次の二種類の教師は、どちらが「優秀」だろうか。
どちらのタイプもよくいる教師像だろう。(A)のような昭和的スポ根指導者も、(B)のような友達感覚指導者も、どの年齢層、どの教育段階においても見られる二極区分だと思う。
はたして自分なら、どちらの指導者に教わることを希望するだろうか。
『セッション』(Whiplash, 2014)
アメリカ最高峰の音楽学校、シェイファー音楽院を舞台としたヒューマンドラマ。ジャズに打ち込む音楽院の学生とそれを指導する厳格な教師の物語だ。発表当時から芸術性と出演者の演技が高く評価されており、第87回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、編集賞・録音賞・助演男優賞の3部門を受賞。原題の”Whiplash”は「ムチ打ち症」という意味で、ジャズの名曲の題名でありつつジャズドラマーの職業病でもある。
主人公のアンドリューは音楽院の生徒で、偉大なジャズドラマーになることを夢見ている。一人でドラムの稽古をしていると、学校最高の指導者と謳われる教師フレッチャーに目をかけられ、いきなり最上級クラスに引き抜かれる。最上級クラスは半端ないプレッシャーの中で行われ、常にフレッチャーの怒号が飛び交う恐怖のクラスだった。アンドリューは必死に授業にくらいつき、徐々にバンド内での地位を上げていく。
重要なコンペティション演奏会の日、アンドリューは不運と事故が重なり、集合時間までに会場に着けなくなってしまう。なんとか会場には辿り着くものの、事故による怪我の影響でろくに演奏ができず、ついには握力が効かなくなりスティックを落としてしまう。フレッチャーは曲の途中で演奏を止め、冷酷に「お前は終わりだ」とアンドリューに宣告する。いままで耐えてきたプレッシャーと理不尽への怒りが爆発したアンドリューは壇上でフレッチャーに殴り掛かり、音楽院を退学処分になってしまう。
単に音楽ものの映画ではなく、ひとりの人間の成長物語という体裁をとっている。その中心的なモチーフは「狂気」だろう。フレッチャーはもともと才能のみに価値を置く厳格な教師だが、その授業に必死でくらいつくアンドリューが次第に世間的な常識を失っていき、狂気に取り憑かれていく様子が描かれている。ガールフレンドに「一流のドラマーになるためにはもっと練習しなければならない、その為には君は邪魔だ」と一方的に別れを宣言する。帰省して家族と会った時も、スポーツで実績を挙げている兄弟たちと比べて音楽をやっている自分が軽んじられていると感じ、挑発的な言動を繰返し夕食の場を台無しにする。
作品の最後にアンドリューは、恩讐が絡まり関係が泥沼化したフレッチャーと再会し、彼に請われてフレッチャー率いるバンドのドラマーとして急遽演奏することになる。これは自身のパワハラを密告され学院から解雇されたフレッチャーが、アンドリューを音楽界から完全に葬り去るべく仕掛けた罠だった。カーネギー・ホールで批評家やスカウトの眼が注目する中、アンドリューはフレッチャーの仕掛けた罠にはまり悲惨な演奏をしでかしてしまう。一度は壇上を降りて涙ながらに立ち去ろうとしたが、意を決したように再び壇上に戻り、フレッチャーの指揮を無視してドラム独奏を叩き始める。その気迫はバンドメンバーはおろかフレッチャーすら圧倒し、アンドリューは演壇上の主導権を完全に奪い取る。フレッチャーはためらいながらアンドリューのドラムに合わせて指揮をとったが、完全に才能に覚醒し魂の演奏を見せるアンドリューを見て、フレッチャーは満足そうに笑みの表情を見せる。
まぁ、パワハラの被害に遭ったことのある人や、厳格な教師がトラウマになっている人は観ない方がいい映画だろう。教師フレッチャーを演じるJ・K・シモンズの演技は鬼気迫るものがあり、作品の厳格な雰囲気をつくり出している。この演技でJ・K・シモンズはアカデミー助演男優賞を受賞している。
この映画が作られたのは2014年。いまから10年前だが、この10年で「パワハラ」をとりまく世界的な環境は大きく変わった。おそらくいま現在この映画が発表されたら、社会的に問題ありということでアカデミー賞には一切ノミネートされないのではあるまいか。パワハラによる訴訟が社会問題となっている昨今では、もうすでにひとむかし前の時代の作品、という感がある。
物語に登場する教師フレッチャーは、間違いなく(A)のタイプの教師だ。最高を追い求め、生徒にそれを要求し、一切の妥協を許さない。自分の求めるレベルに達しない生徒は「無能」と切り捨て、生徒に罵声を浴びせ怒鳴り続ける。ただしフレッチャーの要求に応えたバンドはアメリカ最高の水準であり、出場するコンテストやコンペティションですべて優勝を勝ち取っている。
この作品が発表された当時から、フレッチャーの教師像に関しては賛否両論があった。「最高を目指すなら厳しくなるのは当然」「フレッチャーは目標のために必要な指導をしているに過ぎない」という擁護論から、「いくら指導のためでも人格否定は許すまじ」「音楽家として以前に人としてどうなの」という批判論まで、賛否両論が渦巻いた。教育業界がこの作品を題材に小論文を書くように課されたら、どう書くだろうか。
実は作品の中で、フレッチャーに対する否定的な見解は明確に示されている。アンドリューが上級クラスに参加した初日、「音を何回も外した」という理由で太っちょメガネの学生がその場でクラスを追放されたが、実はこれは冤罪だった。実際に音を外していたのはその隣の白人学生で、フレッチャー自身がそれを認めている。
また作品の終盤で、フレッチャーは「交通事故で死んだ」ことになっている学生が、実は自身のパワハラが原因で鬱病を発症し自殺に追い込まれたことを暴かれている。遺族である両親は退学処分を課されたアンドリューに接触し、「フレッチャーを学院から追い出すために彼のパワハラを証言してくれ」と依頼する。結局この一件が理由でフレッチャーは学院を追われることになる。
「優秀な教師」の条件というのは様々あろうが、僕の考えでは、だいたい次の3つだと思う。
教師が暴力行為やパワハラのような不適切指導に堕す原因のほとんどは、「焦るから」だ。パワハラのような激烈なしごきを行う教師というのは大抵、体育会系に多い。体育会でこのような強権的指導が横行する理由は、雇われコーチは成果を出さないとクビになってしまうからだ。勝たないといけない、全国大会に出場しないといけない、全国優勝しないといけない。特に私立学校は学校の知名度を上げ受験者数を増やす手段としてスポーツを利用する。だから勝たないと意味がない。勝てないコーチは無価値なのだ。だから結果しか求められていないコーチは「人間形成」などと悠長なことを言っていられず、とにかくその時その場で「勝てる」ように短絡的なしごきに走る。
このような努力も、努力には違いない。しかし、嫌な指導者に暴力で練習を強制されるような「努力」は、その道を楽しみ主体的に熱中している者には勝てない。「努力」は、絶対に「夢中」には勝てない。たとえ同じ「1日10時間の練習」をするにしても、暴力で脅されて無理やりやらされている10時間と、夢中になってそれにのめり込み「あ、気がついたらもうこんなに経ってる」という10時間とでは、継続力が違う。
努力を強制された生徒は、そのコーチの指導を外れた途端に努力をしなくなるだろう。少なくとも、それまでの努力の質と量を維持することはできない。あくまでもその努力は「やらされていたもの」であり、「自分でつくりあげたもの」ではない。しかし、本当にその道の魅力に気付き、自ら率先して主体的に練習をする生徒は、いつまででもそれを続けることができる。人は、つらいことをいつまでも続けられるようにはできていない。理不尽に努力を強要し続けていると、いずれ人を壊す。
「勉強しなさい」「練習しなさい」と口にする時点で、指導者としては0点だ。「勉強しなさい」と言う、ということは、生徒はそもそも勉強をやりたがっていない。「夢中になる」どころか、学ぶことの魅力にすら気付いていない。「勉強しなさい」という小言は、「勉強する分野の魅力に気付かせる」という最低条件すら満たしていないくせに、形だけの行動を強制する意味のない行為だ。
だから教師の仕事というのは、安心して生徒がその精進に集中できるように環境を整えてやることだろう。まず生徒にその分野の魅力を語り、それにのめり込ませ、集中してそれに没頭できるように環境を整えること、それが教師の仕事ではないか。
「自己教育力」というのは、簡単に言うと、「教え込む」のではなく「自立させる」ということだ。教師の仕事は、「教えること」ではない。教えることが教師の仕事であるならば、生徒はその教師から離れたら学ぶことができなくなる。教師の仕事は、「自分から離れても、自分がいなくなっても、生徒が自分の力で自分の能力を伸ばしていける方法を身につけさせる」ことだ。その教師のクラスから離れても、学校を卒業しても、どんな時でもどんな分野でも、自分の能力を自分の力で伸ばす方法さえ会得していたら、人は成長できる。
僕自身も大学で語学や専門分野を教えているが、教えている科目の「知識」を教えているわけではない。教えている科目を通して「知力を身につけるとはどういうことか」を体感させているだけだ。早い話が、教える科目は何でもいいのだ。言語学だろうと論理学だろうと日本語だろうと英語だろうとラテン語だろうと、どの科目を担当しようと、教えることはすべて同じ。「どうすれば、こういう知識体系を自分の力で身につけられるか」。教えている科目名など「ただの一例」に過ぎない。
大谷翔平が「世界一の野球選手」になったのは、高校時代に「世界一のコーチ」に教わったからではない。もちろん感謝に足る出会いはあっただろうが、おそらくどんなコーチ、どんな監督に育てられても、大谷翔平は大谷翔平になっただろう。大谷翔平が高校時代、日ハム時代に身につけたのは、コーチや監督に習ったことを逐一なぞるような「教えてもらったことの習得」ではなく、「いかなる能力でも身につけたいときに自分で身につけられる方法論」だったのではないか。
「内」と「外」の調整力を養うこと、というのはちょっと抽象的な話になるが、簡単に言うと「人としての生き方をちゃんと作れること」だ。
僕は、映画「セッション」にまつわる教師論の一番のポイントは、ここだと思う。
どんなに専門分野で一流を目指しても、どんなにプロとして厳しい世界に身を置いても、我々は所詮ひとりの人間として世の中を生きていかなければならないのだ。自分が集中して極めようとしている分野で血の滲むような研鑽を積んでいても、毎日ごはんは食べなければいけないし、関わる人々への感謝の心を忘れてはいけない。そういう「専門分野での研鑽」とは別に「普通の人としての日常生活」を両立させられないのでは、たとえ専門分野で一流であったとしても、人としてはしょせん3流だ。
数学で定理を証明するとき、その命題内の妥当性を立証するだけでは十分性を満たしたに過ぎない。「たまたまそうだった」という可能性を排除できない。証明をする際には、その命題の「外側」、つまり他の理論体系と齟齬なく整合性を保つことを示してはじめて必要性が満たされる。
政治の世界でも同様だ。ある懸案事項について対策を立てなければならない事態になったとする。そのときある提案を採用すれば問題が解決できても、その提案によってそれまで円滑に進んでいた他の事案に支障が出てしまったら、その提案は妥当とは言えない。
かように物事には「内側の妥当性」と「外側の整合性」がバランス良く満たされてなければならない。
これを人の生き方に準えると、プロとして専門分野では優秀であっても社会不適格者であっては、人として優秀とは言えない。スペシャリストとして世界一の技能をもっていても、我が強く常に仕事上の人間関係でトラブルばかり起こしているような人を「一流」とは言わない。
学校でも、成績さえ良ければ良い生徒、というわけではない。するべき課題をクリアすることと共に、人と軋轢を起こさず、課題以外のところで人としてのしっかりとした生き方を真っ当する、ということが必要になる。
ちょっと分かりにくいが、映画「セッション」の中でもこのことは示唆されている。鬼教師フレッチャーは、目指すべき「天才」の例として、頻繁に“バード”ことチャーリー・パーカーの名前を挙げ、そのエピソードを学生に語っている。確かにジャズの世界ではチャーリー・パーカーは神格化されており、「一流」を目指す音楽院の学生にとっては憧れの的だろう。
しかし史実として、チャーリー・パーカーは人間としては破滅的な人生を送っており、トラブルメーカーとして悪名を馳せていた。麻薬とアルコールに溺れ、心身を病み精神病院への入院を繰返し、34歳で早世した。決して生き方の手本にできる人間ではない。「内」なる演奏技術は素晴しかったのだろうが、「外」たる人としての生き方は最悪といってよい。 映画でチャーリー・パーカーが頻繁に引用されるのは、フレッチャーの浮世離れした異常な感覚を際立たせるための演出だろう。
そう考えると、映画「セッション」の教師フレッチャーは、すべて教師としての資質から外れている。
(1’) ひたすら「根性の修練」を課す
(2’) 「言われた通りにしろ」と主体性を奪う
(3’) 演奏技術が全て。それがない者に価値などない。
映画を丁寧に観れば分かるが、フレッチャーは決して理想の教師としては描かれていない。生徒の両親を貶す罵声や、椅子を投げ危害を加えかねない暴力行為、チャーリー・パーカーを理想として挙げる言動、など映画の端々に確信犯的にフレッチャーを否定する要素が散りばめられている。
こういう教師像が批判の対象であることは、映画が作られた2014年においてすら折込み済みだった、ということだろう。映画批評の中にはこのような失格教師のキャラ付けをもって「最低の映画だ」という論評も多かった。しかしそれは「事実」と「物語」を混同した筋違いな批評だろう。この映画の素晴らしいところは「そういうクズのような教師」をクズとして余す所なく描き切った所にある。もし描く対象の道徳的適否をもって映画の価値を論じるのであれば、戦争を題材とした記録映画はすべて「最低の映画」ということになる。
実際のところ、現在の価値観としてはフレッチャー的な(A)タイプの教師は否定されている。それは道義的な主観や個人的感想によるものではなく、きっちりと法で定められている判断だ。パワーハラスメントが社会問題となり、たとえ「崇高な目的」であったとしても手段が暴力的であれば、それを排除する方向で法律は整備されている。
医学の分野では、たとえ医学的進歩が見込まれるとしても、人体実験は絶対に許されていない。おそらくコロナ禍のとき、人体実験を行っていれば、人類はもっと早く治療方法を発見できただろう。しかし人類は過去の反省から、人体実験を封印する道を選んだ。たとえコロナによる犠牲者が大量に発生しても、それでもなお人体実験は許されない。被験者本人が希望し立候補しても、許されない。それが人類が行った「選択」なのだ。
「パワーハラスメント」というのはすでに人口に膾炙し、かなり耳慣れた感がある。圧力感のある言葉ではなく、すでに日常語になってしまっている。しかしもともとは、そういう人類全体の「選択」、それをすれば得られるはずの成果よりも大切なものがある、という判断が含まれる、とても重い言葉だ。それを実感し日常の職務に反映させている教師が、一体どれだけいるのだろうか。
(A) 過酷なまでに厳しく怒鳴り散らし、罵詈雑言は当たり前、時には人格否定を含む暴言を吐く。授業についていけない脱落者は数知れず。しかし実力は確かで、課される試練を越えれば確実に世界の一流になれる教師
(B) 穏やかな人格者で朗らかな佇まいで、常に生徒に丁寧に寄り添い、励まし、親身に接し、脱落者を出さずにすべての生徒を優しく導く。そのかわり生徒の実力の伸びは並みレベルしか期待できず世界のトッププロを狙うには物足りない教師
どちらのタイプもよくいる教師像だろう。(A)のような昭和的スポ根指導者も、(B)のような友達感覚指導者も、どの年齢層、どの教育段階においても見られる二極区分だと思う。
はたして自分なら、どちらの指導者に教わることを希望するだろうか。
『セッション』(Whiplash, 2014)
アメリカ最高峰の音楽学校、シェイファー音楽院を舞台としたヒューマンドラマ。ジャズに打ち込む音楽院の学生とそれを指導する厳格な教師の物語だ。発表当時から芸術性と出演者の演技が高く評価されており、第87回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、編集賞・録音賞・助演男優賞の3部門を受賞。原題の”Whiplash”は「ムチ打ち症」という意味で、ジャズの名曲の題名でありつつジャズドラマーの職業病でもある。
主人公のアンドリューは音楽院の生徒で、偉大なジャズドラマーになることを夢見ている。一人でドラムの稽古をしていると、学校最高の指導者と謳われる教師フレッチャーに目をかけられ、いきなり最上級クラスに引き抜かれる。最上級クラスは半端ないプレッシャーの中で行われ、常にフレッチャーの怒号が飛び交う恐怖のクラスだった。アンドリューは必死に授業にくらいつき、徐々にバンド内での地位を上げていく。
重要なコンペティション演奏会の日、アンドリューは不運と事故が重なり、集合時間までに会場に着けなくなってしまう。なんとか会場には辿り着くものの、事故による怪我の影響でろくに演奏ができず、ついには握力が効かなくなりスティックを落としてしまう。フレッチャーは曲の途中で演奏を止め、冷酷に「お前は終わりだ」とアンドリューに宣告する。いままで耐えてきたプレッシャーと理不尽への怒りが爆発したアンドリューは壇上でフレッチャーに殴り掛かり、音楽院を退学処分になってしまう。
単に音楽ものの映画ではなく、ひとりの人間の成長物語という体裁をとっている。その中心的なモチーフは「狂気」だろう。フレッチャーはもともと才能のみに価値を置く厳格な教師だが、その授業に必死でくらいつくアンドリューが次第に世間的な常識を失っていき、狂気に取り憑かれていく様子が描かれている。ガールフレンドに「一流のドラマーになるためにはもっと練習しなければならない、その為には君は邪魔だ」と一方的に別れを宣言する。帰省して家族と会った時も、スポーツで実績を挙げている兄弟たちと比べて音楽をやっている自分が軽んじられていると感じ、挑発的な言動を繰返し夕食の場を台無しにする。
作品の最後にアンドリューは、恩讐が絡まり関係が泥沼化したフレッチャーと再会し、彼に請われてフレッチャー率いるバンドのドラマーとして急遽演奏することになる。これは自身のパワハラを密告され学院から解雇されたフレッチャーが、アンドリューを音楽界から完全に葬り去るべく仕掛けた罠だった。カーネギー・ホールで批評家やスカウトの眼が注目する中、アンドリューはフレッチャーの仕掛けた罠にはまり悲惨な演奏をしでかしてしまう。一度は壇上を降りて涙ながらに立ち去ろうとしたが、意を決したように再び壇上に戻り、フレッチャーの指揮を無視してドラム独奏を叩き始める。その気迫はバンドメンバーはおろかフレッチャーすら圧倒し、アンドリューは演壇上の主導権を完全に奪い取る。フレッチャーはためらいながらアンドリューのドラムに合わせて指揮をとったが、完全に才能に覚醒し魂の演奏を見せるアンドリューを見て、フレッチャーは満足そうに笑みの表情を見せる。
まぁ、パワハラの被害に遭ったことのある人や、厳格な教師がトラウマになっている人は観ない方がいい映画だろう。教師フレッチャーを演じるJ・K・シモンズの演技は鬼気迫るものがあり、作品の厳格な雰囲気をつくり出している。この演技でJ・K・シモンズはアカデミー助演男優賞を受賞している。
この映画が作られたのは2014年。いまから10年前だが、この10年で「パワハラ」をとりまく世界的な環境は大きく変わった。おそらくいま現在この映画が発表されたら、社会的に問題ありということでアカデミー賞には一切ノミネートされないのではあるまいか。パワハラによる訴訟が社会問題となっている昨今では、もうすでにひとむかし前の時代の作品、という感がある。
物語に登場する教師フレッチャーは、間違いなく(A)のタイプの教師だ。最高を追い求め、生徒にそれを要求し、一切の妥協を許さない。自分の求めるレベルに達しない生徒は「無能」と切り捨て、生徒に罵声を浴びせ怒鳴り続ける。ただしフレッチャーの要求に応えたバンドはアメリカ最高の水準であり、出場するコンテストやコンペティションですべて優勝を勝ち取っている。
この作品が発表された当時から、フレッチャーの教師像に関しては賛否両論があった。「最高を目指すなら厳しくなるのは当然」「フレッチャーは目標のために必要な指導をしているに過ぎない」という擁護論から、「いくら指導のためでも人格否定は許すまじ」「音楽家として以前に人としてどうなの」という批判論まで、賛否両論が渦巻いた。教育業界がこの作品を題材に小論文を書くように課されたら、どう書くだろうか。
実は作品の中で、フレッチャーに対する否定的な見解は明確に示されている。アンドリューが上級クラスに参加した初日、「音を何回も外した」という理由で太っちょメガネの学生がその場でクラスを追放されたが、実はこれは冤罪だった。実際に音を外していたのはその隣の白人学生で、フレッチャー自身がそれを認めている。
また作品の終盤で、フレッチャーは「交通事故で死んだ」ことになっている学生が、実は自身のパワハラが原因で鬱病を発症し自殺に追い込まれたことを暴かれている。遺族である両親は退学処分を課されたアンドリューに接触し、「フレッチャーを学院から追い出すために彼のパワハラを証言してくれ」と依頼する。結局この一件が理由でフレッチャーは学院を追われることになる。
「優秀な教師」の条件というのは様々あろうが、僕の考えでは、だいたい次の3つだと思う。
(1)「夢中」になれる環境をつくること
(2)「自己教育力」を得る機会を与えること
(3) 「内」と「外」の調整力を養うこと
教師が暴力行為やパワハラのような不適切指導に堕す原因のほとんどは、「焦るから」だ。パワハラのような激烈なしごきを行う教師というのは大抵、体育会系に多い。体育会でこのような強権的指導が横行する理由は、雇われコーチは成果を出さないとクビになってしまうからだ。勝たないといけない、全国大会に出場しないといけない、全国優勝しないといけない。特に私立学校は学校の知名度を上げ受験者数を増やす手段としてスポーツを利用する。だから勝たないと意味がない。勝てないコーチは無価値なのだ。だから結果しか求められていないコーチは「人間形成」などと悠長なことを言っていられず、とにかくその時その場で「勝てる」ように短絡的なしごきに走る。
このような努力も、努力には違いない。しかし、嫌な指導者に暴力で練習を強制されるような「努力」は、その道を楽しみ主体的に熱中している者には勝てない。「努力」は、絶対に「夢中」には勝てない。たとえ同じ「1日10時間の練習」をするにしても、暴力で脅されて無理やりやらされている10時間と、夢中になってそれにのめり込み「あ、気がついたらもうこんなに経ってる」という10時間とでは、継続力が違う。
努力を強制された生徒は、そのコーチの指導を外れた途端に努力をしなくなるだろう。少なくとも、それまでの努力の質と量を維持することはできない。あくまでもその努力は「やらされていたもの」であり、「自分でつくりあげたもの」ではない。しかし、本当にその道の魅力に気付き、自ら率先して主体的に練習をする生徒は、いつまででもそれを続けることができる。人は、つらいことをいつまでも続けられるようにはできていない。理不尽に努力を強要し続けていると、いずれ人を壊す。
「勉強しなさい」「練習しなさい」と口にする時点で、指導者としては0点だ。「勉強しなさい」と言う、ということは、生徒はそもそも勉強をやりたがっていない。「夢中になる」どころか、学ぶことの魅力にすら気付いていない。「勉強しなさい」という小言は、「勉強する分野の魅力に気付かせる」という最低条件すら満たしていないくせに、形だけの行動を強制する意味のない行為だ。
だから教師の仕事というのは、安心して生徒がその精進に集中できるように環境を整えてやることだろう。まず生徒にその分野の魅力を語り、それにのめり込ませ、集中してそれに没頭できるように環境を整えること、それが教師の仕事ではないか。
「自己教育力」というのは、簡単に言うと、「教え込む」のではなく「自立させる」ということだ。教師の仕事は、「教えること」ではない。教えることが教師の仕事であるならば、生徒はその教師から離れたら学ぶことができなくなる。教師の仕事は、「自分から離れても、自分がいなくなっても、生徒が自分の力で自分の能力を伸ばしていける方法を身につけさせる」ことだ。その教師のクラスから離れても、学校を卒業しても、どんな時でもどんな分野でも、自分の能力を自分の力で伸ばす方法さえ会得していたら、人は成長できる。
「自分が教えてるときは成長させられるけど、自分から離れたら生徒は何も学ばなくなる」というのでは、教師の仕事としては3流だろう。教師の本当の仕事は、生徒が卒業してから後に発揮されるものではあるまいか。学生に与える影響力が直接学生に接している期間に限られる教師というのは、たいした教師ではないと思う。
僕自身も大学で語学や専門分野を教えているが、教えている科目の「知識」を教えているわけではない。教えている科目を通して「知力を身につけるとはどういうことか」を体感させているだけだ。早い話が、教える科目は何でもいいのだ。言語学だろうと論理学だろうと日本語だろうと英語だろうとラテン語だろうと、どの科目を担当しようと、教えることはすべて同じ。「どうすれば、こういう知識体系を自分の力で身につけられるか」。教えている科目名など「ただの一例」に過ぎない。
大谷翔平が「世界一の野球選手」になったのは、高校時代に「世界一のコーチ」に教わったからではない。もちろん感謝に足る出会いはあっただろうが、おそらくどんなコーチ、どんな監督に育てられても、大谷翔平は大谷翔平になっただろう。大谷翔平が高校時代、日ハム時代に身につけたのは、コーチや監督に習ったことを逐一なぞるような「教えてもらったことの習得」ではなく、「いかなる能力でも身につけたいときに自分で身につけられる方法論」だったのではないか。
「内」と「外」の調整力を養うこと、というのはちょっと抽象的な話になるが、簡単に言うと「人としての生き方をちゃんと作れること」だ。
僕は、映画「セッション」にまつわる教師論の一番のポイントは、ここだと思う。
どんなに専門分野で一流を目指しても、どんなにプロとして厳しい世界に身を置いても、我々は所詮ひとりの人間として世の中を生きていかなければならないのだ。自分が集中して極めようとしている分野で血の滲むような研鑽を積んでいても、毎日ごはんは食べなければいけないし、関わる人々への感謝の心を忘れてはいけない。そういう「専門分野での研鑽」とは別に「普通の人としての日常生活」を両立させられないのでは、たとえ専門分野で一流であったとしても、人としてはしょせん3流だ。
映画の中でアンドリューは、ライバルの出現によって精神的な余裕を無くし、ドラムの練習だけに時間を費やさなければならないという強迫観念に駆られ、恋人に別れを告げる。世の中にもこれとよく似た物言いとして「今はこれこれに集中しなければならないから、結婚などしている場合ではない」というのがある。仕事としてプロとして極めるべきことと、人としての生き方を同じ軸としてしか扱えない生き方だ。
そう言う人の両親は、ヒマだったから結婚したのだろうか。ヒマだったから当人を産んだのだろうか。人はどんな時でも、常にやるべきこと・極めるべきことに駆り立てられて生きている。それを言い訳にして人としての生き方を犠牲にするのは、要するに器が小さいのだ。経験上、そういう小さい生き方をしている人が、なにか特定の分野で一流になった試しはない。
数学で定理を証明するとき、その命題内の妥当性を立証するだけでは十分性を満たしたに過ぎない。「たまたまそうだった」という可能性を排除できない。証明をする際には、その命題の「外側」、つまり他の理論体系と齟齬なく整合性を保つことを示してはじめて必要性が満たされる。
政治の世界でも同様だ。ある懸案事項について対策を立てなければならない事態になったとする。そのときある提案を採用すれば問題が解決できても、その提案によってそれまで円滑に進んでいた他の事案に支障が出てしまったら、その提案は妥当とは言えない。
かように物事には「内側の妥当性」と「外側の整合性」がバランス良く満たされてなければならない。
これを人の生き方に準えると、プロとして専門分野では優秀であっても社会不適格者であっては、人として優秀とは言えない。スペシャリストとして世界一の技能をもっていても、我が強く常に仕事上の人間関係でトラブルばかり起こしているような人を「一流」とは言わない。
学校でも、成績さえ良ければ良い生徒、というわけではない。するべき課題をクリアすることと共に、人と軋轢を起こさず、課題以外のところで人としてのしっかりとした生き方を真っ当する、ということが必要になる。
ちょっと分かりにくいが、映画「セッション」の中でもこのことは示唆されている。鬼教師フレッチャーは、目指すべき「天才」の例として、頻繁に“バード”ことチャーリー・パーカーの名前を挙げ、そのエピソードを学生に語っている。確かにジャズの世界ではチャーリー・パーカーは神格化されており、「一流」を目指す音楽院の学生にとっては憧れの的だろう。
しかし史実として、チャーリー・パーカーは人間としては破滅的な人生を送っており、トラブルメーカーとして悪名を馳せていた。麻薬とアルコールに溺れ、心身を病み精神病院への入院を繰返し、34歳で早世した。決して生き方の手本にできる人間ではない。「内」なる演奏技術は素晴しかったのだろうが、「外」たる人としての生き方は最悪といってよい。 映画でチャーリー・パーカーが頻繁に引用されるのは、フレッチャーの浮世離れした異常な感覚を際立たせるための演出だろう。
そう考えると、映画「セッション」の教師フレッチャーは、すべて教師としての資質から外れている。
(1’) ひたすら「根性の修練」を課す
(2’) 「言われた通りにしろ」と主体性を奪う
(3’) 演奏技術が全て。それがない者に価値などない。
映画を丁寧に観れば分かるが、フレッチャーは決して理想の教師としては描かれていない。生徒の両親を貶す罵声や、椅子を投げ危害を加えかねない暴力行為、チャーリー・パーカーを理想として挙げる言動、など映画の端々に確信犯的にフレッチャーを否定する要素が散りばめられている。
こういう教師像が批判の対象であることは、映画が作られた2014年においてすら折込み済みだった、ということだろう。映画批評の中にはこのような失格教師のキャラ付けをもって「最低の映画だ」という論評も多かった。しかしそれは「事実」と「物語」を混同した筋違いな批評だろう。この映画の素晴らしいところは「そういうクズのような教師」をクズとして余す所なく描き切った所にある。もし描く対象の道徳的適否をもって映画の価値を論じるのであれば、戦争を題材とした記録映画はすべて「最低の映画」ということになる。
実際のところ、現在の価値観としてはフレッチャー的な(A)タイプの教師は否定されている。それは道義的な主観や個人的感想によるものではなく、きっちりと法で定められている判断だ。パワーハラスメントが社会問題となり、たとえ「崇高な目的」であったとしても手段が暴力的であれば、それを排除する方向で法律は整備されている。
医学の分野では、たとえ医学的進歩が見込まれるとしても、人体実験は絶対に許されていない。おそらくコロナ禍のとき、人体実験を行っていれば、人類はもっと早く治療方法を発見できただろう。しかし人類は過去の反省から、人体実験を封印する道を選んだ。たとえコロナによる犠牲者が大量に発生しても、それでもなお人体実験は許されない。被験者本人が希望し立候補しても、許されない。それが人類が行った「選択」なのだ。
教育の分野でもそれと同じことが起きている、というだけの話だ。人格を否定し、罵詈雑言で追い込み、狂気の努力を課せば、才能は開花するかもしれない。それによって生まれる「天才」もいるかもしれない。しかし、人類はそれを封印する道を選んだのだ。たとえその分野で素晴しい成果が上がるとしても、後世に残る才能が見いだされたとしても、暴力で指導することは許されない。
「パワーハラスメント」というのはすでに人口に膾炙し、かなり耳慣れた感がある。圧力感のある言葉ではなく、すでに日常語になってしまっている。しかしもともとは、そういう人類全体の「選択」、それをすれば得られるはずの成果よりも大切なものがある、という判断が含まれる、とても重い言葉だ。それを実感し日常の職務に反映させている教師が、一体どれだけいるのだろうか。
最後の9分の演奏ですべてをチャラにするには虫が良過ぎる映画。