たくろふのつぶやき

お鍋には熱燗をつけてくれたまへ。

muramoto


ウーマン村本を中国人が英雄視?「日本の総理大臣に」絶賛報道のワケ



村本の主張は、あくまで非武装中立。『朝生』では「人を殺すくらいなら、自分が殺される方がマシ!」とまで言ってのけ、1月4日のTwitterでは「武器で威嚇して近寄らせないようにする人間はチンパンジー」という趣旨の発言をしている。これも言論の自由が保障されている日本では、「個人」の主張としていっこうに問題ない。しかし、彼にはそんな主張も台無しする恥ずかしすぎる過去があるという。

「15年7月に村本の熱狂的なファンの女子大生がストーカー規制法違反容疑で逮捕されています。2年もの間村本に付きまとい、村本は『ノイローゼになり、襲われる夢を何度も見た』とテレビの取材にも答えています。しかし、村本はこの時、彼女を撃退するため、傘を振り回して追っ払おうとしたものの失敗し、結局は110番に電話をかけて警察にすがっています」(同上記者)

 村本は武器で威嚇しようとし、結局は警察に頼っているのである。個人と国家の違いはあれど”お花畑理論”が通用しないのは同じである。「軍隊を持たない国が他国から攻撃を受けるはずがない」というならば、まずは自分から実践を始めてみてはいかがだろう




強盗にとってはすごい恵まれたターゲットだな。

onoda



第94回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)。


青山学院大学が4連覇。往路優勝こそ東洋大学に譲ったものの、復路に猛烈な巻き返しを見せ、5分以上の差をつけて総合優勝を果たした。


東洋大学の作戦が間違っていたわけではないと思う。むしろ、王者・青山学院をあそこまで追いつめるのは、今回のチーム戦術を見る限り、東洋大学しかあり得なかっただろう。

往路を制した東洋大学は、明らかに往路の序盤に主力を揃えてきた。これはトラック競技と駅伝が大きく違う点のひとつで、「どの位置で走るか」という勝負の流れが選手のパフォーマンスを左右する。単にベストタイムが速い選手を並べれば勝てるというわけではない。東洋大学はそのことをよく分かっていた。東洋大学は近年の箱根駅伝で1区を重視しているが、それは箱根の戦い方を熟知した酒井監督ならではの「定石」だろう。

実際、東洋大学は、1区(西山和弥)、2区(相沢晃)、3区(山本修二)、4区(吉川洋次)の4人で青山学院を振り切り、流れを引き寄せることに成功した。その流れが最も象徴的だったのが3区だろう。実力、実績ともに青山学院の田村和希のほうが上だったが、直接対決で区間賞を制したのは東洋大の山本修二だった。酒井監督が重視した「勝負の流れ」が、田村の快走を封じた形になった。

往路の結果を見てみると、東洋大の積極策によって全体が高速レースになっている。前回大会(93回大会)に往路優勝した青山学院大学のタイムは5時間33分45秒。これは今回大会では往路7位に相当する。今回6位までの大学(東洋、青山学院、早稲田、拓殖、法制、城西)は去年の青山学院よりも速い。7位(日体大)でも2秒差、8位(順天堂)でも9秒差だ。

つまり今回の往路は、「青山学院が遅れた」のではなく、「東洋が速かった」というべきだろう。前回大会の1区で服部弾馬が想定通りのリードをとれず、高速レースに持ち込む作戦が失敗した反省を、腕力で克服した形だ。
しかし、その積極策が復路では裏目に出ることになる。

往路に主力を注ぎ込んだ東洋大は、復路に大砲を確保できなかった。一方、追う立場の青山学院は6区、7区、8区で連続区間賞を穫り、あっさり往路の劣勢を跳ね返した。7区の林奎介は区間新記録のおまけつきだ。
単純に、選手層の差だろう。往路が終わった段階で青山学院の原監督は「30秒程度の遅れは想定内。必ず逆転できる」と語ったが、強がりでもはったりでもなく、本当だったと思う。復路にも往路と同格の主力選手を配置できるところが、青山学院の選手層の厚さだろう。

7区で区間新を叩き出した林奎介は3年生だが、前回の箱根はおろか、いままで学生3大駅伝を1度も走っていない。そういう選手が突如現れるということは、青山学院にはそのレベルの選手がゴロゴロいるということだ。主力と控えの差が少なく、「その時に調子のいい選手」で自在にオーダーが組める。2年生エースの關颯人が故障離脱し、その穴を埋められないまま流れを失った東海大と対照的だ。

今回の東洋大の復路タイムは5時間34分03秒。これは低速レースに終わった前回大会の青山学院の復路タイム(5時間30分29秒)と比べても4分近く遅い。
つまり青山学院は「復路が強い」のだ。復路6、7、8区にエース、準エース級を置くことができる。テレビの解説でも言っていたが、青山学院エースの下田裕太は、他大学であれば8区に置けるような選手ではない。復路序盤で勝負を決め、9区、10区には安定感に優れ独走可能な上級生を配置して逃げ切る。

東洋大は、序盤で流れを掴むことには成功した。しかし青山学院の本当の勝ちパターン「復路でぶっちぎる」を防ぐことまではできなかった。東洋大の復路の選手が想定外に遅かったわけではない。各選手、区間3位~5位前後で無難にまとめ、仕事はきちんと果たしている。10区の小笹椋は区間賞を穫っている。
しかしそれ以上に、青山学院の復路が速すぎた。6区で逆転、7区で引き離し、8区で駄目押し。事実上、その3区間で復路の決着はついた。 

箱根駅伝が他のレースと異なる点はふたつある。ひとつは「区間距離が極端に長いこと」、もうひとつは「5区(山登り)と6区(山下り)の特殊区間があること」だ。もちろん東洋大の酒井監督もそのことを熟知しており、山を攻略する化物走者を確保することで好成績を収めてきた実績がある。

しかし今回の箱根駅伝を見る限り、選手の調子を見極め、適切な区間配置をするという点で最も優れていたのは青山学院の原監督だったと思う。下りのスペシャリスト、6区の小野田勇次は別格として、上り下りだけでなく、「追いながら走る選手」と「逃げながら走る選手」の区間配置が絶妙だった。

たとえば今回、青山学院のダブルエースと称される田村和希は3区、下田裕太は8区を走っている。その逆ではない。田村は追う展開に長けており、長い差を縮める走り方に優れている。逆に下田は自分のペースで独走することが可能で、逃げる展開に強い。
前回大会の7区で、独走で逃げる展開になった田村は脱水症状寸前となり、区間11位に終わった。下田は11月の全日本大学駅伝(伊勢駅伝)で追う展開に巻き込まれ、他ランナーにペースを乱され、区間4位に終わっている。

原監督は、単純に持ちタイムが速い順に選手を10人並べるのではなく、「その区間のときにどういうレース展開になっているのか」を想定した上で、その流れに適正のある選手を並べていたように見える。おそらく、東洋大が往路序盤に勝負をかけてくることも充分に予想していただろう。田村和希を3区に配置していたことがそれを物語っている。

一方の東洋大は、強引に流れを維持しようという力技で復路の作戦をたてていたように見える。一番の誤算は、青山学院の7区(林奎介)に区間新の走りで逃げられたことだろう。林は青山学院の10000m走のベストタイムではチーム9位。決してエース格の選手ではない。しかし今回のレース展開と当日の調子ががっちりかみ合い、区間新記録の快挙に繋がった。その適正と調子を見抜いた原監督の勝ちだ。青山学院からは林のような選手が出てくるが、東洋大からはそういう選手は出てこない。

青山学院と東洋大の差をもうひとつ挙げるなら、チームの雰囲気だろう。東洋大のチームスローガンは「その一秒をけずりだせ」。有力校でありながら2位に甘んじることが多く、数分差、数秒差で勝利を逃すことが続いた。そのために1秒を削る覚悟でチーム全体の雰囲気ができあがっている。

しかし今回の箱根を見たところ、そのスローガンが悲壮感につながり、選手ののびのびした躍動感を封じているように見える。短所の改善ばかりを気にして、長所を伸ばす雰囲気ではない。優勝を逃すようになってから、東洋大の酒井監督が笑顔で話しているのを見たことがない。素っ頓狂なキャッチフレーズで選手からも冷やかされ、陽気な物言いで柔らかい雰囲気をつくっている青山学院の原監督とは対照的だ。

その違いが、「選手の適正を見抜く」「その時の調子を測る」という能力の違いに反映されているように見える。歯を食いしばって耐え抜く姿勢と、笑いながら上を向く姿勢は、土壇場の力の出し方に如実に反映されているのではあるまいか。 東洋大学の選手は「こうしなければならない」、青山学院の選手は「こうやってみよう」という気持ちで走っている気がする。


他に優勝候補と目された大学を見てみると、神奈川大学は仕方ないだろう。5区で区間最下位の20位と大失速。これは区間賞の法政大・青木涼真から10分も遅い。6区の山下りでも区間9位に沈み、特殊区間の備えの薄さが惨敗につながった。

期待はずれ扱いする記事が多いが、実は今年の大学日本王者は神奈川大なのだ。神奈川大学は11月の全日本大学駅伝(伊勢駅伝)を制している。箱根駅伝は関東陸連が管轄している「関東大会」に過ぎない。神奈川大は、関東大会では惨敗したが、全国大会では優勝している。

問題は「そのどっちに勝ったほうが嬉しいのか」だろう。事実上、全国大会である伊勢駅伝は、関東大会に過ぎない箱根駅伝の前哨戦扱いされることが多い。世間の見方では「箱根こそが日本一決定戦」とされていることが多い。それは大学の駅伝戦略が箱根を中心としていることからも分かる。大学にとっても広告効果が大きいのは箱根のほうだろう。
神奈川大は全日本駅伝は制したが、箱根に対する備えが希薄だった。いくら全日本を制しても、総距離にして箱根駅伝の半分にも満たない伊勢駅伝と、ひとり20km前後を走る箱根では、勝つために必要な能力がまったく違うということだろう。

もうひとつの優勝候補として騒がれていた東海大も、底力の浅さを露呈した。あれだけのタレントを揃えて勝てないのであれば、明らかに監督の能力不足だ。東海大は1区を予定していた2年生エースの關颯人を故障で欠き、直前でレースプランが大きく狂った。
しかし、出走予定の選手を万全の調子でレースに送り出せない時点で、監督として不合格だ。東海大はここ数年、有望な高校生をかき集め、人材に不足はないはずだ。トラック競技や出雲駅伝ではちゃんと結果が出ている。それが箱根駅伝となるとまったく勝てないのは、明らかに監督が「箱根の勝ち方」を理解していないからだろう。

他の大学に目を転じてみると、早稲田大、拓殖大、中央学院大が目を引く。
早稲田大は堂々の3位。4位の日体大を19秒差で下し、土壇場での勝負強さがあることも示した。今回の早稲田大は絶対的エースがいない代わりに、区間3位の選手がやたらに多い。全体的に安定感のある選手が多く、極端に失速する区間がない。これは今までの早稲田の戦い方ではない。明らかに相楽監督が、それまでの早稲田とは違うチーム作りを続けており、その結果が出ているということだろう。
早稲田は出雲駅伝が9位、伊勢駅伝は7位でシード権を失っている。神奈川大とは逆に、それらの駅伝を捨て、箱根に特化した準備を進めてきたことが分かる。

拓殖大は予選会8位のギリギリで本戦出場を決め、本大会でも8位でシード権を確保した。2区を走った留学生のデレセも含め、区間5位~7位で無難にまとめる選手が多い。早稲田大学と同様、出雲と伊勢を捨てて箱根一本に絞って準備してきた。出雲と伊勢は出場さえしていない。 20km前後という長丁場の距離に選手ひとりひとりが高度に対応してきた。

そういう躍進校の準備の仕方を見ると、出雲・伊勢の各駅伝と、箱根駅伝との違いが際立つ。そんな中、中央学院大の存在が異様に見える。今回の箱根駅伝は10位。14秒差で順天堂をかわし最後のシード権を確保した。この14秒差はこの先1年の過ごし方の大きな差になるだろう。
中央学院大はこれといった大駒がいるわけでもなく、区間10位内に入っている選手すら少ない。それでも総合で10位をきっちり確保している。さらに不思議なことに、出雲駅伝は8位、伊勢駅伝は6位でやはり最後のシード権を確保している。特に箱根に特化しているわけでもなく、特に絶対的エースがいるわけでもなく、それでも全体的な総合力できっちり成果を出している。これは明らかに川崎勇二監督の手腕によるところが大きいだろう。東海大とはまったく逆だ。


テレビの報道や解説でも言っていたが、今回の箱根の特徴は、大学間の格差がかなり縮み、復路の終盤になっても僅差の勝負が増えてきたことだ。無敵を誇った青山学院の牙城もとうとう往路優勝を譲る形で崩れた。中堅大学が躍進する一方、順天堂、駒沢、山梨学院といった一時代を築いた名門校がシード権確保が難しい時代になっている。「これまでのやり方」に固執する大学は、ますます取り残されていくだろう。理想が先走って現実を置き去りに暴走するのではなく、時代に応じて、選手に応じて、現実に対処する能力のある大学が勝っていく時代になると思う。



冬休みの朝寝坊が2日間だけ治りますな。

20171201-00000094-asahi-000-8-view



箸墓古墳隣接の「池の水抜く」放送中止 地元が協力断る
(朝日新聞デジタル)

テレビ東京は1日、1月2日に放送予定の番組「緊急SOS!池の水ぜんぶ抜きましておめでとう2018」で、既に発表していた卑弥呼の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳に隣接する池部分の放送を中止すると発表した。詳細は明らかにしていないが、地元自治体の意見が影響したとみられる。

この池での水抜きは、11月26日放送の「池の水ぜんぶ抜く大作戦5」内で予告された。桜井市はこの前に番組ディレクターに対し、「ため池の掃除が主体であり、宝探しのような企画内容はやめてほしい」と伝えていたという。だが番組では「出るのはお宝か、それとも未知なる生物か」「約1700年前のお宝が眠る!?」などと予告していた。

26日の放送後、奈良県を通じて文化庁から市に問い合わせがあったり、市の教育委員から「宝探しのような企画に協力するのはどうか」との声が寄せられたりした。1日、市はテレ東側に「協力できない」と伝えたという。テレ東が撮影に入る前だった。

箸墓古墳のため池を管理する地区の区長の杉本義衛さん(69)によると、池の水抜きは毎年実施しているという。「古墳の価値を広めるために番組に協力しようと思っていただけに残念だ。ただ、あの予告編を見れば、市が断るのも仕方がない」と話した。

「池の水」シリーズは今年1月に初めて放送され、これまでに5回放送。水を抜いた池から外来魚のアリゲーターガーなどが次々と見つかり、人気番組となった。26日は視聴率12・8%で、大河ドラマの11・3%を上回った(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。(湊彬子、田中祐也)



テレビ番組が終わる時って、「視聴率がとれなくなった時」ではなくて「番組内容にインフレを起こして、制作者が暴走した時」のほうが多いような気がする。

プロジェクトX、ほこたて、あるある大辞典、みんなそうだった。「もっと数字を取れ」からの「もっと内容を盛れ」という偉い人の要求が、構造的な歪みの本質だろう。



黙って池の水抜いてりゃ面白さが続いてただろうに

「5月病」というのはよく知られているが、「11月病」というのはあまり知られていない。


そりゃそうだろう。僕が勝手に名付けた症状だからだ。
僕の感覚では、5月病など屁のようなものだが、11月病は下手をすると大学生の一生を狂わせる。

11月病というのは、よくある大学生の戯れ言「自分とは何者なのか」という人生の迷いを指す。命名通り、11月あたりに発症する学生が多い。夏の浮かれた時期が過ぎ、涼しさから寒さへと気候が変わる頃になると、「いまやっていることが本当に自分のやりたいことなのか分からなくなってきたんです」のような、わけの分からないことをほざき出す。

大学生の5月病なんぞ、一種の燃え尽き症候群であることが多い。大学受験のストレスから解放され、勉強という「毎日やらなければならないこと」がなくなる。一人暮らしをはじめてする学生も多い。そういう時期、誰もいない部屋に帰ってひとり、何をすればいいのか分からくなってしまう。
まぁ、僕の感覚では、受験のための勉強など遊びのようなもので、大学に入ってからが本当の勉強の始まりだ。だから「毎日勉強しなくてもよくなった」というのは単なる学生の勘違いなのだが、まぁそれは言うまい。

その手の5月病は、夏が近づけば大抵は良くなる。6, 7月くらいになれば大学で友達もできてくるし、サークルや部活など自分の居場所がみつかる。「5月病が原因で大学をやめました」という学生は非常に稀だ。
基本的には11月病もそれと似たようなものだ。僕も11月病にかかった学生から相談を受けることがあるが、基本的に放っておく。年末が近づき、クリスマス特需で恋人ができ、冬休みに帰省して大学に戻ってくると、けろっと治っていることが多い。

ところが5月病と違って、11月病の自然治癒率は6割程度といったところだろう。1月末の期末試験が終わって、春休みが近くなっても、相変わらず生気のない目で相談に来る学生がいる。ここまでこじらすと、むしろ春休みは危険だ。大学は、夏休みよりも春休みのほうが長い。その春休みの間に11月病を悪化させ、4月になっても大学に戻ってこなくなる学生がいる。
お決まりの「自分探しの旅」にお出かけなのだ。

なぜだか知らないが、僕はこの11月病に対処する名人という評価をいただくことが多い。僕に相談しに来ると、人生の迷いが晴れるという評判が学生に回っているらしい。
迷惑千万だ。そんなくだらん評価のせいで、学生応対に時間をとられ、したい勉強もたまった仕事も削られる。我ながら「自分は教師に向いていないな」と実感する。

教師の側としてみれば、そういう学生への対処に方法には、ある程度の「定番のテクニック」はある。今では僕は、学生応対がどんなに面倒くさくても、作り笑いなど0.5秒で作れる。ひたすら聞き役に徹すること、学生に多く話させること、感情を否定せず、正論をぶつけず、共感に徹すること。昨今では大学教員はカウンセリングの研修が義務化されていることが多いので、どこかの段階でそういう対処の仕方を教わっている。

要するに「頷き魔になれ」ということなのだが、単なる首振り人形ではなく、学生が安心して相談できる教師になるためには、その根底で「自意識というのはいったい何なのか」ということを教師なりに理解している必要があると思う。それを直接的に学生に言うかどうかは別として、自分なりの「答え」として、「自意識」というものを形として掴んでおく必要があると思う。


「自意識とは何ぞや」という議論は、哲学や社会倫理学の分野では正体不明の議論が飛び交っているようだが、僕の考えでは、自意識の正体は時代によって変化しているものだと思う。


昔の日本は、「その人が何者であるのか」は、その人の外側で勝手に決められていた。両親は誰か、祖父母は誰か、祖先は誰か、どこの家の子供なのか、家業は何なのか、住んでいるのはどこなのか。こうした「血縁」「地縁」という因習によって、その人という存在は決まっていた。

アメリカ人は自由奔放、個人主義、能力主義に見えるが、実はそういう血縁や地縁を非常に重んじる。アメリカ人の男の子の名前の付け方に「(父親の名前) Jr.」という名前の付け方があるが、日本人は絶対にしない名前の付け方だ。日本では、父親の名前をそのまま息子に名付ける親はいないだろう。もともと移民の国で、全員がよそ者だった国だからこそ、「自分は何者なのか」を確立するためには「誰々の息子」という血縁にすがりたいのだろう。

現在でも、地縁や血縁によって自意識をつくる輩はいる。『ハリー・ポッター』に出てくる敵役ドラコ・マルフォイは、作品を一貫して「マルフォイ家のお坊ちゃん」という自意識に揺るぎがない。自分の内側に誇るものがなく、自分が何者であるのかを構成している要素がすべて「本人の外側」にあるものだ。
そういう自意識は現代では嫌悪される傾向にあるが、少なくともドラコ・マルフォイは作品中、「自分は何者なのだろうか」「自分はどう生きるべきなのだろうか」などという悩みは微塵も持っていない。蓋し、地縁や血縁という因習は、現在どう評価されているかは別として、揺るぎない自意識を提供してくれるものなのだろう。言ってみれば、そういう因習は、「自意識」という生きるうえで邪魔なものを、くるんで隠してくれる一種の社会装置だったのだろう。

現在では、そういうものはほとんど残っていない。生まれたときから両親との核家族で、祖父母とは夏休みに年に一回会うか会わないか。祖先の墓参りをすることもないだろうし、家業を継がなければならない学生など皆無に等しい。地縁や血縁によって自我を確立している若者は、今や絶滅危惧種だろう。

そういう時代では、「自分は何者なのか」が勝手に決まってくれないので、自分でそれを作らなくてはならない。その元手になるのが「能力」だ。自分はなにができる人間なのか。自分はいままで何を成し遂げてきたのか。そういう「自分の内側にあるもの」しか、自分という存在をつくりあげる材料がない。

能力によって自分が定まるということは、言い換えれば「他人の評価でしか自分が決まらない」ということだ。多くの場合、若者の能力というのは、他人に評価されて初めて存在することになる。「ルービックキューブで6面を揃えられます」などという、誰も褒めてくれない能力を持っていたとしても、「自分は何者であるのか」を確立する役には立たない。

他人の評価の最たるものが「就職活動」だ。能力を下地として、自分の価値が、他人に容赦なく判断される。お祈りメール一本で就活が刎ねられるということは、大学生にとって「お前には価値がない」という非情な宣告だ。そのため今の大学生は、日々、自分の価値を作り出すことに必死になっている。血縁によって家業を継いでいた時代には必要のなかった努力だ。

つまり、「自分が何者なのか分からない」という11月病の根っこをよくよく調べてみると、ほとんどの場合が「就職活動に対する潜在的な恐怖感」であることが多い。就職のために何か能力を身につけなければならない。他の人にはないオリジナリティーを身につけなければならない。大学生活のすべての努力、すべての生活が、「自分にしかない価値」を作るための競争と化している。ご苦労なことだ。

その努力に疲れた学生の行き着く先が「自分探し」だ。要するに、自分の能力を肯定的に評価できなくなっているのだ。「自分探し」をしている学生の多くは、本当の自分を探そうとしているのではなく、能力の不足から「本当になりたい自分」になれず、妥協できる落としどころを探しているに過ぎない。基本的な姿勢は「逃げ」なのだ。厳しく聞こえるだろうが、ほとんどの学生がやっていることは、要するにそういうことだ。

そういう学生が不真面目というわけではない。むしろ、11月病にかかる学生は、とても真面目な優等生が多い。
優等生ということは、言い換えれば、それまでの18年たらずの人生を「他人に評価されるために頑張ってきた若者」だ。両親の期待に応えたい。先生に褒められたい。友達に一目置かれたい。そのために努力を惜しまない。そういう一生懸命な学生が、大学後の進路に「いい子として頑張るだけではどうにもならない現実」が待ち構えていることに薄々気づきはじめ、それまでの努力の仕方が通用しなくなることに絶望し、11月病に陥る。

僕はそういう11月病患者の学生の話を聞く時に、必ず子供の頃からの趣味を聞く。子供の頃、楽しかった思いでは何か。なにか集めていたものはないか。何をしていた時に一番時間を忘れて熱中していたか。
子供の頃からの話を聞くのは、そういう学生は、いま現在、なにも趣味を持っていないことが多いからだ。「それさえしていれば人生は楽しい」という時間をもたない。ひどいのになると、「いまはそういう趣味に熱中している場合ではないから、封印しています」という学生もいる。

本末転倒だと思う。そういう学生は、自分の生き方を「なにをしたいか」ではなく、「なにをしなければならないか」だけでつくりあげている。就職活動という恐怖に立ち向かうために、それに役に立たないものは、趣味だろうが大学の授業だろうが、容赦なく切り捨てる。よく「こんな学問、なんの役に立つんですか」という質問をする学生がいるが、その「役に立つ」とは、多くの場合「私の就職活動に」という前提が隠れている。自分の将来、自分の進路、自分のいまの必要性、という狭い価値観でしか、世の中を見られなくなっている。

そりゃ、生きるのがつまらなくもなるだろう。酷なようだが、そういう学生は、人生がつまらないのではなく、自分で自分の人生をつまらなくしているのだ。
そういう学生だって、子供の頃からそういう価値観だったわけではない。それまでのどこかの時期には、「人生の何の役にも立たないこと」に熱中していた時期があるはずなのだ。そういう生き方を取り戻す以外に、11月病から立ち直る方法はないと思う。

僕に言わせれば、大学教師なんて全員、好きなことだけに熱中して、世のため人のため役に立つことなど知ったこっちゃない社会不適格者ばかりだ。僕も一応、研究者の端くれだが、自分の研究が世の中のために役に立つと思ったことなど一度もない。自分の研究が何の役に立つのか、と学生に訊かれたら、僕はいつも「役になんて立たないよ」と即答している。僕が自分の研究を続けているのは、それが役に立つからではない。単純に、自分の研究分野が好きだからだ。

日本は、どんな分野にでも、どんな対象にでも、それを専門に研究している学者がいる。そのひとりひとりをよく見てみれば、その分野に熱中している5歳児に過ぎない。駅の名前をひたすら覚えていたように、怪獣の人形をいじって遊んでいたように、化学式を覚えたり数式をいじったりしているに過ぎない。そのような熱中のしかたではなく、義務感と使命感だけで、数10年にわたる研究生活の集中力を保つことなど、人間にはできない。

11月病にかかった学生に応対するときには、最終的には「すべての人の期待に応えることなど、そもそも不可能だ」ということを悟ってもらうことになる。自分に肯定的な評価をする人がいれば、必ず否定的な評価をする人もいる。好きになってくれる人がいる代わりに、必ず誰かには嫌われる。進路を決める段階で、両親の期待とは違う道に進むこともあるだろう。「この子はできる学生だ」と評価してくれている先生の期待を裏切ることもあるだろう。僕なんてそんなことはしょっちゅうだった。

言葉にすると、「他人の評価を気にすることなく、自分が本当に熱中できることを見つけなさい」ということなのだが、そんなに簡単なことではない。18年以上の人生を他人の評価で塗りつぶしてきた真面目な若者にとっては、生き方を正反対にするほどの困難を伴うものだ。人はそんなに簡単に自分勝手にはなれない。サルトルの言う「自由という鎖」は、思いのほか現代の学生をきつく縛っているものなのだ。

付け焼き刃ではなく、自分の一生を支えてくれる本当の「自意識」というのは、「何ができるのか」という能力主義では身に付かないと思う。そういう能力主義は義務感に直結して、「しなければならないこと」で毎日を埋め尽くす苦難の道をつくりだす。
朗らかに充実した毎日を送るためには、「何をしたいのか」「何が好きなのか」で自分自身を作りだすほうが王道だと思う。学生は、したくもない努力を耐え忍んで褒められるよりも、本当に自分のしたいことをしている時のほうが、いい顔をするものだ。

そういう生き方をするために、具体的に何をすればいいのか。
それを訊かれたら、僕は「勉強しろ」と返事をすることにしている。大学生である以上、いま一番したいことは「勉強」であるはずだ。その言い方で語弊があるなら、「いま一番やりたいことが勉強である人だけが、高校卒業後の進路に大学を選ぶ」というのが本来あるべき大学進学のあり方だと思う。

「何の役に立つのか」などというくだらないことを考えず、将来につながる能力など関係なく、単純に、学んで面白い分野を自分勝手に勉強する。それが世の中の何の役に立つのか、自分の進路にどう利用できるのか、などのきれいごとは一切禁止。
目的のある勉強など、本当の勉強ではない。本来の勉強というのは、知ることを楽しみ、考えることを楽しみ、それまで知らなかった世界がどんどん広がっていくことを実感する知的興奮を味わうことだ。

「ただひたすらに勉強する」という、実際にやることは変わらない。しかし、「いい成績をとっていい就職をするために勉強する」という他人に評価されるための勉強と、「自分勝手に好きなことを学び散らかす自由奔放な勉強」とでは、それに向かう姿勢はまったく違う。
「一生懸命に勉強する」というのは、ちょっと違う。鉄道好きな子供が駅名をひたすら覚えることを「一生懸命」とは言わないだろう。


頭と尻尾だけをとってみれば、大学の授業に価値を見いだせなくなった学生に、「勉強に熱中しろ」と言っているわけだから、結論だけ聞きたい学生にとっては雲をつかむような話だろう。我ながら、禅問答に近いと思う。
青い鳥の話ではないが、本当に自分にとって必要なものは、意外に自分にいちばん近いところにある。勉強に迷う学生の解決策は、勉強にこそあるのではないか。もちろん、「嫌なものに立ち向かうことでしか困難は解決できない」のような、体育会系的で短絡的な考え方ではない。そんな安直な根性論では、長く続く人生を支えてくれる「自我の確立」など、とうてい無理に相違ない。



大学生たち!勉強はいいぞ!勉強は楽しいぞ!

「政治家の言論 その荒廃ぶりを憂える」
(2017年11月18日 朝日新聞社説)

政治は言葉だ、といわれる。みずからの理念を人の心にどう響かせるか。それが問われる政治の営みが、すさんでいる。

加計学園の獣医学部問題を審議した衆院文部科学委員会で、聞くに堪えぬ発言があった。他の政党の議員3人を名指しし、日本維新の会の足立康史氏が「犯罪者だと思っています」と述べた。相応の論拠を示さないままの中傷である。各党から抗議されると「陳謝し撤回したい」とすぐに応じた。その軽薄さに驚く。言論の府を何だと思っているのか。

憲法は議員の国会内での言動に免責特権を認めている。多様な考えをもつ議員の自由な言論を保障するためだ。低劣な罵(ののし)りを許容するためではない。これまでも、他党に対し「アホ」「ふざけるなよ、お前ら」などと繰り返し、懲罰動議を受けてきた人物である。

一向に改めないのは、黙認する雰囲気が国会内にあるからではないか。同じ委員会で、朝日新聞への批判もした。「総理のご意向」などと記された文部科学省の文書を報じた記事について「捏造だ」と決めつけた。自身のツイッターでは、「朝日新聞、死ね」と書いている。

加計問題の報道は確かな取材に基づくものだ。記事や社説などへの意見や批判は、もちろん真摯に受け止める。だが、「死ね」という言葉には、感情的な敵意のほかにくみ取るものはない。昨年、「保育園落ちた日本死ね!!!」の言葉が注目されたが、それは政策に不満を抱える市民の表現だ。国会議員の活動での言動は同列にできない。

政治家による暴言・失言のたぐいは、以前からあった。最近は、政権中枢や政党幹部らからの、とげとげしい言葉が増えている。政権与党が、論を交わす主舞台である国会を軽んじる風潮も一因だろう。昨年は首相周辺が野党の国会対応を「田舎のプロレス」「ある意味、茶番だ」と切り捨てた。国会に限らず、政治の言葉が、異論をとなえる者を打ち負かすだけの道具にされている。

安倍首相は7月の東京都議選で、演説にヤジを飛ばした人々に「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫んだ。「犯罪者」「死ね」「こんな人たち」。国策に重責を担う政治家が論争の相手を突き放し、対立と分断をあおる。そんな粗雑な言動の先にあるのは政治の荒廃であり、それに翻弄される国民である。




「死ね」を憂える荒廃した社説
(2017年11月17日 産経新聞)

18日付の朝日新聞社説「政治家の言論 その荒廃ぶりを憂える」を読んで思わず噴き出してしまった

「朝日新聞、死ね」とツイッターに書き込んだ日本維新の会の足立康史衆院議員を「根拠を示さないままの中傷」「その軽薄さに驚く」「低劣な罵り」などと、実に荒廃した表現で罵倒していたからだ。

では、昨年の流行語大賞に選ばれた「保育園落ちた日本死ね!!!」はどうなのか。こちらは「政策に不満を抱える市民の表現」であり、国会議員と同列にはできないそうだ。

果たしてそうか。「日本死ね」は民進党政調会長だった山尾志桜里衆院議員(現無所属)が国会で取り上げ、注目を浴びた。山尾氏は流行語大賞授賞式にも出席している。これを称賛したのはどこの新聞社だったか

こういうのをダブルスタンダードと言うのではないか。足立氏はさぞにんまりしていることだろう。
(編集局次長兼政治部長 石橋文登)




トムとジェリー。


kiken



村本大輔「興味もたせろ」物議呼ぶ投票行かずに持論

ウーマンラッシュアワーの村本大輔(36)が、今回の衆議院選挙の投票に行かなかったことを明かし、物議をかもしている。

村本は過去にも「投票に行ったことがない」と発言していたが、今回も23日にツイッターで「声を大にして言う。僕は今年は選挙に行かなかった」と告白。「全国民で選挙に行かなかったやつの方が多い。多数決の多数が国民の総意なら、選挙に興味なかった俺たちが国民の総意」と持論を展開し、「台風の中、選挙にいかせるぐらい政治に興味をもたせろ」と訴えた。

村本は「たった3週間でいい政党悪い政党判断できない」と投票に行かなかった有権者の思いを代弁。自身が投票しなかった理由については「日本は病気だとして政治家は医者。薬が公約だとして、その薬のいいことだけ教えてくれて肝心の副作用を伝えない医者をおれは信じない。そんな怪しい医者に大切な日本を任せきれない。だから行かない」と説明した。

また「政治意識の低い有権者が悪い」という声に対し、「けど政治は民主主義、税金払ってるんだから田舎の自分の仕事でいっぱいいっぱいで興味ない人を切り捨てるな。お笑いライブで客が少なかったら芸人のせい。政治でタチの悪いのはチケット代はライブにこなくても取ってるということ」と異議を唱えた。





gitai





思ってることを言うのではなく、言った通りに思うようになる。

「政権継続という審判 多様な民意に目を向けよ」
(2017年10月23日 朝日新聞社説)
「衆院選自民大勝 信任踏まえて政策課題進めよ」
(2017年10月23日 読売新聞社説)
「日本の岐路 「安倍1強」継続 おごらず、国民のために」
(2017年10月23日 毎日新聞社説)
「安倍政権を全面承認したのではない 」
(2017年10月23日 日本経済新聞社説)
「自公大勝 国難克服への強い支持だ 首相は北対応に全力挙げよ」
(2017年10月23日 産経新聞社説)
「安倍政権が継続 首相は謙虚に、丁寧に」
(2017年10月23日 東京新聞社説)


第48回衆院選を受けての各社の社説。
非常にしらけた衆議院選挙だった。対決の構造すら明白ではなく、「政策」よりも「政局」に明け暮れた野党の迷走が目立つ。政局の保持に奔走した挙句、自身の主張が正反対になる本末転倒な候補者も多かった。こんな候補者ばかりが野党では政権奪取どころか現状維持も危うい。はっきりいって今回の選挙は、野党の自滅だろう。

今回の選挙がもうひとつ異様だったことは、マスコミ各社の報道のしかただ。特に朝日新聞、毎日新聞などの左派系の新聞社は、はじめから「ストップ安倍政権ありき」の偏向報道に終止した。迷走し趣旨が一貫しない野党をやたらと褒めちぎり、「世論は安倍政権不信で一色」という報道を繰り返した。

実際に蓋を開けてみたら、自民・公明の圧勝。公明党と合わせて311議席を獲得し、憲法改正の国会発議に必要な3分の2(310議席)を上回った。これにより、与党は単独で憲法改正が可能となった。
普通に考えれば、「世論が安倍政権不信で一色」という事前の報道は、嘘だったことになる。そういう与党批判の報道は、事実を反映した報道ではなく、新聞社がでっちあげた「あるべき姿」に読者を煽動しようとした姑息な試みと断じてよかろう。

与党の大勝という結果を受けてなお、朝日と毎日は自分たちの報道が間違っていたことを認めていない。「選挙の結果は大勝だが、それは有権者に支持されたという意味ではない」という謎理論を展開している。

選挙結果と、選挙戦さなかの世論調査に表れた民意には大きなズレがある。本紙の直近の世論調査によると、「安倍さんに今後も首相を続けてほしい」は34%、「そうは思わない」は51%。

国会で自民党だけが強い勢力を持つ状況が「よくない」が73%、「よい」は15%。

「今後も自民党中心の政権が続くのがよい」は37%、「自民党以外の政党による政権に代わるのがよい」は36%。
(朝日社説)

 衆院選中に実施した毎日新聞の世論調査では、選挙後も安倍首相が首相を続けることに「よいとは思わない」との回答は47%で、「よいと思う」の37%を上回った。
(毎日社説)


単純に考えれば、手前の新聞社で行った世論調査なるものと、実際の選挙の結果が違うのであれば、世論調査の方法に間違いがあったと考えるのが普通だろう。「世論調査」と簡単に言うが、その母集団はどういう選別によるものだったのか。「ストップ安倍政権」の民意を捏造すべく、そういう意見をもつ母集団に対して調査をしたのであれば、それは世論調査でもなんでもない。単なる情報操作だ。

選挙でこれだけ圧勝していながら「民意を反映しているわけではない」というのであれば、いったい何をもって「民意を問う」と言えるのだろうか。
選挙というのは、国民の民意を問うために行うものだ。その結果から目を背け、「国民の真意は別にある」というのであれば、それは民主主義の大前提そのものを全否定する姿勢だろう。朝日と毎日の記事からは、そもそも最初から事実を報道するつもりなどさらさらなく、「なんとしても安倍政権を葬らなければならない」というイデオロギオーが先に立ち、そのためなら情報操作だろうと民意捏造だろうと何をしようと構わない、という歪んだ正義感が透けて見える。

今回の選挙で、野党は明確な政策をもたないまま選挙戦に突入した。あれだけ離散集合を繰り返し、身の振り方に汲々としていた野党候補者には、練られた政策を準備する暇はなかっただろう。希望の党、立憲民主党、共産党、そろいもそろって選挙演説では「打倒・安倍政権」だけをひたすら叫び続けるだけに終止し、自分たちが政権をとった際に実施する政策については何も言わなかった。対立候補の悪口を言い続けるだけの選挙戦で勝てるわけがない。

どうしてそんな事態になってしまったのか。今回の社説の中でそれを最も端的に指摘しているのは、日本経済新聞だろう。日経は、今回の選挙の諸悪の根源を「前原誠司と小池百合子だ」と名指しで批判している。

いちばんの責任は民進党の前原誠司代表にある。いくら党の支持率が低迷していたとはいえ、衆院解散の当日という土壇場になって、野党第1党ができたてほやほやの新党「希望の党」に合流を決めたのは、あまりにも奇策だった。有権者に「選挙目当て」とすぐに見透かされ、7月の都議選に続くブームを当て込んで希望の党になだれ込んだ候補者はいずれも苦戦を余儀なくされた。
(日経社説)

希望の党を立ち上げた小池百合子代表の振る舞いもよくわからなかった。「排除」という物言いが盛んにやり玉にあげられたが、政策を同じくする同志を集めようとするのは当然であり、そのことは批判しない。
しかし、分身的存在だった若狭勝氏らが進めていた新党づくりを「私がリセットします」と大見えを切ったのに、自らは出馬しなかった。これでは政権選択にならない。都知事選と都議選の連勝によって、自身の影響力を過大評価していたのではないか
(同)


すべての原因は、小池百合子が自分の人気の効果を見誤ったことだろう。小池百合子は、都知事選、都議会議員選での連勝に気をよくして、有権者からの人気に酔っていた。おそらくその先に描いていた野望は「日本初の女性総理大臣」だっただろう。都知事を踏み台にして、国政選挙の政党を旗揚げしてその代表となる、という奇異な行動は、そう考えないと説明がつかない。

今回、小池百合子本人は出馬していないが、一方で希望の党は首班指名を行っていない。つまり今回の選挙で、仮に希望の党が第一党となり与党となったとしても、誰が総理大臣になるのか決まっていない状態だった。
自然な流れとしては、党代表の小池百合子が首相となる。しかし、それを選挙戦の段階で明らかにしてしまうと、あまりにもあざとい。都知事が単なる踏み台であったことが露骨すぎる。希望の党が首班指名をしなかったのは、単なる選挙戦術に過ぎず、そしてその本意は有権者にバレバレだった。

結局、希望の党の選挙戦術は「小池百合子人気」だけだったと言ってよい。どれだけ自分の人気に自信があったのか知らないが、その人気にあやかって尻馬に乗るのがいた。それが旧民進党代表の前原誠司だ。
前原は、旧民進党が単独で自民党と互角に渡り合えないことを自覚していたのだろう。だからどうする、という戦略として、小池百合子にすり寄った。都知事選、都議会議員選を爆勝した小池人気を利用すれば、安倍政権を蹴落とせる、という計算だったのだろう。

ところが、小池百合子の将来的な目論みは「自身が総理大臣になること」なもんだから、与党となった時の組閣に不要な人間は入れたくない。そこで「白紙のままの党要項に同意のサインをさせる」という無茶な踏み絵を行った。あまつさえ、「党の方針に沿わない候補者は『排除』する」という強い言葉で、土下座している旧民進党議員の頭を踏みつけた。それに反発するどころか、前原誠司以下、もともと民進党と異なる政策を強要されても、進んで小池百合子の靴を舐める議員が続出した。

この強権的な態度が、旧民進党のうち気骨のある議員の反感を買った。小池百合子に「排除」された旧民進党の残党は、「そんな政党の駒になるつもりはない」と反旗を翻し、新党として枝野幸男が代表となり立憲民主党を立ち上げた。
はじめと終わりだけを見ていると、枝野幸男のやっていることは「民進党から立憲民進党に、看板を付け替えただけ」に過ぎない。しかし、その看板を付け替えざるを得ない原因を作ったのは、前原誠司なのだ。枝野幸男のやったことは「党代表が狂ったことをしでかしたから、代表を見限って、自分たちで動いた」というだけにすぎず、筋は通っている。政策の内容に関しても、立憲民主党は民進党時代から掲げていることと一貫している。

枝野自身に非はないが、こうした野党の迷走は、結果として「野党同士のつぶし合い」という状況を生み出した。今回の選挙結果では、立憲民進党は54議席を獲得した。これは公示前の前職候補の3倍近い議席で、一気に第一野党の座に躍り出た。
しかし、この大量議席の獲得は、与党の議席を奪ったものではない。希望の党は、小池百合子の自信過剰が災いして48議席。これは公示前の57議席からかなり減っている。また共産党も、公示前の21議席から12議席に半減した。

つまり立憲民進党の得票は、「他の野党から奪ったもの」なのだ。いちばん割を食らったのは共産党だろう。共産党は別に政局の紆余曲折にも左右されていなかったし、政策の主張も終始一貫して支離滅裂だった。しかし、立憲民進党という「判官贔屓」に票が流れ、議席を減らす羽目になった。
安倍政権に批判的な有権者にとっては、別に共産党であろうと立憲民主党であろうと、どちらでもよかったのだろう。その中で、たまたま混乱の中でも筋を通して男を上げた枝野新党に票が集まったに過ぎない。

つまり今回の選挙で、立憲民進党の大量議席獲得をもって「安倍政権にノーが突きつけられた」というのは、ちょっと違う。正しくは「安倍政権にノーと言うための勢力として、他の野党にノーが突きつけられた」と言ったほうが正しい。

自民党は公示前勢力の290にやや足りない282議席だったが、今回は衆議院の定数そのものが減少しているので、ほぼ横ばいと言ってよい。公明党と合わせて311議席を穫り、3分の2をとれたのは大勝と言えるだろう。
つまり、国民は自民党に「ノー」を突きつけなかった。正確には「前はイエスだったけど今回からノー」という有権者は少なかった。自民党の支持者は「大して変わっていない」という結果だ。
新聞社が、立憲民進党の躍進を根拠に「自民党は全面承認されたわけではない」と言っているのであれば、結果は合っているかもしれないが、根拠が間違っている。

実際のところ、今回の自民党が勝ったのは、野党の自滅のおかげであって、もっと野党がしっかりしていれば自民党は惨敗していた可能性もあっただろう。選挙後の取材で小泉進次郎もそう言っている。
その薄氷の加減は、「国民が安倍政権に嫌気がさしている」という意味だけではなく、有権者は何を根拠に投票するのか、という有権者意識の反映だろう。

今回の選挙選で、マスコミ各社はやたらと「小池百合子を支持する有権者の声」なるものを取り上げた。中には「小池百合子に総理大臣をやってもらったらいいと思う」などと言うおばちゃんもいた。
しかし実際のところ、今回の選挙を通して、小池百合子に評価できることなど何もない。ではどうして視聴者はそういう小池支持に至るのか。

要するに、有権者は真面目に政策を検討しているわけではないのだ。なんとなく「この人よさそう」という「印象」だけで投票する。だから、その「印象」が崩れてしまったら、あっという間に得票数が減る。今回の小池百合子の失態は、そういう無責任な有権者意識を如実に反映しているだろう。
そもそも小池百合子の選挙戦術が、そういう無責任な有権者意識に乗っかり、印象と好感度だけで新党に票を呼び込もうとしたイメージ戦術だった。都議会程度の選挙であればそれでなんとかなったのかもしれないが、国政選挙となると政策と基盤がしっかりしてなければ太刀打ちできない。

前回の都議会議員選で「都民ファーストの会」が圧勝した理由も、別に有権者がその政策に賛同したからではあるまい。「小池百合子だから」というのが大半の理由だろう。なんとなくよさそう。いま旬でテレビにたくさん出てるから。そんな無責任な理由で投票したのであれば、その結果として惨憺たる政治が履行されても、文句は言えない。

今回の選挙で、小池百合子の求心力は低下を免れないだろう。2020年7月の都知事選まで人気を貯金し、東京オリンピック直前に国政に鞍替えして、オリンピック実施時には総理大臣になる、という青写真だっただろうが、その出だしですでに大きくつまづいた。都政を自身の人気向上に利用し、「都民ファースト」どころか都政をないがしろにして国政選挙に色気を出す都知事の行く末は、いったいどうなるのだろうか。

今回の選挙を、こうした「野党の自滅」として敗因を求める社説を載せたところで、何にもならない。今回の新聞各社で、最も自民党に厳しい論調を並べているのは、意外なことに保守系の産経新聞だ。産経新聞の社説は、野党の迷走についてはあまり紙面を割かず、与党がこれから取り組むべき「政策」をひとつひとつ採点している。

政権基盤を固め直した安倍首相は、自ら掲げた路線の具体化を急がなければならない。その最たるものが、北朝鮮問題である。選挙期間中に懸念された挑発はなかった。だが、北朝鮮は最近の声明で、米原子力空母への「奇襲攻撃」まで叫んでいる。核・ミサイル戦力を放棄する気はさらさらない。首相や与党は、対北圧力の強化という外交努力を選挙戦で訴えた。それにとどまらず、万が一、有事になったとしても、国民を守り抜く備えを、急ぎ固めておかなければならない。
(産経社説)

戦後の平和と安全を保ってきたのは、自衛隊と日米同盟の存在である。憲法9条は自衛隊の手足をしばり、国民を守る手立てを妨げることに作用してきた。安全保障の根本には、国民自身の防衛への決意がなければならない。その有力な方法は国民投票によって憲法を改め、自衛隊の存在を明記することだ。抑止力の向上に資するものであり、自民党はさらに国民に強く説くべきだ。
(同)

もう一つの国難である少子高齢化についても、対策は待ったなしの状況に追い込まれている。求められるのは、人口が減少する一方、社会の年齢構成が極端に高齢者へと偏ることへの対応だ。選挙戦で、自民、公明両党は教育や保育の無償化などを強調するばかりで、社会の仕組みをどう作り替えていくのか、全体像を描き切れなかった。全世代型の社会保障制度を構築するというのも、単なる子供向け予算の加算では許されない。既存制度の無駄を徹底して排すことが求められる。社会保障・税一体改革の再構築を含むグランドデザインを急ぎ描いてほしい。
(同)


どれも、自民党政権にとっては頭の痛い「宿題」だろう。野党にとっては、何十回と審議を重ねてもひとつの証拠も出せない森友・加計問題なんかより、こういう「正道」の政策議論によって与党を潰すほうが近道だと思う。野党が揃いも揃ってそういう政策議論に踏み込まないのは、なんのことはない、自分たちに真っ当な政策の代案がないからだ。

そして何よりも、有権者のほうが、そういう政策議論に無関心だからだろう。そういう無責任な有権者意識が、浮動票の行方が簡単に変わる原因に他ならない。「判断」ではなく「印象」で投票する人が多いうちは、第二、第三の小池百合子が出没し続けるだろう。



まぁ与党になっても馬脚を現すだけだったろうし
続きを読む

芥川龍之介に『舞踏会』という小説がある。


舞台は明治19年、名家の令嬢・明子は17歳。父親と一緒に初めて鹿鳴館の舞踏会に出かける。フランス語と踊りの教育を受けていた明子は十分に美しく、初の舞踏会に不安と期待をもって臨む。首尾よく、フランス人の海軍将校からダンスに誘われ、一緒に『青き美しきドナウ』のワルツを踊る。

踊り疲れたふたりは一緒にアイスクリームを食べ、バルコニーに出て夜の町並みを眺める。夜空には花火が上がり、樹々を照らしている。じっと夜景を眺めている海軍将校に、明子は「お国のこと思っていらっしゃるのでしょう」と訊く。すると将校は「いいえ」と否定し、「何を考えているのか当ててごらんなさい」と訊き返す。
「私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴィ)のような花火の事を。」

それから数年のち、大正7年。老婦人となった明子は鎌倉の別荘へ向かう途上、汽車の中である青年小説家と乗り合わせる。明子は、青年が抱えていた菊の花束を見て、鹿鳴館の舞踏会のことを思い出し、青年にその話をする。すると青年は何気なく「奥様はその海軍将校の名をご存知ではありませんか」と訊く。

するとH老婦人は思ひがけない返事をした。
「存じて居りますとも。Julien Viaudと仰有る方でございました。」
「ではLotiだったのでございますね。あの『お菊夫人』を書いたピエル・ロティだったのでございますね。」
青年は愉快な興奮を感じた。が、H老婦人は不思議さうに青年の顔を見ながら何度もかう呟くばかりであった。
「いえ、ロティと仰有る方ではございませんよ。ジュリアン・ヴィオと仰有る方でございますよ。」


まぁ、今の若い人が読んでも、たいして面白い小説ではあるまい。
落ちに使われているピエール・ロティというのは、フランスの小説家。『アフリカ騎兵』などの作品が知られている。本職は海軍士官で、仕事で回った各地を題材にした小説や紀行文を書いている。フランス人らしく、行く先々で女に手を出していたことでも有名だ。

史実として、日本にも来たことがある。その時の見聞を『江戸の舞踏会』というエッセイや、『お菊さん』という小説に記している。当時の外国人に日本がどう映ったのかを知る貴重な資料であり、逆に当時の外国人にとっても日本を知るための情報源でもあった。当時、日本画に憧れをもっていた画家のゴッホは、日本についての情報をロティの『お菊さん』から得ていたとされている。

当時は有名人だったのかもしれないが、いまロティの名前を知っている人はそう多くはあるまい。フランス文学といえば、バルザック、スタンダール、デュマ、ユーゴー、ゾラ、モーパッサン、プルーストあたりが教科書の太字だろう。それらにしても、平均的な日本人であれば「名前は聞いたことはあるが、読んだことはないなぁ」くらいの距離感ではあるまいか。ましてや、ロティの名前を聞いたことがあるひと、ましてや実際の著作を読んだことがある人となると、日本に2〜3桁程度の人数くらいしかいるまい。

芥川は、作品の最後に「物語から数年経った後の主人公の後日譚」を入れる癖がある。いちばん分かりやすいのは『トロッコ』だろう。主人公自身が物語を、振り返ったり客観視したりして、物語そのものに別の意味をもたせる、という最後のひとひねりだ。これは初期から中期だけでなく、後期に至るまで芥川作品の大きな特徴になっている。

『舞踏会』という作品の後日譚を見ると、よくある「実はその人は、あの有名な○○○さんだったんですよ」という「有名人物登場オチ」に見える。ディクスン・カーの『パリから来た紳士』で使われた例のオチだ。
ただし、『舞踏会』のオチは、通常のそれとは少し異なる。主人公の明子は、「自分が一緒に踊った海軍将校は、実はピエール・ロティだった」という「衝撃の事実」を、否定している。少なくとも、それにびっくりして落ちがつく、というありきたりの物語にはなっていない。

実は、芥川はこの後日譚の部分を、初版以降で書き換えている。
初版では、最後の部分はこうなっている。

「存じておりますとも。Julien Viaudと仰有る方でございました。あなたもご承知でいらっしゃいませう。これはあの『御菊夫人』を御書きになった、ピエル・ロティと仰有る方の御本名でございますから。」


まるで結末が反対だ。明子は堂々とピエール・ロティの名を出し、「自分はその方と踊ったことがあるのだ」と誇らしげに話していることになっている。
これだと、本当によくある「実は○○○さんでしたー」という落ちになってしまうし、現在ではピエール・ロティはそもそも「知らんなぁ」という程度の知名度しかない。二重の意味でつまらない。なぜ、芥川は最後の結末を書き換えたのか。


dazaijisyo



閑話休題。
本屋さんを覗いてみたら、北村薫の『太宰治の辞書』が創元推理から文庫化されていた。

もともとは「円紫さんシリーズ」と呼ばれている一連の作品で、大学の文学部に通う女子大生「私」が 主人公で、日常のふとした謎がテーマの作品だ。その謎を、知り合いの落語家・春桜亭円紫に話すと、円紫は話を聞いただけで真相を言い当てる。一種の安楽椅子探偵譚だ。血なまぐさい犯罪ではなく、日常で感じる違和感、不思議な出来事などの「小さい事件」を扱っている。巻が進むごとに、文学で卒論を書く「私」が、自分なりに知的領域を広げることに意義を見いだしていく成長小説にもなっている。

今回の『太宰治の辞書』は、前作から実に20年弱ぶりに出版された、シリーズの新作だ。たしか出版されたのは2年ほど前だったと思う。僕は北村薫の作品は折に触れ読むことにしているが、新書が出た瞬間に買って読むほどの熱心な読者ではない。まぁ、文庫で出たなら読んでみようか、程度の読者だ。

僕が北村薫を読むのは、その作風と文体が好きなこともあるが、なによりも北村薫は僕が高校時代の古文の先生だったからだ。デビュー当時、正体不明の覆面作家として突如文壇に登場し、文体の繊細さから男なのか女なのかも謎だった作家だ。その正体が埼玉の片田舎で国語を教えている高校教師とは誰も思わなかっただろう。僕が高校生の当時から、実は○○先生は北村薫らしい、という噂があり、北村薫作品の書評が文芸誌に載るたびに、「あのおじさん先生が凄い褒められようだな」と思っていたものだ。


今回、『太宰治の辞書』を読む気になったのは、この作品の中で「なぜ芥川は『舞踏会』の後日譚を書き換えたのか」という謎が扱われているからだ。


この謎は、『太宰治の辞書』に収録されている短編のひとつ『花火』で展開されている。
主人公の「私」は、大学卒業後、編集者として出版社に勤めている。結婚して、息子は中学2年生で野球部に属している。東京近郊にマイホームを構え、主婦と編集者として毎日を送っている。

「私」は、江藤敦や三島由紀夫など、過去に『舞踏会』を評論した人たちの文献から、芥川が何を考えていたのかに迫る。
たとえば江藤敦は、当該の箇所についてこう評している。

「ロティの身体にふれながらその名を知らぬ明治の文明開化期の豊かさと、いっさいを名として理解しようとする大正の教養主義の空虚さとの距離を、数行のうちに皮肉にえぐった鮮やかな技法であるが、読んでいてその鮮やかさに簡単するわりには、心に残らない」


北村薫は、主人公の「私」に、「それを芥川の意図として解釈するのは受け入れられない」と言わせている。
「明治の文明開化期の豊かさ」というのは、実はホンモノに接していながら、それがホンモノと分からないような恵まれた環境で過ごしている、ということだ。「よくキャッチボールしてくれた隣の家のおっさんが実はプロ野球の選手だった」とか、「高校時代の古文教師のおっさんが実は凄い作家だった」のようなものだろう。
一方、「いっさいを名として理解しようとする大正の教養主義」というのは、知識だけ覚えていて生活実感が伴わない頭でっかちのことを指す。相対性理論がどういうものかを評価できないくせに「アインシュタインはスゴい人」と思い込んでいるような姿勢を指す。

江藤敦は、芥川の意図を「その両者が紡ぎだす滑稽さを皮肉な目で眺める」としているわけだが、半分くらいは当たっていると思う。今となってはピエール・ロティの名がそこまでの知識主義的な権威だとは思わないが、大正当時の時勢の、知識のための知識を標榜し、他人よりも知識があることを競うような無駄な知識主義の風潮下では、そういう傾向を茶化したくもなるだろう。北村薫は、そういう風潮を背景とするため、内田百閒と芥川龍之介の雑談が「才気爆発の競争のようであり、ひとつも当たり前のことは言うまいとする競争」だったというエピソードを効果的に挟んでいる。

しかし、そういう見方が芥川の本意だったかと言われると、そうではなかったのではないかと僕も思う。この点では北村薫の意見に賛成だ。どちらかと言えば、明子にとっては一緒に踊った海軍将校が、実は作家だろうと農夫だろうと、関係なかったのではないか。

この作品での「花火」の位置づけについて僕は修辞的な評論はできないが、舞踏会の一夜の出来事を刹那的な出来事として内面世界に封殺し、時間軸を延ばした「事実の検証」に意味をなくさせる具象であることくらいは見当がつく。花火は、その時その瞬間に見ているから花火なのであって、後から「10年前にあそこで花火が上がった」というのは、花火の本質に感動している姿勢ではない。明子にとっても、その人は「舞踏会の晩に一緒に踊った人」であることがすべてなのであって、後から「実はあの人はこういう作家でして」という情報を付け加えられても、何も意味がないことだったのではないか。

『舞踏会』における「花火」の位置づけをそう捉えると、初版の後日譚はいかにも矛盾している。芥川はそれに気づいて、「刹那的な、生の本質」を描くべく、後日譚を書き換えたのではないか。海軍将校の「私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴィ)のような花火の事を」という言葉から逆算すると、そういう辻褄の合わせ方だったのかな、という気がする。


今回の北村薫の『太宰治の辞書』を読んで、作風の上達を感じた。師匠に向かって「上手くなりましたね」とは不遜の謗りを免れないが、事実そう感じたのだから仕方がない。

僕は、作家のアマチュアとプロを分ける決定的な要因は、「題材を得る方法論」だと思う。
アマチュアであれば、その時書いている一本に集中して傑作を書こうと努力すればいい。しかし、プロの作家というのは、書き続けなければいけないのだ。ネタが尽きても、書くことがなくても、食べるためには書くしかない。そういう「ネタの拠りどころ」をどれだけ強固につくりあげているかが、プロとしての作家の完成度を決めると思う。

自分のよく知っている世界であればだれでも書ける。お笑い芸人だってちょっと訓練すれば芥川賞くらい取れる。しかし、プロの作家として、10冊目、20冊目、はては100冊目まで、それと同じような書き方をしていれば、いつか泉は枯れる。その時、どうやったら新たに題材を仕入れられるのか。

ざっくり言ってしまえば、「教養」だと思う。教養というのは一般的に「頭に貯めた知識の量」と思われているが、僕は逆だと思う。教養というのは、「まだ頭に入っていない知識に対する敬意」のことだと思う。簡単に言えば、知的好奇心のことだ。
人は、自分の知らないことに対しては拒否感を抱く。慣れてる世界のほうが住みやすいのと同様に、よく知っている知識領域のほうが頭に負担がかからない。だから、自分の知らない世界に対しては、なかなか踏み込んでいく気力が湧かない。

それを後押しして、知らない世界にどんどん進み込み、自分の知らなかった新たな領域を知っていく姿勢が「教養」だと思う。教養とは、決して固定化された静的な「知識」ではなく、常に知識を更新し続けていく動的な「姿勢」のことだ。教養の深い人というのは、自分の知らない分野の話でも興味深く熱心に聞く。

北村薫の作品からは、そういった「教養」に裏打ちされた堅固な知的領域の拡大を感じる。なんというか、読んでいて「これを書いてるとき楽しかっただろうな」という印象を受けるのだ。僕が高校時代、今や北村薫となった先生の古文の授業を受けているときに、とても楽しそうに授業をしていたのを思い出す。自分なりに謎を見つけて、それを解くために知的生活を送るというのは、とても素晴らしい生活ではあるまいか。

この『太宰治の辞書』の主人公「私」は、まさにそういう生活を送っている。出版社に勤める一介の主婦が、毎日の生活のなかで知的な刺激を自らに与え続け、知的領域を拡げ続ける。北村薫という作家本人のノウハウと、作品世界の主人公の生き方が、軌を一にしているようで面白い。


論文とは違って、真実の探求一辺倒ではないところが読みやすい。作品内で主人公の「私」は、真実の探求の合間に、週末に息子の部活を見に行ったり、図書館で調べ物をしてからスーパーに買い物に行ったり、日常のすぐ隣で知的生活を送っている様子がリアルに描かれている。世の中の「教養」ある人たちも、真実に肉薄する知的興奮のすぐ隣で、平凡で普通の家庭生活を送っているものだろう。そういう世界観は、実際にそういう生活を送っている人にしか描けない。



読書の秋ですねぇ。

野党は「希望の党」結集で何を目指すのか
(2017年9月29日 日本経済新聞社説)
日本の岐路 希望と民進の協議 「反安倍」の中身が重要だ
(2017年9月30日 毎日新聞社説)


今回の解散総選挙を見据えての騒動については各紙が社説を並べているが、その中でも比較の対象として2紙だけを選んでみた。
通常であれば、日経と毎日の社説は比較にならない。しかし今回は珍しく、毎日の圧勝。日経相手に金星を挙げたと言ってよい。

今回の解散総選挙に関する報道では、まず小池百合子の新党結成を批判的に見る社説が多い。「都民ファースト」なる地域政党を作って都議会議員選を勝ち抜いておきながら、選挙が終わるとあっさり党首を投げ出す。これでは「選挙のための政党」と批判されても仕方がない。都民ファーストどころか、都政を踏み台にしている。

そんな「政党の使い捨て」をした小池都知事が、「希望の党」なる新政党を発足させた。選挙が終わったあとで新党がどうなるか、すでに目に見えているだろう。しかも都知事でありながら国政選挙の党首となる矛盾、しかも本人は出馬しない意向、となれば「いったい何をしたい政党なのか」と問われるのも当然だろう。

しかもややこしいことに、その「希望の党」の尻馬に民進党が乗っかった。要するに世評が激落ちして離党者が続出し、選挙を戦えるほどの体制が整えられない民進党が、窮余の策として小池人気にあやかろうという魂胆だろう。

各紙の社説はこの流れを批判的に報じているが、視点が少しずつ違う。小池都知事のふらついている方針、新党結成の目的と意義、民進党の選挙戦術など、それぞれ批判の対象にずれがある。その中でも多い書き方が、「野党が新党に結合すること」に対する批判だ。

日経の社説が悪いわけではない。まぁ、平均点はとれるくらいの社説だろう。日経は野党連合について、正論で批判している。

長く野党第1党として国政に臨み、旧民主党時代に政権運営を経験した党が突然、方針を変えたことに驚く有権者が多いのではないか。しかも希望の党への参加の条件はこれから詰めるのだという。新党に移った方が選挙で有利という打算が透けて見える

初陣でいきなり野党の中核を担う方向となった希望の党の選挙準備はこれからだ。「政治をリセットする」「しがらみのない政治」というキャッチフレーズだけでなく、具体性のある総合的な政策を早くまとめてもらいたい
(日経社説)

衆院選で政権交代をめざす以上は、成長と財政健全化の両立や社会保障制度の将来像、安全保障や憲法問題などでの説得力のある具体策を示す責任がある。小池氏が国政の活動と都政をどう両立していくつもりなのかも現状ではよく分からない。

エネルギー政策では「2030年までの原発ゼロに向けた工程表づくり」を柱に据えた。代替電力の見通しやコスト増など経済への悪影響をどう抑えていくのかという戦略を詳しく聞きたい。
(日経社説)


要するに日経の書き方は、よく分からない不明瞭なことに対して、そのまんま「よく分からない」と疑問を呈する書き方になっている。上で引用した日経の問題提起は確かに新党結成から野党連合までの根本的な疑問であり、それをごまかそうとして選挙戦術を組立てる野党の姿勢は批判の対象になる。

しかし日経の社説は、なんと言うかこう、「正直に打ち返し過ぎ」なのだ。棒球をフルスイングで打ち返すような、そのまんまの書き方だ。日経の指摘が間違っているわけではない。正しい。正しいが、「正しいだけ」という印象が否めない。

具体的に言うと、日経の社説は、批判される側が「身構えている箇所」なのだ。民進党だって小池百合子だって、「野党連合の方針が不明瞭」と批判されることくらい、百も承知だろう。選挙を通じて、そのへんの辻褄を合わせるため、実態のないキャッチフレーズをふわふわとまき散らすことくらい、用意に想像できる。
日経の社説は、批判された側が「やはりそう来たか」と予測可能な範疇の批判に過ぎない。防御を固めているところをいくら強く殴っても、それほどダメージにはつながらない。


一方、毎日の社説は、「そもそも民進党はいつもそんなことばかり繰り返している」という、過去の事例から今回の事態を捉えている。現在起きていることだけでなく、時制軸をずらし温故知新の姿勢で批判を展開している。

忘れてならないのは1996年の旧民主党結成以来、保守勢力を取り込んで政権交代を果たしながら失敗に終わった約20年間の経験だ。さきがけ(当時)を離党して旧民主党を主導し、後に首相となった鳩山由紀夫氏は、さきがけと社民党による既成政党同士の丸ごと合併を否定して個々が判断する形を取った。

だが結果的には社民党から多くが参加し、当初から憲法や安全保障の考え方の違いが懸念されていたのは事実だ。結局、その後も「政権交代」が唯一の一致した目標だったと言っていいだろう。理念・政策の違いによる内紛は最後まで続いた。
(毎日社説)

今回も「反安倍政権」だけが結集軸になっている印象は否めない。民進党の失敗を繰り返さないためには、それだけでは済まない。公認はやはり無原則ではいけない。

「反安倍」と言っても、首相の強権的手法に反対なのか、理念や政策に反対なのか。「寛容な改革保守」をアピールする希望の党も必ずしも整理はついていない。
(毎日社説)


民進党は、旧民主党の時にも今と同じようなことをしている。民主党、さきがけ、社民党という全く政策意見の違う党がよせ集まって、「政権交代」だけが唯一の軸となる野合となった。実際に政権交代を実現した後は、中心となる軸がなくなり、民主党政権は散り散りとなった。

現在でも、野党の合い言葉は「アベ政治を許さない」だ。アベ政治を終わらせることだけが目的で、アベ政治が終わってしまえば何も残らない。そのあと、どのように国を運営していくかの話が全くない。旧体制の破壊だけを目的とする革命勢力が政治的に無能なのは、世界史上の法則だ。

毎日の社説が日経よりも優れている点は、さらに一段掘り下げた問いの答えになっているからだ。日経は新党の野合について「これはどうなの?」「これについてはどうするの?」と疑義を呈する形で問題提起をしているが、それについて新党は明確な答えを持ってはいまい。答えがないからごまかすしかない状況だ。

一方、毎日の社説は、そこから一段切り込んで「なぜ答えがない状況になってるの?」という問いにつながっており、かつそれに実例を踏まえて答えている。民進党は選挙のたびに政党の看板を掛け替え、政策が一致しない野党とでも節操なく連合を組んできた。それは民進党の基本方針が「妥当な政策を施策する」ことではなく、「与党を倒す」ことだけだからだ。選挙に勝つことだけが目的だから、政策が一致していなくても平気で連合を組む。選挙が終わった後のことは知らん。その基本姿勢は、過去の事例が示している。

民進党は旧民主党の時代から、朝鮮総連の支持を受けており、中国との関係も深い。2009年には小沢一郎民主党幹事長を名誉団長として、民主党議員143名を含む合計483名で訪中団を組織し、中国を訪問している。当時の様子を香港の衛星放送(鳳凰衛視)は「朝貢団か?」と報じている。

安倍首相は、テロ対策特別措置法や集団的自衛権に関する法案を立て続けに通し、憲法九条を含む憲法改正を目論んでいる。中国・朝鮮半島の利権を反映している民進党にとっては、そりゃ「なんとしても倒さねばならない相手」だろう。「アベ政治を許せない」という左派系市民団体の叫びは、日本に対する武力的恫喝が効かなくなることを危惧する中韓の悲痛な叫びと見てよい。

そもそも民進党は「アベ政治を終わらせさえすれば、後はどうでもいい」という方針なので、党の政策も運営方針もあったものではない。はっきりとは言ってはいないが、「そんなものありませんが、何か?」という姿勢なのだろう。民進党の基本原理がそのようなものである以上、民進党の言動に整合性を求めるのはお門違いだろう。


社説では、表層に見える問題点を丁寧に明らかにすることも必要だが、そもそも答えの出ない問題を考えるときには、「なぜ答えが出ない状況になっているのか」というメタ問題を提起しなくてはならない。世の中には、正論で考えても答えが出ない問題のほうが多い。そういう問題を考えるときには、一段掘り進んだ視点で問題を捉え直す思考が必要だろう。



やればできる子。
続きを読む

衆院選 小池新党 何をめざす党なのか
(2017年9月28日 朝日新聞社説)

小池百合子・東京都知事が新党「希望の党」を立ち上げた。7月の都議選で地域政党「都民ファーストの会」を圧勝に導いた小池氏が代表に就き、今度は国政選挙で政権批判票を吸い寄せることを狙う。今のところ小池氏の人気先行の「小池新党」の様相だが、衆院選への参入は既成政党の側に波紋を広げずにはおかない。

自民、公明の与党は警戒感を強める。一方、新党への離党者がやまない民進党では、新党との合流を模索する前原誠司代表らの動きが続いた。だがその影響力の大きさとは裏腹に、新党には分からないことが多すぎる。最大の問題は、何をめざす政党なのか、肝心のそこが見えないことだ

「我が国を含め世界で深刻化する社会の分断を包摂する、寛容な改革保守政党を目指す」結党の記者会見で披露された綱領は冒頭、そううたう。経済格差や政治不信が既成政党にNOを突きつける。そんな先進国共通の潮流を意識したものだろうが、では「改革保守」とは何なのか

小池氏は「改革の精神のベースにあるのが、伝統や文化や日本の心を守っていく、そんな保守の精神」と語るが、得心のいく人がどれほどいるか。「しがらみ政治からの脱却」「日本をリセット」「身を切る改革」。小池氏らが訴える言葉は、これまで生まれた多くの新党のものと似ている。

基本政策をめぐっても、説明が足りない。消費増税について、小池氏は「『実感が伴わない景気回復』を解決しなければ水を差す恐れがある」と引き上げには否定的だ。「原発ゼロ」の主張とあわせ、安倍政権との違いを打ち出したい狙いが鮮明だ。ならば将来の社会保障をどう支え、財政再建をどう果たすのか。原発廃止への具体的な道筋をどう描くのか。もっと踏み込んだ説明がなければ、単なる人気取りの主張でしかない

憲法改正については「議論を避けてはいけない。ただし、9条の一点だけに絞った議論でいいのか」という。安倍首相主導の改憲論議にどう臨むのか。

今回の衆院選は、おごりと緩みが見える「安倍1強」の5年間に対する審判である。小池氏は選挙後について「しがらみ政治の一員に入ったら、何の意味もない」というが、安倍政権の補完勢力になる可能性は本当にないのか。小池人気に頼り、キャッチフレーズを掲げるばかりでは、有権者への責任は果たせない




なんか変なものでも食べたのか。

shinkai01


国立科学博物館の特別展「深海2017~最深研究でせまる”生命”と”地球”~」に行ってきました。


前からずっと行きたかった特別展なんですよね。最近、地震やら何やらで日本近海の海底調査が進んでいるって聞いていたので、どういう研究が進んでいるのか非常に興味がありました。
7月から始まってる特別展で、10月1日(日)まで開催しています。もうすぐ終わるじゃん。危ねぇ〜。

秋になって校外学習の季節らしく、平日にも関わらず、上野公園には団体の小中学生の姿も見えました。なんか学校から課題が出ているらしく、懸命にメモをとりながら展示を廻っていました。


shinkai02

やったなぁ、こういう校外学習。


メディアなどでも紹介されている特別展ですが、ほとんどの人が「深海展」だと思ってるんですよね。おどろおどろしい深海魚に期待して来る人が多いみたい。最近、「へんないきもの」だの「ダイオウイカ特集」だの変なブームのせいで、深海魚を恐いもの見たさで珍しがる風潮があるような気がします。
ま、この特別展もそういう世の動向を十分に把握した陳列になってはいました。

展示は主に「深海魚」「地質調査」「地下資源」に分かれています。やっぱり一般受けしやすいのは深海魚のコーナーのようで、いちばん最初にもってきてお客さんを引きつけています。深海魚のコーナーはさらに「発光生物」「巨大生物」「超深海生物」に分かれています。世のニーズをよく分かっておる。 


shinkai03

ベニオオウミグモ。いっちょまえに肺呼吸するんだって。


shinkai23

頭が透明な深海魚、デメニギスの標本。
発光するそうだが何のために。


shinkai04

ダイオウホウズキイカの足だけ。全長は14mもあるんだって。


shinkai05

お前か。お前なんだな。


shinkai06

オンデンザメの液浸標本。体長3m、体重300kg。でかい。


shinkai07

くらえ!ダイオウイカ


shinkai08

お前はいらん。


shinkai09

みんな大好き、ダイオウグソクムシ


僕が今回、特別に興味あったのはそこではなく、最近の日本をとりまく深海環境に対する調査の進捗状況です。この特別展は、別に深海魚だけではなく、近年の日本の深海に関するあらゆる調査の成果を公表する目的で行なわれています。地政学的、地質学的、材料工学的、海洋生物学的、さまざまなアプローチの仕方で「深海」を研究して公表しています。

shinkai10

これこれ。こーゆーのが見たいの。
世界最深撮影に成功した4Kカメラ。NHKスペシャルの映像にも使われてましたよね。 


shinkai11

ビバ、科学技術。


shinkai12

「しんかい」のコクピット復元展示。
普通とは違って、実物の1.5倍の大きさ。

 
近年、日本の深海調査が進展している理由は主に、地震による影響と、地下資源の開発のふたつがある。
日本は地震が多いので、地殻変動が地震に及ぼす影響を調べる必要性が高い。2011年の東日本大震災でも、日本近海の地勢は大きく変化した。その変化がどのようなものか、どういう原理で変化したのか、どの程度変化するのか、それを実際に調べる必要がある。

また、日本近海の地下資源の開発は、資源を大きく輸入に依存している日本にとっては喫緊の問題だ。日本は国土面積こそ世界で62位だが、排他的経済水域を含む領域面積にすると世界で6位という広大な水域を範囲としている。中国や韓国が領海侵犯まで犯して領土拡張を目論むのは、それらの国の水域が日本列島によってかなり制限されているからだ。そういう環境にある日本が、海底からレアアースをはじめとして地下資源を確保する重要性が増している。


僕としては今回の展示の大きな目玉は、地球深部探査船「ちきゅう」の掘削記録が見られることだ。
2005年に就航した、海洋研究開発機構が誇る世界最大の科学採掘船。巨大な「海の研究所」だ。2011年の東日本大震災のあと、すぐに「東北地方太平洋沖地震調査掘削プロジェクト」(Japan Trench Fast Drilling Project, JFAST)が始動した。海底採掘を行なって地殻変動の影響を調査し、そのときの記録が公開されている。


shinkai91

ここを掘る重要性は言わずもがな


「ちきゅう」は、東北地方三陸海岸沖の、北米プレートと太平洋プレートの境目となる日本海溝を掘削した。海上から海溝底までは約7000メートル。そこから約800メートルを掘り下げ、地質調査を行なっている。

つまり「ちきゅう」は、海面から海底まで、富士山ふたつ分の長さの掘削パイプを下し、そこからさらに800メートルを掘り下げたことになる。24時間態勢で地質サンプルを摂取し、すぐに船内の研究区画に運ばれ、即時分析される。まさに「海の研究所」だ。


shinkai13

これだけの水深下で採掘作業をしたことになる。


shinkai14

富士山ふたつ分の水深をつないだ掘削パイプの一部


shinkai15

日本は伊達に地震大国ではないのだよ


shinkai16

この船体模型だけでごはん3杯はおかわりできます


海底資源についても調査結果が公開されていた。日本が近海資源として重視しているのは、石油とレアアースだ。特にレアアースは「21世紀のダイアモンド」とも呼ばれ、コンピュータ産業に欠かせない希少鉱物の奪い合いが世界中で行なわれている。

日本は現在、レアアースのほとんどを中国からの輸入に頼っている。中国は本土でレアアースが採取される以外に、レアアースの宝庫であるアフリカ各国に眼をつけ、設備投資をじゃんじゃん行なって利権の独占を計っている。最近、アフリカ各国と中国の結びつきが強いのはそのためだ。日本も、中国との貿易関係に対してチャイナリスクを意識し、単独でアフリカ各国との貿易に着手している。

2011年、東日本大震災のための近海底調査の副産物として、太平洋の広範囲にわたってレアアースが濃集した深海泥の分布していることが判明した。日本の排他的経済水域には、メタンハイドレート、熱水鉱床、マンガンクラスト、レアアース泥などが分布していることが分かっている。その調査結果が公開されていた。


shinkai17

日本でも石油とれるって知ってました?


shinkai18

中学生にはちょっと分子構造は難しいかな

 
まぁ、一般客にとってはダイオウイカみたいなへんないきものが面白いのでしょうが、ワタクシみたいな科学マニアにとっては、こういう科学技術の粋を結集した成果のほうが面白いですな。


shinkai19

もちろんミュージアムショップも充実。


shinkai20

お、おう。


shinkai21

嫁に所望されるも華麗に無視。


shinkai22

個人的にイチ押しのおみやげ。国立科学博物館特製フィールドノート。 
無駄に冒険の旅に出たくなる。 



楽しかったです!o(≧∇≦)o

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。


鴨長明『方丈記』の書き出し。有名な文章なので、誰でも一度は読んだことがあるだろう。
しかしなぜか、その続きを読んだことがある人は少ない。


たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかになひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。


簡単にまとめると、「昔と今は違ってしまうことが多いから、世の中は虚しいね」。
簡単にまとめすぎて身も蓋もないが、言っていることはそういうことだ。

『方丈記』の下敷きが仏教の概念に依拠していることは常識の範疇だが、僕はかねてからそれに対して疑問を持っている。
なぜ、連続概念に対する現実への写像が離散対象なのだろう。

『方丈記』の根底にあるのは仏教概念の「無常観」だ。これは輪廻転生に代表される仏教の世界観のひとつだ。つまり、時の流れの中では等しく変わらないものなど何もない。世の中はすべて繋がっており、現世と来世は連続してつながっている。この「連続概念」が世界観の根底にある。

しかし、鴨長明がそれを表すのに使ったのは、「ある時点を切り取った情景」に過ぎない。人の棲家、人の出で立ち、朝顔の露、すべて「ある時点でそうだったもの」だ。これは時空を越えて連続した実態ではなく、時間を離散的に切り取った表象に過ぎない。
根底概念として「連続」を念頭に置きながら、表象としては「離散」を描く、というのは矛盾ではないのか。

おおむね人間というものは、時間を離散的な概念で再構築するものらしい。
たとえば、子供の頃のことを思い出してみる。頭に思い描くのは「夏休みにキャンプに行ったこと」「クリスマスに贈り物をもらったこと」など、ひとつのイベント、単一の出来事だ。そういうイベントを積み重ねたものが「過去の思い出」を構成している。

それは、履歴書でも同じことだ。教育歴や職歴を書くときには「xxxx年、○○高校を卒業」「xxxx年、△△社に入社」など、時間の一部を切り取って書き並べる。これも、ひとつひとつの経歴を「切り取って」自分史を構成している。


なんてくだらないことを考えている昨今ですが。


数学では、「連続」「離散」という概念を区別する。連続というのは、間に切れ目がない一連の過程のことを指す。対して離散というのは、まぁ、「連続の反対」で、個々の要素がぶつ切りで並んでいることを指す。デジタル時計は離散で、アナログの針時計は連続だ。
自然数は離散概念だ。1, 2, 3, 4, … という自然数の並びに、「その間」は存在しない。ひとの人数を数えるときには「1人」「2人」「3人」という数え方はあっても、「2.4人」「√5人」という数え方はない。

算数と数学は何が違うのか。
一言で言うと、「離散」の概念に留まっているのが算数、それを「連続」に拡げたのが数学だ。小学校の算数の過程では、分数や「分数化できる小数」(いわゆる有理数)は習うが、無理数や虚数は習わない。ひと頃、円周率πを「3」と教えるゆとり教育の弊害が取沙汰されたが、あれも根底にあったのは小学校の算数課程を「離散」の枠に押し込め、無理数を排除しようとした強引な姿勢だろう。

話を実数に限ると、事実として実数は連続している。
これは公理として使われることがあるが、証明可能な定理でもある。ドイツの数学者、リヒャルト・デデキントが証明した。


すべての実数は、実数線の上のどこかの位置に配置される。
話を簡単にするために、0から1までの間の線分図を考える。この0と1の間の実数線を、どこか適当なところで切断してみる。
すると、切断の両端には「一番大きな有理数a」と「一番小さな有理数b」が現れる、と仮定する。

dedekint1


実は、そんなことはありえない。aとbというふたつの有理数の間には、必ず(a+b)/2 という「もうひとつの有理数」が現れてしまう。
これは矛盾。よって、切断の両端に「最大・最小の有理数」が現れることは、あり得ない。

すると考えられるパターンは、
(1)最大の有理数aだけが存在する
(2)最小の有理数bだけが存在する
(3)a, b両方とも存在しない
の3通りになる。

dedekint3



実際には、(1)と(2)は交換可能(a=b)なので、パターンとしては
(A) どちらかの端に有理数がある
(B) 両端どちらにも有理数が現れない
のどちらか、ということになる。

実数線のなかで、「有理数ではないもの」というのは要するに「無理数」なので、(A)の片方と、(B)の両端には、無理数が現れる。これを言い替えると、実数というものは「ところどころにある有理数」と、「隙間を埋める無理数」が連続しているもの、ということになる。
この考え方は、提唱者の名前をとって「デデキントの切断」と呼ばれている。

小学校の「算数」では有理数しか扱わないので、その構成は「離散」になる。「みかんが4つ、りんごが2つあります。合計でいくつあるでしょう」で表されるように、数がとびとびの個体を表している。
ところが中学校になって「数学」になると、無理数が登場して、数学体系がいきなり「連続」になる。それまで「物の個数」を表すものだった数の概念が、一次関数の登場によって突如として連続体として目の前に現れる。この変化に対応できない生徒が、数学嫌いになる。こと数概念に関しては、連続体系よりも離散体系のほうが「直感的に捉えやすい」のだろう。

しかし方丈記の例を持ち出すまでもなく、おおかたの人は時間を連続概念で捉えている。美空ひばりだって「ああ 川の流れのように いくつも時代は過ぎて」と歌っている。一方、過去の時間を思い出すときには、「夏休みのイベント」「冬休みの一日」のように、離散的に独立した時間の一瞬を切り取って認識している。
人はあたかも、実際には連続している実数の中で、離散的に存在する有理数だけを拾い上げて認識するように、過去の記憶を形作っている。実数の連続性と、人の時間の記憶のあり方が一致しているのは、偶然なのだろうか。


現代数学では、離散数学のほうが重視されている傾向がある。確率論、グラフ理論、プログラミング、アルゴリズムなどは、すべて離散数学で構成されている。だいいち、コンピューターが離散体系だ。すべての計算を「0」と「1」の組み合わせで行なっている。

現代数学の最重要課題は「未来予測」だが、その基礎となる原理はすべて離散数学を使っている。統計的な未来予測では確率論を使い、経済学や政治学での未来予測ではマルコフ連鎖を使い、社会学ではゲーム理論を使う。それらの基礎はすべて離散数学だ。
かくいう僕も専門が理論言語学なので、記号論として言語現象を扱うときには離散数学の体系で数概念を捉えることが多い。

雑に言ってしまえば、「離散数学は、役に立つ」のだ。大学の工学系学部では、1年のうちから「離散数学」が必修で、基礎理論をみっちり学ぶ。内容は要するに「すごく高度な算数」だ。理論的に原理を掘り下げるよりも、それを応用して実践に活かすほうに重点が置かれる。

しかし、「役に立つ」ことと、「世の中の事実がそうなっている」ことの間には、関連性はない。工学系の嗜好としては、役に立つもの、成果を出せるものが「面白い」のだろうが、そういう方針に過度に向き過ぎる傾向と、いわゆる「数学嫌い」とは、同じ根によるものではないか。離散概念が連続概念に拡張され、「算数」が「数学」になった時点で数概念を嫌うようになるのは、「数学なんて何の役に立つんだ」というよくある文句によく表れている。

高校数学の範囲で連続体を構成する操作は積分だが、過去から現在の変化率を積分したとしても、未来が予測できるわけではない。そんなアルゴリズムは原理的に存在しない。
連続概念が「何の役にも立たない」、離散体系が「役に立つ」、という区分けは、表立って表明するかどうかは別として、多くの人が朧げながらに感じていることのようだ。切りがよく、バラバラの数が規則正しく並んでいる離散概念のほうが、認識的にしっくりするという直感を持っている人が多い。

しかし、そういう傾向をもつ人でも、「時は流れるもの」という一般通念をもっている。よく実態が分からない「時間」「時の移ろい」というものに対して、同じくよく分からない「連続」という概念に依存して、分かったつもりになっている。

鴨長明が『方丈記』の書き出しで連続概念を示しておきながら、その具体的な描写として離散的な「時の一点」を書き並べているのは、日本人のそうした傾向が太古の昔から連綿と続いていることを示しているような気がしてならない。ドラえもんのタイムマシンだって、時間移動の本質は「到着地点の時間」ではなく、移動中の「連続した時間帯」にあるにも関わらず、そこにタイムマシンの本質を見いだす人は少ない。

時間をどのように捉えるのかは認識論の問題だが、もし時間を連続した流れとして捉えるのであれば、そこには日常の感覚とは乖離した連続概念がある。そういう感覚で時間を考えると、一瞬を積み重ねたものとしての時間とは、別の時間の捉え方があるような気がする。


最後にまったく関係のない話ですが。
東京大学の医学部を受験するには、かなり数学を勉強しなければならない。塾や予備校では「東大医学部コース」なるものを設けて、その受験用の対策をみっちり行なうのだそうだ。
人呼んで、「理III数学」。数列や確率などの離散数学だけでなく、関数や微積分などの連続概念もちゃんと扱うらしい。



お後がよろしいようで。

このページのトップヘ