たくろふのつぶやき

秋の夕日に照る山紅葉

時代とともにある歌

街中の音楽ショップではCDが売れないのだそうだ。


割と大きなショッピングモールでさえ、CD屋さんは規模を縮小したり閉店に追い込まれたりしている。一昔前の絶頂期は音楽を聴くといえばCDを買うしかなかったわけで、それに比べれば音楽を聴く手段が多様化している昨今では致し方がないという面もあるだろう。特にお金のない学生さんなどは、好きなアーティストのCDが発売されても、「TSUTAYAでレンタルに出るまで待つ」という人も多いと思う。

だいたい、こういう「音楽業界の衰退」は、音楽がダウンロードされ課金配信されるようになった、という要因がとりあげられることが多い。しかし、僕はこの要因には懐疑的だ。
確かに、CDで買うよりもダウンロードで買った方が、資材費の分だけ若干安い。しかし、そもそも「CD売上額の低下」は、即「音楽業界の衰退」に直結するのか、といえば、そうではあるまい。

僕が常々疑問に思っていることのひとつに、なぜ音楽業界はCDの売り上げを「金額」でしか計らないのだろうか、というものがある。そりゃ業界というのは評価の尺度が売上高なのだから、売り上げ金額の多寡が重要なのは分かる。しかし、「売上高が減った」ということと「音楽業界が衰退した」ということの間には、論理の飛躍がある。

たとえば、CDが1枚売れても、楽曲が1回ダウンロード購入されても、聴く側にとっては同じ「1曲」の購入に過ぎない。こういう「購入された音楽の絶対数」が問題とされることは、ほとんどない。音楽で儲けようとしている人はともかく、音楽を作り出し広めようとしている人にとっては、「いくら売れたのか」よりも「どのくらいの人が聴いてくれたのか」のほうが重要なのではあるまいか。

また、CDの売り上げが減って街中のCD屋さんがいくら潰れたとはいえ、彼らはしょせん仲介業の「商人」であって、音楽を作り出しているわけではない。CD屋さんが潰れているのは、もはや一般市民がCD屋さんがなくても困らなくなっているからだ。流通経路が大きく変化することによって仲介業がいくら潰れようとも、音楽そのものが衰退しているわけではない。音楽を作り出しているわけでもない商人が倒産することによって「音楽が衰退している」とは、あまりに短絡的な見方だろう。

また、「最近はCDが売れない」という言葉のなかには、「いったい、どの時代と比較しているのか」という前提をぼかしている姿勢を感じる。
おおむね、業界側が「最近」と言うときは、「売り上げが最高潮だったバブル期と比べて」である。ミリオンセラーが続発した音楽絶頂期の「繁栄」が忘れられず、あの頃よもう一度、という単なる懐古主義に聞こえる。

今の時代が、音楽業界の歴史以来、過去最悪の売り上げなのか、と言われたら、決してそんなことはないだろう。昭和40~50年代の一般家庭には、まだレコードプレーヤーを持っていない家庭も多かった。そういう時代と比べても尚、現在の売り上げが劣っているのかというと、そんなことはないと思う。
「最近は音楽の売り上げが少ない」という人のほとんどは、比較の対象を「例外的な時代」に固定してしまい、その時代の価値観から抜けられなくなっているだけのことだと思う。

バブル期というのは、国中の経済が最高潮の景気だっただけではなく、一番音楽に敏感な若者世代の人口が圧倒的に多かった。要するに、買い手がたくさんいたのだ。買い手がたくさんおり、お金も持っているとなれば、売れるのは当たり前だ。そういう時代の変遷を一切見ない振りをして、「ネット配信のせい」とだけ原因を押しつけるようでは、現状の打開策にはまったく結びつかないだろう。


かようにCD売り上げの衰退には様々な要因があると思うが、僕はそれらとはまったく別に、「歌」というもののもつ機能が、時代によってかなり変化しているのではないか、と感じている。

むかしの日本は、今よりももっと生活とともに歌があったような気がする。田植え歌、子守唄、数え歌、遊び歌、仕事歌など、日常行う普通の営みのなかに、「歌」が自然に溶け込んでいた。

今になって考えれば、それらの「生活の歌」は、日々の暮らしを円滑に行うための「ルーティン」だったのだと思う。これは先のラグビーW杯やリオ五輪など、スポーツの世界で普及して、かなり人口に膾炙するようになってきた表現だろう。
ひとは、気持ちの切り替えを、精神力だけで行えるようにはできていない。気持ちというのは、自分の意思ではうまくコントロールできない。だが、体の動きは自分でコントロールできる。だから体の動きとして決まりきった規範をつくっておくことによって、それに伴って心のほうをうまくコントロールすることができる。「平常心を持て」とだけ言われて簡単にそうできる人はいないが、「ゴールキックを狙う前には両手を組み合わせろ」という体の動きとして習慣化すると、心がそれについてくるようになる。

昔はいまほど社会のあり方がシステム化されていなかった。田畑を耕す農耕民は、田んぼに出る時間に遅刻や始末書もなかっただろうし、子守りをする少女には時給も払われていなかった。システムの力によって人間の行動を制御していなかったのだから、人は自分の力で自分を制御しなくてはならない。「歌」というのは、そういう生活制御の力をもっていたのではなかろうか。お昼の休憩のあとで、さて田植えを再開しよう、というときに、田植え歌の持つ「切り替えの力」は、相当なものであっただろう。 兄弟が多かった時代に、年長の少女が子守りをさせられていた時代では、子守唄というのは赤ちゃんのためではなく、子守りをする少女のためのものだったと思う。

時代が変わって、現在ではあらゆるシステムによって人間の行動が制御されるようになった。あらゆる会社では、(終業時間は守られなくても)仕事を開始する勤務時間はきちんと定められている。お昼休みも時計で決まっている。休み時間におしゃべりしていた女子高生でも、チャイムが鳴れば授業を受ける。

ひとを制御するシステムが発展した一方で、いままで歌によってルーティンをつくりあげる必要があった営みのほうも変化した。腰に負担がかかる田植えは全部機械で行える。子守りは幼い子供がわずかな楽しみを見つけながら行う必要がない。ものを数えるときには数計算ソフトで一瞬に行える。今の世の中には、子守唄を歌おうとも、そもそも歌う側にその必要が無くなっている。
それが持つ機能が希薄となり、またその目的のほうも消滅するのであれば、それが廃れるのは必然だろう。だから今の世の中では、田植え歌も子守唄も、ほとんど伝わっていない。

むかし、歌というのは生活とともにあり、「歌うもの」だった。日常の暮らしを円滑に行うための、生活の知恵だっただろう。
しかし今では、そういう生活の歌が不要となり、歌といえば「金を出して買うもの」となった。現在の中高生が歌を歌うのは、音楽の授業かカラオケに行った時くらいのものだろう。少なくとも、その時自分が行う行為の指針として、ルーティンのごとく歌を歌う生活は、現在の若年層は送っていないのではないか。

歌が「金を出して買うもの」であれば、それは単なる消費の対象に過ぎない。使い潰せば、また新しいものを買って済ます。そうやって、音楽とひとの関係が希薄になってきたことが、本当の意味での「音楽の衰退」ではあるまいか。

まだ歌がひとと共にあり、生活の中に歌が染み込んでいた時代には、たとえ流行の歌謡曲であってもそれを生活の一部に取り込み、人生の一場面を彩る要素として、音楽はその機能を果たしていた。ひとつしかないレコードプレーヤーで同じ曲を何度も聞き込み、若い頃の生活を思い出すと、その時期を過ごした歌を思い出す中高年も多いだろう。

しかし、今の若者にとって、歌というのは「iPhoneにダウンロードされた、数メガバイトの情報」に過ぎない。そのとき聴いている曲に気分がのらなければ、クリックひとつで別の曲に切り替わる。新しい曲が出たら、すぐにダウンロードできる。音楽はすでに「消費するもの」であって、生活の根幹を成すものではなくなっている。上質の手ぬぐいではなく、単なるチリ紙に過ぎない。

技術の発達というものは、それまで希少な価値であったものを、大量生産して広く普及させることだ。音楽業界は、その革新を成功させたと言ってよい。
そして、それに成功したがゆえに、それ自体が持つ価値を自ら変容させてしまったのだ。それは単なる変化に過ぎず、良いも悪いもない。それに「悪いこと」と価値感をのせてしまっているのは、勝手に音楽の売り上げを金額に換算している、音楽業界の側なのだ。

むかしと今では、歌とひととの関係が変化している。これからの時代もそうだろう。音楽がひとと共にあり、人に寄り添う音楽を作ろうとするのであれば、これからの時代に即した「音楽との付き合い方」そのものを編み出して行かなければならない。むかしのやり方に固執して「売れないなぁ」と嘆くだけでは、音楽はどんどん時代に取り残されてしまうだけではないか。



幼稚園のとき「おかたづけの歌」というのにずいぶん操縦された。

文学とは何をするものなのか。

唐代の詩人・張継に「楓橋夜泊」という詩がある。

月落烏啼霜滿天
江楓漁火對愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船


(書き下し文)
月落ち烏啼きて霜天に満つ
江楓の漁火愁眠に対す
姑蘇城外の寒山寺
夜半の鐘声客船に到る


(現代語訳)
夜が更けて月は西に傾き、烏が鳴き、霜の気が天に満ちている
漁火の光が運河沿いの楓の向こうに見え、旅愁を抱いて眠れないでいる私の目にチラチラして見える
姑蘇城外にある寒山寺から夜半を告げる鐘の音が響いている。
その鐘の音はこの船にまで聴こえてくる。


あまり日本では有名な漢詩ではないが、典型的な七言絶句で、対句や脚韻も教科書通り。学校で漢文をひととおり習った人であれば苦もなく読める平易な詩だろう。
大運河を旅する途中、蘇州郊外での旅愁を詠ったもので、張継の代表作として知られている。詩に詠まれている寒村寺(中国江蘇省蘇州市姑蘇区)には、この詩碑が立っている。

この詩が有名なのは、のちに解釈をめぐって論争が起きたからだ。
「老学庵筆記」巻の十では、欧陽脩がこの詩について異議を唱えたことが記載されている。

張継の楓橋夜泊の詩に云ふ、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到二客船一と。欧陽公之を嘲りて云ふ、句は則ち佳なるも、夜半は是れ打鐘の時にあらざるを如何せんと。後人また謂ふ、惟ただ蘇州にのみ半夜の鐘ありしなりと。皆な非なり。按ずるに于邺、褒中即事詩に云ふ、遠鐘来半夜、明月入千家と。皇甫冉、秋夜会稽の厳維の宅に宿すの詩に云ふ、秋深臨水月、夜半隔山鐘と。此れ豈に亦た蘇州の詩ならんや。恐らく唐時の僧寺には自ら夜半の鐘ありしなり。京都街鼓今尚ほ廃す。後生唐の詩文を読んで街鼓に及ぶ者、往々にして茫然知る能はず。況はんや僧寺夜半の鐘をや。


文意はなんとか根性で読んでいただきたいが、下線部だけを現代語訳すると

かの欧陽脩でさえこの詩をおかしいと笑っている。「詩句としては素晴らしいが、詩の中の『夜半』というのは、通常、鐘をならすべき時刻ではない」とのことだ。


張継の生没年は不詳だが、唐時代の作家だからおおむね8世紀ごろの人物といわれている。欧陽脩は11世紀の人物だから、両者が生きた時代にはおよそ300年の開きがある。
「老学庵筆記」の作者は、この300百年の間に「詩の読み間違いが起きた」と論じている。

「老学庵筆記」の続きには、欧陽脩による批評に対して「いや唐代には、蘇州だけ夜半に鐘を鳴らす習慣があったのだろう」という巷の反論を載せている。
それに対して筆者は、欧陽脩も巷の反論も「両方とも間違い」と断じている。

その根拠として筆者は、于邺の「褒中即事」と、皇甫冉による詩の、2編の詩を挙げている。
「褒中即事」には、長安の地で詠んだ「遠くから響く鐘の音が真夜中に聞こえてきて、明々とした月の光がどの家にも差し込んでいる」という詩が収録されている。
また皇甫冉は、会稽の友人宅に宿泊した際に「秋も深まり月は川面を照らし、夜も更けて鐘は山々を越えて響いている」という詩を読んでいる。
長安も会稽も、蘇州からかなり遠く離れた土地だ。だから「蘇州だけ真夜中に鐘を鳴らす習慣があった」という巷の言説は誤りだ、ということになる。

それを受けて筆者は、「そもそも唐代には、国中で、時報として寺社の鐘を鳴らす習慣があった」と仮説をたてている。時間を知らせるための鐘なので、当然、真夜中にも鐘を鳴らしていただろう。電気も通っていない昔のこと、そういう真夜中というのは普通の人が起きている時間ではないのだろうが、だからこそそんな真夜中に聞こえてくる鐘の音が、詩歌の題材になり得たのだろう。

しかし時代が下って、時報として寺が鐘を鳴らす習慣がなくなってしまった。そうなると、当然ながらお寺が真夜中に鐘を鳴らしていたという習慣など誰も知る人はいなくなってしまう。そういう、唐代の習慣を知らない人が当時の詩を読むと、つい時代背景の違いから誤解が生じて、詩を誤読してしまうのではないか・・・という説だ。


閑話休題。
昨今、日本の大学では、文部科学省が文系学科の再編を促す通達を頻繁によこしてくる。文系学科とはいっても、要するに文学部が対象だ。文学や歴史学などという、「世の中に出てから何の役にも立たない学問」を減らして、目に見えて成果が分かりやすい自然科学系の科目を増やすように、とお達しを突きつけてくる。

それに対する教員、学生の反応がまた面白い。彼らは心のどこかで「文学の教育が減らされるのは仕方がないな」と思っている節がある。自分が志して選んだ学問分野に対して、その存在意義を広く知らしめようという気概がまったく感じられない。

ためしに文学専攻の学生をつかまえて「文学っていうのは、一体何を学ぶ学問なの?」と聞いてみると、これまたおかしいことに、誰一人としてまともに答えることができない。「文化的遺産としての文学を知ることで、この国の文化の価値を云々」「文学で描かれる人生や人間の真理を深く追求することで云々」などと、何を学んでいるのやら甚だ怪しい言説がふわふわと出てくる。

そういう学生の卒業論文を読んでみると、まぁ、読書感想文に毛が生えたようなもの。「人文科学」を標榜する文学研究の風上にも置けない。そういう学生に、ためしに「文学研究ってのは、読書感想文とどう違うの?」と聞いてみると、ごにょごにょとお茶を濁してはっきりした答えが返ってこない。どうやら文学専攻の学生の間では、その違いをずばりと問うことは、タブーになっているらしい。
文学を学んでいる側が、「文学とは何か」をしっかり理解していないのであれば、そりゃ文部化学省に「削れ」と言われても、ぐぬぬと窮してしまうのは仕方なかろう。

大学で行われている知的活動は、そのほとんどが科学的方法論を土台としている。文学や歴史学という、一見科学と関係ない分野でも、その思考法と方法論は科学を基本としている。
まず、そこのところを誤解している学生が多いのではなかろうか。

数学や論理学のような公理系をもつ形式科学は別として、ほとんどの科学は「経験科学」という方法論に基づく。
経験科学の出発点は、「疑問をもつこと」である。科学というのは「答えを導くもの」と思っている人が多いが、実は反対で「問いを立てること」が目的と言っても過言ではない。世の中の誰も気づいていない問題を発見することが、科学の第一目標なのだ。

問いを発見したら、客観的な根拠に基づいて、仮説を立てる。
仮説を立てたら、「その仮説が正しいとしたら、こういうことになっているはずだ」という予測を立てる。
予測を立てたら、それが正しいかどうか、実験したり文献調査をしたりして確認する。

そして、予測が正しかったら、また別の予測を導いて実験する。
もし予測が間違っていたら、仮説を立て直して、それに基づき予測を立て直す。
つまり、「科学」という営みには、明確な「あがり」は存在しない。仮説の立て直し、予測と検証、の延々と続く繰り返しなのだ。だから、山の頂上に達しないと満足できない人は、経験科学には向かない。

世の中の「経験科学」に属する分野、つまり物理、化学、天文学、地質学などは、すべてこの方法論に基づいている。扱う対象を人間の行為に拡張した心理学、社会学、法学、歴史学などの「社会科学」、人間の内面を扱う文学などの「人文科学」なども、基本的な思考方法は同じだ。

卒業論文が「感想文」になってしまっている文学専攻の学生の特徴は、出発点として「問いを立てていない」ことだ。そもそも、解くべき謎がはっきりしていない。小学校のときに夏休みの宿題に課された「読書感想文」をべらぼうに長くしたものが「文学の論文」だと思っている。そういう学生の書くものは、「読みました」「こう思いました」「これからこうしていきたいと思います」の3つの内容しかない。卒業論文の枚数制限をクリアするために、本文のあらすじを延々と説明しており、ひどいのになると「原著よりも長いあらすじ」なるものも出没する。

それに比べると、中国中世の著作のほうが、よほどしっかりと「文学」を行っている。
「老学庵筆記」巻の十で考察されている謎は、明快だ。要するに「唐代では、本当に真夜中に鐘を鳴らしていたのか」という疑問点。欧陽脩はそれに異を唱え、巷では地域限定でそれを是とする意見があった。

普通に考えれば、偉大な詩家である欧陽脩が「夜中に鐘が鳴るなんて、そんなバカなことあるか」と言ってしまえば、その意見が「事実」として世の中に認められてしまうことだってあるだろう。しかし「老学庵筆記」の筆者は、大欧陽脩が何と言おうと、「それは違うんじゃないか」という冷静な判断を下している。

それを議論する過程で、「老学庵筆記」は科学的方法論をきちんと踏まえている。すなわち、自分の主観や感想で議論を進めるのではなく、「同時代の著作」という客観的な証拠によって持論を組み立てている。「この時代の著作にはこういう記述があるから、この箇所はこのように解釈するべきではないか」という仮説の立て方になっている。

つまり、「老学庵筆記」は、それ自体が文学的著作というよりも、科学的方法論に基づく「文学研究」なのだ。
文学作品と、文学研究は、まったく違う。文学作品というのは、作者が自身の世界観に基づいて、主観まる出しで内面世界を描いても良い。しかし「文学研究」というのは、客観性が保証された科学的方法論に基づいて行わなければならないものだ。

「老学庵筆記」には、「文学がするべき仕事」が、明確に記してある。
文学作品というものは、長く後世に残れば残るほど、それが書かれた時代と読まれる時代に隔たりが生じる。読む時代によっては、当時の常識や時代背景が失われ、その意図が誤読されてしまう危険がある。
文学研究の仕事は、そうした時代の齟齬が生じないために、作品が書かれた時代ごとの価値観や時代背景を、後世に保存することだろう。現代的な価値観で読んでしまっては、当時にその物語がどのように読まれていたのか、理解することができなくなる。欧陽脩のように、自分の生きている時代の常識に基づいて作品を誤読する危険が生じてしまう。

シャイクスピアの作品に『ヴェニスの商人』という作品がある。全編を通して、ユダヤ人に対する差別意識が全開の作品だ。これを現代的な価値観で「ユダヤ人に対する差別許すまじ」と断じて、この本を発禁処分にして焚書にすることは、妥当な姿勢なのだろうか。

マーク・トウェインの作品に『ハックルベリー・フィンの冒険』という作品がある。主人公の少年が、逃亡奴隷のジムとミシシッピ河を延々と下るロード・ムービーのような作品だ。黒人の逃亡奴隷ジムはとても迷信深く、しょっちゅう状況判断や行動指針に滑稽な過ちを犯す。これを現代的な正義に基づいて「黒人に対する偏見許すまじ」と批判して、作品を闇に葬ることが正しいことなのだろうか。

「これからの世の中がこうあるべきだ」ということと、「いままでの世の中はこうだった」ということを、混同してはならない。現代の価値に合わない過去の価値観を弾劾することには、何ら生産的な価値はない。単に「いまの自分にとって不愉快なものを抹殺する」という、自分勝手な姿勢だ。人間は過去に数多の過ちを犯してきたが、大事なことはその過ちを正しく理解できる形で保存することであって、過ちを嫌って見ない振りをすることではない。『ヴェニスの商人』や『ハックルベリー・フィンの冒険』を禁書にするという行為は、例えて言えば、民族の大量虐殺を行ったアウシュビッツ強制収容所を「このような施設はけしからん」と取り壊す行為に相当する。

書かれた時代と読まれる時代の差が大きければ大きいほど、文学研究が果たすべき役割は大きくなる。失われた価値観を蘇らせ、それを後世に保存することで、新たに見えてくる当時の姿がある。古典文学を「何言ってるんだこれ」と笑い否定するのではなく、その作品を通して時代に穴を開け、はるか昔の世の中のあり方を覗く営みが必要になる。

つまり、「文学研究」というものを行えること自体、その国が豊かな文学的遺産を多く有していることに他ならないのだ。文部科学省がなにか「新しいこと」を提言するときは、そのほとんどが、アメリカの教育のやり方に悪影響を受けていることが多い。文学分野の削減も、おそらくその手の影響を受けているだろう。

しかし、240年たらずの歴史しかもたないアメリカの「文学研究」など、たかが知れている。240年前の常識であれば、現在でも理解できる範疇のことが多い。よそ者の寄せ集まりで、論理と正義をひけらかして発展してきたアメリカごときの社会的通念など、真っ当な「文学研究」が必要なほど、大した変遷を経ているわけではない。アメリカでは「文学研究など役に立たない」のではなく、「そもそも文学が成り立つほど国が歴史を有していない」だけなのだ。

アメリカよりも比較的ましな歴史をもつイギリスでは、ケンブリッジ、オックスフォードなどの「国を導くエリート」を養成する大学で、文学的素養をみっちりと身につけさせる。それが直接的に世の中に何の役に立つかなど一切問題にせず、国の辿った歴史を学び、過去の人々が何を感じ、何を考えていたのか、文学を通してみっちりと体感させる。「役に立たない教養」をたっぷりと身につけてこそ、迷いなく国を導くリーダーを育成できる、という信念がある。

日本では、その点をしっかりと教えていないのではないか。日本は世界の国の中でも、長大な歴史と豊富な文学作品を蔵し、一国の中だけで「文学研究」が成り立つ、数少ない国なのだ。中学や高校で古典を教えるとき、その意義をしっかり伝えて授業をやっているのだろうか。その目的がはっきり伝わっていれば、「いまの時代では使わない知識だから古典は無駄」などと夜迷い言を抜かす生徒はいないはずなのだ。

日本以上に長大な歴史を有する中国では、数々の焚書坑儒や、近年では個人崇拝以外の価値観を全滅させる文化大革命によって、自国の文化的資産を自ら棄てる政策を行った。こういう政策をどのように評価するのか。学校で「古典」という科目から学ぶべきことをしっかり学び、「文学」という研究分野の目的と価値をきちんと理解していれば、自ずと答えは明らかだろう。



タイムマシンなんて要らないんだよ。

遺伝の法則が教えるもの

メンデル



グレゴール・ヨハン・メンデル(1822-1884)

オーストリアの修道士。「メンデルの法則」として知られている優性の法則、分離の法則、独立の法則を発見し、「遺伝学の祖」とされている。

当時、遺伝という現象があること自体は知られていたが、生命体の形質は液体のように混じり合って遺伝すると考えられていた。メンデルはエンドウ豆の交配を観察することによって、形質は粒子状の物質(遺伝子に相当するもの)によって遺伝する、とする説を唱えた。

普通の修道士であればおとなしくエンドウ豆を栽培していればよいものを、遺伝の形質に気づいたことから、メンデルはかなり自然科学に興味をもっていたことが分かる。
実際、メンデルの所属していた修道院は、哲学、数学、鉱物学、植物学などで当時の最先端に匹敵する研究を行っている、一種の学術研究機関だった。またメンデルは、2年間ウィーン大学に留学して、物理学、数学、解剖学、生理動物学などを学んでいる。どう考えても普通の修道士風情ではない。

エンドウ豆の交配実験によって遺伝の法則を形式化したメンデルは、論文を、当時の細胞学の権威であった研究者に送る。しかし、浮世と離れて科学を独学していたメンデルは、当時としては斬新な、数値による計量的分析を独自に行っていたために、論文を黙殺されてしまう。ひとつには、数学的で抽象的な概念が理解されなかったからだという。当時の大学に跋扈していた学術主義や派閥意識も、外様の研究者を受け入れることを阻んでいただろう。

遺伝の研究を黙殺されたメンデルは失意に沈んだかというと、そうではなく、その後も修道院での業務に忙しい日々を送った。のちには修道院長に就任している。修道士としてもかなり優秀な人材だったらしい。
独学による科学研究も続けており、気象観測や天文学の研究でも成果を上げており、死去した時にはむしろ気象学者として知られていた。

メンデルの遺伝研究は、死去およそ15年後に、フリース、コレンス、チェルマクという3人の学者によって、偶然再発見された。この3人の学者はそれぞれ独自に遺伝学の研究でメンデルと同様に仮説にたどり着いており、自分たちの仮説をすでにメンデルが発表していることを同時に知った。3人は、遺伝法則発見の栄誉はメンデルが浴するべきである、と考え、メンデルの研究成果を広く再発表した。


現在、高校の生物の授業でもメンデル遺伝は教えられている。まぁ、話としてはよくできているし、遺伝というメカニズムをシンプルに提示するモデルケースとして題材に採り上げるのは分からないでもない。
しかし、メンデルの逸話から本当に我々が汲み取ることは、その遺伝法則の内容ではないような気がする。

実は、メンデルの法則は、それに該当しない事例が多く観察されていることが知られている。
メンデルが遺伝実験にエンドウ豆を使用したのは、品種改良が人為的に操作しやすく、純系からの交配が安定しているからだ。エンドウ豆という素材自体が、遺伝操作に絡む雑多な要素を排した「理想化された品種」と言える。

しかし、多くの生物はそのような「純系」を抽出することが困難で、遺伝に絡む様々な要素が含まれる。学校の試験では「摩擦はないものとする」と理想化していても、実際の世の中には摩擦があるように、エンドウ豆でうまくいった交配実験が世の中すべての生物に適用できるわけではない。

さらに、メンデルの実験には致命的な弱点があった。
たとえば、分離の法則には、つるつるのエンドウ豆と、皺のあるエンドウ豆の形質発現が問題になる。
メンデルは、このふたつの種類のエンドウ豆を、「感覚」で区別した。実際には第2世代、第3世代のエンドウ豆になると、ツルツルともシワシワともつかないような「中間形質」が多く現れる。メンデルはこれらの曖昧な形質を、「なんとなくこっち」と、自分の直感に基づく感覚で区別した。

このような感覚に基づく分類は、当然ながら再現性がない。他の人がその実験を追試してみても、同じような結果を出すことができない。
これは、黄色と緑のエンドウ豆の色彩区別の実験でも同様の結果が出ている。黄色とも緑ともつかないような「黄緑色」をどっちに区分するか、かなり感覚的に分けてしまっている。

メンデルの研究が当時理解されなかったのは、数値に基づく計量的な立証方法が理解されなかったからだが、その計量方法それ自体にすでに誤りがあった。いくら「ツルツルのエンドウ豆が○○個」「シワシワのエンドウ豆が××個」と数値化して考察したとしても、その数値の根拠が個人の感覚では、科学研究の土台として失格だ。

要するにメンデルは、正しい統計データの取り方を知らなかったのだ。統計データの基本は、そこで使用されている諸概念の定義をきっちり行うことだ。その定義は、再現可能性を保証するために数値化する必要がある。
たとえば「シワシワのエンドウ豆」を、「皮角表面との屈曲率が表面積全体の○○パーセント以上のもの」などと定義しなければならない。ひとつひとつのエンドウ豆について、その定義に照らし合わせて「シワシワなのかどうか」を決めなければならない。そのように数値化された定義を使ってはじめて、実験に再現可能性が保証される。

統計データの信憑性をきちんと保証する訓練を積んでいれば、直感で決めるエンドウ豆の形のような「似非データ」の危険性を排除できるはずだ。
たとえば、頻繁に行われる似非統計に「都道府県の幸せ指数」「幸福度の高い国ランキング」のようなものがある。このようなランキングの上位は、大都会から遠く離れた郊外地方が軒並み選ばれる。

しかし、実際に「何をもって『幸せ』とするのか」という構成要素をひとつひとつ見てみると、「人口ひとり当たりの公園面積」「道路の広さの平均」「保育園の待機児童の少なさ」のような、恣意的なものばかりだ。それが本当にひとの「幸せ」につながるかどうかは一切無視。勝手に幸せのあり方を押し付けられているように見える。

そのような公的インフラのような数値がいくら束になって掛かろうとも、おそらく「年収1000万」ひとつのほうが幸せ指数は高かろう。そして、地方企業よりも大都市に集中している大企業のほうが、収入の高さは期待できる。
「幸せ指数」のようなランキングは、そもそもの目的が「人口を地方に分散させて、大都市への人口集中を防ぐ」というものだ。「地方はこんなにいいところですよ」という、行政府による打ち上げ広告に過ぎない。だからそもそも「地方都市が上位でなければならない」という、はじめから目的ありきの似非統計なのだ。

このようなインチキ統計に引っかからないためには、「正しい統計データ」をきちんと見分ける訓練が必要だ。中学、高校などの中等教育では、これを教えるのは社会、理科、数学にまたがる分野になる。資料集に乗っている表やグラフが本当に統計的に妥当なものなのか、ひとつひとつ検証する癖をつけなければならない。


そこへメンデル遺伝である。高校の生物の授業では、メンデルが実際に収集した数値データとその根拠を開示せず、いきなり「ツルツルの豆と、シワシワの豆が、○○対xxの割合で発現」などと教えてしまう。そのデータの信頼性については一切触れない。本来であれば正しい科学的思考の方法論を教えるべき理科の授業で、重大な誤認を犯している事例を覚えさせていることになる。

これは、正しい中等教育の仕方として妥当なのだろうか。日本人は統計に騙されやすいところがある。その原因は、初等・中等教育の段階でこのような「正しい統計データの取り方」を教わっていないところにあるのではないか。

以前、僕の講義を受講していた学生が、期末に「戦争というのは本当に惨禍だけをもたらすものなのか」というテーマで課題レポートを書いてきたことがある。戦争というのは歴史的に悪いだけのものではなく、戦争があったからこそ世の中が進歩した、という面もあったのではないか、というレポートだった。
その結論を導くために、その学生はデータとして、歴史の教科書に載っているような戦争をひとつひとつ取り上げていた。それらの戦争が「益をもたらした」のか、「害しか与えなかった」のか、ひとつひとつ区分していた。

僕は別に歴史学の授業を担当していたわけではなく、その授業は「世界の言語」という言語学の授業だったのだが、そこは別に問うまい。その授業は1, 2年生対象の入門授業だったので、僕は期末レポートの課題として「科学的思考の方法論が実践されていればそれでよし。テーマは言語についてでなくても何でもいい」という出題をしていた。仮に言語についてでなく歴史についてであっても、その方法論が適切でさえあれば、ちゃんと単位をあげる所存だ。

しかしその学生のレポートは、ある戦争が「益」なのか「害」なのか、その一番大事なところを、本人の直感で分けていた。その学生によると、第一次世界大戦は「害」だが、第二次世界大戦は「益」なのだそうだ。これは適切な統計データの取り方ではない。考察のはじまりがこのような似非統計に基づいてしまうと、その先に考察をいくら組み立てたところで、すべては無駄に終わる。
そのレポートは50枚を超える労作で、時間も手間もかけたのだろうが、問答無用で不合格にした。授業をきちんと聞いておらず、自分の中で決めてあるマイルールに基づいただけの、単なる「お話」に過ぎない。少なくとも、「再現可能性が保証された共有可能な知」としての科学研究の条件をまったく満たしていない。

そういう学生は、メンデルと同じだと思う。決して、悪気があって研究結果を「捏造」したわけではない。単に、「適切な統計データ」がどのようなものか知らなかっただけだ。着眼点がいくら良くても、そこで使われる方法論が間違っていたら、学問的に無価値なものになってしまう。
「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」、俗に「ハンロンの剃刀」と呼ばれるこの手の誤謬は、世の中に思いのほか多いのではあるまいか。


かように間違いのあるメンデルの研究だが、僕は個人的に、このメンデルの遺伝研究の仕事について、ちょっと説明しにくい複雑な感想をもっている。
科学的に誤謬が伏在していることは間違いない。しかし、だからといってこの事例を「無価値」として科学史から葬り去るには、ちょっと抵抗がある。

そもそも、なぜメンデルの研究は、発表当時に広く知られず、埋もれたままだったのか。ひとつには、メンデルが行った数値化する科学的思考の概念がまだ不十分だった時代という不運はあるだろう。しかし、僕は当時の生物学をとりまく状況から、メンデルの研究が知られていなかった他の理由を疑っている。

そもそも、メンデルが修道士だったことを忘れてはならない。メンデルは修道士として、キリスト教の価値観のみで作られた世界で暮らしていた。「生命体はすべて神が作り給う」という世界観のなかで、「生命の形質には法則性があるのではないか」という発想をすること自体、かなりの掟破りな破戒行為だったのではないか。メンデルの論文が抽象的で難解だったのは、メンデル自身がそのように、わざと真の意図を隠して曖昧に書いたのであるまいか。

つまり、「知られていなかった」というよりも、「意図的に隠していた」と考えるほうが、当時の時代背景に合うような気がする。神に仕える修道士として、神の意志と関係なく生命体の形質に関して形式的な考察を行うなど、ダーウィンの進化論に匹敵するほどのヤバさだろう。

そう考えると、なぜメンデルが遺伝形質の研究からすぐに離れたのか、その理由も理解できる。メンデルは終世、修道士としての人生を全うした。宗教的信仰のなかで独学で科学研究を行うことは、「信仰」と「科学」の間で折り合いをつける努力の繰り返しだっただろう。天文学を学べば自力で地動説にもたどり着くだろうが、同時期に生きたダーウィンの進化論についてはむしろ宗教界から批判を行う側だったと思う。

また修道院というのは女人禁制の場で、そこでは性や生殖に対する言動はタブーとなる。そのような道徳律の中で、交配による形質遺伝の研究をする、ということ自体、場を支配する道徳律に反するものとして弾劾される危険があったのではないか。

そのような時代背景を考慮すると、メンデルというのは、控えめに見積もっても「宗教上、道徳上のタブーをものともせず、事実を事実として見極めたい求道者」という人物だったのではないか。温厚そうな宗教者としての顔と、冷徹に事実を見極めたい科学者としての顔が、同居していた人だったのだろう。時代と環境の制約の枠にとらわれず、知りたいことを知ろうとする、知的なガッツを感じる。

科学を志す者に必要なのは、「事実を知りたいという知的欲求」と「考察を正しく行う方法論」だ。後者は訓練によって身に付けることができるが、前者は個人の性格が大きくものを言うことが多い。高校まで成績優等生でも、大学に入ってから勉強ができなくなる学生が多いのはそのためだ。メンデルは、その知的欲求が非常に強く、それが為に新たな科学分野を切り開くほどの足跡を歴史に残すことができたのではあるまいか。

惜しむらくは、後者がきちんと備わっていなかったことだ。時代の不幸、環境の不幸、いろいろな理由があろうが、本人がそれを本気で望んで、宗教的信仰よりも科学研究を最上位の価値に置くような人生を送ったならば、おそらく自力でその方法論を編み出せたのではあるまいか。そうなれば、現在におけるメンデル遺伝の位置づけはまた違うものになっていたのかもしれない。



エンドウ豆でビールのむと(゚Д゚)ウマー

都電荒川線の遠足に行ってきました


スタンプラリーがやりたい。



秋のはじめとなりましたが、暑さが残る今日この頃、みなさまいかがおすごしでしょうか。
ワタクシめは大学の新学期がまだちょっと先なので、夏休みの続きを満喫中であります。

夏になるとあれですな、各公共交通機関がこどもたち向けのスタンプラリーをいろいろと実施しておりますな。
大体、そういうのに熱中するのは男の子だそうです。「すべてをコンプリートして集める」「夏の暑さをものともせずに動き回る」「何の得にもならないことに熱中して手段が目的化する」というのは、どう考えても男の子向けのイベントでありましょう。同伴するご両親諸氏におかれましてはお疲れさまです。

さて、かつての男の子としては、この夏にいっちょスタンプラリーを完遂してみようか、と思い立ちました。
こちとら手段も時間も金もある大人です。本気になってとりかかればスタンプラリーなど1日でコンプリートなのであります。

僕は電車好きですので、普段は乗らない路線でスタンプラリーをやってみることにしました。
ターゲットは都電荒川線。東京の都心を走る唯一の路面電車です。三ノ輪橋から早稲田まで、東京東北部の下町情緒溢れる界隈を走ります。


CIMG5639
いかにも地元的な乗り物。 


この路線沿線は、『こち亀』でも両津勘吉の地元、「東京の下町情緒を伝える街」として頻出する地域です。ちょうどこち亀も連載終了が決まったことですし、記念がてら乗ってみることにしました。

都電荒川線のスタンプラリーは9カ所。駅ではなく、路線に近い地域のランドマーク的なところにスタンプが設置してあります。
スタンプラリーの台紙には、周囲のおすすめスポットなどが紹介されており、僕のような大人がぶらぶらと街歩きをするのに非常にぴったりの企画になっています。スタンプも他の鉄道会社のようにアニメのキャラクターなど一切使わず、チェックポイントも寺社や公園など、渋いチョイスになっています。こりゃ子供向けというよりも、僕みたいな大人を対象としてるんじゃあるまいか、と思ってしまいます。

で、実際に三ノ輪橋から都電に乗ってみたんですが。
「渋いチョイス」の理由がなんとなく分かりました。

とにかく、乗客に高齢者が多い。
始点の三ノ輪橋から乗った乗客は、僕以外は全部後期高齢者の方々ばかりでした。席を譲らずに座席に座っていると、そこはかとない罪悪感を感じます。

都電荒川線は、地元の方々が多く使用する路線のようで、普段のお買い物や近所の用事程度の出歩きにも、普通に使われる路線のようです。なんかみなさん普段使いに乗っていらっしゃる。
ワタクシのような若輩者の一見さんといたしましては、こうした地元の方々のお邪魔にならないように、端っこのほうにこっそりと乗せていただくのが仁義でありましょう。



都電2

(1) 三ノ輪橋駅
都電荒川線の始発駅です。もちろんターミナル駅です。ターミナル愛好家としてはぜひとも押さえておきたいスポットであります。
接続は、地下鉄日比谷線の南千住駅が便利です。この界隈は松尾芭蕉が奥の細道へと旅立った始点として知られており、近所の素盞雄(すさのお)神社には芭蕉の句碑がありました。


都電3
見よ、この堂々としたターミナルっぷり。 


都電4
現役でお仕事中の看板の大先輩のみなさん 




都電5

(2)荒川ふるさと文化館
荒川区の歴史、文化を展示してある博物館です。地域文化の保存館としてはかなりレベルの高い展示がありました。入館料が100円というところも良心的。子供の夏休みの自由研究ではかなり重宝しそうです。
館内には、荒川区で出土した遺跡・遺品のほかに、昭和当時の街並を再現したコーナーがあります。


都電7
こういうの大好きなんですよね 



都電6
ジョイフル三ノ輪商店街。「ザ・昭和」の趣きが満載。 



都電8

(3)あらかわ遊園
こち亀などで、名前だけは聞いたことあるけど実際には行ったことがない遊園地。荒川区のこども達はここが人生初の遊園地のでしょうか。
東京23区内で唯一の公営遊園地です。入園料が大人200円、子供100円というのがすばらしい。こども同士で遊びに行くにはこのくらいの遊園地が最適なんじゃないか、と思います。いきなりディズニーランドとか行くな。のちの人生の楽しみ方の大事な部分を失うぞ。


都電9
プールは8月31日まで。夏休みは子供で一杯だったのかな。 



都電10

(4)都電荒川電車営業所
都電荒川線の車両基地です。車両基地とあらば是非とも寄らねばなりますまい。
近くには「都電おもいで広場」が併設されていて、懐かしい停留所を再現して、旧型車両が展示されています。


都電11
パン屋さんまで下町風。 



都電12

(5)音無親水公園
都電の「王子駅前駅」で降りてしばらく歩くと、石神井川沿いの木立に囲まれたところに音無親水公園があります。木々に囲まれて水が流れているため、とても涼しい所です。のんびりと文庫本を読みふけっている学生さんらしき人達がちらほらいっらっしゃいました。僕もここで足を冷やして、のんびり休憩しました。

そういえば余談なんですが、都電荒川線には「王子駅前駅」「大塚駅前駅」というのがありまして、それぞれJRの王子駅、大塚駅と接続しているんですが、駅の名前が「○○駅前」っていうのはどうなんでしょう。それ自体が駅でしょうに。



都電13

(6)飛鳥山公園
王子駅の西側に広がる大きな公園です。「紙の博物館」「北区飛鳥山博物館」などが併設されており、そんじょそこらの公園とは格が違います。
公園広場には、いまどき珍しい大型遊具が並び、D51型機関車などが遊具として無造作に置かれています。子供が一日遊べる公園といえましょう。


都電14
俺が子供の頃だったら絶対に主になってる。 


都電15
公園とはこうでなくてはならない。 



都電15

(7)雑司ヶ谷鬼子母神堂(法明寺)
雑司ヶ谷、怖いです。池袋にありながら、ちょっと街並が周りと比べて5度くらい涼しくなった感じがします。夜とか絶対に一人で歩けない。
都電の雑司ヶ谷駅を降りると、いきなり雑司ヶ谷霊園の入り口があります。そこからちょっと歩くと、鬼子母神堂のある法明寺まで参道が続いています。


都電16
お祓いしてから行った方がいいかなぁ。 


都電17
こんな所まで来てやるんじゃねぇよ。 



都電19

(8)早稲田大学
都電の終点駅、早稲田駅の近くにある大学です。実はまだ一度も行ったことがなかったんですよね。嫁の出身大学で、話には何度も聞いたことがあるので、なんか始めて来た気がしません。
校内は広いので、油断すると迷子になります。早稲田大学には、JR高田馬場駅、東西線の早稲田駅、都電荒川線の早稲田駅が最寄り駅ということになっていますが、実際の大学の目的地にたどり着くにはそのどの駅からも遠い、という構造になっています。


都電20

(9)早稲田駅
都電のもうひとつの端のターミナル駅です。都電の線路は新目白通り(都道8号)の真ん中をぶっちぎって通っていますので、大通りのど真ん中にいきなり駅があります。駅から降りると、まるで中央分離帯の真ん中に降り立つような感じになります。


都電21
なかなかのターミナルっぷりだ。 



都電22
大人の本気をもってすれば、このくらい楽勝なのだ。 



季節に一度くらいはこういう遠足してみたいですね。

屏風絵の企み

神戸市の香雪美術館に、不思議な屏風絵がある。



レパント海戦



この屏風は、1571年にスペイン王室とオスマン・トルコ帝国が戦った「レパントの海戦」を描いている。
屏風左側の馬車上にはスペイン君主が描かれ「ろうまの王(ローマの王)」と注記してある。屏風の右側はオスマン・トルコ側が描かれており、トルコの外観を象徴するものとして灯台が描かれ、「つうるこ(トルコ)」と注記がある。トルコであることが分かりやすいように、象に乗った兵士まで描かれている。

これが「不思議」な屏風絵なのは、不可解なことが多いからだ。
まず、なぜに日本で描かれた屏風絵の題材が、レパントの海戦なのか。「レパントの海戦」は、大体の世界史の教科書に載ってはいるが、それほど必須の知識というわけではない。世界史を学んだことのある学生さんだって「知らんなぁ」という程度ではないか。歴史の知識としては、Bマイナスくらいの重要度だろう。なぜ戦国時代末期のご時世に、そんな遠い彼方のヨーロッパ世界の戦争が絵の題材になるのか。

さらに、描かれている状況がおかしい。
読んで字のごとく、レパントの海戦というのは、船で戦われた海戦だ。領土拡張を進めるオスマン・トルコが西進し、キリスト教文化圏まで範囲を伸ばした。その端緒としてキプロスがトルコの手に落ちる。それに危機感を抱いたローマ教皇が、スペイン王国の手を借りて、ギリシアのイオニア海でオスマン・トルコ軍と戦った。

しかし、屏風絵ではなぜかこの戦いが陸戦として描かれている。一応、帆船も描かれているものの、ここで描かれている帆船は軍事用の船ではなく、貿易用の商業帆船だ。軍事史的にはレパントの海戦は、ガレー船が使われた最後の海戦として知られている。しかし屏風絵のなかの船の描写は、その事実を反映していない。

さらに、トルコっぽさを出そうとして描かれた灯台の風景もおかしい。この戦場はギリシアなのだから、トルコの沿岸の景色を描いた絵は状況を正しく表していない。
絵の中のトルコ兵は、ご丁寧に象を乗り回して攻撃を仕掛けているが、もともと海戦に象を連れて行くような間抜けな軍はないだろう。

こうしてよく見ていると、この屏風絵が、何のために、どうやって描かれたのか、疑問を感じることがたくさんある。
わざわざ屏風絵に描いてまで、この戦争を後世に広め伝えようとした制作者の意図は、どこにあったのか。


世界史的な知識としては、レパントの海戦の意義は、オスマン・トルコ側ではなくヨーロッパ世界側にある。戦争の結果として、スペインが勝ち、オスマン・トルコが負けた。領土拡張の野心が高いオスマン・トルコのヨーロッパ進出政策はここで頓挫し、両勢力が拮抗する軍事境界線がある程度確立した。

しかしこの敗戦は、オスマン・トルコにとってそれほど打撃だったわけではなく、この海戦以後もトルコは地理的要衝を占める国として依然、勢力を保ち続けた。ロシアの南下政策やヨーロッパ諸国の近代化によってトルコが相対的に弱体し、オスマン・トルコが革命によって崩壊するのは、第一次世界大戦後のことだ。260年続いた徳川幕府は大したものだが、閉鎖された島国と違い、地理的にも周囲に囲まれた環境にありながら、オスマン・トルコは約620年の長きにわたりイスラム圏を統括し続けた。

むしろ、「イスラム勢力を撃退した」という功を上げたスペイン王国が、その名を轟かせるきっかけとなった。スペイン絶対王政を表す言葉として「無敵艦隊」という用語がよく知られているが、そのイメージはすべてこのレパントの海戦の勝利がきっかけとなっている。無敵艦隊というのは、「誰に対して無敵なのか」というと、それは「イスラム勢力に対して」である。イスラム勢力を追い払ったスペイン強し。イスラム勢力を駆逐した艦隊強し。そういうプライドが、「無敵艦隊」という言葉になって今に残っている。

翻って当時の日本の状況を考えてみると、スペインはこの頃、東南アジアをはじめとする地域の植民地化に熱心だった。スペインがもし当時、日本に接触することがあったとしたら、その目的は明らかに「植民地化」だろう。
その目的のためにスペインがとる方法はいつも決まっている。先に偵察隊として、カトリック宣教師を送り込み、現地の様子や人の性質を報告させる。

当時のヨーロッパは絶対王政の時代で、各王室は植民地の開拓に躍起になっていた。その目的は胡椒や銀の輸入だったから、産地であるアジアがよく狙われた。時代が下って、産業革命後の帝国主義時代になると、植民地は「物産の調達地」から「商品を売り込む市場」として利用価値が変わるが、それでも経済力が高かったアジア諸国が狙われたことに変わりはない。

当時、アジアに進出していたヨーロッパ諸国は、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルなどがひしめいていたが、江戸時代、鎖国を敷いた江戸幕府は、唯一貿易の相手としてオランダを選んでいる。これは徳川幕府が当時の世界情勢を正しく把握していたことを示している。植民地を広げる野望が強いイギリス、スペインなどに比べ、もともと母国の王制が盤石ではなく、軍事力がそれほど強力ではなく、もともと貿易によって国の体制を維持していたオランダは、平和的な貿易相手としては理想的だっただろう。もしこれがスペイン相手だったら、皆殺しにされたインカ帝国のようになっただろうし、イギリス相手だったら、市場として搾取されまくったインドや、アヘン漬けにされた挙句に戦争を吹っかけられた清のようになっただろう。

問題の屏風は、小西行長、黒田孝高らの依頼で作成されている。共にキリシタン大名だ。日本にキリスト教を伝えたのはカトリックのイエズス会だから、当時の日本のキリスト教の布教は、カトリックであるスペイン王国が後ろで糸を引いていると考えて間違いない。日本にキリスト教を伝えたザビエルは、スペインの一地方であるバスク地方の出身だ。

すると、この屏風が作られた意図が見えてくる。つまり、布教の権威付けのために、スペインが勢力を誇示するために描かれたのではないか。「いまヨーロッパでは、われわれスペインが覇を握っていますよ」ということを誇示するためのものだ、と考えて間違いなかろう。
単にスペイン王室の繁栄を誇示したいだけなら、別に宮廷の建築画であっても構わないはずだ。それをわざわざ、トルコを破った戦争の絵を題材にした、ということは、「逆らうとお前らもこうなるぞ」という威嚇と考えられる。

おそらく、小西行長や黒田孝高らは、純粋にキリスト教布教のために宣教師に協力する形でこの屏風絵を作成させたのだと思う。しかし、残念ながら彼らは頭が悪かった。スペイン王室の意図を正しく理解することなく、宗教的で崇高な使命感で操られ、宣教師に言われるままに利用され、この屏風を作ったのだろう。限られた情報源からでも対外情勢を正確に把握していた徳川幕府とは、現状認識能力に雲泥の差がある。彼らもろとも豊臣一派が滅んだのは、歴史の流れで見る限り、日本にとっては幸運だった面があるだろう。

そう考えると、なぜこの屏風が史実通りの海戦ではなく、陸戦として描かれたのかがなんとなく分かる。戦国時代には幾多の戦乱が発生したが、そのほとんどは陸戦だ。日本で海戦といえば、壇ノ浦の戦い、文永・弘安の役くらいのもので、それとて地中海の覇権を賭したレパントの海戦とは、規模が全く異なる。

つまり、「植民地化の下地としてスペインの軍事力を誇示する」という目的のためには、史実通りに海戦を描いても、当時の日本人にはあまりピンとこなかったのではあるまいか。戦国時代の戦争に慣れた日本人は、どうしても軍の戦力を、歩兵の数と武器の数で推し量る。海戦をそのまま描くと、どうしても船団の量を描くことに力点が置かれ、そうした「目に見える戦力」を描きにくい。

プロパガンダや広告のような媒体は、事実を描くことよりも、「受け手の目にどう写るか」によって、表現の方法が違ってくる。それはとりもなおさず、表現の仕方をよく検証することで、情報の発信元が意図していることが推測できる、ということでもある。この屏風の描かれ方からその意図を推察し、その目論見が失敗に終わったことから考えると、日本人というのは当時から、芸術的な審美眼の他に、冷静に事実を推察する思考力が備わっていたことが分かる。



ダイエットのCMを見るたびに狙い打ちする顧客層が想像できて面白い。

なぜ女性の日記が1000年も残るのか

夏の読書は古典に限りますな。


古典というのは、主語が省略されたり場面が不明瞭だったり、情報が不足気味の文章がつらつらと並んでおり、きちんと読み解こうとすると非常に苦労する。
しかし、夏の暑い日に、だれた頭でなんとなくだらだらと読むと、この「いいかげんさ」が非常にちょうどいい。

日本の平安時代前後に書かれたもののうち現存しているものは、大抵、女性が書いたものだ。随筆、日記、物語など、ほとんどが女性の手による。
ひとつには、当時そういう物書きが専業の職種として成立していなかった、ということがある。当時書かれたもののうち男性の手に拠るものは、ほとんどがお上の命によって編纂された、政治的事業の側面がある。随筆や日記などのように「なんとなく書いたもの」は、当時の男性の書くものではない。

そう考えるにしても、もうひとつ疑問がある。日記や随筆というきわめて個人的な書き物が、なぜ1000年の長きにわたって読み継がれるのだろうか。
現在でも芸能人やらアイドルやらの日記やBlog, SNSの記事が広く読まれているが、まぁ、たいして面白いものではない。当人の熱心なファンでもなければ、なんの価値もない文章だろう。ましてや、1000年後にも残っている文章かというと、そんなことは決してない。
では、平安時代の女性の日記が、時代を超えて読み継がれているのは、なぜなのか。

この時代の日記ものを読み返してみると、全然面白くない。少なくとも、1000年の長きに渡って広く長く読み継がれるべきほどのもには見えない。
平安三大日記と目される「枕草子(=清少納言日記)」「紫式部日記」「和泉式部日記」を読んでみると、「瓜に子供の顔を描いてみたらチョーかわいい」だの、「蜘蛛の巣に朝露がかかっているとなんかイイ」だの、他愛もないことばかり書いてある。日記だから別に書きたいことを書けばいいのだが、その手の他愛ない内容が1000年も読み継がれる理由とは思えない。

現存している日記ものの共通点は、「宮中に使える女房が書いたもの」ということだ。要するに一般市民の下々の生活実感ではなく、宮中という上流階級の生活が余すところなく書かれている。現在の視点では、むしろ前者のほうが歴史学的価値が高いと思うのだが、そういう市井の人々はまだ識字率の点でも道具の点でも記録を残せる環境にはなかっただろう。

たとえば「和泉式部日記」には、次のような記述がある。

かくて二三日音もせさせたまはず。頼もしげにのたまはせしことも、いかになるぬるにかと思ひつづくるに、いも寝られず。目もさまして寝たるに、拠るやうやうふけぬらむかしと思ふに、門をうちたたく。あなおぼえなと思へど、問はすれば、宮の御文なりけり。思ひがけぬほどなるを、「心や行きて」とあはれにおぼえて、妻戸押し開けてみれば、

見るや君さ夜うちふけて山の端にくまなくすめる秋の夜の月

うちながめられて、つねよりもあはれにおぼゆ。門も開けねば、御使待ち遠にや思ふらむとて、御返し

ふけぬらむと思ふものから寝られねどなかなかなれば月はしも見ず

とあるを、おしたがへたる心地して「なほくちをしくはあらずかし。いかで近くて、かかるはかなし言も言はせて聞かむ」とおぼし立つ


(口語訳)
こうして、宮様は二、三日お便りもくださらない。頼もしいことをおっしゃっていたのも、どうなってしまったのだろうかと思い続けると、眠ることもできない。目を覚まして横になっていると、夜もだんだん更けてしまったのだろうよと思っているときに、誰かが門を叩いている。誰だか見当もつかないけれど、家のものに応対させると、宮からのお手紙であった。思いがけないタイミングに「心が通じたのかしら」としみじみ嬉しく思われて、妻戸を開けて手紙を読んでみると

見ているかね、あなたは。夜も更けて山の端近くに曇りもなく澄んでいる秋の夜の月を

すると自然に月をぼんやりと見やってしまい、いつもよりもしみじみと感じられる。門を開けないままだったのでお使いの物が待ち遠しく思っているだろうな、と思って、ご返事に

夜も更けてしまいつつ眠れないでいたけれど、月を眺めるとかえって物思いがするので、あえて月は見ていません

と読んだのを、宮は意表をつかれた思いがして、「やはりすばらしい女だ。なんとかして彼女を近くに置いて、このようなたわいない和歌を詠ませて聞きたいものだ」と決心なさった。


宮(=天皇)から夜にラブレターをもらって、こんなお便りをしたら気に入られちゃいましたよ、という自慢話。宮の手紙には「月が奇麗ですね」。これは我が日本では古来の昔より「まるであなたのようです」と相手の美貌を褒める際の常套手段だ。夜の会話に「月」が入ってきた時点で、すでに会話の意図は口説きと断じてよい。

それに対して作者の和泉式部は、わざと逆の内容の「月なんて見ていません」と返事をする。そのこころは「見るとあなたを想ってしまうから」。
その結果、宮は「なんとすばらしい女だ」と感心し、この女を手に入れたいものだ、と気が引かれてしまう。

凄いのは、和泉式部が「こういうことを言ったら、宮様が私のことを『すばらしい女だ』と思ったのですよオホホホホ」と自分で書いていることだ。しかも相手は天皇だ。天皇に見初められた、ということは、つまり和泉式部にまつわる一族郎党すべての栄華繁栄を意味する。

つまり、当時の女性作者の筆による日記物語は、すべて「こういうことを言ったら、誰々にとても気に入られましたの」的な、時の権力者に寵愛されたことの自慢合戦なのだ。
清少納言の「枕草子」は、終始一貫して中宮定子に褒められた自慢で埋め尽くされている。定子が香炉峰の雪に擬えて問いかけをしても誰も理解できなかったのに、清少納言ひとりがその意図を察して御簾を上げたら「さすが頭が良い」と褒められた、のような自慢話を得意げに書き連ねている。

一方、根暗で地味で内向的で、壁に向かって独りごとを言う癖がある紫式部は、明るくて開放的な清少納言を徹底的にこき下ろして批判している。しかしそういう紫式部も、中宮彰子に気に入られた話が中心となっており、「ま、こういうことを書くと自慢話になってしまいますけれど」と断りつつも、その自慢話を延々と並べている。

しかし、清少納言や紫式部などは、自慢の原因がしょせん中宮だから、まだ可愛げがある。これが和泉式部になると「わたくし天皇に気に入られちゃいましたのオホホホホ」となる。当時としては大した自慢だ。しかも自分の筆ながら「ワタクシのこういう所に宮様は夢中になってしまいましたの」のようなことを、臆面もなく書き連ねている。
さすがにこうした描写は第三者的な筆によるものではないか、という憶測から、「和泉式部日記」の実際の作者は本人以外のゴーストライターだったのではないか、という説もある。しかし本人の筆によるものでなくとも、そうした内容が広く読み継がれ、1000年もの時代の評価に耐え続けてきた事実に変わりはない。

つまり、当時の女性作家による日記や随筆は、当時の読者にとって「こういう振る舞いをすれば、たとえ天皇でも虜にできますよ」というハウツー本のような役割を果たしていたのではないか。当時、藤原一族による摂関政治が全盛で、その権力の礎は、何よりも当時の天皇に自分の娘を差し出すことにあった。自分の娘が天皇に気に入られるかどうかが、一族の権力を左右する。そういう世の中にあって、その気に入られっぷりを披露する日記物は、権力を欲する政治家、宮中の生活を羨む下級役人、煌びやかな世界に憧れる一般女性など、多くの層にとって必読の書だったのではないか。

過去でも現在でも、他人の日記というものは、読んでみたい欲求が高い割には、実際に読んでみてもつまらないものだ。「なんだ、こんな程度のことか」という、たわいもない内容が多い。日記というのは基本的に人に読ませるためのものではないのだから、それはそれで一向に構わない。
しかし、平安時代に書かれた日記や随筆を読むと、明らかに他人に自慢したい意識で書かれた文章に読める。意図的に、人に読ませることを前提に書かれているような気がする。時の女房共が大挙して日記や随筆を書き残しているところから考えて、そういう行為を推奨した、何らかの政治的背景を感じてしまう。



僕の日記はトドちゃんが登場する絵日記ですが。

「紳士たれ」がモットーの読売巨人軍のエースをご覧ください

紳士たる巨人軍の大エース様



巨人ベンチ凍りついた…菅野初めてのブチ切れ

巨人は28日の広島戦(京セラドーム)に0―4で完敗。負けが許されない首位との直接対決を落とし、ゲーム差は再び10へと広がった。先発したエース・菅野智之(26)は7回3安打2失点とゲームをつくったが、またしても打線の援護に恵まれず5敗目(6勝)。試合中に怒りをあらわにするなど大荒れで、チームに暗い影を落とした。  

いつもは冷静沈着な菅野が珍しくブチ切れた。テンポのいい投球で会沢、福井から連続三振を奪った直後の3回二死。田中に真ん中に入ったスライダーを痛打され、右翼スタンドへの先制ソロを浴びた。負けられない一戦で、東海大相模―東海大時代の同期に許した一発がよほど悔しかったのだろう。3回を終えてベンチに戻ってくると、その場でグラブを思いっ切り叩きつけた。これまで菅野は伯父の原辰徳前監督から「エースたるもの試合中、喜怒哀楽をあらわにしてはいけない」と教え込まれていた。それだけに「禁」を初めて破った格好だ。このエースの“初ブチ切れ”によって巨人ベンチの空気が一瞬で凍りついたのは言うまでもない。  

この日の打線は散発6安打で無得点。好投するエースを打線が見殺しにするシーンは今季何度も繰り返されてきた。菅野の防御率はリーグ唯一の1点台(1.69)ながら、6勝5敗という成績は気の毒すぎる。野手陣が「自分たちが打てないから、ブチ切れてしまったのかもしれない」と思ったとしても不思議はない。  

さらに7回を投げ終えて交代した直後には、菅野はベンチの端で鬼の形相のまま一点を見つめていた。そんなエースを気遣うかのようにナインや首脳陣が一斉に反対側へと集まる異様なシーンも見られた。周囲からは「このままでは菅野の我慢も限界に達してしまうかも…」と不安の声が出始めている。  

田中に6回にもソロを浴び、プロ入り初めて同じ打者に1試合で2被弾した菅野は「広島とやる時はアイツにだけは打たれたくないと思ってやっている。正直悔しい。来週(8月5~7日に敵地3連戦)でやり返したい」と努めて冷静にコメント。由伸監督はエースの2被弾について「そこが菅野にとってもったいなかった。それ以外は良かったが…」と評した。  

いずれにせよ「メークドラマ」の再現を狙う巨人にとっては、取り返しのつかない1敗となったのは間違いない。


大エース様がこういう振る舞いをした、というだけではなく、監督、コーチをはじめとする首脳陣が誰もこの行為を咎めなかった、ということからして、巨人がこの行為を容認していることは明白ですね。

野球少年の皆様におかれましては、嫌なことがあったら道具に八つ当たりして、怒られたら「だって菅野もやってたよ」「巨人では誰も怒ってなかったよ」と堂々と主張しましょう。



追い込まれた時の人格が、その人の本当の人格。

フランス文学者

毎日新聞「余録」
2016年7月26日

仏文学者で昆虫好きとして名高い奥本大三郎さんは、小学校2年生から約3年間、股関節カリエスで寝たきりの暮らしを強いられた。そんななかでも窓辺に花の鉢を置き、蜜を吸いに来る虫をベッドから網を伸ばして捕らえていたという

回復後は鉄と革製のコルセットをつけたまま昆虫採集に熱中、6年生の夏休み明けにためていた標本箱を学校に持っていく。しかし級友や先生には足の悪い奥本少年にこんな立派な標本ができるはずがないと白い目で見られてしまった(柏原精一(かしわばらせいいち)著「昆虫少年記」)

その昔は学校の夏休みの課題といえば昆虫採集だった。だが、今や「気持ちが悪い」の声で学習ノートの表紙から昆虫の写真が一時消滅する時代である。とはいえ今も、野山に虫を追い、捕らえて標本にしたり、強いカブトムシを育てたりする昆虫少年も健在である

人には生き物を集め、仕分けし、育てる習癖があるようだ。どうやらその欲求を現実と仮想世界が融合したスマホの画面で満たそうというポケモンGOらしい。米国では国内で発見できる全モンスターを捕獲したという男性の話をCNNが伝えるありさまだ

日本でも車のながら運転の事故や検挙者が出て、高速道路への侵入者もあった。運転は論外で、弱者を巻き込む歩きスマホ禍や、熱中する子どもの事故もやはり心配だ。往年の虫捕り少年には大人も子どもも入り乱れて捕虫網を手に町をうろうろする様が思い浮かぶ

昆虫採集の夏休みから世上騒然の仮想モンスター集めの夏へ。時代は様変わりしたが、休み明けにそろう子どもらの元気な笑顔は昔も今もかけがえがない。



僕が大学時代にフランス語を習った先生。懐かしいなぁ。
授業シラバスが白紙だったり、演習中にフランス産のワインを飲ませてくれたり、一風変わった先生だったけど、すごく実力があって話が面白い先生だった。

「昆虫好き」なんて紹介してあるけど、この先生、日本昆虫協会の会長だったんだけど。



自分の熱中していることをすごく楽しそうに話す先生だった。

大人の勉強のしかた

文房具が趣味で、いろいろと試してみては使っている。


文房具が趣味、という人が行き着く先は、万年筆だ。
まさしく「キング・オブ・文房具」。値段と価値が比例する、珍しい商品だと思う。高価な万年筆ともなれば、まさしくクラフトマンシップの結晶。その書き心地は素晴らしい。

趣味に昂じる人の陥りやすい罠は、「単なるコレクター」になってしまうことだ。万年筆が趣味、という人でも、その実は単なる万年筆コレクター、という人は珍しくない。
人は誰でも、子供の頃から何かを集めることを趣味にしたことがあるだろう。そして、本人は熱中しているつもりでも、たまにふっと「集めること自体が目的化していること」の空しさを感じたことがあると思う。

僕は経験上、そういう陥穽に嵌らないための、自分なりの方法を持っている。
つまり、「その分野の最高のものを持つこと」。

「欲しい」という欲求は、つまるところ「満たされていない」という感情が原因だ。だから一番欲しいものを手にしてしまえば、それ以上欲しいものはなくなる。
僕はそれを直感的に悟って、まだ学生の頃に世界最高の万年筆を買った。これを買うために、1年くらいせっせとバイトをしてお金を貯めた。
このご加護かどうか知らないが、今でも僕は「要らないのに、単に集めるためだけに欲しい」ということがまったくない。

今でも僕は、自分の勉強をする時には万年筆を使っている。気に入っている道具を使うのが楽しい、ということもあるが、もっと実際的な理由がある。
子供の頃から体育会系だった僕は、筆圧が強い。シャープペンや油性ボールペンを使っていると、筆圧の強さが筆記の疲れに直結し、わずかな勉強量で疲れてしまう。頭の疲れではなく、手首の筋力的な疲れなのだが、子供の頃にはそれを大雑把に「勉強疲れ」と認識してしまっていた。
万年筆を使うと、力を入れなくても、わずかな筆圧でくっきりと字が書ける。長時間書き続けていても、全然疲れない。万年筆を使うことの利点には、そのような勉強疲れを軽減する効果があるだろう。


話はまったく変わるのだが、大学で教えていると、よく学生から「こんな分野を勉強していて、いったい何の役に立つんですか」と訊かれることがある。
また文部科学省は教育の根本理念として、馬鹿の一つ覚えのように「生涯教育」「生きる指針」というお題目を掲げている。

両者とも、言葉だけがひとり歩きして、その実体には誰も踏み込もうとしない、不思議な現象だ。
学生は誰でも、勉強はしなければならないものだと分かっている。分かった上で、「なぜ自分が」その分野を勉強しなければならないのか、と文句を言っている。また、目先のものしか見えない視野狭窄に陥って、短期的に成果の上がるものにしか優先的な価値を見いだせなくなっている。
一般社会人にしても、一生勉強を続けるほうが「豊かで実りある生活」を送れることなど、よく分かっている。分かってはいるが、週末や休日には、ゆっくり寝てテレビを見て酒を飲むほうが、優先順が先になる。生涯教育を続けるほど、自分の中に「学ぶ土台」が出来上がっていない。

あまり知られていないことだが、大学というものは生涯教育のための市民講座や夜間授業を頻繁に開催している。僕が勤務している大学も、社会人対象の公開講座を無料で開講している。昨今では大学というものの存在意義が大きく変わっており、大学は学生相手だけではなく、一般市民の知への貢献度も評価の対象となるご時世なのだそうだ。
それ自体はいいことだと思うのだが、開講されている講座の内容や、受講しているお客さんの層を見る限り、僕はあまり建前を具現化しているような試みには見えない。誰でも、大学で開講する講座に飛び込むのは、勇気のいることだろう。なにか難しそうな内容を、必死に勉強しなければならない、というイメージで公開講座を見ている人が多いような気がする。

だいたいそういう市民講座は、教える側も、大学事務局から頼まれて嫌々引き受けているケースが多い。だから手加減なしの授業を行う。「これくらいのことは分かっているでしょ」という前提知識のもとに、大学とはこのような場所でございます、とばかりに最先端の内容を講義する。こんな講座の開き方で、一般市民の生涯教育が啓発できるとは、とても思えない。
つまるところ、大学の公開講座というものは、「10の知識を100にする」という感じで行われている。僕が考えるに、本当に必要なのは「0の知識を1にする」ことの必要性と方法論を教えることではあるまいか。

大きな本屋さんに行くと、最近は社会人向けの「やりなおし学習」のための本がよく売っている。数学、歴史、理科、政治経済などの「学校で習ってはいたけど、もう一度勉強し直したい」という分野を、やさしく解説している本だ。
僕もそういう本をよく読むが、その手の本を読んで、改めて勉強が好きになる社会人はいないと思う。そういう本の共通点は、要するに「その分野を分かりやすく解説している」だけの、ただの教科書なのだ。自身が中学・高校時代に使っていた教科書と、構成も内容も何も変わらない。むしろ内容が簡単になった分だけ、その質は薄っぺらくなっている。

そういう本の前提として、「学ぶ側が何かの必要性に駆られて必死で勉強するはずだ」という思い込みがあるような気がする。必要があるから勉強し直すのであって、純粋に楽しむために勉強をするようには編集されていない。ああいう本を読んで「なるほど数学は楽しいな」と感じたとしたら、それはまるで使いもしない万年筆をずらっと買い揃え、悦に入っているような趣味と、たいして変わらないのではあるまいか。本人は「楽しい」と思い込んでいるのだろうが、それは本当に優れた逸品を鑑賞し、その価値を味わう姿勢なのだろうか。

大人の趣味が子供と違う点は、「それを使って何をするのか」以前に、「そのモノ自体に価値を見いだす」という、視点の違いだと思う。
子供のおもちゃというものは、それを使って「何かができる」ように作られている。おもちゃを渡されたら、子供はそれがどんなものであろうと、それを使って「何か」をするように行動する。それは勉強するときの態度にも反映され、ある分野を勉強する時には「それを学んだら、何ができるようになるのか」という、具体的な成果を欲しがる。

一方、大人の視点では、それを使うことに興味はなく、そのモノ自体を鑑賞することに意義がある。だから実利的には全く価値のない、盆栽や切手などを収集することで十分に楽しめる。本来は筆記用具である万年筆をやたらに集めるコレクターも、それと同じような心情だろう。100本の万年筆を集めている人に、「で、この万年筆で一体何を書くんですか?」と訊くのは、大人の趣味・嗜好を理解しているとは言えない。

大人の趣味がそのようなものである以上、社会人になってからの勉強の仕方というのも、それに沿ったもののほうが啓発の余地が大きいのではないかと思う。
別に入学試験のために勉強するのではないのだから、大人にとっては学んだ知識が何の役に立たなくても、別に知ったこっちゃないのだ。知識の価値それ自体を楽しみ、自分の知の体系を「作り込む」ような学びの方法を教えるほうが、大人にとっては楽しめる勉強の仕方だと思うのだ。

たとえば、「役に立たない分野」の最高峰と目されやすい数学。
誰でも、ax2+bx+c=0 (a,b,cは0でない数)の2解が、

解の公式


であることを「知っている」。
しかし、なぜ2解がそのような数になるのか説明できる人は、あまりいないだろう。

学校で二次方程式を習う時には、具体的に「答え」を出さないとテストで点をもらえない。だからこの方程式を解き、具体的な2解を出すことが「絶対的な目標」になる。
こういう価値観で勉強をしていれば、次なる疑問として「で、この答えを出したところで、それが何に使えるの?」となるのは自明だろう。「その知識を使って、一体何ができるのか」という姿勢が、学習の基本指針になってしまう。「数学が得意な人」というのは、入試問題に代表されるような「他人に出された問題の、正解を出せる人」という学力観が、支配的だと思う。

実際のところ、二次方程式の解の公式は、平方完成すれば簡単に導ける。それまで自分が「覚えている」だけだった知識に、「どうしてそうなっているのか」という原理原則を理解することが、本当の「勉強」だと思う。その知識が何の役に立つかなど知ったこっちゃない。「なるほど、そうなっているのか」という知的興奮を求めることが、大人の勉強の仕方ではないか。

前の項に一定の数を掛けた数列のことを、等比数列という。初項をa, 公比をrとすると、等比数列は

a, ar, ar2、ar3, …, arn-1

と表せる。

このa1からanまでを全部足した等比数列の和Snは、

等比数列の和

として求められる。学校の数学では、これを公式として「覚えろ」と言われることが多い。
では、等比数列の和は、なぜこの公式で求められるのか。

等比数列の和の公式は、別に根性で暗記しなくても、簡単に求められる。
Snのほかに、公比を一回掛けたrSnというものを用意し、後者から前者を引き算すれば、初項と末項以外の、間にある項はすべて全滅して求められる。
ただ覚えているだけだった知識に、「なぜ、そうなっているのか」という原理原則から始めて、自ら知を形作る方法論こそが、勉強の本当の面白さなのではあるまいか。

市販されている「やりなおし数学」があまり面白くない理由は、そこのところの面白さを啓発するように書かれていないからだ。社会人対象のやりなおし教科書でも、その目標とするところが、学生時代に教室で叩き込まれていた勉強と、まったく同じなのだ。そんな勉強に対しては、学生時代と同じ感情を抱いてしまうのも無理はない。

僕は個人的に、大人になってから数学を勉強し直す際には、学生時代に暗記させられていた公式を全部証明していくだけで、十分に楽しめると思う。
万年筆を楽しむときには、「それで何を書くのか」は問題にならない。万年筆という道具自体を楽しみ、その構造や精密性を味わうだけで、十分楽しめる。それと同様に、数学の知識を使って何をするかなど知ったこっちゃなく、既存の知識のしくみを知り、その精巧さに驚嘆する、というのは、思いがけないほど「凄いこと」なのだ。

別にそれは数学に限ったことではない。歴史を勉強する際にも、学生時代の呪縛から外れて、知識を精密化し再構築していけば、十分に楽しい。
例えば、誰でも「幕府」という用語を知っている。しかし、本当に幕府が何であるのかを知っている人は、思いのほか少ない。たとえば、「いま自分で幕府を作ろうと思ったら、必要なことは何か」という問いに答えれる大人は、あまりいないだろう。

幕府というのは、もともと征夷大将軍に与えられた行政権を指す。京都におわします天皇から遠く離れた「夷人」を征伐する際に、その責任者である頭領に全権を与えたのが始まりだ。京都から遠くなればなるほど、夷人を征伐するためには、様々な事業が必要になる。前衛基地としての都市を作る必要もあろうし、膨大な人員を統括するための立法機能も必要になる。そういうときにいちいち京都にお伺いを立てていたのでは小回りが効かないから、「必要なことは全部そっちで勝手に決めてくれ」という全権委任が、幕府の前段階となる概念だ。

時代が下って武家政権の世の中になると、いっそのこと国の政治全部を武士の頭領に委譲したほうが話が早い、ということになった。それが制度化したものが幕府だ。
つまり幕府というものの存在の前提として、「行政権を朝廷が握っている」という背景がある。それを譲渡したものが幕府だ。江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜は、委譲された政治権限を朝廷に返納している。俗にいわれる「大政奉還」だ。

だから、朝廷(天皇)が行政権を握っていない現在の日本では、幕府というものは原理的に成立し得ないことになる。もし今の日本で、誰かが幕府を開こうとしたら、行政権を一旦日本国政府から天皇に戻し、その上で天皇から行政権を委譲してもらう必要がある。

戦国時代、各地に割拠した戦国武将は、みな「京都を目指せ」と上洛を目指した。幕府の何たるかを知らないと、なぜ戦国武将が京都を目指したのか、その理由が理解できない。
戦国武将の究極の目的は「全国を自分の支配下に入れること」。そのためには、朝廷から「お前が武士の頭領だ」というお墨付きである征夷大将軍に任じられることが、必要かつ十分な条件だ。

鎌倉幕府は、行政府が鎌倉という辺境の地に置かれた事情から、原始的な「征夷大将軍」のイメージに近い幕府の開かれ方だった。その時代の朝廷はまだ実質的な力を失っておらず、純粋に権力を「委譲」しているだけだったので、朝廷は何かにつけて幕府に目を光らせ、武家政権に偏った政策には介入を行った。
ところが戦国時代になると、朝廷は単独で行政を敷けるほどの地盤と背景を失う。建武の新政に失敗して以来、朝廷は武士の助力なくして行政権を安定させることが事実上不可能だった。つまり、室町時代以後、征夷大将軍に任じられることは、同時に行政権のすべてを掌握することを意味する。

その過渡期にある室町幕府が、あまり一般的に「幕府」としてのイメージが薄いのは、地理的理由と背景的理由のふたつがある。
室町幕府は、京都に開かれている。つまり、朝廷のお膝元で開かれているわけで、これは原始的な「征夷大将軍」の必要性からすれば、本末転倒と言える。つまり、朝廷としては単独で行政権を執行したいものの、時代の変化によって武士がもつ軍事力に依存しなければその実現が不可能になっていたのだ。そこで、建前的には武士に政権を委譲するものの、「それを委譲しているのは朝廷だからな」と面子を保とうとした苦肉の策が、室町幕府なのだ。その時代では武士のほうでも朝廷の威光は利用価値があったので、その体制のもとでの自己の権威付けに利用した。

その体制が崩壊したのは、「もう朝廷の威光に頼るだけで軍事力のない勢力などものの数ではない」と価値観をがらっと転換した織田信長が、室町幕府を滅ぼした時だ。織田信長が凄かったのは、単に「朝廷にお墨付きをもらっている」という室町幕府の形骸化を見抜き、「それよりも力のある勢力があれば、朝廷はそちらに権力を委譲するはずだ」という時代の流れを正確に掴んでいたことだ。

このように、「幕府とは一体何なのか」という原理原則を知るだけで、鎌倉・室町・戦国時代という時代がひとつにつながり、「朝廷と武士の関係」というひとつの横糸で歴史が見えるようになる。一般的に室町時代は「つなぎの時代」と見なされ、歴史ファンにも人気が薄い。その一般的なイメージに乗っかるだけでなく、「なぜそういう時代だったのか」「何と何をつないでいた時代なのか」を自分で再構築するだけで、歴史を見る目が変わってくる。

それを考え、自分で答えに至ったところで、別に入試問題が解けるようになるわけではない。目的のために勉強するのではなく、既存の知識を、自分の中で「作り込む」作業をすることで、見えるものが違ってくる。
勉強というのは本来、自分の知らなかった世界を見るためにするものだ。凡人には、盆栽の何が楽しいのか、万年筆の何がそんなに面白いのか、理解できない向きもあろう。しかし、そういうものの中に独自の価値観を見いだし、モノそのものに価値を見いだすようになると、かなり楽しい時間が送れるようになる。それが一般的に認められる価値であろうとなかろうと、知ったこっちゃない。自分だけが楽しめればいいのだ。「知的に充実する人生」とは、そういう経験を自分の中だけでじっくり熟成させる生き方のことではあるまいか。

一般的には、「知識をいっぱい知っている人」を「頭のいい人」という学力観があると思う。しかし、その知っている知識なるものを、ただ知っているだけの人は、100本の万年筆を集めているコレクターと変わりない。自分の気に入った知識を、微に入り細を穿ち作り込み、丹念に鍛え抜いてこそ、その知識の本当の「使い方」が分かる。知識というものは、持っている量よりも、それをどれだけいじり回して楽しい時間を過ごせるか、のほうに価値の基準があると思う。


大学の公開講座や市民講座は、何かにつけて「○○○に役立つ歴史講座」「すぐに活かせる○○○授業」など、実利や効能を謳い過ぎる。個人的には、何かに役に立つ勉強など、全くつまらないと思う。端から見ればつまらないものに、それ独自の価値を見いだすことが、本当に熱中に値する行いではあるまいか。役に立つことを求めて、せっせと知識の暗記に精を出す勉強など、学生時代の呪縛の中に再び足を突っ込もうとする、愚かな行為に見える。



「ダンゴムシの生態」という公開講座はなかなか面白かった。

哲学の試験

変わり者の哲学教授が学期末に最終試験を実施した。
クラスの全員が集まったところで、教授は椅子を机の上に置き、こう言った。

「今学期に学んだ全てを使ってこの椅子が存在しないことを証明しなさい」

学生はいろんな理論を駆使し、書いたり消したりして、答案用紙を埋めていった。
30ページを越える答案を書いたものもいた。

ところが一人だけは一分もしないうちに立って教室を出て行ってしまった。

数週後に成績が発表されたとき、みんなはなぜこの学生が「優」を取れたのかを不思議がった。
彼はほとんど書いていなかったのだから。
みんなは彼の答案の内容を知りたがった。

彼の答案用紙には、こう書かれてあった。


「どの椅子?」




公理系の基本。

第98回全国高校野球選手権大会CM




熱中症に気をつけて。

イギリス出身者の感想

ピーター・バラカンさん「大英帝国の変なプライド今も」
(朝日新聞Digital 2016年6月25日)

英国の人たちが離脱を選んだことに、僕は複雑な思いです。

英国は自分の道を1人で歩くことになるのか。本当に1人でやっていけるのか。もちろんそんなわけはないですから、前より不利な状況で欧州の国々と付き合うようになるし、米国との関係も難しくなるだろう。「墓穴を掘ってしまった」などと思わないように、うまくやってほしい。僕が今言えることは、こんなことぐらいです。  

もともと欧州大陸の人たちと英国人の感覚は、どこか決定的に違うところがあります。  

欧州大陸の人たちを十把一絡げにはできませんが、大陸内は陸続きで、昔から行き来があり、戦争したり貿易したり、仲が良いかどうか別にして、わかりあっている部分は英国人よりはあると思う。  

一方で、大陸と、ドーバー海峡を隔てる英国人は少し異なります。英国人だって、自分たちが単一民族ではない、雑多な集まりだということはわかっている。でも、なんだかんだ言いながら「昔は大英帝国だった」という変なプライドがどこかに残っている。何かあったら「だって我々はブリティッシュだから」と。  

世界中どこででも、申し訳ない気持ちなしで英語で切り出すという人も少なくありません。インテリはともかく、多くの英国人にはどこの国でも英語が通用して当たり前という感覚がまだあります。  

若い世代、特に大学出の人たちの目は欧州に向いています。彼らは外国語も学び外国に旅行もしている。グローバルな視野を持っている。そういう人たちだけなら大騒ぎにはならなかったし、離脱派が勝つこともなかったでしょう。  

問題は僕らぐらいの世代で、第2次世界大戦の体験者から直接聞いてきた人たちです。子どものころは「ドイツは敵だ」という意識がありました。例えば「フォルティ・タワーズ」というどたばたテレビ番組があって、ドイツ人観光客をナチス扱いし、完全にばかにしていた。伝説の爆笑番組です。あの世代にはドイツに対する潜在的反感が残っていると思います。  

タブロイド紙も、フランス人やドイツ人を蔑称で呼ぶことがあります。まだ英国にはこんな反感があるのかと時々感じますね。  

英国人が「英国と欧州」と言っている、ですか。いいところを突きましたね。まるで英国は欧州の外にいるかのようです。日本人が「日本とアジア」と言うのと一緒です。最近は「日本もアジアの一員だ」という意識を持つ人が増えたけれど。すごく似ています。  

多くの一般市民は、長年EUの一員だったのだから、多少の不満があってもこれでいいと思っていたでしょう。離脱なんて考えもしなかったと思う。キャメロン首相が国民投票をすると発表したことで、EUに不信感や不満を持っていた人たちは声をあげ、騒ぐ人は騒ぐし、メディアがそれを取り上げ、人びとはだんだんあおられていった。国民投票をすると決めなければ、こんなことにはならなかったでしょう。  

ただし、僕は、国民投票そのものには賛成です。これは究極の民主主義です。議会制民主主義が公平かと言ったら、必ずしもそうじゃないと多くの人は思っている。選挙で過半数をとったら、少数派になった残りの人たちは次の選挙までずっと涙をのまなければいけないのか。そうじゃない。  

民主主義をうたうのであれば、大事なことに関しては国民の意見をきちんと聞くために、国民投票は不可欠です。何に関して行うかは慎重に決める。そして行うと決めたら、政府は情報を十分に出すこと。人びとはそれをもとに率直な議論を十分に重ねること。みんなが「もういやだ」と思うほどいろんな意見を全部聞いて、判断できるようにしないといけません。  

その結果がこれですから、英国人としては受け止めないといけないですね。




特にコメントはありません。

ストリート・ドラマー




何者だ。

Euro2016 アイスランド・サポーター




初出場で決勝トーナメント進出。天晴。

舛添要一東京都知事、辞任

舛添都知事辞職 見限られた末の遅過ぎた決断
(2016年06月16日 読売新聞社説)
舛添都知事辞職 苦い経験を次に生かせ
(2016年06月16日 毎日新聞社説)
混乱を深めた舛添知事の遅すぎる辞職
(2016年06月16日 日本経済新聞)
舛添氏の辞職 人気投票の後任選び許されない
(2016年06月16日 産経新聞社説)
舛添知事が辞職 東京は教訓を学べるか
(2016年06月16日 東京新聞社説)


舛添要一東京都知事が、ようやく観念した。政治資金の私的流用問題を理由に、都議会議長に辞職願を提出した。それに対しての各社の社説。
ことが重大事件だけに、各紙が競って気合の入った論説を載せている。特に、毎日、産経、東京の3紙は、社説全段をぶち抜きでこの記事に充てている。

どの記事も、経過説明と今後の教訓を均等に配した記事で、内容はそれほど乖離していない。まぁ、平均点前後に散らばった社説と言えるだろう。不祥事の責任を糾弾する記事は、書き手が「正義の味方」になり切って暴走する傾向があるが、今回に関してはそれほど極端な記事は見られない。

僕が今回の舛添問題を見るに、今後につなげるために考えなければならないことは3点あると思う。

(1)与党・自民党と、都議会・都庁の管理責任
(2)マスコミの果たした役割
(3)政治家の資質を見るための一般市民の眼

まず(1)の責任問題だが、今回の直接の原因が舛添要一個人の資質に帰するべきものであることは論を待たない。しかし、舛添ひとりをフルボッコに叩いたところで、第二、第三の舛添が出てくる抑止力にはならない。

毎日新聞が指摘しているように、舛添要一はもともと自民党を離党した人間だ。それを都知事選に際して、袖にされたはずの自民・公明は舛添を支持する選挙戦を取った。知名度が高い舛添に勝機あり、と名ばかりの候補者を擁立する無節操さは、与党として失格だ。折しも今夏の参議院選に、自民党は民進党を見限った谷亮子を擁立する構えだ。知名度を頼りとする選挙戦は、国民を馬鹿にするにも程がある。

自民党の管理責任は、毎日新聞が厳しく触れている。

自民、公明両党は、知事の公私混同問題が浮上した当初、責任を追及する姿勢に乏しかった。とりわけ自民党は集中審議の開催にも煮え切らない態度をとり続けた。

ところが、国民の関心が高まり、与党にも火の粉が降り注ぎそうになると対応を一変させた。参院選にも影響しかねないとの空気が自民党本部に広がり、収拾に走った。ただし、自民党が政治とカネをめぐる問題を本気で正そうとしているのかどうか疑問だ。
(毎日社説) 

自民党のこうした煮え切らない姿勢は、明らかに舛添問題と夏の参議院選を絡めた上での方策だったのだろう。しかし、自民党は有権者の感情を軽視した。そこが誤算だっただろう。まさか、ここまで舛添憎しの有権者感情が膨らむとは、思っていなかったのではないか。

これで、11年4月に石原慎太郎氏が4選されて以来、5年半で都知事選挙が4回行われることになる。カネの問題による更迭が1度なら個人の資質で済むだろうが、こうまで同じ不祥事が続くと、都議会や都庁の監視体勢に疑問符がつく。石原元都知事も言及していたことだが、都知事の出張予算や運用方法は、基本的に都知事ひとりでは決められない。数多くの職員が手分けをして予算配分を行う。ここまでの不祥事につながったということは、実際の予算運用に至るどの段階においても、都庁内から「待った」がかからなかった、ということだ。予算運用の監視体勢が機能していないことは明らかだろう。

舛添は東大助教授を務めた経験があり、マスコミにも太いパイプをもつ。産官学に多くのコネをもつ舛添の言いなりになっていれば、都庁の役職者は天下り先には困らない。そうしたズブズブの利権関係が、今回のチェック機能の甘さにつながっているのではないか。


(2)のマスコミの役割については、今回の問題発覚の経緯に不自然さが感じられる。東京新聞が指摘しているように、今回の舛添の資金運用問題が明らかになったのは、週刊文春の調査記事がきっかけだった。なぜ文春の記事が、ここまでの大問題に発展したのか。

日本では多くみられる現象だが、政治家が失脚するのは、「政治的能力が無能である」という理由ではなく、「有権者に嫌われる」という理由が多い。金や女にだらしないことは、政治的な無能よりも罪が重いとされる。舛添が退職に追い込まれたのも、つまるところ「有権者に嫌われた」のが原因だろう。

僕も、舛添の資金運用問題を報じた一連の週刊文春の記事を読んだが、批判の仕方は一様に「猾い」「セコい」「汚い」であって、「無能だ」ではなかった。文春は、いったん資金運用問題を明るみにすれば、舛添が見苦しい自己正当化を並べることを予測していたのだろう。

文春の読みは、気味悪いくらい的中した。

航空機のファーストクラスや高級ホテルのスイートルームを利用しての豪華海外出張。必要な場合もあるだろうが、批判に対しての反論は「トップが二流のビジネスホテルに泊まりますか。恥ずかしいでしょう」。居直りである。あるいは、公用車を使っての神奈川県湯河原町の別荘通い。それへの釈明は「公用車は『動く知事室』。緊急の連絡態勢があり、危機管理上も問題ない」。さらに、家族旅行の宿泊代に政治資金を充てた公私混同ぶり。支出の事実を認めながら、開き直ったように「客室で事務所関係者らと緊急かつ重要な会議をした。これは政治活動です」。

舛添氏の一連の発言を振り返れば、自己正当化を繰り返し、保身を図ろうとする意図がくっきりと浮かぶ。そこには都政も、都民も不在だった。都民の常識はそれを見逃さなかったのである。
(東京新聞社説)

個人的には、世論が舛添弾劾に転じたのは、舛添都知事が新宿区の保育施設建設予定地を、韓国人学校のために貸し出した件がきっかけだと思う。
新宿区矢来町の土地、約6千平方メートルを韓国政府が韓国人学校を建設する為、有償で貸し出すと発表した。この土地は前年、新宿区が保育施設を建設する為、借り入れを申し入れたが拒否された場所だ。つまり日本人の保育施設建設を拒否して韓国人学校を建設することになる。折しも保育施設の不足が社会問題化している時勢に、韓国への土地供与など何事ぞ、という不満が相次いだ。

そもそもこの土地供与は、2014年7月にソウルで朴槿恵大統領に招かれて韓国大統領府で会談したときに要請されたものだ。その際に「90%以上の東京都民は韓国が好き」と発言したことが、不満噴出の伏線になっている。

おそらく文春は、こうした一連の「燃料」が十分に蓄積されたことを見計らって、一気に舛添都政の暗部を暴露したのだろう。政治家が脇の甘さを攻撃されるのはいつものことだが、ここまで一気に国民感情が「舛添憎し」一辺倒に傾く有様は、公平に見て異常といっていい。

文春としては、舛添に関する暴露記事が売れに売れる方策として、そのようなタイミングを見計らったに過ぎない。内容に齟齬はなかったわけだから、これは文春の優秀さと敏腕ぶりを示すだけのことであって、文春を非難するにはあたらない。
問題は、その文春の意図通りに感情を煽られた読者の側にある。今回、舛添を口撃する有権者のうち、はたしてどれくらいが「もしかして自分は文春に操られているのか?」という自覚があるだろうか。マスコミの報道以外のソースに基づいて、自分の頭で考え、その上で都知事の資質を評価している有権者はどれだけいるのだろうか。

舛添は先の都知事選で、実に211万票を獲得して当選した。その211万人のうち、マスコミから得られる「印象」だけで投票した有権者は、少なくとも舛添を弾劾する資格はあるまい。 (1)で、自民党の選挙戦が国民を馬鹿にするにも程がある、と書いたが、馬鹿にされるほうも馬鹿にされるほうなのだ。


(3)は、そうしたマスコミと有権者意識のつながりを懐疑的に見るために必要なことだろう。舛添が都知事として不適格な人間だったのは間違いないが、不適格性にも種類がある。(1)でも触れたように、いま有権者が舛添を弾劾する理由は「猾い」「セコい」「金に汚い」であって、「無能だ」ではあるまい。

舛添の辞任を受けて、これから都知事のやりなおし選挙が行われる。ここでまた有権者がろくに候補者を知ろうとせず、知名度にひっぱられて「なんとなく」投票をするのであれば、同じことの二の舞になる。選挙は、候補者の知名度ではなく、政治運用能力と個人的資質をもとに投票しなければならない。

もしそうであるのなら、今回の政治資金運用問題を取り除いた、舛添の政治能力を公平に評価することが前提となる。はたして舛添は、都知事として「無能」だったのか。

舛添都政が欠点だらけだったわけではない。石原都政の負の遺産だった新銀行東京の他行との経営統合を成し遂げ、障害者雇用や五輪施設の建設費圧縮でも実績を残した。韓国を訪問して朴槿恵大統領と会談するなど都市外交にも積極的だった。
(毎日社説)

「世界一の東京」を掲げて、障害者雇用の促進、水素社会の実現、国際金融センター構想など、様々な施策に取り組んだ。石原都政の負の遺産だった新銀行東京も他行との経営統合に踏み切った。知事個人の問題とは別に、舛添都政そのものはある程度評価できるのではないか。
(日経社説)

政治家の「政治能力」と「個人としての清廉度」は、別物だ。政治的には有能でも、個人としてはどうしようもないクズもいる。また個人としてはとてもいい人でも、政治家としては全くの無能、というケースもあるだろう。

もしこれから行われる都知事選で、東京都民が「今度こそちゃんとした候補に投票しよう」と思うのであれば、人柄が清廉な人だけを選び出す過ちを犯してはならない。政治能力と、個人の資質と、両方のバランスを考えて投票しなければならない。いま舛添を弾劾する大合唱を見ていると、次の都知事選は、能力としては無能でも、「いい人」が優先的に有利になりそうな危険性がありはしまいか。

東京都知事の仕事というのは、石原都知事のように、時には世論を捩じ伏せて豪腕を奮わなければならない場合もあろう。すべてが都民に好かれることばかりやっているわけにはいかないと思う。すべからくリーダーとはかくあるべきで、殊に東京オリンピックという大きなイベントを控えている時にはなおさらだろう。

だからこそ、舛添都知事を総括するときには、負の遺産だけでなく、正の遺産も正しく評価する必要がある。たとえ嫌な奴が行った仕事でも、評価すべきところは評価すべきなのだ。昨今の報道を見ると、そうした継承すべき部分がまったく顧みられることが無い。このままの雰囲気で都知事選に突入すれば、こんどは舛添とは「正反対」の候補者だけが当選してしまうだろう。


僕が今回の舛添騒動を見ていると、なんか有権者は政治というものを「どこかの誰かが、素晴らしい政治を行ってくれる」ことを夢見ているのではないか、という気がする。そういう人は、どこぞの独裁主義国家にでも亡命していただきたい。民主政治というものは、特定の有能な人の資質によって断行されるものではなく、国民ひとりひとりの政治的成熟度が問われるものだ。政治は一握りの政治家のものではない、ということは、すべての国民が政治について責任を負う、ということでもある。今回の舛添のような事例を、舛添ひとりを叩いて悦に入っているような輩は、民主政治の中で生きる資格はない。そういう状況を許した有権者のあり方を恥じ入ってしかるべきだろう。折しも、参議院選挙と東京都知事選という大きな選挙が続く。参政権の役割をきちんと理解せず、知名度ばかりのタレント候補ばかりに投票している限り、日本は「三流の民主主義国」に堕するがままだろう。



ここにきて自民党の選挙対策が堕落しまくってる。
続きを読む
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
リンク用
かんたんアクセス
QRコード
記事検索
  • ライブドアブログ