たくろふのつぶやき

毎日がエブリデイ。

原因と対策

文在寅の報復は「日本に影響ナシ」どころか「韓国に大打撃」の可能性 経済の条件が違いすぎる
(高橋 洋一)

韓国の失政の代表例は、雇用政策である。文政権は、韓国内では左派政権とされるが、それが雇用政策に失敗したとあっては、面目がないだろう。この点、韓国の文政権は驚くほど日本の民主党と共通点がある。

文政権は、「最低賃金引き上げ」と「労働時間短縮」に取り組んだが、結果として失業率は上がってしまった。

最低賃金引き上げも労働時間短縮も、ともに賃金引き上げを意図した政策だ。しかし、金融緩和を行って雇用を作る前に、先に賃金を上げてしまうと、結果として雇用が失われる。典型的な失敗政策で、まさに日本の民主党政権と同じ間違いだ。

左派政党の建前は、労働者のための政治だ。このため、雇用を重視する。しかし、雇用を作るための「根本原理」が理解できていないと、目に見えやすい賃金にばかり話が行きがちだ。

金融緩和は、一見すると企業側が有利になる。そのため左派政党は、短絡的に「金融緩和は労働者のためにならない」と勘違いする。金利の引き下げは、モノへの設備投資を増やすとともに、ヒトへの投資である雇用を生み出すことを分からないからだ。

この間違いを犯す人は、金融引き締めで金利を上げることが経済成長のためになる、などと言いがちだ。例えば、立憲民主党の枝野幸男代表がその典型だ。

そうした勘違いの末、政策として実行しやすい最低賃金の引き上げを進める、という話になる。民主党政権もこれで失敗した。


この軋轢を「外交問題」と捉えている人が多いが、その実、この問題の本質は文在寅の「経済失策」にある、という指摘。
この指摘が正しいのであれば、文在寅が強行に嫌日政策をとっている理由は「それが唯一の失政回復の方法だから」であり、ことの本質は外交には無いことになる。日本側の態度は一切関係ない。日本側がどういう態度をとろうと、文在寅にはこの方策しか無い。

つまりこの件は、外交努力で解決できる類いの問題ではないことになる。



原因を断ち切るのが問題解決の王道。

今日も暑いぞ

ビールがうまい。


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するっと

秋田とくれば稲庭うどんだ。

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普通に暑い

北に来れば涼しくなると思ってた。

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脇目も振らず突撃だ

旅先で必ず嫁が寄るのは地元スーパー。

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もちろん大盛だ。

盛岡ときたら冷麺。

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どんどんくれたまえ

盛岡ときたら椀子そば

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角館駅

すんげえ旅に来た感。


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反論すべき社説はどれか

「対立する日韓 交流の歩みも壊すのか」
(2019年8月3日 朝日新聞社説)
「輸出優遇国除外 韓国はなぜ現実に向き合わぬ」
(2019年8月3日 読売新聞社説)
「韓国を『輸出優遇』除外 負のスパイラルを案じる」
(2019年8月3日 毎日新聞社説)
「ホワイト国除外 「甘え」絶つ妥当な判断だ 韓国は不信払拭の行動起こせ」
(2019年8月3日 産経新聞社説)
「日韓は摩擦対象を広げるな」
(2019年8月3日 日本経済新聞社説)
「ホワイト国除外 「報復」の悪循環やめよ」
(2019年8月3日 東京新聞社説)


日韓の国際関係に決定的な亀裂を生じさせた今回の輸出優遇国除外措置。
日本政府の決定の是非はさておいて、ここでは単純に社説の出来・不出来だけに注目して読んでみたい。この中に、ひとつだけ「絶対に反論しなければならない社説」がある。どの社説だろうか。

それぞれの社説で、意見を出してる立場が違う。

「よいことだ」・・・産経
「よくないことだ。韓国が悪い」・・・読売
「よくないことだ。日本が悪い」・・・毎日、東京
「よくないことだ。両方悪い」・・・朝日、日経

意外なのは朝日新聞だ。ここのところ日韓関係については偏向報道を立て続けに流し、世論の批判を浴びていることを十分に意識しているのだろう。今回の日本政府の決定に関しては、ちょっと驚くほど中立な立場で書いている。「角度」の付け方が普段の朝日らしくない。

自治体や市民団体などの交流行事は中止や延期が相次ぐ。7月の半導体材料の輸出規制もあわせ、今後の運用次第では韓国経済を深刻に苦しめ、日本の産業にも影響がでかねない。きのうの決定が実施されるのは今月下旬からになる。両国関係に決定的な傷痕を残す恐れがある一連の輸出管理を、日本は考え直し、撤回すべきだ。
(朝日社説)
一方、文在寅(ムンジェイン)政権は対抗策として、安保問題で日本との協定を破棄する検討に入った。だが北朝鮮が軍事挑発を続けるなかで、双方に有益な安保協力を解消するのは賢明な判断とは言えない。文大統領は、ここまで事態がこじれた現実と自らの責任を直視しなければならない。きのう「状況悪化の責任は日本政府にある」と語ったが、それは一方的な責任転嫁である。

当面の対立緩和のために取り組むべきは徴用工問題だ。この問題で文政権は、韓国大法院(最高裁)が日本企業に賠償を命じる前から、繰り返し日本政府から態度表明を求められてきたが、動かなかった。文氏は、司法の判断は尊重するとしても、行政府としては過去の政権の対応を踏まえた考え方があることを、国民に丁寧に説明しなくてはならない。
(朝日社説) 


現代の国際間紛争であれば、片方だけが一方的に悪いということはあり得ない。今回の日本の措置にしても、日本だってしたくてそんなことをしたわけではない。状況をコントロールする方法として、持っている手段を公使しただけだ。その前提には、「状況がコントロールを必要とするほど乱れている」という現実がある。

朝日の主張は要するに「状況を悪くしたのは韓国。そのコントロール手段を誤ってるのが日本」という内容だ。結果としてだが、わりとバランスのとれている社説になっている。普段の朝日新聞であればもっと韓国ワッショイの記事を載せるところだろうが、朝日新聞の現状からしてそれは致命傷になりかねないと踏んだのだろう。ビビった挙句なのだろうが、結果としてわりとまともな社説になっている。

朝日と並んで「両方悪い」という主張を載せている日経社説は、珍しく出来が悪い。経済と民間交流に及ぼす影響しか考えていない。もとは政治的な背景のある問題だとしたら、「そもそもの原因は何か」という過去由来の論拠と、「それが及ぼす影響は何か」という未来志向の論拠と、両方を揃えなければ説得力がない。今回の日経は、後者だけに著しく偏っている。ことの発端がどうであろうが関係ない、影響だけが問題だ、という書き方だ。これでは影響の指摘が適切であろうとも、説得力のある解決策には結びつかない。

普段の朝日の論調をそのまま踏襲したのが毎日新聞だ。完全に「韓国が正しい。日本が間違っている」の一本槍。いくら左派系とはいえ、ここまで他国寄りの社説を載せる新聞は世界的にも珍しいだろう。

毎日新聞がどのような主張を載せようが勝手なのだが、その論拠がいただけない。毎日新聞の論拠は、「政治的な対立を、経済的な手段で報復するのは筋違いだ」ということだ。もともと今回の日本の優遇国除外措置は、日本政府の発表によると、政治的対立は関係ない。単に「優遇国として課されるルールを韓国が守っていないから」ということになっている。日本が眉を顰めたのは、兵器に転用可能な輸出品目の管理と報告を韓国がずさんに行なっていることだ。端的に言えば、北朝鮮への兵器用素材の密輸を疑っている。

だから毎日新聞の主張の妥当性は、「今回の日本の措置は、本当に政治問題に由来した報復なのか」というのを明らかにできるかどうかに懸かっている。経済の問題に対して経済で対処したのなら、何の問題もないはずだ。

それに関する毎日新聞の論拠が、お粗末極まりない。

韓国は1965年の日韓請求権協定に基づき解決済みとしてきた。だが昨年の韓国最高裁判決を受け、今年6月に日本に示した案は日本企業に資金拠出を求める内容だった。請求権協定に基づき、日本が要請した仲裁委員任命にも応じていない。日本政府は国際法違反とみている。

日本政府は元徴用工問題への事実上の対抗措置として輸出規制に踏み切った。世耕経産相は、韓国の対応について、信頼関係が著しく損なわれたと説明していた。

だからといって無関係な貿易の手続きを持ち出すのは筋が通らない。日本政府は否定するが、国際的には貿易の政治利用と受け止められた
(毎日社説)


「貿易の政治利用と受け止め」たのは、一体誰なのか。
「国際的には」とは、どこで誰が言ったことを指すのか。


一番肝心な論拠を、受身で書いて動作主をごまかして書いている。最も恥ずべき書き方だ。「みんなそう言ってますよ」「そう言われてるんですよ」などという書き方に、説得力など微塵も無い。学校の生徒が、作文や小論文で絶対に書いてはいけない書き方だ。子供でさえ改めさせられる外道な書き方を、こともあろうに全国紙の社説が臆面もなく書いている。もはや「恥を知れ」レベルの社説だ。

「恥を知れ」レベルの出来の悪さでいえば、東京新聞も負けてはいない。毎日新聞は、一応、論拠らしいものを出す体裁を整えるふりをしつつ、肝心なところをごまかして書いていた。一方、東京新聞はその体裁を整えようとすらしていない。

日韓間では、影響が広がっている。心配なのは地方自治体や若者による草の根の交流事業が、相次いで中止されていることだ。韓国では日本製品の不買運動が拡大。飲料や衣料だけでなく、日本車も対象になっている。日本への観光客も激減しており、両国をつなぐ航空便が次々に停止や縮小に追い込まれている。

問題の発端は、昨年十月、韓国最高裁が出した元徴用工をめぐる判決だ。しかし、ここまで関係が悪化している現実を、日本政府は認識しているのだろうか。混乱の拡大を懸念し、韓国だけではなく米国も見送るよう求めていたのにもかかわらず、除外を強行した責任は重い。


「しかし」の意味がまったく分からない。
並べてみると、

「韓国で日本に対して良くないことが次々と起きている」
 ↓
「発端は韓国最高裁が出した元徴用工をめぐる判決」
 ↓
「日本の責任。日本が悪い。」



なぜ。



韓国側の問題を延々と指摘したあとに、何の脈絡もない「しかし」という接続詞一発で、日本の責任追及にあっさり舵を切る。根拠も、文章の体裁も、論理の整合性も、一切無い。すべて軽やかに無視している。こうなると、もはや社説ではない。なりふり構わず読者を誘導するための煽動記事以外の何者でもない。東京新聞なら、そのくらいは平気でするだろう。

こうして見てみると、「日本が悪い」系の新聞は、内容云々以前に、社説としての出来が悪い。説得力が皆無だ。これは新聞業界全体にとって由々しき事態だと思う。産経新聞のような好戦的な主張に対する反論として機能しないからだ。

産経新聞だけが、今回の日本政府の措置を全面的に支持している。極右系の新聞だけあって、開戦も辞さないような攻撃的な社説だ。しかも挙げている論拠には、出自不明の伝聞やら「〜と言われている」的なごまかしは一切なく、淡々と事実を積み上げて論証している。この主張に反論するのは、少なくとも毎日新聞や東京新聞では無理だろう。 書き方の妥当性と説得力が段違いだ。

産経新聞は、論拠の筋は通っている。しかし、それが「妥当な提言」になっているかというと、大いに疑問だ。ぶっちゃけ、隣の国なのだから、関係が悪くなって良いはずは無いのだ。新聞社説の提言としては、「韓国なんてぶっ潰せ、やっつけろ」ではなく、「どうすれば事態が収束するか」という、平和的な着地点の模索であるべきだろう。

最近の韓国の、国としてのあり方に苦虫を噛み潰す思いの日本人は多いかもしれない。しかし、国際間の問題で「胸がスカッとするような方策」は、破滅の道であることが多いのだ。戦前の日本の国際連盟脱退もそうだったし、日ソ中立条約の破棄もそうだった。産経新聞の社説からは、そのような道を日本が再び辿ろうとしている危険な気配を感じる。

だから他紙としては、産経新聞のこのような好戦的な社説に歯止めをかけるべく、冷静な視点で収拾案を提言しなくてはならない。産経新聞のような社説に熱狂して同意し、「韓国憎し」の感情を増幅しても、廻り廻って損をするのは日本なのだ。ちょうど今、外交的にも内政的にも窮地に経たされた文在寅大統領がひたすら「日本憎し」のプロパガンダを炸裂させているが、日本もそれと同等の立場に堕ちてしまう。その愚を犯す危険は避けなければならないだろう。

日本は歴史教育によって、なぜ戦前の日本が世論によって戦争を回避できなかったのかを、すでに学んでいる。「他国を潰そう」という憎しみのエネルギーが諸刃の剣であることは、日本は世界のどの国よりも学んでいるはずだ。産経新聞の主張は正当で論拠に弛みがなく、正しい。正しいからこそ、産経の主張に正面から反論し、代替案としての収拾策を提言できなければならない。それこそが、国際紛争を事前に回避する歴史教育の目的だろう。それができなくては、日本国民は、韓国や中国を「『歴史認識』を一方的な齟齬によって犯す国」として批判する資格はない。



八方塞がりの韓国には、今ああいう態度以外に方策は無い。
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「英語教育が改善された」という報道がない理由

「全国学力調査 格差解消につなげよう」
(2019年8月1日 朝日新聞社説)
「全国学力テスト 英語のデータをどう生かすか」
(2019年8月1日 読売新聞社説)
「英語での表現力不足 教師任せにしていいのか」
(2019年8月1日 毎日新聞社説)


全国学力調査で「生徒の英語力が低い」という社説。全国紙では朝日、読売、毎日の3紙が採り上げていた。
この手の話題では、絶対に揺るがない基本がふたつある。

ひとつは、学力調査の結果がどのようなものであるにしろ、マスコミが「日本人の英語力は伸びています。大丈夫です」と言うことは絶対に無い、ということだ。マスコミには、事実はどうであれ、「日本人の英語力は低くあらねばならない」という確固たる信念がある。その背後には、1000億円産業である英語教育業界・予備校業界から得られる広告費がある。読者に危機感を煽って、不安にさせて消費を引き起こそうとするのは、マスコミの基本原理と言ってよい。

多くの読者は、今回の学力調査の結果を自分で精査しようとはしない。今回のような社説を読んで、なんとなく「ああ、やっぱり日本人の英語力は低いのか」という印象を得るだけだ。マスコミが撒き散らす印象操作を鵜呑みにする読者がほとんどだろう。

しかし今回の調査結果を実際によく見てみると、読解力と作文力は伸びている。中学・高校での英語教育が本来的には「大学に入って学問研究を行なえること」、つまり「英語の論文を読めて、英語で論文が書けること」と考えると、今回の調査結果はかなり肯定的に読み取れる。

マスコミは事実に関係なく「日本人の英語力は弱い」という結論ありきで記事を書くから、その改善案も必然的にいいかげんになる。根本的な対策を立てられては困るからだ。毎日新聞などは露骨に無責任さを全開にしている。

教師は部活動や事務作業など授業以外の業務で忙しい。そのため、課題は分かっていても、一方的に知識を伝える昔ながらのスタイルを変えられないのではないかということも、これまで指摘されてきた。教師任せにするのでなく、地域と連携して外国人住民との交流の機会を増やすなど、英語に親しむ環境を授業以外にも広げていく仕組みを考えるべきだ。
(毎日社説)


そもそも全国学力調査は、学校教育の改善のために行なうものだ。その結果を受けて「学校に頼らず、その辺に住んでる外国人に任せたほうがいいんじゃね?」という、雑な提言だ。絵に描いたような本末転倒。もはや「提言」と呼ぶのもおこがましい。この毎日新聞の無責任極まりない書き方から、新聞各紙は本気でこの問題を解決しようという気などさらさら無い、ということがよく分かる。


もうひとつの基本事項とは、そもそも中・高の英語教育で「コミュニケーション能力」なるものが一向に改善されない理由だ。誰もが本当の理由などよく分かっている。はっきり書いてはいないが、読売新聞がそれをちらちら伺わせている。

生徒の英語力を高めるには、教員の指導力向上が不可欠だ。文科省は、公立中学校で英検準1級以上を持つ英語教員の割合を50%にする目標を掲げたが、まだ36%と伸び悩んでいる。教員の自己研鑽が欠かせない。英語のコミュニケーション能力を身につけられるよう、自治体は、研修の態勢を整えるべきだ。
(読売社説)


「英検の準1級も受からない人間が、教壇で英語を教えている」という事実。もはや説明は不要だろう。日本の学校で音声会話に基づく「コミュニケーション能力」なるものが鍛えられない理由は簡単だ。そもそも教える側の教師にその能力がないからだ。教える側ができないのに、習う側ができるようになるはずがない。

現在、教壇に立っている現役世代の英語教師は、「自分たちが生徒の時代に受けた英語教育」と「これからやっていかなければいけない英語教育」が全然違う。必要となる英語能力を身につけていないし、そもそも自分がそういうやり方で教わっていないので、教え方が分からないのだ。

街の英会話学校の講師と違って、学校の教師に必要なのは専門分野の技能だけではない。教員採用試験も、専門技能が高い人を優先的に合格させるようにはできていない。各都道府県の教員採用試験で、専門能力の低い者が不可解な優先合格を受けるのは、もはや公然の事実だろう。

つまり、根本の原因となる「教師が無能だから」を抜本的に改善しようと正論を振りかざすと、いろんな虎の尾を踏んでしまうのだ。僕は個人的に、全英語教師のTOEIC、TOEFL、英検のスコア・資格を公表するべきだと思っている。しかしそんなことを実行しようとしたら、現場は大混乱になり、資格が認められるべきではない不適格英語教員が大量に出てくるだろう。

今回に限らず、「日本の英語教育は」のような話題が出てくるとき、マスコミは本気でその問題を解決しようとは決して思っていない。むしろ解決されては困る場合が多い。しかし学生時代に英語に苦労したのは日本人全員に共通している原体験であり、記事として読者の目を引きやすい。「決して解決しないので、叩くだけ叩ける」「困ったときにはこの話題さえ出しておけば、注目を集められる」という、お得なトピックなのだ。

それが証拠に、同じ議論を何年も何年も繰り返し、提言の内容だけでなく、議論の仕方からして全く変わっていない。変える気が全くない。マスコミの意図通り、これから先も問題提起だけ頻繁に行なわれながら、一向に解決しないままだろう。



マスコミにとって「解決されたら困る問題」のひとつ。
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「バイエル」って誰?

本屋で書棚を眺めてて、ふと面白そうな題名の本があった。
新刊ではないが、なんとなく買って読んでみた。


Byel

「バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本」
安田寛、新潮文庫


めっちゃくちゃ面白かった。


この夏、僕が自信をもってお薦めできる渾身の一冊だ。大学の講義で課題として全学生に有無を言わさず強制で読ませたい。というか、夏休み読書感想文の課題図書、推薦図書の類いに一切選ばれていないのが不思議で仕方がない。僕が新潮社の企画担当なら、この夏の文庫フェアとして「新潮文庫の1冊」に選定したい。

この本を大学生に読ませたいのは、「大学での研究というのは、一体どういうものなのか」を端的に示している本だからだ。
世間一般に、大学での研究というのは、「人知を越えた知能を持つ天才達が、最新の装置やら理論やらを駆使して行なっている、難解で高尚な営み」と思われていることが多い。まったくの間違いとは言わないが、完全に正しくもない。少なくとも、大学に進学しようとしている高校生たちが身につけるべき姿勢は、そういうことではない。

世の中には大学の研究者が書いた本が溢れている。ふだん学問研究に関係ない一般人でも、誰でも読める。その中で、「本物の一流研究者」が書いた本というのは、読めばすぐに分かる。楽しそうなのだ。「自分の研究がどのように世の中の役に立つか」とか、「この研究にどのような価値があるのか」など、他人の評価は一切無視。ただひたすらに、自分が「面白い」と思った謎を追い求めて、その答えを探すことにのみ熱中する。答えにたどり着くまでは絶対に諦めず、必要とあらば世界の果てまで手がかりを追う。最後は執念で押し倒す。

よく、高校までは秀才で通ってきたが、大学に入って以降、勉強というものが分からなくなり、虚脱状態になる学生がいる。その理由は、「『勉強』というものの持つ意味が、高校までの中等教育と、大学から先の高等教育では、まったく違う」ということに対処できないことにある。

高校までの勉強は、他人に訊かれたことに答えられれば「優秀」とされる。自分の勉強能力を評価するのは、他人なのだ。中等教育というものは、高等教育に入るための準備段階という位置づけだから、必然的に既存の知識体系を敷衍することが中心になる。要するに暗記中心だ。「いままでの人類は、ここまでの知を積み重ねてきたんですよ」という、人類の知的遺産をとりあえず知ることが中心となる。

ところが高等教育はそうではない。大学から先の「勉強」というのは、「で、あなたが独自に見つけた真実は何ですか?」ということなのだ。既存の知識を敷衍するのは、大学では「手段」であって「目的」ではない。「自分で新たな真実を発見する」ということに結びつけられなければ、たとえ百科事典全冊分の知識を丸暗記したとしても、すべて無駄だ。

つまり大学から先の勉強というのは、「狩り」なのだ。自分が仕留めたい獲物を、どこまでも追い続ける。そのためには、まず何よりも最初に、自分が追うべき「獲物」を定める必要がある。つまり研究テーマとして取り組む「謎」だ。これがなければ、大学での勉強というものは始まらない。
大学に入ってから勉強に惑う学生というのは、この「謎」を持っていないのだ。既存の知識体系、普段生きている世界を、当たり前のものとして疑っていない。「なぜなんだ?」「どうしてなんだ?」という「謎」、つまり「獲物」がなければ、追い求めるという行為そのものが成り立たない。

そういう学生に「いま何の研究をしているの?」と訊いても、ろくな答えが返ってこない。ひどい学生になると、指導教官に「で、僕はどういう獲物を追えばいんでしょうか?」ということを訊いてくる。知らねぇよとしか答えようがない。何のために大学で勉強するのか、その目的まで人に決めさせるなと言いたい。


閑話休題。この本で追っている「謎」は明白だ。


バイエルって、誰?


非常に分かりやすい。この本の筆者は、この謎を追うために延々と調査を続け、研究に没頭する。「その解明がいったい何の役に立つのか」など一切考えない。研究の世間的な価値など、知ったこっちゃない。必要とあらば書類一枚を見るためにはるばるドイツやアメリカに取材に出かける。その過程からは、筆者が何の邪念もなく「狩り」に没頭し、謎を追い求める知的興奮が伝わってくる。


『バイエル ピアノ教則本』。
ピアノを習ったことのある人なら、誰もが一度は手に取ったことがある楽譜だろう。約160年の長きにわたって、世界中で使われ続けているベストセラーだ。

しかし、この教則本を作った「バイエル」なる人物、わかっていないことが多い。音楽の教科書にも出てこない。音楽室に掛けられるような肖像画もない。音楽辞典を調べても2〜3行しか載っていない。いつ、どこで生まれ、どのような経歴があり、どこで働き、どこで死んだのか、情報が一切明らかにされていない。

この本では、最初のほうに「バイエル ピアノ教則本」にまつわる様々な謎を提唱している。
たとえば、バイエルのピアノ教則本は、106曲から成る。なぜこんな半端な曲数が含まれているのか。なぜ100曲ぴったりではいけなかったのか。

さらに、バイエルは106曲のいわゆる「番号曲」のほかに、曲番号が割り振られていない12曲の「番外曲」が挿入されている。この「番号曲」と「番外曲」のバランスが、非常に悪い。何の脈絡もなく、突然「番外曲」が挟まっている。この正体不明の「番外曲」は、どういう意図で入れられたのか。
106曲の構成も不可解だ。バイエルの1曲め、最初の曲は、いきなり変奏曲で始まっている。しかも連弾だ。なぜ子供に教える最初の曲が、よりによって変奏曲なのか。

著者が一番疑問に思っているのは、「バイエルは、曲として全然おもしろくない」ということだ。子供にピアノを教える最初の教材としては、絶望的に曲がつまらない。「芸術的には無価値な曲ばかり」と断言している。なぜこんなつまらない曲を、バイエルは子供向けの練習用教材として作ったのか。なぜそれが、世界中で広く使われているのか。

さらに筆者は疑問の手を緩めない。最初のはしがきに、バイエルはこう書いている。

 この小品は将来のピアニストができるだけやさしい仕方でピアノ演奏の美しい芸術に近づけることを目的としている。
 子ども、とりわけまだまだ可愛い子どものためのこの本は、小品に許されたページ数の範囲内でどの小さなステップでも上手くなってゆけるように作ったものである。以上のことから、ピアノ演奏で出会うあらゆる困難、例えば装飾音などについてもれなく網羅することはこの小品の目的では有り得ないことを了解してほしい。実際、生徒が一年かせいぜい二年で習得できる教材を定曲するための入門書を作ろうとしたに過ぎない。こうした内容の作品はおそらくこれまでになかったもおのである。この作品は、音楽に理解がある両親が、子どもがまだほんの幼いとき、本格的な先生につける前に、まず自分で教えるときの手引きとしても役立ててほしいものなのである。
 私はこの後に中級程度まで進む詳しいピアノ教則本を出版することを考えている。
フェルディナント・バイエル


著者はこのはしがきを評して「何を言っているのだろうか」と疑問を投げかける。はしがきが言っているのは、「この教材を使ってもテクニックなんて身に付かないぞ」「先生につく?てめぇひとりで練習しろ」「弾き方?ママにでも訊いてろ」ということだ。つまりバイエルの教材は、音楽教室で先生に教わるための教材として作られていない。こんな意図で、はたして子供用の教材の役に立つのか。

バイエルは残された資料が極端に少ないので、この「はしがき」は、バイエルが自筆で残した数少ない貴重な資料だ。著者はこのはしがきを出発点に、バイエルが生きた痕跡を辿り続ける。

本の後半になって、著者は執念で「バイエルの謎」をひとつひとつ解き明かしていく。この謎解きがあまりにも見事で、鮮やかな解答というほかはない。正直、僕も読んでいてびっくりした。何を言っているのか不可解な「はしがき」に照らし合わせて、その意図がひとつひとつ明快に理解できる。 ネタバレになってしまうのでここでは書かないが、それが非常にもどかしいくらいの鮮やかさだ。

人文科学であれば、出てくる解答はすべて「仮説」の域を出ない。本当のところはどうなのか、を証明することは原理的に不可能だ。しかし研究者の直感として、真実に肉薄した仮説にたどり着いたときには、「仕留めた」という明確な実感がある。謎が阻む強固な壁を、自らの執念でぶち抜いたという実感、これこそが高等教育のもたらす最大の福音だろう。大学時代に一度でもそのような実感を得られる経験をしたら、ちゃんとした大学生活を送っていたということだと思う。

また、単に謎解きの本というだけでなく、謎を追う際の紀行文としても楽しめる。著者はバイエルの情報を追って、アメリカ、ドイツ、オーストリアに取材に出かけるのだが、その道中記が生き生きと描かれている。
どんな研究者でも、偉い大学の先生でも、自分の知らない外国の街にひとりで行くのは、怖いのだ。目的の所に辿りつけるだろうか。人に会ったら自分の用件をちゃんと伝えられるだろうか。こっちの不備で必要なものが手に入らなかったらどうしよう。そんな不安と戦いながら恐る恐る図書館を巡り、手がかりを見つけたときは大喜び、ガッツポーズをしながらホテルに戻る。そこには、世間一般に考えられている「大学教授」のイメージは欠片も無い。ただ一心に謎を追い続け、知りたいことを知ろうとする、「知のハンター」がいるだけだ。

大学生にこの本を薦めるときには、特に語学の必要性を説きたい。バイエルはドイツ人なので、調査にドイツ語が必要なのは当然として、この調査には少なくともドイツ語、フランス語、英語を使いこなすことが必須だ。大学の第二外国語で落第点を取っている程度の語学力では、この「狩り」は出来なかろう。銃もないのに狩りが出来るか。語学というのは、学問研究における基礎中の基礎だ。普段からそういう意識で語学の授業に出ている大学生が、どれほどいるのだろうか。

著者は調査の過程で、市井の人を含む、さまざまな人から助力を得ている。大学教授でありながら、自分の専門以外の分野に関しては、大学院生にだって謙虚に教えを乞う。真実にたどり着く「運」を偶然にでも掴むには、こうした日々の生き方が必要なんだろうな、と思わせてくれる。

知的研究の興奮を余すところなく伝え、世界を飛び回る紀行文が楽しめ、謎をひとつずつ解いていくパズルとして優れている。この夏、なにか読書をしようと思っている人に、ぶっちぎりでお薦めの一冊だ。


note

内容をまとめる読書ノートは当然コレ。



巻末の解説が、名著『絶対音感』の最相葉月というのも渋い。

『いのちのよろこび』(でんぱ組.inc)





仕事しながらラジオ聞いてて、たまたま流れてたんだけど、歌詞にびっくりした。
仕事の手を止めてじーっと聞いてしまった。

「日本人は無宗教」なんて言う人がいるけど、宗教という特定の既存物に頼らず、習合によって様々な世界観を各自が自分の中に取り込んで、独自に完結させている世界唯一の民族なのだと思う。たとえ矛盾する教義であっても、それを自分の中に取り込む能力がある。哲学にせよ宗教にせよ、既存の世界観は、自分の内的世界をつくるためのきっかけに過ぎず、頼るものではない。

この詞を各国語に翻訳して「どこの国で作られた曲か」と聞いても、世界中の人がためらいなく「日本」と答えると思う。こんな詞、世界の中で日本人しか書けない。愛だの恋だの、自我だの平和だの、そんなことしか詞の題材がない欧米人に書ける詞ではない。こんな詞を、女の子たちが踊りながら平然と歌ってるのが日本という国。

内容だけでなく、使われていることばもかなり練られてる。概念とことばが離れ過ぎず、なおかつ現代の女の子世代の身体感覚に合うようなことばを選んで楽曲の勢いを全く殺さない。安直な繰り返しもなく、詞が一つの物語として完結している。半端ない完成度。



作った人は何者だろうか。

気になるコトバ。

夏が近づき、出版各社が夏の文庫フェアを開始した。
その中のひとつ、集英社文庫の「ナツイチ」に採り上げられた、『言えないコトバ』(益田ミリ 著)を読んでみた。


ienaikotoba


言葉に関するエッセイ集。単なるあるある話から、筆者が日頃から違和感を感じている言葉まで、言葉に関するあれこれを雑然と綴っている。
まぁ、読みやすい本。年配者による「最近の若者の言葉遣いはけしからん」的な、上から目線のダメ出しなどでは全然なく、筆者が肩肘張らずに言葉に関して思ったことをそのまま書いている観のある本。言語論ではなくエッセイとして、気軽に読める本だろう。暑い夏に読むための読書フェアに推されるのも、まぁ分からないではない。


しかし、言葉に関してエッセイを書いているにしては、この著者、ことばづかいが雑すぎるのが気になった。


まず、文章に「のである」がやたらに多い。
中・高の国語の授業であれば、無条件に削除するように添削される表現だ。

「試しに言ってみるのだが、今まで驚いてくれた人は、ひとりもいなかったのである

「どうも気後れして真似ができなかったのである

「想像したら、少し胸がキュンとしたのである


見開きの2ページだけで、「のである」が3例も出てきている。
一般的に「のである」は、単独で使われる時は削除しても意味が変わらない。「ひとりもいなかった」「真似ができなかった」「少し胸がキュンとした」と書くほうが簡潔で、意味も伝わりやすい。

「のである」が使われるのは、一度言ったことを、他の例を使ったり違う言葉を使ったりして、もう一度言い直すときだ。
本書の『パンツ』という項目で、筆者は「チョッキ」「トックリ」という言葉を最近使わなくなり「ベスト」「タートルネック」と言うようになったことを挙げて、こう書いている。

「わたしの父には、いいまだそれらは死語ではないし、このまま突き進むはずだ。ちなみにわたしの母は、わたしよりも、うんと長い時間がかかったものの、ベストやタートルに辿り着いている。オシャレへの関心の度合いによって、夫婦である父と母には若干のコトバの壁ができたのである。」


この箇所では、「父はこう」「母はこう」「要するにこう」と、前に挙げたことを他の表現でまとめているので、これは「のである」の正しい使い方だ。
しかし、この本ではあまりに「のである」が多用され過ぎているので、これはたまたま正しい用法で「のである」を使っていた箇所、というだけに過ぎないだろう。「濫発した中にたまたま正しい用法があった」という、単なる偶然だと思う。

そもそも、「のである」の正用法には、「伝えたいことを一文だけで伝え切れていない」という大前提がある。伝えきれないから、他の言い方で補完しなければならないのである。だからそもそも正用法といえども「のである」を多用するのは、上手な書き手ではない。


他にもこの本、言葉遣いが疑わしい書き方が多く見られる。

「どうやら、おもてなしをすることが流行っているような気がする」


典型的な文のねじれ。「どうやら」の後に句読点が打ってあるので、これは文全体を修飾する。すると被修飾語は文全体の述語になるので「気がする」ということになる。すると言っていることは「自分では意識していないが、どうやら私は・・・という気がしているようだ」ということになる。おそらく誤文だろう。

察するところ、正しい係り受けは「どうやら・・・流行っているようだ」だろう。「どうやら」は、係り受けとして「〜ようだ」「〜らしい」で受ける表現だ。上の文では、それが成り立っていない。いっそのこと「どうやら、」を削除して、単に「おもてなしをすることが流行っているような気がする」と書いたほうが誤解がない。

「デパートか、百貨店か。
口にする前に、毎度、
『どっちだっけ?』
と一瞬とまどうわたしがいる。」


どこかで見た歌の歌詞か、哲学的な思索に関する言及を、何の疑問もなく丸パクリして使ってる表現だろう。当該のエッセイは、筆者が「『デパート』という言葉は『パレード』に似てるから、ゴージャス感が凄すぎて、使うのをためらう」という内容だ。そんな瑣末なことを迷っているよりも、「一瞬とまどうわたしがいる」という表現を躊躇もなく使う感性のほうを疑ったほうがいいのではないか。

「〜しているわたしがいる」という表現は、主文の述語が「いる」という存在認識なので、その対称として「いない」(=「非存在」)の概念が前提となる。つまり「死」「無」「虚」の世界だ。無というのは、それ自体に概念を与えられないので、必然的に「有」と対称することでしか捉えることができない。そういう「無」に捉えられそうになったとき、自分の存在に立ち返る(つまり「我に返る」)ことによって「無」の認識に達するときの表現が、「〜するわたしがいる」という言い方だ。この表現はもともと日本語独特のものではなく、海外の認識論を翻訳する際に編み出された翻訳表現だ。僕の知る限り、最初に使ったのは確か堀口大學だったと思う。

当該の文は、そこまで意図してこの表現を使ってはいまい。おそらく「デパートか百貨店か、気づくと『どっちだっけ?』と迷っていることが多い」くらいの意味だろう。それを何やら歌の歌詞のように、もってまわった言い方で表している。決して、文章勘の成熟した大人が書く文章ではない。


かように突っ込みどころが満載の本なのだが、別に僕はそれが悪いと言っているわけではない。この本はエッセイなのだし、想定している読者もそれほどことばにうるさい人ばかりではなかろう。夏の暑いさかりに、時間つぶしに読書を、などという向きには読みやすい本だと思うし、その面では「仕事をしている本」だろう。

僕が思うのは、「この筆者、いままでの人生で、誰にも文章を直される経験がないままここまで来てしまったのだろうか」ということだ。
たとえば先に挙げた「〜のである」などは、中学生のうちに直されているはずの表現だ。昨今では国語の授業数が削減されて、作文の指導も十分ではないのかもしれない。中学、高校と、文章を添削される機会は数多あったはずなのだが、そのどの段階でも添削をすり抜けてここまで来てしまったのだろうか。

日本語の母語話者だからといって、日本語が上手とは限らない。特に思考を文章に著して、広く世の人々の目に触れるようになれば、そこには一応の文章訓練が必要だろう。僕の印象では、学校における国語教育を軽視する人ほど、そういう能力をきちんと身につけていない。

言葉に関するエッセイであれば、読者としては、自然と筆者の「日本語力」に注視しながら本を読み進める。どれだけ書いてある内容が面白かろうと、気楽に読める本だろうと、「本を書く」ということの一番の根幹を成す能力が疑わしければ、説得力が激減する。読んでいて興醒めする。

言葉についてあれこれと書いてあるエッセイなのだが、この本から僕が一番強い印象を受けたのは、そういう言葉の運用面に関することだった。まぁ、筆者の意図とは違うだろうが、ことばの使い方とその身につけかたについて、考えさせられる本だった。 



『言えないコトバ』と、なぜカタカナで表記してるんですかね。

Highschool Lullaby (SOLEIL)





一周廻って戻ってくるのを見る側になってしまった。

俳句についてどう答えるか

次の文章は「啓蟄」という季語について解説したものである。これを読み、後の例句の中から一句を選んで、感じたこと考えたことを、160字以上200字以内で記せ(句読点も一字として数える)。なお、解答用紙の指定欄に、選んだ俳句を記入せよ。
注意:採点に際しては、表記についても考慮する。

二十四節気の一つ。陽暦三月六日ごろで、大陽黄経は三百四十五度。このころになると、めざとい人なら、冬眠からさめた昆虫やヘビ、トカゲ、カエルなどを見つけるが、だれの目にもふれるというわけではない。虫とは限らず、ヒベリのさえずりもこのころから聞こえてくる。虫出しの雷ということばもある。大陸から南下する寒冷気団の先頭にある寒冷前線が通るときに鳴る春雷のことだが、啓蟄のころには南からの暖気も強まりかけているので、雷声もひときわ大きくなりやすい。

例句
 啓蟄の虫におどろく緑の上
 啓蟄に伏し囀(さえづり)に仰ぎけり
 啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く



東京大学 1989年入試問題(国語)第二問の問題。


東大は1999年まで「死の第二問」と呼ばれる作文問題を出題していた。「作文」という採点基準がよく分からない問題で、受験参考書や予備校はその指導の仕方に四苦八苦していた。

この、通称「死の第二問」がそう呼ばれているのは、勉強のしかたがさっぱり分からないということ以外に、問題のテーマとしてよく「死」が取り上げられる、という理由があった。1981年の「樹木の言葉」、1982年の「国木田独歩の手紙」、1985年の「金子みすゞの詩」、1987年の「夏の風景」などの問題はよく知られている。

その第二問が、1989年に「俳句」という前代未聞の出題を行い、受験業界の度肝を抜いた。高校の現代文の授業で、俳句というのは、まぁ、「受験に関係ない単元」として飛ばされることが多い。高校生としても、俳句がまさか東大入試に出題されるとは思わなかっただろう。この出題からは、東大が世間で最も注目される入試としての自覚をもち、文部省(現・文部科学省)が策定した指導要領を遵守しようという基本姿勢が見える。「 高校で習ったことなら、入試に出る」という、当たり前のことを当たり前に実行している。長らく出題されていた東大国語第二問のなかでも、この1989年の問題は別格の「伝説の問題」とされている。

僕はいままで受験参考書でいろいろと、この問題に対する解説を読んだが、すべて見当違いのものだった。おおむね書いてあることは「東大の受験勉強に没頭するあまり、日常生活から自然を感じる感性が失われていないだろうか。教育を受けた大人として、知識を覚える勉強ばかりでなく、自然に目を向ける感性が必要である。この問題からは、東大が要求する成熟した人間像が見えてくる」のような寝言ばかりだ。

(よくある誤答例)
「啓蟄の虫におどろく緑の上」

毎日を勉強ばかりしていると、世の中や自然に対する感性が鈍ってしまう。受験生は勉強ばかりしていればよいというわけではなく、自然に対する柔軟な感性をもち、自分をとりまく環境に感謝しつつ生活すべきだ。この句は、普段意識していない自然がいきなり自分の目の前に飛び出してきて、虚を突かれた狼狽を表している。この句のように自然と隔絶された生活を送ってはならず、余裕をもった精神生活を送ることが必要であろう。
(197字)


まぁ、0点だろう。東大を舐めるなと言いたい。東大が入試で問うているのは、東大に入って学問を修める資質が備わっているかどうかだけだ。自然に興味があろうとなかろうと一切関係ない。東大は「成熟した大人」「自然に関心がある『いい人』」を採ろうとしているわけではないのだ。

勘違いする人が多いが、この東大の入試問題の答えが、俳句の書評として優れたものである必要はない。これはあくまでも大学入試問題であって、俳句の書評コンテストではないのだ。その両者では、求められる資質が全く違う。世の中には「東大入試の正解」であれば、どんな場に出しても「正しいもの」と考える安直な人がいるが、そんなことは全くない。ここで書かなければならないのは「入試問題に対する正解」であって、「俳句を通して深く世の中を洞察する世界観」などでは無い。

だからこの問題の合格答案を作りたければ、そもそも「大学で学問をするために必要な資質」が分かっていれば、そこから逆算して考えればよい。
従来、「死の第二問」では、「死」にまつわる問題が頻出した。それは別に東大が「死」を好んでいるわけではなく、「『死』というテーマは、主観と客観を排して考えるのが難しい」というだけの理由だ。つまり東大が何年も繰り返し「死」について問うていたのは、要するに「『主観』と『客観』をきちんと分けて考えることができるか」ということを問うていたに過ぎない。

だから、それを問う他の題材があれば、別に「死」に関したものでなくても構わない。ここで俳句という題材を出してくる東大も東大だが、「問われている内容は以前と同じ」ということが分かっていれば、別に俳句の嗜みなど無くても合格答案は書ける。

解答を作る際、句の前にある歳時記的な説明文は使う必要がない。この説明箇所は、要するに「『啓蟄』っていう言葉は大丈夫ですか、こういう意味ですよ」という注釈に過ぎない。個人的には東大を受験しようとするほどの学生であれば啓蟄くらい知ってて当たり前だと思うので、この説明部分は不要だと思うのだが、この問題は「国語」の問題であって「理科」「一般常識」の問題ではない。句には3つとも「啓蟄」という言葉が使われているので、念のためその意味を書いてあるだけだ。啓蟄について「冬眠してた虫や動物が出てくる時期」程度のことを知っていれば、それで事足りる。

3つの句を見比べてみると、ひとつだけ種類の違う句がある。
「啓蟄の虫におどろく緑の上」「啓蟄に伏し囀に仰ぎけり」のふたつには、句の中に作者が登場している。「おどろく」主体は作者だし、「伏し」「仰ぎ」しているのも作者だ。このふたつの句の中は、純粋に描かれる客観世界ではなく、作者が登場することによって主体的な体験・主観的な情感が詠われている。

一方、「啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く」の句には、作者が登場しない。これは世界を純然と客観視しているだけに過ぎず、物理現象を淡々と記述しているだけだ。それについて「こう思う」「こう感じる」という、筆者の主観は一切混じっていない。


haikunochigai
要するにこういう違い。


で、学問をするときに必要な姿勢はどちらか。
明らかに後者だ。学問をする際に必要なのは「対象を客観視すること」だ。現象を観測する時点で、個人的な感情や先入観が入っては絶対にいけない。論文を書くときに、内容に「筆者」という存在が登場してはいけないのだ。

この国語の問題は、その姿勢を問うだけのものに過ぎない。つまり、この問題は最初から「啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く」の句を選べるかどうかが重要なのであって、他の2句を選んだ時点で0点確定だろう。その理由として、学問を修めるに必要な「主観・客観の区別」ということが書けていれば、合格答案としては十分だろう。

(解答例)
「啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く」

他の2句では主体的存在として句の作者が存在しており、「おどろく」「伏し」「仰ぎ」などの行為を行なっている。これらの句では、句中に登場する作者が主体的に行為を行い、その目を通して自然現象を主観的に描いている。ところが「ふりそそぐ矢の如く」の句では内容に作者が存在せず、自然現象を客観的に記述している。主観を廃し、作者をとりまく自然を客観的に描こうとしている点で、他の2つの句とは異なる。
(195字)


まぁ、入試問題の答えとしてはこんなところだろうが、もしこの答案で俳句コンテストに応募したら落選間違いないだろう。そりゃそうだ、大学入試問題と俳句コンテストでは、求められているものが違う。東大入試の正解であれば世の中のどんな文脈であっても正しい、というわけではないのだ。

ましてや、東大は「受験勉強ばかりではなく、自然に対する憧憬が深く、生物に対する慈愛の心をもち、俳句を嗜む風流な学生」を合格させたいのでもない。そんなことは、大学で学問をする際には全く関係ない。東大の過去問の解説書は、やたらと「いい人競争」をさせようとする答案を「正解」として載っけているが、おそらく出題者の先生はそんな正解例を見て笑い転げているだろう。少なくとも、僕が個人的に知っている東大の先生で、俳句の心得がある先生など一人もいない。



人間性を問うているわけではないと何度言ったら
ペンギン命

takutsubu

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