たくろふのつぶやき

ちょっと春を探してきます

第四アウト

野球の盲点ルールに、「第四アウト」というのがある。




かなりややこしいのでまずは映像で。 



このルールは、水島新司の野球漫画『ドカベン』単行本35巻で紹介されている。
夏の甲子園・神奈川県予選大会三回戦。山田太郎擁する明訓高校と、不知火守率いる白新高校の試合。
試合は0-0のまま延長10回表、明訓高校の攻撃。一死満塁で打者は微笑三太郎。


4thout

延長10回ワンアウトでこれはかなり危機的状況。 



投手の不知火が投球モーションに入るや、三塁走者の岩鬼がスクイズのタイミングでホームに突進した。 ここで打者の微笑はスクイズを狙ってバントをする。
ところがバントの打球は小フライとなり、投手の不知火にノーバウンドでキャッチされてしまう。三塁走者の岩鬼は帰塁せず、そのままホームに到達した。
そのとき一塁走者の山田は大きく離塁していたため、不知火は余裕でボールを一塁に転送し、山田をアウトにする。ダブルプレイで3アウトをとった白新高校の守備陣は、全員がベンチに引き上げた。

ところがスコアボードでは、岩鬼の本塁到達が認められ、明訓高校に1点が入る。この1点を守り切り、試合は明訓高校が勝利した。
普通であれば、ダブルプレーが成立してチェンジになれば、その間の本塁帰塁は認められない。なぜ、岩鬼の得点が認められたのか。


このプレイを時系列で並べると、次のようになる。

(a)微笑のバントによる小フライを、不知火が捕球。打者の微笑がアウト
  ↓
(b)三塁走者の岩鬼が、本塁に到達(タッチアップなし)
  ↓
(c)不知火がボールを一塁に転送、一塁走者の山田がアウト


ここで、盲点ルールの成立するポイントが4つある。


(1) 微笑の小フライはバントの飛球であるため、インフィールドフライが宣告されない。
(2) 三塁走者の岩鬼は、不知火の捕球前に離塁しているため、タッチアップをしていない。
(3) 一塁で山田がアウトになる前に、三塁走者の岩鬼が本塁に到達している。
(4) 3つめのアウトをとられたのが、打者走者の微笑ではなく、一塁走者の山田である。


まず(1)のポイントによって、不知火の捕球以前のプレイに関して、各走者には進塁の強制が解除されていない。インフィールドフライの宣告というのは、要するに「ランナーが強制的に次の塁にすすまなければならない義務を解除すること」なので、それが宣告されてない以上、各ランナーは不知火が捕球する以前には進塁しなければならない状態だった。その状態が解除されて帰塁の義務が発生するのは、不知火が小フライを捕球した瞬間だ。

つまり守備側にしてみれば、不知火が小フライを捕球してからは、フォースアウトをとれなくなる。最初に打者走者がアウトになっており、かつ各ランナーは帰塁しなければならないからだ。フォースアウトは、各走者に進塁義務がある場合しかできない。だから一塁走者の山田をアウトにしたければ、二塁に送球するのではなく、一塁に送球しなければならない。

もしフォースプレイで第3アウトをとり、かつ第3アウトが打者走者だった場合には、時間軸に関係なく、三塁走者の本塁生還は認められない。しかし、そのふたつの前提は、両方とも「ドカベン」のケースでは成り立っていない。不知火の一塁転送はフォースプレイではない(ポイント(1))し、第3アウトをとられたのは打者走者の微笑ではなく、一塁走者の山田(ポイント(4))だ。

フォースアウトがとれない状況ということは、第3アウトをとる前に成立した得点は有効(ポイント(3))ということになる。不知火が一塁にボールを転送した時点で、一塁走者の山田はアウトになるが、それより早く本塁に到達した岩鬼はアウトになっていない。それが、岩鬼の本塁生還が認められた理由だ。

これは例えば、一・二塁間に一塁走者が挟まれ、その間に三塁走者がホームインするのと状況が同じことになる。この場合、一塁走者をタッチアウトにしても、それよりも前にホームインした三塁走者の得点が取り消されることはない。それと同じことだ。

つまり、不知火はボールを一塁ではなく、三塁に転送すべきだったのだ。三塁走者の岩鬼はタッチアップしておらず(ポイント(2))、不知火が小フライを捕球した時点で帰塁の義務が生じる。そこで三塁に転送すれば、岩鬼がアウトとなって得点は認められない。


ところが、一塁に転送して、一塁走者の山田をアウトにした後でも、三塁走者の岩鬼をアウトにする方法がある。これが俗に言われる「第四アウト」だ。
一塁走者の山田をアウトにした時点で、3アウトとなりチェンジになる。そのあとベンチに引き上げず、すぐにボールを三塁に転送して触塁したうえで、審判に「タッチアップをしていないので、第3アウトを、三塁走者の岩鬼のアウトに置き換えます」と申告する。するとその時点で、三塁走者の岩鬼にアウトが宣告される。

一塁で山田がアウトになったのが第3アウトなので、その後に三塁で岩鬼からとるアウトは「第4アウト」ということになる。記録上は、山田の第3アウトを、岩鬼のアウトに「置き換える」措置となる。審判にアピールするときに「置き換えます」と申告するのは、そのためだ。
このプレイは、三塁に黙って触塁しても成り立たない。必ず、審判に申告してアピールする必要がある。


野球規則 7.10 「アピールアウト」


次の場合、アピールすれば走者はアウトになる。

(a) リタッチ
飛球が捕らえられた後、走者が再度の触塁(リタッチ)を果たす前に、身体あるいはその塁にタッチされた場合。
(b) 塁の空過
(c) 一塁をオーバーラン後の触球
(d) 本塁空過時の触球


本項規程のアピールは、投手が打者への次の1球を投じるまで、またはたとえ投球しなくてもその前にプレイをしたりプレイを企てるまでに行わなければならない。イニングの表または裏が終わったときのアピールは、守備側チームのプレーヤーが競技場を去るまでに行わなければならない。

アピールするには、言葉と動作とで、はっきりとその旨を表示しなければならない。なお、ある一つの塁を2人以上の走者が通過した際、その塁の空過を発見してアピールするには、どの走者に対するアピールであるかを明示しなければならない。例えば、甲、乙、丙の3人の走者が、三塁を通過し、乙が三塁を踏まなかったときは、乙に対するアピールである旨を明示しなければならないが、もしこのとき甲が空過したと誤って申し出て、審判員に認められなかった場合でも、その塁を空過した走者の数までは、アピールを繰り返して行うことができる。



白新高校の守備陣は、3アウトをとったため、全員がベンチへ引き上げた。このとき、フェアラインを通り過ぎて全員がファウルゾーンに入ってしまった時点で、アピールの権利を喪失した。このとき、岩鬼の本塁生還と得点が、ルール上確定したことになる。



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ルールくらい知っとけ、不知火。 


まとめると、守備側の白新高校がこの回を無得点に抑えるには、次の3つのいずれかの可能性があったことになる。

[ 1 ] 打者・微笑のバントフライを、不知火がわざと落球する。
すかさずボールを拾って二塁に転送(一塁走者の山田がアウト)、さらに一塁に転送(打者走者の微笑がアウト)して、ダブルプレー成立。
この場合、落球によって打者走者がアウトになっていないので、各ランナーには進塁義務がある。よって、フォースアウト(二塁転送で山田からアウトをとる)が可能となる。また第3アウトが打者走者なので、上記のポイント(4)が成り立たたず、得点は認められない。また、このダブルプレーの取り方は、インフィールドフライが宣告された場合には不可能だが、上記のポイント(1)によって、この場合は可能になる。

[ 2 ] 打者・微笑のバントフライを、不知火が捕球(打者走者の微笑がアウト)。
この場合、すでに岩鬼が本塁に達しているので、その得点を取り消すために、ボールを三塁に転送し、タッチアップをしていない岩鬼がアウト。ダブルプレー成立。

[ 3 ] 打者・微笑のバントフライを、不知火が捕球(打者走者の微笑がアウト)。
ボールを一塁に転送(一塁走者の山田がアウト)。これで3アウト。ただし岩鬼の得点は有効
この得点を取り消すために、ボールを三塁に転送して触塁し、「タッチアップをしていない岩鬼に第3アウトを適用する」と審判に申告する(三塁走者の岩鬼が第4アウト=第3アウトに置き換え)。



実際の野球の試合でも、これと似たような状況があった。
2012年8月13日、第94回全国高等学校野球選手権大会の第6日、済々黌高校(熊本)と鳴門高校(徳島)戦。
7回裏、済々黌高校の攻撃中、1死、1・3塁の場面。

ここで済々黌の打者がライナー性のあたりを打つが、ショートがファインプレーでこれを捕球した(第2アウト)。一塁ランナーも三塁ランナーもヒットエンドランを企図してタッチアップなしで飛び出しており、三塁ランナーは本塁に到達。ショートはボールを一塁に転送し、一塁走者がアウト(第3アウト)となった。
ところが、三塁ランナーの本塁到達が認められ、済々黌に得点が入った。鳴門高校はアピールアウトをとらずに全員がベンチに引き上げたため、アピールの権利を失った。



まったく同じ状況。


このとき、済々黌の三塁ランナーは、子供の頃に「ドカベン」を読んだことがあり、アピールアウトのルールを知っていた。あえてタッチアップのための帰塁をせず、一塁ランナーがアウトになるよりも先に本塁に入り、本塁到達のタイミングを主審に確認している。その後は素知らぬ顔をして、鳴門高校が気づかないままベンチに引き上げるのを黙って見ていた。

アピールアウトは、本塁への進塁が絡む際に発生することが多い。主にスクイズだ。プロ野球よりも高校野球のほうがスクイズを多用するので、このルールが適用される状況は高校野球のほうが多い。
甲子園大会を見ていると、1アウトで1, 3塁か2, 3塁という状況は、わりと多い。そういう時にスクイズを選択するチームも多い。そういう時には、「ちゃんとルール分かってるかな」と、要らん心配をしてしまう。



日本の漫画っていろいろ勉強になるなぁ。

カレー屋さんの看板

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近所に、おいしいインド料理のお店があるんですけどね。


外でカレーを食べるときは、本格派のインド料理店に限ります。日本のカレーとはまたひと味違ったカレーが楽しめます。
店員さんもインド人。カレー以外にも、現地の本格インド料理が多種多様に楽しめます。


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僕のお気に入りはチキンキーマカレー。 


本場のインド料理屋さんでカレーを食べるときは、ライスではなくナンでいただきます。これが本格的な竃で焼き上げるふっくらしたナンで、たいへんにおいしい。
このお店に行くときはいつも


カレーといっしょに食べるとおいしいものはなんでしょうか?

「うん、そうだよ」

いや、だから、なんでしょうか?

「いや、だから、そうでしょ?」


という、噛み合ない会話ごっこを嫁といっしょに楽しむのであります。
しかもこのお店、ナンがおかわりし放題なのです。量を重視するワタクシめにとって非常にポイントの高いところであります。


ところで、このお店の名前は「アグラ」。店の看板には世界遺産で有名なタージ・マハル廟が描かれていて、インドっぽさを醸し出しています。
まぁ、外国でインド人の方々がお店を出す時には、「インドのイメージ」としてそういう表象を使うものなんでしょうね。


こういうお店を見るたびに、僕は非常に不思議なんですが。
インドの人たちっていうのは、これで葛藤とかないんですかね。


まず基本的な知識として、インドは人口の80%以上がヒンドゥー教を信仰している。ヒンドゥー教人口は8.3億人もいて、日本の人口の約6倍だ。キリスト教、イスラム教について信者数は世界で3番目に多く、「世界三大宗教」の一端を担っている。

ところが、インドの象徴ともいえるタージ・マハール廟は、イスラム教の建築物だ。つまり多くのインド人にとっては「異教徒の建物」であり、あまり国民感情にフィットした表象ではありますまい。

しかも、店名の「アグラ」。これは首都デリーの南200Kmくらいに位置する都市の名前で、タージ・マハール廟がある街として世界中から観光客が訪れている。
このアグラという街、16世紀から19世紀にかけてインドを統一していた、ムガル帝国の首都だった。ムガル帝国はモンゴル騎馬民族の末裔で、イスラム教を国教としていた。当時の世界地図でいえば、ムガル帝国はイスラム勢力範囲の東の果てという位置づけだった。

ムガル帝国は、第5代皇帝シャー=ジャハーンの治世下で最盛期を迎える。タージ・マハル廟が作られたのもこの頃だ。愛妃ムムターズ・マハルが死去したことを悲しみ、総大理石の墓廟として建築した。たいした墓だ。タージ・マハルにはモスクや尖塔など、イスラム建築の基本をきちんと踏襲している。あくまでもイスラムの建築物だ。

つまりアグラというのは、歴史上「イスラム教の街」なのだ。ヒンドゥー教徒が大多数を占める現在のインドでは、宗教感情として「これぞインド」という街ではあるまい。
しかもムガル帝国というのは、インド人にとっては征服王朝であり、「よそ者に国を支配されていた王朝」だ。そういう時代の首都と建築物を、インドの表象として使うのは、インド人の国民感情として何の問題もないものなのだろうか。


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これイスラムっすけど、いいんすか


インドの歴史を紐解いてみると、思いのほかヒンドゥー教が政治史に果たしている役割は少ない。インドの歴史上、統一王朝として宗教をヒンドゥー教に定めたのは、グプタ朝(4世紀〜6世紀)しかない。インドの宗教はグプタ朝期を境に二分され、以前は仏教、以後はイスラム教が多い。

「以前」としては、例えばマウリヤ朝(前4世紀〜前1世紀)はアショーカ王が積極的に仏教を保護して信奉した。クシャーナ朝(1世紀〜3世紀)はもともとイランの王朝だが、インドに勢力を拡大した途端に仏教圏に取り込まれている。まぁ、それはそうだろう。今ではインドに仏教徒は1%もいないが、もともとインドは仏教の発祥地なのだ。またグプタ朝の時期は、まだマホメットによってイスラム教が興される前だ。
一方、「以後」としては、怒濤のようなイスラム勢力の東進に押される形で、地域分裂の形でイスラム圏に取り込まれた。小国分裂状態だったインドをようやく統一したのは、ムガル帝国(16世紀〜19世紀)の成立を待たなくてはならない。

ムガル帝国はイスラム教を基盤としていたが、その頃にヒンドゥー教などの土着宗教が衰退していたかというと、そういうわけではない。ムガル帝国は統一王朝ではあったが、成立の頃はまだ支配基盤が強固ではなかったようだ。第二代王のアクバルはイスラム以外の宗教にも寛容策を布いた。ムスリム以外に課せられる人頭税(ジズヤ)を廃止し、他宗教の活動を容認した。アクバルの妻は、ヒンドゥー教徒であるラージプート出身の女性だ。

世界史上、宗教王朝が他宗教に寛容な政策をとるときは、土地所有者である異宗教徒から地税を確保する必要性が理由であることが多い。ムガル帝国勃興時も、土地を所有していたのは現地人(ラージプート)の支配階層だった。アクバルは彼らを取り込むためにジズヤを廃止し、他宗教からも人材を登用した。
宗教寛容策が税収入のためであるならば、その基盤が確立し次第、寛容策をとる必要はなくなる。ムガル帝国も、アウラングゼーブ王の統治下で国の領域が最大に達すると、ジズヤを復活させている。

こうした歴史を眺めていると、インドの歴史において、ヒンドゥー教というのは「政治支配の基盤にはならないが、現地人にはしっかりと定着していた宗教」というものだったことが分かる。ヒンドゥー教によって国が成立することはないが、ヒンドゥー教によって王朝が終焉することはある。

ムガル帝国後期にイギリスに対して起きたインド大反乱(セポイの反乱、1859)も、きっかけとなったのは砲弾の薬包に牛脂が塗ってあったことだった。牛を神聖視するヒンドゥー教徒にとって、牛脂の塗られた薬包を噛み切るのは禁忌になる。

現在のインドでヒンドゥー教の影響力が強くなったのは、イギリスから独立するという目的上、インド人が何らかの精神的なつながりを必要としたからではなかったか。インドには東と西の両翼にイスラム教信者が多かったが、西はパキスタン、東はバングラディシュとして、それぞれ分離独立している。しかしイギリスから独立した後のインドが、ヒンドゥー教に基づく宗教国家をつくったかというと、そんなことはない。

おそらくヒンドゥー教というのは、「政治色の薄い宗教」なのではないか。知識として、ヒンドゥー教というものがあるということを知っている人は多いが、実際にヒンドゥー教の教義を知っている人は少ないだろう。
世界史では、キリスト教やイスラム教など、宗教が政治権力に介入して治世を敷くことが多い。しかし、そうでない宗教だってあるだろう。政治とは無縁のまま、宗教として宗教のみを目的として宗教のために宗教を執り行う宗教だって、広い世界のどこかにはあるだろう。ヒンドゥー教というのは、そういう宗教のひとつではないのか。

宗教も政治も、多種多様な人の思惑をとりまとめ、共同体を維持するという共通点がある。世界史上、政治力を公使する宗教が多いのはそのためだろう。しかし、政治を行なうためには、きれいごとばかり通すわけにはいかない。理想とは異なる現実的な施策を強いられることだってあるし、基本方針と矛盾する策を取らなければならないこともある。

ヒンドゥー教は、そういう政治的に必要とされる現実的な方策を、はじめから放棄しているのではないか。教義のために辻褄を合わせるとか、矛盾に関する論争とか、そういう面倒なことをすべて最初から放り投げているかのようだ。政治的な力がないというよりは、はじめから政治など関心がない宗教に見える。
海外に出たインド人が、イスラム教の建築物や都市の名前をインド料理店に掲げるのも、「だから何だ」という、理屈に合わせることに対する無関心によるものではあるまいか。政治的な感覚では、自分の属する立場に与しないものを掲げるのは、矛盾だろう。しかし、そういう現世的、政治的、理念的な「常識」が、世界のどこでも誰にでも、等しく通用するはずだと思うのは、一面的なものの見方でしかない。

僕はヒンドゥー教徒ではないし、ヒンドゥー教徒のものの考え方も知らない。しかし、インドの歴史から察するに、いわゆる西洋的な理念や常識がそのまま通用する観念ではないことは見当がつく。自分がどんな宗教を信奉していようとも、他宗教の表象を店の看板に使って、「それが何か?」で済ませる。考えてみれば、そういう柔軟性のある考え方のほうが、生きていくのは楽だろう。
日本人だって、人のことは言えない。寺社仏閣で初詣をし、クリスマスの時期には浮かれ騒ぎ、教会で結婚式を挙げることを夢見て、神頼みのためにおみくじを引き、葬式のために坊さんを呼ぶ。いったい何教だ。

宗教というものは、理屈や理論による統一性を指向するためのものではない。人のいない自然世界の真実を見るのが目的ではなく、あくまでも人がつくった、人のためのものなのだ。人が生きやすいような生き方を提供できていれば、宗教はいい仕事をしていると言える。信義や教義にがんじがらめになって「したくてもできない」という縛りが多くなるほうが、宗教としては本末転倒なのだろう。たかがカレー屋さんの看板ではあるが、そこから見える宗教の姿というのは、なかなか面白い。 



珍しいお茶も飲めるのでセットで頼むのだ。

日帰り旅行するのだ。

春休み中ですので、ずーっと家で仕事しています。

なんか鬱屈してきたので、ちょっと旅行に出かけることにしました。
関東近郊に日帰り旅行です。ちょうど春らしくなってきましたしね。



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楽しゅうございました。




現地で地図もらえます。
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「メルカリ」CM、『サヨナラ青春篇』




こういうのをユーモアとは言わない。気持ち悪い。

数学の勉強

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現実的には、高校生は勉強の目的をどちらかに絞ったほうがいいよ。
「大学入試に合格する」か、「原理原則を徹底して理解する」か。



後者は大学入って以降の楽しみにとっときな。

折田先生像2017

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「チクショー」とならぬよう 京都大、折田先生像
(京都新聞)

2次試験が始まった京都大の吉田南キャンパス(京都市左京区)に25日、恒例の「折田先生像」が現れた。今年は、お笑いタレントのコウメ太夫さんになり、受験生にエールを送った。 

張りぼての折田先生像は、同地にあった旧制三高初代校長・折田彦市の銅像があった場所に毎年置かれ、2次試験が終わると姿を消す。制作者はわからない。  

コウメ太夫さんの決めぜりふ「チクショー」とならないよう、受験生はミスのないよう落ち着いて試験に臨んでほしい、との思いが込められているのかも。




今年はちょっとクオリティ低いな。

壁ドン

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される側の身になろう。

間投助詞「や」

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文末の「や」は、感動詞、間投助詞、係助詞がある。
感動詞は体言接続ではなく単独で使われるので、ここでは助詞。

間投助詞の用法は、詠嘆、呼応、列挙、切れ字。
係助詞の用法は、疑問、反語、応答。

この場合は間投助詞の詠嘆用法(〜だなぁ・〜なことよ)。
なんか据わりが悪く聞こえるのは、現代日本語文法からやや逸脱した古典文法を使っているせい。

助詞というのは本来、名詞につくものだが、この場合は用言連体形に接続している。
間投助詞「や」は、古典文法では用言連体形に普く接続していたが、現代日本語では、「や」のつく用言連体形はほぼ形容詞だけに限られる(「暑いや」「思い出せないや」など)。動詞・形容動詞に接続することはほとんどなくなった。
それが、この文が文語的に聞こえる理由。



一瞬「ん?」ってなったけど、ニュアンスは分かる。

げんこつ山のタヌキさん

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確かに関係がまったく分からん。

国別の性格

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むしろ国旗はいらないだろ

絵を買ってくれた少女

「名前も聞けなかったパリの少女へ。
またあなたに見つけてもらえたら幸せです。 」
森下真


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プロなら誰もが通る道。

学術用語の翻訳

「形而上学」って何のことじゃい。


大学で科学や哲学を教えると、学生が分かった振りして分からないまま先に進もうとすることがある。
特に基本的な用語に関しては、勉強が進んだ段階で質問することが憚られるのか、質問しようとしない。

その代表的な用語として「形而上学」という言葉がある。哲学用語だが、科学論文にも出てくる。ひどい学生になると、「文字では見たことあるけど、何と読むのか知らない」というのもいる。
まぁ、「けいじじょうがく」なんて代物、健康で文化的な生活を送っている範囲では一切関わりのないものだろう。

科学論文でこの用語が出てくる時には、おおむね否定的な文脈で出てくる。「なぜ○○○というものがあるのか、という問いは、もっともな問いではあるのだが、この件に関しては形而上学的な議論になってしまうので、ここでは扱わない」のような言い方が多い。
つまり、科学の立場からでは、形而上学というものは否定するのが一般的だ。その印象から、科学を勉強している学生は、形而上学を「なんか得体が知れないけど、とりあえずダメっぽいもの」という漠然とした理解のままでいることが多い。

学生から「先生、形而上学って何のことですか」と聞かれたとき、僕は「うーん、真面目に覚える必要はないよ。科学が説明できない一切合切を、適当に説明しようとしたもの、と思っておけばいいよ」と答えることが多い。合ってはいないが間違ってもいない。
僕は科学を教える立場だから、形而上学はいずれにせよ否定する立場にある。むろんその存在意義まで否定するつもりはないし、その立場を取ろうとする人は勝手にすればいいと思うが、少なくとも僕の教える教室は形而上学を実践する場ではない。


個人的には、「形而上学」は誤訳だと思う。しかし、一般的な意味での誤訳とはちょっと異なる。
一般的に、用語の翻訳というのは難しい。特に、科学・哲学の用語は、明治期に西洋思想が一気になだれ込んできた時に急を要して翻訳されたものが多い。西周や福沢諭吉などは、そういう西洋の学問用語を翻訳するのに苦心し、造語や借用語などを駆使してなんとか日本名をつけた。

翻訳というのは、訳した言語で理解できなくては意味がない。意味を正確に訳すことに苦心するあまり、母語話者が聞いたこともなく理解もできない用語になってしまうのでは、翻訳した意味がない。
現在でも、「形而上学」という用語を初見で聞いて、一発で理解できる日本人はいないだろう。その時点でこの用語は誤訳、少なくとも悪訳と断じて良い。翻訳としての要件を満たしていない。

形而上学は、英語ではmetaphysics。physicsは「物理」、metaは「超」なので、字面だけ訳すと「超物理学」となる。要するに、物理などの科学的方法論で捉えられない世の道理を探るのがmetaphysicsだ。metaphysicsという英語のほうが、「形而上学」という訳語よりも、どういうものかよっぽど分かりやすい。
もともと「形而上学」が生まれたギリシアでは、physicsは物理だけを表すものではない。もともと形而上学の源流は、古代ギリシア時代、アリストテレスが開設した学校「リュケイオン」の講義ノートに由来する。

リュケイオンでは、初年度に一般教養(動物学、植物学、心理学、論理学など)を勉強する。これは大学の一般教養科目のようなものだろう。高学年になると、一般教養に基づいた「自然学」(ta physica)を学ぶ。これは自然の振る舞いについての学問で、要するに物理学のことだ。いまではこの学問だけ独立してphysicsを名乗っているが、化学や天文学が未発達だった時代にあって、自然を学ぶことは要するに物理学を学ぶことだった。
ちなみにアリストテレスの「自然学」は、今の物理学で答え合わせをすれば間違いだらけで、これが後に2000年以上に及ぶキリスト教の暗黒時代の引き金になる。

リュケイオンの最高学年では、イデア論の批判と検証を交えた存在論について議論をする。カリキュラム上は「第一哲学」という講義名だった。これはアリストテレスの師匠だったプラトンの学説で、実際には眼に見えない現象や道理に対してその原理を問う学問だ。

プラトンのイデア論というのは、かいつまんで言うと、「世の中で目に見えるものはすべて単なるダミーで、それぞれの本質は『イデア』として天界に存在する」という考え方のことだ。
例えば、「たくろふという個体」と「福山雅治という個体」は、見かけや人気や収入に相当の差がある。しかし両者はともに、理想世界にある「男」というイデアが、たまたま現世に写像されたダミーに過ぎない。だから現世で人の眼に見える両者の姿や存在は、実際には「たいした違いはない」ということになる。イデアはidea(アイデア)の語源となっている概念だが、その本当の意味は「発想」ではなく「理想」といったほうが近い。もとはideinという動詞で、これは「見る」という意味だ。

アリストテレスは、プラトンのイデア論を批判するが、結局は師匠越えをすることは叶わず、結局はイデア論を継承することになる。イデア論に関する議論は、科学のように公理や観察を出発点とするものではなく、とても抽象的だ。だからリュケイオンでは、初年度に「一般教養」、高学年で「自然学」を段階的に学習させ、それらをクリアした者だけが「イデア論」に関する議論をすることが許された。

アリストテレスはリュケイオンの講義ノートを書き残しているが、イデア論を論じた「第一哲学」の講義ノートはそのままずばりのタイトルをつけず、なぜか「自然学の後のノート」(ta meta ta physika)という名前をつけている。確かに「第一哲学」は「自然学」を履修してから受講する科目だったが、それをそのまま講義ノートの名前にしている。「自然学(ta physika)の後(ta meta)」という意味だ。つまりここでのmetaは「超」などという大それた意味はなく、文字通り「〜の後の」という意味に過ぎない。
これがラテン語に翻訳されたときに、冠詞のtaが取れる。ラテン語には冠詞がないから、ただ単にmeta physica、つまり「自然学の後」というだけの用語になる。リュケイオンのカリキュラムを知らなければ、なぜ「自然学の後」なんて名前になっているのか分からなかっただろう。

のちにキリスト教が、この用語を勝手にねじ曲げる。
中東の一小宗教だったキリスト教は、徐々に勢力を拡大し、ローマ帝国に布教範囲を広げる。それに伴い、単なる信仰だけではなく、理論武装が必要になった。教義体系が脆弱な宗教は、理詰めでローマ市民を丸め込みにくい。世界がどのようにできているのか、世界はどのような原理で動いているのか、学問的なアプローチで「世界の解」を説かなくてはならなくなった。単なる宗教には酷な要求だろう。

そのためにキリスト教は、約800年前のアリストテレス哲学を利用することを思いついた。リュケイオンの講義録をひっくり返し、いかにも世の中を理解したように書いてある「自然学の後のノート」(=「第一哲学」)を、キリスト教の教義に勝手に組み込んだ。いわゆるスコラ哲学だ。
プラトンのイデア論では、世の中すべての「本質」としてのイデアの正体は、明らかにされていない。それをキリスト教は、勝手に「神の恩寵」にすり変えた。超自然的な現象や奇蹟をすべて「イデアの表出」として捉え直し、世の中の現象はすべて神の意思である、という教義をこね挙げた。講義ノートの内容を勝手に使われたアリストテレスは、墓の下で憤懣やる方なかっただろう。

しかもキリスト教は、アリストテレスの叡智を無断借用しただけでなく、名称の意味までも勝手に置き換えた。metaphysicsという用語は、単に「自然学を履修したに学ぶ分野のノート」に由来する。「自然学の後」というだけの意味だ。しかしキリスト教は、meta(=「後」)の意味を、勝手に「超」という意味に読み替えた。つまり、metaphysicsという名称に「自然学をはるかに超えたもの」という権威付けを行なった。このハッタリによって、キリスト教の教義、なかんずくスコラ哲学は「自然学とはレベルの違うもの」「一般の下々の頭脳では到底及ばないもの」という、ありがたくもうやうやしい学問に昇格した。

しかしスコラ哲学が論じるmetaphysicsの実体は、「神の意思だからそうなっているのだ」という、要するに反論封じだ。自分なりの方法で世の中の真理を掴もうと試みたアリストテレスと違い、キリスト教の目的は最初から「真実の理解」などではない。単に布教と権威付けが目的だ。 ここに至り、metaphysicsは原理的に発展し得ないものに堕ちる。キリスト教の倫理観という枠内に押し込められたアリストテレス哲学は、権威が許す教義の中をぐるぐると廻るだけのものとなり、利用されるだけのものとなった。蓋し、キリスト教の権威と、その教義理念の中心を占めたスコラ哲学が席巻した中世という時代は、学問にとっての暗黒時代と言ってよい。

つまり現代的な眼で見ると、metaphysics、「形而上学」というのは、最初から科学が扱える範囲のものではない。存在に関する議論(「なぜ人間は存在するのか」)、道義に関する議論(「人はどう生きるべきなのか」)など、科学が対象としない問いで、かつキリスト教が権威をもって偉そうに教義を垂れ流していた学問、それが「形而上学」の正体だ。
僕が「真面目に覚えようとする必要はないよ」と説明する所以だ。

元祖のアリストテレスには気の毒だが、中世1000年の間に、metaphysicsという用語の意味が変わり過ぎた。近世以後の哲学史は、スコラ哲学の解体と新たな理論体系の再構築に追われることになる。宗教的世界観と現代科学の橋渡しとして、唯物論が思想的潮流の中心を占めていた時期にも、哲学者はイデア論の亡霊に取り憑かれ続ける。「世の中には何らかの『理想』があり、それを明らかにするのが哲学の仕事、実現するのが政治の仕事」という理念は、近世全体にわたる西洋思想史の傾向だ。のちにニーチェによって虚無主義が提唱され「キリスト教の理念は自壊しもはや思想の中心には成り得ない」という宣言(「神は死んだ」)によってスコラ哲学が終焉するまで、延々とその理念は継承され続けた。

これだけの歴史的背景をもつmetaphysicsを、明治時代の学徒が正確に理解し得たとは思えない。少なくとも、一発で理解できる翻訳をすることは無理だっただろう。元祖のアリストテレスに沿うならば「自然学の後の分野」「第一哲学」「超自然学」などの訳語でも良いだろうが、その思想内容を蹂躙したキリスト教の時代を踏まえると「神の理屈」くらいの日本名が手頃だと思う。「形而上学」よりは1000万倍マシだろう。

「形而上学」という用語は、『易経』繫辞伝にある。


形而上者、謂之道、形而下者、謂之器
(形より上なる者、これを道といい、形より下なるもの、これを器という)


ここでいう「形」というのは、「世の中に実際に存在しており、眼に見えるもの」くらいの意味だ。たくろふとか福山雅治に相当する「実在物」だ。これより「下」にあるもの、つまり「現世」にあるものは、外側だけを示す単なる「器」に過ぎない。その「道」、つまり「本質」は、形を超えた「上」の世界に存在する。

まぁ、プラトンのイデア論と、それほど言っていることは違っていない。しかも、それの「上」に存在する「道」(=イデア)を解明するmetaphysicsの意味として「形而上」の箇所を使っていることも、違ってはいない。
つまり、易経の「形而上」という言葉は、metaphysicsを表す言葉として、それほど間違ってはいない語と言える。

しかし、わざわざ易経から言葉を引っ張ってくる必要はあるまい。metapysicsの訳語として「形而上学」というのは、もともとの易経を知っている人であれば「なるほど」と膝を叩くものかもしれないが、世の中の誰もが易経に通じているわけではないのだ。易経の一説だって、この文だけぽいっと渡されたら、何の事やらさっぱり分からない。説明してもらわにゃ意味が分からん。

metaphysicsという説明が必要な言葉を、易経の説明が必要な言葉に置き換えているだけであれば、翻訳はなにも仕事をしていない。外国語が全然分からない人にドイツ語を訳してくれと頼まれたら、それをフランス語に訳したところで仕事をしたことにならないだろう。翻訳というのは、必ず一方の言語が「その語を使用する人が確実に分かる言語」でなければ意味がない。分からない言葉を分からない言語に訳すことを、翻訳とは言わない。僕がこの語を「誤訳だと思う」というのは、そういう意味だ。

形而上学という用語は、明治期に翻訳された学術用語のなかでも悪名高い。おおむねこの用語を批判する際には、当時の日本人が抱いていた西洋文化に対する劣等感と、教養のない庶民に対する優越感が一体となって、「貴様ら下々には簡単に分かる概念ではないのだ」という驕り高ぶった翻訳、という悪評が多い。すぐには分かりにくい、重々しい用語で訳したほうが、学術用語として権威が感じられる。なんか重要そうな感じに見える。そういった見方でこの用語を捉える人が多い。

しかし僕は、そこまで明治期の学徒に対して否定的な見方をしていない。metaphysicsを「形而上学」と訳したのは、誤訳ではあろうが、それは意図的なものだったのではないか。あくまでも便宜上の措置だったのではないか、というのが僕の印象だ。
明治期に日本が西洋の文化を吸収する必要に迫られたのは、富国強兵のためだ。そのために必要なのは、端的に言って自然科学と法学だ。哲学なんてものは、不必要な学問リストの最上位に位置する。つまりmetaphysicsという用語自体が、当時の日本にとって「それほど必要ではなかったもの」なのだ。

明治期の学徒が、metaphysicsという用語の変遷と歴史を正しく理解していなかったのは確かだと思う。資料、時間ともに足りなさすぎる。キリスト教に基づく世界観の理解の仕方、というあたりまでは見当がついただろうが、ギリシア時代に遡ってアリストテレスやプラトンの思想に由来する言葉であることは知らなかっただろう。ましてや、この語がもともとは単に「自然学の後のノート」というだけの意味だったことは知らなかったに違いない。

この用語が易経なんぞを引用した「形而上学」という名称に訳されたのは、「よく分からない」ということを名称に準えて、その内容の究明を後世に委ねる意図があったのではないか。敢えてよく分からない語に訳したのは、「今は急いで学ぶ必要がない」という、一種の防波堤の意図があったのではあるまいか。手持ちの語彙で簡単に訳せる語ではない。されば「易経」からの当該する箇所を引用して、とりあえず便宜的に訳しておく。「易経」の該当箇所が、metaphysicsの目指す内容とそれほど乖離していないことから、この用語をわざと分かりにくい語に訳したところに何らかの作為を感じる。おそらくそのほうが穿った見方だろう。


究極的には、学問というのは原著を読まないと意味がない。しかし日本は、世界でも例外的に翻訳によって母国語でほぼ世界中の叡智に触れることができる、珍しい国だ。大学教育を自国語で行なえる国は、世界でそれほど多くはない。 そして、その翻訳というのは、明治以降の学術研究の徒がそれぞれの時代ごとに信念をもって行なってきた「知の集積」だ。
その中でも特に、哲学の本は翻訳が読みにくい。翻訳用語が恣意的で、何を言っているのか分からない。原著を読んだほうが早いこともある。そういう珍訳語を見るたびに、後回しにされた学問の悲哀を感じ、そんな分野をのんびり勉強できる平和な世相に感謝せざるを得ない。



最近では全部カタカナ語で読み下すそうです。

大勢に逆らう気質

言語学の授業で「混成語(かばん語)」というのを教えるんですけどね。


混成語というのは、たとえばbreakfast と lunch を合わせて、brunch という新しい語を作るような造語法。smoke と fog を合わせた smog というのもある。
最近、この混成語の例として、Brexit という造語を入れて説明することが多くなった。イギリスの新聞で多く使われている新語だ。

その意味は、Britain と exit を合わせたもの。つまり「イギリスの欧州連合からの脱退問題」のことだ。2016年6月23日に国民投票が行なわれ、結果は多くの国民にとって「まさか」の「離脱」。離脱票が51.9%、残留票は48.1%という僅差でありながら、過半数の国民がEU離脱を指向していることが判明した。

多くのマスコミは大慌てでこの件を報道していたが、それはマスコミの側が残留側を希望していたからにすぎない。アメリカ大統領選のトランプ勝利のときと同じように、マスコミは事実を報道するのではなく、「マスコミにとってのあるべき姿」を報道する。事実から目を背け、事実が理想からはずれていれば迷わず煽動する。そのブレーキを効かせて尚、この結果だから、本当のところは離脱を指向する国民はもっと多かっただろう。蓋し、アメリカ大統領選挙とイギリスEU離脱のふたつの件は、マスコミの報道のあり方が事実から乖離しており、世相を客観的に報道していないことを示す顕著な例として、同じようなものだろう。

僕はこのイギリスEU離脱は、昨今おおはやりの「グローバル化」なる大合唱に対するアンチテーゼだと思う。
学生は、この「グローバル化」という言葉が大好きだ。学生に国際関係についてレポートを書かせると、この言葉が出てくる回数が10回や20回では収まらない。とにかく「グローバル化」とさえ書いておけば、時流を正しく捉えたような気になれる。視野が広い人間を装える。そんな安直な「言葉のイメージ」だけで、安易に「グローバル化」という念仏を唱える輩が増えている。

もしグローバル化を極限まで押し進めていけば、それは「国家」としての垣根が一切働かない事態になる。全世界を均一化し、富める国が貧しい国に財力を配分することになる。
日本は、世界の中でも経済的に恵まれている国だ。もし「グローバル化した社会」なるものが究極に達成されたとしたら、それはつまり「日本が、貧しい国に富を譲り渡し、今の経済レベルからかなり失落した状態を甘んじなければならない」ということだ。日本は、世界を均一化したら、「得られる側」ではなく、「与える側」なのだ。「明日から外国人を100人雇用しなければならなくなったから、日本人を何人かクビにしなきゃならん。というわけでお前、明日からクビな」と言われても、「グローバル化だから、しょうがないか」と納得しなければならない。

無邪気な大学生は、「グローバル化」という言葉を使うとき、上しか見ていない。アメリカやヨーロッパ各国の、日本よりも洗練されて上品でカッコいい(と思い込んでいる)文化や価値観を手にすることしか考えていない。発展途上国や経済破綻国との関係でも、「そういう国独自の文化を」という「得したい欲求」は依然として根強い。また「そういう国に日本が技術援助を」と、安易に「正義の味方」に成り切って使命感に燃え盛る脳足りんも多い。

島国である日本の学生は、潜在的に外国に対する憧れが大きい。「意識高い学生」ほどそうだ。日本のことを何も分かってないくせに、やたらと海外に出ることを「自己実現」と捉える安直さがある。
ところがそんな学生でも、就職活動の時期になって、外国人雇用を増やさなければならないから自分の就職先がなくなっても平気か、と問われれば、そんなことはない。彼らの「グローバル化」というのは、あくまでも「(自分の権利が充分に保障された上での)グローバル化」に過ぎない。グローバル化なる傾向によって、日本にとっては得るものよりも失うもののほうが多いことに、気づいていないし、気づこうともしない。

今回のイギリスのEU離脱は、そういう「見ない振りしていた真実」が、表面化した出来事に過ぎない。イギリスでEU離脱派が多くなった背景は、移民流入が増え過ぎたことだ。アフリカやヨーロッパ内の難民は、イギリスを目指す。社会保障が最も充実しているからだ。その金は、国民の税金から出ている。つまりイギリス国民にとっては、「自分が払っている税金で、よその外国人を養っている」という状況になっている。そりゃたまらんだろう。

今回のイギリスのEU離脱は、突然生じた動きではなく、いままで何回もその傾向が見られている。たとえば、EU内でイギリスだけは通貨としてユーロを使用しておらず、いまだにポンドが流通している。その判断が正しかったことを示したのが、2015年のギリシア経済破綻だ。

ギリシアは国民の4人に1人が公務員で、ろくに働かなくても国が食わしてくれる、という特権階級意識が強い。国内にはろくな産業がなく、過去の遺産による観光収入が命綱だ。唯一世界レベルの海運業は、国が税金を取れない。そりゃ経済も破綻する。
そこでEUはギリシアの経済危機がEU圏内に広がることを心配し、IMF(国際通貨基金)を通して経済援助を行なった。金遣いの荒い奴に金を貸すには、条件をつける必要がある。IMFがギリシアに突きつけた条件は「財政緊縮」。公務員の数を減らし、年金や社会保障を削減する歳出削減を要求した。そうしなければ借金を返せる見込みもないからだ。

ところがギリシアは、国民投票でその財政緊縮策を否決してしまう。「生活を我慢して苦しくするよりも、今まで通りのほうがいいじゃん。国が破綻?俺には関係ないもん」という、なんともいいかげんな理由だ。その結果、当たり前だが、ギリシアはIMFへの借金が返せず、債務不履行(デフォルト)状態に陥る。

慌てたのはEU各国だ。EUという枠内にある以上、破綻国家が生じてはEU全体の経済政策に歪みが生じる。ここに至ってギリシアは初めて反省し、緊縮財政を立法することを条件に、EUから借金をする。EU各国はギリシア支援のために、貴重な国家財政を削減する羽目に陥った。

国家の財政が厳しくなったら、とりあえず国債を発行し国民に借金をして、後で通貨発行によって補填するのが常道だ。好ましい方法ではないが、その場しのぎにはなる。
ところがEU各国にはその手が使えない。EU圏内で流通しているユーロの発行権は、各国が独自に有しているのではなく、欧州中央銀行(ECB)だけが有している。各国が勝手に紙幣を刷っていいわけではない。そのためギリシア支援のための支出を賄う緊急措置がとれず、EU各国は経済的に苦境に陥った。

その例外がイギリスだ。イギリスはポンドを使っているため、自国で紙幣発行権を有している。つまり、国債が簡単に発行できる。国債は要するに借金なので、根本的な解決にはなっていないが、紙幣流通量の激減がもたらすデフレを防ぐ程度の役には立つ。イギリスはユーロを使わないことでギリシア経済破綻の影響を受けず、安定した為替相場を保つことができた。

おそらくこの頃に、イギリスは「あまりEUに深入りすると、ロクなことはないぞ」という実感を得たのではないか。イギリスの経済力は、EU圏内で文句なしのトップランクだ。もしEU圏内で「助け合いましょう」の事態が多くなれば、イギリスは間違いなく「助ける側」に廻らなければならない。自国は損をする一方で、それで得られるものなど何もない。そういう「グローバル化」に対する胡散臭さが、イギリスでは蔓延していたのではないか。
そういう流れで見てみると、イギリスのEU離脱は、むしろ必然だったのではないか、という気がしてならない。


僕はかねてからヨーロッパのEU化を懐疑的に見ていたが、それに反する動きがイギリスから出てきたのが、いわば歴史を反映した事態に見える。
EU圏内で「助ける側」の国は、イギリスだけではない。EU経済は実質上、ドイツが動かしているし、オランダやフランスも外貨獲得が上手い。そういう国だって、ギリシアの一件以外にも、「なんで俺たちが損をしなければならんのだ」と感じることは多かっただろう。なのに、そういう国からはEU離脱の声が上がらず、イギリスからは上がった。それはなぜなのか。

それを考える際には、最近の、表に見える事態だけではなく、ひとの考え方の内面に関わる要因を考える必要がある。イギリスというのはどういう国なのか。イギリス人というのはどういう考え方をする国民なのか。



Bentham


ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
イギリスの哲学者・経済学者・法学者。
「功利主義」の提唱者として知られている。

僕にとって、学生時代に受けた印象と、現在の印象がかなり変化している人が数人いる。ベンサムはそのひとりだ。学生時代は「無茶苦茶なこと言う嫌な奴だな」という感じだった。ところが実際にベンサムの著作を読み、当時の時代背景やイギリスの歴史の流れを考えてみると、その本意が徐々に分かってきたような気がする。

功利主義というのは、要するに「多くの人が幸せになれるのだったら、それが正義ってことじゃね?」という考え方のことだ。ちゃんと言うと「最大多数の最大幸福」という言葉で表される。
ちょっと考えれば分かるが、この考え方は、多数決の暴力に直結する。「多くの人が良ければそれでいい」という考え方は、言い方を変えれば「小数派を容赦なく切り捨てる」ということだ。また産業革命によって増大した資本家の「幸福」を実現するため、植民地獲得を指向する帝国主義の理論的背景となった。ひとむかし前に多くの書店が気が狂ったように売り出していた『これからの「正義」の話をしよう』(マイケル・サンデル著)でも、功利主義は批判対象の叩き台として使われている。

現在、功利主義の功罪が議論されるときには、おおむね「その後の世界に与えた影響」だけで判断されていることが多い。確かにこの考え方は、現在否定されている帝国主義を招いた一面があり、それは負の面として認識しなければならないだろう。
しかし、本当にベンサムを批判し、その思想を否定するのであれば、後世の影響だけを云々するだけでは「第二のベンサム」を阻止するための抑制力にはならない。なぜ、ベンサムはそんなことを言い出したのか。ベンサムが現れた前段階の歴史からつなげて考えなくては、功利主義の正しい位置づけはできない。

ベンサムが登場した時代背景には、「外面」と「内面」がある。
外面というのは社会経済史、内面というのは哲学思想史の範疇に入る。

外面的な背景としては、イギリスが世界で初めて市民革命を達成し、力づくで平等を作り出した歴史がある。この市民革命は、他のヨーロッパ各国に衝撃を与えた。生まれた時から身分階級が決められ、王や教会に隷属することが当たり前だと思っていたヨーロッパ各国は、「世の中って、もしかして実力行使で変えられるのか?」と啓蒙された。

ベンサムが生きた時代は、絶対王政が倒れ、市民が主権を持ち、経済活動が活発して産業革命が起きる過渡期だった。ところがベンサムの目には、移行する政治経済の形態は同じようなものに映ったようだ。「王・貴族」という小数派が絶対権利を持っていた時代に替わって、「資本家」という小数派が絶対権利を持つ社会に移行するに過ぎない。ともに、わずかな小数の特権階級が富を独占する形態に違いはない。

一般に誤解されているが、ベンサムは資本家寄りの経済重視主義者ではない。ベンサムは「幸福」とは何ぞや、を定義する際に、それを「本能的快楽」と定義づけた。これは弟子のミルからでさえ「下品」と蔑まれる事態を招いたが、これはミルの見方が狭かったというべきだろう。ミルは後述する、当時の「内面」的な背景に染まっていたと言ってよい。

ベンサムが「幸福」を「快楽追求」と定義したのは、便宜的なものだろう。別に個人が持ってる資産金額でも、愛人の数でも、女の子に告白された回数でも、何でもよかったのだと思う。ポイントはそこではない。
ベンサムが重視したのは、「個人の幸福度は、足せる」という計量的な考え方にある。「正しい社会のあり方は」と考えた時、その要因は社会の構成要因たる個々の人間に帰着する。されば、個人の幸福度を順々に足していった総和が、社会全体の幸福度ということになる。これを倫理・世界史の用語では「量的功利主義」という。

ここで重要なのは、「個々人の幸福度を足す」ということは、その対象者に区別をしない、ということだ。貴族も資本家も労働者も、誰もが等しく「快楽追求」の原則の前では、同じ対象者に過ぎない。つまりベンサムは、「誰もが平等」という理念を持っていた。
実際に、このベンサムの量的功利主義は、のちにイギリスが世界に先駆けて「ひとり一票」の普通選挙を実現する背景となる。

ベンサムは、経済学者であるだけでなく法学者でもある。当時、社会を律する規則は宗教的道徳観だった。「神が見ているからそんなことをしてはいけません」という道徳だ。しかし、ベンサムはそれに「何を言っているんだ」と堂々と反論する。個人の幸福が「快楽追求」を基にしているのであれば、神がどうのこうの言ったところで効果はない。僕自身の経験からしても、自分の中で「快楽の追求」と「道徳観」が戦えば、勝率8割で前者が勝つ。

そこでベンサムは、社会を律する原則として「法律」を提唱した。個人は幸福の実現手段として快楽を追求しても良い。しかし、社会を脅かすような個人の快楽追求は、法によって規制する。
ベンサムの仕事をよく見てみると、法体系の整備にかなりの力を割いている。選挙権を拡大すべく選挙法を改訂しているし、囚人を一望に監視できる円形監獄を発案したものベンサムだ。法によって社会を律するシステムは今日でこそ常識だが、宗教による支配が強かった中世から、人間中心の世界に移行する過渡期にあって、法によって社会の規範をつくる発想はかなり掟破りなものだっただろう。


ベンサムの時代背景のうち「内面」のものは、当時世界の思想界を席巻しつつあったドイツ観念論哲学だ。雑に言うと、カントによって提唱され、ヘーゲルによって大成した。
ドイツでは、イギリスやフランスのような市民革命が起きていない。起きようがなかったのだ。ドイツでは各諸侯が分裂状態にあり、ひとつの国家として絶対主義を敷く「絶対君主」がいなかった。革命が成り立つには、革命が倒すターゲットがひとりである必要がある。国がいくつにも分かれ、国王が10人も20人もいる状態では、革命になりようがない。

そんなドイツでは、イギリスやフランスのように、わかりやすく革命によって社会のしくみを実際に変えるよりも「自分たちの内面世界を変えたほうが早くね?」という話になる。心の中に理想的な社会を夢想し、観念としての「あるべき世界の姿」を現実世界に投影するほうが、望ましい社会を実現できる。「まず動く」のイギリス・フランスに対し、「まず考える」のドイツ、という構図は、この頃に確立した。こういう流れで生まれたのが「ドイツ観念論哲学」だ。

ドイツ観念論哲学は、その発生背景から分かる通り、実践が伴わない。「理想的な世の中」を、頭の中で考えているだけだ。理性を動員し、道徳律をつくりあげ、それに従って生きる規範的な世の中を夢想している。カントは個人レベル、ヘーゲルは国家レベル、という違いこそあれ、上から目線で「世の中はこうあるべし」という規律をつくろうとしたことに変わりはない。

ドイツ観念論哲学は、当時すでにヨーロッパ中に拡散していた啓蒙主義と合致し、市民理念として革命運動の理論的背景となった。啓蒙主義というのは「神とか国王とか、ぜんぜん当たり前じゃなくね?自分の眼で見てみ?自分の頭で考えてみ?」という流れだ。身分階級差による差別が当たり前「ではない」ということを言い切った考え方だ。
啓蒙主義によって「自分たちの国をつくれる!」と盛り上がっても、いざ革命を起こしても国の作り方が分からない。国としてもつべき理念が分からない。そこにドイツ観念論哲学が「国っていうのはこういう気持ちで作るんだ」という「答え」を与えた。

イギリスも市民革命を経験した国として、市民感情としてドイツ観念論の影響を受けていた。要するに、「道徳に従って、人として正しい生き方で、ちゃんとした国を作らなきゃな」という理念だ。
当然ながら、そんな理念は実現できない。いままで人間が作った政権で、そんな綺麗すぎる理想を実現した例などひとつもない。みんな実権や特権を握ったらそれに固執し、「自分だけ良ければそれでいい」という我がままを言うようになる。

そういう流れで、ベンサムは功利主義を提唱した。為政者の「自分さえ良ければそれでいい」という、小数による幸福独占に対して、「おいおい」と突っ込みを入れたわけだ。しかも、道徳だの理想だの建前論を並べる観念論哲学に対して、「なーにきれいごとばっかり並べてるんだ、できもしないくせに」と啖呵を切った。いわばベンサムは、きれいごとばかり並べて現実が伴わない世の中を喝破し、人が見ない振りをしていた人間の暗部を白日の下にさらけ出した。
後世、ベンサムの功利主義を「下品だ」「勝手過ぎる」と批判した哲学者は、まー道徳律に満ちた、それはそれは美しい思想を生み出した、ご立派な人たちばかりだ。そして、そういう批判者が、実際に行動して理想の社会を作り出した例は、ひとつもない。

ドイツ観念論哲学の基本理念として、「人間の理性を信じる」という性善説がある。これをベンサムは全否定した。ベンサムは最初から、「人間は理性的な存在」とは微塵も思っていなかった。人間は放っとけば本能的な存在であり、快楽のままに生きようとする。それを否定するのは自己欺瞞だろう。本能的な存在だからこそ、法を整備し、システムによって個々人の暴走を制御する必要がある。

こういう考え方が、イギリス人のベンサムから出てきたというのが面白い。イギリスの道徳観は、とにかく固い。ビクトリア朝時代の厳格な道徳律、ノブリス・オブリージュと称される特権階級の義務感、英国紳士の儀礼作法。がっちがちの道徳律だ。
こういう国から、「快楽を追求すりゃ、それが幸福ってことだろ」と本当のことを言い切る人間が、いきなり出てくる。それがイギリスという国だ。ひとつの考え方が支配的になった時、必ず「それって違くね?」と逆を向く人が出てくる。

考えてみれば、ヨーロッパの歴史上、時代の常識を覆す新い理念は、常にイギリスから出てきた。絶対王政が当たり前だった中世に、市民革命を起こした。キリスト教の権威が絶対的だった時代に、国王がキリスト教を捨てた。キリスト教的な世界観に逆らうと死刑だった時代に、ニュートンの科学、ロックの政治思想で、「神の世界」に平然と叛いた。イタリアはガリレイを宗教裁判にかけ弾圧したが、イギリスではニュートンは国会議員を勤めている。

「道徳と理性によって良い世の中を」という理想論が席巻していた時代に、ベンサムは「いやいや、人間はそんなに高尚にはできていないだろ」と言い放った。全員が右を向いている時に、ひとりだけ左を向く。伝統的にイギリスは、そういう思想を許容する文化的背景をつくりあげてきた国なのだ。そしてベンサムというのは、当時の常識に逆らい、本当のことをズバッと言い切る「変な人」だった。

現在、「グローバル化万歳」の大合唱の世界において、イギリスがEU離脱という「流れに逆らう決断」をしたのは、こういう歴史的背景の延長上にあるような気がしてならない。しかも、その根本原理は「理想論ばっかり言ってても、EUによって実際には俺らの暮らし悪くなってね?」という、きわめて功利主義的な理由だ。今回のイギリスのEU離脱を見てみると、18世紀にベンサムによって引き起こされた功利主義のインパクトが、再生産されているように見える。

つまり、どんなに理想主義者がベンサムの功利主義を批判し否定しようとも、昨今の世界の流れは、彼の考え方が一面では正しかったことを示している。ベンサムの思想を「こうあるべき」論で捉えるのではなく、「事実はこうだろ」論で捉え直してみると、否定するのは難しい。

それは、ベンサム思想の最大の弊害といわれる帝国主義にもあてはまる。帝国主義は、国家レベルとしての「欲望のままの最大幸福」を極限まで突き詰めた形態だ。
もともとベンサムは、幸福追求に伴う抑止装置として、法の体系の必要性を説いた。幸福追求権と法体系は、車の両輪のように片方が欠けてはならないものだ。ベンサムの幸福追求論は、常に「法の範囲の中で」という但し書きがついている。国という範疇の中であれば、国民の幸福追求と、国が定める法体系で、適切な社会のあり方が求められる。

しかし、国と国とがぶつかる帝国主義の時代には、国同士を制御する国際法を定められる主体がなかった。法という規範がない状態で、国同士が勝手に幸福を追求すると、どういうことになるか。それが帝国主義時代の有様だった。
帝国主義時代にも、ベンサムのように「植民地を作りまくる帝国主義って、何かおかしくね?」と提唱するイギリス人が出てきても、おかしくなかったと思う。しかし実際には出てきていない。それはベンサムの「人は理性で生きてはいない」「人は、利益や幸福を追求するようにできている」という考え方が、正しかったことを示している。


伝統的な道徳律が固いイギリスでは長いこと、同性愛は投獄対象となる「犯罪」だった。しかし、ベンサムは200年以上も前に同性愛を合法化する提案をしている。「誰に対しても実害を与えず、むしろ当事者の間には快楽さえもたらす」という理由だ。ひとの理念が決めつける「道徳観」と、ベンサムの理念と、どちらが正しいのか、いずれ時代が判断を下すだろう。
産業革命、帝国主義の時代に限らず、EU離脱、同性愛の法的処置に至るまで、イギリスはまだベンサムの手の内で踊り続けているように見える。



美し過ぎる理念を唱えた共産主義の末路で答え合わせは充分だろ

身分を捨てる決意

かつて、東京大学入試問題(日本史)で、次のような問題が出たことがある。

守護大名と戦国大名のちがいは、室町幕府が戦国時代においても存続し、戦国大名の多くが将軍から守護に任命され、みずから守護と称したこともあって、形式的には必ずしも明瞭ではない。下記の文章は、『今川仮名目録』のなかの条文の一部を現代文に訳したものである。ここで、戦国大名今川氏は、みずから「守護(使)不入地」に対する位置づけの相違を通して、両者の違いを明らかにしている。これを中心にして、守護大名と戦国大名のちがいを、6行(180字)で述べよ。


「もともと「守護使不入」といのは、将軍が全国の支配権をもち、諸国の守護を任命していた時代のものである。(ところで、そのような政治体制のもとでは)守護使不入であるといっても、(将軍から守護使不入の特権を与えられた者が)不入地に対する将軍の干渉を拒否することはできないであろう。(それと同じ理屈で)現在は、一般に(大名が)自分の力で国法を制定し、両国内の秩序と平和を維持しているのであるから、(大名が認めてやった守護使不入地に対し)大名の干渉をまったく許さないということは、あってはならないことなのである。」
(東京大学 1988年)



表向きは「守護大名と戦国大名の違いは何か」という問題だが、実際のところ東大の出題意図は「戦国大名、戦国大名って簡単に言うけど、戦国大名っていったい何なのか、ちゃんと定義して覚えているのか?」というところだろう。


「戦国」大名というからには、そうでない大名もいる。それが「守護」大名なわけだが、その違いを問う問題。一般常識の盲点を突く良問だろう。
しかもご丁寧なことに、この問題では、盲点の突き方が二重になっている。引用資料が「今川仮名目録」。戦国大名のひとりである今川義元が発布したものだ。



ImagawaYoshimoto

今川義元(1519〜1560)。
駿河国及び遠江国(現在の静岡県)一帯を支配した「戦国大名」。
名前だけは有名だろう。

「戦国大名のなかで、誰が一番好き?」と聞くと、おおむね武田信玄、上杉謙信、織田信長、毛利元就、徳川家康、伊達政宗などの勇猛知将を挙げる人が多い。昨今ではご当地ブームによって、生まれ故郷の戦国大名を贔屓にする人が増えている。NHKの大河ドラマで取り上げられようものなら、地元に大いに経済効果をもたらしてくれる。

そんな中、好きな戦国大名として今川義元を挙げる人はほとんどいない。静岡県の人であってもそうだろう。おおむね、今川義元のイメージは「桶狭間で織田信長に殺された敗者」というものではあるまいか。

実際には今川義元は、群雄割拠の戦国時代において「京に最も近い戦国大名」とされていた。武田信玄が最も怖れた戦国大名としても有名だ。武田信玄の甲斐国(現在の山梨県)は、今川義元の駿河と、上杉謙信の越後(現在の新潟県)に挟まれた位置にある。今川と上杉から挟撃されたら、武田は簡単に滅ぶ。そこで武田信玄は、今川義元と和睦を結び、上杉謙信と戦った。その反対ではない。実際に武田が戦ったのが上杉、ということは、武田は今川のほうをより怖れていたことになる。

今川家は源氏の末裔にあたり、室町将軍である足利氏の分家にあたる。つまり血筋が良い。血縁関係による領地支配の気風が多少は残っていた時代にあって、その毛並みの良さは一目置かれた。今川義元自身、京の公家文化に精通しており、白化粧やお歯黒など公家の格好をして京風文化に染まっていた。現在では織田信長のやられ役として、バカ殿のような風貌で揶揄されることが多いが、その格好は当時としては京に通づるものとして誰にでも許されるものではなかった。

そんな今川義元、戦国大名のひとりとして数えることに異論はなかろうが、自分の推しメンが今川、という人はあまりいない。そういう「いまいちマイナーな戦国大名」を出題するあたり、東大が突いている盲点だろう。


東大の出題に端的に答えると、守護大名と戦国大名の違いは、「支配権の根拠」だ。守護大名の場合、将軍が任命して軍事警察権を委託される。ところが戦国大名は、将軍など関係なく、己の実力を行使して腕力で支配権を公使する。

戦国大名の時代というと、「全国を統括している権力がなく、地方によって勝手に戦国大名が乱立している」というイメージをもっている人が多いだろうが、そんなことはない。織田信長によって足利義昭が京を追放され、室町幕府が終焉したのは1573年、今川義元の死から13年も後のことだ。それまでは室町幕府は存続しており、守護は相変わらず「将軍によって任命された者」という位置づけに変わりはなかった。

現在では俗に「守護大名」とよく呼ばれるが、実際に室町幕府で「守護大名」という名称を使っていたわけではない。鎌倉幕府の時代から、守護というのは「任命されるもの」だ。幕府の将軍によって任命され、土地の軍事警察権を委託された。

最初は単なる警察・自衛隊に過ぎなかった守護が、室町時代になるとやや変質する。
守護というのは文字通り「軍事警察権を委任されたもの」であって、経済基盤がない。荘園を取り仕切る地頭と違って、赴任地に自分の所領をもっているわけではない。それが室町時代になると、守護請や半済令などによって守護の権限が強化された。守護は強化された権限をタテに、荘園や公領を侵略し、「自分の土地」を手に入れるようになる。

なぜ室町幕府は、地方分権を招くような守護の権限強化を行なったのか。
歴史の教科書には「地方武士の独立の気風」やら「相次ぐ内乱」など、分かるような分からないような理由がぼんやりと書いてあるが、その大元を辿るとすべての理由は「観応の擾乱」にあるだろう。初代将軍・足利尊氏と直義の兄弟ゲンカだ。実際には尊氏と直義の兄弟はとても仲が良かったらしく、観応の擾乱の原因は、尊氏の執事だった高師直と、直義の配下の権力争いにあったらしい。

内紛が武力衝突にまで発展すると、とりあえず人数が要る。地方武士を動員する必要がある。地方武士を軍事徴用するには、それぞれの土地で軍事を取り仕切っている守護に任せざるを得ない。そのための見返りが、守護の権限強化だった。

歴史的に見れば、この判断は大失敗だっただろう。土地を持たない根無し草だった守護が、守護請や半済令によってガンガン荘園を侵略し、自分の土地にしてしまった。土地を得てしまえば、それを元手に国人を家臣化できる。そうして守護は「あたかも大名であるかのように、自分の赴任地を支配してしまう」という事態になった。これが「守護大名」と呼ばれるものの正体だ。例えて言えば、警察署長が強引に県知事になってしまうようなものだろう。

つまり、「守護大名」というのは、決して幕府の側が名付けた名称ではない。むしろ幕府にとって全然望ましくない事態だろう。軍事警察権を握るだけでなく、基盤となる土地を得て支配実権を握る。
この、鎌倉と室町における「守護」の違いについては、東大は1996年の日本史で出題している。

さて、その守護大名だが、守護である以上、役職としては室町将軍から任命されたものであることに変わりはない。単なる野武士集団とは訳が違う。しかし、いくら守護が基盤となる土地を得たところで、当時の地方武士たちは一揆を形成し、守護からの上からの支配に抵抗した。土地の武士にしてみれば、鎌倉以来の分割相続によって細分化された土地を必死に守らなければならないのだから、自治の気風が強いのはあたりまえだ。つまり守護(大名)にしてみれば、土地の武士というのは家臣として手駒にしにくい状況にあった。

そこで、当時の守護大名はどうやって土地の武士を支配下に入れたのか。
これはもう、有無を言わさぬ腕力公使だ。「ここの領地は俺のもの」と高らかに宣言し、検地を実施して土地の耕作量や年貢量を登録して農民を実効支配下に置く。そのための基盤として使ったのが分国法だ。つまり、自分の領地での法律を制定し、あらゆる紛争を自分ルールで裁いてしまう。

東大の問題で出されている「今川仮名目録」というのは、その分国法のなかでも最も整備されたものだ。この分国法によって単なる「守護大名」だったものが「戦国大名」に変貌する。つまり、この文章の中に、問題の答えが堂々と書いてある。

「今川仮名目録」に書いてある論理を単純に並べると、次のようになる。

(a)守護も公領内武士も、ともに将軍から任命されている
(b)つまり両者は同格である。
(c)同格だから、公領内武士に守護使不入地が与えられたら、守護はそれを冒すことはできない。
(d)しかし俺は違う。領国の支配権は俺様が実力で得たものだ。幕府の威光は関係ない
(e)だから領国支配の主体は大名自身。最高権力者。法も作れるし、武士に与えられた特権なんぞ知らん。

「守護大名」と「戦国大名」の違いは、つまるところ「守護とはなにか」に帰着する。守護とは本来、将軍から任命される「役職」だった。戦国大名には、それがない。つまり将軍に任命されるとかされないとかに関係なく、実力で領地の支配力を握った存在、それが戦国大名だ。

つまり「今川仮名目録」は、守護大名として初めて、「今後は将軍なんて知らん」と宣言し、幕府と決別して、「戦国大名」として生きていく決意を表したものだ。
東大は、数ある戦国大名のなかで「たまたま」今川を出題に使ったのではない。「今川義元は戦国大名のひとり」なのではなく、今川義元によるこの文書によって、歴史上初めて「戦国大名」が定義されたのだ。

歴史を大きく眺めれば、この文書が、よりによって今川義元によって発布されたというところが皮肉だろう。多くの戦国大名は、たまたま土着の武士だったものが、土地の支配者や守護大名を「下克上」によって打ち倒し、腕力で支配権を得た。
しかし今川氏はそうではない。もともと源氏の血筋で、鎌倉時代から守護を務め、室町時代には土地を得て守護「大名」となり、それが「戦国大名」に転じた、非常に珍しい例だ。本来ならば、下克上によって打ち倒される側だっただろう。それが幕府によって保障されていた身分を捨て、在野からのし上がってきた他の戦国猛将と同じ土俵で戦う決意をした。

幕府の権威におもねず、むしろ弱体化した室町幕府に見切りをつけ、実力行使の世の中に移行する時代の流れが正確に読み取れている。世間一般のイメージと違って、今川義元は、世相を見抜く力があり、既得権益に溺れず慣習を転換する決断力があり、それを行なうに足る実力を持っていた。文字通りの「戦国大名」だったと思う。

惜しむらくは織田信長の奇襲に破れたことだが、あれは織田信長のほうを褒めるべきであって、今川義元を貶めるには足りないだろう。織田信長だって、正面切って戦えば今川に勝ち目がないことくらい、よく分かっていた。だからこそ、あんな無謀な奇襲を試みたのだ。あの奇襲戦法は、日本の軍事史においても唯一無二と言っていい程の例外的な策術であり、失敗確率のほうがはるかに高かっただろう。それを執念で成功させた織田信長のほうが例外なのだ。


「戦国大名」といえば、そうでない大名のことを知っていることが前提となる。守護大名と戦国大名という、時代をつなぐふたつの立場を経た者として、今川義元が出題にあがるのは不思議なことではない。しかし、世間一般の「戦国大名」というイメージは、そういう歴史の本質から乖離して、ドラマ性や英雄譚に安易に傾きがちだ。東京大学は、そういう傾向を戒める目的としてこの問題を出題したような気がしてならない。



家康が死ぬまでトラウマにしてた人だからなぁ。

しょせんギャンブルってこんなもん

chinchirorin



期待収益を計算してみると、

ゾロ目:6/36 (0円)
偶数(ゾロ目以外):12/36 (175円)
奇数:18/36 (700円)

期待収益は、個々の事象の発生確立とその結果の積の総和で求められるから、

(6/36)*0 = 0
(12/36)*175 = 175/3
(18/38)*700 = 331.5789…

全部足すと、408.33
つまり、通常価格350円のハイボールを、実質408.33円で販売していることになる。



割高じゃねぇか。
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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