たくろふのつぶやき

涼しくなってきた...のかな?

特殊性を捨象する一般化は危険だと思う。

「池袋暴走に実刑 判決を高齢事故減の機に」
(2021年9月3日 産経新聞社説)
「多面的な高齢運転者対策を」
(2021年9月3日 日本経済新聞社説)


痛ましい事件だった。遺族の心痛を思うと遣り切れない。
2019年4月19日、池袋の路上を暴走し、2名を殺し、10名の負傷者を出した飯塚幸三に対する判決が東京地裁で行われた。禁固5年の実刑判決。事件の重大さを考えると軽過ぎる判決だろう。

この判決に関して社説を載せたのは産経と日経の2紙だが、両方とも言っていることはおおむね同じ。犯行の悲惨さを訴えた末、「本当の問題はこのような高齢者による交通事故をいかにして防いでいくかだ」という、万人受けする着地点に無難にまとめている。
しかし今までこの件が世間で騒がれていたことから分かるように、この一件は単に「よくある高齢者事故」で片付けるには異様な点が多過ぎる。安易に一般化できるほど瑣末な事例ではない。両紙とも、その辺の特殊性を一切捨象している点が腑に落ちない。

飯塚幸三が世間の非難を浴びているのは、事故そのものよりも、事故後の無責任な態度による。
事故発生の直後には、のんびり息子に電話をしており、自分が撥ねた被害者を一切無視している。119番通報すらしていない。明確な救護義務違反だ。しかも事故を起こした言い訳として「予約したフレンチに遅刻しそうだった」などと嘯いていた。

さらに、事故を起こした原因についても供述が二転三転する。事故直後、飯塚幸三は「ブレーキが利かなかった」と話していたが、実況見分後の事情聴取では「最初に接触事故を起こし、パニック状態になってアクセルとブレーキを踏み間違えた可能性もある」と供述を変えている。さらに起訴される直前には「自分は一切運転を謝誤っていない。プリウスが勝手に暴走した」と言い張り、自分には全く過失が無いという主張をするに至った。

この事件の審議が長引いた理由は、飯塚幸三が一切自分の非を認めず、ひたすら「トヨタのプリウスが勝手に暴走して人を轢いた」と主張していたからだ。これが被害者遺族の心情を逆撫でし、世間の反感を買った。
僕は個人的に、今回の事件で後世に残すべき教訓は、この飯塚幸三のような無責任な高齢者の態度に対する施策をシステム化することだと思う。産経と日経が謳ってるように「高齢者の事故」という枠でこの件を捉えることもできるだろうが、それでは話が大き過ぎる。一般化し過ぎて、この件の特異性が霞んでしまうように見える。

飯塚幸三は逮捕もされず在宅起訴で済まされており、「上級国民だからだ」と世間の反感を買った。飯塚幸三は元通商産業省官僚で、工業技術院長も務めている。瑞宝重光章も受勲している。
つまり、日本の工業技術を引き上げ、世界と競争できるレベルに押し上げる努力をする側の人間だ。その人間が、自分の事故の責任から逃れるために「プリウスが勝手に暴走した」と主張している。日本の工業技術を冒涜するにも程がある。当然ながら、技術を毀損されたトヨタは猛然と反発し、事故を起こした車に問題はなかったことを検分で明らかにしている。

高齢者の引き起こす事故というのは、かように当人のそれまでの人生をすべて覆してしまうものなのだ。これが、今回の事件で一番異様な点だと思う。生涯をかけて日本の工業技術の推進に努めて、叙勲までされて、その果てが日本の工業界を貶める最低の主張だ。

おそらく「プリウスが勝手に暴走」という主張は、事実ではないし当人自身の言葉でもあるまい。事故直後から供述が変わり過ぎている。弁護士から知恵をつけられたのかもしれないし、連帯非難を嫌った省庁から何らかの手回しがあったのかもしれない。しかし、当人の言葉だろうがそうでなかろうが、これまで積み重ねたキャリアをすべて裏切るような言動をせざるを得なくなるほど、今回の事故の重篤性が高いということだ。高齢者の事故は、当人にとっても失うものが多い。その事例として、今回の一件は特にその部分が肥大して異様な様相を呈しているように見える。

僕はこの一件に関する報道をずっと追っていて、飯塚幸三が一度も自分の言葉で喋っていないように感じた。なんというか、基本的な態度が「家臣になんでも責任を取らせる『殿』」なのだ。世間で言われている「上級国民」という非難とさほど違わない。

事故後に119番通報もせず、救護措置もとらず、のんびり息子に電話していたのは、通産省時代から「なんか問題が起きたら部下に丸投げ」という基本体質があったからではないか。明らかに、常日頃から自分の行いに自分で責任を負い続けてきた人間のすることではない。起訴に至るまでの供述の変遷も、「自分は何と言えばいいのか」を周りに吹聴され、それをそのまま口にしているだけのように見える。被害者遺族が憤るのも当然だ。

ただの老人であろうと、元高級官僚であろうと、法を犯せばその立場は変わらない。犯した罪の前では、それまでのキャリアも人生も一切関係ない。それが今回の一件では、警察や検察の扱いもおかしいし、本人の振舞いもおかしい。判決も軽過ぎる。

今回の事件は決して、よくある「ボケた高齢者が交通事故を起こした」というだけの一件ではない。飯塚幸三という犯人の経歴・特質に起因する特殊な要素が多過ぎる。その特殊な事例に対して、一般的な原理原則が貫けなくなっていることが、本当の問題ではないのか。産経と日経が唱えているように「だから高齢者事故が起きないようにしましょう」というだけでは、今回の事件の総括としては過大に不足だろう。



全て失った状態で獄中で死ぬことになるだろう。
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オリンピック閉幕

「東京五輪閉幕 混迷の祭典 再生めざす機に」
(2021年8月9日 朝日新聞社説)
「東京五輪閉幕 輝き放った選手を称えたい」
(2021年8月9日 読売新聞社説)
「東京五輪が閉幕 古い体質を改める契機に」
(2021年8月9日 毎日新聞社説)
「東京五輪閉幕 全ての選手が真の勝者だ 聖火守れたことを誇りたい」
(2021年8月9日 産経新聞社説)
「「コロナ禍の五輪」を改革につなげよ」
(2021年8月9日 日本経済新聞社説)


日本人にとっては総括が難しいオリンピックだったと思う。東京五輪招致が決定した時には、日本人の誰もがバラ色の2020年を夢見ていた。前回の東京大会の成功体験が大きい世代も存命している。コロナウィルスという全世界的な危機的状況でオリンピックを迎えることになるとは誰も思っていなかった。

今回の五輪開催には反対意見も多かった。災害復興を謳った五輪にもかかわらず、伝染病拡大という「災害」の最中に開催を強行する、という矛盾した図式が一番の理由だが、それだけではあるまい。開催直前になっての大会役員・企画参与者の不適切な言動が国民の神経を逆撫でした、という「人災」の面も多かろう。

開催をめぐる駆け引きの中で、IOCの態度も日本国民の感情を逆撫でした。かねてから指摘されていたことだが、今のオリンピックは金がかかりすぎている。余計なところに金をかけ過ぎ、開催のハードルは回を追うごとに膨らみ続けている。今回の開催強行に際してのIOCの独善的な姿勢、かつ責任は一切取らないという一方的な構造は、オリンピックのあり方がすでに限界に近づいていることを世界中に露呈した。少なくとも多くの日本人はIOCに対して良い感情を持たなかった。

こうした国民感情を受け、マスコミは五輪前、開催に否定的な意見が多かった。それがいざ実際に開幕してみると、日本勢のメダルラッシュを受けて手のひらを返したように五輪絶賛に論調を変えた。
これに対してマスコミの姿勢を非難する声が多いが、マスコミとて理念と現実の突き合わせに苦悩する毎日だっただろう。開催前であれば、中止を求めるのはやむを得ない面がある。コロナウィルスの感染状況とは別に、実際問題として各種イベントをはじめ、学校行事、集会、催し物はことごとく中止に追い込まれていたのだ。それなのに五輪だけ特別扱いして開催というのは筋が通らない。国民感情に合わない。

しかし、だからといって開催が強行されてからも「五輪断固反対」を叫び続けるのは、現実問題として何も生むまい。五輪開催前の日本のニュースは、不愉快なことばかりだった。その主な理由が五輪運営側の不手際や不祥事とあれば、なおさらだ。五輪開催前の日本は、すでに日本国内だけの力で、国民の意識を上向かせるだけの良いニュースを生み出す力を失っていた。誰もが誰かを非難し、他人の非を責めることにより鬱憤を晴らす、ぎすぎすした嫌な感情が国中に渦巻いている感じだった。

そこへ来ての日本選手の大活躍だ。開催前に「五輪反対を叫んでいた」という理由だけで、開催後も五輪に批判的な論調を繰り返すのでは、いま唯一日本に与えられている「明るいニュースで世の中を上向かせる」という機会を、自ら逸してしまうことになろう。マスコミの「手のひら返し」を批判する人達は、五輪開催前の「ぎすぎすした世の中」が延々と続くことがお望みだったのだろうか。

マスコミの側にも問題はある。マスコミが延々と五輪反対キャンペーンを打っていたのは、政権批判のためだ。五輪批判の論調は、必ず着地点として「都政」「国政」の失策をあげつらっていた。マスコミにとって五輪批判はいわば「目的ありきの手段」だったため、簡単に方向転換ができる代物ではなかった。マスコミが政治と関係なく、本当にコロナウィルス感染拡大と開催リスクだけを問題にしていれば、開催後の方針転換も容易だったはずだ。マスコミの報道姿勢が叩かれたのは、かねてから五輪の論じ方が歪んでいたため、そのツケを自ら払わされたという面がある。

今回の日本代表選手団は、過去最高のメダル数を獲得し、躍進した。これはいわば「不幸中の幸い」だ。確かに日本は連日メダルラッシュに沸いた。良いニュースで国民の精神的健康も上向いた。しかし、感染拡大に関する五輪前の「課題」は何ひとつ解決しておらず、却って悪化している。五輪という夢から醒めたら、日本はまた以前と同じ課題に向き合わなければならなくなる。

まとめると、今回の五輪に関する良し悪しは、こんなところだろう。
よいところ
・日本人選手がめちゃくちゃ活躍した
・新競技おもしろかった
・日本で久々の大規模イベントに参加できた感

わるいところ
・オリンピック、金かかりすぎ
・IOCムカつく
・コロナの状況が依然として最悪
・性別、精神保全、SNS誹謗中傷など、オリンピックの新しい問題

各新聞の社説を見ると、これらを統括して全体をうまくまとめている社説は少ない。
まず読売新聞と産経新聞は論外だ。手放しの五輪讃歌。万々歳のハッピー論調。すごいぞ日本選手、すごいぞオリンピック。能天気にも程がある。一応ちょろっと「問題点」を書いてはいるが、単なる予防策に過ぎない程度の書き方であって、全体的な論調は「五輪大成功」だ。これでは今回の五輪を通して日本国民が学ぶべきことを啓発できまい。
これは純然たる「社の立場」だろう。例えば読売新聞は、「天皇」のナベツネをはじめ経営陣がすべて五輪利権を受ける側だから、五輪をゴリゴリ押すのは当たり前だ。今回の五輪の総括に関しては、読むに値しない社説と断じていい。

上に挙げた「よいところ」「わるいところ」をわりと万遍なく掬い取って総括しているのは朝日新聞と日本経済新聞だが、視点と文章力の両方の面で、朝日新聞のほうが上だろう。
朝日新聞は以前、五輪開催に反対していた。2021年5月26日の社説「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」では五輪中止を強く訴える意見を掲載している。今回の社説では、朝日新聞は「社会情勢としては五輪開催に反対」と「いざ五輪が始まったら日本人選手が大活躍」の報じ方に葛藤があることを正直に書いている。

朝日新聞の社説は5月、今夏の開催中止を菅首相に求めた。努力してきた選手や関係者を思えば忍びない。万全の注意を払えば大会自体は大過なく運営できるかもしれない。だが国民の健康を「賭け」の対象にすることは許されない。コロナ禍は貧しい国により大きな打撃を与えた。スポーツの土台である公平公正が揺らいでおり、このまま開催することは理にかなわない。そう考えたからだ
(朝日社説)

一方で、本来のオリンピズムを体現したアスリートたちの健闘には、開催の是非を離れて心からの拍手を送りたい。極限に挑み、ライバルをたたえ、周囲に感謝する姿は、多くの共感を呼び、スポーツの力を改めて強く印象づけた。迫害・差別を乗り越えて参加した難民や性的少数者のプレーは、問題を可視化させ、一人ひとりの人権が守られる世界を築くことの大切さを、人々に訴えた
(同)


こういう書き方を「矛盾だ」と非難する向きもあろう。多くの国民が、開催前の「五輪に対する嫌悪感」と、開催後の「日本バンザイ」の感情を自分の中にうまく落し込むことに苦心していたのではないか。
今回のオリンピックは、どのみち伝染病という惨禍の中での強行開催なので、国民全員が何らかの葛藤を抱えたまま実施を受け入れなければならない大会だったのだ。その葛藤を自分の中で消化する能力の無い者が、やたらと他人を批判の矛先として口汚く罵り合って憂さ晴らしをする。今回のオリンピックを自分なりに統括することは、日本人にとっては難しいことだが、いまの日本にはこういう能力が全体的に欠けていることが明らかになったと思う。

まず「わるいこと」だが、朝日新聞は全体としては五輪反対の論調なので、その詳細を主として論じている。

懸念された感染爆発が起き、首都圏を中心に病床は逼迫(ひっぱく)し、緊急でない手術や一般診療の抑制が求められるなど、医療崩壊寸前というべき事態に至った。

これまでも大会日程から逆算して緊急事態宣言の期間を決めるなど、五輪優先・五輪ありきの姿勢が施策をゆがめてきた。コロナ下での開催意義を問われても、首相からは「子どもたちに希望や勇気を伝えたい」「世界が一つになれることを発信したい」といった、漠とした発言しか聞こえてこなかった

今回の大会は五輪そのものへの疑念もあぶり出した。五輪競技になることで裾野を広げようとする競技団体と、大会の価値を高めたいIOCや開催地の思惑が重なって、過去最多の33競技339種目が実施され、肥大化は極限に達した

延期に伴う支出増を抑えるため式典の見直しなどが模索されたが実を結ばず、酷暑の季節を避ける案も早々に退けられた。背景に、放映権料でIOCを支える米テレビ局やスポンサーである巨大資本の意向があることを、多くの国民は知った。財政負担をはじめとする様々なリスクを開催地に押しつけ、IOCは損失をかぶらない一方的な開催契約や、自分たちの営利や都合を全てに優先させる独善ぶりも、日本にとどまらず世界周知のものとなった


どれも「そのとおり」と頷くしかない指摘だ。日本選手の活躍に喜ぶ感情とは別に、これらの問題は厳然として存在することは認めなくてはならない。これは五輪に限った問題ではなく、今後も日本におけるイベント開催、コロナとの付き合い方に直結する、普遍的な問題だ。

一方で朝日新聞は「よいところ」について、「新種目」と「選手の精神的衛生面」に関しておもしろいことを言っている。

選手の心の健康の維持にもかつてない注目が集まった。過度な重圧から解放するために、国を背負って戦うという旧態依然とした五輪観と決別する必要がある。10代の選手が躍動したスケートボードなどの都市型スポーツは、その観点からも示唆を与えてくれたように思う。

正直なところ、今回の各紙の社説で僕が朝日新聞が一番良いと思った根拠は、ここの部分だ。
五輪開催前、日本のテニス選手、大坂なおみが精神的状況を理由に全仏オープンの記者会見を拒否したことが問題になっていた。テニスの4大大会では選手のメディア対応はルール化された義務であり、これを拒否することはできない。大坂なおみはこれを拒絶し、批判されるや後出しの形で「鬱病」というカードで世論の非難をかわそうとする姿勢をとった。

それを受ける形で、五輪では女子体操の「絶対女王」シモーン・バイルスが「心の健康を何より優先するため」という理由で競技を棄権した。これは要するに、従来の言い方をすれば「プレッシャーに負けた」というだけのことだろう。しかし、こういう競技に対する姿勢は個人だけの問題ではなく、その国、その競技に関わる構造的な問題という面もあろう。競技の歴史が長い伝統的なものであればあるほど、そうした柵は大きいものとなる。

だから、10代の選手が朗らかに技を競う新競技がオリンピックに向かう選手のあり方そのものを変える契機になるかもしれない、という指摘は優れた視点だと思う。スケートボード、サーフィン、スポーツクライミングなどの新競技は、日本人が躍進したこともあり、注目を集めた。それらの競技で、試技が終わった選手に対して、国籍・チーム関係なく健闘を称え合う様子は、他の競技で見られないものだった。そこには「オリンピック新競技採用までの道のりをともに戦ってきた『仲間』」という意識もあったと思う。しかしそれ以前に、そういう競技ではそもそもお互いを「競技仲間」と考え、凄い技には無条件に敬意を払う、という文化が根ざしているように見える。

前回の東京オリンピックは露骨に国威発揚の場だった。選手は「お国のために」戦い、戦後でありながら戦時中であるような重苦しい悲壮感が漂っていた。男子マラソンで競技場のゴール直前に抜かれて3位になった円谷幸吉は、家族・国民・マスコミの集中砲火を受けて自殺に追い込まれている。
そういう「国威発揚型」の動機付けでは、もはや優れた成績を残すことはできない、ということだろう。国威発揚型の典型は、オリンピックの成績が生涯の保証につながった旧東欧諸国だが、そのような社会システムはすでに存在しない。スポーツで良い成績をあげ、長く競技を続けるために必要なものは何か、今回のオリンピックでは顕在化した感がある。

どの新聞もとりたてて指摘していないが、今回からオリンピックの新しい面として、視聴者にとって「ただ観るだけのもの」ではなく、「観る側の姿勢が問われるもの」という、双方向のものになったということが挙げられる。
つまり、SNSによる選手個人への誹謗中傷の攻撃。国によっては組織的と思われる大量の中傷コメントで、対戦国の相手を貶める行為が続発した。多くの選手がそうした個人的な中傷攻撃に対する抗議の声をあげている。

これは、今回の五輪開催に際して「開催するべきではないという社会情勢」と「開催後の興奮と喜び」をうまく自分の中で消化できない幼稚な精神性と、根が同じ問題だ。誰だって、応援している自国の選手が敗れれば面白くない。しかし、それを自分の中で消化できず、負の感情をそのまま相手にぶつける。幼稚というよりも粗野だ。人間社会で生活し、他人と共存する根本的な姿勢を根底から放棄している。
現在は情報技術が発達し、自分の思っていることを広く世に知らしめ、特定の個人に思いを届けることが簡単になっている。その情報技術を誤った方向に振りかざし、「自分がイヤだった」というだけの理由で他人を安易に傷つける行為は、罰則に値する愚行だろう。世の中には法整備によって実刑が課されないと行為の善悪が判断できない低俗な人間が多い。それらの行為を厳禁するルール作りは今後の課題だろう。

オリンピックは終わった。普段の日常に戻った日本に残された現実は、悪化した感染拡大だ。日本と世界は根本的な問題を解決すること無しに、犠牲を承知の上で五輪を開催するという道を選んだ。選んだ以上は、その後に残されたものに適切に対処する義務がある。それを対処せずに放り出すような真似は許されない。そこまで含めて「五輪開催」の範疇だろう。どれほどの具体策を打てるのか、今後も注視する必要がある。



文句言いながら競技を観ても全然面白くなかろう。
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ウケるために

facepic



【小林賢太郎氏 コメント全文】

小林賢太郎と申します。私は元コメディアンで、引退後の今はエンターテインメントに裏方として携わっております。

かつて私が書いたコントのせりふの中に、不適切な表現があったというご指摘をいただきました。確かにご指摘の通り、1998年に発売された若手芸人を紹介するビデオソフトの中で、私が書いたコントのせりふに、極めて不謹慎な表現が含まれていました。  

ご指摘を受け、当時のことを思い返しました。思うように人を笑わせられなくて、浅はかに人の気を引こうとしていた頃だと思います。その後、自分でもよくないと思い、考えを改め、人を傷つけない笑いを目指すようになっていきました。  

人を楽しませる仕事の自分が、人に不快な思いをさせることはあってはならないことです。当時の自分の愚かな言葉選びが間違いだったことを理解し、反省しています。不快に思われた方々におわび申し上げます。申し訳ありませんでした。  

先ほど組織委員会から、ショーディレクター解任のご連絡をいただきました。これまでこの式典に携わらせていただいたことに感謝いたします。



QEDorawari01
QEDorawari02
QEDorawari03
QEDorawari04
QEDorawari05

(加藤元浩『Q.E.D. 証明終了』vol.46)



安易な道には必ず落とし穴がある。

京都のややこしい住所

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2021年5月13日放送の『秘密のケンミンSHOW極』(日本テレビ系列)で、面白い企画をやっていた。 「ヒミツのKYOTO 極 【京都府】 」と題して、京都の住所のわかりにくさの特集だ。

京都市内の住所は、一般的な区画制ではなく、碁盤目状に区切られた通りのタテ列とヨコ列の組み合わせ、さらにその交差点からどっちに入るのか、さらにその先にある町名、で構成されている。


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だから京都市では、最後に記される「町名」にあまり意味がない。
京都市内の住所では、前半部分の「どの通りと、どの通りの交わりか」が重要であって、町名というのはその場所につけられた便宜上の符号でしかない。だから京都市内に同じ町名がたくさん重複している。


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「住所は亀屋町です」というと「どこのですか?」と訊かれる


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ピザ屋の配達も困るらしい


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プロのタクシードライバーにしてこの一刀両断


京都の住所がかようにややこしいのは、「町名」の区切り方が一般とは異なっていることに拠る。
ふつう「町」というのは、道路で区切られた区画のことを指す。ところが京都では、「町」の区画が道路によって区切られておらず、道路をまたいで同じ町が広がっている。町の区切りが目に見える道路ではないため、町の境目が分かりにくい。タクシードライバーが認識していないもの無理はない。


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普通はこう。


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京都はこう。 町名が通りを挟んでいる。

(資料は「山と終末旅」さまからお借りしました)


なぜ、京都ではこのように複雑な町名の付け方になっているのか。
それと全く同じ問いが、東京大学の入試問題、2020年の日本史[2]で問われている。

京都の夏の風物詩である祇園祭で行われる山鉾巡行は、数十基の山鉾が京中を練り歩く華麗な行事として知られる。16世紀の山鉾巡行に関する次の(1)〜(4)の文章を読んで、書きの設問に答えなさい。

(1)1533年、祇園祭を延期するように室町幕府が命じると、下京の六十六町の月行事たちは、山鉾の巡行は行いたいと主張した。
(2)下京の各町では、祇園祭の山鉾を確実に用意するため、他町の者へ土地を売却することを禁じるよう幕府に求めたり、町の十人に賦課された「祇園会出銭」から「山の綱引き賃」を支出したりした。
(3)上杉本「洛中洛外図屏風」に描かれている山鉾巡行の場面を見ると(図1)、人々に綱で引かれて長刀鉾が右方向へと進み、蟷螂(かまきり)山、傘鉾があとに続いている。
(4)現代の京都市街図をみると(図2)、通りをはさむように町名が連なっている。そのなかには、16世紀にさかのぼる町名もみえる。

設問
16世紀において、山鉾はどのように運営され、それは町の自治のあり方にどのように影響したのか。5行以内で述べなさい。

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教科書でしか日本史を勉強していない受験生にとっては「なんじゃこりゃ」という問題だろう。日本史の教科書には、祇園祭の山鉾巡行なんて出てこない。「なんでこれが日本史の問題なんだ」と訝る受験生も多いだろう。
しかしこの問題には、東大の「なぜ日本史を学ばなくてはならないのか」という基本姿勢が明確に打ち出されている。

まず東大の入試問題の常識として、設問のヒントに無駄な記述は一切ない。つまり合格答案は、与えられた条件をすべて使い切ったものでなければならない。4つのヒントと2つの図、それらをすべて汲み取った答案だけが、合格答案となる。

まず(1)の文から、当時の町民は、幕府の命令に対して平然と異を唱えるほど力をもっていたことが分かる。なにせ「祇園祭の延期」という幕府の命令に平然と楯突いたのだ。
ちなみに1533年の幕府の祇園祭禁止令は、比叡山延暦寺の働きかけによるものだった。もともと祇園祭は疫神による死者の怨霊を鎮めるための鎮魂祭(御霊会)だったが、その主体があちこち移った挙句、最終的に現在の八坂神社に落ち着いた。八坂神社は比叡山延暦寺の末寺だったため、「本家」の延暦寺の山王祭が行われない時は、右に倣えで祇園祭も中止になることが多かった。それに加えて1533年は応仁の乱の中断後という事情もあった。

山鉾巡行というのは、要するに祇園祭のアトラクションのひとつだ。鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じた。今でいう御神輿や山車の類いと思えば当たらずとも遠からず。その巡行を行うのは八坂神社の宮司ではなく、当時経済力をつけてきた町人だ。

つまり、祇園祭を中止にするというお達しがあったにも関わらず、(1)のように「山鉾の巡行はやらせてくれ」というのは、本来であれば本末転倒なのだ。お祭りが中止なのに御神輿だけが町を練り歩くことになる。つまり(1)の記述からは、16世紀にはすでに祇園祭が変質しており、鎮魂祭である祭りそのものよりも、町人が練り歩くアトラクションのほうが主体となっていたことが分かる。

(2)の記述からは、祇園祭のアトラクション・山鉾巡行によって、京都の町民がどのように団結していったのか、その仕組みが分かる。要するに人と人の結びつきの原理が「血縁」ではなく「地縁」だった、ということだ。農村のような血縁関係による家族的共同体構成ではなく、「その土地に住み着いた人達」が団結して共同体をつくる。だから「土地の売却」は、集団の秩序に反するものとして御法度となった。

その自治組織のメンバーから山鉾巡行の資金を徴収するということは、山鉾が「地縁」による結びつきを象徴し、強固にするための機能を果たしていたということを意味する。教科書的な記述では「経済力を強めてきた町人たちは、自分達で自治の費用を出し合って、自ら共同体の主体としての力を行使した」ということになる。ここに至って山鉾巡行は単なる祭りのアトラクションではなく、共同体存続のための重要な位置づけを占めるようになった。そりゃ幕府の禁止令にも背くわけだ。

資料(3)(4)は、図1,2と連動して読まなければならない。図2の現在の京都の地図を見ると、「傘鉾町」「蟷螂山町」「長刀鉾町」など、(3)の記述にある山鉾チームの名前がそのまま町名として確認できる。これは、町ひとつの共同体が、山鉾巡行を行う単位として現在に残っていることを示している。

また図1の山鉾巡行の様子をみると、まさに現在の山車と同じで、通りに沿ってワッショイワッショイと練り歩く様子が分かる。つまり山鉾巡行では「通り」が重要なのだ。図2の地図を見て分かる通り、現在の京都の町名は、通りをはさんでその両隣に広がっている。このような成り立ちの町を「両側町」という。このように山鉾巡行の路である「通り」を基体として、その両側に共同体としての「町」を構成した。

つまり、『秘密のケンミンSHOW極』の特集、「なぜ京都の住所はこんなに複雑なのか」という疑問に対して、東大入試の日本史の問題は「室町時代の祇園祭で行われた山鉾巡行の名残り」という答えを用意している。昔のことを紐解くと、なぜ今そうなっているのかが分かる。

(こたえ)
山鉾は町ごとに所有し町民が管理するものであり、自分達で費用を負担し自らを担い手として巡行が行われた。町の通りは山鉾の通路として重要な位置を占め、その通りを挟んで地縁による結びつきで住人が団結し、山鉾の名を冠する町名をつけるに至った。そうした町は共同体としての自治意識が高く、山鉾の費用徴収や土地売買の禁止により連携を強め、町組や惣町を形成していった。


「歴史なんて、今になっては関係ない知識なんだから、学校で習う必要はない」などと嘯く輩は多い。
また、昨今の東大生を回答者としたクイズ番組のブームによって、東大生を「普通の人は知らないような知識を記憶している『暗記お化け』」と思い込んでいる輩も多い。
この東大日本史の問題は、そういう傾向に対して「馬鹿じゃねぇの?」と挑発的に問題を突きつけているように見える。

この東大日本史の問題を見て、「そんなこと学校で習っていない」という文句を言う人もいるだろう。しかし、こうしたことが日本史の教科書に載っていないかというと、そんなことはない。ちゃんと書いてある。
16世紀の室町時代の世情について、歴史の教科書には「富裕な商工業者である町衆が自治の担い手となり、町を自治単位として独自の町法を定めた」というようなことが書いてある。

教科書のこうこう記述は、まぁ、だいたいの高校生が読み飛ばす。「単語」で「記憶」できる情報形態ではないからだ。
高校生の多くは、歴史の勉強を「情報を記憶すること」と思い込んでいる。聖徳太子といえば「十七条憲法」「冠位十二階」、織田信長といえば「楽市楽座」などの名称を覚える。彼らがその用語を暗記したがるのは、歴史上それらの概念が重要だからではなく、「名詞の用語として記憶できる便利な情報形態だから」に過ぎない。

だから、受験生の多くは経済史に弱い。経済史というのは「その時代の背景となる趨勢」のことであって、なにか特別の事件やできごとが起こるわけではない。つまり「用語一発で覚えることができない分野」なのだ。そういう時代の抽象概念を、現在につながる流れの一部として体系的に理解するには、相当に高度な思考作業が必要となる。

ところが高校生は「抽象概念を具体的事象に投影させて、さらにそれを再び抽象概念に一般化しなおすことによって概念への理解を深める」という思考作業を行う能力がない。刺激や情報に反応するだけなら猿でもできる。歴史の勉強といえば「単語頼りの暗記」一辺倒の高校生は、猿並みの進化段階と言える。

現役の東大生が出演しているクイズ番組が、あんなに「知識」「情報の暗記」にフォーカスを当てるのは、それが番組の構成にとって便利な情報形態だからだ。「問題です」と始め、問題文を読み上げ、回答者が早押しで「◯◯◯◯っ!」と短い単語を答える。非常にリズムがよい。見ている視聴者が飽きない。クイズ番組が描く「東大生」というのは、単に「情報形態としての『用語』をいっぱい暗記している学生」であって、東大入試が問う「論理を武器にして抽象的な概念を具体化する能力をもつ学生」ではない。そのほうが番組が作りやすいからだ。クイズ番組と東大入試では、求めているものがそもそも違う。

もちろんクイズ番組に出演している東大生は、東大の問う問題に合格しているのだから、東大入試とクイズ番組では求められている知識の質が違うということくらい百も承知だろう。そこを「いや、本当の勉強というのはこういうものじゃないんですよ」などと番組内で小賢しく高説を垂れない辺りは、彼等の頭の良さだろう。クイズ番組を単なるゲームとして割り切って、自分の知的領域の拡大とは別物として考える。東大生くらいならその程度の割り切りはできて当然だ。

普段から「日本史なんて現代では関係ない知識なんだから習っても無駄だ」などと嘯く輩に限って、今回のような東大日本史の問題を「学校ではこんなこと習ってない」と文句を言う。東大が問うているのは、「歴史というものは、何らかの形で現在に影響を及ぼしている。その変遷の筋道を辿ることができるのか」ということだ。「歴史不要」厨があまりにも歴史を「役に立たない」「役に立たない」と連呼するので、「じゃあ役に立つところを見せてやろうじゃないか」という挑発的な問題だ。東大の問題が解けないのであれば、「日本史の知識なんて役に立たない」のではない。人の側に「歴史の知識を役に立たせる程度の能力すら無い」のだ。

京都の住所がわかりにくい、ということそのものは『秘密のケンミンSHOW極』のような卑近なバラエティ番組のネタにもなるような、面白い現象だ。だが、その根源をたどっていくと室町時代の山鉾巡行という、一見何の関係もなさそうな歴史的事実に突き当たる。その両端を埋めるための間の過程を推理し、それに象徴される時代の姿を想像すること、それが「歴史を勉強する」ということだ。決して、クイズ問題に答えるために歴史用語を頭に詰め込むことが「歴史の勉強」ではない。

大学全入時代となり、世間には大学を卒業している人も多くなった。しかし相変わらず、東大入試というと「百科辞典の隅から隅まで暗記していなければ答えられない超難問」のような勘違いをしている人が多い。知の体系の本質は、情報を溜め込むことにあるのではなく、自ら知を創り出すことにある。その辺を勘違いしている人が、自己啓発とやらの目的で「勉強」を始めたとしても、苦しいばかりで得られるものなど何もあるまい。



コロナのせいで2年連続で中止になりましたね。

矛盾しない方策

1000以下の素数は250個以下であることを示せ。

2021年、一橋大学の入試問題。ついこないだ出題されたばかりのホヤホヤ。
問題はたった1行。ぶっきらぼうにも程があるが、問題としてはなかなか面白い。

素数を手計算で簡単に並べ上げるアルゴリズムは無いから、余事象をとって「素数ではないものが750個以上ある」ことを示すことになる。
つまり、この問題は整数問題に見えて、実際のところは集合問題だ。余事象をとって、集合の積を排除して和集合の濃度を導く、という集合論の基本さえ身に付いていれば、機械的な計算で解ける。

この問題の面白いところは、「力技でしらみつぶしに調べ上げるとき、どの程度まで力を使う必要があるか」を見極めることができるかどうかによって、難易度が著しく変わることだ。
「素数ではないもの」、つまり素因数をもつ数を調べるのであれば、2の倍数、3の倍数、5の倍数、7の倍数、11の倍数… と素数の倍数を「1以上1000以下の数」から数え上げていけばいい。問題は、倍数を数え上げる素数をどの程度まで調べなくてはならないのか、だ。

素数2, 3, 5あたりに関しては簡単だから簡単に数え上げられる。
2の倍数は、1000÷2=500個
3の倍数は、1000÷3=333個
5の倍数は、1000÷5=200個
これだけで1033個。ここから「重なり」を引かなくてはならない。
6の倍数(2と3の公倍数)は、1000÷6=166個
10の倍数(2と5の公倍数)は、1000÷10=100個
15の倍数(3と5の公倍数)は、1000÷15=66個
さらにここから、「過剰に引いた分」を足し直す。
30の倍数(2と3と5の公倍数)は、1000÷30=33

よって、1以上1000以下の数のうち、2,3,5の倍数のものは
500+333+200-166-100-66+33=734
734個ある。 つまり、1以上1000以下の数で、2, 3, 5の倍数かつ素数でないものは、2, 3, 5(こいつらは素数)自身を除くから、
734-3=731個ある。

ここで話が終われば話は簡単なのだが、この数字では、欲しい数「750個」にちょっと足りない。
つまり題意を満たす「素数でない数」を求めるのに、2, 3, 5という素数の倍数だけでは足りず、その先までちょっと調べなければならない、というところが一橋大学の意地悪なところだろう。

ここで、「では7の倍数を調べよう」「それでも足りなければ11の倍数を調べよう」… と考えるのは、単純ではあるが思考力が足りない。面倒くさいからだ。
2, 3, 5の倍数でやった思考法を、7の倍数、11の倍数、13の倍数… と拡張していくと、その分だけ集合の交わりの部分を排除する処理が面倒になる。ここはひとつ、上で計算した「731個」(=2,3,5の倍数)という数をこれ以上操作することなく、楽に答えを導きたい。

5よりも大きい素数を調べると、7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, … と続く。これらの数同士を掛け合わせた数は、素数ではないし、2,3,5の倍数でもない(つまり「731個」に含まれない)。
上記7つの素数から任意のふたつを選んで掛け合わせた数は、7C2=21通り。これは先ほど求めた731個には含まれないので、足し合わせると752通り。つまり「1から1000までの数には、素数ではない数が752個は確実に存在する」。
余事象をひっくり返すと、1000以下の素数は1000-752=248個以下であり、題意の通り250個以下であることが示される。(Q.E.D.)


昨今、コロナ禍で行政の臨時措置や時限立法など、「その場限りの対処」が増えてきている。
その対処に四苦八苦し、特に飲食店が苦境に晒されているのは周知の事実だろう。

コロナ禍のような、単一の手法で解決案が見いだせない状況では、様々な手段を累積的に積み重ねなくてはならなくなる。複雑な問題を解決するときには、先に打った手が、後に打った手と矛盾してしまう、という混乱が生じることがある。
僕の印象として、そういう矛盾するような施策をとってしまう人というのは、いいかげんな人なのではなく、「愚直なまでに基本方針に忠実な人」に多いような気がする。

コロナ禍が一般市民に蔓延するのを防止する、という方針を真面目に突き詰めれば、ロックダウンのような強制封鎖が良いに決まってる。しかし、そうなれば飲食店や販売店は経営が立ち行かなくなる。どちらかを取ればどちらかが立たない、そういう矛盾した状況に対処しなければならない時は、どうすればいいのか。

非常事態宣言を出して一般市民の行動を制限しようとする政治家も、GoToキャンペーンのような人とモノの流通を促進する政策を打ち出す政治家も、ともに自らの「正義」に従って「信念」で行動しているのだと思う。世の中を悪くしようとしているのではなく、彼らは彼らなりに世の中を良くしようと思っているのだろう。
そして、そのような「信念」が固い人ほど、矛盾する状況があったり、問題が複雑になり過ぎて単一手法では解決し得なかったりする状況に弱い。「固い信念」は、時として柔軟性を損ない、現実に対処できなくなる危険性を孕んでいる。

上に挙げた一橋大の問題でも、単純に「2, 3, 5で行った演算を、そのまま7, 11, 13,…と拡げていけばよい」と考える人は、泥沼に嵌る。基本に忠実ではあるのだろうが、頭が固く、「一度うまくいったから」という硬直した思考回路から抜け出せない。
いちど上手くいった施策でも、後から追加手段を追い討ちする時には、「前に打った手段と矛盾しないように隙間を縫って手を打つ」という調整力が必要になる。

数学を学べばそのような能力が身に付く、という単純な話ではないが、昨今の世情を見てみると、あまりに理性に欠け、「信念」一本やりで行動している行政者が多過ぎる気がする。個人的には、固過ぎる信念に執着する政治家など、信用に値しない。状況が変化しても対処手段を変えることができず、しまいには「自分のとった方策が正しいことを示すことのみに血道を上げる」という本末転倒なことになる。

世の中の問題には、数学のような絶対解はない。どのみち、その場に居合わせた人々の最大公約数的な「最適解」を模索する以外にはない。
しかし、その「模索」する方法論を、安易に情緒や信念に頼り過ぎ、理詰めで考える方法論が放棄され過ぎているように見える。



指折って数えるだけで解けました。

やはり春のお出かけはいいですなぁ

ようやく首都圏の緊急事態宣言が解除されましたね。
そんなわけで、久しぶりに池袋のサンシャイン国際水族館に行ってきました。


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のんびりと瞑想中のゴマ。


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トレーニング中のオットセイチーム。


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(`・ω・´)


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ダイオウグソク何とか。


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マンガやイラストで見る顔のまんま。


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生きてるタチウオ初めて見た。基本的にタテに立って泳ぐ。
水槽の演出も美しい。


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コツメカワウソ。
いきものがかりの吉岡聖恵に似てる。


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そして真打、天空のペンギン。
いいお天気で気持ちよさそうに泳いでいました。



みなさんお元気そうで何よりだ。

宿代のパズル

有名なパズルをひとつ。

ある3人の旅行者が旅館に泊まった。ちょうど季節は夏休み、繁盛するシーズンなので旅館には学生さんがアルバイトをしていた。

さて、ある仲居のバイトお姉ちゃん、お客さん3人を部屋に通すと、一泊分の宿泊料をひとり5000円、3人で合計15000円を受け取った。

仲居さんがその宿代15000円を帳場にもっていくと、おかみさん曰く、「あららウチはひとりいくらじゃなくて、一部屋いくらで宿代をもらうのよ。あの部屋は何人泊まっても10000円なの。この5000円をお客さんに返してきて」

お客さんにお金を返しに行く途中でバイトの仲居さんは考えた。ここで5000円を返すと、あの3人のお客さんはケンカになるんじゃないかしら。だって5000円は3で割り切れないもんね。じゃあここはひとつわたしがこっそり2000円もらっちゃおうかしら。そうすれば3000円になって、ひとり1000円ずつ割り切れるでしょ。たとえ1000円でも戻ってきたら喜ぶだろうから、それでいいんじゃないかしら。

とんでもない仲居もいたもんだが、さてここで考えてみよう。

お客さんにしてみれば、一人あたり5000円払って1000円返ってきたので、結局4000円払ったことになる。4000円が3人で12000円。

それに、仲居さんがポケットに入れた2000円を合わせると、14000円になる。 最初集めたのは確か15000円だったはず・・・。

【問題】さて、1000円はどこへ消えたのだろう?


前にいちどたくぶつに書いた覚えがあるな、と思って検索してみたら、2004年の記事だった。16年前のことになる。
この年になると、どこでどんな記事を読んだのか、はなはだ記憶が怪しくなる。しかしさすがに、自分で書いた記事というのは覚えているものだ。Webに投稿した記事だと検索ができるのも便利だ。紙の著作物だとこうはいかない。電子媒体万歳。

このパズルの答えは、簡単に言うと「計算が違う」ということなのだが、普通の意味とはちょっと違う。ふつう、「計算が違う」というと「計算の過程が間違っている」「正しい答えが出ていない」という意味が多いが、ここでは「『何を求めようとしているのか』と『立式』が噛み合っていない」という意味だ。立てた式自体が間違っている。式が間違っているのだから、答えが合うわけがない。

それはともかく、この問題はかなり有名な問題で、いろんなところで使われている。
たとえば『パタリロ!』(魔夜峰央)第42巻「のびちぢみリング」でもこの問題が登場する。


パタリロ!42巻のびちぢみリング


もともとは誰かが考えた問題なのだろうが、原典となる出典は寡聞にして知らない。
どこかの古典にでも載ってるのかな、と漠然と思っていた。


閑話休題。夏休みなので紀行文をよく読む。
特に今年のように、下手に旅行ができない時などは、紀行文を読んで旅行気分を味わう。


『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)
『八十日間世界一周』(ジュール・ヴェルヌ)
『阿房列車』(内田百閒)
『南仏プロヴァンスの12か月』 (ピーター・メイル)
『深夜特急』(沢木耕太郎)


鉄板ばかりの名作揃い。家にいながらにして旅行気分が存分に味わえる。
そのうち、内田百閒の『阿房列車』を読んでいたら、件の宿代パズルが出ていた。

山系が隣りからこんな事を云ひ出した。
「三人で宿屋へ泊まりましてね」
「いつの話」
「解り易い様に簡単な数字で云ひますけどね、払ひが三十円だったのです。それでみんなが十円ずつ出して、つけに添へて帳場へ持つて行かせたら」
蕁麻疹を掻きながら聞いてゐた。
「帳場がサアヸスだと云ふので五円まけてくれたのです。それを女中が三人の所へ持つて来る途中で、その中を二円胡麻化しましてね、三円だけ返して来ました」
「それで」
「だからその三円を三人で分けたから、一人一円づつ払ひ戻しがあつたのです。十円出した所へ一円戻つて来たから、一人分の負担は九円です」
「それがどうした」
「九円づつ三人出したから三九、二十七円に女中が二円棒先を切つたので〆て二十九円、一円足りないぢやありませんか」
蕁麻疹を押さへた儘、考へて見たがよく解らない。それよりも、こつちの現実の会計に脚が出てゐる。
(『特別阿房列車』)

ここで問題を出してきた「山系」というのは、旅行には必ず同行させられた百閒の弟子で、平山三郎という男。国鉄職員をやっていたため、「ヒマラヤ山系」と呼ばれていた。当時、国鉄職員は三等客車には無料で乗れたので、交通費を出してやることなく旅行に同行させることができたので、ちょいちょい百閒に連れ回されていたそうだ。

内田百閒というのは、まぁ、夏目漱石の弟子であるくらいだから、師匠に似て変な男だった。日本芸術院、日本文学報国会への入会推薦を「嫌だから嫌だ」という理由で断る。大学で教えており著作も多く十分な収入があるはずなのに、なぜかいつも貧乏で、借金取りとの戦いが日常茶飯事。
『阿房列車』の第1作内の「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」という一文は有名で、乗り鉄の座右の銘として引用されることがある。

夏目漱石の弟子というのは、芥川龍之介のような変になり方と、内田百閒のような変になり方がある、と言ったら言い過ぎだろうか。両方とも僕の好みなので、芥川と百閒はともに僕の愛読書だ。

孤高を通した芥川とは違い、内田百閒は大学で教えていたので、弟子が多かった。系譜は脈々と受け継がれ、百閒の弟子にも変人が多い。その中でも比較的まともな平山三郎は、百閒の没後、『阿房列車』の記述には百閒の創作が多く含まれていることを明らかにしている。作り話と言えばそれまでだが、事実そのものは百閒にとっては話のネタに過ぎず、それを読む人が面白いように書き換えた、というところだろうか。
だからおそらく「宿代のパズル」も、平山三郎が出題したものではあるまい。どこか別のところで伝え聞いたものか、百閒自身が考えたものかどうかは分からない。

いずれにせよ、この問題がいろんな所で出題されているのを辿ってみると、いまのところこの内田百閒の著作が最も古い出典のようだ。
またどこか他のところでこのパズルを目にすることがあることもあるだろうが、同じ問題がいろんな所でいろんな使い方をされているのを見ると、この問題はまぎれも無い「名作」なんだろうな、という気がする。



「クレジットカードを3枚出し合って」という話に翻案中。

コロナによる大学閉鎖

「コロナ下の大学 学生の意欲そがぬように」
(2020年8月8日 毎日新聞社説)
「コロナと大学 対面授業の実施へ知恵を絞れ」
(2020年8月16日 読売新聞社説)
「コロナと大学 『学費返せ』の不満解消を」
(2020年8月23日 産経新聞社説)


大学のコロナ対策としてのキャンパス閉鎖が叩かれている。
一読して、マスコミはとにかく「理に適っているかどうか」など一切関係なく、世の中が不安定になるように世論をかき乱したいだけなのだな、ということがよく分かる。人は社会不安になると、情報を求める。そういう原理で自分達の利益をあげることしか考えていない。

僕の教えている大学でも、秋以降の後期授業が原則としてリモート授業になることが決まった。各社説が言っている通り、今年から大学に入った1年生の中にはまだキャンパスに足を踏み入れていない学生も多く、気の毒というほかはない。学費を払っているのに、それに見合ったサービスを受けられていない、と感じるのももっともだろう。

しかし、その非は大学に負わせるべきものなのか。
コロナウィルス禍は、一種の災害だ。大学はそれに対処しているだけであって、そもそもの原因が大学にあるわけではない。いわば「誰のせいでもない事態」「しかたがない事態」なのだ。一般読者もそんなことはよく分かっているだろう。しかし、やるせない。誰かのせいにして責めたい。そんな稚拙な市民感情を汲み取って発散させ、溜飲を下げることだけを目的にした愚劣な社説だ。

各社説では、勉強の環境を害された学生の苦悶の声を挙げている。

「しかし、教師や友人と顔を合わせて議論を交わしながら、学問を身につけていくのが学生の本来の姿だ。芸術系の大学などではとりわけ高度な実技指導が欠かせない」
(毎日社説)

「大学の学生アンケートでは、遠隔授業について「自分のペースで勉強できた」と評価する声がある一方、「集中できない」「質が低い」との不満も出ている。学習意欲の低下につながることが懸念される」
(読売社説)

「萩生田光一文科相は今月中旬の会見で『学生が納得できる質の高い教育を提供することは必要不可欠』とし、それができない場合、『授業料の返還を求める学生の声が高まることも否定できない』と厳しく指摘した」
「文部科学省は大学に対し、後期から対面授業の実施を促す通知を出した。萩生田文科相は『小中学校も工夫している。大学だけがキャンパスを閉じているのは、いかがなものか』と苦言を呈した」
(産経社説)


こういう社説を読んで非常に違和感を感じるのは、大学生は普段からそんなに勉強に熱心なのだろうか、ということだ。社説ではやたらと「勉強したくてしたくて仕方がない学生が、その機会を奪われて憤懣やる方ない」という論調だが、コロナ禍になる前の大学では、そんなに勉強熱心な学生ばっかりだったのだろうか。

読売新聞ではリモート授業の弊害として「学生アンケート」なるものを根拠にしているが、そもそも読売新聞がどうやってそんな資料を閲覧できたのだろうか。大学が実施している学生アンケートは、教員の能力査定に直結するため、どの大学でも秘中の秘だ。僕の授業のアンケート集計結果も、取扱注意の朱書きつきの封筒に厳封されて書留郵便で届く。

大学が対面授業を再開しない理由は簡単だ。100%間違いなくクラスターが発生するからだ。
しかも、大学が懸念しているのはクラスターそのものではない。クラスター発生に対する一般世論の反応だ。

コロナ禍で社会の閉塞感が蔓延し、ストレスがたまった人達がでている。そういう人達は、学校のような集団で感染者が発生すると、まるで社会の害悪のように罵声を浴びせ非難する。感染者が出た学校に対する中傷や脅迫は、もはや社会問題になっている。

『日本から出て行け』『学校つぶせ』…部活クラスターで中傷電話、生徒の写真も拡散
(2020年8月23日 読売新聞オンライン)

高校の部活動などで新型コロナウイルスの集団感染が相次ぎ、生徒らがネット上などで誹謗中傷される事態になっている。学校側には十分な感染対策が求められるが、批判にさらされる生徒には精神面の悪影響も懸念される。専門家は、コロナ禍で不安や不満を募らせた大人が、生徒らをスケープゴートにしないよう呼びかける。

 「日本から出て行け」「学校をつぶせ」
 9日以降、サッカー部員らの感染者が約100人に上った松江市の私立立正大淞南(しょうなん)高校では、学校の批判に加え、生徒を中傷するような電話が80件を超えた。

 集団感染は、部員の大半が寮で共同生活していたことが原因とみられ、同校は記者会見で「学校側の対策が十分ではなかった」と謝罪。そのうえで「生徒に落ち度はない」と強調したが、ネット上では、生徒の活動を紹介する同校の公式ブログも標的となった。

 7~8月に行われた島根県の独自大会で準優勝した野球部の部員を、屋外でサッカー部員らが祝福する写真に対しては、「マスクも着けずにコロナをばらまいている」との批判が殺到。同校は「生徒個人が特定される」として写真を削除したが、テレビの情報番組などが取り上げたこともあり、さらに拡散。島根県は8月21日、写真が転載された十数件のサイトについて「人権侵害の恐れがある」として松江地方法務局に通報し、削除要請を依頼する異例の対応を取った。

 生徒の心身の不調を懸念した同校は、島根県臨床心理士・公認心理師協会に協力を依頼。約50人から「寝られない」などの相談が寄せられているという。

 学校関係の集団感染は、天理大ラグビー部や日本体育大レスリング部、福岡県大牟田市の私立大牟田高などでも起きている。

 児童生徒を中傷や人権侵害から守るため、独自の取り組みを行うのは三重県教育委員会。5月中旬から新型コロナの感染者らを中傷するインターネット上の書き込みなどについて専門業者に委託してパトロールしている。公立小中学校や県立学校の校名が書かれた中傷などの書き込みがあれば県教委が各校に連絡して対応を依頼する。これまでに「感染者が出た学校に近くて怖い」といった書き込みが確認されており、県教委は「早期に学校などと連携し、児童生徒を中傷などから守っていきたい」としている。


つまり、大学としては学生感情を考慮して対面授業を再開したくても、世の中がそれを受け入れるだけの許容性が無いのだ。特に都心部の大学が再開すると、大学構内だけの人的密集だけでなく、電車やバスなどの公共交通機関や店舗などの人が集まる場所の密集度合いが一気に高くなる。若い世代はとにかく移動範囲が広く活発なので、大学が再開することによって都心の人的な流動性が段違いに高くなる。それはコロナ発生の危険性に直結する。

また、産経社説が引用している通り、「小中学校も工夫している。大学だけがキャンパスを閉じているのは、いかがなものか」という文句をいう人もいる。そういう人は、学校という場所がもつ機能を甘くみている。

学校というのは、勉強を教えるだけの場所ではない。情報として勉強内容を伝達するだけであれば、わざわざ皆が同じ場所に行って、同じ時間に、同じ内容を学ぶ必要など全くない。学校というのは学習内容の習得以外にも、人が集まる場所で集団に属し、適切な社会性を育む場所でもある。正課としての授業だけでなく、委員会活動、部活、課外活動など、様々な機会を通じて「集団における自分の位置づけ方」を身につける場所でもある。

そのような「社会性」の機能は、初等教育ほど重要性が大きい。非常事態宣言下で最初に学校再開の必要性が叫ばれていたのが、大学でも高校でも中学高でもなく「小学校」だったのは、そのためだ。小学校の機能は、勉強を教えることだけではない。児童はまだ地力で自分のあり方をアップデートする能力が身に付いていない。他者と接し、集団に属することでしか自分のあり方を確立することができない。リモート授業で勉強するべき「情報」だけを与えればこと足りる、というわけではないのだ。

それが大学になると事情が大きく異なる。基本的に大学生というのは、すでに自分の力で自分のアップデートをする能力を持つものだけが入学を許されるべき場所なのだ。初等・中等教育を通して、自分の適切なあり方を確立する社会性も、ある程度は身につけていることが要求される。そういう「大人」が集まるのが大学なので、大学の授業としてはリモート授業で代替できる部分が大きい。それが小学校との大きな違いだ。 「小学校が再開しているのに大学が再開しないのはおかしい」という主張は、「大学生の能力は、小学生の能力と同等だ」と主張しているに等しい。

新聞社説に掲載される大学生の不満は、主に「リモート授業の質が低い」という形で報じられることが多い。勉強意欲が猛烈に高いお利口な大学生が学ぶ機会を奪われている、という論調が多い。しかし本当のところ、大学生が不満を感じているのは、リモート授業そのものではなく、学校という枠組みがもつ「社会性」という機能を享受できないことではないか。友達と会えない、知らない人と知り合う機会がない、人から刺激を受けて自分を変えていく機会がない、そういう「社会性」の欠如が、学生の不満の根源だと思う。

しかし、それを言葉にすると「人と会えなくて寂しい」という、自分のパーソナリティの欠落を訴えるような不満に聞こえてしまう。堂々と主張するには恥ずかしい。だから不満の出し方としては「リモート授業の質が低い」という言い方にならざるを得ない。
つまり、大学生の不満というのは、「現在の生活から社会性が欠落している不満」を「授業の質の不満」にすり変えていることに他ならない。

新聞社説はやたらとリモート授業の質の低さを糾弾しているが、そういう新聞社は実際の大学のリモート授業をどれほど見たことがあるのだろうか。
一般的に、対面で人に直接話すよりも、出版物やリモート授業で情報を流すほうが、情報量は多くなる。大学の授業は一般的に1コマが90分〜100分ほどだが、もしリモート授業で90分も一方的に喋ったら、おそらく対面授業3回分くらいの情報量になる。大学側もリモート授業実施当初からそのことには気付いており、事前に録画した内容を流すオンデマンド形式の授業を流す場合、90分の時間枠に対して授業動画は60分程度に抑え、のこりの30分は「能動的な演習問題」を課すように要請している。

実際にリモート授業を実施して僕が驚いたことは、普段の授業よりも脱落者が少ないことだ。
30〜50人くらいの講義の場合、だいたい毎学期ごとに10人程度の脱落者が出る。課題を出さない、試験を受けない、という単位の落し方もあるが、一番多いのは、そもそも教室に来なくなることだ。ところが今回、リモート授業を実施したら、授業登録者はすべて最後まで授業を受けて、課題を出し、試験を受けた。こんなことは初めてだ。

新聞社説は、暗黙のうちに「最新機器に疎い大学教授のオッサン達がつくるリモート授業なんて、どうせ質が低くて、面白くないものに違いない」という思い込みで書かれているように見える。特に産経社説は「大学が『レジャーランド』などと言われて久しいが、行かずともいいような大学には退場願いたい」など、もはや本筋とは関係ない中傷の仕方に帰着している。
大学教員を舐めてもらっては困る。自分が専門としている分野のことであれば、どんな形式であれ、その分野のことを語り尽くすくらいの能力など、どの教員にもある。それについて外野から質の低さを糾弾される程度の授業などやっていない。

学校教育が語られるたびに、「実際に学校に通う必要などない。不登校上等。勉強などネットで十分。家でひとりで勉強すればそれでいいはず」などと嘯く輩が必ずいる。そういう輩に限って、今回のコロナ禍で「大学が閉鎖しているのはけしからん」などという自己撞着を振り回している気がする。学校の機能を「勉強を教えるところ」程度にしか考えていないから、そういう筋違いな主張を散蒔くことになる。安易に学校を叩くのは、容易に潰れることがない学校という機関の堅牢性に甘ったれているからだ。大学のコロナ閉鎖を非難している人も、大学授業が再開してクラスターが発生したら、手のひらを返して前以上に非難することになる手合いだろう。



イラついてるだけだろ。
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「論理国語」と「文学国語」

「高校の国語 文学と論理 境を越えて」
(2020年7月31日 朝日新聞社説)


朝日新聞という新聞社は、嘘はつくしデマはバラまくし捏造はするし、倫理観や社会的責任感は皆無だし、国を売り飛ばすような売国的な立場を貫くし、本当にどうしようもない新聞社だが、それでも出版界から葬り去るわけにはいかないのは、たまにこのような世の中の本質を問うような鋭い問題提起をすることがあるからだ。今回、全国紙5社のなかで、高校国語の新学習指導要領について触れた社説は朝日新聞だけだ。

22年度実施の新学習指導要領再編によって高校の国語は、論理的・実用的な文章を扱う「論理国語」と、文学的な文章を扱う「文学国語」という選択科目に分けられることになった。これに対して多くの作家や研究者が「文学軽視につながる」と異を唱えている、というのが問題提起の内容だ。その背景には、全体の授業時間の制約や受験への配慮などから「論理国語」が優先され、「文学国語」を採用する高校は少なくなるとみる予想がある。

日本の国語教育は、長らく「文学的素養」と「論理的思考能力」の区分を曖昧にし続ける方針をとって来た。その最たるものが読書感想文だろう。僕は中学時代、夏休みの読書感想文に、作品として作りが甘い箇所や表現が稚拙な箇所、話の流れが強引すぎて不自然すぎる箇所などを列挙した「批評」を提出したら、国語の先生にこっぴどく叱られた。どうやら日本の中等教育では、読書感想文というのは「人生の素晴しい面を新しく知って感動した」という内容でなければならないらしい。それ以降、僕は夏休みの読書感想文には、電話帳や地図帳や料理本など、物語性が皆無なものしか書かなくなった。

高校までの国語では、「文章を書く」という指導がほとんど読書感想文だけに限られる。しかも書かせっぱなしでフィードバックは無い。論理的思考能力に基づく文章を書く訓練をほとんど行わないので、大学に入ってから学生が困惑する。レポートや論文を「読書感想文をめちゃくちゃ長くしたもの」と思っている。現在の大学では、そういう学生に文章の書き方を一から教える不毛な授業が必修科目になっている。

現在の国語教育でも一応、読むほうでは「論理国語」に相当する論説文を扱っている。しかし書くほうとしては壊滅的な状態と言ってよい。今回の新学習指導要領再編は、「『文学国語』を弾く」というよりは、「『論理国語』を確保する」という側面のほうが大きかろう。はっきり言うと、文学なんて書けなくてもいいのだ。しかし論理的文章は、読めて書けなければならない。その質的・量的な区分けを明確にしようとする再編だろう。僕は個人的にこの再編は必要だと思う。

小説家というのは別に論理的な文章を書く必要はない。自分の内的世界を過不足ない形で表現すればいいだけだ。事実、小説家というのは世の中の事象について評論させると頓珍漢なことばかり言う人が多い。善悪の判断でさえ信頼できない人もいる。一般的に小説家というのは「文筆に関する職業」というだけの理由で「知的な人達」、と思われているようだが、本来的に小説と論理的思考能力は関係ない。小説を書くために必要な感覚的整合性と、緻密に理論を紡ぐ論理的思考能力は、もともと種類が違うものだ。小説家が査読に耐え得る学術論文を書けるわけではないし、研究者の誰もが売れる小説を書けるわけでもない。

ところが日本の国語教育ではその両方が混在しているので、子供はその境目が曖昧なまま文章生活を送る。「本を読む」という行いを「勉強する」という行いと同一視して忌避する子供が多いのは、その証左だろう。小説家の多くが今回の新学習指導要領再編に反対しているのは、何のことはない、いま小説が売れないからだ。学校教育で「文学」を国語教育の軸に据えていれば、まだ夏休みの読書感想文等で強制的にでも読ませることができる。しかしもし「論理国語」「文学国語」と明確に区分し、しかも大学入試では前者のほうが重視される、とされてしまえば、子供の文学離れが加速する。おそらくその程度の危機感ではないか。

はっきり言って、「文学国語」は無駄だ。無駄だからこそ、学校でしっかり教えなければならないものだと思う。文学国語に限らず、高校で習うほとんどの教科というのは、実生活では何の役にも立たない無駄なものばかりなのだ。無駄だから、学校を卒業した後に自分から身につけようとする機会がほとんどない。学校で習った内容だけが、一生を通してその人の知的財産に留まってしまう、という人は多いのではなかろうか。学校教育というのは、そういう無駄な知識を、いかにたくさん吸収する機会を提供できるかにその根源的な価値がある。そういう無駄なことをたっぷり教えることのできる時間、人材、教材、環境のゆとりを整えていることが、文明国としての指標だと思う。
小説だって、何の教養も無い人が素手で読めるものではない。段階を追って、徐々に読み方を身に付けなければならないものだ。それを発育段階に従ってしっかり教えることができるのは、学校教育以外には有り得ない。

ほとんどの人は、「読む」という行為を十把一絡げに考えていると思う。論理的に他者の論評を読むことと、楽しみのために小説を読むという行為には、違う能力が求められていることを知らない。どちらが大事か、という話ではない。生きていく上では両方無駄なことだ。無駄だからこそ、それをしっかり教える唯一の機会である学校教育を充実させねばなるまい。



朝顔、枯れちゃった・・・。
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のびよまっすぐに

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支柱をつけました。



まるでジャックと豆の木のごたる

雷雨一過。

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あら、なんか元気がない。



きのうは凄い雷雨だった。地震もあったし。

今日はちょっとひんやりした天気

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密集してきたので鉢を分けました。
ソーシャルディスタンス。



違うか。

陽当たり良好。

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すくすくと育っておる。



ちょっと多くなってきたかな。

育つの早い。

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おおう。



み、3日前まで何も生えてなかったんだけどな

世間は連休中(ただし外出なし)

CIMG9511

すくすくと葉っぱが増えておる。



揃い過ぎたら間引きしなきゃいけないんだって
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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