たくろふのつぶやき

この夏、またしてもお化けを捕まえ損なった。

ワースト・オブ・社説

「高校の改革 生徒の将来に資する教育を」
(2018年09月15日 読売新聞社説)


なんとために書いたのか、なぜ書いたのか、全く分からない社説。屑ほどの値打ちもない。
久しぶりに徹底して有害無益な社説を見た。ここまで無能な社説だと、読売新聞は本当に学校を卒業した執筆者に社説を書かせているのか疑わしくなる。

問題提起の前提からして何を言っているのか分からない。

高校進学率は98%を超え、生徒全体の7割が普通科で学ぶ。多様化する関心や進路の希望に応えきれていない面がある。職業に関する内容も学ぶ総合学科が20年余り前に登場したが、生徒数は全体の5%程度にとどまっている。画一的になりがちな普通科の教育内容について、時代の変化に即した見直しが必要ではないか。



98%が高校に進学し、その7割が普通科。総合学科の生徒数は5%。
この数字から見えてくることは、「最近の生徒の進路志望は画一化している」ということだ。
どこをどう見たら「多様化する関心や進路の希望に応えきれていない面がある」などという問題提起が出てくるのだろうか。

論理の矛盾も甚だしい。

無論、高校生の基礎学力を全体的に底上げすることは大切だ。授業時間以外は机に向かわず、中学までの学習内容さえ、身に付けていない生徒もいる。

進学校では、受験対策に偏り、思考力や表現力を伸ばす教育が不足している、との指摘がある。先端的な科学教育や、グローバルな人材育成を目指す高校の授業内容の質向上は欠かせない。


「従来の授業内容を徹底して基礎事項をちゃんと教えろ」と「従来の教育はダメだから新しい教育をしろ」という、矛盾する要求をしている。
しかもその具体的な内容が無茶苦茶だ。

先端的な科学教育」って具体的に何のことだ。基礎的な理科の知識もない生徒にそんなこと教えて何になるのか。
さんざん「教育に多様性を」と主張しておいて、行き着く先の提案が「グローバルな人材育成」と来る。この文言しか知らないのか、というほどの馬鹿の一つ覚えだ。やたらと「グローバル」「グローバル」と連呼さえしておけば、それらしい提言ができたつもりになっている。しかし、その具体的な内容について知っている人は誰もいない。教育の画一化を批判しておいて、画一化された文言した使えない無能さを自ら露呈している。

社説にとって一番重要な「提言」のところで、「思考力や表現力を伸ばす教育」「先端的な科学教育」「グローバルな人材育成」など、実態がまったく伴わないマジックワードを書いて、読者を分かった気にさせようとしている。これらの言葉が実際に示している教育など無い。読者を無能無学とあざ笑い、「こういう言葉を並べておけばそれっぽく見えるだろう」と馬鹿にした文章だ。

米国では、大学レベルの授業を高校で履修できる仕組みが定着している。大学入学後の学力向上に結びつくとされる。日本でも導入を検討する価値はあるだろう。


マスコミの悪癖、「アメリカのやることは全て善い」の典型例。自分たちがやっておらずアメリカがやっていることをすべて「先進的」と盲信し、一切の思考を停止して追従する。
大学で教えていれば、そんな先取り教育がろくな結果にならないことは誰でも知っている。僕もアメリカの大学で、飛び級や早期入学してきた「秀才くん」たちをたくさん見てきたが、そういう学生が順調に伸びて充実した研究活動を続けた例は全く無かった。

しかも、そういう先取り教育が「大学入学後の学力向上に結びつくとされる」。
そんなこと誰が言っているのか。そんなことを示す具体的なデータがあるのなら見せてもらいたい。なにが「・・・とされる」だ。受動態で行為主をごまかさず、根拠となる一次資料と出典を示さなければ、単なる読売新聞の妄言だ。「文章を書く」ということに、これほど無責任な姿勢もなかろう。


かように支離滅裂で無意味な社説を掲載した読売新聞の意図は何なのか。
つまるところ、「助けて!農村から若い人が出て行くの!」という地方自治体の悲鳴を反映しているのだろう。読売新聞の購買層は、地方の第一次産業従事者の保守層だ。高校を卒業すると、若い人がみんな都会に出て行ってしまう。地元に残って地元のために働こうという若者がいない。そういう「購買層の悲鳴」に斟酌した提灯記事に過ぎないだろう。

注目されるのは、地域と高校の連携が広がっていることだ。長野県では、高校が企業や大学の協力を得て、生徒が地場産業や地元の課題について学び、職場体験や商品開発に取り組む授業を進めている。県内の企業への就職率が向上する効果も出ている。

文部科学省は来年度、人口減が進む地方を中心に、高校を拠点とした振興事業を進める計画だ。地域研究や実践的な職業教育を行う高校など約50校を対象にする。高校時代に地元で働く大人と交流し、故郷への貢献について考える。その経験は、いったん県外に進学する生徒にも有益だろう。


読売新聞の本音は、ここだけだ。
しかし、地方の過疎化問題と人口流出問題の解決策を、「教育のせい」だけに押し付ける考え方には無理がある。若者が都市に流出する現象は、経済と社会を包括する根源的なシステムや、若者の趣味趣向の問題であって、教育の問題ではない。教育をなんとかすれば人口流出が防げる、というのは考えが甘過ぎる。

しかもその提言が読売社説の内容自体に矛盾している。 仮に地方の中学・高校で、若者の都市流出を食い止めるべく、地元密着・地域連携の教育施策を行ったとしよう。それのどこが「先端的な科学教育」「グローバルな人材育成」なのだろうか。地元に根ざした極地的・ミクロ的な教育内容は、当の社説が高らかに謳い上げている「教育の未来像」とは正反対だ。

問題提起そのものも矛盾している。要するに困っていることは「若者が地元を捨てて都会に流れる」という傾向のことだろう。若い人達がみんな町から出て行ってしまう。それのどこが「多様化する関心や進路の希望」なのだろうか。都会で働きたい。大学に行くなら都会の大学がいい。若者の希望は、きちんと画一化しているではないか。この社説が出発点としている問題提起は、「そもそも最初からそんな問題は起きていない」で一蹴できる。

今回の読売社説がわけ分からない理由は、すべての段階で論旨が破綻していることにある。問題提起が自己矛盾、状況に対する施策も矛盾、提言は適当きわまりなく無責任。これほどひどい社説もなかなかお目にかかれない。作文が苦手な中学生だってもうちょっとまともな文章を書くだろう。



まぁ、たくつぶのネタになる程度の役には立つか。
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医学入試点数操作問題

「医学部の入試状況調査 男子優位はやはり不自然」
(2018年9月6日 毎日新聞社説)
「医学部入試 明確な基準で良い医師を」
(2018年9月6日 産経新聞社説)
「医学部入試 公正かつ明確な選考基準を」
(2018年09月05日 読売新聞社説)


東京医科大が、入学試験の得点を操作し、女子学生に不利な採点をしていたことが摘発された。それに関する社説。
事実報道として見ると、産経新聞の社説が役に立つ。一方、提言としての社説を評価すると、読売新聞が頭一つ抜けている。

この件が問題なのは、件の事例が東京医科大だけに限らず、どの大学医学部でも起きていた問題らしい、ということだ。その側面を明らかにしただけでも産経新聞は一定の仕事をしている。ところが、この件を「だから医学部はしっかりしろ」というだけでは、ことの解決にはつながらないだろう。

読売新聞の社説の要点は、「これは大学医学部だけの問題ではなく、日本の医療システム全体の根幹に関わる問題だ」という視点をもっていることだ。医学部の入試採点操作は氷山の一角であり、入試採点の透明化を訴えるだけでは単なる対処療法に過ぎない。その点、提言を「入試」に絞っている毎日新聞は説得力に欠ける。

産経新聞の言う通り、医学部全体で「男子を採る」という傾向があるのは明らかだろう。問題は「なぜそうなっているのか」だ。
単純に考えると、「その方が都合がいいから」「女性が必要な事態になっていないから」というあたりが現場の医療関係者の言い分だろう。その言い分が妥当かどうかの問題ではなく、事実としてそういう感覚が根っこにあると思う。

「その方が都合がいいから」という背景には、女性医療従事者の離職率の高さがある。結婚、出産、育児などで一時的にせよ離職するということは、病院側にとっては「余計な人員補充」が必要になる、ということなのだろう。「女はどうせ辞める」という観念が、医療現場から女性を締め出そうとする機運の背景にあると思う。

いくら「そんなことは許されない」「今はそんな時代ではない」と力こぶをつくっても、現実として医療現場ではそういう状況に対処できる体制がつくられていないのだろう。専門技能が必要な特殊な職業でもあり、安易に「休職し、戻る」という人材システムが構築されていない。

「女性が必要な事態になっていないから」という考え方には、世の中の推移に人の感覚が追いついていない時代錯誤を感じる。日本は他国と比較にならないほどの高齢化社会であり、かつ医療福祉が充実している。病院の人材不足と医者のブラック勤務はもはや社会問題だ。「医者が足りない」というのは日本全国に共通した問題であり、そこから女性を排除するのは理にかなっていない。

そもそも、女性はどういう時に社会に進出してきたのか。
一橋大学の2010年、世界史の入試問題で、女性参政権の歴史を問う問題が出題されている。

(2) アメリカ合衆国以外の各国においても、この1920年前後に、女性参政権が実現した国々が多い。なぜこの時期に多くの国々で女性参政権が実現したのか、その歴史的背景を説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい(350字)。

クリミア戦争 総力戦 ウィルソン ロシア革命 国民
(一橋大学 2010年 [2] )


「国民」なんていう普通名詞を指定語句にしているあたりが一橋らしいが、この語句から想像する限り、一橋大学の考えとしては女性参政権拡大の契機となったのは「クリミア戦争」「第一次世界大戦」「ロシア革命」の3つということだろう。

クリミア戦争」といえばナイチンゲール。地獄のような泥沼の戦場で医療行為の従事し、戦場での致死率を劇的に下げることに貢献した。ヴィクトリア女王が彼女の医療行為を全面的に支援したこともあり、国民の間での認知度も高かった。「女性が戦場で活躍している」という事実は、女性の地位向上に大きく貢献しただろう。

「第一次世界大戦」については、日本と欧州各国では捉え方が異なる。日本にとって地獄の戦争とは第二次世界大戦下の太平洋戦争だったが、欧州各国では第一次世界大戦のほうが犠牲者が多い。国民を総動員する総力戦で、社会的な消耗もはるかに大きかった。国民総力戦 にはもちろん女性も動員され、工場や生産など「銃後の貢献」によって当時の戦況を支えていた。

ロシア革命」が女性の地位向上に果たした役割は、わりと盲点だと思う。社会主義革命においては、対立構造は「ブルジョア」と「労働者」しかなく、性別間や民族間の差別意識は無い。1918年、ソヴィエト政権は世界で初めて女性参政権を実現させた。「労働者であれば男女の区別はない」という考え方だ。

この画期的な社会改革は当時の欧米諸国に衝撃を与え、「自分たちのほうが先進的」という対抗意識によって次々と女性参政権が実現する。1918年にはイギリス(30歳以上の女性限定)、1919年にはドイツ、1920年にはアメリカでウィルソン大統領が女性に参政権を与えている。
現代的な視点では「大失敗した社会実験」扱いされている社会主義革命が、現在につながる社会システムをいち早く実現させていたのは、歴史の皮肉だろう。

これらの歴史を顧みると、女性の社会的地位は「歴史が女性を必要としている時に、女性の地位は上がる」という経緯があることが分かる。クリミア戦争や第一次大戦はその範疇だろう。
ところがロシア革命に関してはそうではない。イデオロギーが先にあり、現実をそれに沿わせた「方策」によって女性参政権が実現している。

ロシア革命下で女性参政権が実現したのは、「選択」の問題であって「善悪」の問題ではない。女性が政治に参加できないのが「悪いこと」だから参政権が認められたのではなく、当時のソヴィエト政権は「女性も政治に参加する国づくりをする」という「選択」を行った。
現在の日本では、その「選択」という意識が希薄なのだと思う。これは日本の歴史教育において最も欠けている視点だろう。

たとえば、「男女平等の理念」を高らかに掲げて、イスラム諸国における女性の地位を非難する人がいる。女性を家庭に縛り付け、社会的な進出を阻むのはけしからん。そういう理想論者が後を絶たない。
しかしイスラム諸国の理念をよく調べてみると、砂漠気候の高温という過酷な自然環境において「女性を守り、女性に負担をかけない」という原則が出発点になっている。子供を生んで育てるという過酷な仕事に集中してもらうため、生活のための労働を「免除する」という感覚が大元にある。

誤解している人が多いが、イスラム諸国は共産主義が多い。誤解の根源は「社会主義」と「共産主義」の違いを理解していないことだ。
「共産主義」というのは、極論すると「働かなくても皆が食べていける」という理想状態のことだ。医療、教育はすべて無料。ベーシックインカムが保証され、国民の生活はすべて国が保証する。

イスラム諸国は、豊富な原油資産によって、共産主義を実現している国が多い。別にマルクス主義を信奉しているという意味ではなく、社会システムとして国民の生活が保証され「報酬は労働の対価」という概念が薄い。イスラム諸国だけでなく、リン鉱石の対外輸出によって「誰も働かない国」として有名だったナウルも「共産主義国」の一例だ。

そういう国々では、誰も好き好んで働こうとしない。だから政治は仕方なく王族が担うことになる。世界史で共産主義革命を勉強した頭では「共産主義国で王制が残存している」というのは矛盾に見えるが、それはマルクス主義が掲げる共産主義革命の部分しか見ていないだけに過ぎない。

一方、「社会主義国」というのは、共産主義をめざす過渡的な段階の国々を指す。本来的には共産主義体制を確立したいが、現実的な問題として国がそこまで豊かではない段階だ。だから国による強力な統制を必要とする。国民全体が福祉を享受するためには、国民全体が政治体制を支えなければならない。現実可能性はともかくとして、理屈は合っている。
実際には、理想と現実のギャップがありすぎ、社会主義国が自転車操業に陥り、次々と崩落したのは歴史が示す通りだ。

実際には出発時の理念と乖離している部分はあるだろうが、基本的にイスラム諸国が女性を社会に出さないのは「する必要がなかったから」なのだ。それはイスラム諸国が行った「選択」であって、歴史や社会的背景を超越した「善悪」の問題ではない。背負った歴史や社会背景が違う立場から「女性の社会進出を阻むのはけしからん」と口を出せる問題ではないのだ。
善悪の判断というのは、何をもって「善」とするのか、最終的には価値観の問題になる。自らの立場を絶対的なものと勘違いし、価値観の違う人達に「間違っている」と偉そうに指摘するのは、歴史的素養の不足を露呈しているに過ぎない。

その「歴史的素養の不足」の裏返しが、いまの日本で起きてはいないか。
日本は欧米的な価値観に追従し、女性が社会に進出し活躍する世の中を善しとする価値観を「選択」した。しかし、その「選択」に見合うほどの覚悟をもって社会システムを構築しようとする意識が低過ぎる。

日本にも、女性が活躍して国を支えた時期があった。
日本の産業革命は軽工業から始まったが、その担い手は主に女性だった。1872年に富岡製糸場が操業を開始し、そこから全国に軽工業の産業体制が広まった。そこから得られた外貨によって日本が軍国主義の基盤を整えたのは常識の範疇だろう。

しかし、日本の婦人参政権が実現したのは1945年、太平洋戦争の後だ。いくらなんでも時間がかかりすぎている。しかも自発的に制定したというより、GHQによって草案が作られた新憲法のもとでの実現だった。太平洋戦争レベルの外圧があって、アメリカの圧力があって、ようやく実現した観がある。

かように日本という国は「国のシステムを大きく変える」という必要性に、鈍いのだ。産業革命期から大戦期まで、女性の力が必要でなかったわけではない。女性が国に貢献していなかったわけでもない。しかし「今までそうだったから」という慣性にどっぷり嵌り、現実的には不備が生じていても、体制を変えようとはしない。

加えて、日本は「男女は平等に社会に貢献する」という価値観を、すでに選択している。イスラム諸国とは違うのだ。だから、仮に女性が社会に貢献できない側面があると思い込んでも、理念として男女の平等を実現する義務がある。
実際の病院現場でも、女性を排除して男だけで現場を回した方が手っ取り早いという側面があるのかもしれない。しかし、だからといって制度上それを固定化するような施策は許されない。

実際のところ、女性が出産や育児で職場から一時的に離脱することを「社会貢献できない」と見なすこと自体、病院という企業体の利益しか考えていない偏狭な考え方だ。子供を生み、育てることのどこが「社会貢献してない」のだろうか。

実際のところ病院は経営が苦しいのかもしれないが、目先の利益に捉われて、自らが選択した社会理念に反する施策を採り続けるのは、病院経営者の怠慢だろう。女性が出産・育児で離脱するのであれば、その離脱を計算に入れた上での人事シフトを構築しなければならない。

極論すれば、医学部の入試点数操作の一件は、医学部の問題ではなく、病院経営者の怠慢が日本の医療現場にもたらした現状が問題なのだろう。入試点数操作は、その病理が表にあらわれた現象のひとつに過ぎない。医療というのはひとつの社会システムであり、その根本的なシステムを、自らが選択した理念に沿って構築できないのであれば、その組織が社会的に認められる資格はない。

日本は社会システムの構築を後回しにし続け、戦争で大きなツケを支払う羽目になった。今の日本でも、女性の社会進出のシステムを適切に構築する努力を後回しにし続けるようだと、数年後にその大きなツケを支払う羽目になると思う。少数の労働力が大量の高齢者を支える時代はすぐ目前に来ている。女性の力なしにその事態を乗り切れると思っているのなら、小学校からの歴史の勉強を一からやり直す必要がある。



歴史の時間に何を勉強してたんだ。
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自分に合わせる

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便利でなければ流行らない。

非制限関係代名詞

(A)「彼女は金髪だから、好きというわけではない」
(B)「彼女は、金髪だから好き、というわけではない」

ふたつの文は、音にすれば同じ読みだが、意味が正反対になる。
(A)は「彼女が嫌い」という意味。その理由は「金髪だから」。おそらく黒髪フェチの発言だろう。
一方(B)は「彼女が好き」という意味だ。彼女のことが好きなのだが、その理由は別に彼女が金髪だからというわけではなく、他にもいろいろと理由がある、という意味。こちらのほうは(A)と違い、金髪萌えの発言になる。

文をどこで切るのか、によって意味が変わってしまうことがある。
英語に「非制限関係代名詞」(non-restrictive relative clauses)というのがある。文法用語が理解を妨げている最たる例で、この文法用語を正しく理解している学生は少ない。

中学3年生で関係代名詞を導入するとき、「ふたつの文をひとつに合わせる用法」と教える教師がいる。例えば

I met the girl yesterday.
The girl is my cousin.

というふたつの文を出し、それを

The girl [ who I met yesterday ] is my cousin.

というふうに繋げる用法、と教える。

個人的には、そういう教師は教員免許を返上して退職してほしい。関係代名詞なんて、放っておけば高校生や大学生になってからも理解があやふやな学生が多い。その根源を辿ってみると、そもそも「なんのための用法だか分からない」という、最初の段階でつまずいている学生がまことに多いのだ。関係代名詞を最初に導入する中学の英語教師は、ことの深刻さを理解しているのだろうか。

「I met the girl yesterday」と「The girl is my cousin」というふたつの文を合わせた意味を伝えたければ、単純に「I met my cousin yesterday」と言えば済む話なのだ。それを「The girl [who I met yesterday] is my cousin」などと、もって回った表現をさせようとするから、わけが分からなくなる。僕も中学時代、英語の先生に「こう言えばいいだけの話じゃないですか」と質問して、えらく怒られたことがある。

つまり、関係代名詞を理解していない学生の根源的な理由は、「なぜそんな言い方をしなければならないのか分からない」というところにある。もっと簡単な言い方ができるなら、そうすればいいじゃないか、という、至極もっともな理由だ。この学生の疑問にきちんと答えられなければ、英語教師として失格だろう。


意味論的には、関係代名詞節というのは「ふたつの述語表現の交わりを表現するもの」だ。
正確には、「個体変項をとる集合同士の共通部分に属する領域を示すもの」だ。

「女の子」という表現を考えると、この意味するところは、「世の中に存在する女の子の集合」にあたる。その集合に属する「誰か」の話をしたいが、このままでは集合がでかすぎるので、特定の女の子を示すために集合を「絞る」必要がある。

そのために、「私が昨日会った人」という別の集合をかぶせる。すると「女の子の集合」と「私が昨日会った人の集合」の共通部分が抽出される。それが特定可能な個人であれば、冠詞のtheがつけられる。

この「集合を『絞る』」という意味操作を、文法用語で「制限」(restriction)という。「女の子」の集合の要素から、「『私が昨日会った』女の子」に、集合を「制限」するわけだ。
これが、いわゆる「普通の関係代名詞」、正確には「制限関係代名詞」(restrictive relative clauses)の意味機能だ。

まずこれが分かっていないと、「制限関係代名詞」が分からない。非制限関係代名詞のほうは、別に集合を絞る意味操作をするのではなく、単純に文をつなげる接続詞としての役割を果たす。「集合を『制限する』のではない」から「非制限」だ。

(C) I talked to a girl in the cafeteria who I have loved so long.
「カフェで、長いこと心を寄せている女の子に話しかけた」
(D) I talked to a girl in the cafeteria, who I have loved so long.
「カフェである女の子に話しかけたのだが、私はその子のことがずっと好きなのだ」

(C)が制限、(D)が非制限の用法だ。
わかりやすく対称性を考えると、(C)ではカフェに何人かの女の子がいたが、(D)では彼女ひとりしかいなかった、とすると分かりやすい。(C)では「女の子」といっても何人かの可能性があるので、それに「私がずっと好きな人」という情報をかぶせて、女の子の範囲を「制限」している。「この女でもあの女でもなく、『私が好きな女の子』に話しかけた」という意味だ。
ところが(D)ではそういう「集合の絞り込み(制限)」をしているわけではなく、単に「ひとりの女の子」のことを話題にしている。それに接続詞のように文をつなげて文を続けているだけだ。


(E) There were few passengers who escaped the accident.
「事故から逃れた乗客は、ほとんどいなかった」
(F) There were few passengers, who escaped the accident.
「乗客はほとんどおらず、彼らは事故を免れた」

(E)は大惨事、(F)は幸運だ。
ふたつの文では、fewが修飾している名詞句が違う。(E)では、「事故を逃れた乗客」がほとんどおらず、(F)では単に「乗客」がほとんどいない。カンマひとつで、文全体の意味が正反対になる。


(G) They are not patriots who agree with nuclear weapon.
「彼らは『核兵器に賛同する愛国者』ではない」
(H) They are not patriots, who agree with nuclear weapon.
「彼らは愛国者ではない。なにせ核兵器に賛成しているのだ」

(G)では核兵器に反対、(H)では核兵器に賛成している。
これらの文では、notが否定している名詞句が異なる。(G)では「核兵器に賛同する愛国者」を否定しており、(H)では単に「愛国者」を否定している。


カンマひとつで文の意味が変わってしまうことは、『ゴルゴ13』77巻の『隠されたメッセージ』という話に使われている。

アラブ諸国に武力行使したいアメリカは、イスラエルに核保有させることを目論む。当然、国際世論の反発が予想されるため、アメリカとイスラエルは形式上、「イスラエルの核保有を凍結する」という和平協定を結ぶ。ところが協定の条文には、内容が真逆に解釈できるような文法上のトリックが埋め込まれており、協定締結後にイスラエルの核保有が可能である仕掛けになっている。
その阻止を依頼されたゴルゴ13は、「内容が真逆になる文法上のトリック」が、ひとつのカンマにあることを突き止め、条約締結の直前に文書のカンマひとつを撃ち抜き、協定を無効化する。


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書くときにはカンマひとつの違いだから分かりにくいが、話すときには文が一旦切れるのであまり間違えることがない。文法事項の中でも「聞くよりも読むほうが難しい」という、珍しい例だろう。
「制限」「非制限」という文法用語は、語弊があることは確かだが、無意味につけられた用語ではない。「文法を理解する」ということは、その意味はもとより、使う状況や文脈までも包括して覚えなければ「使える知識」には昇華しないだろう。 



日本語には関係代名詞がないからねぇ

ハーメルンの笛吹き男

このところ、ドイツの古い民話や童話を読み返している。
グリム童話『ドイツ伝説集』の中に、「ハーメルンの笛吹き男」という話がある。


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1284年、ハーメルンの町にはネズミが大繁殖し、人々を悩ませていた。ある日、町に笛を持ち、色とりどりの布で作った衣装を着た男が現れ、報酬をくれるなら街を荒らしまわるネズミを退治してみせると持ちかけた。ハーメルンの人々は男に報酬を約束した。男が笛を吹くと、町じゅうのネズミが男のところに集まってきた。男はそのままヴェーザー川に歩いてゆき、ネズミを残らず溺死させた。しかしネズミ退治が済むと、ハーメルンの人々は笛吹き男との約束を破り、報酬を払わなかった。

笛吹き男はいったんハーメルンの街から姿を消したが、6月26日の朝に再び現れた。住民が教会にいる間に、笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩いていくと、家から子供たちが出てきて男のあとをついていった。130人の少年少女たちは笛吹き男の後に続いて町の外に出てゆき、市外の山腹にあるほら穴の中に入っていった。そして穴は内側から岩でふさがれ、笛吹き男も子供たちも、二度と戻ってこなかった。物語によっては、足が不自由なため他の子供達よりも遅れた1人の子供、あるいは盲目と聾唖の2人の子供だけが残されたと伝える。


ドイツの民話を編集したグリム兄弟は、本職は言語学者で、童話の編集にも綿密な取材をしていたことで知られている。単なる噂話を集めただけの童話集ではない。
だとしたら、この「ハーメルンの笛吹き男」も、当時の何らかの社会現象をモチーフにしたものだろう。童話通りの事件があったとは考えにくいが、かといって全く事実と無関係でもあるまい。

笛吹き男によって連れ去られたのはふたつある。「ネズミ」と「子供たち」だ。
そのうち、「ネズミ」については分かりやすい。14Cに大発生した黒死病(ペスト)のことだろう。ヨーロッパの人口を1/3も激減させた大災害だった。イギリス・フランスでは百年戦争の最中だったこともあり、当時の社会のあり方を変えてしまうほどの衝撃だった。

ハーメルンの笛吹き男によってネズミが「連れ去られた」ということは、なにか「ペストを避けるための行動」が反映されていると考えられる。
また、最終的に行われたことは「子供を連れ去る」ということなので、これは何らかの民族的な空間移動が起きたということだろう。

以上、「ハーメルンの笛吹き男」が行ったことを考えると、それが暗喩していると思われる状況は以下の通り。

・ネズミを連れ去った → ペスト回避
・子供を連れ去った → 住民移動
・「子供」→ 権力階級ではなく、若年世代・被支配階級の移動
・「連れ去る」→ 自発的なものではなく、仕方のない事態
・足の悪い子供、盲目と聾唖の子供が残る → 健常者が必要

これらを合わせると、中世当時のドイツで生じたひとつの状況が思い浮かぶ。


東方植民。
11〜12世紀、農業の発達によって人口が増え過ぎ、大開墾時代が始まった。各地で森林や原野が開拓され、農地の不足が生じた。食い扶持を減らすため、当時のドイツでは人口抑制政策が必要となった。
また当時のドイツは閉鎖的な社会で、領主への賦役・貢納を農民を苦しめていた。そのためドイツよりも有利な場所へ移住することを希望する人達が多かったとしても不思議ではない。未開拓のドイツ、特にエルベ川より東の地域は、当時のドイツ農民にとって狙い目の移住地だっただろう。

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さらに、11世紀から始まった十字軍が「東方への移動」を後押ししていた。第三回十字軍はちょうどドイツ東方植民の移動路に沿っている。この十字軍から、いわゆる「ドイツ騎士団」が発生し、東方植民の流れに沿ってバルト海沿岸に進出し、ドイツ騎士団領を形成する。のちのプロイセンの原型だ。


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偶然とは思えない。


東方植民によって未開の地に移動したドイツ農民の活躍は目覚ましい。農業の進展は商業の発達を促し、ハンザ同盟を中心とする都市型商業形態が確立した。ハンザ同盟は海運の利を活かして北海・バルト海の覇権を握るに至り、リューベック、ダンツィヒなどの都市を支配下に収め、北ヨーロッパを掌握した。


ここまではいい。「ハーメルンの笛吹き男」がドイツ東方植民を暗喩しているのは納得がいく。
僕が不思議なのは、その童話が、「なんとなく暗いイメージ」で描かれている点だ。

未知の土地への進展・開拓。その後の大発展。そういう冒険活劇は、普通もっと勇ましいイメージで描かれるものではあるまいか。しかし「ハーメルンの笛吹き男」は、黒魔術的な呪術で「連れ去られた」という暗いイメージで描かれている。メイフラワー号で勇ましく新大陸に渡ったピューリタンとはえらい違いだ。

それは、東方植民がその後ろくな結果を生まなかったことを示している。「行かなければよかったのに、あぁ…」的な、歴史を顧みての「後悔」が反映されているような気がしてならない。

ドイツ東方植民は、ハンザ同盟の覇権という形で一応の成功を収めた。しかし、その栄光は長くは続かない。
15世紀の大航海時代に入ると、世界史の様相が一変する。新大陸の発見によって、経済の中心がヨーロッパ内部から、アジア・アメリカ・アフリカを包括した広域圏に拡大する。アメリカ大陸から大量の銀が流入して価格革命が起こり、従来の商業圏は大打撃を受けた。

東方植民によって形成されたエルベ川以東の地域は、もともと農業上の必要性があって開拓された地域だ。だからどんなに商業圏が発達しても、その基盤は農業にある。だから東方植民の地が西欧経済から期待される役割は「農産物の供給源」だった。大航海時代の価格革命によって商業的な命運を断たれた地は、農業生産地としての役割に先祖帰りせざるを得なかった。

一般的に、経済的な役割が後退した地は、政治的な段階も後退する。本来は自由な社会生活を夢見て行われたはずの東方植民は、「農業生産の必要性」という経済的後退によって、社会制度も中世的な封建制度に後戻りする。

本来は自由を求めたはずの移民なのに、いつのまにかその中で階級差が生まれ、地主貴族(ユンカー)が発生する。ユンカーは立場の弱い農民から保有地を奪って領主直営地を拡大し、農民に賦役労働を強制して農奴の身分に墜とした。こうした先祖帰りした農場領主制を「グーツヘルシャフト」という。農奴制から逃れて東方植民したはずなのに、その先で同じような農奴制を作っていれば世話はない。

一方その頃、西欧世界では農奴解放が進み、都市型経済が順調に発達した。保守的だった土地では自由が生まれ、自由を求めた東方植民では封建制に逆戻りする。自由を求めたはずの東方植民が、移動した先で従来と同じような封建制をつくりだす。
歴史の皮肉というか、人間というものは放っておけばこういう性質をもつ生き物なのだろう。

その結果、近世のエルベ川以東は、先進的な西欧世界を食料供給によって支える「周辺的な従属地域」という立場に置かれることになった。これは1970年代にアメリカの歴史家ウォーラーステインによって提唱された「近代世界システム」という考え方だ。中核として経済・政治中心地があり、その周縁に商業圏が広がり、さらにその外側に食料・奴隷供給の被支配権が広がる。

面白いのは、その傾向がヨーロッパに限らなかったことだ。もともと近世というのは、ヨーロッパ、イスラム、中国という「三大文化圏」が瓦解し、「国」としての単位が萌芽する段階にあたる。しかしどの文化圏でも、細切れに発生した各地域は独立した平衡関係ではなく、何らかの「支配」「従属」関係の上で成り立っていた。イスラムではカリフ時代から続く主従関係があったし、東アジアは中国への朝貢関係によって地域関係が構築されている。

ふつう、でかい単位が崩壊して小さい単位に分かれたら、「支配」から「自由」に進んだと考えるのが普通だ。しかし世界史的にはまったく逆で、小さい単位になってから「支配関係」が強化されている。近世というのは、そういう事態が同時発生的に世界中で起きていた時代だった。偶然とは考えにくい。

「ハーメルンの笛吹き男」が暗い調子で描かれているのは、東方植民という「自由への逃避」が、逆に中世的な封建体制に逆戻りする事態を招く歴史的結果を暗示しているのではあるまいか。東方植民の地はのちのプロイセンとなってドイツ建国の中心的役割を果たすが、11月革命によってホーエンツォレルン朝は廃位、ワイマール共和国となって以降は第一次世界大戦に敗北、ナチスが第三帝国を称して再建を期すも第二次世界大戦に大敗、とろくな歴史を辿っていない。


グリム兄弟が生きたのは、18世紀後半から19世紀半ば。ビスマルクよりも前の時代だ。当時はまだドイツの歴史がどうなるか分からなかった時代だ。しかしグリム童話の「ハーメルンの笛吹き男」の暗い調子は、世界史的にドイツが暗い歴史を辿ることになることと一致している。

当時のグリム兄弟がそこまで世界史的な予知をしていたとは思わない。しかし東北植民というのはドイツの歴史において決して輝かしいものではなく、むしろ「呪われた土地」という印象があるような気がしてならない。  



民話や昔話は何らかの歴史を反映している。

構造を逆に見る

建物内で誰かを捕まえる必要があるときには、どうするか。

 

chinmi



やみくもに逃走者を追いかけるのは、効率的ではない。
建物にいる以上、外に出るには出口を通るしかない。つまり、最初にやるべきことは「出口をすべて塞ぐこと」だろう。出口さえ塞いでしまえば、その内部で動き回るしかないので、捕まえられるのは時間の問題だ。

これに似たような考え方は、思いのほか適用範囲が広い。つかまえるべき要素を闇雲に追い回すより、「最終的にここさえ張っておけば間違いない」というポイントを掴むほうが効率的、ということは思いのほか多い。


xy平面上の原点と点(1,2) を結ぶ線分(両端を含む)をLとする。Lとy=x2+ax+b が交点を持つような実数の組(a,b)の集合をab平面上に図示せよ。


2005年、京都大学の問題。


京都大学にしては簡単な問題だが、まぁ文理共通問題だからこの程度だろう。
数学慣れしていない学生には、x, y, a, bと文字が4つも出てくるだけでうんざりするだろうが、まぁ、京都大学にとっては簡単なジャブ程度の問題だと思う。

示せばならないのは要するに実数条件だ。形としては「Aとなるような、Bの条件を求めろ」という問題。おおむね数学の問題では、Aには「パラメータ(tとか)入りの関数」が入り、Bには「その関数が実数解をもつようなパラメータの条件」が入ることが多い。

この京都大学の問題ではちょいとひとひねりしてあって、パラメータがa, bと2変数になっており、示す条件が単純な範囲ではなく領域になっている。まぁ、変数が1つであれば一次元上の範囲で条件が求まるが、変数が2つなので二次元上の平面で示す必要がある、というだけの話だ。


さて、こういう形の問題は数学に限らない。
「AがBとなるような、Aの条件を求めろ」というだけなら簡単だ。「Aは、こうすべきである」という直接的な制約を求めればいい。「ぐうたらな男が働くようになる条件を求めろ」というのであれば、「男を蹴っ飛ばしてむりやり働かせる」という直接攻撃をかければいい。

しかし、そうやってAに直接的に条件をかけても、実際に効果があるかどうかは定かではない。そこで実際には、「Aを構成する具体的な要素」を操作することが多い。たとえば男が働くようになるための要素として「給料」「ごほうび」「女」「ごはん」などという要素を並べる。こういう、Aを動かす要素(=Aに内在する変数)のことを「パラメータ」という。

すると問題は、例えば「ぐうたらな男が働くようになる、妥当な給料の額の条件を求めろ」というように、問題が変わる。先ほどの問題では「男をどうすればいいか」だったのが、「給料の額をどうすればいいか」となる。
パラメータの特徴は、操作が簡単なように、変動する数値で表せることだ。「男を働かせる」という事象Aは客観的に効果の有無がはかりにくいが、「給料の額」というパラメータは数字で簡単に操作できる。まぁ、京都大学の出題の意図としては、「将来、ヒモの男につきまとわれたときに、ちゃんと男を鍛えて働かせることができますか」といったところだろう。



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冗談です。


さて京都大学の数学に戻ると。
関数であれば、入力と出力を備えた構造になっている。通常はxが入力でyが出力だ。普通、いじらなければいけない事象Aがこういう構造をしているとき、入力条件とそれに伴う出力結果を考えることが多い。
この問題の場合、そういう正攻法で解こうとすると、a, bというパラメータが入っているため、考えるのが面倒だ。そういう時は、どうすればいいのか。

集合論や関数の考え方に、「逆像法」という考え方がある。一部の受験参考書では「逆手流」と呼ばれている。関数や集合などの写像関係を、出力の側から逆に条件を求める考え方だ。
普通、関数というものは「入力をすれば、出力が出てくる」という一方通行になっている。これを逆に、「この出力が出てきたということは、入力はこれに違いない」という逆方向に見る考え方だ。正確に言うと、従属変数として値域を求めるのではなく、独立変数として定義域を求める方法だ。

クラスに気になる女の子がいるとする。お付き合いを願いたいが、どういう男が好みなのか分からない。どうすれば彼女の好みが分かるか。
求めたい「彼女の好みの男の集合」をBとしよう。そして「彼女の元カレの集合A」を考える。まぁほとんどの場合、集合Bは集合Aを部分集合として包含する構造になっているだろう。「好みのタイプの集合」の中から「彼氏」を選ぶ構造だ。

集合Aの要素、つまり個々の元カレをいくら詳細に検討しても、集合Bを導くのは難しい。そういう時は、先に集合Bを仮定し、元カレがその中に入っているのかどうかを検討したほうが早い。
Bを「メガネの男」としてみると、その中に集合Aの要素(元カレ)が入っていればマル。
Bを「マッチョな男」としてみると、その中に元カレが含まれていなければバツ、といった具合だ。

つまり逆像法とは、「出力をこう定めてみたときに、入力の要素がその中に含まれているか」という方向で考える。入力→出力、ではなく、出力→入力、という検討のしかただ。
関数というのは、単なる対応関係とは異なり、方向性がある。その方向性を「逆」に考えるから「逆像法」だ。


京都大学の問題では
Lは要するに y=2x (0≦x≦1)のことで、これとy=x2+ax+bが共有点をもつということは、yを消去して
2x=x2+ax+b、つまり
x2+(a-2)x+b=0 … (1)
が0≦x≦1で実数解xをもつ(a, b)の条件を考えればよい。

この考え方ができた段階で、この問題はほぼ終わりと言ってよい。「ふたつのグラフが共有点をもつ」を、「ふたつをつなげた関数が実数解をもつ」と言い換える。つまりyという出力を条件として言い換え、それが関数として成り立つそもそもの条件を求めればいい。
あとはそれを実際に確認するための「作業」であって、ひとつずつ可能性を潰せばよい。
f(x)を平方完成して軸を求め、

(i) 0<x<1に実解がひとつ、その他にひとつ解がある
(ii) 0<x<1内だけに解がある(ふたつ、あるいは重解ひとつ)
(iii) x=0, 1が解である

の3通りに場合分けして、その3つから得られる条件を図示すればいい(詳しい回答はコチラ)。


建物内で侵入者を捕まえるときでも、女の子の好みのタイプを推測するときも、数学の関数問題でも、「最終的にどうなればいいのか」という大枠の形から逆算して方法を抽出するやり方は、汎用性が高い。一般的に手段は目的から逆算して求まるが、それと似たような考え方だろう。「結果に関係ない過程は辿る必要がない」と考えるとわかりやすい。無駄を省くために有効な考え方だと思う。




夏休みはこーゆーいらんことばっかり考えてしまいますな。

ここはドイツ。

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1.5L。

からくり時計

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ミュンヘン市庁舎。



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を見る人々。


世界のTシャツ

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14枚め。

国際都市の駅

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当然のようにターミナル。

北に来たはずなのに

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暑くなってるのはなぜだ。

日本と違って

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サッカーに詳しい記者が
サッカーについて書いてる。

30%

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くらいしか聴き取れない。

北へ。

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国境を越えるのだ。

自転車可。

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スポーツ用品という認識。

ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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