究極的には、学問というのは原著を読まないと意味がない。しかし日本は、世界でも例外的に翻訳によって母国語でほぼ世界中の叡智に触れることができる、珍しい国だ。大学教育を自国語で行なえる国は、世界でそれほど多くはない。 そして、その翻訳というのは、明治以降の学術研究の徒がそれぞれの時代ごとに信念をもって行なってきた「知の集積」だ。
その中でも特に、哲学の本は翻訳が読みにくい。翻訳用語が恣意的で、何を言っているのか分からない。原著を読んだほうが早いこともある。そういう珍訳語を見るたびに、後回しにされた学問の悲哀を感じ、そんな分野をのんびり勉強できる平和な世相に感謝せざるを得ない。



最近では全部カタカナ語で読み下すそうです。

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