たくろふのつぶやき

お出かけの時には保冷剤を持つのだ

「メルカリ」CM、『サヨナラ青春篇』




こういうのをユーモアとは言わない。気持ち悪い。

数学の勉強

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現実的には、高校生は勉強の目的をどちらかに絞ったほうがいいよ。
「大学入試に合格する」か、「原理原則を徹底して理解する」か。



後者は大学入って以降の楽しみにとっときな。

折田先生像2017

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「チクショー」とならぬよう 京都大、折田先生像
(京都新聞)

2次試験が始まった京都大の吉田南キャンパス(京都市左京区)に25日、恒例の「折田先生像」が現れた。今年は、お笑いタレントのコウメ太夫さんになり、受験生にエールを送った。 

張りぼての折田先生像は、同地にあった旧制三高初代校長・折田彦市の銅像があった場所に毎年置かれ、2次試験が終わると姿を消す。制作者はわからない。  

コウメ太夫さんの決めぜりふ「チクショー」とならないよう、受験生はミスのないよう落ち着いて試験に臨んでほしい、との思いが込められているのかも。




今年はちょっとクオリティ低いな。

壁ドン

kabedon




される側の身になろう。

間投助詞「や」

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文末の「や」は、感動詞、間投助詞、係助詞がある。
感動詞は体言接続ではなく単独で使われるので、ここでは助詞。

間投助詞の用法は、詠嘆、呼応、列挙、切れ字。
係助詞の用法は、疑問、反語、応答。

この場合は間投助詞の詠嘆用法(〜だなぁ・〜なことよ)。
なんか据わりが悪く聞こえるのは、現代日本語文法からやや逸脱した古典文法を使っているせい。

助詞というのは本来、名詞につくものだが、この場合は用言連体形に接続している。
間投助詞「や」は、古典文法では用言連体形に普く接続していたが、現代日本語では、「や」のつく用言連体形はほぼ形容詞だけに限られる(「暑いや」「思い出せないや」など)。動詞・形容動詞に接続することはほとんどなくなった。
それが、この文が文語的に聞こえる理由。



一瞬「ん?」ってなったけど、ニュアンスは分かる。

げんこつ山のタヌキさん

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確かに関係がまったく分からん。

国別の性格

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むしろ国旗はいらないだろ

絵を買ってくれた少女

「名前も聞けなかったパリの少女へ。
またあなたに見つけてもらえたら幸せです。 」
森下真


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プロなら誰もが通る道。

学術用語の翻訳

「形而上学」って何のことじゃい。


大学で科学や哲学を教えると、学生が分かった振りして分からないまま先に進もうとすることがある。
特に基本的な用語に関しては、勉強が進んだ段階で質問することが憚られるのか、質問しようとしない。

その代表的な用語として「形而上学」という言葉がある。哲学用語だが、科学論文にも出てくる。ひどい学生になると、「文字では見たことあるけど、何と読むのか知らない」というのもいる。
まぁ、「けいじじょうがく」なんて代物、健康で文化的な生活を送っている範囲では一切関わりのないものだろう。

科学論文でこの用語が出てくる時には、おおむね否定的な文脈で出てくる。「なぜ○○○というものがあるのか、という問いは、もっともな問いではあるのだが、この件に関しては形而上学的な議論になってしまうので、ここでは扱わない」のような言い方が多い。
つまり、科学の立場からでは、形而上学というものは否定するのが一般的だ。その印象から、科学を勉強している学生は、形而上学を「なんか得体が知れないけど、とりあえずダメっぽいもの」という漠然とした理解のままでいることが多い。

学生から「先生、形而上学って何のことですか」と聞かれたとき、僕は「うーん、真面目に覚える必要はないよ。科学が説明できない一切合切を、適当に説明しようとしたもの、と思っておけばいいよ」と答えることが多い。合ってはいないが間違ってもいない。
僕は科学を教える立場だから、形而上学はいずれにせよ否定する立場にある。むろんその存在意義まで否定するつもりはないし、その立場を取ろうとする人は勝手にすればいいと思うが、少なくとも僕の教える教室は形而上学を実践する場ではない。


個人的には、「形而上学」は誤訳だと思う。しかし、一般的な意味での誤訳とはちょっと異なる。
一般的に、用語の翻訳というのは難しい。特に、科学・哲学の用語は、明治期に西洋思想が一気になだれ込んできた時に急を要して翻訳されたものが多い。西周や福沢諭吉などは、そういう西洋の学問用語を翻訳するのに苦心し、造語や借用語などを駆使してなんとか日本名をつけた。

翻訳というのは、訳した言語で理解できなくては意味がない。意味を正確に訳すことに苦心するあまり、母語話者が聞いたこともなく理解もできない用語になってしまうのでは、翻訳した意味がない。
現在でも、「形而上学」という用語を初見で聞いて、一発で理解できる日本人はいないだろう。その時点でこの用語は誤訳、少なくとも悪訳と断じて良い。翻訳としての要件を満たしていない。

形而上学は、英語ではmetaphysics。physicsは「物理」、metaは「超」なので、字面だけ訳すと「超物理学」となる。要するに、物理などの科学的方法論で捉えられない世の道理を探るのがmetaphysicsだ。metaphysicsという英語のほうが、「形而上学」という訳語よりも、どういうものかよっぽど分かりやすい。
もともと「形而上学」が生まれたギリシアでは、physicsは物理だけを表すものではない。もともと形而上学の源流は、古代ギリシア時代、アリストテレスが開設した学校「リュケイオン」の講義ノートに由来する。

リュケイオンでは、初年度に一般教養(動物学、植物学、心理学、論理学など)を勉強する。これは大学の一般教養科目のようなものだろう。高学年になると、一般教養に基づいた「自然学」(ta physica)を学ぶ。これは自然の振る舞いについての学問で、要するに物理学のことだ。いまではこの学問だけ独立してphysicsを名乗っているが、化学や天文学が未発達だった時代にあって、自然を学ぶことは要するに物理学を学ぶことだった。
ちなみにアリストテレスの「自然学」は、今の物理学で答え合わせをすれば間違いだらけで、これが後に2000年以上に及ぶキリスト教の暗黒時代の引き金になる。

リュケイオンの最高学年では、イデア論の批判と検証を交えた存在論について議論をする。カリキュラム上は「第一哲学」という講義名だった。これはアリストテレスの師匠だったプラトンの学説で、実際には眼に見えない現象や道理に対してその原理を問う学問だ。

プラトンのイデア論というのは、かいつまんで言うと、「世の中で目に見えるものはすべて単なるダミーで、それぞれの本質は『イデア』として天界に存在する」という考え方のことだ。
例えば、「たくろふという個体」と「福山雅治という個体」は、見かけや人気や収入に相当の差がある。しかし両者はともに、理想世界にある「男」というイデアが、たまたま現世に写像されたダミーに過ぎない。だから現世で人の眼に見える両者の姿や存在は、実際には「たいした違いはない」ということになる。イデアはidea(アイデア)の語源となっている概念だが、その本当の意味は「発想」ではなく「理想」といったほうが近い。もとはideinという動詞で、これは「見る」という意味だ。

アリストテレスは、プラトンのイデア論を批判するが、結局は師匠越えをすることは叶わず、結局はイデア論を継承することになる。イデア論に関する議論は、科学のように公理や観察を出発点とするものではなく、とても抽象的だ。だからリュケイオンでは、初年度に「一般教養」、高学年で「自然学」を段階的に学習させ、それらをクリアした者だけが「イデア論」に関する議論をすることが許された。

アリストテレスはリュケイオンの講義ノートを書き残しているが、イデア論を論じた「第一哲学」の講義ノートはそのままずばりのタイトルをつけず、なぜか「自然学の後のノート」(ta meta ta physika)という名前をつけている。確かに「第一哲学」は「自然学」を履修してから受講する科目だったが、それをそのまま講義ノートの名前にしている。「自然学(ta physika)の後(ta meta)」という意味だ。つまりここでのmetaは「超」などという大それた意味はなく、文字通り「〜の後の」という意味に過ぎない。
これがラテン語に翻訳されたときに、冠詞のtaが取れる。ラテン語には冠詞がないから、ただ単にmeta physica、つまり「自然学の後」というだけの用語になる。リュケイオンのカリキュラムを知らなければ、なぜ「自然学の後」なんて名前になっているのか分からなかっただろう。

のちにキリスト教が、この用語を勝手にねじ曲げる。
中東の一小宗教だったキリスト教は、徐々に勢力を拡大し、ローマ帝国に布教範囲を広げる。それに伴い、単なる信仰だけではなく、理論武装が必要になった。教義体系が脆弱な宗教は、理詰めでローマ市民を丸め込みにくい。世界がどのようにできているのか、世界はどのような原理で動いているのか、学問的なアプローチで「世界の解」を説かなくてはならなくなった。単なる宗教には酷な要求だろう。

そのためにキリスト教は、約800年前のアリストテレス哲学を利用することを思いついた。リュケイオンの講義録をひっくり返し、いかにも世の中を理解したように書いてある「自然学の後のノート」(=「第一哲学」)を、キリスト教の教義に勝手に組み込んだ。いわゆるスコラ哲学だ。
プラトンのイデア論では、世の中すべての「本質」としてのイデアの正体は、明らかにされていない。それをキリスト教は、勝手に「神の恩寵」にすり変えた。超自然的な現象や奇蹟をすべて「イデアの表出」として捉え直し、世の中の現象はすべて神の意思である、という教義をこね挙げた。講義ノートの内容を勝手に使われたアリストテレスは、墓の下で憤懣やる方なかっただろう。

しかもキリスト教は、アリストテレスの叡智を無断借用しただけでなく、名称の意味までも勝手に置き換えた。metaphysicsという用語は、単に「自然学を履修したに学ぶ分野のノート」に由来する。「自然学の後」というだけの意味だ。しかしキリスト教は、meta(=「後」)の意味を、勝手に「超」という意味に読み替えた。つまり、metaphysicsという名称に「自然学をはるかに超えたもの」という権威付けを行なった。このハッタリによって、キリスト教の教義、なかんずくスコラ哲学は「自然学とはレベルの違うもの」「一般の下々の頭脳では到底及ばないもの」という、ありがたくもうやうやしい学問に昇格した。

しかしスコラ哲学が論じるmetaphysicsの実体は、「神の意思だからそうなっているのだ」という、要するに反論封じだ。自分なりの方法で世の中の真理を掴もうと試みたアリストテレスと違い、キリスト教の目的は最初から「真実の理解」などではない。単に布教と権威付けが目的だ。 ここに至り、metaphysicsは原理的に発展し得ないものに堕ちる。キリスト教の倫理観という枠内に押し込められたアリストテレス哲学は、権威が許す教義の中をぐるぐると廻るだけのものとなり、利用されるだけのものとなった。蓋し、キリスト教の権威と、その教義理念の中心を占めたスコラ哲学が席巻した中世という時代は、学問にとっての暗黒時代と言ってよい。

つまり現代的な眼で見ると、metaphysics、「形而上学」というのは、最初から科学が扱える範囲のものではない。存在に関する議論(「なぜ人間は存在するのか」)、道義に関する議論(「人はどう生きるべきなのか」)など、科学が対象としない問いで、かつキリスト教が権威をもって偉そうに教義を垂れ流していた学問、それが「形而上学」の正体だ。
僕が「真面目に覚えようとする必要はないよ」と説明する所以だ。

元祖のアリストテレスには気の毒だが、中世1000年の間に、metaphysicsという用語の意味が変わり過ぎた。近世以後の哲学史は、スコラ哲学の解体と新たな理論体系の再構築に追われることになる。宗教的世界観と現代科学の橋渡しとして、唯物論が思想的潮流の中心を占めていた時期にも、哲学者はイデア論の亡霊に取り憑かれ続ける。「世の中には何らかの『理想』があり、それを明らかにするのが哲学の仕事、実現するのが政治の仕事」という理念は、近世全体にわたる西洋思想史の傾向だ。のちにニーチェによって虚無主義が提唱され「キリスト教の理念は自壊しもはや思想の中心には成り得ない」という宣言(「神は死んだ」)によってスコラ哲学が終焉するまで、延々とその理念は継承され続けた。

これだけの歴史的背景をもつmetaphysicsを、明治時代の学徒が正確に理解し得たとは思えない。少なくとも、一発で理解できる翻訳をすることは無理だっただろう。元祖のアリストテレスに沿うならば「自然学の後の分野」「第一哲学」「超自然学」などの訳語でも良いだろうが、その思想内容を蹂躙したキリスト教の時代を踏まえると「神の理屈」くらいの日本名が手頃だと思う。「形而上学」よりは1000万倍マシだろう。

「形而上学」という用語は、『易経』繫辞伝にある。


形而上者、謂之道、形而下者、謂之器
(形より上なる者、これを道といい、形より下なるもの、これを器という)


ここでいう「形」というのは、「世の中に実際に存在しており、眼に見えるもの」くらいの意味だ。たくろふとか福山雅治に相当する「実在物」だ。これより「下」にあるもの、つまり「現世」にあるものは、外側だけを示す単なる「器」に過ぎない。その「道」、つまり「本質」は、形を超えた「上」の世界に存在する。

まぁ、プラトンのイデア論と、それほど言っていることは違っていない。しかも、それの「上」に存在する「道」(=イデア)を解明するmetaphysicsの意味として「形而上」の箇所を使っていることも、違ってはいない。
つまり、易経の「形而上」という言葉は、metaphysicsを表す言葉として、それほど間違ってはいない語と言える。

しかし、わざわざ易経から言葉を引っ張ってくる必要はあるまい。metapysicsの訳語として「形而上学」というのは、もともとの易経を知っている人であれば「なるほど」と膝を叩くものかもしれないが、世の中の誰もが易経に通じているわけではないのだ。易経の一説だって、この文だけぽいっと渡されたら、何の事やらさっぱり分からない。説明してもらわにゃ意味が分からん。

metaphysicsという説明が必要な言葉を、易経の説明が必要な言葉に置き換えているだけであれば、翻訳はなにも仕事をしていない。外国語が全然分からない人にドイツ語を訳してくれと頼まれたら、それをフランス語に訳したところで仕事をしたことにならないだろう。翻訳というのは、必ず一方の言語が「その語を使用する人が確実に分かる言語」でなければ意味がない。分からない言葉を分からない言語に訳すことを、翻訳とは言わない。僕がこの語を「誤訳だと思う」というのは、そういう意味だ。

形而上学という用語は、明治期に翻訳された学術用語のなかでも悪名高い。おおむねこの用語を批判する際には、当時の日本人が抱いていた西洋文化に対する劣等感と、教養のない庶民に対する優越感が一体となって、「貴様ら下々には簡単に分かる概念ではないのだ」という驕り高ぶった翻訳、という悪評が多い。すぐには分かりにくい、重々しい用語で訳したほうが、学術用語として権威が感じられる。なんか重要そうな感じに見える。そういった見方でこの用語を捉える人が多い。

しかし僕は、そこまで明治期の学徒に対して否定的な見方をしていない。metaphysicsを「形而上学」と訳したのは、誤訳ではあろうが、それは意図的なものだったのではないか。あくまでも便宜上の措置だったのではないか、というのが僕の印象だ。
明治期に日本が西洋の文化を吸収する必要に迫られたのは、富国強兵のためだ。そのために必要なのは、端的に言って自然科学と法学だ。哲学なんてものは、不必要な学問リストの最上位に位置する。つまりmetaphysicsという用語自体が、当時の日本にとって「それほど必要ではなかったもの」なのだ。

明治期の学徒が、metaphysicsという用語の変遷と歴史を正しく理解していなかったのは確かだと思う。資料、時間ともに足りなさすぎる。キリスト教に基づく世界観の理解の仕方、というあたりまでは見当がついただろうが、ギリシア時代に遡ってアリストテレスやプラトンの思想に由来する言葉であることは知らなかっただろう。ましてや、この語がもともとは単に「自然学の後のノート」というだけの意味だったことは知らなかったに違いない。

この用語が易経なんぞを引用した「形而上学」という名称に訳されたのは、「よく分からない」ということを名称に準えて、その内容の究明を後世に委ねる意図があったのではないか。敢えてよく分からない語に訳したのは、「今は急いで学ぶ必要がない」という、一種の防波堤の意図があったのではあるまいか。手持ちの語彙で簡単に訳せる語ではない。されば「易経」からの当該する箇所を引用して、とりあえず便宜的に訳しておく。「易経」の該当箇所が、metaphysicsの目指す内容とそれほど乖離していないことから、この用語をわざと分かりにくい語に訳したところに何らかの作為を感じる。おそらくそのほうが穿った見方だろう。


究極的には、学問というのは原著を読まないと意味がない。しかし日本は、世界でも例外的に翻訳によって母国語でほぼ世界中の叡智に触れることができる、珍しい国だ。大学教育を自国語で行なえる国は、世界でそれほど多くはない。 そして、その翻訳というのは、明治以降の学術研究の徒がそれぞれの時代ごとに信念をもって行なってきた「知の集積」だ。
その中でも特に、哲学の本は翻訳が読みにくい。翻訳用語が恣意的で、何を言っているのか分からない。原著を読んだほうが早いこともある。そういう珍訳語を見るたびに、後回しにされた学問の悲哀を感じ、そんな分野をのんびり勉強できる平和な世相に感謝せざるを得ない。



最近では全部カタカナ語で読み下すそうです。

大勢に逆らう気質

言語学の授業で「混成語(かばん語)」というのを教えるんですけどね。


混成語というのは、たとえばbreakfast と lunch を合わせて、brunch という新しい語を作るような造語法。smoke と fog を合わせた smog というのもある。
最近、この混成語の例として、Brexit という造語を入れて説明することが多くなった。イギリスの新聞で多く使われている新語だ。

その意味は、Britain と exit を合わせたもの。つまり「イギリスの欧州連合からの脱退問題」のことだ。2016年6月23日に国民投票が行なわれ、結果は多くの国民にとって「まさか」の「離脱」。離脱票が51.9%、残留票は48.1%という僅差でありながら、過半数の国民がEU離脱を指向していることが判明した。

多くのマスコミは大慌てでこの件を報道していたが、それはマスコミの側が残留側を希望していたからにすぎない。アメリカ大統領選のトランプ勝利のときと同じように、マスコミは事実を報道するのではなく、「マスコミにとってのあるべき姿」を報道する。事実から目を背け、事実が理想からはずれていれば迷わず煽動する。そのブレーキを効かせて尚、この結果だから、本当のところは離脱を指向する国民はもっと多かっただろう。蓋し、アメリカ大統領選挙とイギリスEU離脱のふたつの件は、マスコミの報道のあり方が事実から乖離しており、世相を客観的に報道していないことを示す顕著な例として、同じようなものだろう。

僕はこのイギリスEU離脱は、昨今おおはやりの「グローバル化」なる大合唱に対するアンチテーゼだと思う。
学生は、この「グローバル化」という言葉が大好きだ。学生に国際関係についてレポートを書かせると、この言葉が出てくる回数が10回や20回では収まらない。とにかく「グローバル化」とさえ書いておけば、時流を正しく捉えたような気になれる。視野が広い人間を装える。そんな安直な「言葉のイメージ」だけで、安易に「グローバル化」という念仏を唱える輩が増えている。

もしグローバル化を極限まで押し進めていけば、それは「国家」としての垣根が一切働かない事態になる。全世界を均一化し、富める国が貧しい国に財力を配分することになる。
日本は、世界の中でも経済的に恵まれている国だ。もし「グローバル化した社会」なるものが究極に達成されたとしたら、それはつまり「日本が、貧しい国に富を譲り渡し、今の経済レベルからかなり失落した状態を甘んじなければならない」ということだ。日本は、世界を均一化したら、「得られる側」ではなく、「与える側」なのだ。「明日から外国人を100人雇用しなければならなくなったから、日本人を何人かクビにしなきゃならん。というわけでお前、明日からクビな」と言われても、「グローバル化だから、しょうがないか」と納得しなければならない。

無邪気な大学生は、「グローバル化」という言葉を使うとき、上しか見ていない。アメリカやヨーロッパ各国の、日本よりも洗練されて上品でカッコいい(と思い込んでいる)文化や価値観を手にすることしか考えていない。発展途上国や経済破綻国との関係でも、「そういう国独自の文化を」という「得したい欲求」は依然として根強い。また「そういう国に日本が技術援助を」と、安易に「正義の味方」に成り切って使命感に燃え盛る脳足りんも多い。

島国である日本の学生は、潜在的に外国に対する憧れが大きい。「意識高い学生」ほどそうだ。日本のことを何も分かってないくせに、やたらと海外に出ることを「自己実現」と捉える安直さがある。
ところがそんな学生でも、就職活動の時期になって、外国人雇用を増やさなければならないから自分の就職先がなくなっても平気か、と問われれば、そんなことはない。彼らの「グローバル化」というのは、あくまでも「(自分の権利が充分に保障された上での)グローバル化」に過ぎない。グローバル化なる傾向によって、日本にとっては得るものよりも失うもののほうが多いことに、気づいていないし、気づこうともしない。

今回のイギリスのEU離脱は、そういう「見ない振りしていた真実」が、表面化した出来事に過ぎない。イギリスでEU離脱派が多くなった背景は、移民流入が増え過ぎたことだ。アフリカやヨーロッパ内の難民は、イギリスを目指す。社会保障が最も充実しているからだ。その金は、国民の税金から出ている。つまりイギリス国民にとっては、「自分が払っている税金で、よその外国人を養っている」という状況になっている。そりゃたまらんだろう。

今回のイギリスのEU離脱は、突然生じた動きではなく、いままで何回もその傾向が見られている。たとえば、EU内でイギリスだけは通貨としてユーロを使用しておらず、いまだにポンドが流通している。その判断が正しかったことを示したのが、2015年のギリシア経済破綻だ。

ギリシアは国民の4人に1人が公務員で、ろくに働かなくても国が食わしてくれる、という特権階級意識が強い。国内にはろくな産業がなく、過去の遺産による観光収入が命綱だ。唯一世界レベルの海運業は、国が税金を取れない。そりゃ経済も破綻する。
そこでEUはギリシアの経済危機がEU圏内に広がることを心配し、IMF(国際通貨基金)を通して経済援助を行なった。金遣いの荒い奴に金を貸すには、条件をつける必要がある。IMFがギリシアに突きつけた条件は「財政緊縮」。公務員の数を減らし、年金や社会保障を削減する歳出削減を要求した。そうしなければ借金を返せる見込みもないからだ。

ところがギリシアは、国民投票でその財政緊縮策を否決してしまう。「生活を我慢して苦しくするよりも、今まで通りのほうがいいじゃん。国が破綻?俺には関係ないもん」という、なんともいいかげんな理由だ。その結果、当たり前だが、ギリシアはIMFへの借金が返せず、債務不履行(デフォルト)状態に陥る。

慌てたのはEU各国だ。EUという枠内にある以上、破綻国家が生じてはEU全体の経済政策に歪みが生じる。ここに至ってギリシアは初めて反省し、緊縮財政を立法することを条件に、EUから借金をする。EU各国はギリシア支援のために、貴重な国家財政を削減する羽目に陥った。

国家の財政が厳しくなったら、とりあえず国債を発行し国民に借金をして、後で通貨発行によって補填するのが常道だ。好ましい方法ではないが、その場しのぎにはなる。
ところがEU各国にはその手が使えない。EU圏内で流通しているユーロの発行権は、各国が独自に有しているのではなく、欧州中央銀行(ECB)だけが有している。各国が勝手に紙幣を刷っていいわけではない。そのためギリシア支援のための支出を賄う緊急措置がとれず、EU各国は経済的に苦境に陥った。

その例外がイギリスだ。イギリスはポンドを使っているため、自国で紙幣発行権を有している。つまり、国債が簡単に発行できる。国債は要するに借金なので、根本的な解決にはなっていないが、紙幣流通量の激減がもたらすデフレを防ぐ程度の役には立つ。イギリスはユーロを使わないことでギリシア経済破綻の影響を受けず、安定した為替相場を保つことができた。

おそらくこの頃に、イギリスは「あまりEUに深入りすると、ロクなことはないぞ」という実感を得たのではないか。イギリスの経済力は、EU圏内で文句なしのトップランクだ。もしEU圏内で「助け合いましょう」の事態が多くなれば、イギリスは間違いなく「助ける側」に廻らなければならない。自国は損をする一方で、それで得られるものなど何もない。そういう「グローバル化」に対する胡散臭さが、イギリスでは蔓延していたのではないか。
そういう流れで見てみると、イギリスのEU離脱は、むしろ必然だったのではないか、という気がしてならない。


僕はかねてからヨーロッパのEU化を懐疑的に見ていたが、それに反する動きがイギリスから出てきたのが、いわば歴史を反映した事態に見える。
EU圏内で「助ける側」の国は、イギリスだけではない。EU経済は実質上、ドイツが動かしているし、オランダやフランスも外貨獲得が上手い。そういう国だって、ギリシアの一件以外にも、「なんで俺たちが損をしなければならんのだ」と感じることは多かっただろう。なのに、そういう国からはEU離脱の声が上がらず、イギリスからは上がった。それはなぜなのか。

それを考える際には、最近の、表に見える事態だけではなく、ひとの考え方の内面に関わる要因を考える必要がある。イギリスというのはどういう国なのか。イギリス人というのはどういう考え方をする国民なのか。



Bentham


ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
イギリスの哲学者・経済学者・法学者。
「功利主義」の提唱者として知られている。

僕にとって、学生時代に受けた印象と、現在の印象がかなり変化している人が数人いる。ベンサムはそのひとりだ。学生時代は「無茶苦茶なこと言う嫌な奴だな」という感じだった。ところが実際にベンサムの著作を読み、当時の時代背景やイギリスの歴史の流れを考えてみると、その本意が徐々に分かってきたような気がする。

功利主義というのは、要するに「多くの人が幸せになれるのだったら、それが正義ってことじゃね?」という考え方のことだ。ちゃんと言うと「最大多数の最大幸福」という言葉で表される。
ちょっと考えれば分かるが、この考え方は、多数決の暴力に直結する。「多くの人が良ければそれでいい」という考え方は、言い方を変えれば「小数派を容赦なく切り捨てる」ということだ。また産業革命によって増大した資本家の「幸福」を実現するため、植民地獲得を指向する帝国主義の理論的背景となった。ひとむかし前に多くの書店が気が狂ったように売り出していた『これからの「正義」の話をしよう』(マイケル・サンデル著)でも、功利主義は批判対象の叩き台として使われている。

現在、功利主義の功罪が議論されるときには、おおむね「その後の世界に与えた影響」だけで判断されていることが多い。確かにこの考え方は、現在否定されている帝国主義を招いた一面があり、それは負の面として認識しなければならないだろう。
しかし、本当にベンサムを批判し、その思想を否定するのであれば、後世の影響だけを云々するだけでは「第二のベンサム」を阻止するための抑制力にはならない。なぜ、ベンサムはそんなことを言い出したのか。ベンサムが現れた前段階の歴史からつなげて考えなくては、功利主義の正しい位置づけはできない。

ベンサムが登場した時代背景には、「外面」と「内面」がある。
外面というのは社会経済史、内面というのは哲学思想史の範疇に入る。

外面的な背景としては、イギリスが世界で初めて市民革命を達成し、力づくで平等を作り出した歴史がある。この市民革命は、他のヨーロッパ各国に衝撃を与えた。生まれた時から身分階級が決められ、王や教会に隷属することが当たり前だと思っていたヨーロッパ各国は、「世の中って、もしかして実力行使で変えられるのか?」と啓蒙された。

ベンサムが生きた時代は、絶対王政が倒れ、市民が主権を持ち、経済活動が活発して産業革命が起きる過渡期だった。ところがベンサムの目には、移行する政治経済の形態は同じようなものに映ったようだ。「王・貴族」という小数派が絶対権利を持っていた時代に替わって、「資本家」という小数派が絶対権利を持つ社会に移行するに過ぎない。ともに、わずかな小数の特権階級が富を独占する形態に違いはない。

一般に誤解されているが、ベンサムは資本家寄りの経済重視主義者ではない。ベンサムは「幸福」とは何ぞや、を定義する際に、それを「本能的快楽」と定義づけた。これは弟子のミルからでさえ「下品」と蔑まれる事態を招いたが、これはミルの見方が狭かったというべきだろう。ミルは後述する、当時の「内面」的な背景に染まっていたと言ってよい。

ベンサムが「幸福」を「快楽追求」と定義したのは、便宜的なものだろう。別に個人が持ってる資産金額でも、愛人の数でも、女の子に告白された回数でも、何でもよかったのだと思う。ポイントはそこではない。
ベンサムが重視したのは、「個人の幸福度は、足せる」という計量的な考え方にある。「正しい社会のあり方は」と考えた時、その要因は社会の構成要因たる個々の人間に帰着する。されば、個人の幸福度を順々に足していった総和が、社会全体の幸福度ということになる。これを倫理・世界史の用語では「量的功利主義」という。

ここで重要なのは、「個々人の幸福度を足す」ということは、その対象者に区別をしない、ということだ。貴族も資本家も労働者も、誰もが等しく「快楽追求」の原則の前では、同じ対象者に過ぎない。つまりベンサムは、「誰もが平等」という理念を持っていた。
実際に、このベンサムの量的功利主義は、のちにイギリスが世界に先駆けて「ひとり一票」の普通選挙を実現する背景となる。

ベンサムは、経済学者であるだけでなく法学者でもある。当時、社会を律する規則は宗教的道徳観だった。「神が見ているからそんなことをしてはいけません」という道徳だ。しかし、ベンサムはそれに「何を言っているんだ」と堂々と反論する。個人の幸福が「快楽追求」を基にしているのであれば、神がどうのこうの言ったところで効果はない。僕自身の経験からしても、自分の中で「快楽の追求」と「道徳観」が戦えば、勝率8割で前者が勝つ。

そこでベンサムは、社会を律する原則として「法律」を提唱した。個人は幸福の実現手段として快楽を追求しても良い。しかし、社会を脅かすような個人の快楽追求は、法によって規制する。
ベンサムの仕事をよく見てみると、法体系の整備にかなりの力を割いている。選挙権を拡大すべく選挙法を改訂しているし、囚人を一望に監視できる円形監獄を発案したものベンサムだ。法によって社会を律するシステムは今日でこそ常識だが、宗教による支配が強かった中世から、人間中心の世界に移行する過渡期にあって、法によって社会の規範をつくる発想はかなり掟破りなものだっただろう。


ベンサムの時代背景のうち「内面」のものは、当時世界の思想界を席巻しつつあったドイツ観念論哲学だ。雑に言うと、カントによって提唱され、ヘーゲルによって大成した。
ドイツでは、イギリスやフランスのような市民革命が起きていない。起きようがなかったのだ。ドイツでは各諸侯が分裂状態にあり、ひとつの国家として絶対主義を敷く「絶対君主」がいなかった。革命が成り立つには、革命が倒すターゲットがひとりである必要がある。国がいくつにも分かれ、国王が10人も20人もいる状態では、革命になりようがない。

そんなドイツでは、イギリスやフランスのように、わかりやすく革命によって社会のしくみを実際に変えるよりも「自分たちの内面世界を変えたほうが早くね?」という話になる。心の中に理想的な社会を夢想し、観念としての「あるべき世界の姿」を現実世界に投影するほうが、望ましい社会を実現できる。「まず動く」のイギリス・フランスに対し、「まず考える」のドイツ、という構図は、この頃に確立した。こういう流れで生まれたのが「ドイツ観念論哲学」だ。

ドイツ観念論哲学は、その発生背景から分かる通り、実践が伴わない。「理想的な世の中」を、頭の中で考えているだけだ。理性を動員し、道徳律をつくりあげ、それに従って生きる規範的な世の中を夢想している。カントは個人レベル、ヘーゲルは国家レベル、という違いこそあれ、上から目線で「世の中はこうあるべし」という規律をつくろうとしたことに変わりはない。

ドイツ観念論哲学は、当時すでにヨーロッパ中に拡散していた啓蒙主義と合致し、市民理念として革命運動の理論的背景となった。啓蒙主義というのは「神とか国王とか、ぜんぜん当たり前じゃなくね?自分の眼で見てみ?自分の頭で考えてみ?」という流れだ。身分階級差による差別が当たり前「ではない」ということを言い切った考え方だ。
啓蒙主義によって「自分たちの国をつくれる!」と盛り上がっても、いざ革命を起こしても国の作り方が分からない。国としてもつべき理念が分からない。そこにドイツ観念論哲学が「国っていうのはこういう気持ちで作るんだ」という「答え」を与えた。

イギリスも市民革命を経験した国として、市民感情としてドイツ観念論の影響を受けていた。要するに、「道徳に従って、人として正しい生き方で、ちゃんとした国を作らなきゃな」という理念だ。
当然ながら、そんな理念は実現できない。いままで人間が作った政権で、そんな綺麗すぎる理想を実現した例などひとつもない。みんな実権や特権を握ったらそれに固執し、「自分だけ良ければそれでいい」という我がままを言うようになる。

そういう流れで、ベンサムは功利主義を提唱した。為政者の「自分さえ良ければそれでいい」という、小数による幸福独占に対して、「おいおい」と突っ込みを入れたわけだ。しかも、道徳だの理想だの建前論を並べる観念論哲学に対して、「なーにきれいごとばっかり並べてるんだ、できもしないくせに」と啖呵を切った。いわばベンサムは、きれいごとばかり並べて現実が伴わない世の中を喝破し、人が見ない振りをしていた人間の暗部を白日の下にさらけ出した。
後世、ベンサムの功利主義を「下品だ」「勝手過ぎる」と批判した哲学者は、まー道徳律に満ちた、それはそれは美しい思想を生み出した、ご立派な人たちばかりだ。そして、そういう批判者が、実際に行動して理想の社会を作り出した例は、ひとつもない。

ドイツ観念論哲学の基本理念として、「人間の理性を信じる」という性善説がある。これをベンサムは全否定した。ベンサムは最初から、「人間は理性的な存在」とは微塵も思っていなかった。人間は放っとけば本能的な存在であり、快楽のままに生きようとする。それを否定するのは自己欺瞞だろう。本能的な存在だからこそ、法を整備し、システムによって個々人の暴走を制御する必要がある。

こういう考え方が、イギリス人のベンサムから出てきたというのが面白い。イギリスの道徳観は、とにかく固い。ビクトリア朝時代の厳格な道徳律、ノブリス・オブリージュと称される特権階級の義務感、英国紳士の儀礼作法。がっちがちの道徳律だ。
こういう国から、「快楽を追求すりゃ、それが幸福ってことだろ」と本当のことを言い切る人間が、いきなり出てくる。それがイギリスという国だ。ひとつの考え方が支配的になった時、必ず「それって違くね?」と逆を向く人が出てくる。

考えてみれば、ヨーロッパの歴史上、時代の常識を覆す新い理念は、常にイギリスから出てきた。絶対王政が当たり前だった中世に、市民革命を起こした。キリスト教の権威が絶対的だった時代に、国王がキリスト教を捨てた。キリスト教的な世界観に逆らうと死刑だった時代に、ニュートンの科学、ロックの政治思想で、「神の世界」に平然と叛いた。イタリアはガリレイを宗教裁判にかけ弾圧したが、イギリスではニュートンは国会議員を勤めている。

「道徳と理性によって良い世の中を」という理想論が席巻していた時代に、ベンサムは「いやいや、人間はそんなに高尚にはできていないだろ」と言い放った。全員が右を向いている時に、ひとりだけ左を向く。伝統的にイギリスは、そういう思想を許容する文化的背景をつくりあげてきた国なのだ。そしてベンサムというのは、当時の常識に逆らい、本当のことをズバッと言い切る「変な人」だった。

現在、「グローバル化万歳」の大合唱の世界において、イギリスがEU離脱という「流れに逆らう決断」をしたのは、こういう歴史的背景の延長上にあるような気がしてならない。しかも、その根本原理は「理想論ばっかり言ってても、EUによって実際には俺らの暮らし悪くなってね?」という、きわめて功利主義的な理由だ。今回のイギリスのEU離脱を見てみると、18世紀にベンサムによって引き起こされた功利主義のインパクトが、再生産されているように見える。

つまり、どんなに理想主義者がベンサムの功利主義を批判し否定しようとも、昨今の世界の流れは、彼の考え方が一面では正しかったことを示している。ベンサムの思想を「こうあるべき」論で捉えるのではなく、「事実はこうだろ」論で捉え直してみると、否定するのは難しい。

それは、ベンサム思想の最大の弊害といわれる帝国主義にもあてはまる。帝国主義は、国家レベルとしての「欲望のままの最大幸福」を極限まで突き詰めた形態だ。
もともとベンサムは、幸福追求に伴う抑止装置として、法の体系の必要性を説いた。幸福追求権と法体系は、車の両輪のように片方が欠けてはならないものだ。ベンサムの幸福追求論は、常に「法の範囲の中で」という但し書きがついている。国という範疇の中であれば、国民の幸福追求と、国が定める法体系で、適切な社会のあり方が求められる。

しかし、国と国とがぶつかる帝国主義の時代には、国同士を制御する国際法を定められる主体がなかった。法という規範がない状態で、国同士が勝手に幸福を追求すると、どういうことになるか。それが帝国主義時代の有様だった。
帝国主義時代にも、ベンサムのように「植民地を作りまくる帝国主義って、何かおかしくね?」と提唱するイギリス人が出てきても、おかしくなかったと思う。しかし実際には出てきていない。それはベンサムの「人は理性で生きてはいない」「人は、利益や幸福を追求するようにできている」という考え方が、正しかったことを示している。


伝統的な道徳律が固いイギリスでは長いこと、同性愛は投獄対象となる「犯罪」だった。しかし、ベンサムは200年以上も前に同性愛を合法化する提案をしている。「誰に対しても実害を与えず、むしろ当事者の間には快楽さえもたらす」という理由だ。ひとの理念が決めつける「道徳観」と、ベンサムの理念と、どちらが正しいのか、いずれ時代が判断を下すだろう。
産業革命、帝国主義の時代に限らず、EU離脱、同性愛の法的処置に至るまで、イギリスはまだベンサムの手の内で踊り続けているように見える。



美し過ぎる理念を唱えた共産主義の末路で答え合わせは充分だろ

身分を捨てる決意

かつて、東京大学入試問題(日本史)で、次のような問題が出たことがある。

守護大名と戦国大名のちがいは、室町幕府が戦国時代においても存続し、戦国大名の多くが将軍から守護に任命され、みずから守護と称したこともあって、形式的には必ずしも明瞭ではない。下記の文章は、『今川仮名目録』のなかの条文の一部を現代文に訳したものである。ここで、戦国大名今川氏は、みずから「守護(使)不入地」に対する位置づけの相違を通して、両者の違いを明らかにしている。これを中心にして、守護大名と戦国大名のちがいを、6行(180字)で述べよ。


「もともと「守護使不入」といのは、将軍が全国の支配権をもち、諸国の守護を任命していた時代のものである。(ところで、そのような政治体制のもとでは)守護使不入であるといっても、(将軍から守護使不入の特権を与えられた者が)不入地に対する将軍の干渉を拒否することはできないであろう。(それと同じ理屈で)現在は、一般に(大名が)自分の力で国法を制定し、両国内の秩序と平和を維持しているのであるから、(大名が認めてやった守護使不入地に対し)大名の干渉をまったく許さないということは、あってはならないことなのである。」
(東京大学 1988年)



表向きは「守護大名と戦国大名の違いは何か」という問題だが、実際のところ東大の出題意図は「戦国大名、戦国大名って簡単に言うけど、戦国大名っていったい何なのか、ちゃんと定義して覚えているのか?」というところだろう。


「戦国」大名というからには、そうでない大名もいる。それが「守護」大名なわけだが、その違いを問う問題。一般常識の盲点を突く良問だろう。
しかもご丁寧なことに、この問題では、盲点の突き方が二重になっている。引用資料が「今川仮名目録」。戦国大名のひとりである今川義元が発布したものだ。



ImagawaYoshimoto

今川義元(1519〜1560)。
駿河国及び遠江国(現在の静岡県)一帯を支配した「戦国大名」。
名前だけは有名だろう。

「戦国大名のなかで、誰が一番好き?」と聞くと、おおむね武田信玄、上杉謙信、織田信長、毛利元就、徳川家康、伊達政宗などの勇猛知将を挙げる人が多い。昨今ではご当地ブームによって、生まれ故郷の戦国大名を贔屓にする人が増えている。NHKの大河ドラマで取り上げられようものなら、地元に大いに経済効果をもたらしてくれる。

そんな中、好きな戦国大名として今川義元を挙げる人はほとんどいない。静岡県の人であってもそうだろう。おおむね、今川義元のイメージは「桶狭間で織田信長に殺された敗者」というものではあるまいか。

実際には今川義元は、群雄割拠の戦国時代において「京に最も近い戦国大名」とされていた。武田信玄が最も怖れた戦国大名としても有名だ。武田信玄の甲斐国(現在の山梨県)は、今川義元の駿河と、上杉謙信の越後(現在の新潟県)に挟まれた位置にある。今川と上杉から挟撃されたら、武田は簡単に滅ぶ。そこで武田信玄は、今川義元と和睦を結び、上杉謙信と戦った。その反対ではない。実際に武田が戦ったのが上杉、ということは、武田は今川のほうをより怖れていたことになる。

今川家は源氏の末裔にあたり、室町将軍である足利氏の分家にあたる。つまり血筋が良い。血縁関係による領地支配の気風が多少は残っていた時代にあって、その毛並みの良さは一目置かれた。今川義元自身、京の公家文化に精通しており、白化粧やお歯黒など公家の格好をして京風文化に染まっていた。現在では織田信長のやられ役として、バカ殿のような風貌で揶揄されることが多いが、その格好は当時としては京に通づるものとして誰にでも許されるものではなかった。

そんな今川義元、戦国大名のひとりとして数えることに異論はなかろうが、自分の推しメンが今川、という人はあまりいない。そういう「いまいちマイナーな戦国大名」を出題するあたり、東大が突いている盲点だろう。


東大の出題に端的に答えると、守護大名と戦国大名の違いは、「支配権の根拠」だ。守護大名の場合、将軍が任命して軍事警察権を委託される。ところが戦国大名は、将軍など関係なく、己の実力を行使して腕力で支配権を公使する。

戦国大名の時代というと、「全国を統括している権力がなく、地方によって勝手に戦国大名が乱立している」というイメージをもっている人が多いだろうが、そんなことはない。織田信長によって足利義昭が京を追放され、室町幕府が終焉したのは1573年、今川義元の死から13年も後のことだ。それまでは室町幕府は存続しており、守護は相変わらず「将軍によって任命された者」という位置づけに変わりはなかった。

現在では俗に「守護大名」とよく呼ばれるが、実際に室町幕府で「守護大名」という名称を使っていたわけではない。鎌倉幕府の時代から、守護というのは「任命されるもの」だ。幕府の将軍によって任命され、土地の軍事警察権を委託された。

最初は単なる警察・自衛隊に過ぎなかった守護が、室町時代になるとやや変質する。
守護というのは文字通り「軍事警察権を委任されたもの」であって、経済基盤がない。荘園を取り仕切る地頭と違って、赴任地に自分の所領をもっているわけではない。それが室町時代になると、守護請や半済令などによって守護の権限が強化された。守護は強化された権限をタテに、荘園や公領を侵略し、「自分の土地」を手に入れるようになる。

なぜ室町幕府は、地方分権を招くような守護の権限強化を行なったのか。
歴史の教科書には「地方武士の独立の気風」やら「相次ぐ内乱」など、分かるような分からないような理由がぼんやりと書いてあるが、その大元を辿るとすべての理由は「観応の擾乱」にあるだろう。初代将軍・足利尊氏と直義の兄弟ゲンカだ。実際には尊氏と直義の兄弟はとても仲が良かったらしく、観応の擾乱の原因は、尊氏の執事だった高師直と、直義の配下の権力争いにあったらしい。

内紛が武力衝突にまで発展すると、とりあえず人数が要る。地方武士を動員する必要がある。地方武士を軍事徴用するには、それぞれの土地で軍事を取り仕切っている守護に任せざるを得ない。そのための見返りが、守護の権限強化だった。

歴史的に見れば、この判断は大失敗だっただろう。土地を持たない根無し草だった守護が、守護請や半済令によってガンガン荘園を侵略し、自分の土地にしてしまった。土地を得てしまえば、それを元手に国人を家臣化できる。そうして守護は「あたかも大名であるかのように、自分の赴任地を支配してしまう」という事態になった。これが「守護大名」と呼ばれるものの正体だ。例えて言えば、警察署長が強引に県知事になってしまうようなものだろう。

つまり、「守護大名」というのは、決して幕府の側が名付けた名称ではない。むしろ幕府にとって全然望ましくない事態だろう。軍事警察権を握るだけでなく、基盤となる土地を得て支配実権を握る。
この、鎌倉と室町における「守護」の違いについては、東大は1996年の日本史で出題している。

さて、その守護大名だが、守護である以上、役職としては室町将軍から任命されたものであることに変わりはない。単なる野武士集団とは訳が違う。しかし、いくら守護が基盤となる土地を得たところで、当時の地方武士たちは一揆を形成し、守護からの上からの支配に抵抗した。土地の武士にしてみれば、鎌倉以来の分割相続によって細分化された土地を必死に守らなければならないのだから、自治の気風が強いのはあたりまえだ。つまり守護(大名)にしてみれば、土地の武士というのは家臣として手駒にしにくい状況にあった。

そこで、当時の守護大名はどうやって土地の武士を支配下に入れたのか。
これはもう、有無を言わさぬ腕力公使だ。「ここの領地は俺のもの」と高らかに宣言し、検地を実施して土地の耕作量や年貢量を登録して農民を実効支配下に置く。そのための基盤として使ったのが分国法だ。つまり、自分の領地での法律を制定し、あらゆる紛争を自分ルールで裁いてしまう。

東大の問題で出されている「今川仮名目録」というのは、その分国法のなかでも最も整備されたものだ。この分国法によって単なる「守護大名」だったものが「戦国大名」に変貌する。つまり、この文章の中に、問題の答えが堂々と書いてある。

「今川仮名目録」に書いてある論理を単純に並べると、次のようになる。

(a)守護も公領内武士も、ともに将軍から任命されている
(b)つまり両者は同格である。
(c)同格だから、公領内武士に守護使不入地が与えられたら、守護はそれを冒すことはできない。
(d)しかし俺は違う。領国の支配権は俺様が実力で得たものだ。幕府の威光は関係ない
(e)だから領国支配の主体は大名自身。最高権力者。法も作れるし、武士に与えられた特権なんぞ知らん。

「守護大名」と「戦国大名」の違いは、つまるところ「守護とはなにか」に帰着する。守護とは本来、将軍から任命される「役職」だった。戦国大名には、それがない。つまり将軍に任命されるとかされないとかに関係なく、実力で領地の支配力を握った存在、それが戦国大名だ。

つまり「今川仮名目録」は、守護大名として初めて、「今後は将軍なんて知らん」と宣言し、幕府と決別して、「戦国大名」として生きていく決意を表したものだ。
東大は、数ある戦国大名のなかで「たまたま」今川を出題に使ったのではない。「今川義元は戦国大名のひとり」なのではなく、今川義元によるこの文書によって、歴史上初めて「戦国大名」が定義されたのだ。

歴史を大きく眺めれば、この文書が、よりによって今川義元によって発布されたというところが皮肉だろう。多くの戦国大名は、たまたま土着の武士だったものが、土地の支配者や守護大名を「下克上」によって打ち倒し、腕力で支配権を得た。
しかし今川氏はそうではない。もともと源氏の血筋で、鎌倉時代から守護を務め、室町時代には土地を得て守護「大名」となり、それが「戦国大名」に転じた、非常に珍しい例だ。本来ならば、下克上によって打ち倒される側だっただろう。それが幕府によって保障されていた身分を捨て、在野からのし上がってきた他の戦国猛将と同じ土俵で戦う決意をした。

幕府の権威におもねず、むしろ弱体化した室町幕府に見切りをつけ、実力行使の世の中に移行する時代の流れが正確に読み取れている。世間一般のイメージと違って、今川義元は、世相を見抜く力があり、既得権益に溺れず慣習を転換する決断力があり、それを行なうに足る実力を持っていた。文字通りの「戦国大名」だったと思う。

惜しむらくは織田信長の奇襲に破れたことだが、あれは織田信長のほうを褒めるべきであって、今川義元を貶めるには足りないだろう。織田信長だって、正面切って戦えば今川に勝ち目がないことくらい、よく分かっていた。だからこそ、あんな無謀な奇襲を試みたのだ。あの奇襲戦法は、日本の軍事史においても唯一無二と言っていい程の例外的な策術であり、失敗確率のほうがはるかに高かっただろう。それを執念で成功させた織田信長のほうが例外なのだ。


「戦国大名」といえば、そうでない大名のことを知っていることが前提となる。守護大名と戦国大名という、時代をつなぐふたつの立場を経た者として、今川義元が出題にあがるのは不思議なことではない。しかし、世間一般の「戦国大名」というイメージは、そういう歴史の本質から乖離して、ドラマ性や英雄譚に安易に傾きがちだ。東京大学は、そういう傾向を戒める目的としてこの問題を出題したような気がしてならない。



家康が死ぬまでトラウマにしてた人だからなぁ。

しょせんギャンブルってこんなもん

chinchirorin



期待収益を計算してみると、

ゾロ目:6/36 (0円)
偶数(ゾロ目以外):12/36 (175円)
奇数:18/36 (700円)

期待収益は、個々の事象の発生確立とその結果の積の総和で求められるから、

(6/36)*0 = 0
(12/36)*175 = 175/3
(18/38)*700 = 331.5789…

全部足すと、408.33
つまり、通常価格350円のハイボールを、実質408.33円で販売していることになる。



割高じゃねぇか。

トドちゃん日記10

todonikki10




たべすぎてはらくるしい。

変化を受け入れること

寒い日が続きますな。


今年は例年と比べても寒波の襲来が多いらしく、関東でも大雪注意報が発令されるなど、近年になく気合の入った冬となっておるようです。
センター試験も終わり、受験シーズン本番を迎える学生さんたちは体調に気をつけて頑張ってほしいものです。

冬になるたびに思うんですが、ちょい数ヶ月前に感じてた、あの夏の鬱陶しいほどの暑さは、記憶のどこに消えてしまったんでしょうか。
夏になったらなったでまた逆のことを思い、「ほんの数ヶ月前までは、冬の寒さに凍えていたんだよなぁ」などと思うことしきりです。

日本には四季がある、というのは日本文化の隅々まで影響を及ぼす天候上の制約ですが、それを肯定的にとらえている日本人は少ないようですね。
よくある巷の問答として「夏と冬、どっちが好き?」というのがあります。人の好みをどちらかに寄せて考えよう、という質問ですね。こういう質問は、「常夏の国か、北方の雪国か、家を買うとしたらどっちがいい?」という類いの質問のようです。

僕もたまにこういうことを訊かれますが、おおむね「どっちでもいいけど、両方あったほうがいい」と答えることにしています。まぁ、だいたい変な顔をされます。先の質問は、両方の季節があるからこそ成り立つ質問なわけですが、その前提こそが得難い環境だと思っています。同じ国で、狭い地域内で、夏にサーフィン、冬にスノボーを両方楽しめる国というのは、世界的に見ても珍しいですからね。



話は突然変わるんですが、日本人のなかで松尾芭蕉の価値を理解している人が、非常に少ないような気がします。


basho


松尾芭蕉(1644-1694)。
名前だけは誰でも知っている。

大学で学生に「松尾芭蕉ってどんな人?」と訊くと、99%の学生が「俳句をつくった人」と答える。中にはもうちょっと言い方に気を使って「俳句という分野を確立した人」と答える学生もいる。
まぁ、五十歩百歩だ。

まず基礎的な知識として、松尾芭蕉の時代には「俳句」という用語は使われていない。芭蕉自身、自分のことを「俳諧師」としていた。芭蕉が完成した形式は五・七・五の17文字のアレが有名だが、あれはあくまでも連歌の発句として作られたものだ。芭蕉の作った発句は完成度が高く、連歌から切り離して単独でも鑑賞に耐え得るほどの芸術性があったが、芭蕉自身、発句自体よりも連歌を綴るほうを好んでいた。 

「で、その何が凄いの?」と重ねて訊くと、大体の学生はそこで固まる。
もう少し分かりやすい質問をしてあげると、「俳諧は芭蕉以前の時代にもあった。芭蕉は、それまでの俳諧師と何が違ったのか」という質問だ。
ここに至ると、おおむね学生は全滅する。

多くの人が芭蕉の凄さを実感していないのは、芭蕉を「それまでの人よりも、すごく上手な俳句を作ったから」程度のイメージで考えているからではなかろうか。そして、大抵の人はその「上手さ」を実感できない。何が上手な俳句で、何が凡作なのか、判断できる人は少なかろう。
そもそもそういう人は、芭蕉以前の俳諧など、見たこともないのではあるまいか。

俳諧というのは、今でこそ高尚な芸術のように思われているが、もともとは「ことばの遊び」だ。遊びだからこそ、そこには凝った技巧を入れたがる。和歌と同じように、過去の名作の本歌取り、掛詞、見立て、頓知といった、「知ってるぜ」「できるぜ」という、腕前を競い合うものだった。

和歌という表現形を延々と継承してきた日本には、それ相応の地理的要因がある。
日本は島国のため、大陸的な歴史の動乱に見舞われる危険がなかった。要するに「100年前に正しかったことは、今でも正しい」という普遍的歴史観に染まっていた国と言ってよい。気象的にも温暖で、生死に関わる天候被害も少ない。おおむね、生ぬるい条件に恵まれて、平和を謳歌してきた民族と言ってよかろう。

そういう環境で暮らしてきた人間は、当然ながら保守的な傾向が強くなる。農耕民族としては、新しいことに挑戦してすべてを失うよりも、堅実にそれまでのことを繰り返して、来年もまた同じ収穫量を確保することのほうが重要だった。変わることは脅威であり、現状を維持することが安心につながっていた。日本では革命が一度も起きていない所以だ。

保守的な生き方を手に入れると、人は多面的なものの見方を失う。画一的なものの見方しかできなくなり、「他の考え方もあるのではないか」「自分とは違う考えの人もいるのではないか」という柔軟性がなくなる。それが高度に発達し、保守の力によって260年の平和をつくりだしたのが江戸時代だった。

松尾芭蕉が行なったのは、そうした時代の常識に真っ向から刃向かう、思想的転換と言ってよい。
世界は変わらないのか。
常識が一変する変化は起こり得るのではないか。
今の世界だけでなく、もしかしたら別の世界があるのではないか。
物事には、すべてその裏側でまったく違う出来事が起きているのではないか。
ひとつの考え方には、必ずその反対となる考え方があるのではないか。

そうした「変化を指向する発想」は、ひとつ間違えれば時代の糾弾を受けて闇に葬られる危険性があっただろう。保守的な世相は、革命的な思想を良しとしない。松尾芭蕉は、世間に一切その危険性を悟られることなく、革新的な世界観の転換をはかる芸術様式を開拓した。

しかも、その為に要した媒体は、たった17文字のことばに過ぎない。
17文字で完結する表現様式のなかに、従来の世界観を裏返すような思想を込める。


古池や蛙飛びこむ水の音

芭蕉入門とでもいうべき代表作。これが静けさを表す俳句であることが、芭蕉のオリジナリティーだ。
普通、静けさを表す時は、無音であることを表現する。音がしないことを描写する。しかし芭蕉は、「カエルの飛び込む音」という動的な要因を無造作に放り込むことによって、その対比として周囲の静寂を描いた。

和歌でいえば、ふつうカエルというのは「鳴くもの」だ。カエルの鳴く音を雅ゆたかに描く和歌もある。しかし芭蕉は、カエルを「鳴くもの」ではなく、「飛ぶもの」としてその動きを描いた。音を出したのはカエル自体ではない。池の水だ。

白い壁に黒ペンキを一点だけ付けると、それまでがいかに「完璧な白さ」だったかが分かる。同様に、静寂の中に動的な音がひとたび混じると、それまでの静寂が改めて認識できる。
「静」の裏には「動」があり、「動」によって初めて「静」が認識できる。「静」から「動」に転換する変化の一点だけを切り取り、その両方を包括する。そのような複眼的視点、多面的視点で、ものごとの両側から世界を認識することによって、画一的な視点から解き放たれた芸術性を作り上げた。

保守傾向、不変の恒久を良しとする風潮などおかまいなしに、芭蕉は「変化」にこそ描写すべき価値を見いだした。不動とされているものにも、容赦なく変化を強いる。のんびりした平和を謳歌していた日本という国で、そのような「変化」を歌うのは、さぞ難しかっただろう。そこで芭蕉は、平穏な世の中に見いだす「変化」として、ひとつの軸を打ち出す。

それが「季節」だ。いくら平穏な日本でも、夏は暑いし、冬は寒い。季節の移り変わりは、人の保守傾向とは関係なくやってくる。季節の変わり目に敏感になることは、平穏な毎日に「変化」を見いだすことだった。俳諧では、それを「季語」という形で方法論のひとつとした。

芭蕉自身の句や、芭蕉一門の弟子の作品を見てみると、思いのほか季語が含まれていない作品も多い。それは、別に「季節を詠むことこそが俳句」ではないからだろう。別に季節でなくても何でもよい。移り行く「変化」の一瞬を捉える視点を備えた姿勢であれば、なんでも俳諧になり得る。
今では「俳句には季語を入れるべし」というルールだと思っている人が多いが、もともとは「季節に注目することで、ちょっとした変化にも気づきやすくなるよ」という、入門者に対するレッスン・ワンに過ぎなかったのではないか。

数学では、連続した関数上で、変化率さえ分かれば、任意の1点が与えられただけで増減が分かる。いわゆる微分だ。ふつう「変化」を捉えるには2つ以上の基準点が必要だが、微分を使うと1点を観察するだけで変化が分かる。
芭蕉が目指したのは、要するに「世の中を微分する視点」だった。その日、その瞬間、その一点を視るだけで、悠久の移ろいを認識する。そう考えれば、蕉風俳諧のなかで季節の果たした役割の大きさが分かるだろう。


夏草や兵どもが夢の跡

今の岩手県平泉で詠んだ句。芭蕉が実際に見たのは、ただ雑草が生えただけの草っ原だ。しかしその風景は、いま自分が見ている世界であって、恒久的に普遍の景色ではない。時代が違えば、そこは数多の強者が、己のため主君のため、命を賭けて戦った戦場なのだ。「いま現在」の姿形だけに世界を狭めず、時間から解き放たれた「世界の全体像」を描こうとする。縦・横・高さの三次元だけでなく、時間をも含む四次元で世界を認識する。夏の暑さのなかでも冬の厳寒に思いを馳せ、冬の大雪にあっても夏の猛暑を念頭に置く。そうした「時間の制約から解放された世の中の見方」を手にすることが、多面的な世界観につながる。


荒海や佐渡によこたふ天河

新潟県出雲崎町で詠んだ句。カエルの句と同じく、これが静寂を描いた句であることに気づかないと、芭蕉の描いた世界は見えない。
日本海の荒海は恐ろしい。多くの漁師の命を奪い、天災を引き起こしてきた。しかし、視点を動かさずとも、同じ景色の中で、水平線を境として、凛とした天の川が静かに佇んでいる。動の反対側には、必ず静がある。静を描くには、その対極である動を知る必要がある。時間のみならず、空間的にも、対比される両端を包括することによって、いま在る世界を視ることができる。

江戸時代という恒久的平和の時代にあって、見える世界の裏側を想起し、対極にある概念を包括することで、世界の広がりを鋭く切り取って描く。表現形が伴わなくとも、たいした哲学者だと思う。ましてや、芭蕉はそれをたった17文字という制約の中で表現した。哲学者であるだけでなく、それを表現する手段をも兼ね備えた芸術家でもあった。

日本で「文豪」と言えば、夏目漱石や森鴎外、古くに下れば紫式部などを挙げる人が多いだろうが、松尾芭蕉を推す人は少ないと思う。芭蕉が描こうとした世界を、正しく理解している日本人は、思いのほか少ないのではないか。芭蕉は決して、保守的な芸術様式を固めた堅固な人ではない。時代の常識に逆らい、人の常識に逆らい、変化を求めて飽くなき追求を続けたチャレンジャーだと思う。

そうした芭蕉の業績が理解されていないのは、ひとつの名詞で切り取れる情報形態ではないからだと思う。行なったことがきわめて概念的なことなので、「源頼朝ー鎌倉幕府」「徳川家康ー江戸幕府」のように、教科書の太字だけでは凄さが説明できない。僕は個人的に、日本人が凄さを理解していない3大変革者として、聖徳太子織田信長コチラも)、松尾芭蕉をひそかに挙げている。

「蕉門俳諧」の名が示す通り、芭蕉は多くの弟子をとっていた。後進の指導にも熱心だったと見える。宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人は「蕉門十哲」と称される。弟子の中から「十哲」なんぞが成り立つ時点で、かなりの門人数だ。

面白いのは、蕉門の中で、芭蕉と同じ作風を継承している弟子がほとんど見られないことだ。中にはまったく別の方向性に進んだり、師匠の芭蕉を批判して新たな基軸を編み出した弟子さえいる。しかし芭蕉はそうした弟子の言動を一切とがめることなく、穏やかに容認していた。一説には、自身がそうした批評を加えることによって俳諧が形骸化し、単に季語を入れただけの17文字に堕することを怖れたのだという。

しかし本当のところ、芭蕉がそういう弟子の奔放さを容認していたのは、己の作風「変化にこそ世界の本質がある」という哲学に根ざした姿勢だったのではないか。芭蕉は決して弟子として「自分のコピー」を作ろうとはせず、俳諧が発展し、変化し続け、日本の気候風土に合った表現形として定着する土台を作ることに専念した。300年以上経った現在でも、俳句を趣味としている日本人は多い。芭蕉の作った土台が、いかに強固なものだったかが分かる。

松尾芭蕉の紀行の速さを訝しみ、「実は松尾芭蕉は幕府の隠密だった」という説がまことしやかに囁かれることがある。芭蕉の業績の、本当の価値を理解していない人の言うことだろう。ニュートンは国会議員だった時期があるが、彼はあくまでも科学者であって、政治家ではない。仮にアインシュタインが諜報活動を行なったことがあっても、彼は相変わらず科学者であってスパイではないだろう。学者はスパイができるが、スパイに論文は書けない。
それと同じく、松尾芭蕉が仮に隠密活動を行なっていたとしても、「芭蕉は『実は』隠密だった」というには当たらない。芭蕉の俳人としての業績は、そんな隠密活動ごときを上回って余りある。「奥の細道」が仮に地方探索のための旅だったとしても、そこで得られた芸術性は、日本にとって、隠密活動によって得られた情報の数億倍の価値があるだろう。

芭蕉は、日本という風土で、日本という国の、日本人の感性に根付き、それを土台として俳諧の芸術性を完成させた。日本以外の国で、それぞれの芭蕉を擁した国が、どれだけあるだろうか。芭蕉は日本の文学史の中で、外国人にとって最も研究しにくい題材のひとつだ。自分の国でそれを成し遂げた人がいない人にとって、日本が生んだ「天才」を知るのは、そりゃ難しかろう。

俳句を作るのに必要なのは、語句のひねり回しではない。世の中をよく視て、形にとらわれることなく、見えないものを見ようとする、世界の見方だ。毎日のちょっとした変化に思いを馳せ、そういう変化を脅威ではなく肯定的に受け入れ、対極にある概念をともに抱える精神世界の充実がなければ、俳句など作れない。俳句を作るという行為は、代わり映えのない毎日に喝を入れ、常に新しいものを取り込む挑戦だ。そのことを理解していない日本人が多い。



嫁は僕がつまみ食いをするとすぐに気付きます。

謎の鳥

日本には謎の鳥がいる。正体はよく分からない。

中国から見れば「カモ」に見える。
米国から見れば「チキン」に見える。
欧州から見れば「アホウドリ」に見える。
日本の有権者には「サギ」だと思われている。
オザワから見れば「オウム」のような存在。
でも鳥自身は「ハト」だと言い張っている。

それでいて、約束をしたら「ウソ」に見え、
身体検査をしたら「カラス」のように真っ黒、
釈明会見では「キュウカンチョウ」になるが、
実際は単なる鵜飼いの「ウ」。

私はあの鳥は日本の「ガン」だと思う。
新聞記者はその鳥を「キジ」にする。




誰がうまいこと言えと。
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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